卷之一百三十三 列傳第六十

菅原道真

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字

菅原道真

菅原道真(すがわらのみちざね)は、字を三といい(注:『桂林遺芳抄』による)、幼名を阿呼といった(注:『梅城録』による)。参議・菅原是善(これよし)の第三子である(注:『公卿補任』『扶桑略記』による)。幼いころから聡明で、わずか十一歳のとき、父の是善は島田忠臣(しまだのただおみ)に命じて道真に詩を作らせて試した。道真はただちに「月耀如晴雪、梅花似照星、可憐金鏡転、庭上玉房馨(月の輝きは晴れた雪のようで、梅の花は照る星に似ている。愛おしいことに満月が巡り、庭には玉のような香りが漂う)」という詩を詠んだ(注:『菅家文草』による)。是善はこれに感嘆して「蘭の若芽が早くも香り立つとは、まことにその通りだ」と言った(注:『梅城録』による)。貞観年間、道真は文章生に挙げられ、のち得業生となり、下野権掾(しもつけごんのじょう)を授けられた(注:『公卿補任』『政事要略』による)。

道真がある日、都良香(みやこのよしか)を訪ねると、ちょうど良香が弓術の講義をしていた。良香は、この儒学者は弓を引いたことがないだろうと考え、試しに弓矢を渡してみた。道真は一発で的に命中させ、見ていた人々は驚き感服した(注:『荏柄縁起』『太平記』による)。対策(官吏登用試験)に及第して玄蕃助(げんばのすけ)の訴訟を担当し(注:『公卿補任』『政事要略』による)、少内記に任じられた。まもなく母の喪に服して官を辞した(注:『三代実録』による)。貞観十六年、従五位下に叙され、兵部・民部の少輔を歴任した。元慶の初め、式部少輔に転じ、文章博士を兼ねた(注:『公卿補任』『政事要略』による)。勅命により『後漢書』を進講し(注:『菅家文草』による)、従五位上に進んだ。元慶七年、加賀権守を兼ねた(注:『公卿補任』『政事要略』による)。渤海(ぼっかい)からの使者・裴頲(はいてい)が来朝した際には、道真が治部大輔の職務を代行し、島田忠臣とともに接待にあたった(注:『三代実録』による)。

仁和年間、讃岐守(さぬきのかみ)に転じ、正五位下に叙された。寛平三年、宮中に入って蔵人頭(くろうどのとう)となった(注:『公卿補任』による)。道真は上奏して辞退し、「私が謹んで近年の先例を調べますと、この職に任じられる者は、皇族の血筋を引く者か、名門の出身者ばかりで、平凡な儒学者がこの任に堪えた例はありません」と述べたが、聞き入れられなかった。改めて式部少輔に挙げられ、左中弁を兼ねた。さらに上表して蔵人頭の辞任を願ったが、これも許されなかった(注:『菅家文草』による)。寛平四年、従四位下に叙され、左京大夫を兼ねた。寛平五年、参議となり、式部大輔・左大弁・勘解由長官を兼ね、まもなく春宮亮(とうぐうのすけ)も兼任した(注:『公卿補任』『政事要覧』による)。当時、東宮(皇太子)に関する事務は何かと簡略化されており、東宮学士二名の欠員も補充されず、道真に経書の進講を務めさせていた。道真は両職があまりに繁忙で力が及ばないとして、藤原菅根(すがね)を推挙して進講の代役とした(注:『菅家文草』による)。

翌年、道真は遣唐使に任じられ、紀長谷雄(きのはせお)が副使となった(注:『扶桑略記』による)。当時、唐にいた僧・中瓘(ちゅうかん)が唐の内乱を知らせてきた。道真は上奏して、「謹んで旧記を調べますと、遣唐使の中には賊に遭って命を落とした者もおります。中瓘の報告によれば、これから起こることも推察できましょう。どうかこの報告を広く公卿・博士に示して議論させてください。これは国の大事であり、私一身のためではありません。あわせて誠意を尽くして申し上げ、ご裁断をお願いいたします」と述べた(注:『菅家文草』による)。結局、遣唐使は実現しなかった(注:『扶桑略記』による)。

この年、道真は五十歳になり、門人たちが宴を設けて祝った。すると一人の老人が現れ、祝いの文と砂金を机の上に置いて、振り返りもせず立ち去った。人々はこれを見て不思議に思った。その文にはこうあった。「聞くところによれば、菅家の門人たちが、そろって天命を知る年(五十歳)をお祝いするという。弟子は世間から身を退き、世に名も知られぬ者だが、これまで幾度となく先生の篤い教えを記し、多くの愚かな過ちを改めてきた。昔の人は『徳を受ければ必ず報い、言葉を受ければ必ず応える』と言った。この道理に深く感じ入り、やめようにもやめられぬ思いである。金子は真心の軽くないことを示すためであり、砂金は長寿を祈るためである。この人物を疑うことなく、その志を汲み取ってほしい。遠く北の宮城よりもさらに北に住みながら、遥かに南に向かって拝礼を捧げる」。後になって、これは帝(天皇)が仕組まれたものであったと知られ、道真がこれほどまでに重んじられていたことが分かった(注:『荏柄縁起』による)。

寛平七年、近江守(おうみのかみ)を兼ね、中納言を拝命し、従三位に叙され、春宮権大夫を兼ねた(注:『公卿補任』『政事要略』による)。寛平八年、勅命を受けて左右の獄にいる囚人を調べ、多くの冤罪を正した(注:『菅家文草』による)。民部卿を兼ね、他の官職はもとのままであった。寛平九年、権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ね(注:『公卿補任』『政事要略』による)、氏長者(うじのちょうじゃ)となった(注:『公卿補任』による)。帝がかつて狩猟に出ようとした際には、道真がこれを諫めて止めた(注:『続古事談』による)。事あるごとに意見を述べ、多くを正した。帝が東宮を立てる際にも、道真だけと相談して決めた。その二年後、帝が譲位しようとしたとき、道真は強くその不可を説いた。その後、帝が再び以前からの意志を告げると、道真は今度はこれに賛成した。すでに世間の議論が紛糾しており、譲位の話は一時中断しそうになっていた。道真は「大事は二度は行えません。ここで見送れば、かえって変事が起こりましょう」と上奏した。帝はこれを喜び、ついに皇位を東宮に譲った。これが醍醐天皇である(注:『寛平遺誡』による)。詔により藤原時平とともに国政のあらゆる事柄を決裁することとなった(注:『寛平遺誡』『大鏡』『愚管抄』『政事要略』による)。上皇(宇多法皇)は、譲位が道真の賛成によって実現したことから、醍醐帝を戒めて特に道真を重んじさせた(注:『寛平遺誡』による)。

道真は正三位に叙され、中宮大夫を兼ね、内覧の宣旨を賜った。昌泰二年、藤原時平が左大臣となり、道真は右大臣となって、右近衛大将はもとのままであった(注:『公卿補任』『政事要略』、内覧宣旨については『愚管抄』による)。道真は上表して辞退し、「私の家柄は高貴の出ではなく、儒学の家に過ぎません。ひとえに先年の抜擢のご恩により、今日に至っております。昇進するにつれ、人の心はすでに寛容ではなくなり、陰でうかがう者の妬みも必ず増すことでしょう。どうか陛下、深くお考えいただき、早く私の官職を解いてください。そうすれば、一介の匹夫の志を奪わぬばかりか、多くの人々の望みにも適うことになりましょう」と述べた。三度上表したが、聞き入れられなかった(注:『菅家文草』による)。道真への寵愛は日に日に厚くなり、宮中の内々の宴にも必ず招かれた(注:『菅家文草』による)。

昌泰三年、帝が朱雀院に参られた際、密かに法皇(宇多法皇)と相談し(注:『扶桑略記』『梅城録』による)、「左右の大臣がともに朝廷の政治を執っており、私自身が統一して行えないのは不都合である」と考えた(注:『荏柄縁起』による)。そこで道真を召し、「天下の政治は、卿一人が専ら奏上して決めるがよい」と諭した。道真は固く辞退して受けず(注:『扶桑略記』『荏柄縁起』による)、さらに「せっかく私をお呼びになったのに何事もなければ、人々は必ず不審に思うでしょう」と申し上げ、そこで「春、柳の芽が生じる」という題で詩を詠んで献上した。帝と法皇はそれぞれ道真に御衣を賜って退出させた(注:『扶桑略記』『梅城録』による)。まもなく道真は上表して右近衛大将の辞任を願ったが、許されなかった(注:『菅家文草』による)。帝はたびたび神泉苑に行幸し、乾臨閣で宴を催して近衛次将を接待役としたが、道真はこれを諫めて止めた(注:『古今著聞集』による)。

道真は文章道の家から身を起こし、法皇の破格の登用に恵まれて、位は将軍・大臣の極みにまで達した。政治のあり方に通じ、裁決は流れるように的確で、綱紀は引き締まり、人々はその風采を仰ぎ見た。時平は常々、自分より寵愛を受ける者を妬んでおり、道真が法皇から密かに諭しを受けたと聞くと、いよいよ不快に思うようになった(注:『大鏡』『太平記』『荏柄縁起』を参照)。当時、源光(みなもとのひかる)や藤原定国(さだくに)は、もとから声望が高かったが、二人とも道真より地位が下であったため、常に不満を抱いていた(注:『荏柄縁起』による。『菅家文草』も参照)。藤原菅根もまた道真に恨みを持っていた(注:『江談抄』『荏柄縁起』による)。時平はこれらの者たちと結託し、力を合わせて道真を陥れようとし、日ごとに讒言が集まるようになった(注:『太平記』『荏柄縁起』による)。時平は密かに、「道真には謀反の意図があり、陛下を廃して斉世親王(ときよしんのう)を立て、自ら国政を専断しようとしている」と奏上した(注:『梅城録』所引の『聖廟記』による。ただし原文では斉世親王を本康親王としているが、ここでは『皇胤紹運録』によって訂正した)。道真の娘はこの親王に嫁いでおり(注:『皇胤紹運録』による)、時平はおそらくこの縁をもって讒言に真実味を持たせたのであろう。帝はまだ若く、在位の日も浅かったため、ついにこれを信じてしまった(注:『梅城録』所引の『聖廟記』による)。

延喜元年正月、道真は従二位に叙されたが、まもなく大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され(注:『政事要略』による)、廃立を企てたという罪に問われた。左近衛中将・源善(みなもとのよし)以下(注:官職は印本の『尊卑分脈』による)、道真に連座して官を落とされた者が多かった(注:『政事要略』による)。道真は憂い悩んだが自ら潔白を訴えることもできず、和歌に思いを託して法皇に哀訴した(注:『大鏡』『荏柄縁起』による)。法皇は帝に会って道真の赦免を訴えようとしたが、菅根がこれを阻んで取り次がせなかった(注:『江談抄』『荏柄縁起』による)。宮中の各陣は厳重に警固され、衛士たちは榻(腰掛け)を下ろそうとしなかったため、法皇は一日中陣の外に座り続けたが、結局参内できずに帰った(注:『日本紀略』、『扶桑略記』も参照)。

道真には二十三人の男女の子があったが、みな左遷され(注:『太平記』『荏柄縁起』による)、それぞれ別の場所に送られ、幼い息子と娘だけが同行を許された。道真は梅の花を愛していたが、出発の際にちょうど花が開いており、和歌を詠んで思いを述べた。その言葉はまことに哀切で、聞く者は皆これを憐れんだ(注:『大鏡』『太平記』『荏柄縁起』による)。大宰府に着くと、道真は門を閉ざして外に出ず、文筆に心を託して日々を過ごした(注:『菅家文草』による)。

のちに朝廷は使者を宇佐(うさ)に遣わし、その途中大宰府に立ち寄らせて道真の様子を探らせた。使者は帰って復命し、「道真はこう申しておりました。『私には実際には謀反の意図などなく、源善朝臣の誤った振る舞いのために巻き添えになったのです。また法皇には、承和の変の先例に倣うおつもりがあり、それでこのような事態に至ったのでしょう』」と伝えた(注:『扶桑略記』所引の『醍醐御記』による)。おそらく当時、讒言をなす者たちが源善が道真に不穏な企てを勧めたと偽って奏上し、使者にそれを裏付けさせようとしたのであろう。道真が讃岐守であったとき、前任の讃岐守・藤原保則(やすのり)は、道真が最後までうまくいかないだろうとあらかじめ見抜いていた(注:「其守讚岐」以下は三善清行(みよしのきよゆき)が著した『藤原保則伝』による)。道真が大臣の地位に就いてからも、文章博士の三善清行はやはり権勢や寵愛を避けるよう勧めた(注:『扶桑略記』『本朝文粋』による)。道真はこれに従わなかったため、ついに讒言によって失脚することになった(注:『続古事談』による)。延喜三年二月、道真は左遷先で亡くなった。享年五十九であった(注:『公卿補任』『日本紀略』『大鏡』による。ただし『扶桑略記』は六十歳とし、『政事要略』は延喜四年に薨去し六十一歳としている。ここでは『菅家文草』の斉衡乙亥年の記述から数えて、五十九歳であることが明らかである)。筑前(ちくぜん)の安楽寺に葬られた(注:『荏柄縁起』による)。

道真は文章に優れ、なかでも詩にもっとも長じていた。仁和年間、阿波守(あわのかみ)平某の河西荘に遊び、二十の題で詩を作ったが、食事一回分ほどの短時間で作り終え、しかも添削の必要がなかった。また役人であったころ、命により二十の物を題に詩を作ったが、立ちどころに作り上げ、その趣は妙を極めていた。渤海の使者・裴頲は道真の詩を見て、白居易の詩風に近いと評した(注:『菅家文草』による)。

昌泰年間、勅命を受けて自らの詩文をまとめて十二巻とした。今でいう『菅家文草』がこれであり、あわせて祖父・清公(きよきみ)、父・是善の詩文集も献上した。帝は詩を賜って褒め称え、「さらに菅家には白氏(白居易)にまさるものがあり、これによって長らく箱にしまい込んでいた白氏文集の埃を払わずともよくなった」という句を記し、さらにその巻の末尾に「平生愛読していた白居易の文集も、今、菅家の文集を得た以上、もう開くことはないだろう」と書き添えた(注:『菅家文草』による)。大宰府にいたときには、自らの著作を編集し、紀長谷雄に託した。これが『菅家後集』である(注:鎌倉本『菅家後集』の跋文、『荏柄縁起』による)。かつて勅命を受け、諸々の学者とともに『三代実録』五十巻を編纂した(注:『三代実録』による)。また勅命を受けて旧来の史書を分類し(注:『菅家文草』による)、『類聚国史』と名付けた書物を著した。全部で二百巻である(注:『仁和寺書籍目録』による)。興福寺の僧・寛建(かんけん)は唐に渡って仏法を求めるにあたり、「道真、紀長谷雄、橘広相(たちばなのひろみ)、都良香の詩集、および小野道風(おののみちかぜ)の行書・草書を持参し、かの地でその名声を広めたい」と願い出て、許された(注:『扶桑略記』による)。

道真の死後、時平と菅根は相次いで亡くなり、都ではたびたび災いが起こり、文献太子(保明親王)も急死した。世間ではこれを道真の祟りだと考えた(注:『日本紀略』『扶桑略記』『北野縁起』による)。帝はのちにこれを悔い改めた。延長元年、道真の官位を元に戻し、正二位を追贈した(注:『日本紀略』『政事要略』による)。道真を左遷した宣旨や外記の文書など、道真に関わる文書はすべて焼き捨てられたため、世間ではその詳しい事情を知ることができなかった(注:『日本紀略』『扶桑略記』『政事要略』による。『愚管抄』も参照)。一条天皇の正暦四年、左大臣正一位を追贈され、まもなく太政大臣も追贈された(注:『公卿補任』『日本紀略』『百錬抄』による。ただし『扶桑略記』は太政大臣の追贈を延長元年のこととしている)。

その詔にはこうある。「恩寵の文章は徳をたたえ、錦の巻物に記されて長く伝わるであろう。手厚い礼は賢者を顕彰し、白木の簡に記されて朽ちることはないであろう。故・贈正一位左大臣菅原朝臣は、鐘や石にその功を刻み、旗指物にその功績を記すべき人物である。政治の要職にあって国を調和させ、才知は風雲を凌ぐほどであった。朕は先に追贈の栄誉を加え、その輝かしい功績を百代の後まで明らかにした。今さらに勅命を下し、いよいよその魂を九泉の下で尊いものとする。ああ、墓に年を経て松の緑も古びたとはいえ、龍の光は暖かく、詔の紙もまた新たである。太政大臣を贈り、人臣として極まる職とし、あの世でのその足跡を照らすべきである」(注:「史官記」『政事要略』による)。

はじめ天暦年間、民間で北野に祠が建てられ、道真の霊が祀られて「天満天神」と称された。以後、身分の上下を問わず、崇敬はますます盛んになった(注:『元亨釈書』『北野縁起』による)。朝廷もまた八月四日に祭礼を設け(注:『公事根元』による)、二十二社の一つに数えられるようになった(注:『二十二社本縁』による)。寛弘元年、初めて北野社への行幸が行われた(注:『一代要記』『北野宮寺縁起』による)。それ以来、歴代の朝廷が受け継いで奉幣を絶やすことがなく(注:『公事根元』による)、世に「聖廟」と称された(注:『本朝文粋』による)。諸国でもしばしば社を建て、道真の像を描いて祀った。

道真の子には高視(たかみ)、景行(かげゆき)、兼茂(かねしげ)、淳茂(あつしげ)がいる(注:『菅家伝記』による。ただし『太平記』『荏柄縁起』はともに、道真には四人の男子と十九人の女子があったとするが、その順序は記していない。『菅家系図』は数種あり、互いに異同があるため、ここでは詳しく注記しない)。

高視は正六位上に叙され、文章得業生に補された(注:『葉黄記』宝治元年条による)。従五位上に進み、右少弁に任じられ(注:『菅家文草』による)、大学頭となったが、父の事件に連座して土佐介(とさのすけ)に左遷され(注:『政事要略』による)、のちに再び右少弁となった(注:『扶桑略記』による)。延喜十三年に没した。享年三十八。子孫は代々続き、世々文章の道で家を継ぎ、高位に至った者も多かった(注:『尊卑分脈』による)。

景行は従五位下・式部大丞であったが(注:『菅家伝記』による)、駿河権介(するがのごんのすけ)に左遷された(注:『政事要略』による)。

兼茂(注:『政事要略』では景茂とする)は蔵人・正六位上であったが(注:『菅家伝記』による)、飛驒権掾(ひだのごんのじょう)に左降された(注:『政事要略』による)。

淳茂については、「文学伝」に記す。