卷之一百八十八 列傳第一百十五
將軍家族二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
新田義重
¶新田義重(にったよししげ)は、鎮守府将軍源義家の孫で、式部丞義国の長男である。義国は上野国新田郡に居住し、義重は新田太郎と号した(注:『尊卑分脈』による)。また新田冠者とも称した(注:『東鑑』による)。従五位下に叙せられ、大炊助となった(注:『尊卑分脈』による)。出家して名を上西と改めた(注:『尊卑分脈』『東鑑』による)。当初、義国は足利基綱(あしかがもとつな)の娘を娶ったが、事件に連座して所領を失い、足利に引きこもった(注:『尊卑分脈』による)。仁安年間、足利俊綱(あしかがとしつな)が讒言に遭い所領を奪われると、平重盛はその地を義重に領させた(注:『東鑑』による。○本書によれば、足利太郎藤原俊綱は、また太郎中綱の父であり、下野国足利荘を領していた。俊綱は事件に連座して地を奪われ、平重盛は足利を義重に賜った。俊綱は重盛に哀訴し、ついに返還を得た。これによれば、いったん足利を義重に賜り、ここに至って再びこれを俊綱に賜ったことになり、義重はその後新田に居を移したことになる。その顛末は詳らかでない。しかし『源平盛衰記』では、俊綱が新田荘を賜るよう請うたが許されず、その子忠綱が戦功によって再び請うたところ、清盛がこれを許したという。しかし即日再びこれを取り上げたとする。思うに義国が初め新田を領し、罪を得たときに所領を失って足利氏に依ったため、俊綱が罪を得るとその足利を義重に賜り、後にこれを俊綱に返し、代わって新田を義重に賜ったのであろう。忠綱が新田を請うたとき、重盛はすでに没しており、清盛は義重が源氏の家系であることから、その所領を奪って忠綱に授けようとしたのであろう。しかし他に徴すべき書がないので、参考として付す)。その後義重は再び新田に居を移した。当時足利氏と秩父氏は不仲であり、秩父を襲おうとした(注:○足利、秩父は共に名が欠けているが、思うに足利俊綱、秩父重能のことであろう)。兵を率いて古我杉に赴き、義重に援助を乞うた。義重は五百余騎を率いて利根川に至り、永井の渡しに臨んだ。敵はあらかじめ船を壊しており、軍勢は渡ることができなかった。義重は言った。「男子たる者、すでに人に約束しておきながら、船がないからといって進むのをためらい、味方を敗北させるようでは、どうして再び弓矢を取る面目があろうか。むしろ大河に身を沈めて名を成すまでのことだ。」馬を連ねて一斉に渡り、秩父を撃ち破った(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。源頼朝が伊豆で挙兵したとき、東国の武将たちはまだ集まっておらず、義重は義家の孫であることから自ら威望を養い、独立の志を抱いていた。頼朝は書状を送って招いたが応じず、兵を集めて寺尾城に拠った。頼朝が鎌倉に居を構えると、諸将はこぞってこれに帰属したため、頼朝は安達盛長を遣わして再び義重を召した。義重が至ると、頼朝は鎌倉への入城を許さなかった。義重は大いに恐れて謝罪して言った。「私には初めから異心などありませんでした。国じゅうが乱れ合う中で、従う兵たちが互いに戒め合い、たやすく城を離れることができませんでした。そのために今日まで遅れてしまったのです。」盛長もその場で弁明したので、頼朝は疑いを解いて咎めなかった。義重には娘がおり、初め頼朝の兄義平に嫁いだが、義平の死後は寡婦として暮らしていた。頼朝はその容姿が優れていると聞き、書状を送って言い寄ったが、従わなかった。頼朝はその意を義重に打ち明けたが、義重は日頃から頼朝の妻北条氏が嫉妬深く許さないことを知っていたので、ついに帥六郎という者に嫁がせた。頼朝はますます不快に思い、以後義重を疎んじ遠ざけるようになった。建仁二年、義重は没した(注:『東鑑』による。○没年は欠けており、『尊卑分脈』は六十八歳とするが誤りである)。慶長十六年、勅命により鎮守府将軍を追贈された(注:『徳川系図』による)。義重が没して間もなく、頼家が蹴鞠をしようとした。その母北条氏は工藤行光を遣わしてこれを止めさせて言った。「新田上西は源氏の遺老であり、武家の棟梁でした。没してからまだ二十日にもならないのに遊戯に興じては、世間の非難を招くことを恐れます。」頼家はそこで蹴鞠を中止した(注:『東鑑』による)。
¶子に義俊(よしとし)、義兼(よしかね)、義範(よしのり)、義季(よしすえ)、経義(つねよし)、義光(よしみつ)、義佐(よしすけ)がいる。義俊は新田太郎と称し、義俊の子義成(よしなり)は里見冠者と称した(注:『尊卑分脈』による)。平氏に属して京都にいたが、頼朝が挙兵すると鎌倉に帰参し、頼朝はこれを喜んだ。特に側近としての奉仕を命じ、伊賀守とし、従五位下に叙した。文暦元年、没した。義成は将軍四代に仕え、たいへん寵遇を受けた(注:『東鑑』による)。義兼は皇嘉門院の蔵人、大炊助となった(注:○『東鑑』によれば、寛元二年、新田太郎が大番役として京都におり、病と称して出家したという。六波羅および番頭に告げずに勝手に剃髪して所領を奪われた。思うにこの太郎とは義兼の子義房のことであろうが、今は考証のしようがない)。六世の孫義貞(よしさだ)は、後醍醐天皇の時代に中興の元勲となり、別に伝がある(注:『尊卑分脈』による)。義範は山名三郎と称し、義経に従って一の谷で平氏を撃ち、その功によって伊豆守に任じられた(注:『東鑑』『尊卑分脈』による。○思うに『源平盛衰記』で信太三郎先生義憲が伊豆守に任じられたとするのは誤りである。詳しくは為義の伝にある)。七世の孫時氏(ときうじ)は、将軍家臣の伝にある。義季は得川四郎と称した。その子頼有(よりあり)は下野守に任じられた。次の頼氏(よりうじ)は世良田弥四郎と号し、参河守となった。経義は合土五郎と称し、義光は新田冠者と称した。義佐は小四郎と称した(注:『尊卑分脈』による)。
足利義兼
¶足利義兼(あしかがよしかね)は三郎と称した(注:『東鑑』による)。父の義康(よしやす)は義重の弟である(注:○『難太平記』や『足利系図』が義兼を源為朝の子とするのは誤りである)。鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり、左衛門大尉に任じられ、陸奥守に任じられ、検非違使となり、足利陸奥判官と称した(注:『尊卑分脈』による。○『東鑑』によれば、当時足利を領していたのは藤原氏であり、義兼が足利の地をすべて領するようになったのは足利俊綱が死んだ後のことである。そうすると義康父子が足利を称したのはどういう理由によるのか分からない。思うに義国が新田を失ったとき、姻戚関係によって足利氏に依り、あるいは所領を分けて居住したため、これも足利と称したのであろう。しかし今は考証のしようがない)。保元の乱で、源義朝らとともに禁裏を守衛した。崇徳上皇方の軍が敗れ、将士が四散したとき、義康は右衛門尉平家弘父子五人を捕らえ、大江山でこれを斬った(注:『保元物語』による)。その功によって蔵人に補せられ、昇殿を許された(注:『保元物語』『尊卑分脈』による)。翌年、没した(注:印本『尊卑分脈』の一説による)。義兼は八条院の蔵人となった。母は源頼朝の従母の姉妹である(注:『尊卑分脈』による。○本書では義兼を頼朝の従母兄弟とする説もある)。頼朝が挙兵すると、山名義範らとともにこれに従った。寿永三年、源範頼に従って筑紫に赴き、平氏を討った。出発に臨んで、頼朝は従軍の将士を饗応し、義兼に馬を賜った(注:『東鑑』による)。文治元年、その功によって上総介に任じられた(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。五年、頼朝に従って藤原泰衡を撃ち、その党の熊野別当某を捕虜とした。まもなく上総介を辞し、遠江守となった。翌年、泰衡の旧臣大河兼任(おおかわかねとう)が挙兵した。頼朝は義兼および小山宗政らに命じて陸奥に赴かせこれを撃たせ、栗原一迫で戦ってこれを破った。兼任は退いて衣川に拠り、陣を構えた。義兼らはただちに川を渡って接戦し、敵兵は敗走したが、さらに多宇末井山に拠って砦とした。義兼らは急いでこれを包囲攻撃し、殺戮・捕獲するところ甚だ多く、兼任は敗死した。義兼は再び上総介に任じられた(注:『東鑑』による)。後に東大寺で出家し、法名を義称と称した(注:『尊卑分脈』による。○本書には建久六年三月に出家したとあるが、『東鑑』によれば建久六年の東大寺供養のとき、義兼は頼朝に従って京都に入り、そのまま上総介となったとある。そのため今はこの説を取らない。本書にはまた義兼が治部大輔従四位下であったと記すが、叙任の年月について考証のしようがなく、これも採らない)。義兼は身の丈八尺余りで、膂力は人並み外れていた(注:『難太平記』による。○『足利系図』には九尺二寸とある)。生まれつき従順で善良であった。頼朝はその忠義を嘉して、北条時政の娘婿とし、厚く親愛した(注:『東鑑』による)。正治元年、没した。子に義純(よしずみ)、義助(よしすけ)、義氏(よしうじ)、義胤(よしたね)がいる(注:○本書によれば、義胤は実は義助の子で、幼くして父を失ったため、祖父義兼が養って子とした)。義純は足利太郎と称し、従五位下に叙せられ、遠江守となった(注:『尊卑分脈』による)。当初、北条時政の娘は畠山重忠(はたけやましげただ)に嫁いだが、重忠が死んだ後、改めて義純に嫁いだ。時政は重忠の所領をすべてこれに授けたため、以後畠山氏を名乗った(注:『畠山系図』による)。五世の孫国清(くにきよ)は、将軍家臣の伝にある。義助は足利二郎と称し、左兵衛尉となった。承久の役で宇治山で戦死した。義胤は足利四郎と称し、兵部少輔となった(注:『尊卑分脈』による)。
足利義氏
¶足利義氏(あしかがよしうじ)は義兼の第三子で、足利三郎と号した。母は北条時政の娘である。義兼はこれを嫡子に立てた。和歌を善くし、北条泰時の娘婿となった。蔵人に補せられ、検非違使に任じられた(注:『尊卑分脈』による)。建暦元年、和田義盛(わだよしもり)が乱を起こし、急いで幕府を攻めた。義氏は諸将とともにこれを防いだ。義盛の子義秀(よしひで)は勇猛で戦を善くし、義氏は政所橋でこれに遭遇した。義秀は進んで義氏の鎧の袖をつかんだが、義氏が馬を躍らせて堀を飛び越えると、鎧の袖は引きちぎれたものの人馬ともに倒れることはなかった。人々は二人を武勇の士と称えた。義氏はついに諸将とともに義盛を攻め殺した(注:『東鑑』『尊卑分脈』による)。承久の役では、義氏は北条泰時を補佐し、兵を率いて東海道から京都に向かった(注:『東鑑』『承久記』による)。官軍は尾張川を隔てて陣を構えた(注:『承久記』による)。泰時は諸将を分けて遣わし、義氏は池瀬に向かうと、官軍は風聞を聞いただけで逃げ去った。泰時が宇治に向かおうとして栗子山に至った。日はすでに暮れていたが、義氏はひそかに三浦泰村とともに宇治に進み、橋の上で大いに戦ったものの、戦況は不利であった。夜半、義氏は使者を遣わして泰時に報告して言った。「戦いは本来夜明けを待つつもりでしたが、麾下の壮士たちが先陣を志して夜を冒して進み、死傷者が甚だ多くなりました。」泰時は急いで宇治に駆けつけて救おうとしたが、うまくいかず、ついに戦を止めるよう命じた(注:『東鑑』による。○『承久記』はこれと少し異なるが、今は採らない)。翌日、将士が川を渡ろうとしたが、雨の後で水量が大いに増しており、溺れ死ぬ者が数え切れなかった。義氏は筏に乗って渡ったが、これは尾藤某が民家を取り壊して筏を作ったもので、諸将はこれに続いて進み、官軍は大敗した。元仁元年、その功によって美作、新野などの地に所領を得た。藤原頼経はしばしばこれと私的な宴を催し、その邸に座を占めるほど特に優遇した。武蔵、陸奥守を歴任し、左馬頭に至り、正四位下に進んだ(注:○『尊卑分脈』には正五位下とする説もある)。仁治年間、剃髪して名を正義と改めた。三浦泰村の乱で功があり、あわせて故上総権介平秀胤の所領を併せ領した(注:『東鑑』による。○仁治年間の記述は『尊卑分脈』による)。建長六年、没した(注:『東鑑』『尊卑分脈』による)。享年六十六。
¶子に泰氏(やすうじ)、義継(よしつぐ)、長氏(ながうじ)がいる(注:『尊卑分脈』による)。泰氏は北条泰時の外孫で、丹後守に任じられ、宮内少輔に遷り(注:『東鑑』による)、検非違使となった(注:『尊卑分脈』による)。建長三年、剃髪して僧となった(注:『東鑑』による)。文永七年、没し、平石殿と称された(注:○平石殿は印本の一説による)。玄孫の尊氏(たかうじ)は将軍の伝にあり、高経(たかつね)は将軍家臣の伝にある。義継は足利左馬四郎と称し、かつて元に渡り、帰国後は僧となった(注:○義継が元に渡ったことについて、本書はその事情を詳らかにしない。『元史』によれば、文永八年、守護所が二十六人を遣わして燕京に至り、元の皇帝に謁見を求めたとあり、思うにこれがその一人であろう。しかし今は考証のしようがない)。義継の曾孫吉良貞家(きらさだいえ)は修理大夫となった。貞家の子満家(みついえ)は中務大輔となり、いずれも陸奥を管領した。長氏は足利五郎と称し(注:『東鑑』による)、また吉良太郎とも称した。従五位下上総介、検非違使となった(注:『尊卑分脈』による。○本書の一説には、長氏は秦氏の子であるという)。その曾孫今川範国(いまがわのりくに)は、将軍家臣の伝にある。
安田義定
¶安田義定(やすだよしさだ)は三郎と称した。刑部少輔源義光の孫で、安田冠者義清(やすだかじゃよしきよ)の子である(注:『東鑑』『卜部本武田系図』による。○『尊卑分脈』では義清の孫、清光の子とする)。義清は事件に連座して甲斐に流され、義定兄弟は甲斐諸荘を領した(注:『尊卑分脈』による)。源頼朝が挙兵すると、義定はこれを聞き、工藤景光らとともに援軍に赴いたが、道中で股野景久らの兵に遭遇し、これを迎え撃って敗走させた。当時頼朝は北条時政を甲斐に遣わして諸源氏を招集させていた。義定は武田信義らとともに駿河に至り、橘遠茂と戦った。平維盛が攻めてきて頼朝の黄瀬川の陣営に至ると、維盛は敗れた。頼朝は義定に遠江を守らせ、平氏に備えさせた。養和元年、義定は平氏の諸将が兵を率いて尾張に至ったと聞き、鎌倉に急を告げた。頼朝は和田義盛、岡部忠綱、狩野親光、宇佐美祐茂らを遣わし、義定とともに浜松を扼した。義定は橋本に要害を構えようとし、土地の人々に課役を課した。浅羽荘司宗信、相良三郎はこれを軽んじて命令に従わず、その一族の多くが平氏に属していることから義定に疑われていることも重なって、武藤五を遣わして鎌倉に告げ、速やかに罰するよう乞うた。頼朝は片言だけでは信じがたいとしてこれを聞き入れなかった。武藤五は言った。「義定はすでに彼らの罪を訴えて幕府に告げており、これは衆人の知るところです。しかし幕府がこれを捨て置いて問わなければ、義定の威望はしだいに損なわれてしまいます。もし言葉に実がなければ、後日私を斬って偽りを明らかにしてください。」そこで頼朝は急いで二人の所領を取り上げ、これを義定に与え、さらに書状を送って言った。「宗信らが後日弁明できるならば、そのときお前を処罰しよう。」まもなく宗信は恐れ入って謝罪し、義定もまたそのために取り成した。頼朝は宗信の一族が繁栄しており、多くの兵と人材を蓄えていることから、その用に供したいと考え、その荘内の何分かを返し与えた。寿永二年、従五位下に叙せられ、遠江守となった。翌年、源義経に属して一の谷を攻め、前但馬守平経正、備中守平師盛の首級を得た(注:○本書には能登守教経の首級もこの中にあるとするが、今は採らない。詳しくは教経の伝を見よ)。文治年間、後白河法皇は義定に稲荷社の修造を命じた。この事がなかなか進まなかったため法皇は不快に思い、義定を下総守に左遷した。義定はこれを憂え、頼朝に事情を申し開いてくれるよう頼んだ。頼朝は義定に上奏文を権中納言藤原経房に届けさせ、無実を陳謝し、みずからも使者を出して奏請した。しかし法皇は聞き入れなかった。建久二年、再び遠江守に任じられ、位も一級進んだ。四年、頼朝が永福寺薬師堂を落成させ、士女が集まって見物したとき、義定の子義資(よしすけ)がひそかに幕府の侍女に恋文を投げ入れた。梶原景季の妾がこれを見つけ、景季の父景時に告げてこれが発覚した。頼朝は怒って義資を捕らえて斬り、義定は連座して浅羽荘の地頭職を罷免され、憤怨はますます深まった。翌年、頼朝はその謀反の企てを聞いてこれを殺した。義資は従五位下越後守であった(注:『東鑑』による)。義定の弟に義遠(よしとお)がいる。
安田義遠
¶安田義遠(やすだよしとお)は浅利与一(あさりよいち)と称した(注:『東鑑』による。○『尊卑分脈』『平家物語』は義成とし、『源平盛衰記』は遠忠とする)。壇ノ浦の戦いで、和田義盛が平知盛の船を射て命中させ、二百余歩の距離を隔てて手を振って呼ばわった。「もう一度射返してみよ。」知盛は仁井親清に命じてこれを射させた。その矢は義盛の兜をかすめて逸れ、続けて義経の船に命中した。親清もまた手を振ってその矢を返すよう求め、義盛を愚弄した。義経は配下から選んで義遠に射させた。義遠は親清の矢を見て言った。「幹が弱く短くて用いるに足りない。私の矢を使わせていただこう。」一発で親清の胸を射抜き、しかも海上五段ほど飛び越えたので、全軍が大いに驚いた(注:○『源平盛衰記』『平家物語』を併せ参照した)。建仁年間、城資盛(じょうすけもり)が乱を起こしたとき、その伯母坂額(はんがく)は力が強く弓を善くした。資盛が敗れると、坂額は捕虜となった。義遠は源頼家にこれを自分の妻にしたいと願い出た。頼家はその容貌が醜く、しかも勇猛であることを不審に思った。義遠は謝して言った。「私には他意はありません。ただ坂額の武勇を見込んで、これを娶り勇壮な子を生ませ、国家の用に充てたいだけです。」頼家は笑ってこれを許した。義遠はともに甲斐に帰った(注:『東鑑』による)。子の知義(ともよし)は太郎と称した(注:『尊卑分脈』による)。嘉禄年間、白河の関に賊がおり、若宮別当公暁(こうぎょう)を騙り名乗って徒党を集め乱を起こした。知義は結城朝広とともにこれを撃ち平らげ、首級を鎌倉に伝えた(注:『東鑑』には脱落がある)。
平賀義信
¶平賀義信(ひらがよしのぶ)は、あるいは大内四郎とも称した。刑部少輔源義光の孫である。父は盛義(もりよし)といい、平賀冠者と称し、左兵衛尉となった(注:『尊卑分脈』による)。平治の乱で、義信は源義朝に従って六波羅を攻めたが、義朝は敗走し、平氏がその後を追撃した。義信は引き返して戦い敵を防いだ。義朝は左右を顧みて言った。「私の麾下で馬の鞭を執る兵にも、剛健でない者はいない。この者は惜しい人材だ、お前たちも力を合わせて助けよ。」佐々木秀義、首藤俊通らが進んで奮戦し、義朝はその隙に逃れることができた。勢多に進んだところ、大人数で行動するのは不便であったので、従う兵をそれぞれ解散させた。義信だけが残り、鎌田政清らとともに風雪を冒して幾多の苦難に耐え、美濃の青墓の宿に至り、長者大炊の家に身を寄せた。義朝は子息たちを諸国に分け遣わして兵を募らせ、義信には故郷に帰って兵を挙げるよう命じた。義信はこれを承知し、尋ねて言った。「殿はどちらに向かわれるのですか。」義朝は言った。「尾張に赴き、長田忠致(おさだただむね)を頼って、その軍資を得て東国へ向かうつもりだ。」義信は言った。「忠致の家は財力豊かですが、その人柄は時流に迎合し利を図る質です。どうして殿を匿うことができましょうか。」義朝はその言葉を用いなかった。義信はこれを機に別れを告げて去った。義朝は尾張に至り、ついに忠致に殺された(注:『平治物語』による)。頼朝が平氏を滅ぼすと、まず義信らの旧功を記録し、朝廷に奏請して武蔵守に任じ、従五位上に至らせた(注:『東鑑』による。○『尊卑分脈』および義光流系図を併せ参照した)。義信は在任中よい評判があり、たいへん民の歓心を得た。頼朝は書状で褒め称え、その庁の壁に「後に国司となる者は、義信を手本とすべし」と掲げさせた。以後、国司の治政はみなこれに倣った(注:『東鑑』による)。義信が職を退く日、民衆でこれを慕わない者はいなかった(注:義光流系図による)。子に惟義(これよし)、隆信(たかのぶ)、朝信(とものぶ)、朝雅(ともまさ)、景平(かげひら)がいる。隆信は武蔵大次郎と称し、朝信は小野冠者と称し、景平は小早川次郎と称して兵衛尉となった(注:『尊卑分脈』による)。
平賀惟義
¶平賀惟義(ひらがこれよし)は大内冠者と称した(注:『東鑑』『尊卑分脈』による)。伊賀の守護となった(注:『東鑑』による)。寿永三年、平氏が西海に赴いたとき、平家継(たいらのいえつぐ)が兵を集め(注:『源平盛衰記』による)、守護所を襲った。惟義の吏兵はこれを防いだが勝てず、死傷者が多く出た(注:『東鑑』による)。家継はそこで兵を率いて近江に入り、佐々木秀義を攻め殺した。惟義はこれを追撃し、家継および富田家資、平家能、家清らを斬り、九十余の首級を得た。平信兼の子兼衡らは京都へ逃げ奔り、残党はことごとく平定された(注:○『東鑑』『源平盛衰記』を併せ参照した)。惟義は鎌倉に勝報を届け、自らその功を述べて恩賞を求めた。頼朝は不快に思い、書状でこれを咎めて言った。「そなたが逆党を平定した功はまことに速やかであった。しかし恩賞に及んでまで言い立てるのは言うべきことではない。おおよそ国に守護を置くのは、緩急に備えるためである。そなたが賊に破られたのは、日頃の警備を怠り、守護としての職を失っていたからではないか。賞罰は私の権限にあるものであり、どうして自ら求めてよいものか。」ついに恩賞を与えなかった。後に源義経に従って西海で平氏を撃ち、その功によって相模守に任じられた(注:『東鑑』による)。駿河、武蔵守を歴任し、修理権大夫に任じられ、院への昇殿を許され、正四位下に至った(注:『尊卑分脈』による)。子の惟信(これのぶ)は、別に伝がある。
平賀朝雅
¶平賀朝雅(ひらがともまさ)は、武蔵守、右衛門権佐に任じられた(注:『東鑑』義光流系図による。○『東鑑』では朝政とすることもある)。正五位上に至り、北条時政の娘婿となった(注:義光流系図、『保暦間記』による)。建仁三年、実朝の命によって京都の警衛にあたった(注:○『帝王編年記』は正治元年とする)。また西国の御家人に命じて交代で京都に上らせ、朝雅の指揮下に置いた。元久元年、平基度、平盛時らが伊賀、伊勢で兵を挙げ、守護首藤経俊(すどうつねとし)を襲った。経俊は逃走した。敵は二国を掠め取り、鈴鹿の関を奪い、八風山の道を塞ぎ、険阻な地に拠って防備を固めた。実朝は朝雅に兵を率いてこれを討たせた。朝雅は鈴鹿の道が塞がれていたため、美濃路から伊勢に入り、富田で基度を撃ってこれを斬った。進んで安濃に至り、岡貞重の砦を攻め破った。さらに進んで多気に至り、荘田佐房を撃って敗走させ、河田刑部大夫を捕虜とした。そのまま伊賀に赴き、六箇山の砦で盛時を攻め、数日でこれを陥落させた。その党の首魁若菜五郎が伊勢を横行し、砦を数か所築いていた。朝雅は再び軍を伊勢に返し、連戦してことごとくこれを滅ぼし、五郎を関の小野で斬り、二国はついに平定され、鎌倉に勝報を報じた。実朝は朝雅の功を賞し、伊勢守護に補した。朝雅が京都にいたとき、畠山重忠の子重保(しげやす)と酒を飲み、あることをめぐって言い争いになった(注:『東鑑』による)。朝雅は憤り恨み、これを妻の母牧氏に悪しざまに告げた。牧氏は驕慢で気性が激しく、日頃から悪心を抱いていたため、時政と謀って重忠父子を殺した。さらに実朝を弑逆し、朝雅を将軍に立てようとした。この企ては発覚し、時政とその妻牧氏は伊豆北条に幽閉された(注:『東鑑』による。○『保暦間記』を併せ参照した)。そこで北条義時らは相談し、京都にいる将士に朝雅を討たせることにした。朝雅はそのとき後鳥羽上皇の御所で囲碁を打っていたが、その従者が急を告げに来ても、朝雅は少しも慌てた様子を見せず、座り直して碁石を箱に収めた。そして静かに奏上して言った。「関東からの使者が到着し、まさに臣を誅そうとしております。事態は切迫しており、臣には逃れる術がございません。どうか退出のお許しを。」そして御所を出て自邸に帰った。まもなく後藤基清、佐々木広綱らが兵を率いて来て取り囲んだ。朝雅は敗れて松坂へ逃げたが、途中で命を落とした(注:『東鑑』による。○『明月記』によれば、朝雅はそのとき宿直の間におり、他の北面の武士たちと絵を鑑賞していたところ、従者が来てひそかに耳打ちして去ると、朝雅は元のように座り直したという。どちらが正しいかは分からない)。
武田信義
¶武田信義(たけだのぶよし)は、刑部少輔源義光の曾孫である。義光の子義清(よしきよ)は刑部三郎と称し、また武田冠者とも称した(注:○『武田系図』によれば、義光は諸子の中から義清を選んで後継としたため、兄義家が東征の際に用いた鎧と旗を授けた。これがいわゆる楯無(たてなし)である。思うに『保元物語』には源氏の名甲八領を載せ、代々宗家に伝わるものとするが、楯無はその一つに数えられていない。異本『平治物語』にもまた源義朝が大内を拠点としたとき楯無の鎧を身につけたとある。三書の説は系図と合わないが、参考として付す)。義清は清光(きよみつ)を生み、清光は武田源太と称した。顔がひどく浅黒かったため、人々は黒源太と呼んだ。信義はその長男で、幼名を龍光丸といった。年わずか十三歳のとき、一族の長老為義(ためよし)が加冠して元服させ、信義と名づけ、太郎と称した(注:義光流系図による)。治承四年、源行家(みなもとのゆきいえ)が以仁王の令旨を携えて関東の諸源氏に諭して回り、甲斐に至って信義を説いた(注:『源平盛衰記』による)。信義は源頼朝が石橋山で敗れたと聞き、これを援けに行こうとした。当時平氏方の勢力は多く信濃にあった。信義はまず信濃に赴き、菅冠者某の大田切城を襲った。菅冠者は風聞を聞いただけで恐れ、自ら火を放って自害し、信義は甲斐の逸見山に引き上げて駐屯した。頼朝は北条時政を遣わして来告させ、力を合わせ計を協せて共に平氏を撃つよう申し入れた。信義は兵を率いて石楽に至り、土屋宗遠もまた伝令を受け、武田ら甲斐源氏を黄瀬川で合流させた。信義は安田義定、逸見光長らとともに駿河に進み、目代橘遠茂を捕らえ、長田某父子を斬り、ついに兵二万をもって黄瀬川で頼朝に合流した(注:『東鑑』による)。当時平維盛が兵を率いて高橋に陣を敷いたとき、信義は書状を送ってこれを挑発し激怒させた(注:『玉海』による。○『源平盛衰記』は安田義定とする)。まもなく維盛、忠度らは富士川の西に進軍したが、夜半、信義はひそかに間道から抜け出し、敵陣の背後を襲った。敵兵は水鳥の羽音に驚き騒ぎ、味方の大軍が到来したと思い込んで混乱し狼狽して京都へ逃げ帰った。頼朝は信義に駿河を守るよう命じた。しばらくして京都で「法皇が信義に頼朝を討てと詔した」との流言が広まった。当時信義は駿河におり、頼朝はこれを召して問いただした。信義は釈明して言った。「私はいまだかつて詔を受けたことはありません。たとえ詔があったとしても、私がそれに従うでしょうか。昨年戦に臨み、危難を冒して死地を踏んだことは、公もよくご存じのはずです。我が子孫は永久に異心を抱くことはありません。」そう言って誓約書を差し出して明らかにした。頼朝の心はそれで解けた(注:『東鑑』による)。ほどなく範頼に従って平氏を撃った(注:『源平盛衰記』による)。後に子の忠頼(ただより)の一件によって疎んじられた。文治二年、没した。享年五十九(注:『東鑑』による)。
¶子に有義(ありよし)、忠頼(ただより)、兼信(かねのぶ)、信光(のぶみつ)がいる。有義は左兵衛尉となった(注:『尊卑分脈』による。○義光流系図では、有義を第四子とし吉田四郎と称するとある。また信義の長男忠義は米倉弥太郎と称するというが、印本『尊卑分脈』にも有義を武田四郎と称するとあり、いずれも本書とは合わない)。頼朝がかつて鶴岡社に参詣した際、有義に太刀持ちを命じたが、有義は難色を示した。頼朝は怒って言った。「そなたは以前、小松内府(平重盛)の太刀持ちを務めたではないか。それは源氏の恥ではないのか。私はそなたにとって同族で目上の立場にあるのに、それを辞退するとはどういうことか。」そして小山朝光に代わって務めさせた。有義は恐れ入って身を隠した。正治元年、梶原景時は朝廷に奏請して有義を将軍に立てようと謀り、ひそかに有義に書状を通じ、ともに京都に上り鎮西の武士たちを誘って挙兵する約束をした。有義はこれを承知した。信光はこれを聞いて恐れ、有義の家を襲った。有義は気づいて逃げ去った。信光はその家に入って捜索し、景時の書状を得て、これを頼家に献上した(注:『東鑑』による。○『保暦間記』を併せ参照した)。忠頼は一条二郎と称し、当初は父に従ってしばしば戦功を立てた(注:『東鑑』による)。義仲を撃ったとき、弟兼信とともに粟津浜まで進んだ。当時義仲は形勢が悪く、逃げようとしていた。忠頼、兼信は先陣を切り、兵を督励して大いに戦った。義仲はついに敗死した(注:『源平盛衰記』による。○『平家物語』を併せ参照した)。その後、功をたのんで驕り高ぶるようになり、頼朝はこれを憎んだ。ある日、忠頼を幕府内に召し、盛大に酒食を用意し、工藤祐経に「酒器を捧げる振りをして斬れ」と命じた。祐経はその勇猛さを恐れ顔色を変えてしまった。小山田有重が席を立って言った。「これは老いた者がすべき役目だ。」そして自ら酒器を執った。有重の二子稲毛重成、榛谷重朝は杯と肴を持って忠頼の前に進んだ。有重は二人の子を振り返って言った。「およそ膳を進める者は、袴の裾を上に括るのが礼儀である。」上括るとは袴を膝までたくし上げて結ぶことをいう。二人はその言葉に従った。天野遠景は別に頼朝の命を受けており、まっすぐ進み出て忠頼を斬った。忠頼の従士新平太、武藤与一、山村小太郎らは刀を振るってまっすぐ上座に迫り、幕府の諸士と死力を尽くして戦った。重成、重朝、遠景、結城朝光らがこれを撃ち殺した(注:『東鑑』による)。兼信は板垣三郎と称し、源範頼に属して西征に功があった(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。後に数か所の地頭職を授けられた。その領内に太皇太后宮御厨の地があった。兼信は職務にあたって不法を働いたため、隠岐に流された(注:『東鑑』による。○義光流系図を併せ参照した)。子孫は代々甲斐にいる(注:『尊卑分脈』による)。
武田信光
¶武田信光(たけだのぶみつ)は、幼名を光寿丸といい、甲斐国石和(いさわ)で生まれたことから石和五郎と称した(注:義光流系図による。○『東鑑』は伊沢と表記するが読みは同じである)。源頼朝が挙兵すると、父に従って駿河に赴いた。鉢田に至ったとき、橘遠茂らが兵を率いて甲斐を襲おうとしているのに遭遇した。山道は狭く険しく、事は不意に起こったため、進退はたいへん困難であった。信光は加藤景廉らを率いて真っ先に奮戦し、ついにこれを打ち破った。遠茂を捕虜にし、長田某父子を殺した(注:『東鑑』による)。寿永三年、源範頼に属して義仲を討ち(注:『源平盛衰記』による)、後に一の谷で平氏を撃った(注:八坂本『平家物語』による)。信光は頼朝に格別に寵愛され、常に側近に仕えた。三人の兄はいずれも罪によって所領を失い、ただ信光だけが武田氏の宗家を継ぎ(注:義光流系図による)、駿河方上の地頭職となった。頼家が将軍に立つと、僧全成(ぜんじょう)が謀反して駿河に逃れた。信光はこれを捕らえて鎌倉に送った。建保年間、和田義盛が乱を起こしたとき、信光はこれと戦って功があり、それにより所領を加増された。承久の役では、諸将とともに五万の兵を率い、東山道から京都を攻めた。出発に臨んで、家来たちはみな諫めて言った。「本日はちょうど十死一生の凶日にあたります。どうか出発を延期してください。」信光は聞き入れずに言った。「十死一生とは、多くが死んで少数しか帰らないことをいう。戦に臨んで家のことを忘れるのは、武士の常である。どうして忌み嫌う必要があろうか。」そして味方を励まして出発した。市原に至ったころ、上皇は使者を三度も遣わして信光および小笠原長清に帰順を勧告した。信光は長清と相談して使者二人を斬り、一人を放って言った。「お前は帰ってこのことを報告せよ。」まもなく官軍は尾張川を守っていた。信光は子の信政を呼んで言った。「戦場では父子でさえ互いを顧みる余裕がない、まして親族などなおさらである。お前はひそかに大井戸を渡り、真っ先に功を立てよ。一族の者には知らせるな。」信政はまず泳ぎの巧みな者に川の深浅を測らせ、渡るべき場所に目印を立てさせてから、兵を率いて進んだ。官軍は雨のように矢を放ち、続けて数人を倒した。信政はひるまず、川を渡って奮戦した。信光はこれを望み見て勇ましく思い、大声で励ました。信政はますます進み、兄の信忠、弟の信長、信隆らとともに、上陸して官軍を撃ち破った。大井戸の陣がすでに崩れると、東国方の軍勢が群がり至り、官軍はもちこたえられず京都へ逃げ帰った。信光らは進んで安達景盛とともに供御瀬を攻め、ついに京都を陥落させた(注:『東鑑』『承久記』による)。その功により安芸の守護に補せられた(注:『尊卑分脈』義光流系図による)。信光は剃髪して名を光蓮と改め、世に伊豆入道と称された(注:『東鑑』による)。弓馬の術を鍛練し、笠懸、犬追物、流鏑馬の作法に通じ、世に信光と小笠原長清、海野幸氏、望月重隆をあわせて弓馬四天王と称した(注:義光流系図による)。後に幸氏と地の境界を争って決着せず、鎌倉に訴えたところ、信光の方に非があるとされた。当時「信光がひそかに北条泰時を除こうと企てている」との流言が立った。信光は恐れて、異心のないことを誓約する書状を差し出した(注:『東鑑』による)。宝治二年、没した。享年八十七。信光はかつて北条時頼に弓術を教えたことがあり、間柄はたいへん親密であった。このため時頼は甲斐の市川荘に寺を建てた(注:義光流系図による)。
¶子に朝信(とものぶ)、信忠(のぶただ)、信政(のぶまさ)、信長(のぶなが)、信隆(のぶたか)がいる。朝信は太郎と称し、弓を善くした。信忠は世に悪三郎と称された(注:『尊卑分脈』による)。義盛の乱のとき、父とともに幕府に馳せ参じた。信光が若宮大路で朝夷名義秀に出会い、まさに組み合おうとしたとき、信忠が進み出てこれに当たった。義秀はその孝心と勇気に感心し、放してその場を去った。後に信忠は父の意に逆らったため、信光は怒って幕府に訴え、父子の縁を断とうとした。泰時が取りなしたが、信光は聞き入れなかった。ある日、信光が泰時の御前に控えているとき、信忠は使者を通じて訴えて言った。「信忠は孝養を怠ったことはございません。今なぜ罪を得たのでしょうか。建保、承久の役の際には、父に代わって死地を踏んだことは、殿もよくご存じのはずです。たとえ父が不慈にしてこれを罪しようとも、殿はなぜ私のために少しも取り成してくださらないのですか。」泰時が懇ろに頼んだが、信光はついに聞き入れず、信忠を顧みて言った。「お前の言うことは偽りではない、私も忘れてはいない。しかしお前の行いは道理に背いている。私は今、義によって情を断つのだ、お前は自ら反省せよ。」信忠は涙を流して去った(注:『東鑑』による)。信政は小五郎と称し、源義平の娘が生んだ子であることから頼朝に寵愛された。信光もまたこれを愛し、後継に立てた。正四位下刑部大輔、大膳大夫に至った(注:義光流系図による)。信長は一条六郎と称し、弓馬に巧みで、子孫はその技法を伝えた(注:『尊卑分脈』による)。
小笠原長清
¶小笠原長清(おがさわらながきよ)は、刑部少輔源義光の玄孫で、信濃守遠光(とおみつ)の第二子である(注:『尊卑分脈』による)。甲斐国小笠原で生まれた(注:義光流系図による。○系図にはまた、遠光が和田義盛の娘を娶って長清を生んだとある。しかし『東鑑』によれば長清は平氏に属して京都におり、頼朝挙兵の報を聞いて甲斐に帰り、黄瀬川で頼朝に会ったという。今、建保元年に義盛が六十七歳で死んだ年から数えると、治承四年には義盛は三十四歳であったことになる。外孫である長清の経歴・年齢がこれと符合するはずがない。しかも系図によれば長清は仁治三年に八十一歳で死んだとあり、そうすると義盛より十四歳年下となり、いよいよその誤りが明らかである。そのため今はこの説を採らない)。加賀美二郎と称し、左京大夫、相模、信濃守となった(注:『尊卑分脈』による)。頼朝が挙兵したとき、甲斐源氏はことごとく駿河の黄瀬川に集まった。これより先、長清は兄の秋山光朝とともに平知盛に属して京都におり、母の病を理由に帰郷を願い出たが許されなかった。高橋盛綱に重ねて願い出て、ようやく許され、さらに「今は戦乱が頻発しているので、早く戻って参れ」と諭された。長清は甲斐に至り、ついに黄瀬川で頼朝に謁見した。まもなく頼朝は弟の範頼に命じて源義仲を討たせ、長清は父とともに従軍して功を立てた(注:『源平盛衰記』による)。ついに従って平氏を撃った。西海にいたとき、頼朝は範頼に書状を送ってこれを厚く遇するよう命じた。後に陸奥で藤原泰衡を撃った(注:『東鑑』による)。承久の役では、武田信光らとともに兵を率いて東山道から出て、官軍を撃ち破った(注:『東鑑』『承久記』による)。その功により阿波の守護となった(注:『尊卑分脈』による)。仁治三年、没した。享年八十一。長清は騎射に精通し、後世まで規範として伝えられた(注:『小笠原系図』による)。子に長経(ながつね)、時長(ときなが)、行長(ゆきなが)がいる。長経は弥太郎と称し、頼家に親しく重んじられ、常に側近に仕えた。また比企能員(ひきよしかず)とも親しかった。能員が敗れると、これに連座して幽閉された(注:『東鑑』による)。子の長房(ながふさ)は阿波の守護となり、子孫は阿波にいる。長忠(ながただ)は信濃守となり、子孫は信濃にいる。時長は伴野六郎と称した。子の時直(ときなお)、孫の長泰(ながやす)はともに出羽守となった。長泰は弟泰直とともに安達泰盛の一件に連座して殺された。行長は大井十郎と称し、子の泰綱(やすつな)は美濃の守護代となった(注:『尊卑分脈』による)。
佐竹秀義
¶佐竹秀義(さたけひでよし)は、刑部少輔源義光の玄孫である。義光はかつて常陸介となり、その子義業(よしなり)は常陸の豪族平清幹(たいらのきよもと)の娘を娶り(注:○清幹の姓は『佐竹系図』による)、昌義(まさよし)を生んだ。昌義は初めて佐竹郷に居を構え、子孫はこれによって佐竹を氏とした。昌義は隆義(たかよし)を生み、秀義はその長男である(注:『尊卑分脈』による。○佐竹に居住したことは系図による)。頼朝が挙兵したとき、隆義は平氏に属して京都におり、秀義は伯父の義政(注:○伯父であることは『尊卑分脈』による。○『尊卑分脈』『佐竹系図』を見ると、義昌(昌義)の子に忠義があり、義政はいない。忠義が殺された年月が本書の記述と合うので、思うに同一人物で名を改めたのであろう)とともに、それぞれ強大な兵力を擁し、その威勢は国境の外にまで及んでいた。頼朝が平維盛や千葉常胤、三浦義澄らとともに追撃しようとしていたとき、義政が禍の種になるのを危惧し、頼朝にこれを除くよう勧める者がいた。頼朝は兵を率いて常陸に至り、常胤・義澄は土肥実平らと謀って、平広常に義政を説得させた。義政はこれに従った。秀義はその父が平氏に属していることから頼朝に属することを潔しとせず、退いて金砂山(かなさやま)に籠もった。頼朝は広常を使って義政を誘い出し、大矢橋でこれを殺した。そして下河辺行平、和田義盛、および実平らに数千の兵を率いさせて秀義を攻めさせた。秀義は険要の地に砦を築き、城壁を固めて防守した。鎌倉方の兵は競って攻めたが、落とすことができなかった。実平は人を遣わして頼朝に申し上げた。「金砂の城は地勢が険しく、兵もまた精鋭です。力ずくで落とすのは難しく、計略によって破るのがよろしいでしょう。」頼朝はそこで広常の計略を用い、秀義の叔父蔵人義弘(くろうどよしひろ)を利をもって誘った(注:○義弘の名は『尊卑分脈』による)。義弘は広常の兵を城の背後にひそかに導き、大声で「攻めよ!」と叫ばせると、その声は山谷に響き渡った。秀義はあわてふためいて防ぎきれず、ついに敗走して花園に籠もった。頼朝はその領していた奥七郡および大田、糟田などの地を割いて、ことごとく将士に恩賞として与え、広常・義盛が捕らえた義政の部下十数人を召し出して引見した。岩瀬大郎という者だけがひとり涙を流してやまなかった。頼朝は不審に思ってその理由を尋ねると、岩瀬は言った。「主君が非業の禍にあったことを思い、その痛ましさに堪えないのです。」頼朝は言った。「そなたが主君を思うならば、なぜその事に殉じて死なないのか。」岩瀬は言った。「将軍が私の主君を誅されたとき、臣らはこれに従うことができませんでした。私が恥を忍んで生き永らえて今日に至ったのは、いつか将軍にお目にかかり、申し上げたいことがあったからです。そもそも将軍は平氏を討つことを本分とすべきであるのに、親族を誅殺するのは、まことに得策ではありません。将軍がまことに仇敵を滅ぼそうとお望みならば、天下の勇士と力を合わせるべきです。それなのに反対に親族を誅するようでは、将軍は誰と共に仇敵を滅ぼすというのでしょうか。また誰に子孫を守らせるおつもりでしょうか。今、将軍に帰服する武士たちは、ただその威勢を恐れているだけで、心から服しているわけではありません。後世の謗りを招くことを恐れます。どうか将軍にはよくよくお考えいただきたく存じます。」頼朝は黙り込んでしまった。広常は岩瀬に異心があるのではと恐れ、これを誅するよう請うたが、頼朝は許して咎めなかった。秀義はこれによって罪を免れることができた。頼朝が藤原泰衡を撃ったとき、秀義は兵を率いて宇都宮で合流した。頼朝はその立てた白旗が自分の旗と変わらないのを見て、月を描いた扇を与え、旗印とさせた(注:『東鑑』による)。かつて朝廷が頼朝を招いて入朝させようとしたとき、頼朝は隆義がその後をつけて狙うことを恐れ、辞退して朝見しなかった。その一族の兵力が強大で、頼朝に畏れ憚られたことはこのようであった(注:『玉海』による)。秀義は嘉禄元年に死んだ。享年七十五(注:『佐竹系図』による)。子の重義(しげよし)が生まれ、常陸介となった。重義の玄孫貞義(さだよし)は足利尊氏に属し、上総介、遠江権守に任じられた(注:『尊卑分脈』による。○尊氏に属したことは『太平記』による)。