卷之一百九十七 列傳第一百廿四

將軍家臣七

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 和田義盛
  2. 和田義秀
  3. 和田朝盛
  4. 和田義茂
  5. 梶原景時
  6. 梶原景季

和田義盛

和田義盛(わだよしもり)は、三浦義明(みうらよしあき)の孫である(注:『和田系図』『源平盛衰記』による)。父の義宗(よしむね)は、長寛二年、安房(あわ)の長狭城(ながさじょう)を攻めた際に傷を負い、家に戻って亡くなった(注:『長門本平家物語』による)。義盛は和田に住んだことからこれを氏とし、小太郎(こたろう)と称した(注:『和田系図』による)。人となりは豪勇で、力が強く弓の名手であった(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。

源頼朝(みなもとのよりとも)が石橋山(いしばしやま)で挙兵すると、義盛は叔父の三浦義澄(みうらよしずみ)らとともにこれに馳せ参じた。途中で頼朝が敗れて軍を退いたと聞き、人々は畠山重忠(はたけやましげただ)が道中にいるため間道を通って避けようとした。義盛はこれを聞き入れず、まっすぐ重忠の陣を通り過ぎ、大声で叫んだ。「我こそは和田小太郎義盛である。佐殿(すけどの、頼朝)が敗れて軍を退いたと聞いた。お前たちにこれを阻めるものなら阻んでみよ。」重忠は激怒し、小坪坂(こつぼざか)まで追撃した。義盛は義澄に言った。「叔父上は兵を分けて鐙摺(あぶずり)に拠り、陣を構えて待たれよ。私は坂を下って敵を迎え撃ち、力戦して雌雄を決する。敵兵が少し退けば、挟み撃ちにして打ち破ろう。そうすれば私は進むも退くも両方有利になる。」義澄はこれに従った。重忠の部将である榛谷(はんがや)成清が義盛に和解を説き、義盛はこれを承知して、兵を退いて帰ろうとした。

これより先、義盛の弟の義茂(よしもち)は用事で鎌倉に出向いていたため、義盛は使者を送って重忠の兵が来たことを告げた。義茂は知らせを聞いて急ぎ戻ったが、三浦方の兵はこれを見て、旗を振って引き止めようとした。義茂は和睦が成立したことを知らず、そのまま重忠の軍に突入した。義盛はさらに傘を振って合図を送ったが、義茂はこれに気づかず、いよいよ奮戦した。義盛はやむを得ず兵を率いて援護に駆けつけ、義澄も鐙摺から出て応援に向かった。道は極めて狭く、兵たちは一列になって進んだ。重忠の軍はこれを見て、援軍が大挙して押し寄せたと思い込み、多くが散り散りに逃げた。義盛らは勝ちに乗じて攻め立てた。重忠の部将である本田親恒(ほんだちかつね)、榛谷成清が再び和議を申し入れ、義盛はそこで兵を退いて引き上げ、衣笠城(きぬがさじょう)に入った。

その地は守戦に不便であったため、奴田(ぬた)を守ろうとしたが、義明(祖父・三浦義明)はこれを聞き入れなかった。この話は義明の伝に見える。一日おいて、重忠は江戸(えど)・葛西(かさい)などの一族を率いて攻め寄せた。三浦方は防戦したが利あらず、夜に乗じて安房へ逃れた。海上で頼朝に出会い、互いに大いに喜び合った。岡崎義実(おかざきよしざね)が義忠(義実の子)の死を告げ、義澄もまた祖父義明が節義に殉じたさまを述べ、むせび泣いた。

義盛は進み出て言った。「人は誰しも死を免れません。まして戦士たる者は死を覚悟しているのですから、悲しみ泣いてどうなりましょうか。今、この落ちぶれた時に君臣が巡り会えたのですから、大計を練り、富貴を手にすべきです。俗に『食にありつきたい者は先に器を用意せよ』と申します。過ぐる年、上総介(かずさのすけ)藤原忠清(ふじわらのただきよ)が東国の侍奉行(さむらいぶぎょう)を務めていた折、諸士は日夜その門前に伺候し、機嫌をうかがって拝礼し、その威権は甚だ重いものでした。私は常々これをうらやましく思っておりました。いずれ殿が大功を成された暁には、この職に任じていただきたく存じます。」頼朝は笑ってこれを承知した(注:『源平盛衰記』による)。

東国がようやく平定されると、論功行賞が行われ、かつての約束どおり義盛は侍所別当(さむらいどころべっとう)に抜擢された。これにより、征討に関する密議にも必ずあずかることとなった(注:『東鑑』による)。その後、源義経(みなもとのよしつね)に従って源義仲(みなもとのよしなか)を討ち、また一の谷(いちのたに)で平氏を攻めた(注:『源平盛衰記』による)。

寿永三年、源範頼(みなもとののりより)に従って西海へ向かい、軍事の計画に加わった。壇ノ浦(だんのうら)の戦いでは義経に属し、部下の兵を率いて陣を離れ単独で進んだ。自ら弓矢を取り、遠く海上の船を射た。一矢は二百余歩に及び、平知盛(たいらのとももり)の船縁に命中した。矢柄が非常に大きかったので、知盛はこれを見て大いに驚いた。義盛はその腕前をひどく誇り、扇を掲げて海上に振って見せた。知盛は仁井親清(にいちかきよ)に命じてこれを射させ(注:親清の名は『平家物語』による。本書では宗長とする)、矢は義盛の兜をかすめ、後ろの騎馬武者を傷つけた。軍中では義盛が逆に敵に射られたことを笑ったので、義盛はこれを恥じ、身軽な小舟に乗って進み出て射かけ、多くを殺傷した(注:『源平盛衰記』による)。

文治五年、頼朝に従って藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を攻め、熱借山(あつかりやま)の軍を打ち破った。泰衡の庶兄である西木戸国衡(にしきどくにひら)が退却したため、義盛はこれを追撃した。国衡は馬を返し、弓を引いて射ようとしたが、義盛が先に狙いを定め、その左腕を射抜いたため、国衡は傷を負って逃げた。畠山重忠の部下がその首を得て献上したので、頼朝は大いに喜んだ。義盛が進み出て「これは実は私が射殺したものです」と言うと、重忠は納得しなかった。頼朝が国衡の鎧を取り寄せて検分させたところ、矢傷の穴が非常に大きく、他の者には及びもつかないものであったため、重忠もあえて争わなかった(注:『東鑑』による)。

建久元年、頼朝が京都に参内した際、功臣十人を朝廷に奏上し、義盛は左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられた。数年後、さらに所領を加増された。結城朝光(ゆうきともみつ)が梶原景時(かじわらかげとき)に讒言されたとき、義盛ら勲功ある古参の武士六十六人が連名の書状を作り、その無実を弁明し景時の罪状を訴えて、大江広元(おおえのひろもと)を通じて頼家(よりいえ)に取り次ぐよう求めた。広元は穏便に済ませようと考え、取り次ぎを渋って通さなかった。義盛が使者を詰問して遅れを咎めると、広元はありのままに答えた。義盛は広元を責めて言った。「あなたは関東の耳目たる立場にありながら、景時を恐れて人々の怒りを押さえつけるとは、道理に外れているのではないか。」声も顔色も激しかったので、広元も承知し、書状はついに提出された。景時はこれによって罪を得た。

もともと義盛は侍所別当に返り咲くことを望んでいなかったが、義盛がその職にあったため機会を得られずにいた者がいた。そのころ義盛は喪に服して数日出仕しなかったので、その間だけ職を代わってほしいと切に願い出た者があり、頼朝はその望みを拒みがたく、これを許した。義盛が喪を終えて出仕したところで職を返させようとしたが、景時は様々に巧みな偽りを弄して職を手放そうとしなかった。ここに至って義盛は職に復帰した。

その後、義盛は上総国司(かずさのこくし)への任官を願い出た。実朝(さねとも)がこれを北条政子(ほうじょうまさこ)に伺うと、政子は「亡き将軍(頼朝)には定めがあり、諸国の武士を国司に任じてはならないとされている。今これを任じるかどうかは私の関知するところではない」と言った。実朝は決めかねてためらった。義盛は重ねて書状をしたため、大江広元を通じて願い出たが、その言葉は非常に激しいものであった。実朝は「考えるところがあるので、しばらく待たれよ」と返答した。義盛は喜び、「必ず望みは叶うだろう」と言ったが、三年経っても任じられなかった。義盛は子の義直(よしなお)を広元のもとへ遣わし、「願いが聞き届けられないのであれば、先の書状を返していただきたい」と伝えさせた。広元がこれを実朝に告げると、実朝はその無礼な態度に怒ったが、義盛が古参の重臣であることから寛大に扱った。実朝はかつて、勇力ある近臣を選んで交代で寝所の北面に宿直させ、また戦の経験に長けた老練な者を選んで諮問に備えようとした際、特に義盛と伊賀朝光(いがともみつ)に命じて共に宿直させた(注:『東鑑』による)。

建保元年、泉親衡(いずみちかひら)が北条氏を滅ぼそうと謀り、義盛の子の義直・義重(よししげ)、甥の胤長(たねなが)がこれに加担した。事が発覚し捕らえられた。義盛はそのとき上総にいたが、変事を聞いて急ぎ戻り、直ちに幕府に参上して自ら和田家の功労を述べ、二人の子の罪を贖った。実朝はこれを許した。義盛は大いに喜んで退出した。

翌日、義盛はさらに一族九十人を率いて幕府に参上し、南庭に列座して、広元を通じて胤長の赦免を切に願い出た。実朝は胤長が首謀者であるとしてこれを聞き入れなかった。北条義時(ほうじょうよしとき)は金窪行親(かなくぼゆきちか)、安藤忠家(あんどうただいえ)に命じて胤長を縛り上げ法官に引き渡させ、三浦一族はこれをことごとく目にした。義盛は深くこれを恥じ、門を閉ざして外に出なかった。胤長はついに陸奥へ流された。

胤長の屋敷は荏柄(えがら)にあり、幕府に近く出入りに便利であったため、近臣の多くがこれを得たいと望んでいた。もともと没収された屋敷は皆その同族に下賜されるのが慣例であったので、義盛は五条局(ごじょうのつぼね)を通じてこれを願い出て、実朝はこれを聞き入れた。義盛は大いに喜び、人を遣わしてその屋敷を守らせた。ところが間もなく、屋敷は改めて北条義時に下賜された。義時はこれを金窪行親・安藤忠家に分け与え、義盛の遣わした守り人を追い出した。義盛はこれを聞いて怒り、これより恨みと怒りが日に日に深まり、ひそかに北条氏を滅ぼそうと図って親戚や仲間を集め、幾晩も謀議を重ねた。

一年余り経って、土屋義清(つちやよしきよ)・横山時兼(よこやまときかね)・古郡保忠(ふるごおりやすただ)らと結び、時機を待って挙兵しようとした。折しも義盛が日頃信仰していた僧を追放したことがあり、人々は皆これを不審に思い、実は放浪を装って密かに伊勢に赴き、大神宮(だいじんぐう)に軍事の成就を祈願したのだという噂であった。流言が飛び交い、幕府の内外で疑いと恐れが広がった。実朝は橘公氏(たちばなのきんうじ)を義盛の屋敷に遣わして様子を探らせた。義盛が出てこれを出迎えた際、誤って烏帽子(えぼし)を落とし、その様子が首を落としたように見えたため、公氏はこれを凶兆と受け取った。

義盛は公氏に言った。「我が家は亡き将軍(頼朝)以来の元からの従者であり、厚い恩遇を受け、言うことは何でも聞き入れられ、願うことは何でも許されてきた。しかし亡き将軍が世を去ってまだ二十年も経たぬのに、言うことも聞き入れられず、願うことも許されず、もはや世に面目を立てることができない。それゆえ外に出ないだけであって、どうして謀反などしようか。」しかしそのとき保忠・義秀(よしひで)らが屋敷の中にいて武具を検分しており、公氏はそれをおおよそ察知して戻り、その様子を報告した。

そこで幕府は将士を召集するよう命令を下し、さらに刑部丞(ぎょうぶのじょう)藤原忠季(ふじわらのただすえ)を遣わして義盛に兵を退くよう諭した。義盛は答えて言った。「私は幕府に対して恨みなどありません。義時は古くからの重臣を蔑ろにし、傍若無人に振る舞っています。子や弟たちはこれに憤り、事情を問いただしに行こうとしております。私は幾度もこれを諭しましたが聞き入れません。すでに衆議は決してしまい、私の力で制しうるところではないのです。」

その数日後、ついに挙兵した。義時はこれを聞いて幕府に入った。義盛勢は幕府の南門を攻め、兵を分けて義時・広元の屋敷を攻撃した。やがて幕府は四方を囲まれ、義秀が門を打ち破って突入し、その勢いは非常に鋭く、幕府方の兵は支えきれなかった。にわかに幕府の中から火の手が上がり、炎は天に満ちた。義時は実朝を守って避難させ、子の泰時(やすとき)に防戦させた。義盛の兵は死力を尽くして戦い、夕方から明け方まで勝敗が決しなかった。泰時は兵を励まして力戦した。義盛の兵は疲れ矢も尽きて、前浜(まえはま)まで退いた。幕府方の兵は勝ちに乗じて追撃し、義盛勢の兵糧の道を断ったため、義盛勢は飢えと困窮に陥った。

折しも横山時兼が兵を率いて援軍に駆けつけたので、義盛の兵は再び勢いを盛り返し、幕府方の兵を撃退して、再び幕府を攻めようとした。しかし泰時・北条時房(ほうじょうときふさ)らが要所を分担して押さえたため、義盛は進むことができなかった。そこへ義直が戦死したとの知らせが入り、義盛は嘆き悲しんで「私の事はもう終わりだ。たとえ戦に勝ったとて何になろうか」と言った。心を乱し呆然としていたところを、江戸能範(えどよしのり)の従兵に討たれた。時に六十七歳であった(注:『保暦間記』には、義盛は泉親衡と共に挙兵し、建暦二年に敗死したとあるが、これは誤りである)。

こうして義盛の軍は潰え散り、一族はことごとく滅んだ。ただ三浦義村(みうらよしむら)兄弟だけは幕府方についていたため難を免れた(注:『東鑑』による)。

長子の常盛(つねもり)は新左衛門(しんざえもん)と称した。次男の義氏(よしうじ)は二郎(じろう)と称した。次に義秀。次に義直は四郎左衛門(しろうざえもん)と称した。次に義重は五郎兵衛(ごろうびょうえ)と称した。次に義信(よしのぶ)は六郎兵衛(ろくろうびょうえ)と称した。次に秀盛(ひでもり)は七郎(しちろう)と称した。次に義国(よしくに)は八郎(はちろう)と称した。皆、父とともに討ち死にしたが、義秀だけは逃れた(注:『東鑑』『和田系図』による。義国の名は系図による。なお『尊卑分脈』には、常盛は承久の乱で死んだとある)。

和田義秀

和田義秀(わだよしひで)は朝夷名三郎(あさいなさぶろう)と称し、勇猛で身体強健、腕力は比類がなかった。源頼家(みなもとのよりいえ)がかつて小坪に遊びに出た際、義秀が泳ぎに巧みだと聞き、その技を見てみたいと望んだ。義秀は海に入って泳ぎ、何度も行き来した末、深く潜って見えなくなり、しばらくして三匹の鮫を捕らえて出てきたので、人々は皆驚いた。

義盛が幕府を攻めた際、義秀は門を打ち破って南庭に進み入り、力戦奮闘し、その勢いは神業のように機敏で、向かうところ敵なしであった。五十嵐小豊次(いがらしこぶんじ)、葛貫盛重(かつぬきもりしげ)、新野景直(にいのかげなお)、礼羽蓮乗(れいばれんじょう)、高井重茂(たかいしげもち)らを討ち取り、北条朝時(ほうじょうともとき)を負傷させた。政所橋(まんどころばし)で足利義氏(あしかがよしうじ)に出会い、これと組み打ちしようとしたが、義氏は馬を躍らせて堀を飛び越え、義秀の馬は疲れて跳び越えられず、橋の上から追いかけた。そこへ鷹司(たかつかさ)の冠者(かじゃ)朝秀(ともひで)が遮って義秀を攻撃したため、ついに義氏を逃してしまった。

義秀が再び幕府に向かおうとしたとき、若宮大路(わかみやおおじ)で武田信光(たけだのぶみつ)に出会い、まさに交戦しようとした。信光の子の信忠(のぶただ)が父を救おうと馳せて義秀に立ち向かったが、義秀はその心意気を殊勝に思い、渡り合ったが本気で戦わなかった。そこへ小物資政(こものすけまさ)が転じて進み出て戦いを挑んだので、義秀はこれを討ち取った。おおよそその矛先に当たった者で命を落とさぬ者はなかった。

古郡保忠(ふるごおりやすただ)・土屋義清(つちやよしきよ)もまた勇を奮って死力を尽くして戦い、向かうところ敵をなぎ倒し、幕府方の兵はほとんど支えきれなかった。やがて義清は流れ矢に当たって死に、義盛の軍は敗れ、保忠は甲斐(かい)まで逃れて自害した。義秀は五百人を率いて船に乗り安房へ逃れたが、その後の行方は分からない。あるいは戦死したともいう。時に三十八歳であった(注:『東鑑』による。考えるに、安房には朝夷郡(あさいのこおり)という地名があり、思うに義秀は初めここに住んでいたためこれを号としたのであろう。言い伝えによれば、義秀はここに逃れてきた後、さらに高麗(こうらい)へ渡ったという。『平氏系図』にもこのことが記されている。延宝年間、人を遣わして義秀の事蹟を対馬守(つしまのかみ)宗義真(そうよしざね)に尋ね、朝鮮に照会させたところ、「朝鮮の釜山浦(ふさんぽ)絶影島(ぜつえいとう)に義秀を祀る祠が今も存在し、土地の人が時々これを祭っている」との返答があった。『東鑑』では義秀・朝盛(とももり)はともに死者の名簿に載っているが、朝盛は実際には死んでおらず、そのことは安貞元年の項に見える。義秀もあるいは同様であったのだろうか。ただし義秀を鞆絵(ともえ)が生んだ子とするのは誤りである。この説は今井兼平(いまいかねひら)伝の末尾に見える)。常盛の子は朝盛である(注:『平氏系図』による)。

和田朝盛

和田朝盛(わだともり)は右兵衛尉(うひょうえのじょう)であり(注:『平氏系図』による)、新兵衛尉(しんびょうえのじょう)と称した。腕力があり、武事に習熟し、和歌を好み、蹴鞠(けまり)にも巧みで、源実朝に親しく近侍した。義盛が挙兵するに及び、朝盛は内心これが不義であると分かっていたが諫め止めることができず、深く憂えて出家して逃れようとした。その夜、実朝のもとに参上した。折しも実朝は月見の宴を開いており、朝盛は和歌を詠んでこれを献じたところ、実朝は大いにこれを称賛し、その場でいくつかの地頭職を与えた。朝盛は拝礼して退出したが、家には帰らず、そのまま僧坊に赴いて髪を剃り、名を実阿弥陀仏(じつあみだぶつ)と改めて京都へ向かい、家に書状を残して言った。「近ごろの謀議は、もはや途中でやめられる情勢ではない。主君に背けば不忠となり、親を残せば不孝となる。忠と孝を両立させることはできないので、いっそ世事を捨てて仏門に身を委ねることにする。」

朝盛は嫡孫であり軍事に長けていたため、義盛はこれを頼みに事を成そうとしていたので、これを聞いて大いに驚き、まるで左右の手を失ったかのように嘆き、義直に命じて追わせた。手越(てごし)の駅まで追いついて、朝盛を説き諭し、共に鎌倉へ連れ戻った。実朝はまだ義盛に謀反の企てがあることを知らず、この話を聞いて深く朝盛を憐れみ、人を遣わして義盛を見舞わせた。朝盛が戻ると、さらに使者を遣わして呼び入れた。朝盛は僧衣のまま参上したが、実朝の寵愛はこれほどのものであった。

やがて朝盛は親族とともに幕府を攻めたが、兵は敗れて逃走した(注:考えるに、本書では朝盛を死者の名簿に載せているが、前の記事ではその逃亡を記している。つまり死者の名簿に載せたのは、恐らく一時的な伝聞の誤りであろう)。承久の乱では官軍に属した(注:『東鑑』による)。官軍が敗れると、身を潜めて難を逃れたが、安貞元年、京都で捕らえられた(注:『東鑑』に記載漏れがある)。義盛の弟は義茂(よしもち)である(注:『平氏系図』による)。

和田義茂

和田義茂(わだよしもち)は小二郎(こじろう)と称し、勇猛で力が強かった。小坪の戦いでは和議が成立したことを知らず、七騎を率いて深く敵中に入り激しく戦ったので、敵兵は総崩れとなった。義澄が鐙摺から出兵するに及んで、重忠の兵はますます散り散りに逃げた。義茂は意気揚々として、ただ一人弓を杖にして休んでいた。重忠の部将である綴太郎(つづりのたろう)とその弟の五郎(ごろう)は勇猛で知られており、群れを離れて共に進み、矢をつがえて射ようとした。義茂は「なぜ組み打ちで勝負を決しないのか」と言った。太郎は弓矢を捨てて進み出たが、義茂はこれを組み倒して首を斬った。五郎が続いて進み出たが、義茂はまたこれを斬った。太郎の子の小太郎(こたろう)が義茂を射たところ、義茂はわざと傷を受けたふりをして言った。「お前の矢は私の鎧を貫くことはできなかった。私は二日間駆け通しで疲れ果てて戦えない。お前は自らの手で私を討って父の仇を討つがよい。」小太郎はこれを信じて刀を振るって斬りかかったが、義茂は素早く立ち上がってこれを捕らえ、また斬り捨てた。三つの首を提げて馬に乗り、大声で「戦いたい者はかかってこい」と叫んだ。重忠は怒り、自ら組み打ちしようとしたが、義茂は重忠の馬を射倒した。義盛・佐原義連(さわらよしつら)らが義茂を救援に来たので、重忠は危うく難を逃れることができなかったほどであった。やがて和議が成立し、祖父の義明はこれを聞いて喜び、佩刀(はいとう)を与えて褒賞した(注:『源平盛衰記』による)。

頼朝が東国を平定するに及び、足利俊綱(あしかがとしつな)が平氏に味方していたため、頼朝は義茂にこれを討たせた。佐原義連と葛西清重(かさいきよしげ)、宇佐美実政(うさみさねまさ)がこれに副えられた。まだ到着しないうちに、俊綱の家来である桐生六郎(きりゅうろくろう)が俊綱を斬って降伏した。義茂は使者を走らせてその首を鎌倉に伝え、あわせて桐生六郎を縛って送った(注:『東鑑』による)。その後、落馬して死んだ(注:『和田系図』による)。

子の重茂(しげもち)は高井三郎(たかいさぶろう)と称し、武勇は人に優れていた。義盛が挙兵するに及んで、ひとり幕府方に帰参し、義秀と出会って組み合い、共に落馬して勝てずに死んだ。当時、幕府方の兵で義秀と互角に渡り合い、共に落馬した者は重茂ただ一人であり、人々はこれを惜しんだ。義茂の弟の義長(よしなが)は胤長(たねなが)を生んだ。胤長は平太(へいた)と称し(注:『東鑑』による)、弓の名手として知られた(注:『和田系図』による)。かつて頼家に従って伊豆で狩りをした際、洞窟の中で大蛇を斬ったことがある(注:『東鑑』による)。義盛が死ぬに及んで、実朝は胤長を陸奥で殺した(注:『東鑑』『和田系図』による)。

梶原景時

梶原景時(かじわらかげとき)は平三(へいざ)と称した(注:『東鑑』による)。父の景清(かげきよ)は五郎(ごろう)と称し(注:『平氏系図』『三浦系図』による)、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の子孫である(注:『源平盛衰記』による。系図の諸本には、曾祖父の景久(かげひさ)が初めて梶原を称したという説もあれば、高祖父の鎌倉権大夫(ごんのたいふ)景茂(かげもち)が初めて梶原を称し、景政とは別の一族であるという説もある。ただし『平氏系図』のある一本で景政の子孫とするものは、本書の一の谷合戦の条と一致するため、今はこれに従う)。人となりは才知武勇に優れ、狡猾で本心を隠し、弁舌に長け、和歌を好んだ。

源頼朝が伊豆で挙兵すると、景時は一族の大庭景親(おおばかげちか)に従い、兵を集めてこれを攻めた。頼朝は敗れて土肥杉山(どいすぎやま)に逃げ、景親らは兵を率いてその後を追った。頼朝は土肥実平(どいさねひら)とともに山中に身を潜めたが、景時はこれを知りながら黙っており、景親を欺いて「ここには人の気配がない」と言い、共に隣の峰に登って立ち去った。頼朝はこれによって難を逃れることができた(注:考えるに『源平盛衰記』の記載はこれと異なる。詳しくは頼朝伝を見よ)。

頼朝の勢いが次第に盛んになると、関東の将士は風になびくように従った。景親は恐れて降伏してきたが、頼朝はこれを殺した。景時は実平を通じて降伏を願い出て、頼朝はこれを赦して用いた。頼朝はその才幹を愛し、日ごとにこれを重用した(注:『東鑑』による)。平広常(たいらのひろつね)を殺す際には、密かに景時にこれを命じた。景時は策を巡らし、広常と双六(すごろく)を打ちながら隙をうかがってその首を斬った。頼朝はこれを勇壮なことと評した(注:『愚管抄』による)。

寿永三年、源範頼・源義経が諸将を率いて源義仲を討った際、景時は義経の軍に属した(注:『源平盛衰記』による)。範頼・義経および安田義定(やすだよしさだ)らは急ぎ使者を送って勝利を報告したが、慌ただしい中で諸将の報告の多くは詳しく調べられていなかった。ひとり景時の書状だけは、捕虜の姓名や首級の数を詳しく備えて記していた。頼朝は再三これを称賛した(注:『東鑑』による)。

この月、範頼・義経を遣わして一の谷を攻めさせ、実平を侍大将として範頼に属させ、景時を義経に属させて軍事を監督させた。もともと畠山重忠は義経に従って京都に至ったが、後に範頼に属していた。景時は寵愛をたのみに将士を軽んじ、ひとり軍令を専断したので、義経は不快に思った。景時は範頼のもとへ移り、実平が代わって義経に属し、重忠もまた景時のもとで働くことを恥として、兵を率いて義経に属した(注:考えるに『東鑑』では、景時・重忠は共に範頼の部下にあるとされ、前後の文章を見ても交代の記載がない。今は本書によってその詳細を挙げる)。

景時は子らを率いて城の東門である生田森(いくたのもり)に向かった。範頼は景時に「城は険しく堅固である。今は我が兵が少ないので、急には落とせない。後続を待つべきだ」と言い、景時はこれを軍中に伝令した(注:『源平盛衰記』による)。子の景高(かげたか)はこれを聞いて言った。「将軍の号令は何と誤っていることか。そもそも戦陣に臨んでは、親子の情に構わず先を競って進むのが武士の常である。どうして他人が後から来るのを待って、座視してその戦いを見ていられようか。」(注:『南都本太平記』による)そして自ら身を挺して城門に迫り力戦した。

そこで景時は長子の景季(かげすえ)ら五百余騎を率いて、鬨(とき)の声をあげて進んだ。城兵二千余騎がこれを取り囲んで攻撃したので、血みどろの戦いの末に退いた。景季は深く敵中に入り込んでおり、景時は敵に捕らえられたのではないかと思い、兵二百余騎を率いて再び城中に入り、大声を上げて奮戦した。城兵は崩れ立ち恐れをなして、誰も近づく者がなく、そこで景季と巡り会うことができた。景時は大いに喜び、自ら組み打ちして戦い、自らの手で城兵の真鍋四郎(まなべしろう)を斬り、兵を収めて退いた。世にこれを「梶原の二度駆け」と伝えている。このとき、景時は梅の花を折って箙(えびら)に挿しており、平氏方の諸将はこれを見て、その風流さを称えたという(注:『南都本平家物語』『源平盛衰記』による。なお『長門本平家物語』には、梅の花を箙に挿して戦ったのは景季であるとし、そのとき本三位(ほんざんみ、平重衡)の使者と称する者が一句を唱えて「骨無くも見ゆる物哉桜刈」と詠み、景季が馬から下りてこれに応え「生取りとらむと思へば」と続けたとあり、この話とは異なっている)。

文治元年、義経が鎮西(ちんぜい、九州)で平氏を討とうとし、渡辺(わたなべ)・福島で船団を整えていた。景時は船に逆櫓(さかろ)を設けることを提案したが、義経はこの提案を退けたため、景時はこれを恨みに思った(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。渡辺・福島の地名は『平家物語』による)。

義経はわずか五艘の船を率い、風波を冒して屋島(やしま)に到達し、これを攻め落とした。その五日後、景時らの軍二百余艘が続いて到着した。義経が海上で平氏をさらに攻めようとした際、景時は自分を先鋒にするよう願い出たが、義経はこれを許さなかった。景時は罵って「この人は将帥の器ではない」と言った。義経は大いに怒り、自らこれを斬ろうとした。景時は立ち上がって「私はただ鎌倉殿(頼朝)を主君とするのみだ」と言い、刀の柄を叩いて詰め寄った。三浦義澄らがその間に割って入り、なだめて事を収めた(注:『平家物語』による)。

景時は義経の功績を妬み、頼朝に書状を奉って軍中の不思議な出来事を報告して言った。「屋島城が陥落した日、神兵が我が陣に現れました。三月二十日の夜、私の従者が夢の中で石清水(いわしみず)の神の使いが書を示すのを見て、それには『未の日に至れば平家は滅びる』とありました。果たしてその通りになりました。また参州(さんしゅう、三河守範頼)の軍人が大きな亀を捕らえ、参州はこれを放してやりました。平氏が滅びた日、その亀が我が船の前に浮かび、白い鴎(かもめ)が船の上を舞い飛びました。また白旗が一流(ひとながれ)空に現れ、しばらくして消え去りました。これは神明が我らを助けているのではないでしょうか。しかし判官(ほうがん、義経)は自らの功績だと思い込み、いたく自らを誇り、兵士たちを労わらないので、人々は皆危惧しております。私はしばしばこれを諫めましたが聞き入れられず、かえって忌み嫌われ怒りを買い、常に何かにつけて私を陥れようとしております。どうか早く鎌倉に帰らせていただきたく存じます。」頼朝はこの書状を得て怒った。

西海(さいかい)が平定されると、景時は鎌倉に帰り、間もなく土肥実平とともに近畿総追捕使(そうついぶし)となった。もともと義経は叔父の備前守(びぜんのかみ)行家(ゆきいえ)と不和であったが、行家は源義仲に頼った。義仲が敗れると、義経が京都を鎮めることとなり、行家は密かに義経と行き来するようになった。頼朝はますます義経が自分に背くのではないかと疑い、景季に命じて義経に行家を討つよう伝えさせ、あわせて義経の動静を探らせた。

景季は戻って報告した。「初めに豫州(よしゅう、義経)を訪ねましたが、豫州は病気だと称して会いませんでした。命は極めて重大な密事でしたので、他人を通じて伝えるわけにはいかず、一両日を経て再び訪ねたところ、豫州は脇息(きょうそく)にもたれて会ってくれました。顔つきはやつれ、灸(きゅう)の跡が数箇所ありました。私が厳命を伝えると、豫州は『行家は片手間の武将で制しきれる相手ではない。私は病が癒えるのを待って、おいおい図るつもりだ。お前はこの旨を報告するがよい』と申しました。」頼朝は「あれは行家に味方しているから、わざと病と偽っているだけだ」と言った。景時はこれに乗じて讒言し、「私が実情を推し量りますに、あながち根拠のないことではありません。人は一日食べず一晩眠らないだけでも、体はすでにやつれるものです。灸を何箇所か据えたとて、瞬く間に治るものを、日を経てから面会するとは、策を弄して病を偽っているのではないでしょうか。行家に味方しているとのお疑いは、もっともなことです」と言った(注:『東鑑』による)。

景時はさらに説いて言った。「今や平氏は殲滅され、天下の実権は将軍にあります。私がひそかに推し量りますに、勇猛さと智謀において天下に判官に並ぶ者はありません。一の谷を攻め落とし、屋島を陥落させた、その優れた謀略と奇策は一世を超えるものです。後日、将軍の患いとなる者は、必ずこの人でありましょう。」頼朝はこの言葉を聞き入れ、諸将を召し集めて義経を討つことを議したが、諸将は口を閉ざして誰も進んで答える者がなかった。頼朝は不快に思い、景時にこれを命じた。景時は自ら勝ち目がないと考え、へりくだって辞退して言った。「将軍が私に判官を討たせるのは得策ではありません。私はもともと判官と不和であり、もし急に西へ上れば、判官はこれを聞いて必ず迎え撃つでしょうから、かえって将軍の威光を損なうことになりましょう。人を制するには、戦わずして勝つことを上策とします。どうか他の者に命じて、判官の不意を突かせてください」(注:『源平盛衰記』による)。

頼朝はそこで土佐坊昌俊(とさぼうしょうしゅん)を遣わして義経を襲わせたが、かえって討たれてしまった。これによって両者の確執はますます深まり、後についに義経を陥れたのは、すべて景時の謀略によるものであった(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。畠山(重忠)・河越(かわごえ)などの諸将は、皆これを憎まぬ者はなかった(注:『源平盛衰記』による)。

正治元年、頼朝が薨去(こうきょ)し、頼家がその職を継いだ。景時は結城朝光を頼家に讒言して言った。「朝光は常々恨みと不満を抱き、当世を誹謗しております。『忠臣は二君に仕えず』などという言葉を口にしておりますが、これは何ということでしょうか。早々に始末すべきです。」朝光はこれを聞いて大いに恐れ、親しくしていた三浦義村のもとを訪ねて対策を相談した。義村は和田義盛らと相談し、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に古参の武士たちを残らず集め、六十六人が同盟連署して景時の讒言を訴えることとした。文筆に優れた中原仲業(なかはらのなかなり)は景時と折り合いが悪かったので、彼にその訴状を書かせた。草稿ができて読み上げたところ、「鶏を養う者は狸を飼わず」という一節に至って、義村は手を打って感嘆した。

頼家はその書状を景時に示したが、景時はこれに弁明することができず、親族を率いて所領の一宮(いちのみや)に逃れた。子の景茂(かげもち)は頼家の寵愛を受けていたため、独り鎌倉に留まった。頼家が比企能員(ひきよしかず)の屋敷で宴を催した際、景茂もこれに従った。頼家は景茂に「お前の父は権勢をほしいままにし、諸将を軽んじている。諸将は皆怒っている」と言った。そのとき酒の給仕をしていた仲業は、景茂が「私の父は代々亡き幕下(頼朝)の格別の待遇を受けてまいりました。幕下がお亡くなりになった後は、上に頼るところを失いました。今さら何をたのみとして勝手気ままに振る舞いましょうか」と答えるのを聞いた。仲業の筆先は刃よりも鋭かったが、景茂の言葉遣いと態度は少しも臆することがなく、人々はその受け答えを称えた。

間もなく、景時はひそかに鎌倉に戻ったが、頼家は怒って義盛らに命じてこれを追わせ、屋敷を壊して永福寺(ようふくじ)に寄進させた。景時は再び一宮に逃れ、ひそかに戦の備えを整えた。翌年正月、一族を挙げて京都へ向かった。頼家は比企能員らを遣わして追撃させた。景時父子は駿河(するが)の清見関(きよみがせき)まで行ったところ、たまたま蘆原小二郎(あしはらこじろう)・飯田五郎(いいだごろう)らが群れ集まって弓の稽古をして帰ろうとしているところに出くわし、彼らはこれを見て不審に思い、殺そうとした。景時は馬を走らせて通り過ぎたが、人々は急いでこれを追った。景時は逃れられないと悟り、引き返して狐崎(きつねざき)で戦い、飯田四郎(いいだしろう)を斬った。やがて吉香友兼(きっこうともかね)らが攻め寄せ(注:友兼の名は『尊卑分脈』『吉川家伝』による)、父子ともに敗れて死んだ。翌日、人々は景時父子の首を山中で見つけ、これを道にさらした。

これより先、景時は子弟に「駿河の吉香友兼は勇猛さでこの国随一である。もし彼の屋敷の前を無事に通り過ぎることができれば、もはや患うことはないだろう」と語っていたが、果たしてその友兼に討たれたのであった。景時の弟の刑部丞朝景(ともかげ)は、北条氏に降ったことによって、頼家に赦されて罪を問われなかったが、後に義盛の反乱に加わって敗死した(注:『東鑑』による)。

これより先、景時は咎めを受けたとき、武田有義(たけだありよし)を将軍に立てようと謀り、ひそかに有義に書状を通じた。有義はこれを承知した。有義の弟の信光(のぶみつ)がこれを調べようとして有義の屋敷に至ったところ、有義は気づいて逃げ去った。頼家はまた勝木則宗(かつきのりむね)が景時に与していると聞き、捕らえて取り調べた。則宗は白状して「景時は私に西海の一党へ書状を届けさせ、そこには『景時は密勅を奉じて鎮西を管轄する。京都に集まるように』とありました」と言った。これによって景時の謀反の企ては、いよいよ明らかになった。景時は頼朝・頼家父子の寵愛をたのみとして、人をあざむき侮ることこの上なく、ついに身の破滅を招いたのである(注:『東鑑』による)。

長子は景季、次に景高。景高は平二左衛門(へいじざえもん)と称した。景高の二子のうち、長男は景員(かげかず)といい荻野二郎(おぎのじろう)と称した。次男は景継(かげつぐ)といい三郎(さぶろう)と称し、一族の禍にかかって庶民に落ちぶれていた。実朝が跡を継ぐと、その慎み深さを愛して共に幕府に召し出した。景継はかつて実朝に近侍していたとき、誤って灯火を消してしまい、その夜のうちに出奔して永福寺に入り僧となった。実朝はこれを憐れみ、使者を遣わして諭させたが、景継は使者に会わず、姿をくらまして去った。

承久元年、実朝が大臣拝賀の儀を行った際、あらかじめ随兵として小山朝政(おやまともまさ)とその弟の結城朝光が選ばれていたが、朝光が喪に服することとなったため、改めて景員と二階堂行村(にかいどうゆきむら)がこれに代わった。頼朝はかつて定めを立て、「およそ随兵を選ぶには、家柄・弓馬の腕前・容儀の三つによる。この三つが備わらない者は、決して選ばれることはない」としていた。景員は仕官の道が滞っていたが、特にこの選に入り、当時の人々はこれを名誉なこととした。

次に景茂は三郎兵尉(さぶろうびょうえのじょう)と称し、家茂(いえもち)という子があったが、土屋宗遠(つちやむねとお)と不和であったため、承元年間に宗遠に殺された。次に景国(かげくに)、次に景宗(かげむね)、次に景則(かげのり)、次に景連(かげつら)は、皆父とともに殺された(注:『東鑑』による)。

梶原景季

梶原景季(かじわらかげすえ)は源太(げんた)と称し、左衛門尉となり、騎射に最も優れていた。頼朝が親しい家臣十一人を選んで寝所に直宿させた際、景季もこれに選ばれた(注:『東鑑』による)。

頼朝は生唼(いけずき)、磨墨(するすみ)という二頭の駿馬を持っていた。諸将が源義仲を討った際、景季は頼朝に面と向かって願い出た。「戦陣で貴ばれるものは、馬に勝るものはありません。どうか生唼を賜り、まっすぐ宇治川(うじがわ)を渡って真っ先に敵を打ち破りとうございます。」頼朝は景時に常々恩義があったため、その子の願いを退けたものの、その不遜な態度を内心快く思わず、こう言った。「生唼は私が万一のときのために備えている馬で、諸将が重ねて求めても与えたことはない。磨墨もまた優れた駿馬であるから、今これをお前に授けよう。」景季は拝礼して退出した。

ところがその後、頼朝は生唼を佐々木高綱(ささきたかつな)に与えた。景季が諸将とともに京都へ向かい、駿河の浮島(うきしま)まで来たとき、景季は諸将の馬を見て皆磨墨に及ばないと思い、金子家忠(かねこいえただ)に「この馬の骨格はどうか」と尋ねたところ、家忠は口を極めて褒めたたえたので、景季は大いに喜んだ。ちょうどそこへ生唼が来るのを見て、景季はきっと範頼か義経に下賜されたのだろう、そうでなければ法皇(ほうおう)に献上されたのだろうと思った。馬を引く従者に尋ねたところ、「佐々木高綱に賜った」との答えであった。景季は憤然として「将軍はどうしてこのように武士を分け隔てなさるのか。私は高綱と刃を交えて死んでやる」と言った。

そこへ高綱が通りかかり、穏やかな言葉でこれをなだめた。景季の怒りは解けた。宇治川に至ると、景季は高綱に続いて先陣を切った。一の谷の戦いでは、父や弟とともに力戦し、菊池高望(きくちたかもち)を討ち取った(注:『源平盛衰記』による)。

文治年間、頼朝に従って藤原泰衡を討った。軍が白河関(しらかわのせき)に至ると、頼朝は関の明神(みょうじん)に幣(ぬさ)を奉り、景季に「お前は能因(のういん)の昔を思い出さないか」と尋ねた。景季はすぐに和歌をもって答えた。景季は父の景時、弟の景高とともに和歌に優れ、その作は多くの人々の口にのぼった(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。父とともに敗れて死んだ。年三十九であった(注:『東鑑』による)。