卷之二百十九 列傳第一百卌六
歌人二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
紀貫之
¶紀貫之(きのつらゆき)は、父を望行(もちゆき)といい、蔵人(くろうど)を務め、和歌で名を知られた人物であった。(注:「父」以下ここまでは望行についての記述である。)貫之は書をよくし、(注:紀氏系図による。)とりわけ和歌に優れ、その境地は妙技の域に達していた。(注:清案抄、八雲御抄、詠歌大概による。)延喜年間、御書所預(ごしょどころのあずかり)となった。(注:紀氏系図、古今和歌集序による。)その後、越前権少掾(えちぜんのごんのしょうじょう)、内膳(ないぜん)、典膳(てんぜん)、少内記(しょうないき)を歴任し、大内記(だいないき)に転じ、従五位下に叙せられ、加賀・美濃の介となった。延長年間には大監物(だいけんもつ)・右京亮(うきょうのすけ)を拝命し、(注:歌仙伝による。)土佐守(とさのかみ)となった。(注:『袋草子』はこれを延喜八年のこととするが、誤りである。)承平年間、任期を終えて都に帰った。(注:十訓抄、袋草子による。)天慶年間、玄蕃頭(げんばのかみ)となり、従五位上に進み、木工権頭(もくのごんのかみ)に遷り、(注:歌仙伝による。)従四位下に叙せられた。(注:近江日野の大嵩社に伝わる添慶八年の棟木の銘による。)天慶九年に没した。(注:歌仙伝、古今和歌集目録による。)
¶初めて病を得た貫之は、自らもう治らないだろうと思い、源公忠(みなもとのきんただ)に歌を贈った。「手に結ぶ、水に宿れる、月影の、有るか無きかの、世に社有りけれ」(手に掬った水に映る月の光のように、あるかないかもわからないこの世に、たしかに私は生きてきたのだなあ、の意)。貫之が亡くなると、公忠は歌を作ってこれを悼んだ。(注:袋草子による。)
¶かつて紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)とともに、勅命を受けて『古今和歌集』を撰進した。(注:本書の序、貫之家集、八雲御抄、勅撰次第による。)貫之はその序文を著し、これは和歌の大要を論じたものとして称えられている。(注:栄華物語、八雲御抄による。)撰集が成って奏上されると、特に勅旨により貫之の歌百首が選び入れられた。(注:顕昭古今集抄による。)また『万葉集鈔』五巻を撰した。(注:八雲御抄による。)その後、さらに勅命を受けて『新撰和歌集』を撰したが、まもなく土佐に赴任することとなり、都に戻ってから撰集が完成したものの、まだ奏上せぬうちに帝が崩御された。貫之はその序文で、時に間に合わず奏上できなかったことを悔い、言葉はまことに哀切であった。(注:新撰和歌集序、十訓抄、袋草子による。)著した紀行文一巻は『土佐日記』と名づけられ、(注:土佐日記による。)後世に伝わっている。
¶かつて紀伊(きい)に赴く途上、夜に和泉(いずみ)を通りかかったとき、乗っていた馬が地に伏して進まなくなった。貫之が不思議に思っていると、ある人が「ここには蟻通(ありとおし)の神がいらっしゃいます。今、無礼にも素通りしようとしたので、その怒りに触れたのではないでしょうか」と告げた。貫之は大いに驚き、急いで馬を下りて手を洗い口をすすぎ、和歌を詠んだ。「かき曇り、あやめも知らぬ、大空に、ありとほしをば、思ふべしやは」馬はすぐに進めるようになった。(注:貫之家集による。○袋草子や源俊頼の『無名抄』ではこの歌の詞句に異同があるが、ここでは詳しく注記しない。◎「ありとほし」は「有りと星」に「蟻通し」を掛けたものである。)貫之の家集は後世に伝わっている。後の人が歌仙を選ぶにあたり、貫之を右方(うがた)の第一とし、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)と対にした。(注:三十六人撰、袋草子による。)世に和歌の祖と称された。貫之が世に重んじられたことはこれほどであった。(注:源親房の古今集註による。)
¶子の時文(ときぶみ)は和歌に優れ、あわせて書もよくした。大膳大夫(だいぜんのだいぶ)・内蔵助(くらのすけ)を歴任し、従五位上に至った。貫之の娘は内侍(ないし)を務め、これも和歌に優れていた。(注:紀氏系図、作者部類を参照。)村上帝の御代、清涼殿の梅の木が枯れたため、帝は人を遣わして代わりに植えるべき梅の木を探させた。西京(にしのきょう)でこれを見つけたが、その家の主人は和歌を書いて木の枝に結びつけた。「敕なれば、いとも畏し、鶯の、宿はと問はば、如何に答えむ」帝はこれを見て不思議に思い、人を遣わして尋ねさせたところ、それはまさに内侍の家であった。帝は大いに悔やまれた。(注:大鏡による。『拾遺集』ではこの木は結局移植されなかったとする。)家集『紀家六帖』を著した。(注:袋草子による。)
¶貫之の甥は友則である。
紀友則
¶紀友則(きのとものり)。友則の父は有朋(ありとも)といい、内権少輔(ないごんのしょうふ)であった。(注:紀氏系図による。)友則は和歌に優れ、(注:紀氏系図、歌仙伝による。)貫之と並び称された。(注:顕昭古今集抄が引く能因家集序による。)寛平年間、宮中の歌合(うたあわせ)で友則は左方(さがた)に加わり、初雁(はつかり)の題で「春霞、霞て去にし、雁がねは、今ぞ鳴くなる、秋霧の上に」と詠んだ。講師(こうじ)が「春霞」の句を唱えたとき、右方の人々はその季節はずれを笑ったが、第二句を唱えるに至って、笑っていた者たちは黙り込んでしまった。(注:古今著聞集、十訓抄による。○顕昭古今集抄はこの歌を載せ、凡河内躬恒の子の作とするが、その根拠は詳らかでない。)まもなく土佐掾(とさのじょう)となった。昌泰年間の初め、少内記(しょうないき)に任じられた。(注:歌仙伝、古今和歌集目録による。)延喜年間の初め、大内記(だいないき)に転じ、(注:歌仙伝、古今和歌集目録、勅撰次第による。)六位を授けられた。(注:作者部類による。)『古今和歌集』の撰進に加わった。(注:本書の序、八雲御抄、勅撰次第による。)家集が後世に伝わっている。
凡河內躬恒
¶凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は和歌に優れ、紀貫之、壬生忠岑らと並び称された。(注:八雲御抄による。)寛平年間、甲斐少目(かいのしょうさかん)となった。(注:古今和歌集序、勅撰次第による。寛平年間とするのは歌仙伝による。)醍醐帝はこれを召して御書所(ごしょどころ)に伺候させた。(注:大鏡による。)延喜年間、御厨子所(みずしどころ)に伺候した。(注:家集による。)丹波権目(たんばのごんのさかん)を経て、(注:歌仙伝による。)淡路権掾(あわじのごんのじょう)となり、(注:作者部類による。)和泉大掾(いずみのだいじょう)に遷り、(注:歌仙伝、大鏡裏書による。)六位を授けられた。(注:大鏡裏書による。○作者部類は五位とする。)『古今和歌集』の撰進に加わった。(注:本書の序、八雲御抄、勅撰次第による。)帝はかつて躬恒を階(きざはし)の下に召して、「月を弓弦(ゆづる)に喩えるとは、どういう意味か。お前が歌を作って答えよ」と問われた。躬恒はただちに詠んだ。「照月を、弓張としも、言ふ事は、山邊を指して、いればなりけり」帝は大いに感嘆して賞賛し、御衣を賜った。(注:大鏡、大和物語による。)躬恒の家には桜の木があり、花が満開になるたびに客が門にあふれたが、躬恒は世の人情のうつろいやすさを感じ、花が散ってしまえばもう誰も訪れなくなるだろうと思い、歌を作った。「我が宿の、花見がてらに、來る人は、散りなむ後ぞ、戀しかるべき」世にこの歌が語り伝えられている。(注:古今和歌集目録による。)
壬生忠岑
¶壬生忠岑(みぶのただみね)は、従五位下安綱(やすつな)の子である。(注:作者部類による。)和歌に優れていた。(注:八雲御抄、大和物語による。)はじめ右近衛大将(うこんえのだいしょう)藤原利国(ふじわらのとしくに)の随身(ずいじん)を務めた。利国はあるとき酒に酔い、左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)のもとに立ち寄ったが、時刻はすでに夜も更けていたため、時平は不審に思って問いただした。忠岑は松明(たいまつ)を掲げて階段の下にひざまずき、歌をもって答えとした。「喜鵲の、渡せる橋の、霜の上を、夜半に踏分、殊更にこそ」時平は大いに喜び、酒宴を開いて夜明けまで過ごし、忠岑に品物を与えた。(注:大和物語による。)御書所(ごしょどころ)に伺候し、(注:大鏡による。)左近衛番長(さこんえのばんちょう)、(注:源俊頼の『無名抄』による。)右衛門府生(うえもんのふしょう)、(注:古今和歌集序、作者部類による。)御厨子所預(みずしどころのあずかり)・摂津大目(せっつのだいさかん)を歴任し、(注:古今和歌集目録による。)六位を授けられた。(注:作者部類による。)『古今和歌集』の撰進に加わった。(注:本書の序、八雲御抄、勅撰次第による。)忠岑はかつて和歌の十体(じったい)を定めた。(注:八雲御抄、清案抄、奥義抄による。)家集が後世に伝わっている。後鳥羽帝の御代、側近の臣に『古今集』の秀歌を尋ねられたとき、藤原家隆(ふじわらのいえたか)と藤原定家(ふじわらのさだいえ)はともに忠岑の「有明の、由緣無く見えし、別れより、曉ばかり、憂き物は無し」の歌を挙げ、集中第一の歌とした。(注:柿本庸材抄による。)子は忠見(ただみ)。
壬生忠見
¶壬生忠見(みぶのただみ)。忠見は(注:「見」はあるいは「実」とも書く。)、はじめ摂津におり、家は元来貧しかったが、早くから和歌で名を知られた。醍醐帝がこれを召したとき、忠見は粗末な衣を着て蔵人所(くろうどどころ)に伺候し、帝より御製(ぎょせい)の和歌を賜った。「見しかども、何とも知らず、難波潟、何の夜にて、歸りにしかば」忠見は答えの歌を奉った。「住吉の、松と仄かに、聞きしかば、滿ちこし潮や、寄る歸りけむ」帝はまた忠見を御厨子所に伺候させようとお考えになったが、まだ命じておられなかったところ、忠見は和歌を奉った。「櫻花、高き梢の、靡かずば、歸りやしなむ、折侘びぬ取て」帝は答えの歌を賜った。「折り詫びて、歸らむ物か、岸影の、山櫻は、雲居なりとも」そこで忠見は御厨子所に伺候するよう詔を受けた。(注:袋草子、家集を参照。○この二書は歌の詞句に相違があるが、ここでは家集に従った。)天暦年間、定額膳部(じょうがくのぜんぶ)となった。(注:歌仙伝が引く天暦八年五月の御記による。)天徳年間の初め、摂津大目(せっつのだいさかん)となり、(注:歌仙伝による。○作者部類は「大目」を「守」とするが、誤りである。)六位を授けられた。(注:作者部類による。)宮中で歌合が催された折、忠見は平兼盛(たいらのかねもり)と組み合わされた。忠見の歌は「戀すてふ、我が名はまだき、立ちにけり、人知れずこそ、思ひそめしか」というもので、忠見は深くこれに自信を持っていた。兼盛の歌は「忍ぶれど、色にいでにけり、我が戀は、物や思ふと、人のとふまで」というもので、二首はどちらも優れた出来であった。左大臣藤原実頼(ふじわらのさねより)が判者(はんじゃ)を務めたが、優劣を決めることができなかった。歌の披講に至って、帝はしきりに兼盛の歌を口ずさまれ、最終的に兼盛の勝ちとされた。忠見は大いに落胆し、ついに悲しみのあまり亡くなった。(注:沙石集、袋草子を参照。○『拾遺和歌集』はこれを天暦の歌合とする。)家集が後世に伝わっている。
大中臣能宣
¶大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)は、祭主(さいしゅ)頼基(よりもと)の子である。(注:大中臣系図、作者部類による。)一族は代々和歌に優れていたが、能宣に至って最も名高くなった。(注:八雲御抄による。)はじめ蔵人所に伺候した。天暦年間、その功労により讃岐権掾(さぬきのごんのじょう)となった。(注:歌仙伝、大中臣系図による。)坂上望城(さかのうえのもちき)、源順(みなもとのしたごう)、紀時文(きのときぶみ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)とともに『後撰和歌集』を撰し、世に梨壺(なしつぼ)の五人と称された。(注:袋草子、八雲御抄、勅撰次第による。)天徳年間、神祇少祐(じんぎのしょうゆう)となり、大祐(だいゆう)に転じた。安和年間の初め、少副(しょうふく)に遷った。天禄年間、従五位下を授けられ、大副(だいふく)に転じて祭主となった。(注:祭主となった年次は詳らかでないため、ひとまずここに記す。)その後、位を重ねて正四位下に進んだ。正暦二年に没した。(注:歌仙伝による。大中臣系図を参照。)享年七十であった。(注:歌仙伝による。)
¶能宣はかつて敦実親王(あつみしんのう)の子の日(ねのひ)の宴で歌を詠んだ。「千年まで、限れる松も、今日よりは、君に引かれて、万代やへん」能宣は深くこれに自信を持ち、頼基にこのことを告げた。頼基はしばらく口ずさんでいたが、急に顔色を変え、声を荒げて「もしいつか昇殿を許され、子の日の宴に侍ることがあったなら、いったいどんな言葉でこれを言祝ぐつもりか」と言い、枕を取って投げつけた。能宣は恐れ入って退いた。(注:家集、袋草子、十訓抄を参照。)子は輔親(すけちか)。
大中臣輔親
¶大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)。輔親は字(あざな)を槐(かい)といった。従五位下に叙せられ、父の跡を継いで祭主となり、神祇伯(じんぎはく)に任じられた。寛弘年間、位を重ねて従四位上に進んだ。(注:中古歌仙伝による。)長元七年、伊勢に使いした。このとき神宝殿(しんぽうでん)の松の木の間に光るものがあった。輔親が探ってみると碧玉(へきぎょく)の珠を得たので、都に戻ってこれを献上した。(注:扶桑略記、左経記、袋草子による。)帝は特にこれを賞して従三位を授けられた。大中臣氏で三位に昇った者はこれまでおらず、世の人々はこれを栄誉とした。(注:左経記による。)長元九年、正三位に叙せられた。(注:公卿補任による。)長暦二年、伊勢に使いする途中、病を得て道半ばで没した。享年八十五であった。(注:大中臣系図、中古歌仙伝による。伊勢に使いしたことは袋草子による。)
¶輔親は和歌に巧みで、その邸には泉水や庭石の見事な趣があった。天橋立(あまのはしだて)を模してつくり、南側の扉を閉めずに、月の光を屋内に招き入れるようにしていた。世の人々はその風雅な趣を称えた。(注:十訓抄、袋草子による。)
清原元輔
¶清原元輔(きよはらのもとすけ)は、内蔵允(くらのじょう)深養父(ふかやぶ)の孫で、下総守(しもうさのかみ)春光(はるみつ)の子である。(注:歌仙伝、舟橋家所蔵の清原氏系図による。)一族は代々和歌に優れていたが、元輔に至って最も名高くなった。(注:八雲御抄、今昔物語による。)天暦年間、河内権大掾(かわちのごんのだいじょう)となり、(注:歌仙伝、勅撰次第による。)大中臣能宣らとともに和歌所(わかどころ)の寄人(よりゅうど)となった。(注:後撰和歌集奥書による。)『万葉集』に訓点(くんてん)を施し、(注:八雲御抄、袋草子による。)また『後撰和歌集』を撰した。(注:八雲御抄、袋草子、勅撰次第による。)応和・康保年間、位を重ねて中監物(ちゅうけんもつ)となり、大蔵少丞(おおくらのしょうじょう)・民部大丞(みんぶのだいじょう)を歴任した。安和年間、従五位下を授けられ、河内権守(かわちのごんのかみ)となり、周防守(すおうのかみ)に遷って鋳銭長官(じゅせんのちょうかん)を兼ねた。天元年間、従五位上に進んだ。寛和二年、肥後守(ひごのかみ)に任じられた。正暦元年に没した。享年八十三であった。(注:歌仙伝による。)家集が後世に伝わっている。