卷之一百九十一 列傳第一百十八

將軍家臣一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次9
  1. 平廣常
  2. 千葉常胤
  3. 千葉胤正
  4. 千葉胤賴
  5. 三浦義明
  6. 三浦義澄
  7. 三浦義連
  8. 三浦義實
  9. 三浦義忠

平廣常

平広常(たいらのひろつね)は、上総介(かずさのすけ)高望(たかもち)の子孫である。父は常隆(つねたか)といい、上総介を務めた(注:『平氏系図』による。本書では「隆」の字を「澄」とする説もある)。広常は上総権介(かずさのごんのすけ)となり(注:『東鑑』による)、介八郎(すけのはちろう)と称された。保元・平治の乱では源義朝(みなもとのよしとも)に属し、勇猛の誉れが高かった(注:『保元物語』『平治物語』による)。いわゆる「十七騎」の一人である(注:『平治物語』による)。その後は平氏に属した。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵すると、北条時政(ほうじょうときまさ)は頼朝に対し、広常が東国きっての名族であるから真っ先に味方に引き入れるべきだと説いた(注:『源平盛衰記』による)。頼朝は和田義盛(わだよしもり)を遣わして広常を召したが、広常は形勢をうかがうばかりで応じなかった(注:『源平盛衰記』では義盛ではなく安達盛長(あだちもりなが)とする)。まもなく石橋山の戦いで頼朝方が敗れ、頼朝が上総に逃れると、頼朝は再び義盛を遣わして広常を促した。広常は兵の徴集がまだ整っていないと言い訳をして、なかなか駆けつけなかった(注:『東鑑』による)。しかし千葉常胤(ちばつねたね)らが頼朝に応じたと聞くに至り、ようやく周東(すとう)・周西(すさい)・伊南(いなん)・伊北(いほく)・庁南(ちょうなん)・庁北(ちょうほく)の兵二万を率いて隅田川(すみだがわ)で頼朝勢に合流した。頼朝は広常の参陣が遅れたことを怒り、すぐには対面せず、土肥実平(どいさねひら)を通じて「後軍に控えて指揮を待て」と伝えさせた。もともと広常は、「今、天下の兵馬はことごとく平相国(へいしょうこく、平清盛)の支配下にある。頼朝はただ一人で挙兵したのだから、事はうまくいくはずがない。もしその人物が凡庸で将帥の器でなければ、斬って平氏に差し出してやろう。それに、私が今大軍を率いて馳せ参じれば、頼朝はさぞ大喜びするに違いない」と考えていた。ところがこの命令を聞くとひどく気落ちし、頼朝には人君の器量があると悟って、心服して仕えるようになった(注:『東鑑』『源平盛衰記』を参照)。頼朝は広常の軍勢を合わせて勢いを大いに増した。平維盛(たいらのこれもり)が富士川で敗れると、頼朝は進軍してこれを追撃しようとしたが、そのとき佐竹義政(さたけよしまさ)・佐竹秀義(さたけひでよし)が常陸(ひたち)で兵を擁していたので、広常は千葉常胤・三浦義澄(みうらよしずみ)とともに、まずこれを滅ぼすよう勧めた。頼朝が常陸に赴くと、義政・秀義の一族は勢力が強く、その威勢は国内に轟いていた。そこで諸将と協議し、広常が彼らと姻戚関係にあることから、広常を遣わして義政・秀義を説得し降伏させることにした。しかし秀義は、父の隆義(たかよし)が平氏に属して京にいることを理由に従わなかった。義政だけが広常とともにやって来た。頼朝は義政の従者を欺いて遠ざけ、広常に命じて大矢橋(おおやばし)の上で義政を斬らせた。秀義はついに金砂城(かなさじょう)に立てこもった。金砂は高く険しく、頼朝は攻めても攻め落とせなかった。翌日、広常は頼朝に「秀義の叔父に藏人義弘(くろうどよしひろ)という者がおり、狡猾で欲深い人物です。厚い利益で誘えば、必ず秀義を裏切るでしょう。義弘を味方に付ければ、秀義を討つのは難しくありません」と言った。頼朝はこれを了承した。広常は義弘のもとへ行き、「東国の者たちは、みな武衛(ぶえい、頼朝)に帰服しています。今、冠者(かじゃ、秀義)は孤城に立てこもってこれに抗おうとしていますが、その滅亡は目に見えています。あなたのために考えれば、早く考えを改め、冠者を攻め殺すべきです。そうすれば死を免れるだけでなく、その所領は永くあなたのものとなりましょう」と説いた。義弘は大いに喜び、広常の兵を引き入れて、鬨の声を上げて城の背後に出た。城兵は驚き乱れて支えきれず、秀義は城を捨てて逃げた。広常はもとより兵馬が多く、その功に頼んで驕り高ぶっていた。三浦義澄が三浦で頼朝をもてなした際、召しに応じて集まった広常は、頼朝を遠くに望み見ながら、馬上から会釈するだけであった。佐原義連(さはらよしつら)が下馬するよう勧めたが、広常は「わが家は三代にわたってそのような礼儀に慣れておらぬ」と言って、ついに下馬しようとしなかった。酒宴がたけなわになると、岡崎義実(おかざきよしざね)と酔いに任せて怒り争った。頼朝は積もる不満を抑えきれず、次第に広常を疎んじるようになった。広常もまたそれをうすうす感じ取り、頼朝が京の人々を格別に重んじていることから、自分の娘婿である前伯耆守(さきのほうきのかみ)平時家(たいらのときいえ)を頼朝に推挙して機嫌を取ろうとした。しかし頼朝は最後まで不快感を解かなかった(注:『東鑑』による)。後に頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)に命じて広常を討つことを図らせた。景時は広常と双六(すごろく)に興じ、その不意を突いて急に斬り殺した(注:『愚管抄』による)。

広常の子の良常(よしつね)は、小権介(こごんのすけ)と称されたが、これも殺された(注:『千葉系図』による)。広常はかつて甲冑一領を上総一宮(かずさいちのみや)に奉納していたが、この時になって神官がそのことを頼朝に告げた。頼朝は何か曰くがあるのではと考え、人を遣ってそれを取り寄せた。中には一通の書状が入っており、開いて読むと、すべて頼朝の武運を祈る言葉であった。ここに至って頼朝は初めて広常が無実であったことを知り、深く悔やんで、広常の弟である天羽直胤(あもうなおたね)・相馬常清(そうまつねきよ)に(注:所領などを与えるよう)命じた(注:『東鑑』による)。頼朝が上洛した際、法皇に次のように奏上した。「上総介平広常という者がおり、もとより多くの兵を擁しておりました。臣が挙兵した当初、これを召して味方の軍に加え、たびたび大功を立てさせました。しかし広常は常々臣に、『今、関東に確固たる地盤を築いた以上、誰がこれをどうこうできようか。何をわざわざ朝廷のために骨を折る必要があろうか』と申しておりました。臣はひそかに、良からぬ考えを抱く者を置いておけば天罰が及ぶのではと恐れ、それゆえ先んじてこれを誅殺したのでございます。臣は至誠をもって君にお仕えし、この身を国に捧げる所存です」。これを考え合わせると、広常が英雄豪傑として名声があったために、あえてこれを口実として取り上げたものと思われる(注:『愚管抄』による)。

千葉常胤

千葉常胤(ちばつねたね)は、平広常と同族である。高祖父の常将(つねまさ)は下総国千葉郡(しもうさのくにちばぐん)に住み、常将は常永(つねなが)を生み、常永は常兼(つねかね)を生んで、常兼は従五位下下総権介(じゅごいのげしもうさのごんのすけ)となった。常兼は常重(つねしげ)を生み、常胤はその長男である。世に千葉介(ちばのすけ)と称された(注:『東鑑』『平氏系図』『千葉系図』を参照)。人柄は温厚重厚で慎み深く、代々関東の名族であった。源頼朝が挙兵すると、安達盛長(あだちもりなが)を遣わして下総に檄文を伝えさせ、盛長は常胤に会って頼朝の意向を伝えた。常胤は思案するばかりでなかなか返答しなかったが、傍らにいた子の胤正(たねまさ)・胤頼(たねより)が進み出て、「武衛(頼朝)は正義を掲げて挙兵し、国のために害を除こうとしておられます。しかもまず私どもに兵を求めてこられました。順に従って逆を討つことに、疑う余地はありません。どうか速やかに命に応じてください」と説いた。常胤はそこで、「将軍が祖先の絶えた家業を再興なさろうとしているのだから、常胤があえてその命に従わないことがあろうか」と答え、盛長に盃を賜ってねぎらった。さらに常胤は盛長に、「今、幕府(頼朝の陣所)が構えている場所は、要害の固さを備えていません。相模の鎌倉は源氏の祖先ゆかりの地です。ますます軍を移してそこに拠るべきでしょう。常胤もまた子弟を率いてお迎えいたしましょう」と告げた。盛長がこれを頼朝に報告すると、頼朝は大いに喜んだ。常胤が兵を集めて出発しようとしたとき、胤頼が「国の目代(もくだい)は平氏の置いた者です。我々のすることをただ黙って見ているはずがありません。まず目代を追い払ってから進軍すべきです」と言った。常胤はこれに同意し、胤頼らに命じてこれを襲わせ、風に乗じて火を放たせた。敵は支えきれず、胤頼は自ら目代を斬った。干田親政(ひただちかまさ)という者は平氏と姻戚関係にあり、目代が敗死したと聞いて兵を整え常胤を攻めようとしたが、常胤の孫の成胤(なりたね)がこれを撃って親政を生け捕りにした。そこで常胤は騎馬三百余を率いて下総国府(しもうさのこくふ)で頼朝を出迎え、捕虜を献上した。頼朝は大いに喜び、常胤を自分の傍らに招き入れ、たいへん手厚くもてなして、「今より後、私はあなたを父のように思う」と言った(注:『東鑑』による。『源平盛衰記』によれば、石橋山の戦いに敗れた後、頼朝は上総に赴いたとする)。常胤は「将軍はより多くの旗を立てて軍勢の威容を盛んに見せるべきです。形勢をうかがっている江戸・葛西の者たちも、みな精鋭が大勢集まったと見て、後を追うように帰服してくるでしょう」と進言し、頼朝はこれに従った(注:『源平盛衰記』による)。

寿永(じゅえい)三年、常胤は源範頼(みなもとののりより)に従って源義仲(みなもとのよしなか)を討ち、また西海で平氏を攻め、いずれも戦功を挙げた。常胤は老将として威望が以前から高く、頼朝は範頼に命じて常胤を特に厚く敬うようにさせた。文治(ぶんじ)元年、範頼は長門(ながと)に至り、豊後(ぶんご)へ向かおうとしていた。しかし船が揃わず、食糧も乏しかった。軍を周防(すおう)へ引き返すと、将兵の多くは東国出身者で、日夜故郷へ帰ることばかり思っていた。和田(わだ)・大多和(おおたわ)などの諸将の中には、軍を捨てて東国へ帰ろうと謀る者まで現れた。しかし常胤だけは労苦を口にしなかった。やがて範頼が近隣の国々から兵糧を徴発すると、戦船も次第に集まった。出発するにあたり、常胤は諸将に先んじて進み出た。頼朝は範頼に、「常胤は老齢でありながら、我が身を顧みずに奮闘している。格別に厚遇すべきである。常胤の功に報いようとすれば、一生かけても報い尽くすことはできない」と諭した。まもなくその功により下総・三崎(みさき)の所領を増やされた。(文治)三年、京にいた武士たちがあちこちで乱暴を働き、群盗があふれた。朝廷は頼朝にこれを鎮めるよう命じた。そこで頼朝は常胤と下河辺行平(しもこうべゆきひら)を遣わして取り締まらせた。出発にあたり、頼朝は権中納言(ごんちゅうなごん)藤原経房(ふじわらのつねふさ)に書状を送り、「中原親能(なかはらのちかよし)・大江広元(おおえのひろもと)は、都におりますものの、閑院(かんいん)の修造・土木工事を監督しているだけの者です。しかもこの二人は武芸に優れているわけではなく、もし乱暴を働く者が現れても、彼らの手に負えるものではありません。そこで今、千葉常胤・下河辺行平を遣わします。この二人は関東の勇士で、多くの兵馬を率いております。横暴を取り締まるには、この二人に及ぶ者はありません。それゆえ選んで任じました。存分にその力を発揮させてください」と伝えた。二人が京に到着すると盗賊は姿を消し、京はすっかり治まった。(文治)五年、頼朝が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討った際、常胤は旗を作って頼朝に献上した。常胤は源頼義(みなもとのよりよし)が東征の折に用いた旗を真似て作り、これを献上したのである。軍を出すにあたり、常胤は八田知家(はったともいえ)とともに東海道の兵を率い、岩城(いわき)・岩崎(いわさき)を経て、隈河(くまがわ)を渡ってこれを撃った。こうして陸奥(むつ)は平定された(注:『東鑑』による)。

建久(けんきゅう)元年、頼朝が上洛するにあたり、畠山重忠(はたけやましげただ)を先陣とすることは決まったが、後陣を任せる人物がまだ定まっていなかった。八田知家が、「千葉常胤は歴戦の老将で、皆が推服する人物です。まさにその人がふさわしいでしょう」と言い、頼朝はこれに従った。法皇は頼朝に功臣十人を選んで官位を授けるよう命じ、常胤もその賞に与ることになったが、常胤はこれを辞退し、孫の常秀(つねひで)に譲った。もともと頼朝が諸将に文書を賜る際には、紙の末尾に必ず自ら花押(かおう)を書いていたが、右近衛大将(うこんえのだいしょう)を拝任して政所(まんどころ)を置いてからは、自ら署名することはなくなっていた。政務を執り始めた当初、常胤に下文(くだしぶみ)を賜り、その家柄と功績を称え、子孫に永く所領を伝えるよう命じた。常胤は、「今回いただいた文書は、役人の名が署名されているだけで、これでは後世に伝えるには物足りません。どうか御自らの花押をいただき、家の誉れとしとうございます」と願い出て、頼朝はこれを聞き入れた。さらに常胤が美濃(みの)の蜂屋荘(はちやのしょう)を求めると、頼朝は、「そなたの功績は最も大きく、私はけっして忘れてはいない。しかし後白河法皇(ごしらかわほうおう)との間に、『蜂屋荘には地頭職を補任してはならない』という約束がある。いずれ他に相応しい土地を見つけて、そなたの子孫のために与えよう」と語り、その言葉には心のこもった思いやりがあった。常胤は感激して涙を流し、「将軍が至誠をもって私を遇してくださる以上、たとえその土地をいただけなくとも、もはや何の恨みもございません」と言った(注:『東鑑』による)。常胤はその後、正五位下(しょうごいのげ)に叙せられた。建仁(けんにん)元年に没した。享年八十四(注:『東鑑』『千葉系図』による)。

そもそも頼朝が挙兵したとき、常胤は一族を挙げて帰順し、たびたび戦功を立て、力を尽くし忠義を尽くしたことは、他の諸将の及ぶところではなかった。頼朝は深く常胤を頼りとし信頼して、軍事上の大小の判断について、常胤に相談して決めないことはなかった。頼朝の常胤への厚遇は終始変わることなく、常胤はよくその功名を全うすることができた。頼朝は常々、「功臣に恩賞を行うなら、常胤を第一とすべきだ」と言っていたという。その寵愛の格別さはこれほどであった。源実朝(みなもとのさねとも)が功臣の家々に頼朝から賜った直筆の書状を提出させたとき、他の諸将が提出したものはいずれも二、三通に過ぎなかったが、千葉氏と小山(おやま)氏だけは、それぞれ数十通を提出した。当時の人々はこれを誉れとした(注:『東鑑』による)。

常胤の子には胤正(たねまさ)・師常(もろつね)・胤盛(たねもり)・胤信(たねのぶ)・胤通(たねみち)・胤頼(たねより)、そして僧の日胤(にちいん)がおり、いずれも当時名を知られた。師常は相馬師国(そうまもろくに)の養子となって出て、小二郎(こじろう)と称した。胤盛は武石三郎(たけいしさぶろう)と称した(注:『千葉系図』による)。胤信は大須賀四郎(おおすがしろう)と称した。建暦(けんりゃく)年間、実朝が鶴岡社(つるがおかしゃ)に参詣した際、胤信が弓の名手であったことから、弓矢を懸ける役を命じられた。胤信は固く辞退したが、実朝は怒って、「亡き将軍(頼朝)の定めでは、二十本の矢を放って二十人を倒せる者でなければ、この役に選ばれることはできない。それなのにそなたは故事を知らず、これを卑しい役目と見なすとは、まことに理不尽である」と言い、罰として謁見を停止した。しばらくして許された(注:『東鑑』による)。胤通は国分五郎(こくぶごろう)と称した(注:『千葉系図』による)。僧の日胤は律静房(りつじょうぼう)と称し、園城寺(おんじょうじ)に住んでいた。治承(じしょう)年間、頼朝の密命を受けてその挙兵の成就を祈った。そこで千日を期限として石清水社(いわしみずしゃ)に参詣し、黙して大般若経(だいはんにゃきょう)を唱えて神の加護を求めた。ある日、夢で神から金の甲(かぶと)を授かり、目覚めてこれを不思議に思った。折しも以仁王(もちひとおう)が挙兵して園城寺に入ると、日胤はこれを聞き、弟子の日慧(にちえ)に自分の代わりに祈祷させ、自らは以仁王に従って奈良へ向かった。光明山(こうみょうさん)に至ったとき、王は流れ矢に当たった。日胤は追ってきた敵兵と奮戦し、六人を斬って戦死した(注:『東鑑』による。『源平盛衰記』を参照。六人を斬ったというのは『長門本平家物語』による)。頼朝はこれを悼み、伊賀(いが)の山田郷(やまだごう)を園城寺に寄進して、日胤の冥福を祈らせた(注:『源平盛衰記』による)。

千葉胤正

千葉胤正(ちばたねまさ)は、家督を継いで下総介(しもうさのすけ)となり、世に新介(しんすけ)と称された。頼朝の挙兵に際し、上総で伊北常仲(いほくつねなか)を撃って戦功を立てた。藤原泰衡の旧臣であった大河兼任(おおかわかねとう)が陸奥で挙兵すると、胤正は葛西清重(かさいきよしげ)とともにこれを撃ち平定した(注:『東鑑』による)。子に成胤(なりたね)・常秀(つねひで)がいる(注:『千葉系図』による)。

成胤(なりたね)は小太郎(こたろう)と称し、家督を継いで下総介となり、父祖に従って頼朝に帰順した。大河兼任の乱では戦功を立てた。頼朝はその勇猛さを頼もしく思う一方、敵を軽んじて深入りすることを恐れ、「戦に臨んでは自重し、先陣を競って身を危うくすることのないように」という書状を与えた。頼朝が那須野(なすの)で狩りをした際、弓の巧みな近臣二十二人を選び、弓矢を持たせて左右に列従させたが、成胤もその一人に選ばれた。その他の古参の功臣たちには弓矢を持つことが許されなかったので、当時の人々はこれを羨んだ。和田義盛の乱では、一族を率いて危難に赴き、幕府はこれを頼りとして安堵した。子の胤綱(たねつな)が家督を継いで下総介となった(注:『東鑑』による)。

常秀(つねひで)は堺平次(さかいへいじ)と称した。頼朝が上洛した際、常秀は祖父(常胤)の功により左兵衛尉(さひょうえのじょう)に任じられた。頼朝が再び上洛したとき、世間で「源義経・源行家(みなもとのゆきいえ)の残党が道中で頼朝を狙っている」という噂が流れ、常秀は比企能員(ひきよしかず)とともに東海道の警戒を命じられた。後に上総介となった。二人の子に秀胤(ひでたね)・時常(ときつね)がいる。秀胤は上総権介となり、三浦泰村(みうらやすむら)の妹を娶った。泰村が敗死すると、北条時頼(ほうじょうときより)は兵を遣わして秀胤の上総一宮の館を襲わせた。秀胤は薪炭を家の周りに積み上げ、火を放って自害した。時常は埴生二郎(はぶにろう)と称した。もともと常秀は埴生荘(はぶのしょう)を分けて時常に与えていたが、常秀の死後、秀胤がこれを奪ったため、兄弟の間に不和が生じていた。それでも秀胤が危難にあると聞くと、時常は駆けつけて共に死んだので、当時の人々はこれを義とした(注:『東鑑』による)。

千葉胤賴

千葉胤頼(ちばたねより)は、下総の東荘(とうのしょう)を領し、そのため東六郎大夫(とうのろくろうだいふ)と称された(注:『東鑑』『千葉系図』による)。品行は堅実で正しく、若い頃は京にいた。当時は平氏が権勢を振るっていたが、胤頼は権勢に媚びへつらうことなく、遠藤持遠(えんどうもちとお)の推薦により上西門院(じょうさいもんいん)に仕え、従五位下に叙せられた。神護寺(じんごじ)の僧文覚(もんがく)の名を聞き、訪ねていったところ、一目で意気投合し、ついにその弟子となった。文覚が伊豆に流されると、頼朝の挙兵を助けるよう謀り、檄文が届いた際には、父(常胤)を説得してこれに応じさせた。頼朝はこれを深く徳とし、胤頼への厚遇は最も手厚いものであった(注:『東鑑』による)。

子の重胤(しげたね)は平太(へいた)と称し、和歌に優れ、実朝に親しく近侍していた。あるとき所領に下って休養し、一月余りも戻らなかった。実朝が和歌を賜ってこれを促したが、それでも時を違えずには戻らなかったため、実朝の意にひどく背き、屋敷に蟄居を命じられた。重胤は深く悔い、北条義時(ほうじょうよしとき)に心情を訴えた。義時はこれを諭し、和歌を詠んで過ちを謝るよう教えた。重胤はその場で和歌を作って義時に授け、義時はこれを懐に入れて幕府に参上し、罪を許すよう取りなした。実朝はその歌を見て機嫌を直し、恩寵は元のように戻った(注:『東鑑』による)。

子の胤行(たねゆき)もまた和歌に優れ、実朝の寵愛を受けた。宴席があるたびに必ず陪従した。後に中務丞(なかつかさのじょう)となった。髪を剃って名を素暹(そせん)と改めた。宝治(ほうじ)年間、藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)は特に胤行に問状(といじょう、訴訟の書状)の教書(きょうしょ)を司らせた。常胤の子孫は代々武勇をもって知られていたが、胤行だけは事務にも通じていたため、この任命があったのである。千葉氏が文官の職に就いたのは、これが始まりとされる(注:『東鑑』による)。

三浦義明

三浦義明(みうらよしあき)は、姓を平氏といい、その先祖は上総介高望から出ている。高望の子の良文(よしふみ)は村岡五郎(むらおかごろう)と称し、貞道(さだみち)を生んだ。貞道は小五郎(ころくろう)と称した(注:『平氏系図』による。貞道については『平家物語剣巻』『今昔物語』による。本書では「忠道(ただみち)」とし、『平家系図』では「忠道は源頼光に仕えたが、当時関白であった藤原忠通(ふじわらのただみち)と同名を憚って貞道と改めた」というので、これによれば忠道が初めの名であったことになる)。貞道は源頼光(みなもとのよりみつ)に仕え、源綱(みなもとのつな)らと並び称された(注:『平家物語剣巻』による)。貞道は為道(ためみち)を生んだ。為道は平大夫(たいらのだいぶ)と称し、相模の三浦(みうら)に住んで、これを姓とした。為道は為継(ためつぐ)を生み、為継は平太郎(へいたろう)と称した(注:『平氏系図』による)。勇力は並ぶ者がなく、その名は関東に轟き、源義家(みなもとのよしいえ)に従って清原武衡(きよはらのたけひら)を撃ち、戦功を立てた(注:『奥州後三年記』による)。為継は義継(よしつぐ)を生み、義継は相模介(さがみのすけ)となった(注:『三浦系図』による)。義明はその義継の長男である(注:『三浦系図』による)。大介(おおすけ)と称した。人柄は剛勇で、信義を重んじた(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。

源頼朝が挙兵すると、安達盛長を遣わし、檄文をもって関東の武将たちを招いた。義明は使者が来たと聞くと、病をおして出迎え、手を洗い口をすすいでから檄文を読んだ。涙を流しながら、「私は、『左馬頭(さまのかみ、源義朝)殿の血筋は、ほとんど流亡し尽くして、もはや残っている者はいない』と思い、常々深く嘆き悔しんでいた。それが今、この挙兵を聞くとは、これに勝る幸いがあろうか」と言った。そして子孫を顧みて、「私は老いて病んでおり、明日をも知れぬ身である。今、辱くもこの命を受けたのは、まことに一家の誉れである。そもそも天運は巡り、興亡には時がある。平氏は久しく政権を私し、奢りを極めて欲をほしいままにし、自ら滅亡を招いた。右兵衛佐(うひょうえのすけ、頼朝)殿は、我が家が代々仕えてきた主君である。すでに院宣を奉じて、国のために義兵を起こされた。お前たちはよくよく力を尽くして正義を助け、乱賊を討ち滅ぼし、不朽の功名を残すがよい。もし事が成らなければ、命を捨てて義を貫き、決して二心を抱いてはならぬ」と告げた。その言葉遣いは誠実で、一同は皆感動した。そこで使者をもてなして宴を開き、刀と馬を贈った。頼朝が石橋山に陣を布くと、義明は子の義澄(よしずみ)、孫の義盛(よしもり)らを遣わし、三百余騎を率いて馳せ参じさせた。まだ到着しないうちに、頼朝が戦死したという誤った知らせを聞き、兵を引いて引き返した。その途中、畠山重忠(はたけやましげただ)と小坪坂(こつぼざか)で戦ってこれを破り、三浦へ帰った。義明は、「明日、重忠は必ず攻めて来るだろう。お前たちは衣笠(きぬがさ)に拠って待ち構えるべきだ」と言った。義盛は、「衣笠は平坦で、駆け引きには便利ですが、要害の地ではありません。奴田城(ぬたじょう)は三方を険阻な地形に守られ、一方は海に臨んでいます。我らに精兵一、二百がいれば、敵が百万であろうと、その大軍を用いる余地はありません」と言った。義明はこれを聞き入れず、「奴田は辺鄙な村で、人もあまり知らない。衣笠は名城として世に称えられている。我らが死んだ後、人々は『三浦党は衣笠を守って死んだ』と語り継ぐだろう。それだけでも名を成すに十分である」と言った。義盛は、「二つの城はどちらも我らの領内にあります。どちらを選ぼうと大差はありません。そもそも城を守るというのは、日数を稼いで長く持ちこたえ、敵を疲弊させることこそが上策です。今、衣笠に拠れば、いくらも経たぬうちに敗れ、かえって世の笑いものになりましょう。どうかよくお考えください」と言った。義明は大いに怒って、「今や天下を挙げて敵としているのだから、生き延びる道理などない。それなのにひとたび名城を捨てて辺鄙な地に拠れば、たとえ時を稼げたとしても、かえって臆病者との悪名を得るだけだ。これは勇士の深く恥じるところである。源家が再興を果たす日には、父祖が戦死した地であるがゆえに、子孫は衣笠を賜ることになろう。これこそ栄誉ではないか。そもそも戦の勝敗は策の巧拙にあるのであって、地の険阻平坦にあるのではない。我が身惜しさに死を恐れるくらいなら、戦わぬ方がましだ。もし私の命に従わないというなら、私一人でも衣笠を守って死のう」と言った。一同はやむを得ず衣笠城に入ったが、兵はわずか四百余騎であった。義明の娘婿である金田頼次(かなたよりつぐ)が、七十余騎を率いて馳せ参じた(注:『東鑑』では七千騎とするが、ここでは本書と『長門本平家物語』に従う)。衣笠城は一方が沼、一方は三重の堀を穿ってあった。二本の橋を架けて戦路を開いたが、そこは騎馬二騎がやっと通れるほどの幅しかなかった。義明は、「弓の巧みな者は矢を多く蓄えよ。弓の不得手な者は棒を持って竹藪に伏せ、敵が城に迫るのを待って、弓の者が続けて射よ。人馬が傷を負って堀に落ちたところを、伏兵が急いで飛び出して棒で打て」と命じた(注:『源平盛衰記』による)。そして義澄・義連(よしつら)に城の東を守らせ、義盛・頼次に城の西を守らせ、義景(よしかげ)・義久(よしひさ)をその中間に陣取らせた(注:『東鑑』による)。まもなく畠山重忠・河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長(えどしげなが)らが、金子(かねこ)・村山(むらやま)・山口(やまぐち)・児玉(こだま)・横山(よこやま)・綴党(つづきとう)丹党(たんとう)の三千余騎を率いて攻め寄せた。先の小坪の戦いで、義盛の弟の義茂(よしもち)が丹党の三将を討ち取っていたため、丹党はその仇を討とうと、別に二百余騎を率いて城門に迫った。城中から雨のように矢を射かけると、兵士は傷を負い、多くが堀に落ちた。棒を持つ兵が入り乱れてこれを打ち、死傷者が甚だ多く出た。丹党は支えきれずに退いた。金子家忠(かねこいえただ)が兵三百を率いて続けて攻め、奮戦して血を流す激戦となり、二つの門を奪った。義明は義盛に命じて弓を射させると、一発でこれに命中した。家忠は馬から落ち、弟の近範(ちかのり)がこれを肩に担いで退いた。三浦余一(みうらのよいち)がこれを追ったが、逆に近範に討たれてしまった。義澄は令を下して、「余一は単騎で敵を追い、ついにこの敗北を招いた。お前たちはただ矢を射よ。攻め寄せてくる敵に対しても、隊列を離れて単独で進んではならない」と言った。義明は兵士たちを奮い立たせようと、「お前たちはどうしてそれほどまでに命を惜しむのか。今のこの戦いぶりを見れば、まるで子供の遊びのようだ。坂東の風習では、父が目の前で死んでも子はひるまず、子が後ろで倒れても父は顧みず、屍を踏み越え血を踏んで、その場で勝負を決するものだ。今こそ馬を連ねて打って出て、敵を険しい地に誘い込み、迫って撃つべきではないか。それでこそ痛快ではないか」と言った。義澄は兵が少ないことを理由に打って出ようとしなかった。義明は声を励まして、「私は十三歳で武器を執って以来、幾多の戦陣を経てきた。今や九十に近く、老いと病が重なり、むなしく寝床で死ぬことをいつも無念に思っていた。幸いにも今日この日に巡り会えたのだから、私の願いは果たされたのだ。お前たちは私が戦死するさまを見るがよい」と言い、鎧を整えて出陣しようとしたが、体勢を崩して立ち上がれず、六人の兵に助けられてようやく馬に乗ることができた。義澄は馬の轡(くつわ)を押さえてこれを引き止めた(注:『長門本平家物語』では義澄ではなく佐野平太(さのへいた)とする)。義明は叱りつけて、「戦に臨んで死ぬのは武士として当たり前のことだ。短兵を交えて戦い、敵の堅陣を突き崩し、鋭鋒をくじくべきである。それをお前たちは城に籠って矢を放つばかりで、まるで的当ての稽古のようではないか。それでいつになったら勝敗を決するというのか」と言い、鞭を挙げて義澄を打った。義澄らは義明の手綱を取って抱きかかえるようにして城の中へ連れ戻した。やがて日が暮れると、義明は子孫を集めて諭した。「今日の力戦で、我らは勇名を失うことはなかった。しかし城兵はことごとく疲れ果て、もはや再び戦うことはできない。思うに佐殿(すけどの、頼朝)は智勇に優れた人であるから、一度の敗北で死ぬようなことはあるまい。敵を欺いて身を全うし、房総(ぼうそう)に逃れて再挙を図ることも、あり得ないことではない。お前たちは夜に紛れて城を出て、頼朝の麾下(きか)に合流し、爪牙(そうが)の力を尽くして強敵を滅ぼすべきである。坂東の武士は、みな源家代々の家臣である。一時的に平氏に属していても、誰が旧主を慕わずにいられようか。義兵の旗が向かうところ、風になびくようにみな自ら帰服してくるだろう。老人の言葉は必ず当たる。後になって私の言葉を思い出すがよい。私は筋力が衰え、歩くのも馬に乗るのも不自由である。お前たちと一緒に逃げれば、逃げおおせることはできまい。もし敵に追い詰められたとき、私を助けようとすればそれは無理な相談であり、私を見捨てれば親を見捨てたという汚名を負うことになり、私もまた命を惜しんだという誹りを受けることになる。それよりも私はこの城に残って守り、旗を多く立てて敵を欺くのがよい。一戦して死を決するまでだ。義明は九十の齢、惜しむには足りない。ただ佐殿の大成を見届けられないことだけが、心残りである」。そう言って涙を流し咽び泣いた。親族も涙にむせび、無理にでも輿(こし)に乗せて連れて行こうと固く願ったが、義明は聞き入れなかった。義澄らはやむを得ず、涙を拭って城を去った(注:『東鑑』『源平盛衰記』を参照)。翌日、城は陥落し、義明は討たれた。時に年八十九であった(注:『源平盛衰記』および『長門本平家物語』によれば、義明の従兵は義明を見捨てるに忍びず、無理に輿に乗せて逃げたが、一里ほど行ったところで敵兵に追いつかれ、形勢が非常に切迫したため、義明を捨てて逃げ散った。追ってきた敵兵は義明の衣甲を奪い去り、ついに江戸重長に討たれたという。本書にはこの記述がないため、ここでは採用しない)。頼朝は平氏を滅ぼした後も、義明の忠誠に思いを馳せ、その死を悼むことをやめなかった。建久年間、三浦の矢部郷(やべごう)に土地を選び、仏堂を建立して、義明の冥福を祈らせた(注:『東鑑』による)。

子には義宗(よしむね)・義澄・義久・義春(よしはる)・義季(よしすえ)・重行(しげゆき)・義連がいる。義宗は杉本太郎(すぎもとたろう)、義久は大多和三郎(おおたわさぶろう)、義春は多々良四郎(たたらしろう)、義季は長井五郎(ながいごろう)、重行は森六郎(もりろくろう)と称した(注:『三浦系図』による)。

三浦義澄

三浦義澄は荒二郎(あらじろう)と称した(注:『源平盛衰記』による)。矢部郷に住み(注:『東鑑』による)、世に三浦別当(みうらべっとう)と称された(注:『源平盛衰記』による)。頼朝が石橋山に陣を布くと、義澄は甥の義盛らとともに、兵三百を率いて海路これに向かった(注:『東鑑』による。兵三百は『源平盛衰記』による)。ところが風に遭って進むことができず、陸路を取ろうとした。丸子川(まりこがわ)が氾濫していると聞き、一日軍を留めた。義盛は見回って、「合戦の日は決まっているのに、遅れて期日を逃せば、悔やんでも及ばない」と言い、そこで道を急いで進み、丸子に着いた。しかし水勢が激しく渡ることができなかったので、水が引くのを待とうとした。そこへ石橋山から逃げてきた大沼三郎(おおぬまさぶろう)が、「佐殿(頼朝)は討ち死にされた」と告げた。一同は愕然として色を失い、「我々はいたずらに主将を失い、頼るところがなくなった。前方には伊藤・梶原などがおり、後方には畠山が金江川(かなえがわ)に陣を布いている。前後から敵を受け、進退きわまっている。兵卒の手にかかって死ぬくらいなら、自害した方がましだ」と言い合い、皆これに同意した。義澄は大沼を問い詰めて、「お前は自分の目で佐殿の死を見たのか」と尋ねた。大沼は「いいえ」と答えた。義澄は、「伝聞の言葉はまったく信用できない。敵兵が偽ってこの話を流し、我々の戦意をくじこうとしているのではないか。石橋山は連山が海に接しており、谷間に潜めば身を隠すこともできる。安房(あわ)・上総は近いので、小舟で逃れることもできる。私自ら北条・土肥らの諸将に会い、佐殿の生死を確かめてこよう。もし事実であれば、大庭(おおば)・畠山を撃ってその仇を討ってから死んでも遅くはない」と言った。一同はこれに従い、畠山重忠の軍を避けて、海沿いに引き返した。弟の義連(よしつら)だけはこれに同意せず(注:『長門本平家物語』では義連ではなく和田義茂(わだよしもち)とする)、「重忠は乳臭い若造で、まだ戦になれていない。彼の勢は五百、我らは三百、たやすく相手にできるはずだ。まっすぐその軍に突っ込んで、良い馬を奪って行こう」と言った。義澄は、「我らの兵は数日馳せ通しで、馬も疲れている。重忠は陣を構えて兵を休ませ、逸を持って労を待っている。彼らの馬を奪おうとして、逆に我らの馬を失うことになりかねない。ひそかに海辺を通り抜け、兵馬の音を波の音に紛れさせて、敵に気づかれないようにするのがよい。攻めるのは得策ではない」と言った。義盛は、「今その鋭鋒を避ければ、後で必ず侮りを受けることになる」と言い、義連とともに馬を走らせ、重忠の陣に当たって、大声を上げて駆け抜けた。重忠は追って小坪坂に至り、義盛らは引き返して戦ってこれを破り、そのまま衣笠に拠った。重忠は江戸重長・河越重頼とともに攻めてきた。義澄らは戦いに敗れ、舟に乗って安房へ逃れた。海上で頼朝に出会い、互いに再会を大いに喜んだ(注:『源平盛衰記』による)。そのまま頼朝に従って上総へ向かった。夜、民家に泊まったところ、その土地の長狭常伴(ながさつねとも)という者が、もとより平氏に属しており、頼朝を襲おうとしていた。義澄はこれを探知し、不意を突いて撃ち破った。やがて重忠・重長・重頼らが頼朝に降ると、頼朝は義澄らが彼らに仇を返すことを恐れ、諭して、「彼らは兵力を持っているとはいえ、その力を借りなければ大事は成し遂げられない。そなたたちは公の忠義に専念し、私的な恨みにこだわってはならない」と言った。義澄の先祖代々は三浦に住み、父の義明が国事を掌ってからは、この時また義澄にその職を継がせたので、三浦介(みうらのすけ)と称された。源範頼に従って西海で平氏を攻め、周防に進軍した。もともと頼朝は範頼に、「周防の地は、西は大宰府(だざいふ)、東は京に通じている。この咽喉の地を押さえて、軍事上の連絡を保つべきである」と命じていた。範頼が豊後へ向かおうとする際、諸将を集めて、「勇猛で知略があり、多くの兵を率いる者に周防の守りを任せたい。誰が適任か」と諮ると、千葉常胤が、「三浦義澄こそその人です」と答え、範頼はそこで義澄にこれを命じた。義澄は、「私は先陣に立って功を立てたく、ここに留まりたくありません」と辞退したが、範頼が再三諭したので、義澄はやむを得ずこれに従った。源義経が壇ノ浦(だんのうら)を攻めた際、義澄は兵を率いてこれに合流した。義経は義澄を先鋒に命じた。奥津(おきつ)まで進み、敵陣まで二百歩ほどに迫ると、平氏は戦わずして逃げた。頼朝が藤原泰衡を討った際には、義澄は従軍して熱借山(あつかりやま)まで至り、力戦して敵を退けた。さらに岩井郡(いわいぐん)まで進み、その主将若(にゃく)二郎を捕らえた。そもそも頼朝の挙兵に際して、義明が真っ先にこれに応じ、敵を防いで戦死した。義澄・義盛らはその後数年にわたって戦い続け、強敵を平定し、その功績はきわめて大きかった。そのため頼朝は三浦一族を最も手厚く遇した。おおよそ軍事上の機密については、義澄らが数多く関与した。頼朝が上洛した際、義澄も供をし、その功により官職に任じられるべきところ、これを辞退して子の義村(よしむら)に授けるよう願い出た。頼朝が征東大将軍に任じられた際、勅使が鎌倉に到着すると、頼朝は特に義澄に鶴岡社で宣旨を受けるよう命じ、人々はみなこれを栄誉とした。正治(しょうじ)二年、没した。享年七十四(注:『東鑑』による。諸書には義澄の叙爵についての記載がないが、本書には「三浦介平朝臣義澄卒す」とあることから、五位に叙せられていたとみられる。明確な典拠は見当たらないが、ここでは本書の記述に従っておく)。

子には有綱(ありつな)・義村・重澄(しげずみ)・胤義(たねよし)・友澄(ともずみ)がいる。義村・胤義については別に伝がある。有綱は山口二郎(やまぐちじろう)と称した。重澄は大河戸(おおかわど)と称し、大隅守(おおすみのかみ)となった(注:『三浦系図』による。本書では「有綱」を「有継(ありつぐ)」とするが、ここでは『東鑑』によって訂正する)。

三浦義連

三浦義連は佐原十郎(さわらじゅうろう)と称し、身の丈七尺五寸(しちしゃくごすん)であった(注:『三浦系図』による)。胆力と策略に優れていた。小坪・衣笠の戦いでは、いずれも勇名を挙げた(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。寿永三年、源義経に従って源義仲を討った(注:『源平盛衰記』による)。また一ノ谷(いちのたに)攻めにも従った。義経は自ら精鋭を率いてひそかに鵯越(ひよどりごえ)へ向かい、山を駆け下って敵を襲おうとした。道はきわめて険悪で、途中まで進むと断崖が壁のようにそそり立ち、一同は先へ進めなくなった。義連が進み出て、「私はかつて甲斐(かい)・信濃(しなの)の山中で狩りをしており、険阻な地形には慣れております。この山は険しいとはいえ、私の目から見ればちょうどよい猟場に過ぎません」と言い、馬に鞭を当てて進んだ。義経は、「義連は壮士だ。彼一人だけを死なせてはならない」と言って、皆を指揮してこれに続かせ、ついに敵軍を大いに打ち破った(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』を参照)。かつて頼朝が義澄の屋敷を訪れて酒宴を催した際、岡崎義実と平広常が酔いに任せて怒り争い罵り合ったことがあった。義連は義実を大いに叱りつけて、「叔父上は老いて狂われたか。今日は将軍がこの席に臨まれており、まことに一門の光栄である。もてなしに走り回ってさえ間に合わないことを恐れるべきなのに、叔父上はなぜそのように傲慢なのか。広常もまたなぜそのように無礼なのか。言いたいことがあれば、いずれ日を改めて言えばよいではないか」と言い、繰り返し諭した。二人は恥じ入って争いをやめた。頼朝は内心これをもっともだと思い、義連への待遇はいよいよ厚くなった。北条時連(ほうじょうときつら)が幕府で元服することになったとき、頼朝は加冠の役を務める人物をあらかじめ定めていなかった。当日になり、豪族たちが皆集まったところで、頼朝は特に義連に加冠の役を命じた。義連は辞退して受けようとしなかったが、頼朝は許さず、「私がかつて三浦を訪れた際、そなたの一言が争いを収めた。私はその時からそなたを見込んでいる。この子(時連)は夫人(北条政子)が特に可愛がっている子であり、将来そなたを頼りとして世話をしてもらうつもりだ。よく見てやってほしい」と言った。義連はそこで命に従い、人々は皆これを栄誉とした。頼朝が藤原泰衡を討った際、義連は従軍して戦功を立てた。建久元年、頼朝が上洛した際にも、これに従った。旧来の勲功により、左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられた(注:『東鑑』による)。

子には景連(かげつら)・盛連(もりつら)・家連(いえつら)・政連(まさつら)がいる。盛連は遠江守(とおとうみのかみ)、家連は肥前守(ひぜんのかみ)となり、景連・政連は衛府尉(えふのじょう)となった(注:『東鑑』『三浦系図』を参照)。盛連の子には経連(つねつら)・広盛(ひろもり)・盛義(もりよし、注:『三浦系図』による)・光盛(みつもり)・盛時(もりとき)・時連(ときつら)がいる。もともと三浦義村の娘は北条泰時(ほうじょうやすとき)に嫁いで時氏(ときうじ)を生んだが、後に離縁となり、再び盛連に嫁いだ。この姻戚関係により、盛連の一族は北条氏にたいへん謹んで仕えた。泰村の乱では、盛連の子たちも皆幕府方に加勢した。泰村が敗れると、三浦の支族の多くが滅んだが、盛連の子たちだけは難を免れた(注:『東鑑』による)。義明の弟に義実(よしざね)がいる。

三浦義實

三浦義実(みうらよしざね)は、初め三浦悪四郎(みうらのあくしろう)と称した。後に岡崎(おかざき)を家としたことから、岡崎四郎(おかざきしろう)と称した(注:『源平盛衰記』『三浦系図』による)。頼朝が伊豆にいた頃、義実は心を傾けて推戴し、頼朝もまた深く頼りとして信頼していた。平兼隆(たいらのかねたか)を討つ際には、特にあらかじめ密議に与った。石橋山の戦いでは、義実は力戦したが、子の義忠(よしただ)は長尾定景(ながおさだかげ)に討たれた。定景が降伏すると、頼朝は義実に定景の処遇を委ねた。義実はもとより慈悲深い人柄で、すぐに殺すには忍びず、自分の家に定景を留め置いた。定景は自分が死を免れないことを悟り、日夜『法華経』を読誦していた。義実はこれを畏れつつ聞き、心中深く哀れみを覚えて、幕府に参上して、「臣の定景への怨みは骨髄に染み渡っておりますが、彼は法華経を持し、ひたすら勤行に励んでおります。臣がその読経の声を聞くうちに、怨みの念は次第に消えてゆきました。もとより彼を殺したところで死んだ者(義忠)の益にはならず、いたずらに罪業を増すばかりでございます。どうかその死を赦し、冥福を助けさせていただきたく存じます」と願い出て、頼朝はこれを許した。もともと義忠は波多野義景(はたのよしかげ)の娘を娶り、子の実忠(さねただ)をもうけた。実忠の幼名は先法師(せんぼうし)といった。義景の所領は相模の波多野にあった。義景が京にいた間、義実はその隙に乗じて、ひそかにその土地を(自分に与えるよう)願い出た。義景は都から戻ってこれを聞くと大いに怒り、幕府に訴え出た。頼朝は両者を対決させる場を設けるよう命じた。義実は、「義景はかつて、その荘園を先法師に伝えるという約束をしていた」と主張した。義景は、「先法師は私の外孫である。外祖父である私がまだ健在なのに、なぜそれを願い出るのか。これは義実の姦計にほかならない」と反論した。義実は言い負かされて屈服した。そのため罰として、鶴岡(つるがおか)および勝長寿院(しょうちょうじゅいん)での宿直百日を命じられた。その後、義実の従士が箱根で山賊の頭目を捕らえたことがあり、その功により罪を贖うことができた。後に老齢を理由に職を退いた。正治年間、北条政子に会い、家門の衰微を泣いて訴えた。政子はこれをたいへん哀れに思い、頼家(よりいえ)に、「先君(頼朝)が事業を興された際、義実らはその爪牙(そうが、腹心の武力)でした。今、老齢で家が貧しくなり、子孫のことを心配していると聞きます。手厚く遇さないわけにはいきません。所領を一箇所増やして、旧来の勲功に報いるべきでしょう」と告げた。しかしその命が下る前に義実は没した。享年八十九であった(注:『東鑑』による)。

子には義忠・義清(よしきよ)がいる。義清は土屋宗遠(つちやむねとお)の養子となって家を出た(注:『源平盛衰記』による)。

三浦義忠

三浦義忠は佐那田余一(さなだのよいち)と称した(注:『東鑑』による)。剛勇で力があり、荒馬を乗りこなすことに長けていた。石橋山の戦いで、頼朝は一同に、「敵はいずれも東国の精鋭で、大庭(おおば)・股野(またの)がその先鋒である。我が麾下の中で、誰がこれに当たれるか」と尋ねた。義実は、「私の倅の義忠には、いささか胆力がございます。どうかこれにお命じください」と言い、頼朝は義忠を先鋒に命じた。まもなく敵が攻めてきて、義忠らは奮戦し、股野景久(またのかげひさ)と組み合って馬から落ちた。景久を刺そうとしたとき、長尾為宗(ながおためむね)が馳せつけて景久を助けようとした。折しも辺りは暗く雨も激しく、互いに声や姿の見分けがつかなかったため、義忠は為宗を欺いて、「下になっているのは義忠だ」と言った。景久は、「間違えるな。下は景久で、上は義忠だ」と言い、兜や鎧を手探りして見分けようとした。義忠はそこで為宗を足で蹴りつけ、急いで刀を抜いて景久を刺そうとしたが、刀が鞘から抜けきらず、何度も刺そうとしても入らなかった。そうこうするうちに、義忠はついに為宗の弟の定景に討たれてしまった。時に年二十五であった(注:『源平盛衰記』による)。

義忠には三人の子、実忠(さねただ)・成実(なりざね)・実久(さねひさ)がいた(注:『三浦系図』による)。いずれもまだ幼かった。頼朝が下総へ赴いた際、使者を遣わして義忠の母を慰めた。幼い子らが敵に捜索され捕らえられることを憂慮し、軍中に引き取って置いた。後に頼朝は義実の家を訪れて酒宴を開いた際、三人の子を召し出して、厚く慈しみ世話をした。実忠もまた余一(よいち)と称し、左衛門尉となった。和田義盛が挙兵すると、実忠はその子二人を率いてこれに加わり、事が敗れて死んだ(注:『東鑑』による)。