卷之九十二 列傳第十九
皇子七
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次41
【清和】十三子
¶清和天皇(せいわてんのう)には十四人の皇子があった。藤原皇后は、陽成帝(ようぜいてい)、第四子の貞保親王(さだやすしんのう)を産んだ(注:三代実録・皇胤系図による。○案ずるに、皇胤紹運録・源氏系図には、いずれも貞保を第五子とするが、誤りである)。女御の藤原佳珠子(ふじわらのかすこ)は、第七子の貞辰親王(さだときしんのう)を産んだ(注:三代実録による。○第七子と記すのは皇胤紹運録による)。更衣の藤原氏は、第五子の貞平親王(さだひらしんのう)を産んだ(注:皇胤紹運録による)。更衣の在原氏は、第八子の貞数親王(さだかずしんのう)を産んだ(注:三代実録による)。更衣の藤原氏は、第九子の貞真親王(さだざねしんのう)を産んだ。更衣の藤原氏は、第十子の貞頼親王(さだよりしんのう)を産んだ。更衣の佐伯氏は、源長鑑(みなもとのながあきら)・源長頼(みなもとのながより)を産んだ(注:三代実録による。○貞真を第九子、貞頼を第十子と記すのは皇胤紹運録による)。宮人の橘氏は、第二子の貞固親王(さだかたしんのう)を産んだ。藤原氏は、第三子の貞元親王(さだもとしんのう)を産んだ。王氏は、第六子の貞純親王(さだずみしんのう)を産んだ(注:皇胤紹運録・皇胤系図による)。賀茂氏は、源長猷(みなもとのながみち)を産んだ(注:三代実録・皇胤系図による)。大野氏は、源長淵(みなもとのながふち)を産んだ(注:三代実録・皇胤紹運録による)。
貞固親王
¶貞固親王は、貞観十五年、弟の貞元・貞保・貞平・貞純とともに親王となった。元慶八年、四品に叙せられ、常陸太守となった。仁和二年、帝(光孝天皇)が北野で狩りをし、右近衛府の馬埒(ばれつ、馬場)に出御して馬の調教をご覧になったとき、貞固がお供をした。太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)は「遊猟の儀には武備があるべきです。親王に帯剣をお許しください」と奏上し、帝は喜んでこれを聞き入れた(注:三代実録による)。まもなく三品に進み(注:一代要記・皇胤紹運録による)、太宰帥・弾正尹となった(注:尊卑分脈による)。延長八年五月、薨じた(注:一代要記による)。子の国淵(くにふち)は、源朝臣の姓を賜り、中務大輔・宮内卿を歴任し、従四位上に至った(注:尊卑分脈による)。
貞元親王
¶貞元親王は、仁和三年、四品を授けられ、上野太守となった(注:三代実録による)。延喜九年十一月、薨じた。閑院親王(かんいんしんのう)と称された(注:日本紀略・一代要記による)。子の兼忠(かねただ)・兼信(かねのぶ)は、いずれも源朝臣の姓を賜った(注:皇胤紹運録による)。兼忠は、正四位下に至り、参議を拝命し、治部卿を兼ねた(注:公卿補任による)。兼信は、侍従・参河守であった(注:皇胤紹運録による)。
貞保親王
¶貞保親王は、元慶六年、陽成帝とともに元服し、三品に叙せられた。まもなく上野太守となり、中務卿に任じられた(注:三代実録による)。後に二品に進み、式部卿に転じた。延長二年六月、薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。年五十五であった(注:日本紀略による)。南宮(みなみのみや)と称され(注:皇胤紹運録・帝王編年記による)、また桂親王(かつらしんのう)とも称された(注:帝王編年記による)。とりわけ音律に長じ、『南竹譚(なんちくたん)』を著し(注:体源抄による)、世に管絃仙(かんげんせん)と称された(注:帝王編年記による)。貞保はかつて桂川の山荘に遊び、夜に五常楽(ごしょうらく)を奏していたところ、灯火のもと、恍惚として衣冠を着た人が現れ、「私は唐国の廉承武(れんしょうぶ)である。おおよそ五常楽の急を百回奏すれば、必ずやって来る」と言い、たちまち姿を消した(注:古今著聞集による)。子の国忠(くにただ)・国珍(くにたか)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。国忠は、従五位下(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)、内蔵頭であった(注:尊卑分脈による)。国珍は、従四位上(注:皇胤紹運録による)、内蔵頭・春宮大進であった(注:○皇胤紹運録には春宮大夫とあるが、今は尊卑分脈に従う。○案ずるに、紹運録には国珍の弟・基淵(もとふち)を載せているが、他の諸書には見えないので、今は採らない)。
貞平親王
¶貞平親王は、三品に叙せられた(注:皇胤紹運録・源氏系図によれば、神祇伯に任じられたとある)。延喜十三年三月、薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。
貞純親王
¶貞純親王は、四品に叙せられた(注:一代要記・帝王編年記・源氏系図による)。兵部卿・中務卿・上総常陸太守を歴任した(注:源氏系図による)。延喜十六年五月、薨じた(注:日本紀略・源氏系図・尊卑分脈による。○案ずるに、一代要記には十三年に薨じたとあるが、誤りである。また案ずるに、日本紀略には年三十二とあり、系図・分脈には六十四とあり、分脈の一説には四十三とある。今ひとまず三十二の記述によって逆算すると、貞純は仁和元年に生まれたことになり、清和帝の崩御から六年後となる。六十四の記述によれば、清和帝が四歳のときにすでに貞純が生まれていたことになる。分脈の一説によれば、貞観十六年生まれとなり、十五年に親王となったという記述と合わない。いずれの説も従いがたい。また案ずるに、貞純の兄・貞保は貞観十二年生まれであり、弟の貞辰は十六年生まれであるから、これによれば貞純の生まれは十二年より後、十六年より前ということになる。分脈の一説にある四十三の「三」は、おそらく写し誤りであろうが、他に考証する術がないので、享年は記さない)。桃園親王(ももぞののしんのう)と称された(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。子の経基(つねもと)・経生(つねなり)は(注:○皇胤紹運録には、経生を経主(つねぬし)に作る)、いずれも源朝臣の姓を賜った。経基には別に伝がある。経生は、従五位上越後守であった(注:尊卑分脈・源氏系図による)。
貞辰親王
¶貞辰親王は、貞観十七年、親王となり(注:三代実録による)、四品に叙せられた(注:日本紀略・帝王編年記による)。延長七年四月、薨じた。年五十六であった(注:日本紀略・一代要記による)。
貞數親王
¶貞数親王は、貞観十八年、親王となり(注:三代実録による)、四品に叙せられた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)。元慶六年三月、帝が清涼殿で宴を設け、皇太后の長寿を祝い、五位以上の子で容姿のすぐれた者を選んで舞を習わせた。貞数は、時にわずか八歳で陵王(りょうおう)の舞を舞い、見る者は感嘆した。仁和二年正月、貞数が散手(さんじゅ)の舞を舞ったとき、帯剣し殳(ほこ)を執るべきところであったので、勅により帯剣を許された(注:三代実録による)。延喜の頃、薨じた(注:○案ずるに、皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図には、いずれも十年六月に薨じ、年三十二、あるいは三十三とある。一代要記には十六年五月に薨じ、年四十二とある。今、三代実録の貞観十八年に年二歳であったという記述から推すと、いずれも合わないので、これらを採らない)。子の為善(ためよし)は、源朝臣の姓を賜り、従四位下大舎人頭であった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。
貞真親王
¶貞真親王は、貞観十八年、弟の貞頼とともに親王となり(注:三代実録による)、兵部卿に任じられた(注:皇胤紹運録による)。まもなく三品に叙せられ、常陸太守となった(注:日本紀略による)。承平二年九月、薨じた(注:貞信公記・一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による。○日本紀略には元年に薨じたとあるが、誤りである)。年五十七であった(注:○日本紀略には五十六とある。今は三代実録の貞観十八年に貞真が一歳であったという記述から推した)。
¶子の蕃基(しげもと)・蕃平(しげひら)・蕃固(しげかた)・元亮(もとあきら)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。蕃基は、従五位下土佐権守。蕃平は、大膳大夫。蕃固は、加賀守であった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)。
貞賴親王
¶貞頼親王は、四品に叙せられた。延喜二十二年二月、薨じた(注:日本紀略・源氏系図による)。年四十七であった(注:日本紀略による。○案ずるに、一代要記には二十年三月に薨じたとあるが、誤りである)。
源長猷
¶源長猷(みなもとのながみち)は(注:○案ずるに、源氏系図には長淵の下に列するが、今は三代実録・皇胤紹運録に従う)、貞観十五年、源朝臣の姓を賜った。元慶三年、従四位下を授けられた(注:三代実録による)。後に従三位に進み、刑部卿(注:日本紀略・一代要記による)、伊勢権守に任じられた(注:一代要記による)。延喜十八年九月、薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。年六十四であった(注:○一代要記の延喜六年に年五十二であったという記述による)。子の嘉種(よしたね)・嘉生(よしなり)・嘉実(よしざね)があった。嘉種は、正五位下美作守。嘉生は、従五位上阿波守。嘉実は、木工頭であった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。
源長淵
¶源長淵(みなもとのながふち)は、貞観十五年、弟の長鑑とともに源朝臣の姓を賜った(注:三代実録による)。元慶七年、従四位上を授けられた(注:類聚国史による)。仁和元年、武蔵権守となった(注:三代実録による)。
源長鑒
¶源長鑑(みなもとのながあきら)は、従三位を授けられた(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)。
源長賴
¶源長頼(みなもとのながより)は、貞観十八年、源朝臣の姓を賜った(注:三代実録による)。正四位下に叙せられ、左兵衛督・長門守を歴任した(注:尊卑分脈・源氏系図による。○皇胤紹運録には右兵衛督・長門権守とあり、帝王編年記でも「左」を「右」に作る)。子の有忠(ありただ)は、従五位下長門権守であった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)。
【陽成】七子
¶陽成天皇(ようぜいてんのう)には七人の皇子があった。後宮の姉子女王(あねこじょおう)は、第三子の元長親王(もとながしんのう)、第四子の元利親王(もととししんのう)を産んだ(注:源氏系図・皇胤系図・帝王編年記による)。宮人の藤原氏は、第一子の元良親王(もとよししんのう)、第二子の元平親王(もとひらしんのう)を産んだ。紀氏は、源清蔭(みなもとのきよかげ)を産んだ(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)。伴氏は、源清鑑(みなもとのきよあきら)を産んだ(注:一代要記・皇胤紹運録による)。佐伯氏は、源清遠(みなもとのきよとお)を産んだ(注:皇胤紹運録・帝王編年記・皇胤系図による)。
元良親王
¶元良親王は、三品に叙せられ、兵部卿となった(注:日本紀略・皇胤紹運録による)。和歌に巧みであった(注:今昔物語による)。天慶六年七月、突然薨じた(注:日本紀略による。○「暴薨」は尊卑分脈・源氏系図による)。年五十四であった(注:源氏系図・尊卑分脈・帝王編年記による)。子の佐材王(すけきおう)・佐時王(すけときおう)・佐頼王(すけよりおう)・佐兼王(すけかねおう)・佐芸(すけのり)・佐平(すけひら)・佐親(すけちか)があった。佐材は、従五位上。佐時は、従四位上、中務大輔であった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)。佐頼は、従四位上(注:源氏系図・尊卑分脈・帝王編年記による)、大舎人頭・山城守であった。佐兼は、従五位上であった(注:○源氏系図には従五位下とある)。佐芸は弟の佐平・佐親とともに、源朝臣の姓を賜った。佐芸は、従四位上(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による。○案ずるに、源氏系図には従四位下とある)、宮内卿であった。佐平は、従五位上(注:源氏系図・尊卑分脈による)、中務大輔であった(注:皇胤紹運録による。○源氏系図には刑部大輔とある)。
元平親王
¶元平親王は、三品に至り、弾正尹・式部卿を歴任した(注:源氏系図による。○式部卿は日本紀略による)。和歌に巧みであった(注:後撰和歌集による)。天徳二年五月、薨じた(注:日本紀略による)。子の兼名(かねな)は(注:○案ずるに、尊卑分脈には兼右(かねすけ)とあるが、誤りである)、源朝臣の姓を賜り、従四位下に叙せられた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。
元長親王
¶元長親王は、式部卿となった。まもなく帯剣を許され、二品を授けられた(注:日本紀略による)。承平元年、太宰帥となった(注:李部王記による)。天禄二年、輦車(れんしゃ)に乗ることを許され(注:日本紀略による)、常陸太守となった(注:花鳥余情による)。貞元元年九月、薨じた。年七十六であった(注:源氏系図による)。子の兼明(かねあきら)は、源朝臣の姓を賜り、従四位上、中務少輔(注:源氏系図・尊卑分脈による)、侍従であった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。
元利親王
¶元利親王は、二品に至り、弾正尹(注:日本紀略・源氏系図による)、式部卿を歴任した(注:尊卑分脈・源氏系図による)。康保元年六月、薨じた(注:日本紀略・皇胤紹運録・源氏系図による)。子の忠時(ただとき)は、源朝臣の姓を賜り、従四位上(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による。○源氏系図には従五位下とある)、中務大輔であった(注:皇胤紹運録による。○源氏系図・尊卑分脈には権大輔とある)。
源清蔭
¶源清蔭(みなもとのきよかげ)は(注:○案ずるに、源氏系図には清蔭・清鑑の順で記すが、一代要記には清蔭を清鑑の弟とする。今は皇胤紹運録に従う)、延長三年、弟の清鑑・清遠とともに源朝臣の姓を賜った(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。延喜・承平の間、従四位上に叙せられ、信濃権守を歴任し、参議に任じられ、大蔵卿・右衛門督を兼ね、相次いで従三位を授けられた。天慶二年、権中納言を拝命し、右衛門督は元のとおりとした。四年、正官の中納言となった。天暦元年、陸奥出羽按察使を兼ねた。二年、正三位に進み、大納言に任じられた。四年七月、薨じた。年六十七であった(注:公卿補任による。○案ずるに、尊卑分脈・源氏系図には、いずれも年六十とあるが、おそらく誤りである)。子の兼序(かねつぐ)・忘江(ぼうこう)・兼忠(かねただ)・兼材(かねき)・兼基(かねもと)があった。兼序は、はじめ名を兼房(かねふさ)といい、従五位下上総介であった。忘江は、従五位上周防介。兼忠は、参議従三位。兼材は、右馬権頭。兼基は、左衛門佐であった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)。
源清鑒
¶源清鑑(みなもとのきよあきら)は、従三位刑部卿に至った(注:○案ずるに、尊卑分脈には正三位とあり、一代要記には正三位大納言とあるが、いずれも誤りである)。承平六年四月、薨じた(注:日本紀略・源氏系図による)。子の公貞(きみさだ)・公輔(きみすけ)・公雅(きみまさ)があった。公貞は、従五位下であった(注:尊卑分脈・源氏系図による)。公輔は、従五位上大蔵大輔であった(注:尊卑分脈による)。公雅は、太宰少弐であった(注:尊卑分脈・源氏系図による)。
源清遠
¶源清遠(みなもとのきよとお)は、従四位上刑部卿に至った(注:皇胤紹運録・帝王編年記による。○尊卑分脈・源氏系図には従三位とあるが、誤りである)。子の景明(かげあき)・有忠(ありただ)があった。景明は、従五位上周防介。有忠は、従五位上長門守であった(注:尊卑分脈による)。
【光孝】十七子
¶光孝天皇(こうこうてんのう)には十八人の皇子があった。王皇后(おうこうごう)は、是忠親王(これただしんのう)、是貞親王(これさだしんのう)(注:一代要記・帝王編年記による)、宇多帝(うだてい)(注:三代実録による)、源元長(みなもとのもとなが)を産んだ(注:一代要記による)。更衣の讃岐氏は、源旧鑑(みなもとのふるあきら)を産んだ。宮人の布施氏は、滋水清実(しみずのきよざね)を産んだ(注:三代実録・公卿補任による)。源兼善(みなもとのかねよし)・源名実(みなもとのなざね)・源篤行(みなもとのあつゆき)・源最善(みなもとのもよし)・源近善(みなもとのちかよし)・源音恒(みなもとのおとつね)・源是恒(みなもとのこれつね)・源貞恒(みなもとのさだつね)・源成蔭(みなもとのなりかげ)・源国紀(みなもとのくにのり)・源香泉(みなもとのかおるずみ)・源友貞(みなもとのともさだ)・僧空性(くうしょう)は、いずれも母の氏が伝わっていない(注:○案ずるに、三代実録の貞観十二年の条には、帝(光孝天皇)の十四人の子、元長を初めとして是忠・是貞に至るまで、皆源の姓を賜ったと記されている。そこでは貞恒は第十番目に位置している。公卿補任もまた貞恒を第十子とし、これと合致するので、確かな根拠として、もっぱらこの記述によって順序とした。実録の元慶八年の条には、また皇子・皇女で姓を賜った者として、是忠・是貞・国紀・宇多帝の諱(いみな)・香泉・友貞および遅子(ちこ)ら二十五人を挙げ、左京一条に本貫を定めたとある。僧空性もまた皇子であり、同じく時服・月俸に預かった。今、これらを通じて考証すると、宇多帝は序列第十六番目に位置し、空性は僧であることから最後に列せられている。空性が帝の兄であるかどうかもまだ明らかでないが、実録には明らかに第七子と記されており、「七」の上には、おそらく「十」の字が脱けているのであろう)。
是忠親王
¶是忠親王は、貞観十二年、帝(光孝天皇)の願いにより、元長王・兼善王・名実王・篤行王・最善王・近善王・音恒王・是恒王・旧鑑王・貞恒王・成蔭王・清実王・是貞王の十四人とともに、源朝臣の姓を賜った(注:三代実録による)。元慶元年、侍従となった。七年、左衛門佐を授けられた(注:公卿補任による)。帝(光孝天皇)が即位されると、皇子の国紀・香泉・友貞らに源朝臣の姓を賜った。是忠と弟の是貞もまた同じくこれに与り、いずれも左京一条に本貫を定めた(注:三代実録による。○案ずるに、是忠・是貞は、貞観十二年にすでに源朝臣の姓を賜っていたのに、ここに至って改めて賜ったのは、おそらく母の氏の貴さゆえに特に寵愛異例の扱いを受け、当代の源氏としたのであろう)。是忠は、第一源氏となり、まもなく参議を拝命し(注:公卿補任による)、帯剣を許された。仁和元年、近江守を兼ねた。三年、陸奥出羽按察使を兼ね(注:三代実録による)、従三位を授けられた。寛平二年、左衛門督を兼ねた。三年、中納言を拝命し、検非違使別当を兼ねた。この冬、親王となり、三品を授けられた(注:公卿補任による)。まもなく式部卿となり、一品に進んだ。延喜二十年、薙髪した(注:日本紀略による)。二十二年十一月、薨じた(注:日本紀略・一代要記による。○案ずるに、皇胤紹運録・源氏系図には十月とある)。世に南院親王(なんいんしんのう)と称され(注:日本紀略による)、また南宮(なんぐう)とも称された(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。
¶子の式順王(しきじゅんおう)・式瞻王(しきせんおう)・興我王(おきがおう)・忠望王(ただもちおう)・今扶王(いますけおう)・英我王(えいがおう)・清平(きよひら)・正明(まさあきら)・和(やわす)(注:源氏系図・皇胤紹運録による)・宗于(むねゆき)があった(注:大和物語・尊卑分脈・作者部類による)。式順は、従四位下大舎人頭。式瞻は、従四位下、図書助・大舎人頭であった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。興我は、従五位上、筑前・山城守であった(注:三代実録による)。忠望は、正五位下内膳正であった(注:○案ずるに、日本紀略の天慶八年の条に神祇伯忠望とあるが、おそらくこれと同一人物であろう)。今扶は、従四位下(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、内膳正・少納言であった(注:三代実録による)。英我は、四位であった(注:皇胤紹運録・源氏系図による。○案ずるに、正従・上下については考証できない)。
¶清平・正明・和・宗于らは、いずれも源朝臣の姓を賜った(注:尊卑分脈・源氏系図による。○宗于は大和物語による)。清平は、右大弁を歴任し(注:公卿補任による)、参議を拝命し、太宰大弐を兼ねた(注:皇胤紹運録・公卿補任・源氏系図による)。正明は、はじめ名を斉明(なりあきら)といい(注:尊卑分脈・源氏系図による。○案ずるに、公卿補任には斉明を斉信(なりのぶ)に作ることもある)、侍従・左近衛中将となり(注:公卿補任による)、参議を拝命し、弾正大弼を兼ねた(注:公卿補任・皇胤紹運録・源氏系図による)。和は、従四位上相模守であった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。宗于は、兵部大輔・右京大夫となり、和歌に巧みであった(注:大和物語・拾芥抄による)。
是貞親王
¶是貞親王は、元慶八年、従四位上に叙せられた。まもなく播磨権守に任じられ(注:三代実録による)、左近衛中将となった(注:一代要記・皇胤紹運録による)。寛平三年、親王となり(注:○一代要記には五年とあるが、今は皇胤紹運録・尊卑分脈に従う)、三品に叙せられ(注:○一代要記では五年のこととする)、太宰帥となった(注:源氏系図・尊卑分脈による)。延喜三年七月、薨じた(注:日本紀略・一代要記・帝王編年記による。○案ずるに、日本紀略の一説には延長元年とあるが、いずれが正しいかわからない)。子の直幹(なおもと)は、源朝臣の姓を賜り、従四位上に叙せられ、丹波権守となった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)。
源近善
¶源近善(みなもとのちかよし)は、貞観の頃、信濃権守となった。元慶八年、是忠らが姓を賜って左京一条に隷したとき、近善はその戸頭(こちょう)とされ、まもなく従四位上を授けられた。仁和三年、越前権守に任じられ(注:三代実録による)、治部卿に遷り、従三位に進んだ(注:一代要記・尊卑分脈・源氏系図による)。延喜十八年七月、薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。子の師尚(もろひさ)・宗海(むねうみ)があった。師尚は、従五位上刑部大輔。宗海は、左衛門佐・検非違使・主殿頭であった(注:尊卑分脈による)。
源貞恒
¶源貞恒(みなもとのさだつね)は、はじめ名を貞経(さだつね)といった(注:公卿補任・一代要記による。○歴代皇紀には第三源氏とあるが、誤りである)。元慶七年、従四位下を授けられ、後に従四位上に進んだ。仁和元年、美濃守となった(注:三代実録・公卿補任による)。寛平の頃、右近衛中将に遷り、参議を拝命し、大蔵卿を兼ねた。九年、侍従・右衛門督を兼ね(注:○歴代皇紀には左衛門督とある)、検非違使別当となった。昌泰三年、相次いで従三位に進んだ。延喜二年、中納言を拝命した。六年、正三位を加えられた。八年、大納言に遷り、民部卿を兼ねた。八月、薨じた。年五十三であった(注:公卿補任による。○案ずるに、歴代皇紀・一代要記には五十二とある)。子の仲宣(なかのぶ)は、従四位上右衛門督であった(注:源氏系図・尊卑分脈による)。
源國紀
¶源国紀(みなもとのくにのり)は、従四位下に叙せられ、右京大夫となった。仁和三年、伊予権守となった(注:三代実録による)。後に正四位下に進み、大蔵卿に任じられた(注:一代要記・源氏系図・尊卑分脈による)。延喜九年九月、卒した(注:一代要記による。○案ずるに、扶桑略記の天暦七年の条に左近衛少将国紀とあり、おそらくこれと同一人物であろうが、他に明証がないので、これを採らない)。子の公忠(きみただ)・公望(きみもち)・公平(きみひら)があった(注:源氏系図・尊卑分脈による)。
¶公忠は、延喜・延長の間、蔵人・右少弁を歴任した。承平の頃、山城守を兼ね、右中弁に転じた。天慶の頃、従四位下を授けられ(注:○皇胤紹運録には正四位下とある)、近江守となり、右大弁を兼ねたが、病により職を辞した(注:歌仙伝による)。天暦二年十月、卒した(注:日本紀略・歌仙伝による。○尊卑分脈には天暦九年とあり、源氏系図には天慶九年とある)。年六十であった。滋野井弁(しげのいのべん)と称され、和歌に巧みであった(注:歌仙伝による)。
¶公忠は、性質として鷹狩りを好み、朝廷から退出するたびに常に馬を走らせ、中山まで行って狩りを楽しんだ。久世(くぜ)や交野(かたの)の鳥の味の違いをよく見分けることができ、ある人が羹(あつもの、吸い物)を作って試したところ、公忠はこれを誤りなく言い当てた。ある者がこれを帝に讒言して「公忠はもっぱら鷹狩りと猟犬にふけり、遊興を事としており、近侍にはふさわしくありません」と言ったが、帝は「公忠は公務を廃してはいない。暇な日に狩りを好むことの、何がいけないというのか」と言い、恩寵はいよいよ厚くなった(注:大鏡による)。
¶延喜の頃、仁寿殿の灯油が理由もなく乾いてしまい、帝はこれを怪しみ、鬼物の仕業ではないかと考えた。公忠は「私に確かめさせてください」と申し出て、ひそかに行って様子をうかがったところ、足音が聞こえた。公忠は躍り出てこれを蹴ると、何かが足に当たって逃げ去り、それ以後、怪異はやんだ。帝はこれを褒めた(注:今昔物語による)。
源元長
¶源元長(みなもとのもとなが)は(注:○源氏系図には元長を第一源氏とするが、これはおそらく実際には帝(光孝天皇)の長子であったためにこの説があるのであろう。しかし元長は帝の即位より先に卒しているので、この称号を持つことはありえず、これを採らない)、従四位上を授けられ、下野権守となった(注:一代要記・源氏系図による)。元慶七年、卒した(注:源氏系図・尊卑分脈による)。
源兼善
¶源兼善(みなもとのかねよし)は、貞観十一年、従四位下を授けられた。十二年、侍従となった。後に従四位上に進んだ。元慶三年四月、卒した(注:三代実録による)。
源名實
¶源名実(みなもとのなざね)は、従四位上に叙せられた(注:一代要記による)。帝(光孝天皇)がまだ即位前であった頃に卒した(注:一代要記・源氏系図による)。
源舊鑒
¶源旧鑑(みなもとのふるあきら)は(注:一代要記には職鑑とある)、貞観十二年、従四位下を授けられた。元慶八年、従四位上に進んだ。仁和二年、備前守となった(注:三代実録による)。左京大夫・大蔵卿を歴任し(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による)、正四位下に至った(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・一代要記による)。子の時忠(ときただ)・清聖(きよまさ)があった。時忠は、蔵人であった(注:源氏系図による)。
源篤行
¶源篤行(みなもとのあつゆき)。(原文にはこれ以上の記載がない。)
源最善
¶源最善(みなもとのもよし)。(原文にはこれ以上の記載がない。)
源音恒
¶源音恒(みなもとのおとつね)は、篤行・最善とともに、帝(光孝天皇)がまだ即位前であった頃に卒した。
源是恒
¶源是恒(みなもとのこれつね)は(注:○案ずるに、一代要記には是経とある)、従四位上に叙せられ、美濃権守となった(注:皇胤紹運録・一代要記・源氏系図による)。延喜五年七月、卒した(注:小右記の長和二年の条が引く延喜御記による。○一代要記には七年とある)。子がなく、大納言・源昇(みなもとののぼる)の子・衆望(しゅうぼう)を養って子とし、従四位上伊勢守を歴任させた(注:源氏系図による)。
源成蔭
¶源成蔭(みなもとのなりかげ)は、帝(光孝天皇)がまだ即位前であった頃に卒した(注:源氏系図による)。
源香泉
¶源香泉(みなもとのかおるずみ)は、従四位上に叙せられ、伊予権守となった(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)。子の弘遠(ひろとお)は、従五位下中宮大進であった(注:尊卑分脈・源氏系図による)。
源友貞
¶源友貞(みなもとのともさだ)は、従四位上に叙せられ、伊勢守となった(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・源氏系図による。○案ずるに、一代要記には伊予守とある)。長徳元年、卒した。子の貞頼(さだより)は、従五位上であった(注:尊卑分脈による)。
滋水清實
¶滋水清実(しみずのきよざね)は、はじめ源朝臣の姓を賜ったが、後に過失があり、皇籍を削られた。仁和二年、式部卿・本康親王、右大臣・源多らの奏請により、貞登の故事に準じて、改めて滋水朝臣の姓を賜り、右京一条に本貫を定め(注:三代実録による)、従五位下に叙せられた(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。
僧空性
¶僧・空性(くうしょう)は、元慶八年、時服・月俸に預かった(注:三代実録による)。