卷之二百廿二 列傳第一百卌九
孝子
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次18
¶孝は百行の根本である。孝がなければ教えは成り立たない。物事の道理も民の常道も定まらず、礼楽刑政も生まれてこない。孝という道はそれほど大きなものである。それゆえ皇帝や皇太子は書を読むにあたって、必ず『孝経』を最初に学び、常の教典としてきた。朝廷がこれを尊ぶことからも、孝の道がいかに重んじられているかが分かる。下って村里・町なかに至るまで、純粋な孝行者があれば、必ずその家の門に旌表(注:表彰の印を立てること)を立てて讃えた。民に孝を勧めることは、昔の史書にも記され、はっきりと跡づけることができる。昔の孝子には、廬(いおり)を結んで墓を守り、死者に仕える誠実さはあっても、股の肉を割き肝を裂くような作為はなかった。それゆえ民の心は篤く厚くなり、風俗も厚みを増していった。後世になると史官の職務が廃れ、記録も欠けてしまい、孝行や悌、信義を実践した者があっても、多くは埋もれて伝わらなかった。身分の低い者の善行は上に届く手立てがなく、士庶を勧め導く材料ともならなかった。これは典籍の欠落と言うべきではないか。中には父の仇を討った者もあり、我が身を顧みず奮起して、仇と天を共にしないという大義を貫いた。綱常倫理がこれによって地に墜ちずに済んだのである。どうして古代にのみ孝子がいて、後世にはいないということがあろうか。ただ、その明暗は世の盛衰にかかわり、人情の篤薄は時運によるものである。散逸した事跡を拾い集めて、ここに孝子伝を作る。
倭果安
¶倭果安(やまとのはたやす)は大和国添下郡(そうのしもごおり)の人である。奈良許知麻呂(ならのこちまろ)は添上郡(そうのかみごおり)の人である。果安は父母に孝を尽くし、兄弟には友愛をもって接した。飢えや病に苦しむ者があれば、自分の食糧を持って巡り歩き、世話をして養った。登美(とみ)・箭田(やた)の二郷の百姓たちは、その恩義に感じ入り、親のように敬愛した。許知麻呂は生まれつき孝順な性質で、人と怨みを構えることがなかった。かつて継母の讒言に遭い、父の家に入ることを許されなかったが、少しも怨む様子を見せず、いっそう心を込めて父に仕え養った。和銅七年、この二人の孝義を表彰し、生涯にわたって課役を免除した。(注:『続日本紀』による。)
奈良許知麻呂
¶美濃国当耆郡(たぎのこおり)の老部(おいべ)の樵夫(きこり)は、父に至孝をもって仕えた。家は貧しく財がなかったので、薪を売って生計を立てていた。父は酒を好んだので、樵夫はいつも瓢箪を提げて町を通り、酒を掛けで買っては父に勧めた。ある日、山で薪を採っていたところ、石を踏んで誤って倒れてしまった。すると傍らに酒の匂いがするのに気づいて不思議に思い、あたりを見回すと、石の間から水が湧き出ており、その色は酒に似ていた。試しに口にしてみると、香り高く味も甘美であった。樵夫は大いに喜んでそれを汲み、父に差し上げた。霊亀三年九月、元正天皇が美濃に行幸された際、行列が当耆郡を通り、この醴泉(れいせん、注:甘い霊験の湧き水)をご覧になり、孝行の心が感応してもたらしたものであるとされた。この泉を養老の滝と名づけ、これにちなんで年号を養老と改め、樵夫には官位を授けたので、その家は富み栄えるに至った。(注:『十訓抄』『古今著聞集』『続日本紀』による。○考えるに、『続日本紀』養老五年の詔の文では、この醴泉が病を癒す効能をしきりに称えているが、孝行への感応という話は見えない。ここでは『十訓抄』『古今著聞集』の説によった。)
美濃當耆郡樵夫
¶丈部路祖父麻呂(はせつかべのみちのおおじまろ)は、漆部司(うるしべのつかさ)の令史(れいし)で従八位上の石勝(いわかつ)の子である。養老四年、石勝は宿直の丁(よぼろ)であった秦大麻呂(はたのおおまろ)とともに、役所の漆を盗んだ罪により、二人とも流刑に処せられることとなった。このとき祖父麻呂は十二歳、弟の安頭麻呂(あずまろ)は九歳、乙麻呂は七歳であったが、三人そろって役所に出向き、死を覚悟して伏し願い出た。「父石勝は子どもたちを養うために役所の漆を盗み、そのために遠方への流罪に処せられようとしています。どうか私たち兄弟三人を官奴(かんぬ、注:官有の奴婢)としていただき、父の罪を贖わせてください。」これを受けて詔が下された。「人は五常(仁義礼智信)の徳を稟(う)け、仁義はことに重んずべきものであり、士には様々な善行があるが、孝と敬が第一である。今、祖父麻呂らは自らの身を捨てて奴となり、父の罪を贖って肉親の命を存えさせようとしている。その心情は憐れむべきである。願い出のとおり、官奴とするのがよい。」そこで石勝の罪は許され、代わりに犬麻呂(いぬまろ)だけが配流の地へ送られることとなった。まもなく祖父麻呂・安頭麻呂らも奴の身分を解かれ、良民に戻された。(注:『続日本紀』による。)
丈部路祖父麻呂
¶丈部知積(はせつかべのちつみ)と君子尺麻呂(きみのこさかまろ)は、ともに相模国足上郡(あしがみのこおり)の人で、その孝行は世に知れ渡っていた。霊亀元年、その住む里を表彰し、生涯にわたって課役を免除した。(注:『続日本紀』による。)
丈部安頭麿、丈部乙麻呂
¶綱引金村(つなひきのかなむら)(注:綱の字は網に作る本もある)は、備後国葦田郡(あしだのこおり)の人である。八歳で父を失い、悲しみのあまりやせ衰えて骨が浮くほどであった。まもなく母の喪にも遭い、慕い悲しむ思いはいっそう深まった。景雲二年、詔により爵二級を賜り、生涯にわたって田租を免除された。(注:『続日本紀』による。)
丈部知積
¶小谷五百依(おたりのいおより)は甲斐国八代郡(やつしろのこおり)の人である。建部大垣(たけべのおおがき)は信濃国更級郡(さらしなのこおり)の人である。五百依は孝行者として知られ、大垣は人柄が恭順で、親によく孝を尽くした。景雲二年、二人とも田租を生涯にわたって免除された。(注:『続日本紀』による。)
君子尺麻呂
¶矢田部黒麻呂(やたべのくろまろ)は武蔵国入間郡(いるまのこおり)の人である。父母に至孝をもって仕え、存命中は顔色をやわらげて心を尽くして養い、死後は深く悲しみやせ衰えるほどであった。十六年もの間、精進の食を続けて怠ることがなかった。宝亀三年、その戸の徭役を免除し、孝行を表彰した。(注:『続日本紀』による。)
網引金村
¶伴家主(とものいえぬし)は安房国安房郡の人で、生まれつき至孝の性質であった。父母が亡くなった後は、うまいものを口にせず、像を作って供養し、生きているときと同じように仕えた。この事が朝廷に聞こえ、承和年間に位階三階を賜り、生涯にわたって戸の田租を免除され、住む里の門を表彰された。(注:『続日本後紀』による。)
小谷五百依
¶風早富麻呂(かざはやのとみまろ)は安芸国賀茂郡の人である。徳行はうるわしく、力を尽くして父母を孝養した。父母が亡くなった後も、うまいものを口にせず、慕い悲しむ思いがやむことはなかった。天長十年、位階三階を賜り、戸の田租を免除された。(注:『続日本後紀』による。)
建部大垣
¶財部継麻呂(たからべのつぐまろ)は加賀国能美郡(のみのこおり)の人で、至孝の性質を持っていた。父母が亡くなった後は、朝夕慕い悲しみ、その様子は郷里の人々の心をも打った。承和四年、位階三階を賜り、住む里の門を表彰され、生涯にわたって租を免除された。(注:『続日本後紀』による。)
矢田部黑麻呂
¶丸部明麻呂(まるべのあきまろ)は讃岐国三野郡の人で、外従八位上の己西成(こにしなり)の子である。十八歳で都に出仕し、功労を積んで本部の大領(だいりょう)に任じられたが、その職を父に譲りたいと願い出た。自らは子としての務めを守り、孝養を尽くした。父母が年老いた後、その家は明麻呂の住まいから十里離れていたが、明麻呂は朝夕の挨拶(定省)を怠らず、絶えず行き来した。国司も同じくこれを上申し、規定にのっとって貢挙(こうきょ、注:推薦による出仕)にあずからせるよう願い出た。嘉祥元年、位階三階を賜り、生涯にわたって戸の田租を免除された。(注:『続日本後紀』による。)
伴家主
¶秦豊永(はたのとよなが)は美作国久米郡の人である。生まれつき恭順な性質で、父母に孝をもって仕えた。父母が亡くなると、常にその墓を守った。この事が朝廷に聞こえ、貞観七年、位階三階を賜り、課役を免除され、住む里の門を表彰された。(注:『三代実録』による。)
風早富麻呂
¶丹生弘吉(にゅうのひろよし)は若狭国遠敷郡(おにゅうのこおり)の人である。幼くして父を失い、母とふたりで暮らした。力の限り田を耕して母を養い、いつも穏やかな顔つきと物腰で、温かい心遣いを欠かすことがなかった。毎朝父の墓に詣でては、胸を打ち足を踏み鳴らして悲しみ嘆いた。彼が耕作する田畑は水害や旱魃、風害や蝗害に見舞われても、被害を受けたことがなかった。郷里の人々はこれを「孝行の心が天に通じた結果である」と評した。この事が朝廷に聞こえ、貞観二年、位階二階を賜った。(注:『三代実録』による。)
財部繼麻呂
¶下毛野公助(しもつけののきみすけ)(注:公助の姓は『今昔物語』による)は、父を武則(たけのり)といい、摂政藤原兼家(かねいえ)の随身(ずいじん、注:警護の従者)であった。かつて公助は父とともに右近の馬場で賭弓(かけゆみ)の勝負をしたが、負けてしまった。武則は怒って公助を打ち据えた。公助は伏してこれを甘んじて受けた。人が「どうして逃げないのか」と尋ねると、公助は答えた。「父は年老いて足も弱っている。私を追いかけて速く走れば、転んでしまうかもしれない。もし怪我でもさせれば、それは私の罪を重くすることになる。だから甘んじて受け、逃げないのだ。」これを聞いた人々は皆感じ入り、嘆じた。(注:『古今著聞集』『古事談』による。)
丸部明麻呂
¶ある僧がいたが、名は詳らかでない。母に至孝をもって仕えていたが、家はひどく貧しかった。母は生魚を好み、それがなければ箸をつけようとしなかったので、僧はいつも魚を買い求めて母に供していた。当時、白河上皇が殺生を厳しく禁じていたため、魚を手に入れることができなくなった。母はほとんど食事を絶ち、衰弱して死にかけるほどであった。僧は悲しみに耐えきれず、自ら桂川に赴き、小魚を二匹捕らえたが、巡回の役人に捕らえられ、魚とともに役所へ送られた。取り調べの役人が問いただすと、僧は涙をぬぐいながら言った。「法で禁じられていることに、誰が従わないでいられましょうか。まして仏門にある身で戒律を破ったのですから、罪を逃れることはできません。ただ私の母は年老いて病にあり、肉や魚でなければ食が進みません。今この魚を放してやっても、もはや生き返ることはないでしょう。どうか母のもとへ届けさせていただき、一度でも箸をつけたと聞くことができれば、たとえ刑に処せられようとも思い残すことはありません。」その言葉は切々として、役人や下役たちも感じ入って涙を流した。この事を白河上皇がお聞きになり、金や絹の織物を賜って赦し、返された。(注:『古今著聞集』『十訓抄』による。)
秦豐永
¶曾我祐成(そがのすけなり)は幼名を一万(いちまん)といった。弟の時致(ときむね)は幼名を筥王(はこおう)といった。二人は伊東祐親(いとうのすけちか)の孫にあたる。父の河津祐泰(かわづのすけやす)(注:『尊卑分脈』では祐泰を祐道に作るが、ここでは『東鑑』に従う)が、祖父の従兄弟にあたる工藤祐経(くどうのすけつね)に殺されたとき、一万は五歳、筥王は三歳であった。(注:『曾我物語』『東鑑』による。)母は夫の屍を抱いて泣き悲しみ、二人の幼子を撫でて言った。「お前たちが成長したら、父の仇を討てるか。」一万は泣きながら「私たちが大きくなったら、必ず仇の首を斬ります」と答えた。母がその後曾我祐信(そがのすけのぶ)に再嫁すると、兄弟は祐信の手で育てられることとなった。年がやや長じると、遊び戯れるときはいつも打ち合いや突き合いをして過ごした。一万が弓を引いて屏風の的を射ると、筥王は「父の仇を討つのに弓など何の役に立つのか」と言って、自ら木刀を手に取り斬りつけた。一万はあるとき空を飛ぶ雁を見上げて、ため息をつきながら「鳥ですら父母がいるのに、私たちを孤児にしたのは誰なのか」と言った。筥王は「仇の首は鉄や石ほど堅いものか」と言い返した。一万はあわててその口を塞ぎ、「うかつなことを言うな」とたしなめた。二人は向き合って声を上げて泣き、思いを募らせ心を砕いた。仇討ちの思いは、一日たりとも怠ることがなかった。
¶やがて源頼朝が平氏を滅ぼし、天下の兵馬を統べる身となった。工藤祐経はその側近として重んじられていた。頼朝はかつて伊東祐親を恨んでいたことから、祐泰の遺児を殺すよう勧められた。頼朝はそこで梶原景季(かじわらのかげすえ)を曾我に遣わし、祐信に「二人の子を幕府へ差し出せ」と告げさせた。母子は泣きながら別れることとなった。景季は二人を哀れに思い、頼朝に会ってその様子を伝え、赦しを請うた。頼朝は「祐親は私の子を殺し、妻を奪った。祐親はすでに死んだが、私はその孫にこの恨みを晴らしたいのだ。どうして赦せようか」と言った。しかし富山重忠(とやまのしげただ)や和田義盛(わだのよしもり)らが懸命に取りなしたため、二人の子はようやく放免されて帰ることができた。母は二人が死を免れたことを喜びながらも、厳しく戒め、深く身を隠させた。
¶一万は十三歳のとき名を祐成と改め、継父の姓を名乗って曾我十郎と称した。そして筥王は箱根山の僧行実(ぎょうじつ)の弟子として送られた。筥王の仇討ちの志は日ごとに募り、あるとき祐経が頼朝に従って箱根に詣でた際、筥王はその顔を見知ろうとして、山僧たちについて将士の姓名を一人ずつ尋ね歩いた。祐経の番になると、思わず顔色を変えてしまい、袖に小刀を忍ばせて密かに刺そうと図った。祐経は筥王の手を取って言った。「お前は筥王ではないか。顔つきが亡き父によく似ている。私とお前はごく近しい間柄だ。今日こうして会えたのは、嬉しくもあり悲しくもある。早く髪を剃り落とし、ひたすら仏道に励むがよい。」そう言って一振りの飾り太刀を取り出し、「これは今日会えた印だ」と言って与えた。筥王は隙を見て刺そうとしたが、周りに大勢が座っており、また力で敵わないことを恐れて、ついに果たせなかった。
¶筥王が十七歳になったとき、行実は剃髪して受戒するよう命じた。筥王はこれを憂い、こっそり曾我へ戻って祐成に言った。「私は今日僧になろうとしているが、仇をどうすればよいのか。早く元服して、師の命を逃れたいと思う。」祐成もこれに同意した。二人は連れ立って北条時政(ほうじょうのときまさ)のもとへ行き、その悲しい事情を訴えた。時政はその志を壮とし、すぐに元服の礼を整えて烏帽子をかぶらせ、時致(ときむね)と名づけて曾我五郎と称させた。母は時致の姿を見て大いに驚き、「私はお前を僧にしたはずなのに、どうしてこんなことに。お前が私を母と思わないなら、私もお前を子と思わない。母子の縁はこれで絶える。二度と会いに来るな」と言った。時致はむせび泣きながら退いた。
¶これ以降、兄弟は大磯・黄瀬川・三浦などを巡り歩き、たびたび祐経の様子をうかがった。しかし祐経は外出のたびに従者に守られていたので、兄弟は時折その姿を見かけても、手を下すことができなかった。
¶建久四年、頼朝が富士野で狩りを行い、祐経もこれに従った。祐成と時致は大いに喜び、「これは天の与えた好機だ」と言って、富士野へ赴く計画を定めた。時致は祐成に「私は頼りにしていた母に見放される罪を得て、顔を合わせて別れの言葉も交わせなかった。このままでは死んでも目を閉じられない」と言った。祐成は母に会って別れを告げ、時致にも会ってやってほしいと願い出た。母は初めこれを厳しく拒んだが、祐成が額を地に打ちつけて涙ながらに、時致が抱えている憂いと恐れの様子を詳しく語ると、母の心もほぐれ、時致を呼んで会うことにした。兄弟は着物を賜りたいと願った。母は自分の着ていたものを脱いで与え、こう戒めた。「狩り場には武士も庶民も大勢集まっている。くれぐれも争いごとを起こしてはならない。」兄弟はためらって立ち去りがたく、涙をはらはらと流した。いったん退いてはまた進み、何度も振り返った。母はそれを不審に思った。
¶兄弟は箱根に行き、行実に会った。行実はその志を察し、社中に納められていた二振りの宝刀を取り出して与えた。こうして富士野へ赴き、あらゆる手を尽くして祐経を狙ったが、なかなか隙が得られなかった。やがて頼朝が近く鎌倉へ帰るとの噂を聞き、兄弟は「時はまた得難い。この機を逃してはならない」と憂え、「今夜のうちに急いで陣営に入り、祐経を討とう」と決めた。そこで夜回りの者を装って陣営の前を通り過ぎ、祐経の寝所へ入った。ところが祐経はすでに別の部屋に移っていた。兄弟は途方に暮れ、どうしてよいか分からずにいた。そこへ畠山重忠の家臣本多親経(ほんだちかつね)がやってきた。かねてから兄弟の本懐を遂げさせたいと思っていた親経は、祐経のいる場所を指し示して立ち去った。(注:『曾我物語』による。)
¶その夜、祐経は遊女を呼び、吉備津の神官王藤内(おうとうない)とともに酒宴を開き、深く酔って寝入っていた。兄弟は松明を掲げて互いに顔を見合わせ、「酔って寝ている者を殺すのは、死人を斬るようなものだ」と言い、部屋に踏み込んで大声で「祐成、時致、父の仇を討つ!」と叫んだ。祐経は驚いて目を覚まし、太刀を取って起き上がろうとしたが、兄弟が刀を振り下ろし、ずたずたに斬り、あわせて王藤内も殺した。遊女は驚いて「曾我兄弟が父の仇を討った!」と叫んだ。
¶時は五月二十八日、雷雨で真っ暗な中、陣営は騒然となった。平子野右馬允(へこののうまのじょう)や愛甲三郎(あいこうのさぶろう)らが慌てて出てきて戦った。兄弟は十人あまりを殺傷したが、力尽きて疲れ果てた。祐成は仁田忠常(にったのただつね)と刃を交え、ついに討たれてしまった。享年二十二であった。時致は祐成の死を見て、まっすぐ将軍の陣営へ突き入った。小舎人(こどねり)の五郎丸(ごろうまる)が女装をして時致の通るのを待ち構え、背後から抱きついたので、人々が一斉に取り押さえた。(注:『東鑑』『曾我物語』を参照した。)
¶頼朝は和田義盛と梶原景時を遣わして祐経の遺骸を検分させた。翌日、頼朝は幕舎に座し、諸将が居並ぶ中、時致を召し出した。狩野宗茂(かののむねしげ)と新開時光(しんかいときみつ)に命じて、なぜ祐経を殺したのか問いただした。時致は目をいからせ、二人を叱りつけて言った。「祖父入道(祐親)が亡くなって以来、子孫は落ちぶれてきた。お前たちに親しく近づくことはできなかったが、どうしてお前たちに事情を述べる必要があろうか。頼朝殿に直接一言申し上げて死にたい。」頼朝はその言葉を壮とし、自ら問うた。時致は答えた。「祐成と私は、幼い頃から今日まで、仇討ちの思いを片時も忘れたことはありません。今日、その願いは果たされました。幕府に対し罪を犯した以上、いずれにせよ処罰を受けて自害するつもりでした。そもそも祐経は私たちの仇でありながら、あなた様の寵臣でした。寂心入道(祐親)はあなた様の仇でありながら、私たちの祖父でした。あなた様が私たちの仇を寵愛し、私たちの祖父を仇とされたのですから、恨みに思わずにいられましょうか。」その意気は激しく猛々しく、聞く者は皆震え動かされた。頼朝はその胆力を愛し、死罪を免れさせようとしたが、祐経の子犬房丸(いぬぼうまる)が泣いて殺すよう訴えたため、ついに斬られることとなった。享年二十であった。頼朝は祐成と時致が母に宛てて遺した手紙を手に入れ、涙をこぼしながらそれを読み、文庫に納めるよう命じた。(注:『東鑑』による。)
¶このとき祐信も狩り場にいたが、頼朝は彼を召し出して慰め諭し、国へ帰って二人の子の冥福を弔うようにさせ、曾我荘の租を免除した。(注:『東鑑』『曾我物語』による。)後の人々は富士野に祠を建てて二人を祀った。(注:『曾我社縁起』による。)
¶祐泰の末の子である律師(りっし)は僧となっていたが、犬房丸はこの者も殺そうとした。頼朝が呼び出したところ、律師はその場に至って自害した。(注:『東鑑』による。○『曾我物語』には、頼朝が斬るよう命じたとある。)
丹生弘吉
¶祐成には愛妾があり、名を虎(とら)といい、大磯の遊女であった。(注:『東鑑』による。)祐成はたびたび大磯に遊びに行き、虎を見初めて心を寄せた。虎もまた祐成を愛した。多くの豪族たちが競って言い寄ろうとしたが、虎は誰にも見向きもしなかった。あるとき和田義盛がその家に来て酒を飲み、虎を呼んで酌をさせようとしたが、虎は出てこなかった。義盛は怒って罰しようとした。虎の母は恐れて娘を急かしたが、虎は承知せず、「曾我殿は貧しい身、和田殿は富み栄えた身。私はどうして貧富によって心を変えることに耐えられましょうか」と言った。ちょうどそのとき祐成が虎のもとにいたので、義盛は祐成にも虎と一緒に出て酒を飲むよう求めた。酒が回っても、虎は最後まで義盛とは酌み交わさず、杯を取っては祐成にばかり勧めた。(注:『曾我物語』による。)
¶祐成が仇討ちを遂げて討ち死にすると、頼朝は虎を呼び出してその事情を尋ねた。まもなく虎は放免されて帰されると、悲しみ慕って泣き悲しみ、箱根山に登って僧行実に祐成の冥福を祈る法要を頼んだ。祐成を悼む諷誦文(ふじゅもん、注:供養の文)を作り、祐成が乗っていた馬を布施として捧げた。そして尼となり、信濃の善光寺へ赴いた。時に十九歳であった。(注:『東鑑』による。)その後大磯に帰り、高麗寺(こまでら)に住んだという。(注:『曾我物語』による。)
下毛野公助
¶中原章兼(なかはらのあきかね)・章信(あきのぶ)兄弟の父は章房(あきふさ)といい、後宇多(ごうだ)・伏見・後二条・花園の四代の天皇に仕え、大判事(だいはんじ)を務めた。後醍醐天皇は章房が法律に通暁していることから、政務に参画させ、たいへん厚く待遇した。天皇が北条高時(ほうじょうのたかとき)討伐を企てられた際、事が漏れ、あらかじめ謀議に加わった諸臣はことごとく流罪や誅殺に処せられた。それでも天皇はますます怒り、ついに兵を挙げようとして、ひそかに章房を召してこれを謀った。章房は諫めて言った。「先月の事件このかた、人心は騒然とし、武士たちはますます頑強になっております。朝廷の力は微弱で、これに打ち勝つことはできないのではないかと恐れます。もし策謀が一度でも失敗すれば、事態は測り知れないことになりましょう。どうかよくよくお考えください。」天皇はこの言葉が漏れることを恐れ、ひそかに平成輔(たいらのなりすけ)に章房を除くよう命じた。
¶当時、雲居寺(うんごじ)のあたりに瀬尾兵衛太郎(せおのひょうえたろう)とその弟卿房(きょうぼう)という者がおり、ともに俠客として知られていた。成輔は金品で二人を誘い、章房を刺すよう頼み込んだ。二人はこれを承諾した。ちょうど章房が清水寺に詣でた折、兵衛太郎は旅人を装い、章房が西門を出て男山を遥拝しひれ伏したところをうかがい、刀を抜いてその首を断ち切った。そして石段を駆け下り、飛ぶように逃げ去った。従者たちは章房の刀を手に取って追ったが、追いつくことができなかった。
¶章兼・章信はこれを聞いて父の死んだ場所へ駆けつけ、遺骸を担いで帰った。二人は日夜仇討ちを謀ったが、誰の仕業かは分からなかった。あらゆる手立てで跡を追い、ようやく兵衛太郎の仕業であることを突き止めた。ちょうど章兼が病にかかっていたので、章信は鎧を身の内に着込んで小さな車に乗り、官の奴婢や私的な従者ら四十余人をみな武装させて率い、夜明け前に兵衛太郎の屋敷を取り囲んだ。掘り起こし捜索したが、何も見つからなかった。章信はがっかりして引き上げようとしたところ、従者の一人がたまたま天井の梁を見上げると、着物の裾がわずかに覗いているのに気づき、薙刀でその天井板をこじ開けた。兵衛太郎はもはや逃れられないと悟り、刀を抜いて飛び降りようとした。従者はその股を斬りつけ、兵衛太郎は落下した。兵衛太郎は起き上がることができなかったが、なおも刀を左右に振り回した。従者が背後から刺し殺した。章信はそのまま屋敷を打ち壊し、弟の卿房を縛り上げ、兵衛太郎の首を車の前に掲げて引き上げた。道行く人々はみなこれを見て溜飲を下げたという。(注:『島津家本』『今川家本』の『太平記』による。○考えるに、『東寺修行日記』には章信の名は見えず、仇討ちは章兼の事としている。)