卷之二百廿一 列傳第一百卌八

歌人四

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次16
  1. 藤原基俊
  2. 僧仙覺
  3. 源俊賴
  4. 藤原俊成
  5. 僧寂蓮
  6. 藤原定家
  7. 藤原為家
  8. 京極為兼
  9. 藤原為氏
  10. 藤原為世
  11. 藤原為相
  12. 藤原家隆
  13. 藤原貞宗
  14. 僧淨辨
  15. 慶運
  16. 卜部兼好

藤原基俊

藤原基俊(ふじわらのもととし)は、右大臣俊家(としいえ)の子である。(注:尊卑分脈による。)文才があり、和歌を得意とした。当時、源俊頼(みなもとのとしより)が和歌で世に名を知られていた。基俊は俊頼の下に立つことを望まず、自ら独自の流儀を打ち立てて一家をなし、そのため二人は並び称されるようになった。和歌会があるたびに、しばしば判者(はんじゃ、注:歌合の判定役)を務めた。しかし人となりは尊大で世間を見下し、他人の欠点を指摘するのを好んだため、これによって非難を受けた。(注:今鏡、十訓抄、八雲御抄、鴨長明無名抄を参照してまとめた。一家をなしたという記述は八雲御抄・尊卑分脈による。)

琳賢(りんけん)という僧がいて、和歌を好み、多くの朝臣と交遊していた。かねてから基俊を快く思わず、常に彼を陥れようとしていた。あるとき、密かに後撰集の中から歌二十首を抜き出して基俊に示し、「ある人が歌合を行うので、あなたに判定していただきたい」と偽って言った。基俊はうっかり出典を忘れており、勝手な批評を並べ立てた。琳賢はこれを人に語って、「基俊は昔の歌人よりも優れていて、勅撰集の歌にまで駁論を加えるほどだ」と言いふらした。琳賢の仲間もこれに調子を合わせたので、基俊はこれを聞いて大いに悔やみ恨んだ。(注:鴨長明無名抄による。)

保延四年、剃髪して法名を覚舜(かくしゅん)といった。(注:尊卑分脈による。○台記の康治元年正月の条に、「近年、基俊・師俊が相次いで没した」とあるので、その没年はおそらく永治・康治の間であろう。しかし今のところ確かめる術がない。)基俊は家柄と名望こそ人々に重んじられたが、ただ才能を頼みに他人を見下したため、出世することはなかった。従五位下・左衛門佐で生涯を終えた。(注:今鏡による。尊卑分脈も参照。)著書に『悦目抄』『新三十六歌仙』『新撰朗詠抄』がある。(注:八雲御抄、仁和寺書籍目録による。)

基俊は万葉集の学問にも通じていた。かつて村上天皇(むらかみてんのう)が源順(みなもとのしたごう)らに万葉集の訓読を命じ、その後基俊がさらに訓点を加えた。(注:詞林採葉抄による。)漢字と国字(仮名)を二行に並べて書き、初学者の便宜を図った。(注:万葉集の奥書による。)その後、亀山天皇(かめやまてんのう)の時代に仙覚(せんがく)という僧がいて、彼もまた万葉集の学問に通じ、これに訓点を施したという。(注:詞林採葉抄による。)

僧仙覺

仙覚は、その姓の系統や出身地は詳らかでない。初め鎌倉の新釈迦堂に住み、権律師(ごんのりっし)に任ぜられ、後に武蔵国比企郡(ひきぐん)に移り住んだ。(注:仙覚抄による。)和歌を得意とし、万葉集に訓点を施すにあたっては古来の訓読を改め、多くの新見を示した。書を完成させて後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)に献上したところ、上皇は大いに感嘆して称賛し、勅命によってその和歌を続古今集に収録させた。(注:詞林採葉抄による。)藤沢(ふじさわ)の僧・由阿(ゆあ)がその学問を伝え、門弟を集めて教授した。(注:落書露顕による。)著書に『詞林採葉抄』があり、(注:正徹物語による。)世に行われている。

源俊賴

源俊頼は、大納言経信(つねのぶ)の子である。堀河(ほりかわ)・鳥羽(とば)・崇徳(すとく)の三代の天皇に仕え、右近衛少将に任ぜられ、木工権頭(もくのごんのかみ)・左京権大夫を兼ね、従四位上に叙せられた。多芸多才で、(注:中右記、尊卑分脈による。)とりわけ和歌に秀でていた。苦心して思いを練り、軽々しく言葉を発することはなかった。何か感じ入るところがあれば、たいてい書き留めて蓄えておき、折を見てそれを用いた。そのため、いい加減で拙い失敗がなかった。発想は斬新で、作風は温雅であり、当時の人々はこぞって彼を歌壇の宗匠と仰いだ。(注:八雲御抄、今鏡、鴨長明無名抄を参照してまとめた。)

藤原実行(さねゆき)がかつて藤原長実(ながざね)と、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)と紀貫之(きのつらゆき)のどちらが優れているかを論じ合ったが、長らく決着がつかなかった。長実がこれを白河上皇(しらかわじょうこう)に尋ねたところ、上皇は「私にどうしてたやすく判定できようか。俊頼に尋ねるのがよい」と言った。長実がこれを俊頼に告げると、俊頼はうなずいて「躬恒は軽んじてはならない」と言った。長実が「それでは貫之が劣るということか」と問うと、俊頼はまた「躬恒は軽んじてはならない」とだけ答えた。俊頼には深い考えがあり、はっきりと言い切ることを望まなかったのである。(注:鴨長明無名抄による。)

藤原顕季(あきすえ)が柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を祭った際、居並ぶ人々はみな敬意を表した。顕季は俊頼に「あなたは当代随一の歌人であるから、最初の献杯を捧げるのがふさわしい」と言った。彼が人々からこれほど推重されていたのである。(注:古今著聞集、十訓抄による。)およそ朝廷や諸家の歌合では、多くの場合俊頼が判者に推された。俊頼は常々「和歌を判定する者は、十の徳を備えていなければ務まらない」と言っていた。いわゆる徳望・家柄・明晰な判断力・強い記憶力といったものである。(注:十訓抄による。)

天治(てんじ)の初め、勅命を奉じて『金葉和歌集』を撰進した。(注:袋草子、八雲御抄、今鏡による。)俊頼はもともと連歌を好まず、和歌の本質を損なうものと考えていた。しかし『金葉集』を撰するに至って、連歌を多く収録した。また高陽院(かやのいん)の命により、手本とすべき和歌を集めて奉った際にも、連歌を収めた。おそらく人の美点を漏らすまいとしたのであろう。(注:今鏡による。)

当時、藤原基俊もまた和歌に優れ、俊頼と互いに才を競い合い、折り合わなかった。(注:鴨長明無名抄、八雲御抄による。)基俊はかつて人に「俊頼は文才がないのに和歌が上手い。まるで駿馬が走るのが上手いようなもので、まして後継ぎがいないのだから」と語ったことがある。俊頼はこれを聞いて言った。「大江文時(おおえのふみとき)や大江朝綱(あさつな)のような者は、学識が広く深いにもかかわらず、優れた歌を詠んだとは聞かない。躬恒や貫之は、詩人としての評判こそ聞かないが、それでも和歌が優れることの妨げにはならなかった。基俊の言葉は、事実を曲げたものではないか」。基俊は自らの才を恃んで高く自負し、歌の判定をする際には常に口を極めて論駁した。しかし才が言葉に追いつかず、時に粗雑な失策があった。俊頼は生まれつき温厚な人柄で、多くの人に慕われていた。そのため、世間の評判はますます俊頼に集まった。(注:鴨長明無名抄による。)

和歌の依頼を受けるたびに、少し難しいと感じると、まず家人や子弟に作らせておき、その中から言葉や趣向の良いものを選んで手を加え、自作としていた。そのため、俊頼の優れた歌は非常に多かった。(注:後鳥羽院口伝による。)

かつて同僚と大原(おおはら)に遊んだ際、途中で急に馬を下りた。人々が怪しんで尋ねると、俊頼は「ここは良暹法師(りょうぜんほうし)の旧居の跡だ」と答えた。人々はみな馬を下りた。良暹は和歌で知られた人物である。俊頼の篤い志はこのようなものであった。(注:袋草子による。)著書に『山木髄脳』『無名抄』がある。(注:鴨長明無名抄、仁和寺書籍目録による。)

子の僧俊恵(しゅんえ)もまた和歌を得意とした。(注:尊卑分脈、鴨長明無名抄による。)父の作風を色濃く受け継ぎ、当時の人々から推重された。(注:鴨長明無名抄による。)『歌苑抄』『歌拱撰合』を著した。(注:仁和寺書籍目録による。)藤原俊成(としなり)はかつて「俊頼の歌は練り上げられて精巧であり、欠点を指摘できるところがない。俊恵の歌もまた極めて巧みではあるが、父に比べると遠く及ばない」と語った。(注:鴨長明無名抄による。)

藤原俊成

藤原俊成は、権中納言俊忠(としただ)の子である。初名を顕広(あきひろ)といった。(注:尊卑分脈、閨中抄による。○この二書はいずれも「顕頼(あきより)の養子となった」とするが、尊卑分脈では「後に実家の系統に戻った」とあるので、今はこの説を採らない。)幼い頃から聡明で、和歌を得意とした。藤原基俊に師事しようと望み、かつてその家を訪ねた。ちょうど中秋の頃で、基俊が月を賞でて連歌を作り、自ら上の句を詠じたところ、俊成がこれに下の句を続けて完成させた。基俊は大いに褒め称え、ついに師弟の約束を結んで『古今集』の秘伝を授けた。やがて俊成の名声はますます高まっていった。(注:鴨長明無名抄による。)

俊成は常々「歌の良さというものは、大づかみな趣を得られるかどうかにあるだけで、細かな技巧に走るべきではない。たとえば絵師が物を描くのに、いたずらに色彩を華美に飾り立てれば、かえって人に嫌われるようなものだ。おのずからにして味わい深いものこそが、歌の本質を得たものである」と語っていた。(注:清案抄による。)平生、和歌を作るときには、古びた清らかな衣を身につけ、桐の火桶を抱えて静かに座り、何の感情も表に出さなかった。そして完成した歌は、雅やかで淡く深みがあり、言葉がこなれていて情趣が婉曲であった。後鳥羽天皇(ごとばてんのう)はこれを最も愛好した。(注:後鳥羽院口伝、正徹物語による。)

官位は皇太后宮大夫・正三位に至り、(注:公卿補任による。)世に五条三位(ごじょうのさんみ)と称された。(注:鴨長明無名抄、東常縁文書による。)安元(あんげん)年間に官を辞し、まもなく剃髪して、(注:公卿補任、尊卑分脈による。)法名を釈阿(しゃくあ)といった。(注:尊卑分脈による。)

かつて後白河法皇(ごしらかわほうおう)の詔を奉じて『千載和歌集』を撰した。文治二年、書が完成して奏上した。(注:八雲御抄、勅撰次第、東常縁聞書による。○明月記では文治四年とする。)

もともと源俊頼と藤原基俊は互いに折り合わず、それぞれの門弟が党派を作って互いに相手をけなし合っていた。俊成は基俊については学識の深さを称え、俊頼については作風の趣を取り入れた。(注:八雲御抄、鴨長明無名抄を参照してまとめた。)この『千載集』の撰にあたっては、俊頼の歌を数多く採録した。ある人が「俊頼はあなたの師が嫌っていた相手ではないか」と言うと、俊成は「私はただ歌そのものを取るだけで、その人物がどうであるかには関わりがない」と答えた。当時の人々はその公平さを称えた。(注:兼載雑談による。)

俊成は若く盛んな頃、藤原清輔(きよすけ)とともに当代の判者であった。清輔は表面は謙虚に見えても内心は頑固で、他人から反論されると顔色を変えて激しく言い返したため、人々は容易に賛否を口にできなかった。俊成は人柄が温厚で、反論を受けても素直にこれを受け入れ、人を拒む様子を見せることがなかった。(注:鴨長明無名抄による。)その批評の言葉は、世に手本として伝えられた。(注:八雲御抄、鴨長明無名抄による。)

晩年に至って、しみじみと悔い改めて言った。「私は才能もないのに、これまで数多くの歌を判定してきた。あるいは軽重の判断を誤ったこともあっただろう。もし先賢が知れば、何と言うであろうか。その上、老いて衰え、朝に聞いたことを夕方には忘れてしまうので、根拠を誤って引くこともあろう。それでもなお自省せず、自分ひとりの勝手な考えで歌の優劣を定めるようなことがあってよいものか。今後は二度と判定の言葉を記すまい」。(注:御裳濯川歌合序による。)

しかし高齢に至っても精神は衰えず、耳目も聡明で、なお参内することができた。しばしば和歌会に侍り、天皇はこれを大変厚く遇した。建仁三年、九十歳になり、体力が衰えて参内できなくなった。天皇はこの上ない栄誉を与えようと、仁和(にんな)の頃の先例にならって和歌所で祝賀の宴を設け、屏風と褥(しとね)を座として用意させ、子らが俊成を助けて殿上に上らせた。天皇御製の和歌と鳩杖(はとづえ)を賜り、当時、これを異例のこととした。(注:九十賀記による。)

元久元年、薨去した。享年九十一。(注:尊卑分脈による。)著書に『古来風体抄』がある。(注:八雲御抄、十訓抄による。)家集を『長秋詠藻』という。(注:東常縁文書による。)子に成家(なりいえ)・定家(さだいえ)がいる。成家は従三位兵部卿に至った。(注:尊卑分脈による。)

僧寂蓮

僧寂蓮(じゃくれん)。俊成の弟である僧俊海(しゅんかい)、その俊海の子が定長(さだなが、後の寂蓮)である。(注:尊卑分脈による。)幼くして優れた才があり、俊成が引き取って養子とした。中務少輔(なかつかさのしょう)に任ぜられた。定家が生まれるに及んで、その地位を避けて出家し、名を寂蓮と改めた。和歌に優れることで世に知られた。

このころ、僧顕昭(けんしょう)もまた和歌に自負を持ち、寂蓮と親しく交わっていた。顕昭は学識こそまことに優れ広かったが、詩的な才覚においてはいくらか及ばなかった。寂蓮は学問こそなかったが、格別に妙技を発揮した。顕昭は「和歌という芸は、さして難しいものではない。寂蓮は学問がなくても、なおこれをよくする」と言った。寂蓮は「天下に和歌より難しいものはない。顕昭ほどの博学の人でも、なおこれをよくできないのだから」と言い返し、顕昭は答えることができなかった。(注:兼載雑談による。)定家はもとより寂蓮の歌を重んじており、彼が亡くなったときには大いに惜しみ悲しんだ。(注:明月記による。)

藤原定家

定家は、治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の頃、正五位下に叙せられた。(注:公卿補任による。)文治元年、殿上で源雅行(まさゆき)と口論となり、燭台で彼の頬を打ったため、除籍の処分を受けた。(注:玉海による。)父の俊成はこれを深く憂い、歌を作ってその心情を託した。後白河法皇はこれを聞いて哀れみ、まもなく本来の官位に復させた。(注:千載和歌集、十訓抄による。)

文治五年、左近衛少将に任ぜられ、因幡権介(いなばのごんのすけ)・安芸権介を歴任し、正四位下に叙せられた。建仁(けんにん)年間には左近衛権中将に任ぜられ、美濃介(みののすけ)を兼ねた。(注:公卿補任による。)

定家は早くから和歌で名を上げており、(注:僧西行が定家に贈った書状、宮河歌合跋、清案抄による。)後鳥羽上皇はかつて彼を小御所に召して和歌を判定させ、面と向かって「そなたをここまで呼び寄せたのは、朕がそなたを軽んじていないからだ。存分に思うところを尽くし、遠慮するところがあってはならない。もし知っていながら言わないのであれば、朕がそなたを召した本意ではない」と諭した。定家はこの厚遇に深く感じ入った。(注:明月記による。)

元久の初め、上皇の勅命により源通具(みちとも)・藤原有家(ありいえ)・家隆(いえたか)・雅経(まさつね)とともに『新古今和歌集』を撰した。(注:○本書の序、明月記、八雲御抄、東鑑を参照してまとめた。)各部の巻頭には必ず昔の歌人の歌を置くこととしたが、上皇は定家・家隆らの作を部の巻頭に置かせ、世間はこれを栄誉とした。承元(じょうげん)の初め、上皇は当代の名だたる歌人たちに『最勝四天王院障子名所歌』を作らせ、自らその出来を吟味した。定家の作は最も多く採用された。(注:明月記による。)

建暦元年、従三位に叙せられた。建保(けんぽう)年間には参議に任ぜられ、治部卿となり、正三位に進んだ。まもなく民部卿に転じた。貞応(じょうおう)元年、参議を辞した。安貞元年、正二位に進んだ。定家は生来かなり気が焦りやすく、出世を急ぐ性質であった。もとより才気に自負を持ち、常に不遇を嘆き、恨みがましい言葉がしばしば歌に表れた。(注:明月記、藤川百首による。)父俊成は正三位で官途を終えたが、定家がそれを超えて正二位に叙せられるに及んで、「臣下の極位に、これほどの幸運が及ぼうとは」と大いに喜んだ。(注:明月記による。)

貞永(じょうえい)元年、権中納言に任ぜられ、まもなく帯剣を許された。(注:公卿補任による。)後堀河天皇の勅命により『新勅撰和歌集』を撰した。(注:本書の序、勅撰次第、八雲御抄による。)このとき、天皇には譲位の意向があった。定家はこれを知り、急いで編纂を成し遂げようと大変な労力を注ぎ、書が完成すると奏上した。(注:○増鏡による。明月記の文暦元年八月七日の条には「撰集はまだ完成していなかったが、大喪(天皇崩御)に遭ってしまった。命が違えられてしまった以上、稿を残しても無益である」として、勅撰の草稿二十巻をことごとく中庭で焼き捨てたとある。しかし、撰集はもともと詔によって始められたものであるから、私的に焼き捨ててよいものではなく、この記述にはなお疑わしい点がある。また『新勅撰和歌集』の序にも「この年に奏上した」とあるため、今は本書(勅撰次第)の説に従う。明月記の貞永・文暦の間の記述は欠落が多く、今は確かめようがない。)

天福元年、剃髪して名を明静(みょうじょう)と改めた。仁治二年、没した。享年八十。世に京極中納言(きょうごくちゅうなごん)と称された。(注:公卿補任による。)

かつて嵯峨(さが)の小倉山に草庵を設け、休息と逍遥の場とし、時折そこに住んでいた。(注:明月記、続古今和歌集、風雅和歌集による。)定家は史書や伝記にも広く通じ、また漢詩にも優れていた。(注:明月記による。)そして和歌の才は、生まれ持った天性によるものであった。自在に筆を走らせ、詳細かつ精妙を極めた。加えて家に代々伝わる学問の淵源があり、その奥義や秘伝を極め尽くさないところがなかった。(注:正徹物語、古今和歌集童蒙抄による。)

自宅で歌を作るときには、必ず南に面する部屋を開け放って遠くを望めるようにし、衣服を正して端座して言った。「日頃から清らかに慎んだ状態でこれに慣れておけば、たとえ天皇の御前であっても取り乱すことはない」。(注:正徹物語による。)また「およそ和歌を詠もうとするときには、まず『故郷有母秋風涙、旅館無人暮雨魂、蘭省花時錦帳下、盧山雨夜草庵中』(注:白居易の詩句)の句を詠んでみるとよい。そうすれば、心構えがおのずと高く妙なるものになる」とも言った。彼の心の用い方の丹念さはこのようなものであった。(注:清巌茶話による。)

このころ、和歌を詠むことが大いに盛んになり、作者が数多く輩出したが、定家はこれらを取るに足らないものと見なしていた。かつて藤原良経(よしつね)に書を贈って、「藤原季経(すえつね)のような者と、どうして和歌を論じるに足りようか」と言った。季経はこれを見て大いに怒り、源通親(みちちか)を通じて後鳥羽上皇に讒言したため、これによって定家は疎んじられ退けられたという。(注:明月記、後鳥羽院口伝を参照してまとめた。)

上皇はかつて「定家の才学は並ぶ者がないが、心根はかなり正しくない。何かを推薦し評価するとなると、私情を交えずにはいられない。その上、自分を高く自負して、当代の人々を見下している。人がその歌を褒めても、自分の得意作でなければ、たちまち不機嫌な顔つきになる」と言い、また「定家の歌は、他人がまねのできるものではない。なぜなら、もっぱら流麗さを重んじ、意味内容を主としていないからだ。彼は人並み外れた才によって構成を巧みにしているからこそ、その美しさを成し遂げられるのである。もし骨力の弱い者がこれをまねれば、味気ないものになるだろう」とも言った。(注:後鳥羽院口伝による。)

定家はかつて天智天皇から当代までの歌人およそ百人の和歌を各一首ずつ選び、これを書き記して人に与えたことがあった。(注:明月記による。)世にこれを『百人一首』という。その他の著書に『詠歌大概』『秀歌大体』『万時顕注密勘』『毎月抄』などがある。(注:正徹物語、古今和歌集童蒙抄、耳底記を参照してまとめた。○『未来記』『雨中吟』『三五記』『僻案抄』などの書物は、あるいは定家の著作とされることもあるが、いずれも仮託された偽作と思われるため、今は採らない。また『和海抄』には「定家は源氏物語の中の難読箇所に注解を加え、これを『奥入』と名づけた」とあるが、『仁和寺書籍目録』には「『奥入』は藤原伊行(これゆき)の著作で、定家はその注に手を加えただけである」とあり、どちらが正しいか分からない。)家集を『拾遺愚草』といい、(注:東常縁文書による。)日記を『明月記』という。(注:明月記、正徹物語による。)今も世に行われている。子に為家(ためいえ)がいる。(注:尊卑分脈による。)

藤原為家

藤原為家。為家は、二十歳あまりになっても、和歌の要領をつかめずにいた。定家はしばしば彼を叱責し、為家は大いに恥じて、日吉社(ひえしゃ)に参詣して神の助けを祈った。すると突然、方寸(四方一寸ほど)の紙がひらひらと袖に落ちてきて、見ると「道」の字が書かれていた。為家は大いに喜び、これを神のお告げと考えた。七日七晩留まって和歌千首を作った。帰ってから、定家と慈鎮(じちん)がその歌を見て、大いに称賛した。これより才覚は日に日に進んでいった。(注:○東常縁文書による。清案抄には次のようにある。為家は自分の歌があまりに拙く、家の名声を落とすことを恐れて、出家して世を逃れようと考え、日吉社に赴いて僧慈鎮にその心情を告げた。慈鎮が年齢を尋ねると、為家は「二十五です」と答えた。慈鎮は「まだどうなるか分からない。数年学問に励んで、それでも成果がなければ世を捨てても遅くはない」と言った。為家は感じ入って発憤し、家に帰って和歌千首を作り、五日で仕上げた。定家はこれを見て大いに感嘆した。これより深く和歌の学問に思いを致し、名声は日々高まって、ついに世の宗匠となった。)

嘉禄(かろく)の初め、蔵人頭(くろうどのとう)に補せられ、左近衛中将を兼ねた。まもなく参議に任ぜられ、従三位に進んだ。嘉禎(かてい)年間には権中納言に任ぜられ、正二位に叙せられ、民部卿を兼ねた。仁治二年、権大納言に遷った。(注:公卿補任、尊卑分脈による。)宝治(ほうじ)年間、後嵯峨上皇の勅命を奉じて『続後撰和歌集』を撰した。正元(しょうげん)年間には、また『続古今和歌集』を撰した。(注:勅撰次第による。)弘長(こうちょう)年間には、また上皇の勅命を奉じて藤原実氏(さねうじ)・家良(いえよし)らとともに仙洞(せんとう)百首を詠み、これを『七玉集』と名づけた。(注:七玉集による。)

康元元年、剃髪して名を融覚(ゆうかく)と改めた。世に民部卿入道(みんぶきょうにゅうどう)、また中院禅門(なかのいんぜんもん)と称された。建治元年、薨去した。享年七十九。(注:尊卑分脈、公卿補任、冷泉家系図、清案抄を参照してまとめた。)

為家はかつて人を教え諭して「およそ和歌を詠むのは、危うい橋を渡るようなものだ。左右を振り返ってはならない」と言い、また「たとえるなら幾重もの塔を建てるようなもので、基礎から始めて、必ず下の句に心を留めるべきだ」とも言った。(注:清案抄による。)晩年には思索を怠るようになり、そのため常に連歌を好んで作った。(注:○小夜寝覚による。『筑波問答』ではこれを定家のこととしている。)

また蹴鞠(けまり)にも通じていた。後鳥羽上皇からその秘伝を授けられた。(注:遊庭秘抄による。)亀山天皇が蹴鞠の会を催した際、為家もこれに加わった。特別に紋のない燻革韈(くんかわのしとうず、注:燻した革の足袋)を履くことを許され、当時の人々はこれを栄誉とした。(注:雲井の春による。)

子に為氏(ためうじ)・為教(ためのり)・為相(ためすけ)がいる。為教は従二位右兵衛督(うひょうえのかみ)で、子に為兼(ためかね)がいる。(注:公卿補任、冷泉家系図による。○為教は藤原為家の三男で、京極家の祖である。)

京極為兼

京極為兼。正応(しょうおう)年間、従二位権中納言に至った。まもなく正二位に進んだ。永仁(えいにん)六年、事件に連座して佐渡に流された。嘉元元年、召還された。延慶(えんきょう)三年、権大納言に任ぜられた。(注:公卿補任、冷泉家系図による。)正和二年、剃髪して名を蓮覚(れんかく)と改めた。(注:冷泉家系図による。)応長(おうちょう)の初め、伏見上皇(ふしみじょうこう)の勅命を奉じて『玉葉和歌集』を撰した。(注:伏見院御記、冷泉家系図、尊卑分脈、増鏡による。)元弘二年、薨去した。(注:常楽記による。)

藤原為氏

藤原為氏。為氏は、正二位権大納言であった。(注:公卿補任による。)当時の世間では専ら連歌が重んじられており、為氏は才覚が敏捷で、難しい題でも巧みに詠むことができた。自らこれを誇りとし、海外にまで誇示するほどであった。亀山上皇の勅命を奉じて『続拾遺和歌集』を撰した。(注:尊卑分脈による。)弘安八年、剃髪して名を覚阿(かくあ)と改めた。(注:公卿補任、冷泉家系図、尊卑分脈による。)翌年薨去した。享年六十五。(注:尊卑分脈、冷泉家系図による。)二条(にじょう)と称された。(注:御子左冷泉系図による。○東常縁聞書、清案抄では、いずれも為氏は冷泉と称されたとする。)子に為世(ためよ)がいる。

藤原為世

藤原為世。正二位権大納言であった。(注:公卿補任による。)後宇多上皇(ごうだじょうこう)の勅命を奉じて『新後撰和歌集』『続千載和歌集』を撰した。(注:尊卑分脈、冷泉家系図、勅撰次第、東常縁聞書による。○増鏡では後醍醐天皇の勅命によって『続千載集』を撰したとする。)

撰集にあたっては、客に会うたびにいつも優れた歌を求めた。為藤(ためふじ)はこれを疑って「勅撰は重大な事業である。すぐれた作品だけを取るべきだ。どうして無名の人にまで歌を求める必要があろうか」と言った。為世は「歌が採るに値するものであれば、たとえ名のある歌人でなくとも、これを収録すべきだ」と答えた。かつて父祖の歌を判じて「祖父(俊成)の言葉は幽玄であり、父(為家)は義理が深く奥深い。いずれも及びがたいものだ」と言った。(注:清案抄による。)

嘉暦四年、剃髪して法名を明釈(みょうしゃく)といった。(注:公卿補任、冷泉家系図による。)延元三年、薨去した。享年八十九。

子に為藤・為冬(ためふゆ)がいる。為藤は正二位権中納言であった。(注:冷泉家系図による。)初め、醍醐天皇が為世に勅命して和歌集を撰させたが、すでに二つの集を奉進していたことから、為藤に代わって詔を奉じさせるよう願い出た。しかし完成しないうちに為藤は薨去した。為藤はかつて兄の子である為定(ためさだ)を養子としており、そこで為定に詔を下して続きを完成させた。これが『続後拾遺和歌集』である。(注:勅撰次第、尊卑分脈、冷泉家系図、増鏡を参照してまとめた。)後光厳院(ごこうごんいん)もまた為定に撰集させ、これを『新千載集』という。(注:園太暦、勅撰次第による。)為冬については別に伝がある。

藤原為相

藤原為相。為相は兄の為氏と並び称された。もともと父の為家は、和歌所の領地二か所を長男の為氏に譲っていたが、後にその愛情を失い、為家はこれを取り上げて為相に与え、証文を作ってその証拠とした。為家の死後、為氏と為相はこの領地を争った。(注:冷泉家系図による。)為相の母はみずから鎌倉に赴いてこれを訴え、(注:十六夜日記による。)ついに為相のものとなった。

やがて為氏の子である為世の代になって、また争いが起こった。両家の代理人が互いに訴訟を交わした。将軍守邦親王(もりくにしんのう)は北条高時(ほうじょうたかとき)らに命じてこれを裁定させ、為相の側についた。(注:冷泉家系図による。)

官位は正二位権中納言に至った。嘉暦三年、鎌倉で薨去した。享年六十六。冷泉(れいぜい)と号した。子に為秀(ためひで)がおり、従二位権中納言であった。孫に為尹(ためただ)がおり、正二位権大納言であった。(注:公卿補任、冷泉家系図による。)為氏・為相の兄弟は、それぞれ一家をなし、後世に二条家・冷泉家の別ができた。

母の平氏(へいし)は初め安嘉門院(あんかもんいん)に仕えて四条(しじょう)と号し、また右衛門佐(うえもんのすけ)とも呼ばれた。剃髪して法名を阿仏(あぶつ)といい、(注:冷泉家系図、正徹物語による。)世に北林禅尼(ほくりんぜんに)と称された。(注:冷泉家系図による。)和歌に優れ、(注:作者部類による。)著書に『十六夜日記(いざよいにっき)』『夜鶴(やかく)』がある。(注:十六夜日記、夜鶴による。)

藤原家隆

藤原家隆は、中納言光隆(みつたか)の子である。(注:公卿補任による。)幼くして聡明で、後鳥羽天皇は彼を奇才と称えた。(注:清巌茶話による。)藤原俊成に和歌を学び、俊成は「この子は私に質問するたびに、疑いをそのままにせず、切実に作者の要旨を問いただす。将来必ず歌仙となるであろう」と言った。後に果たして和歌によって世に大いに名を知られ、(注:清案抄、兼載雑談、清巌茶話を参照してまとめた。)藤原定家と並び称された。(注:古今著聞集、十訓抄による。)

摂政良経がかつて「当代の歌人で誰が第一であろうか」と尋ねたところ、家隆は黙って答えなかった。立ち去る際、懐に入れていた紙を置いて出て行った。見ると、それは定家の歌であった。(注:十訓抄による。○兼載雑談ではこれを後鳥羽天皇が尋ねた話とする。)定家が勅命を奉じて『新勅撰集』を撰した際には、家隆の歌が最も多く採られた。互いにこれほど推重し合っていたのである。(注:正徹物語、兼載雑談による。)

後鳥羽天皇が良経に「私は和歌を学びたいが、誰を師とすればよいか」と尋ねたところ、良経は家隆を推薦して、「この人こそ、当代の柿本人麻呂です」と言った。(注:古今著聞集による。)元久年間、上皇の勅命を奉じて『新古今和歌集』を撰した。(注:本書の序、増鏡による。)

もとより上皇に親しく仕えていた。上皇が隠岐(おき)に遷された後も、題を賜って和歌を作らせた。(注:増鏡による。)家隆は深く思いを凝らして詠み続け、前後を合わせて作った歌は総計六万首に及んだという。(注:清案抄による。)宮内卿(くないきょう)に任ぜられ、従二位に至った。嘉禎二年、病により剃髪して名を仏性(ぶっしょう)と改めた。翌年、薨去した。享年八十。(注:公卿補任による。)世に壬生二位(みぶのにい)と称された。(注:十訓抄による。)

子の隆祐(たかすけ)は従四位下侍従で、(注:尊卑分脈による。)これもまた和歌に優れた。定家は人に「隆祐の壮年の作は、その美しさが父にほとんど及ぶほどだ。しかし晩年に至ると、かえって初めの頃には及ばない」と語った。隆祐はこれを聞いて恨み、「それならばなぜ私の壮年の頃の歌を採らないのか」と言った。定家はかつて、家隆の歌には家が衰える兆しがあると語ったが、果たしてその子孫は栄えなかった。(注:清巌茶話による。○本書には「三代で家系が絶えた」とあるが、尊卑分脈にはその玄孫まで記載があるため、この説は採らない。)

藤原貞宗

藤原貞宗(さだむね)は、二階堂行政(にかいどうゆきまさ)の子孫である。(注:尊卑分脈による。)父は光貞(みつさだ)で、下野守(しもつけのかみ)であった。(注:○作者部類、二階堂系図による。尊卑分脈では光貞を貞宗の弟とするが、これは誤りである。系図の一説では貞宗を仁誉(にんよ)の子とするが、『草庵集』では仁誉を先師とするので、おそらく剃髪して法脈を伝えたことから、誤って親子関係とされたのであろう。兼載雑談などで師実(もろざね)の後裔とするのも、おそらく貞宗が詠歌の流儀を二条家から伝えたことから、誤って子孫とされたのであろう。)

若い頃は延暦寺に住み、おおよそ仏教の学問に通じ、剃髪して泰尋(たいじん)と号した。また高野山に赴いて、さらに頓阿(とんあ)、あるいは感空(かんくう)と号した。(注:二階堂系図による。)後に京に住み、(注:草庵集、園太暦を参照してまとめた。)和歌に優れ、書にも巧みであった。(注:園太暦による。)

かつて藤原為世に師事して和歌を学び、その奥義を得た。為世が薨去すると、「世に自分を理解する者はいない」と嘆いて、二度と和歌を作らなくなった。光厳院(こうごんいん)はもとより頓阿の歌を愛好しており、彼がこれをやめてしまったことを惜しんだ。関白良基(よしもと)に命じて彼を励まし諭させた。(注:続草庵集による。)良基は歌の様式について数点を挙げて質問し、頓阿がそれに答えた内容を記録したものを『愚問賢注』と名づけた。(注:愚問賢注跋による。)

花園上皇(はなぞのじょうこう)は『風雅集』を撰する際、頓阿の詠んだ雪の歌を収録しようとしたが、数文字を改めて、人にこれを伝えさせた。頓阿は固く辞退して、「私のような山僧の意図とは、御批(ぎょひ、注:天皇による添削)は異なります。どうか採用なさいませんように」と言った。上皇はこれを聞き入れて、他の歌を選び直した。彼の和歌への自負はこれほどのものであった。(注:東常縁聞書による。)

晩年には声望が非常に高まり、(注:清巌茶話による。)特に足利尊氏(あしかがたかうじ)から厚遇された。和歌会があるたびに、加わらないことはなかった。(注:草庵集、兼載雑談による。)

正平(しょうへい)年間、後光厳院は藤原為明(ためあき)と頓阿に命じて、ともに『新拾遺和歌集』を編纂させた。しかし完成しないうちに為明が没した。恋の部以下は、頓阿がひとりで撰したものである。

当時、卜部兼好(うらべのけんこう)、および浄弁(じょうべん)・慶運(けいうん)が、和歌において頓阿と並び称され、世にこれを四天王と呼んだ。頓阿はかつて兼好・慶運らと会って和歌を作った際、探題(たんだい、注:題を探り当てて詠む形式)でそれぞれ六首ずつ詠むことになった。頓阿はたまたま用事があって家に帰り、題を開いて一目見るとすぐに出て行った。慶運はひそかにその題を自分の題とすり替えた。しばらくして頓阿が戻り、すでに構想ができあがっていたので筆を執って書こうとしたが、いずれも先の題とは違っていた。それでも顔色ひとつ変えることなく、あらためて六首を詠み、その歌はいずれも見事な出来であった。満座の人々は互いに顔を見合わせ、及びもつかないと思った。慶運は「私はもとより悪ふざけをしたわけではないが、これでその絶妙な技をどうして見られたであろうか」と言った。彼の即興の巧みさはこのようなものであった。(注:正徹物語による。)

頓阿は風流を自ら好み、住まいを葵花園(きかえん)と名づけた。春には公卿や貴族を招いて、詩歌を詠み合った。あるいは東山に住まいを構え、また僧西行(さいぎょう)の事跡を慕って雙林寺(そうりんじ)に住んだが、いずれも泉水や庭石、花木の美しい場所であった。(注:草庵集、続草庵集による。)

文中元年、死去した。享年八十四。(注:後深心院関白記、東常縁聞書による。)著書に『清案抄』があり、(注:清案抄による。)また『草庵集』正続二集は、当時の人々に称賛された。(注:続草庵集による。)

子の経賢(きょうけん)は、(注:作者部類、正徹物語による。)権大僧都(ごんのだいそうず)、(注:作者部類による。)法印(ほういん)であった。(注:正徹物語による。)孫の堯尋(ぎょうじん)は権大僧都であり、(注:異本系図による。)いずれも和歌に優れていた。(注:作者部類による。)堯尋の子の堯孝(ぎょうこう)は父祖の業を継ぎ、その名は最も高く、権大僧都、(注:康富記、異本系図を参照してまとめた。)法印となった。永享(えいきょう)年間、権中納言藤原雅世(まさよ)が『新続古今和歌集』を撰した際、堯孝は和歌所の開闔(かいこう、注:実務担当役)を務めた。(注:東常縁聞書による。)

僧淨辨

僧浄弁は、その姓氏は詳らかでなく、法印に叙せられた。藤原為世に和歌を学び、頓阿とともに講習し合い、為世から重んじられた。(注:草庵集、和歌不審、清巌茶話を参照してまとめた。)

慶運

慶運は、浄弁の子である。(注:作者部類による。)法印に叙せられた。(注:草庵集、作者部類による。)父と並び称された。(注:正徹物語による。)

正平年間、後光厳院は藤原為定に命じて『新千載和歌集』を撰させ、(注:勅撰次第、園太暦による。)慶運の歌四首を採録した。慶運は大いに喜び、為定のもとを訪ねて礼を述べた。ところが後に頓阿の歌十数首が収録されたと聞き、心中穏やかでいられず、密かに自分の歌を削り除いてしまい、結局残らなかった。慶運は常々自分の不運を嘆き、死に臨んでは自分の詠草を集めて葬った。(注:私語抄による。)子に慶孝(けいこう)がおり、これもまた和歌に優れていた。

卜部兼好

卜部兼好は、神祇大副(じんぎのだいふ)兼茂(かねもち)の曾孫である。吉田(よしだ)に住んでいた。(注:卜部系図による。)兼好は幼くして聡明で、老荘の書を読むことを好み、文才があり、和歌に優れ、(注:徒然草による。)また書にも巧みであった。(注:太平記による。)

後宇多天皇に仕え、左兵衛(さひょうえ)に任ぜられ、次第に天皇に親しまれるようになった。天皇が崩御すると、兼好は剃髪して修学院(しゅがくいん)に入った。(注:卜部系図、正徹物語、吉野拾遺を参照してまとめた。)後に木曾(きそ)を訪れ、その山水を愛して庵を結んで住んだ。ある日、その地の国守が人々を率いて狩りを行い、兼好はその騒がしさを嫌って、和歌を詠んだ。「此処も又、憂き世なりけり、他所ながら、思ひしままの、山里もがな。」そして故郷に帰り、和歌を詠んで自ら楽しんだ。(注:吉野拾遺による。)常々「灯火のもとで書を読み、昔の人を友とすることほど、楽しいことはない」と語っていた。(注:徒然草による。)当時の公卿や大夫たちはみな彼の人柄を愛し、交遊する者が非常に多かった。(注:正徹物語、兼好歌集による。)

兼好はかつて高師直(こうのもろなお)のために書状を作り、塩冶高貞(えんやたかさだ)の妻に言い寄らせたことがあった。妻がこれに従わなかったため、師直は怒って兼好との交際を絶った。この一件によって、世間は兼好を軽んじた。(注:太平記による。)

かつて雙岡(ならびがおか)に墓地を定めて桜を植え、そのとき和歌を詠んだ。「契り置く、花と並びの、岡の辺に、憐れ幾世の、春をすぐさむ。」(注:兼好歌集による。)著書に『徒然草』および歌集があり、今も世に行われている。(注:徒然草、兼好歌集による。)

死去したとき、子はなかった。彼に仕えた侍童に命松丸(みょうしょうまる)という者がおり、兼好の学業を伝えて和歌に優れた。後に剃髪して今川貞世(いまがわさだよ)と称し、鎮西(ちんぜい、注:九州地方)に住んだ。(注:○落書露顕による。『文禄清談』には「命松丸は剃髪して書を著し、和歌を引いて時事を記した」とある。今考えるに、松翁(しょうおう)という者が『吉野拾遺』を著しており、清談に引用されている内容はすべて『吉野拾遺』と一致する。『吉野拾遺』には「私は兼好と旧知の間柄であった」とあるので、松翁はおそらく命松丸のことであろう。)