卷之卅二 本紀卅二

醍醐天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう)は、諱を敦仁(あつぎみ)といい、初名を維城(これざね)といった(注:日本紀略・大鏡裏書による)。宇多帝(うだてい)の長子であり、母は贈皇太后藤原氏(ぞうこうたいごう ふじわらし)である。

仁和元年(885年)正月十八日甲戌、お生まれになった(注:日本紀略・皇代記による)。

寛平元年(889年)十二月、親王となった。二年十二月、今の名に改めた(注:日本紀略・大鏡裏書による)。

五年四月、皇太子に立てられた。

九年七月三日丙子、元服を加え、紫宸殿(ししんでん)において宇多帝から譲位を受けた(注:日本紀略・扶桑略記が引く外記日記による)。十日癸未、宇多帝を尊んで太上天皇とした(注:帝王編年記・皇胤紹運録では三日とするが、今は日本紀略・大鏡裏書に従う)。十三日丙戌、大極殿において天皇の位に即いた。時に13歳(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記・歴代皇紀による)。大納言兼左近衛大将藤原時平(ふじわらのときひら)、権大納言兼右近衛大将菅原道真(すがわらのみちざね)に政務を参決させた(注:日本紀略による)。十九日壬辰、生母の女御藤原氏を追尊して皇太后とした(注:中右記嘉承二年条では二十二日とするが、今は日本紀略・大鏡裏書に従う)。二十二日乙未、地震があった(注:日本紀略による)。これより先、鷺(さぎ)が大極殿の豊楽殿(ぶらくでん)、および左近衛府・大炊寮(おおいりょう)の屋上に群集していた。陸奥国からは「安積郡(あさかぐん)の人が女児を産んだが、額に一つの角が生え、角の上に目があった」との報告があり、出羽国からは「秋田城の甲冑が鳴った」との報告があった。この日、これを占った(注:扶桑略記による。日本紀略は、これらの災異をすべてこの日のこととして載せる)。二十五日戊戌、為子内親王(ためこないしんのう)を納れて妃とした(注:日本紀略による)。二十六日己亥、皇太夫人班子女王(はんしじょおう)を尊んで皇太后とし(注:帝王編年記による)、宇多帝の女御藤原温子(ふじわらのおんし)を皇太夫人とした(注:扶桑略記には、皇太夫人温子を立てて中宮としたとある。日本紀略の延喜七年六月七日条によれば、この日皇太夫人となり、中宮と称したとするので、今はこれに従う)。八月七日庚戌、太政官の正庁・東庁に虹が見えた。九日壬子、太上天皇は東三条院に遷り住んだ(注:日本紀略・扶桑略記による)。十三日丙辰、大神宮に幣帛を奉り即位を告げた。十七日庚申、賀茂に使者を遣わし、斎内親王がなお在任であることを告げ、諸社に幣帛を奉って雨を祈った。二十一日甲子、初めて紫宸殿において政務を聴き、音楽を停止した(注:日本紀略による)。二十二日乙丑、石清水(いわしみず)・宇佐(うさ)・香椎(かしい)に幣帛を奉った(注:日本紀略・西宮記による)。この秋、柔子内親王(じゅうしないしんのう)を卜定して斎宮とした(注:日本紀略・一代要記による)。冬十月二十五日丁卯、御禊(ごけい)を行った(注:日本紀略・西宮記・扶桑略記による)。十一月壬申朔、因幡国が白鼠を献上した(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十日辛卯、大嘗祭を行った(注:日本紀略・帝王編年記による。扶桑略記・一代要記・歴代皇紀では二十三日とするが、誤りである)。十二月八日己酉、五条皇后の国忌を廃し、贈皇太后の国忌を置いた(注:日本紀略による)。

昌泰元年戊午、春二月八日戊申、詔して常膳(食事)を四分の一減らすよう命じた。十七日丁巳、上皇(宇多院)は朱雀院に移り住んだ(注:日本紀略による)。二十八日戊辰、初めて群書治要(ぐんしょちよう)を進講させた(注:日本紀略・大鏡裏書による。原文は戊辰を戊戌に作るが、今は干支から推算して訂正した)。三月庚午朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。十五日甲申、国康親王(くにやすしんのう)が薨じた(注:日本紀略・皇胤紹運録による)。二十八日丁酉、十五大寺において金剛般若経一万巻を三日にわたって転読させ、天下に潔斎を命じて疫病を祓った(注:日本紀略・扶桑略記による)。十六日乙卯、改元した(注:日本紀略・愚管抄による。公卿補任・扶桑略記・一代要記・歴代皇紀・帝王編年記・皇年代略記はいずれも八月十六日とするが、菅家文草の臨時仁王会咒願文に「昌泰元年季夏六月」とあることから考えると、これは四月とするのが正しい)。十九日戊午、太陽が黄色くなり光を失い(注:日本紀略による)、数日を経て元に戻った。五月己巳朔、金剛般若経を七社で読み、雨を祈った(注:扶桑略記による)。七日乙亥、地鳴りが三度、雷のように響いた。八日丙子、十六社に幣帛を奉った。十五日癸未、大神宮に幣帛を奉り、あわせて雨を祈った。十八日丙戌、宮中の井戸が雷のような音を発した。六月三日辛丑、雲もないのに空が暗くなり、人の顔を見分けられないほどであった(注:日本紀略による)。十四日壬子、天下に疫病が大流行したため、建礼門で大祓を行った(注:扶桑略記による)。二十八日丙寅、八十島使(やそしまのつかい)を発遣した(注:日本紀略による)。秋七月三日辛未、二十二社で雨を祈った(注:日本紀略による。二十二社は扶桑略記による)。七日乙亥、月が填星(土星)を犯した。八日丙子、疫病のため諸国からの相撲人の貢進を停止した。二十七日乙未、大地震があった。八月二十三日庚申、使者を遣わして伊勢・宇佐および天下の諸名神に神宝を奉った(注:日本紀略による)。九月戊辰朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。冬十月十一日丁未、空中に音があった。十四日庚戌、また雷のような音があった(注:日本紀略による)。二十一日丁巳、上皇が大和に行幸し、河内を経て摂津に至った。閏月丁卯朔、宮に還った(注:日本紀略・大鏡裏書による。扶桑略記は還宮を十一月朔のこととするが、誤りである)。十三日己卯、月が畢宿(ひっしゅく)に入り、熒惑(けいこく、火星)を犯した(注:日本紀略による)。十一月丙申朔、冬至にあたり、群臣が表を奉って祝賀した(注:日本紀略・扶桑略記・政事要略による)。十五日庚戌、空中に音があった(注:日本紀略による)。二十一日丙辰、詔して次のように述べた。「いにしえ、瑞図をおさめ、天命を受けた君主は、天体の運行をつかさどり、四季の調和をはかったものである。三十六旬(一年)、恵みの雨は土塊を砕くほどの激しさもなく、七十余度、穏やかな風は物音を立てて枝を鳴らすこともなかった。朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも重光(皇位)を受け継いだ。教化が行き届かぬことを常に思い、四季の巡りに狂いが生じることを常に恐れている。このたび役人が奏上して、『今月の朔日の朝、推算すれば冬至にあたります。年が終わってまた始まるのは、自然の理にかなうものです』と申した。朕はみずから徳の薄い身を省みるに、どうしてこのめでたい日に巡り合えようか。これはひとえに祖宗の御霊が、臣下を見守り助けてくださった結果ではなかろうか。天下とともにこの吉兆を喜びたいと思う。よって天下に大赦を行う。ただし通常の大赦で許されない罪、および官物を滞納している者などは、この赦しの対象としない。門蔭(祖先の功による叙位の資格)が久しく絶えている家柄の者で、とりわけ才能の著しい者には、特に栄誉ある褒賞を与え、朝廷の規範を美しく保つ。また内外の文武官のうち主典以上の者には、位階を一級進める。京にある正六位上の官人、および史生以下直丁以上の者、ならびに天下の高齢者には、それぞれに応じて物を賜るべきである。願わくは、金科(法令)に記された者たちが再生の年に恩沢に浴し、位階を落とした者たちも一陽来復の日に恩光を戴くことを。」(注:政事要略・朝野群載による)十二月二日丁卯、狐が弁官の東庁に入り込んだ。九日甲戌、近年の水害・旱害・疫病により、諸国に毎年正月に吉祥悔過(きちじょうけか)を修めるよう勅した(注:扶桑略記による)。十七日壬午、東北の方角に雷のような音があった(注:日本紀略による)。

二年己未、春正月乙未朔、風雪のため朝賀を受けなかった。三日丁酉、朱雀院に上皇に拝謁した。二十八日壬戌、太政官の厨(くりや)が火事になった。二月乙丑朔、日食があった。この日、東南に向かって流星が流れ、長さ五、六尺ほどで、地に落ちて音を発した。京では月々盗賊が多発し、放火・殺人が相次いだため、四衛府の兵に夜回りを命じた(注:日本紀略による)。十四日戊寅、大納言藤原時平を左大臣とし、権大納言菅原道真を右大臣とした(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)。夏五月十日壬寅、河内国が白亀を献上した。十三日乙巳、外記庁で荻(おぎ)が花をつけ、畿内では稲の穂が実った。二十二日甲寅、つむじ風が吹き、大極殿の高御座(たかみくら)と中務省の正庁がいずれも傾き、京の家屋の多くが壊れた。六月四日丙寅、東宮で藤が花をつけ、監物局(けんもつのつぼね)の枇杷(びわ)は花をつけずに実をつけた。十三日乙亥、建礼門の前で鈴のような音があった。十五日丁丑、大風雨により、木が折れ、屋根が飛んだ。二十二日甲申、月が畢宿(ひっしゅく)を犯した。秋七月壬辰朔、黄色い霧が四方に立ち込め、太陽は赤く光を失った(注:日本紀略による)。十七日戊申、災異がしきりに現れるため、諸社に幣帛を奉った。八月壬戌朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。九月七日戊戌、地震があった。八日己亥、大風があった(注:日本紀略による)。冬十月五日乙丑、太宰府が「牛が頭の二つある子牛を産んだ」と報告した(注:扶桑略記による)。十四日甲戌、上皇(宇多院)が落飾した(注:扶桑略記・帝王編年記・皇代略記による。日本紀略・大鏡裏書・一代要記・東寺長者補任は二十四日とする。菅家文草の十月二十日「太上皇の勅を奉じ重ねて尊号の停止を請う状」に、落飾ののち四、五日が経ったとあることから考えれば、十四日であることは明らかである。よってこれに従う)。十一月二十四日甲寅、これより先、上皇はたびたび書を送って尊号を辞退したいと申し出ていた。ここに至り、詔してこれを許した(注:扶桑略記による。日本紀略は二十五日とする)。

三年庚申、春正月三日壬辰、朱雀院に法皇(宇多院、この年出家して法皇となった)を訪ねた(注:扶桑略記による)。二十八日丁巳、大納言藤原高藤(ふじわらのたかふじ)を内大臣とした。三月十二日己亥、内大臣藤原高藤が薨じた(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)。夏四月戊午朔、皇太后が崩じた。四日辛酉、洞院皇太后(とういんこうたいごう)を葬った(注:日本紀略・大鏡裏書による)。十六日癸酉、賀茂祭を中止した(注:日本紀略・扶桑略記による)。五月二十三日己酉、太皇太后藤原氏が崩じた(注:日本紀略・大鏡裏書・一代要記・帝王編年記による。扶桑略記は正月二十二日とするが、誤りである。諸書とも葬儀の記載を欠く)。二十八日甲寅、上野国の群盗を追捕した。六月十三日己巳、文章博士(もんじょうはかせ)三善清行(みよしのきよゆき)に史記を講じさせた(注:日本紀略による)。秋七月、法皇が金峯山(きんぷせん)に行幸した(注:扶桑略記による)。冬十月二十一日乙亥、三善清行が翌年辛酉の革命についての意見書を奉った。この月、法皇は高野山および筑扶島(ちくふとう)に行幸した。十一月十八日壬寅、前左大臣藤原良世(ふじわらのよしよ)が薨じた(注:日本紀略による。公卿補任は八日とする)。十二月十一日乙丑、老人星(南極老人星)が現れた(注:日本紀略による)。

延喜元年辛酉、春正月甲申朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十五日戊申、右大臣兼右近衛大将菅原道真を太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷し、大納言源光(みなもとのひかる)を右大臣とし(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)、中納言藤原定国(ふじわらのさだくに)に右近衛大将を兼ねさせた(注:公卿補任による)。二月甲寅朔、太陽が三つ並んで現れ、それぞれに暈(かさ)があった。十四日丁卯、私的に壇法(だんぽう、密教の修法)を修することを禁じた(注:扶桑略記による)。十五日戊辰、坂東諸国で年来盗賊が蜂起し、民が被害を受けていたため、諸社に幣帛を奉ってこれを祓った(注:日本紀略・扶桑略記による)。三月、藤原穏子(ふじわらのおんし)を女御とした(注:日本紀略・大鏡裏書による)。夏六月七日丁巳、大蔵省の出挙(すいこ)の倉が火事になった(注:扶桑略記による)。十四日甲子、災異のため諸社に幣帛を奉った(注:日本紀略による)。閏月己酉晦、大祓を行った(注:年中行事・小右記長和四年条による)。秋七月十五日甲子、改元した(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記による)。八月二日辛巳、左大臣藤原時平らが三代実録(さんだいじつろく)を奉った(注:本書の奏表・日本紀略による)。二十五日甲辰、前栽合(せんざいあわせ)を行った。冬十二月十四日壬辰、一品式部卿本康親王(もとやすしんのう)が薨じた(注:日本紀略・扶桑略記による)。

二年壬戌、春三月十三日己未、諸院・諸宮が勅旨開田(ちょくしかいでん)を行うこと、および五位以上の者が百姓の田宅を買い取ったり、空き地・荒田を占有したりすることを禁じる勅を出した(注:本朝文粋による)。夏四月、法皇が比叡山に行幸し、舎利会(しゃりえ)を営んだ(注:日本紀略による)。六月乙亥朔、日食があった。五日己卯、月が昼間に見えた。十三日丁亥、諸社に幣帛を奉り雨を祈った。十七日辛卯、使者を山陵に遣わし、鳴滝(なるたき)で五龍祭を修した(注:日本紀略・扶桑略記による。鳴滝は略記による)。十社および十五大寺・延暦寺で読経させた(注:日本紀略による)。秋七月二十四日丁卯、地震があった。八月十七日庚寅、長雨のため諸社に幣帛を奉った(注:扶桑略記による)。癸卯晦、諸社に神宝を奉った(注:日本紀略による)。九月七日庚戌、熊が西京に入り、人を傷つけた(注:扶桑略記による)。

三年癸亥、春正月三日乙巳、仁和寺に法皇を訪ねた。二月十三日甲申、三合(さんごう)の災にあたるとして、大神宮に幣帛を奉った(注:西宮記による)。十九日庚寅、恭子内親王(きょうしないしんのう)を卜定して斎院とした(注:扶桑略記・西宮記による。一代要記は十七日とする)。秋七月七日乙巳、十社で雨を祈った。八日丙午、読経して雨を祈った。二十四日壬戌、丹生(にう)・貴布禰(きぶね)に幣帛を奉り、晴天を祈った(注:日本紀略による)。二十五日癸亥、三品是貞親王(これさだしんのう)が薨じた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈では七年三月七日とするが、今は日本紀略・一代要記に従う)。九月四日辛丑、諸社に幣帛を奉り、晴天を祈った(注:扶桑略記による)。二十日丁巳、甲斐国が疫病のため、一年間の租税を免除した(注:北山抄による)。冬十二月、藤原和香子(ふじわらのわかこ)を女御とした(注:一代要記による)。

四年甲子、春二月十日乙亥、皇子崇象親王(すざきしんのう)を皇太子に立てた(注:日本紀略・扶桑略記による)。右大臣源光を傅(ふ、教育係)とした(注:公卿補任・扶桑略記による)。七日壬寅、左衛門志(さえもんのさかん)高仁(たかひと、注:姓は不明)が賊の首魁を捕らえた(注:扶桑略記による)。二十六日辛酉、法皇が仁和寺の慶円堂で法会を営んだ(注:日本紀略・西宮記・扶桑略記による)。閏月七日壬申、諸社に幣帛を奉り、疫病を祓った。夏四月乙未朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月、三品兵部卿惟恒親王(これつねしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。六月十九日壬子、検非違使が群盗を捕らえ、功に応じて褒賞を与えた(注:西宮記による)。秋七月二日甲子、旱害のため諸社に幣帛を奉った(注:日本紀略による)。八日庚午、北山で五龍祭を修した(注:庚午は扶桑略記では庚寅に作るが、今は干支から推算して訂正した)。十日壬申、石清水に幣帛を奉り、雨を祈った。冬十月辛卯朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月、大井河(おおいがわ)に行幸した(注:西宮記・古今著聞集による)。十一月六日丙寅、熊が左衛門陣に入り込んだ(注:日本紀略・扶桑略記による)。十二日壬申、地震があった(注:扶桑略記による)。十七日丁丑、皇子将順(まさのぶ)を親王とした(注:日本紀略・一代要記による)。十二月十九日己酉、北野で雷神を祭り、豊作を謝した(注:西宮記による)。

五年乙丑、春正月庚申朔、小朝拝(こぢょうはい)を廃止した(注:西宮記・江家次第による)。三日壬戌、仁和寺に法皇を訪ねた(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記による)。門に至って輦(れん、こし)から降り、筵道(えんどう)を通って入った(注:扶桑略記が引く御記による)。七日丙寅、節会(せちえ)における叙位を停止した(注:日本紀略による)。二月二日辛卯、夜、怪鳥が宮中で鳴いた(注:日本紀略・扶桑略記による)。十四日癸卯、六条院に行幸した(注:西宮記が引く李部王記による)。十五日甲辰、諸社に幣帛を奉り怪異を祓った(注:日本紀略・扶桑略記による)。三月二十日己卯、仁寿殿(じじゅうでん)で蹴鞠(けまり)を観覧した(注:西宮記による)。二十一日庚辰、法皇が薬師寺に行幸し、万灯会(まんとうえ)を営んだ。蔵人頭藤原仲平(ふじわらのなかひら)を遣わし、褂衣(かいい)百条を奉らせた(注:扶桑略記による)。二十七日丙戌、賭射(のりゆみ)を観覧した(注:西宮記による)。夏四月己丑朔、日食があった。十五日癸卯、彗星が西北に現れた(注:日本紀略・扶桑略記による)。十八日丙午、大内記紀友則(きのとものり)、御書所預紀貫之(きのつらゆき)らに詔して古今和歌集(こきんわかしゅう)を撰ばせた(注:本書の序による。日本紀略・八雲御抄は十五日のこととする)。二十四日壬子、彗星が現れたため、諸社に幣帛を奉った。五月二十八日丙戌、後院(ごいん)の鷹を放った。六月十五日壬寅、彗星が現れたため、天下に大赦を行った(注:日本紀略による)。秋七月十八日乙亥、大神宮に幣帛を奉り雨を祈り(注:日本紀略・扶桑略記による)、五龍祭を修した。二十八日乙酉、博徒(ばくと)を逮捕した(注:日本紀略による)。この月、木工寮(もくりょう)の穀倉院で穀物を売った(注:西宮記による)。九月四日庚申、賀陽院(かやのいん)が火事になった(注:扶桑略記による。日本紀略は五日とする)。五日辛酉、大神宮に神宝を奉った(注:日本紀略による)。九日乙丑、皇姑(おば)源連子(みなもとのつらこ)が卒したため、重陽節(ちょうようのせち)を停止した(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月、法皇が金峯山に行幸した(注:日本紀略による)。冬十月三日戊子、飛驒国が「盗賊が国守藤原辰忠(ふじわらのときただ)を殺した」と報告した(注:扶桑略記による)。二十八日癸丑、諸社に幣帛を奉り、豊作を祈った(注:日本紀略による)。十二月二十二日丙午、平城京(へいじょうきょう)および京に近い諸寺の、年齢80歳以上の僧に綿を賜った(注:扶桑略記による)。

六年丙寅、春正月乙卯朔、朝賀を受けなかった(注:日本紀略による。本書にはその理由を載せていない)。三月甲寅朔、地震があった(注:扶桑略記による)。夏四月癸未朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月、雹(ひょう)が降り、梅の実ほどの大きさであった。五月八日庚申、月が太微(たいび)に入り、謁者(えっしゃ)を犯した。十六日戊辰、天皇は式部大輔藤原菅根(ふじわらのすがね)から史記の進講を受けた(注:日本紀略による)。二十七日己卯、十社で仁王経(にんのうきょう)を転読させ、豊作を祈った(注:扶桑略記による)。秋七月三日甲寅、大納言兼右近衛大将藤原定国が薨じた(注:日本紀略・一代要記による。公卿補任は二日とする)。十三日甲子、隠岐国が「大風があった」と報告した(注:日本紀略による)。八月二十五日丙午、右大臣源光が右近衛大将を兼ねた(注:一代要記・歴代皇紀は朔日とするが、今は公卿補任・帝王編年記に従う)。九月七日丁巳、紀伊国が「牛が子牛を産んだが、白い蹄が二面(両面)にあった」と報告した(注:七日丁巳は、本書では八月のこととするが、今は干支から推算してこの月に移した)。二十日庚午、鈴鹿山の群盗を誅殺した(注:日本紀略による)。冬十月辛巳朔、日食があった(注:扶桑略記による)。八日戊子、烏(からす)が漏刻(ろうこく)の籤(せん)をついばみ、鷺が紫宸殿の版位(はんい)に群集したため、清涼殿で般若経を転読させた(注:日本紀略による)。十七日丁酉、法皇が比叡山に行幸した(注:扶桑略記による)。二十六日丙午、仁和寺で金字法華経を書写した(注:日本紀略による)。五十人の僧に法華八講(ほっけはっこう)を修させ、法皇の四十の賀を祝った(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記による。五十人の僧は西宮記による)。十一月七日丙辰、朱雀院に法皇を訪ねた(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記による)。

七年丁卯、春正月戊寅朔、識子内親王(しきしないしんのう)が薨じたため、紫宸殿に出御しなかった(注:日本紀略・西宮記による)。八省(はっしょう)の儀を修めたことにより、朝賀を受けなかった(注:日本紀略による)。三日庚辰、仁和寺に法皇を訪ねた。二月二十二日己巳、彗星が西方に現れた(注:扶桑略記による。中右記長承元年条は二十三日とし、一代要記は七月二十六日とする)。三月八日乙酉、十五大寺で読経させた。夏六月七日壬子、皇太夫人藤原氏が薨じた(注:日本紀略による。扶桑略記は八日とする。諸書とも葬儀の記載を欠く)。秋九月乙亥朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月、天皇が大井河に行幸した(注:日本紀略による)。冬十月二日丙午、法皇が熊野山に行幸した(注:日本紀略・熊野略記は三日とするが、今は扶桑略記・濫觴抄に従う)。二十八日壬申、熊野から帰還した(注:濫觴抄による)。十一月三日丙子、新銭を鋳造し、寛平大宝銭(かんぴょうたいほうせん)と並行して用いた。癸卯晦、日食があった(注:日本紀略による)。この年、左大臣藤原時平らが延喜格(えんぎきゃく)を奉った(注:本朝文粋所載の延喜格序による。日本紀略には、元年八月に延喜格十巻を奉り、五年十一月に施行したとある。しかし延喜格序によれば、貞観十一年に始まり延喜七年に至るまでで十二巻になるという。帝王編年記もこの年のこととしている。おそらくこの年になって全て完成したのであろう)。

八年戊辰、春正月癸酉朔、雪のため朝賀を中止した(注:日本紀略による)。二月壬寅朔、日食があった。夏四月五日乙巳、皇子将保(まさやす)・将明(まさあきら)を親王とした(注:日本紀略による。将保・将明の名は一代要記による)。この夏、天下が大いに旱魃(かんばつ)した(注:日本紀略・扶桑略記による)。秋七月三日壬申、読経して雨を祈った。六日乙亥、五龍祭を修した(注:日本紀略による)。九日戊寅、勅して「近ごろ炎暑と旱魃が旬(十日)を超えて続き、しきりに恵みの雨を祈っているが、いまだ神の感応がない。諸国をして国内の名神官社に幣帛を奉らせるべきである」と述べた(注:扶桑略記による)。また左右京職に命じて、野に放置された骸骨を埋葬させた(注:日本紀略・扶桑略記による)。諸国の定額寺(じょうがくじ)で読経させた。十二日辛巳、諸社に幣帛を奉った。十六日乙酉、大神宮に幣帛を奉った(注:日本紀略による)。十九日戊子、神泉苑(しんせんえん)で雨を祈った(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十六日乙未、使者を遣わして諸陵で雨を祈った(注:日本紀略による)。八月庚子朔、日食があった。九月九日丁丑、穀物が実らなかったため、重陽節を停止した。冬十月九日丁未、神宝および遷宮使を伊勢の豊受宮(とようけのみや)に遣わした(注:扶桑略記による)。十一月二十六日甲午、上皇・法皇に新銭をそれぞれ五万奉り、皇太子に二万を賜り、親王以下五位以上で直接お目にかかった者には、それぞれに応じて分け与えた。十二月十一日戊申、諸社に新銭を奉った。十三日庚戌、七大寺に分け与えた(注:西宮記による)。二十七日甲子、延喜格を頒布した(注:日本紀略による)。二十八日乙丑、陸奥国が「木の枝が連理(れんり、二本の木の枝がつながること)した」と報告した。この年、渤海(ぼっかい)が朝貢した(注:日本紀略・扶桑略記による)。

九年己巳、春正月戊辰朔、雨のため朝賀を取りやめた(注:日本紀略による)。二十一日戊子、前年不作であったため、内宴(ないえん)を停止した(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十七日甲午、天下の常平倉(じょうへいそう)の穀物の値段を定めた(注:扶桑略記による)。行中親王(ぎょうちゅうしんのう)が薨じた。二月丁酉朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。釈奠(せきてん)を停止した。七日癸卯、地震があった(注:扶桑略記による)。この月、常平倉の穀物を売った(注:西宮記による)。三月九日甲戌、法皇が仁和寺で法華八講を修した(注:日本紀略による)。二十三日戊子、百人の僧を宮中に召して仁王経を読ませた(注:日本紀略・西宮記による)。春から夏にかけて、疫病が大流行した(注:日本紀略・扶桑略記による)。夏四月四日己亥、左大臣兼左近衛大将藤原時平が薨じた(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)。五日庚子、霜が降りた(注:扶桑略記による)。二十二日丁巳、右大臣兼右近衛大将源光が左近衛大将に転じ(注:公卿補任による。一代要記は二十三日とする)、中納言平惟範(たいらのこれのり)が右近衛大将を兼ねた(注:一代要記・歴代皇紀は八月二十二日とするが、今は公卿補任に従う)。五月十日甲戌、諸社・諸寺に仁王経を三日にわたって読ませ、疫病を祓った(注:扶桑略記による。日本紀略は九日とする)。十九日癸未、洪水があった(注:日本紀略による)。二十四日戊子、流星が東南に流れた(注:扶桑略記による)。二十六日庚寅、仁王会(にんのうえ)を修し、疫病の終息を祈った(注:日本紀略・扶桑略記による)。六月五日己亥、大雨が十日あまり止まず、京の垣や塀がことごとく倒れた(注:扶桑略記による)。十二日丙午、諸社に幣帛を奉り、晴天を祈った(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十三日丁巳、大神宮に幣帛を奉った。秋七月八日辛未、東西の津で穀物の売価を統一した。この月、春夏の疫病のため、相撲節(すまいのせち)を停止した(注:日本紀略による)。八月甲午朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。三日丙申、諸社に幣帛を奉った。七日庚子、宇佐に幣帛を奉った(注:日本紀略による)。二十五日戊午、丹生・貴布禰で晴天を祈った(注:北山抄による)。閏月、京の桜・桃・李(すもも)・柚(ゆず)・柿・藤がいずれも花をつけ、李と柚は実をつけた(注:日本紀略による。扶桑略記は八月のこととする)。九月九日辛丑、疫病と樹木の異常開花により、重陽節を停止した(注:扶桑略記による)。十七日己酉、上野国が「めでたい稲穂で、一本の茎に九つの穂をつけたものがあった」と報告した(注:日本紀略による。一茎九穂は扶桑略記による)。十八日庚戌、中納言兼右近衛大将平惟範が薨じた(注:日本紀略・公卿補任による)。二十七日己未、権中納言藤原忠平(ふじわらのただひら)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・一代要記による)。冬十月二十八日庚寅、桃・李が秋に花をつけ、冬眠すべき虫が冬に鳴いたため、仁王会を修した(注:扶桑略記による)。十一月二十六日戊午、四品貞元親王(さだもとしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。二十七日己未、太宰府が孔雀を献上した(注:日本紀略・扶桑略記による)。

十年庚午、春正月壬辰朔、八年の旱魃と前年の疫病により、朝賀を取りやめた(注:日本紀略による)。三月二十三日癸未、廃太后藤原氏(はいたいごう ふじわらし)が薨じた(注:日本紀略・大鏡裏書による。扶桑略記は二十四日とする)。夏四月二十二日辛巳、大風雨があり、京の家屋が壊れた。六月十四日壬申、亭子院(ていじいん)のそばに雷が落ち、一人の童子が雷に打たれて死んだ。二十一日己卯、月が暈(かさ)をつけて填星・奎宿(けいしゅく)・婁宿(ろうしゅく)および大陵(だいりょう)・天衢(てんく)を犯し、大和国城上郡(しきのかみのこおり)の河辺に女児が捨てられていたが、耳のない子牛のような体であった(注:雷震と月暈の二件は、本書では誤って五月のこととするが、今は干支から推算してここに移した)。秋七月戊子朔、日食があった。十日丁酉、旱魃のため天下に大赦を行い、諸国の神社・名山大川に生贄と幣帛を奉り、野にある骸骨を埋葬し、狩猟・漁労を禁じた。十一日戊戌、月が南斗に入り、熒惑(火星)が房宿(ぼうしゅく)を犯した。十八日乙巳、風雨により屋根が飛び、木が根こそぎ倒れた(注:日本紀略による)。二十二日己酉、参議藤原定方(ふじわらのさだかた)、左衛門佐平惟世(たいらのこれよ)らを旧京(奈良)に遣わし、佐保南陵・佐保東陵の災異について謝罪させた(注:東大寺要録による。本書は十二日とするが、今は干支に基づいて訂正した)。八月戊午朔、大風があった(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記による)。十一日戊辰、熒惑が天江(てんこう)を犯した(注:日本紀略による)。この月、神泉苑で雨を祈った(注:祈雨日記が引く御記による)。九月五日辛卯、大極殿が鳴動し(注:日本紀略・扶桑略記による)、夕方から夜半まで続いた(注:扶桑略記による)。九日乙未、旱魃のため重陽節を停止した(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十五日辛亥、法皇が比叡山に行幸した(注:扶桑略記による)。

十一年辛未、春正月丙戌朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記による)。十三日戊戌、地震があった(注:扶桑略記による)。夏六月癸丑朔、日食があった。この月、大雨が降った。秋九月二十一日辛丑、鷺が大極殿に群集したため、豊楽殿で七日間修法した(注:日本紀略・扶桑略記による。豊楽殿および七日は略記による)。冬十一月二十八日戊申、皇太子が名を保明(やすあきら)と改めた(注:日本紀略・大鏡裏書による)。皇子式明(のりあきら)・有明(ありあきら)を親王とした(注:一代要記は二十一日とするが、今は日本紀略に従う)。十二月辛亥朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。

十二年壬申、春正月庚辰朔、雨のため朝賀を取りやめた(注:日本紀略・西宮記による)。三日壬午、仁和寺に法皇を訪ねた(注:日本紀略による。壬午は本書では丙午に作るが、今は干支から推算して訂正した)。十一日庚寅、地震があった(注:扶桑略記による)。二月二日辛亥、仁和寺に法皇を訪ねた(注:日本紀略・西宮記による)。三月九日戊子、花宴(はなのえん)を催した(注:新儀式による)。二十一日庚子、地震があった(注:扶桑略記による)。夏四月八日丙辰、日が薄く欠けた(注:日本紀略・扶桑略記による)。五月五日癸未、名社(みょうしゃ)および十五大寺で仁王経を読ませ、あらかじめ疫病を祓った(注:日本紀略による)。閏月戊申朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。六月二日戊寅、諸社に幣帛を奉り雨を祈った(注:日本紀略による)。三日己卯、彗星が西北に現れた(注:日本紀略・扶桑略記による)。秋七月四日己酉、丹生・貴布禰に幣帛を奉り、雨を祈った(注:西宮記による)。冬十一月乙巳朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。十二月十九日壬辰、検非違使に命じて京で火災に遭った者を調べさせ、米と塩を給した(注:扶桑略記による)。

十三年癸酉、春三月六日己酉、三品貞平親王(さだひらしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。十二日乙卯、右大臣兼左近衛大将源光が薨じた(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)。夏四月十五日丁亥、大納言兼右近衛大将藤原忠平が左近衛大将に転じ、中納言藤原道明(ふじわらのみちあきら)が右近衛大将を兼ねた(注:一代要記は十七日、歴代皇紀は二十七日とするが、今は公卿補任に従う)。五月二十六日丁卯、神泉苑に行幸した(注:日本紀略・扶桑略記による)。この夏、天下が旱魃した(注:扶桑略記による)。秋七月八日戊申、諸社に幣帛を奉った(注:日本紀略による)。八月庚午朔、大風により木が折れ、家屋が壊れた。五日甲戌、風害に遭った1500戸あまりに、それぞれに応じて物を給した(注:日本紀略・扶桑略記による。1500戸あまりは略記による)。九月九日戊申、風水害と旱害のため、重陽節を停止した(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記・北山抄による)。冬十月八日丙子、更衣藤原能子(ふじわらののうし)を女御とした(注:一代要記は十四年とするが、今は日本紀略に従う)。十一月己亥朔、日食があった。七日乙巳、大風により家屋が壊れ、右馬寮(みぎめりょう)が倒れた。十二月二十三日庚寅、小鳥が空を覆い、数日にわたって飛び続けた(注:日本紀略・扶桑略記による)。この年、23か国が風害・旱害・水害に見舞われた(注:北山抄による)。

十四年甲戌、春正月戊戌朔、前年不作であったため、朝賀を受けなかった(注:日本紀略・扶桑略記による)。十二日己酉、中納言兼右近衛大将藤原道明を皇太子傅(こうたいしふ)とした(注:公卿補任による)。二月十五日壬午、詔して公卿・大夫および諸国司に、忌憚のない意見を述べ、思案を尽くすよう命じた(注:本朝文粋所載の三善清行の意見封事による)。夏四月丁卯朔、日食があった。五月二日戊戌、東京(左京)が火事になった(注:日本紀略・扶桑略記による)。三日己亥、被災者に米と塩を給した。十五日辛亥、伊勢以下の諸社に幣帛を奉り、雨を祈った(注:扶桑略記による)。六月丙寅朔、衣服の贅沢を禁じた(注:日本紀略による)。十五日庚辰、洪水があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。秋八月十六日庚辰、大神宮に幣帛を奉り、豊作を祈った(注:扶桑略記による)。二十五日己丑、大納言藤原忠平を右大臣とした(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)。十一月癸巳朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十五日丁巳、皇子時明(ときあきら)・長明(ながあきら)を親王とした(注:日本紀略・一代要記による)。

十五年乙亥、春正月壬辰朔、雨のため朝賀を取りやめた(注:日本紀略による)。二月十日辛未、信濃国が「盗賊が上野介藤原厚載(ふじわらのあつのり)を殺した」と報告した。三月辛酉朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。夏四月十二日壬寅、十一社で仁王経を三日にわたって読ませ、京および諸国の疫病を祓った(注:扶桑略記による)。五月六日丙寅、淑景舎(しげいしゃ)が何の理由もなく倒れ、子供一人が下敷きになって死んだ(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十八日戊子、旱魃のため囚人を赦免した(注:扶桑略記による)。六月二十日己酉、大極殿で読経させ、疫病を祓い雨を祈った(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十四日癸丑、神泉苑で請雨経法(しょううきょうほう)を修し、陰陽寮(おんみょうりょう)で五龍を祭った(注:日本紀略による)。秋七月五日甲子、太陽が光を失った(注:日本紀略・扶桑略記による)。十三日壬申、出羽国が「灰が降り、二寸ほど積もった。桑を枯らした」と報告した(注:扶桑略記による)。十九日戊寅、宣子内親王(せんしないしんのう)を卜定して斎院とした(注:日本紀略による)。二十四日癸未、九社に幣帛を奉り雨を祈った(注:扶桑略記による)。八月、京の樹木が異常開花し、天下で疫痢(えきり)が流行した。九月己未朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。七日乙丑、疫痢と樹木の異常開花により、石清水・賀茂などの社に幣帛を奉った(注:扶桑略記による)。九日丁卯、諸国の旱害と疫病により、民が田を耕作できなくなったため、重陽節を停止した(注:扶桑略記による。田を耕作できなくなったことは日本紀略による)。二十五日癸未、諸社・諸寺で仁王経を三日にわたって読ませ、疱瘡(ほうそう)と疫痢を祓った(注:扶桑略記による)。冬十月十一日戊戌、天皇が疱瘡を患った(注:日本紀略・扶桑略記による)。十六日癸卯、紫宸殿の庭、建礼門・朱雀門の二門で大祓を行い、二十人の僧に仁寿殿で読経させ、建礼門の前で疫鬼(えきき)を祭り、延喜十年以前の調庸(ちょうよう)の未進分を免除し、今年の徭役(ようえき)を半分に減じた(注:日本紀略による)。

十六年丙子、春正月丙辰朔、前年の疱瘡の災いにより、朝賀を停止した。二十日乙亥、内宴を停止した。三月三日丁巳、御燈(ごとう)を停止した。この日、法皇の賀を祝い、高齢者・飢病者に米を給した(注:日本紀略による)。七日辛酉、朱雀院に参上し、法皇の五十の賀を祝った(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記による。西宮記は五月、あるいは十年十一月とする)。十九日癸酉、亭子院に法皇を訪ねた(注:扶桑略記による)。夏五月三日丁巳、雹が降った。七日辛酉、四品貞純親王(さだずみしんのう)が薨じた。二十二日丙子、烈風とともに雹が降った(注:日本紀略による)。諸衛府の官人を遣わし、風害に遭った者を調べて物を給した(注:西宮抄による)。六月二十九日壬子、地震があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。諸社に幣帛を奉り雨を祈った(注:扶桑略記による)。秋七月六日己未、さらに二十七社に幣帛を奉った。八月十二日甲午、下野国の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・藤原兼有(ふじわらのかねあり)ら十八人を配流した。二十二日甲辰、太宰府が「筑前国早良郡(さわらぐん)の牛が子牛を産んだが、頭が二つ、足が六本あった」と報告した(注:日本紀略による)。九月癸丑朔、日食があった。二十八日庚辰、朱雀院に行幸し、学生(がくしょう)を試験した。冬十月甲辰、皇太子が紫宸殿で元服した(注:日本紀略・扶桑略記による。紫宸殿は略記による)。天下の家督を継ぐ者で六位以下の者に位階を一級賜り、高齢者に物を賜り、延喜十五年以前の未納の租税を免除した。十二月八日己丑、これより先、出雲の流人上毛野良友(かみつけののよしとも)ら七人が逃亡していた。この日、京畿七道に命じてこれを捜索・逮捕させた(注:日本紀略による)。

十七年丁丑、春正月二十二日壬申、皇姪(こうてつ、甥にあたる者)が卒したため、内宴を停止した(注:扶桑略記による。皇姪の名は伝わらない)。二十四日甲戌、亭子院に法皇を訪ねた(注:日本紀略による)。三月庚戌朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。十六日乙丑、六条院に法皇を訪ねた(注:西宮記による)。二十三日壬申、雹が降った。夏六月十二日己丑、諸社に幣帛を奉り疫病を祓った。秋七月十二日己未、龍穴(りゅうけつ)で雨を祈った(注:扶桑略記による)。九月丁未朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月、朱雀院に行幸し、文人を召して詩を賦させた。この秋、旱魃と飢饉により、群盗が横行した(注:日本紀略による)。冬閏十月五日辛亥、菊宴(きくのえん)を催した(注:新儀式による)。十九日乙丑、北野に行幸した(注:日本紀略・扶桑略記・帝王編年記による)。二十六日壬申、備後国が白鹿を献上したので、これを神泉苑に放った。十一月丙子朔、冬至にあたり(注:日本紀略・扶桑略記による)、群臣が表を奉って祝賀した(注:日本紀略・政事要略による)。十七日壬辰、詔して次のように述べた。「先王は礼を定め、星辰の運行をうかがいながら万機を挙行した。上帝(天)は功徳を施し、寒暑を分けて万物を治めた。それゆえ教化がひとしく行き渡れば、日月の運行に狂いはなく、陰陽の巡りが調えば、季節の推移も暦の予測と違わないものである。朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも大業を受け継ぎ、深淵に臨み薄氷を踏むがごとく慎み、股肱の臣とともに勤労してきた。常に月令(がつりょう、季節の政令)を急務のうちに失うこと、時節の風雨に狂いが生じることを恐れている。このたび役人が奏上して、『今年十一月の朔日の朝が冬至にあたります。天の紀(のり)を得て、終わってまた始まるのは、まことに王者の御代が長く続く瑞兆です』と申した。この取るに足らぬ身が、どうしてこの瑞兆にふさわしかろうか。天下とともにこの吉兆を喜びたいと思う。よって天下に大赦を行う。ただし通常の大赦で許されない罪は、この赦しの対象としない。功臣の末裔、および才能の著しく世に知られた者には、特に栄誉ある褒賞を与え、朝廷の規範を美しく保つ。また内外の文武官のうち主典以上の者には、位階を一級進める。京にある正六位上の官人、および史生以下直丁以上の者、ならびに天下の高齢者には、それぞれに応じて物を賜るべきである。願わくは、恵沢があまねく四海に及び、天の恵みに応えることを。」(注:政事要略による)十二月丙午朔、東大寺の講堂が火事になった(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記による。東大寺要録は四日とする)。四日己酉、法皇が東大寺に行幸し、諷誦(ふじゅ)を修した(注:日本紀略による)。五日庚戌、使者を東大寺に遣わし、綿千屯(ちとん)を施した(注:日本紀略・東大寺要録による)。九月から雨が降らず、京の井戸が涸れていた。十九日甲子、上皇は民が冷泉院の池の水を汲むことを許した。二十日乙丑、冷泉院の水が涸れたため、勅して神泉苑の池の水を汲ませた。二十六日辛未、井戸や泉がことごとく涸れ、京畿でしばしば火災が起きた。二十七日壬申、雨が降った(注:日本紀略による)。

十八年戊寅、春正月乙亥朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。二月二十六日己巳、六条院に法皇を訪ねた(注:西宮記による)。三月十九日壬辰、深紅色の衣服を禁じた(注:扶桑略記・法曹至要録による)。夏六月二十四日乙丑、雷が東寺の金堂に落ち、火災となった(注:扶桑略記による)。秋八月辛丑朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。十六日丙辰、大風雨により、木が折れ、屋根が飛んだ(注:日本紀略は十五日とするが、今は扶桑略記に従う)。十七日丁巳、淀河(よどがわ)が大いに氾濫し、人畜の多くが流され溺れた(注:日本紀略・扶桑略記による)。冬十月辛丑朔、彗星が現れた(注:中右記長承元年条による)。八日戊申、朱雀院に法皇を訪ねた(注:西宮記による)。十九日己未、北野に行幸した(注:日本紀略は九月とするが、今は扶桑略記・西宮記・歴代皇紀に従う)。皇太子もこれに従った。この月、太宰府が「壱岐島が『彗星が西南に現れた。長比売(ながひめ)・住吉の二社が鳴動し、高御祖神社(たかみおやじんじゃ)も鳴った。光る炎が東方に飛んだ』と報告した」と奏上した(注:扶桑略記による)。

十九年己卯、春正月庚午朔、日食があった(注:百練抄の二条紀による)。小朝拝を復活させた(注:西宮記・北山抄・江家次第による)。夏五月二十三日己丑、武蔵駅が「前権介源任(みなもとのたもつ)が国府の建物を焼き、官物を掠め、国守高向利春(たかむこのとしはる)を襲おうと謀った」と報告した。六月十七日壬子、諸社で三日にわたって読経させ、雨を祈った。二十二日丁巳、大神宮に幣帛を奉った。二十八日癸亥、龍穴に幣帛を奉り、神泉苑で請雨経法を修した。二十九日甲子、山科山陵(やましなのさんりょう)に幣帛を奉り、樹木を伐採したことを謝した(注:扶桑略記による)。乙丑晦、百人の僧に大極殿で仁王経を転読させた(注:日本紀略による)。秋七月四日己巳、十三社に幣帛を奉った(注:西宮記による)。五日庚午、太陽が赤黒くなり光を失った(注:扶桑略記による)。七日壬申、恵みの雨が降った(注:日本紀略による)。八月十三日丁未、大納言藤原道明が右近衛大将を辞した(注:公卿補任・一代要記による)。二十七日辛酉、近衛府より東、二条より北の井戸が涸れた(注:扶桑略記による)。九月九日癸酉、穀物が実らなかったため、重陽節を停止した(注:日本紀略による)。十三日丁丑、中納言藤原定方が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による。一代要記は二十年正月三十日とする)。この夜、清涼殿で宴を催した(注:躬恒集による。世に、九月十三夜に月を賞するのは延喜年間に始まるという。中右記保延元年条によれば、寛平法皇がかつて「この夜の名月は並ぶものがない」と称賛したことから、世にこの夜に月見をするようになったという。ひとまずこれを付記して参考に備える)。冬十月、暦道の役人が奏上して宴を取りやめた。この年、35か国で穀物が実らなかった(注:北山抄による)。

二十年庚辰、春正月甲子朔、日食があった(注:日本紀略・百練抄の二条紀による)。夏五月十日壬申、渤海が朝貢した(注:日本紀略・扶桑略記による)。六月十七日丁未、大納言兼皇太子傅藤原道明が薨じた(注:日本紀略・公卿補任による)。秋七月、旱害と春夏の風水害・咳の疫病により、相撲節を停止した(注:日本紀略による)。十四日癸卯、諸社に幣帛を奉り、雨を祈った。十九日戊申、大神宮に幣帛を奉り、雨を祈り咳の疫病を祓った。八月二十日戊寅、丹生・貴布禰で晴天を祈った(注:扶桑略記による)。九月九日丁酉、諸国の不作と咳の疫病により、重陽節を停止した(注:日本紀略・扶桑略記による)。冬十一月二十一日戊申、十二社に幣帛を奉り、咳の疫病の終息を謝し祓った(注:扶桑略記による)。十二月二十八日乙酉、皇子高明(たかあきら)・兼明(かねあきら)に源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った(注:日本紀略・扶桑略記による。この二書は皇子の名を載せていないが、公卿補任を考えると、醍醐第一源氏高明、第二源氏兼明と記されており、今はこれに拠った)。

二十一年辛巳、春正月戊子朔(注:原文は「戊子朝」に作るが、朔の誤りと見られる)、朝賀を受けなかった(注:扶桑略記による。本書にはその理由を載せていない)。二十日丁未、前年の咳の疫病と諸国の不作により、内宴を停止した。二月二十五日壬午、韶子内親王(しょうしないしんのう)を卜定して斎院とした(注:日本紀略による。一代要記は二十二年とする)。三月十三日己亥、大納言藤原清貫(ふじわらのきよつら)を皇太子傅とした(注:公卿補任による)。冬十月十八日庚午、清涼殿で舞楽を観覧した。十一月四日乙酉、崇福寺(すうふくじ)が火事になった(注:日本紀略・扶桑略記による)。十二月壬子朔、日食があった。九日庚申、北野に行幸した(注:日本紀略による)。十七日戊辰、皇弟雅明(まさあきら)を親王とした(注:一代要記は翌年十月七日とするが、今は日本紀略に従う)。

二十二年壬午、春正月壬午朔、雨のため朝賀を取りやめた(注:扶桑略記による)。二十五日丙午、河原院(かわらのいん)に行幸した。二月八日己未、四品貞頼親王(さだよりしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。夏五月五日甲申、京の疫病により、端午節(たんごのせち)を停止した(注:扶桑略記による)。二十九日戊申、十一社で仁王経を三日にわたって転読させ、京の疫病を祓った(注:日本紀略・扶桑略記による)。秋七月十四日壬辰、神泉苑で請雨経法を七日にわたって修した(注:扶桑略記による)。二十七日乙巳、相撲節を行った。旱魃のため音楽を取りやめた(注:日本紀略による)。八月三日庚戌、東寺で孔雀経法(くじゃくきょうほう)を修し、雨を祈った(注:北山抄による)。九月九日丙戌、不作のため、重陽節を停止した(注:日本紀略による)。冬十月十四日庚申、斎宮寮(さいぐうりょう)が火事になったため、大神宮に幣帛を奉った。二十一日丁卯、諸国に不堪佃(ふかんでん、風水害で耕作できない田)を調べる使者を置いた(注:扶桑略記による)。十一月二十二日戊戌、是忠親王(これただしんのう)が薨じた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈は十月とするが、今は日本紀略・一代要記に従う)。

延長元年癸未、春正月九日甲申、畿内諸国に命じて咳の疫病を祓わせた(注:扶桑略記による)。二十七日壬寅、紫宸殿で大般若経(だいはんにゃきょう)を三日にわたって読ませ、咳の疫病を祓った(注:日本紀略・扶桑略記による。大般若経は略記による)。三月二十一日乙未、皇太子の病により、大赦を行った(注:日本紀略による)。この夜、皇太子(保明親王)が薨じた(注:日本紀略・扶桑略記による)。賀茂祭を中止した。宮中に怪異があり、京では根も葉もない噂が広まって、上下が驚き騒いだ。僧を招いて祓い除かせた。夏四月八日壬子、鳥が官庁に巣を作ったため、三十人の僧に金剛般若経千巻を読ませた(注:扶桑略記による)。二十日甲子、詔して故右大臣菅原道真の本官を復した(注:日本紀略による)。二十六日庚午、女御藤原穏子を皇后に立てた(注:扶桑略記・中右記大治五年条による。日本紀略は壬申、扶桑略記は癸酉に作るが、今は干支から推算して訂正した)。二十九日癸酉、皇孫慶頼王(よしよりおう)を皇太子に立てた(注:日本紀略・扶桑略記・大鏡裏書による)。大納言兼右近衛大将藤原定方を傅とした(注:公卿補任による)。閏月十一日乙酉、改元した(注:日本紀略・扶桑略記・皇代記による)。二十二日丙申、諸社に幣帛を奉り、疫病を祓った。五月十七日庚申、太白(金星)が昼間に見えた。十八日辛酉、仁王会を修し、咳の疫病を祓った。二十日癸亥、白黒の雲が空一面に広がった。二十二日乙丑、白い虫が群れをなして飛び、三条から六条にかけて空を覆った(注:本書は乙未に作るが、今は干支から推算して訂正した)。秋八月辛丑晦、長雨のため諸社に幣帛を奉った(注:扶桑略記による)。九月九日庚戌、疫病のため重陽節を停止した(注:日本紀略による)。二十六日丁卯、宇佐に幣帛を奉った(注:西宮記による)。冬十月辛未朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。

二年甲申、春正月二十二日辛酉、右大臣藤原忠平を左大臣とし、大納言藤原定方を右大臣とした(注:日本紀略・公卿補任による)。二十五日甲子、法皇が天皇の四十の賀を祝った(注:日本紀略・扶桑略記・教訓抄による)。二十六日乙丑、中六条院(なかろくじょういん)に法皇を訪ねた(注:日本紀略による)。夏五月五日壬寅、端午節を停止した。七日甲辰、雨水が降った。六月十九日丙戌、二品式部卿貞保親王(さだやすしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。秋七月戊戌朔、神泉苑で請雨経法を修した(注:東寺長者補任が引く御記による)。九月九日甲辰、不作のため、重陽節を停止した(注:日本紀略による)。冬十月十七日壬午、白虹(はっこう)が空にかかった(注:扶桑略記による)。二十一日丙戌、朱雀院に行幸し、競馬(くらべうま)を観覧し、船に乗って音楽を奏させた(注:日本紀略による)。十二月十七日辛巳、地震があった(注:扶桑略記による)。

三年乙酉、春正月甲午朔、雪のため朝賀を取りやめた。三日丙申、仁和寺に法皇を訪ねた(注:日本紀略による)。十四日丁未、大雪と厳寒のため、仁和寺の僧俗に綿千屯を給した(注:西宮記による)。三月二十七日己未、山城国が白い烏(からす)を献上した(注:扶桑略記による)。夏五月五日丙申、端午節を停止した。二十五日丙辰、祭主大中臣安則(おおなかとみのやすのり)に命じて雨を祈らせた(注:日本紀略による)。六月七日戊辰、天皇が瘧(おこり、マラリア性の熱病)を患ったが、日を経ずして癒えた。十三日甲戌、痢病(りびょう)を患い、諸社で読経させ雨を祈った(注:扶桑略記による)。十八日己卯、皇太子(慶頼王)が薨じた(注:日本紀略は十九日とするが、今は公卿補任・扶桑略記・一代要記に従う)。秋七月十六日丁未、延暦寺で七日、神泉苑で五日にわたって雨を祈った(注:扶桑略記による)。十九日庚戌、神泉苑の池の水を引いて、京の南の田を潤した。二十七日戊午、旱魃のため相撲節を停止した。この日、東大寺で雨を祈った。九月九日己亥、不作のため重陽節を停止した(注:日本紀略による)。十三日癸卯、諸社に馬を幣帛として奉った(注:西宮記による)。冬十月三日壬戌、雷が鳴った(注:扶桑略記による)。二十一日庚辰、皇子寛明親王(ひろあきらしんのう)を皇太子に立て(注:日本紀略・扶桑略記・大鏡による)、左大臣兼左近衛大将藤原忠平を傅とした(注:公卿補任・摂関伝による)。十一月十四日癸酉、天下の諸国司に官符を下し、「風土記(ふどき)を進上せよ」と命じた(注:朝野群載による)。

四年丙戌、春正月戊午朔、地震があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。夏四月十九日乙巳、地震があった(注:扶桑略記による)。五月四日己未、十八社に幣帛を奉り、国家の安寧と豊作を祈った(注:西宮記による)。五日庚申、端午節を停止した。秋七月十六日癸酉、大風があった。この月、大和国長谷山(はせやま)が崩れた(注:日本紀略による)。冬十月九日壬辰、深紅色の禁を重ねて厳しくした(注:法曹至要抄による)。十九日壬寅、天皇は法皇に従って大井河に行幸した(注:日本紀略・扶桑略記・大鏡裏書による)。十一月六日己未、北野で狩りをし(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記による)、ついで船岡(ふなおか)に赴いた(注:北山抄による)。二十一日甲戌、皇子成明(なりあきら)を親王とした(注:日本紀略による)。十二月五日戊子、諸国が損失を受けた戸数を上申する法を定めた(注:政事要略による)。十九日壬寅、法皇の六十の賀を祝った(注:日本紀略による)。二十八日辛亥、醍醐寺の新堂の仏像の開眼供養を祝った(注:醍醐寺雑事記が引く御記による)。二品兵部卿敦固親王(あつかたしんのう)が薨じた(注:西宮記が引く貞信公記による。一代要記は五月二十七日、皇胤紹運録・尊卑分脈は元年十二月八日とする)。

五年丁亥、春二月十四日乙未、中六条院に法皇を訪ねた(注:日本紀略・扶桑略記による)。夏四月十日庚寅、王卿(おうけい)を清涼殿に召し、小弓の賭射(のりゆみ)を観覧した(注:日本紀略による)。二十三日癸卯、北山の野に穀物が自生し、人々が競ってこれを採った(注:扶桑略記による)。六月二十二日辛丑、旱魃のため八社に幣帛を奉った(注:祈雨日記が引く御記による)。二十七日丙午、諸社に幣帛を奉った(注:扶桑略記による)。秋七月二日庚戌、七大寺および諸寺で読経させた(注:祈雨日記が引く御記による)。この月、八省院で読経させ、神泉苑で修法し、雨を祈った(注:北山抄による)。八月己卯朔、日食があった(注:日本紀略による)。二十三日辛丑、皇弟行明(ゆきあきら)を親王とした。九月十日戊午、斉世親王(ときよしんのう)が薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。二十日戊辰、時明親王が薨じた。二十四日壬申、三品兵部卿克明親王(かつあきらしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。二十九日丁丑、夜、黒雲が空にたなびき、広さ三、四尺ほどであった。冬十月十二日庚寅、狐が南殿の御帷(みとばり)の中に矢を射込んだ。十三日辛卯、西南に向かって流星が流れ、清涼殿の御座のあたりで音がした(注:扶桑略記による)。二十六日甲辰、崇福寺の弥勒像の開眼を祝い、御斎会(ごさいえ)に準じて行った(注:日本紀略による)。十二月二十六日癸卯、左大臣藤原忠平らが延喜式(えんぎしき)を奉った(注:本書の奏表による。日本紀略は十一月のこととする)。

六年戊子、春正月戊申朔、暴風により承明門(じょうめいもん)の東の扉が壊れた(注:扶桑略記による)。二月丁丑朔、日食があった(注:日本紀略による)。十一日丁亥、太陽に珥(じ、暈の一種)が現れた。三月八日甲寅、地震があった。十三日己未、檀林寺(だんりんじ)が火事になった。夏四月十七日壬辰、地震があった。二十八日癸卯、中六条院に法皇を訪ねた。五月二十二日丙寅、百人の僧に紫宸殿で読経させ、疫病を祓った。癸酉晦、雷が会昌門(かいしょうもん)の楼に落ちた。四月からこの月にかけて、疫病が流行した。六月甲戌朔、地震があった(注:扶桑略記による)。この月、少内記小野道風(おののみちかぜ)に命じ、清涼殿南廂(なんしょう)の粉壁(ふんぺき)に、漢代以来の賢君・名臣の言行を書かせた(注:日本紀略による)。秋七月十一日甲寅、雷が西大寺の塔に落ち、火災となった。十二日乙卯、大和国長谷川(はせがわ)が氾濫し、民家の多くが壊れた(注:扶桑略記による)。八月癸酉朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十一日癸巳、法皇が諸国に勅して、「東大寺の封戸(ふこ)の滞納分を督促し、修造の費用に充てよ」と命じた(注:東大寺要録による)。閏月癸卯朔、旱魃を占った。十七日己未、法皇が石山寺に行幸した。九月四日丙子、延暦寺が白鹿二頭を献上したので、これを神泉苑に放った。冬十月二十一日壬戌、朱雀院に法皇を訪ねた(注:扶桑略記による)。十二月五日丙午、大原野(おおはらの)で狩りをした(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記による)。

七年己丑、春三月、京畿諸国で疫病が流行し、民の多くが死んだ。二十三日癸巳、豊楽院で不動法(ふどうほう)を七日にわたって修した(注:扶桑略記による)。夏四月二十一日庚申、四品貞辰親王(さだときしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。二十五日甲子、夜、鬼のような物が常寧殿(じょうねいでん)に現れた。五月十七日乙酉、新羅の全州の酋長甄萱(しんけん、けんけん)が使者を遣わして帰化を願い出たが、これを退けた(注:扶桑略記による)。六月七日甲辰、伊勢以下の諸社に幣帛を奉った(注:日本紀略による)。秋七月八日乙亥、八省院で読経させ、雨を祈った(注:祈雨日記が引く李部王記による)。二十六日癸巳、大風雨があった。鴨川が決壊し、東京(左京)の家屋が多く壊れ、山崎橋(やまざきばし)が断ち切られた。諸国で人畜の多くが死に、穀物が損なわれた。八月丁酉朔、正税稲(しょうぜいとう)一万束を放出し、山城国の水害に遭った者を救済した。三日己亥、長雨の吉凶を占った。五日辛丑、七大寺および延暦寺で般若経を三日にわたって読ませ、五社で晴天を祈った(注:扶桑略記による)。十日丙午、詔して水害を被った者を救済し、被害の甚だしい者は今年の調庸・徭役を免除した。公卿に命じて意見を上申させた。十五日辛亥、京で大雨により水があふれ、穀物が損なわれ、多くの人が溺死した(注:日本紀略による)。二十九日乙丑、諸社に幣帛を奉り、晴天を祈った(注:扶桑略記による)。九月九日乙亥、重陽節を停止した(注:日本紀略・扶桑略記・北山抄による)。冬十月丙申朔、旬宴(しゅんえん)は、天皇の不例(病気)により紫宸殿に出御しなかった(注:西宮記が引く貞信公記による)。二十三日戊午、雅明親王が薨じた(注:日本紀略・大鏡裏書による)。十二月二十九日甲子、翌年が三合の災にあたるとして、天下の神社に幣帛を奉り、仏寺で読経させた(注:扶桑略記による)。

八年庚寅、春二月六日庚子、左右京の疫病者・窮乏者に米穀を給して救済した。道端に炊き出しを設けて飢えた者を救った。十四日戊申、検非違使および左京職に勅して、疫病者・飢えた者を施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)の両院の曲殿(きょくでん)に収容させた。また適当な場所にいる者には、大蔵省の幣幔(へいまん)・掃部寮(かもんりょう)の古い筵(むしろ)、および米・塩を給した(注:扶桑略記による)。二十四日戊午、前年の風水害と今春の疫病により、天下に大赦を行い(注:日本紀略による)、七日にわたって読経・修法させた。二十八日壬戌、兵庫(武器庫)がひとりでに鳴った(注:扶桑略記による)。二品式部卿敦慶親王(あつよししんのう)が薨じた(注:扶桑略記は二十九日とするが、今は日本紀略に従う)。夏四月甲午朔、東丹国(とうたんこく)の使者が丹後に至ったが、これを退けた。二十一日甲寅、春夏の疫病により、豊楽院で灌頂経法(かんじょうきょうほう)を修した。五月甲子朔、伊勢以下の諸社に幣帛を奉った(注:扶桑略記による)。十五日戊寅、三品貞固親王(さだかたしんのう)が薨じた(注:一代要記による)。十七日庚辰、仁王会を修した。二十四日丁亥、太陽に虹のような暈がかかった(注:扶桑略記による)。この月、客星(かくせい、新星)が羽林(うりん)の星座に現れ、七月に至って消えた(注:一代要記・明月記寛喜二年条による)。六月十二日甲辰、紫宸殿の東南の隅、および太政官の東庁の西南の隅に虹が見えた。十四日丙子、鶯(うぐいす)が大極殿の梁の上に集まったのを占った。二十日壬子、旱魃のため京畿の諸神に雨を祈った。二十六日戊午、京の南の民が神泉苑の池の水を切り開いて田に灌漑することを願い出たので、これを許した(注:扶桑略記による)。この日、激しい風雨と雷があり、雷が清涼殿に落ちた。大納言藤原清貫、右中弁平希世(たいらのまれよ)らが雷に打たれて死んだ(注:日本紀略・扶桑略記による。東鑑寛喜二年条にはこの月八日に大雪があったと載るが、他に見えるところがないので、ひとまずここに付記する)。天皇が不例となった(注:日本紀略による)。秋七月二日癸亥、常寧殿に移り住んだ(注:日本紀略・西宮記による)。五日丙寅、雲もないのに雷が鳴った(注:扶桑略記による)。八日己巳、月が昼間に見えた(注:平戸記仁治元年条による)。十五日丙子、流星が東北に流れた。二十日辛巳、風雨があり、龍尾道(りゅうびどう)の欄干が倒れた(注:扶桑略記による。古今著聞集には、黒雲が龍尾壇を覆い、大蛇が墜ちて、五、六丈の欄干が壊れたとある)。二十一日壬午、常寧殿で五壇法(ごだんほう)を修した(注:日本紀略による)。延暦寺で白檀の五大尊像を造らせた(注:扶桑略記による)。この月、相撲節を停止した(注:日本紀略による)。八月九日庚子、五百人の僧を得度させた。十二日癸卯、鳩(はと)が弁官の西の戸の梁の上に集まったのを占った。十三日甲辰、諸社に幣帛を奉った(注:扶桑略記による)。十九日庚戌、千人の僧を得度させた(注:日本紀略による)。二十一日壬子、僧を召して七日間修法させた(注:扶桑略記による)。九月三日癸亥、御燈を停止した(注:西宮記による)。七日丁卯、天皇の病が篤くなった。左大臣藤原忠平、右大臣藤原定方が宮中に宿直して仕えた(注:扶桑略記による)。九日己巳、重陽節を停止した(注:日本紀略による)。十六日丙子、鳥が漏刻の籌(ちゅう、籤)を抜いたのを占った(注:扶桑略記による)。二十二日壬午、天皇が皇太子に位を譲った(注:日本紀略・扶桑略記・醍醐寺雑事記が引く帝皇系図による)。詔して左大臣藤原忠平に幼主を輔佐させ、政務を摂らせた(注:日本紀略・公卿補任による)。尊号を奉って太上天皇とした。朱雀院に移り住もうとしたが、病が篤く果たせず(注:日本紀略による)、右近衛府の曹司(ぞうし)に移った(注:日本紀略・扶桑略記・醍醐寺雑事記が引く帝皇系図・紀淑光記による)。法皇が曹司に行幸し、病を見舞った(注:日本紀略・醍醐寺雑事記が引く紀淑光記による)。二十九日己丑、髪を剃り(注:日本紀略・扶桑略記による)、宝金剛(ほうこんごう)と号した(注:日本紀略が引く重明記、醍醐寺雑事記が引く李部王記による。一代要記・帝王編年記・皇年代略記・皇胤紹運録は金剛宝(こんごうほう)に作る)。この日、右近衛府において崩じた。御年46歳(注:日本紀略・扶桑略記による)。宇治郡山階(やましな)に葬り(注:日本紀略による)、後山階陵(のちのやましなのみささぎ)と称した(注:扶桑略記・大鏡裏書・拾芥抄による)。遺詔して、「諡(おくりな)を奉ることなく(注:醍醐寺雑事記が引く李部王記による)、葬儀は倹約にせよ」と命じた(注:日本紀略・醍醐寺雑事記が引く帝皇系図による)。醍醐天皇と称し、また小野帝(おののみかど)とも称した(注:一代要記・年代記残編による)。国忌斎(こくきさい)を西寺(さいじ)に置いた(注:日本紀略による)。

天皇は政治に励み、その治世をよくしようと努め(注:神皇正統記による)、百姓を憐れみいたわり、寒い夜には自らお召し物を脱いで、民間の凍えや飢えに思いを致した(注:大鏡・平家物語・続古事談による)。群臣が奏上・応答するたびに、必ず穏やかな顔でこれに接した。かつてこう仰せられたという。「威厳を外に示せば、臣下は思うことを言い尽くしにくくなる。朕は人と接するたびに、必ず言葉と表情を和らげるようにしている。願わくは、忠実で正しい言葉を引き出し、真心のこもった進言を得たいものだ。」(注:大鏡による)このとき国家は無事であり、民は安んじて暮らし、世の人々はこれを仁徳天皇の御代になぞらえた。後世、善政を語る者は、みなこの延喜の治世を称賛したのである(注:神皇正統記による)。