卷之一百四十三 列傳第七十

源賴義、源義綱、源義光、源義家ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次8
  1. 源賴義
  2. 源義綱
  3. 源義光
  4. 源義家
  5. 源義國
  6. 源為義
  7. 源為朝
  8. 平景政

源賴義

源頼義(みなもとのよりよし)は、鎮守府将軍だった源頼信(みなもとのよりのぶ)の長男である(注:出典は尊卑分脈・小笠原系図・陸奥話記)。幼名は王代丸といった(注:小笠原系図)。落ち着いて思慮深く武略に富み、将帥としての器量を備え、騎射に優れていた。長元年間、父に従って平忠常(たいらのただつね)討伐に功があり、坂東の武士の多くが彼に心を寄せた(注:陸奥話記)。小一条院の判官代となった(注:陸奥話記・尊卑分脈)。院は狩猟を好み、頼義は常にお供をした。弱い弓を用いて猛獣を射るのを好み、放てば必ず羽まで貫き、弦音とともに倒れない獲物はなかった。上野介平直方(たいらのなおかた)はその騎射を見て感嘆し、「私は不肖の身ながら名将の血筋であり、武芸を好んできたが、あなたほど弓の巧みな者を見たことがない。娘を側室として差し上げたい」と言った。頼義はこれを受け入れた(注:陸奥話記)。ほどなく相模守となった(注:陸奥話記・尊卑分脈・小笠原系図)。相模の風習は勇猛を尊び、頼義は在任中、士を愛し施しを好んだため、威風が大いに広まった。荒々しい者たちも皆彼に従い奴僕のようになった。坂東一帯の弓馬の士は競って門客となろうとした。任期が満ちて京に帰った(注:陸奥話記)。

これより先、陸奥には安倍頼時(あべのよりとき)という者がおり、代々豪族の頭領として勢威を頼んで驕り高ぶっていた。永承年間、陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)が陸奥・出羽の兵を率いてこれを討ったが、勝てなかった。この事が朝廷に伝わると(注:陸奥話記・今昔物語)、朝議は頼義を陸奥守に任じることに決し(注:陸奥話記・今昔物語・尊卑分脈・小笠原系図)、兵を率いて討たせた。頼義が陸奥に着いた頃、ちょうど大赦があった。頼時は大いに喜び、心から服従した(注:陸奥話記・今昔物語)。頼義はほどなく鎮守府将軍を兼ねた(注:扶桑略記・帝王編年記・百錬抄・陸奥話記・今昔物語・尊卑分脈・小笠原系図。注:「ほどなく兼ねた」は本朝続文粋の上奏文による。陸奥話記では陸奥守拝命と同時に兼ねたとする)。国内は治まり静かになった。任期が終わる頃、鎮守府に入って政務を執り、数十日滞在した。頼時はこれに恭しく仕え、その軍勢に厚く贈り物をした。やがて頼義は国府へ帰る途中、阿久利川で宿営した。その夜、何者かが藤原光貞(ふじわらのみつさだ)の陣営を襲った。頼義が調べさせるとその犯人は頼時の子貞任(さだとう)の仕業であった。頼義は怒って、「これは私を射たも同然で、光貞を射たのではない」と言い、貞任を捕らえて罪に問おうとした。頼時はこれを聞くと、子や甥を集めて衣川(ころもがわ)に拠り、関を閉ざして反旗を翻した(注:陸奥話記・今昔物語)。

天喜四年七月、朝廷は頼義に討伐を命じた(注:帝王編年記。注:頼時の謀反については諸書ともその年月を詳らかにしないが、おそらく天喜二年、頼義の任期が終わった頃に頼時が反旗を翻したのであろう。当時の事情から推測するに、頼義は任期が終わっても三年京に帰らなかったのだから、その理由を報告しないわけにはいかず、朝廷もまた討伐の詔を下さないわけにはいかなかったはずだが、それが今年まで延びている。おそらくこれより先にすでに討伐を試みて成功せず、ここに至って頼義が再び出兵を求め、朝廷が再度詔を下したのであろう。また藤原経清らが頼時に降ったのは、頼時が反旗を翻した時のことらしいので、その出来事は天喜四年より前ということになる。ただし金為時らが俘囚を招き諭したこともいつのことか詳らかでないため、ひとまずここに記して参考に備える)。頼義はそこで坂東の兵を発してこれを攻め、歩兵騎兵数万を得て、国内はこれに呼応した。

当時、頼時の娘婿である藤原経清(ふじわらのつねきよ)と平永衡(たいらのながひら)は、兵を率いて頼義のもとに帰属していた。永衡は銀の冑をかぶっていたが、ある者が頼義に説いて言った、「永衡は初め前任の国司登任に仕え、厚遇されていました。ところが頼時と縁を結んでからは太守に対して二心を抱くようになりました。戦になると旧主に背いて頼時につき、その人柄はもともと不義です。今は表向き誠意を示していますが、内心では奸謀を抱いており、ひそかに敵に軍の動静を通報するのではないかと恐れます。しかもその冑は他の者と違っており、これは頼時方の兵に自分だけは射られないようにするためではないでしょうか。速やかに斬って、内応の芽を絶つべきです」。頼義はもっともだと思い、永衡とその腹心四人を捕らえて即座に斬った。経清は内心穏やかでいられず、軍中に「頼時が軽騎兵を派遣して国府を襲おうとしている」と流言を広めた。当時頼義や配下の妻子はみな国府におり、兵士の多くが頼義に国府へ帰るよう勧めた。そこで気仙郡司金為時(こんのためとき)らに衣川の頼時を攻めさせ、自らは焼けた馬数千を率いて国府へ馳せ帰った。経清はそのまま逃げ帰った。

頼時・頼義はそれぞれ金為時、下毛野興重(しもつけののおきしげ)らに国内の俘囚を招き諭させた。俘囚の長である安陪富忠(あべのとみただ)が兵を挙げてこれに応じた。天喜五年七月、頼時と大戦を二日間行い、頼時は敗死した(注:七月とするのは百錬抄による)。残党はまだ平定されず、貞任の兵勢は日に日に盛んになった。当時は戦乱に加えて凶作が重なり、軍糧が続かず、兵は離散して再び集まらなかった。頼義はこれを憂えた(注:陸奥話記・今昔物語を参照して記す)。

八月、頼義は上奏して東山道・東海道諸国に官符を下し、糧穀を輸送させるよう求めた(注:扶桑略記)。九月にはまた賊を破った状況を奏上し、官符を賜って諸国の兵士を徴発し、糧食を輸納させるよう求めた(注:扶桑略記・陸奥話記。注:八月の奏請はおそらく頼時がまだ死んでいない時に上奏したもので、九月の状は頼時死後に上奏し、この時になって京に届いたものであろう)。

十一月、頼義は自ら兵千八百余人を率い(注:扶桑略記・十訓抄では千三百余人、今昔物語では三千百余人、一代要記では三千余人とする)、河崎柵に貞任を攻めた。折しも大風雪で、人馬とも凍え飢えた。貞任は精兵四千余を率いて鳥海(注:鳥海は陸奥話記による)に出て戦った。頼義は大敗し、士卒はほとんど死に絶え、わずかに六騎が残るのみとなった。賊は急いでこれを包囲し、矢を雨のように射かけた(注:扶桑略記・陸奥話記・今昔物語)。頼義の子義家(よしいえ)、および藤原景通(ふじわらのかげみち)、六宅光任(むつやけのみつとう)、清原貞広(きよはらのさだひろ)、藤原季範(ふじわらのすえのり)、藤原則明(ふじわらののりあき)は皆勇猛に奮戦した。頼義の馬が矢に当たって倒れると、景通は自分の馬を与えた。義家や光任らは死力を尽くして戦った。景通の長男景季(かげすえ)は二十余歳で、賊陣に馳せ突入し、その将数人を斬ったがついに戦死した。和気致輔(わけのむねすけ)、紀為清(きのためきよ)らもまた力戦の末に戦死した(注:和気致輔・紀為清は陸奥話記による)。賊兵はついに退き、頼義はかろうじて脱出できた。

相模の人佐伯経範(さえきのつねのり)は、頼義から日頃厚遇されていた。戦に敗れた時、頼義の行方がわからず、誰かが逃げてきた兵に尋ねると、「将軍は賊に囲まれ、従う兵は数騎に過ぎず、とても脱出できないでしょう」と答えた。経範は、「私は将軍にお仕えして三十年、歳は六十に及び、将軍もまた老齢に迫っておられる。今この滅亡の時にあたって、どうしてお供して地下(黄泉)へ行かずにいられようか」と言い、そのまま賊の中へ馳せ入った。従う兵二、三騎もまた「我らの主君がすでに将軍のために節義に殉じたのに、我らだけがどうして生き延びられようか」と語り合い、共に敵陣に突入して死んだ。頼義が士心を得ていたのはこのような例による(注:陸奥話記・今昔物語)。

十二月、頼義は上奏文を奉って、「諸国の兵士や軍糧については、徴発の命令は出ているものの、実際に到着した実績がありません。本国の民はことごとく逃げ隠れ、兵役に従いません。出羽守源兼長(みなもとのかねなが)には賊を討伐する意思がありません。天皇の裁断がなければ、どうして征伐できましょうか」と述べた(注:扶桑略記・陸奥話記)。これより先、朝廷は頼義の任期が終わったとして国守を交代させていた(注:扶桑略記・百錬抄)。しかし賊がまだ平定されていないという理由で、頼義は辞退して赴任しなかった(注:陸奥話記)。この月、朝廷は頼義に再任を命じる詔を下した(注:百錬抄では去年十二月のこととするが、ここでは扶桑略記に従う)。兼長を罷免し、源斉頼(みなもとのなりより)をその後任とした。諸国に官符を下し、軍糧を徴発させた。しかし斉頼はぐずぐずと出兵せず、糧運も届かなかった。貞任の勢いはますます強大となり、諸郡を横行して人民を略奪した(注:扶桑略記・陸奥話記)。賊将経清は兵を率いて衣川関を出て、官の物資を奪い取った(注:陸奥話記)。

康平五年春、朝廷は頼義の任期がまた満ちたとして、高階経重(たかしなのつねしげ)に交代を命じた。国民は日頃から頼義の威名を慕っており、経重の指揮に従わなかった。経重はやむを得ず京へ帰った(注:扶桑略記・陸奥話記)。頼義は賊討伐に意を注ぎ、使者を遣わして出羽の俘囚の長清原光頼(きよはらのみつより)とその弟武則(たけのり)を招いて援軍とした。光頼らはためらって決めかねたが、頼義はしばしば珍宝を贈って誘った。七月、武則は子弟部下一万余人を率いてやってきた。頼義は三千余の兵を率いて栗原郡の営岡で武則と合流し、軍議を行った。折しも鳩が陣営の上を飛び、人々はこれを瑞兆とした。頼義以下は皆これを拝んだ(注:扶桑略記・陸奥話記・今昔物語)。

そこで兵を七隊に分け、清原武貞(たけさだ)を第一陣、橘貞頼(たちばなのさだより)を第二陣、吉彦秀武(きみこのひでたけ)を第三陣、橘頼良(たちばなのよりよし)を第四陣、頼義自身が第五陣を率い(注:本書によれば第五陣はさらに三陣に分かれ、一陣は将軍(頼義)、一陣は武則、一陣は国内の官人らであったという)、吉美侯武忠(きみこのたけただ)を第六陣、清原武道(たけみち)を第七陣とした(注:陸奥話記)。進んで磐井郡荻馬場に至り、貞任の叔父である僧良照(りょうしょう)が守る小松柵を攻めようとした。折しも日が暮れ、しかも凶日であったため出撃しなかった。武貞、頼貞らが進んで地勢を偵察していたところ、従卒が柵外の民家に火を放った。賊は驚いて騒ぎ立て、矢や石を次々に放ってきた。頼義は武則に「兵は機に乗じることを貴び、日時にこだわる必要はない」と言い、騎兵に包囲攻撃させた。深江是則(ふかえのこれのり)、大伴員秀(おおとものかずひで)は決死の兵二十余人を率いて崖をよじ登り、柵を破って侵入した。白兵戦となり、柵の中は大混乱に陥った。貞任の弟宗任(むねとう)は八百余騎を率いて出撃したが、頼義配下の勇猛な騎兵平真平(たいらのさねひら)、菅原行基(すがわらのゆきもと)らが力戦してこれを破った(注:陸奥話記・今昔物語)。

清原武道が要害の地を守っていたところ、宗任は精兵三十余騎でこれを襲った。武道は迎え撃ち、多くの死傷者を出しつつも敵をほぼ討ち取ったが、賊兵は柵を捨てて逃走し、柵に火を放って焼いた。頼義は兵を休ませ、あえて追撃しなかった。折しも長雨が続き、十八日間その場に留まったため、軍は食糧に窮した。磐井の商人たちは皆宗任に従っており、官軍の輜重を奪われた。頼義はこれを憂え、兵一千余をもってこれに備えさせ、また三千余を中村に分遣して稲を刈らせて糧とした。陣営に残った者は六千五百余人であった(注:陸奥話記)。

九月、貞任は官軍の兵が少ないのを見て取り、自ら精兵八千を率いて襲来した(注:扶桑略記・陸奥話記)。頼義は長蛇の陣を敷いて迎え撃ち、喊声は天地を動かした。午の刻から酉の刻まで戦い、ついに大いにこれを破った(注:陸奥話記)。勝ちに乗じて敗走する敵を追い、磐井川に至って賊兵百余人を殺し、馬三百余匹を得た(注:扶桑略記・陸奥話記)。頼義は武則に「今日賊を逃がせば、明日にはまた勢いを盛り返すだろう」と言い、武則に精兵八百を率いさせ、夜に乗じて追わせた。頼義は陣営に戻って士卒をねぎらい、自ら傷を負った者を見舞ったので、皆感激し、争って彼のために働くことを喜んだ。武則は間道から貞任を襲い、これを打ち破って多くの死傷者を出させた(注:陸奥話記)。

貞任は退いて衣川関を守り、頼義は自ら兵を率いてこれを攻めた。道は険しく狭く、しかも長雨で水があふれ、軍は苦戦した。武則はひそかに兵を遣わして賊将藤原業近(ふじわらのなりちか)の柵を焼いた。貞任は火の手を望み見て大いに驚き、関を捨てて鳥海柵に籠った(注:陸奥話記・今昔物語)。頼義は進んで大麻生野柵と瀬原柵の二つを攻め、これを陥落させた(注:陸奥話記)。そのまま鳥海柵を攻めると、貞任は防ぎきれず、退いて厨川柵(くりやがわのさく)に籠った。頼義は鳥海柵に入ったところ、酒が数十甕あり、士卒は争ってこれを飲もうとした。頼義は「賊が毒を仕込んで我らを苦しめようとしているのではないか」と言って止めた。しかし一人がひそかに飲んでも害がなかったので、そのまま皆に飲ませ、全軍が喜び和んだ。

頼義は進んで黒沢尻柵を陥落させ、続けて鶴脛柵と比与鳥柵を打ち破り、ついに厨川と嫗戸の柵を包囲した(注:陸奥話記・今昔物語)。貞任は櫓を組んで固く守り、矢や石が雨のように降り注ぎ、官軍の死者は数百人に及んだ。頼義は士卒に命じて民家を壊させ、その材で堀を埋め、草を刈って河岸に積ませた(注:扶桑略記・陸奥話記)。そして馬を下りて遥かに皇城を拝み、八幡神に祈願し、自ら火を取って「神火である」と唱えてこれを投じた。すると突然暴風が吹き起こり、煙と炎が天に満ちて、櫓や柵は一瞬にして灰燼に帰し、柵の中は混乱した。官軍が急いで攻めかかると、賊兵数百は包囲を突破しようと死に物狂いで戦った。武則がその退路を緩めると、賊の一同は逃げ出した。頼義はこれを追撃して殲滅し、その途上で貞任とその弟重任(しげとう)、藤原経清を斬った(注:扶桑略記・陸奥話記・今昔物語)。柵の中には美女数十人がおり、皆綾や羅の衣をまとい、金銀翡翠で飾り立てていた。頼義はこれらをことごとく将士に分け与えた(注:陸奥話記)。

まもなく、貞任の伯父為元(ためもと)、弟の家任(いえとう)、宗任らが降伏して出てきて、残党はことごとく平定された。康平六年二月、藤原季俊(ふじわらのすえとし)、物部長頼(もののべのながより)を遣わし、貞任・重任・経清の首を箱に納めて京へ送った(注:扶桑略記・陸奥話記・今昔物語)。朝廷はその功に報い、頼義に正四位下を叙し、伊予守に任じた。義家以下も、それぞれ功に応じて官位を授かった(注:扶桑略記・陸奥話記)。八月、頼義は私費で鎌倉の鶴岡に八幡神宮を創建し、神恩に報いた(注:東鑑治承四年)。

治暦三年(七年)、多くの降伏した俘囚を伴って陸奥から帰京し(注:百錬抄・歴代皇紀)、功のあった者への恩賞を奏請した。朝議はなかなか決まらなかった。翌年、頼義は上疏して次のように述べた。「勲功によって恩賞を賜ることは、我が国でも異国でも古来数多くの先例があります。あるいは奴隷の身から起こって金紫の高位に昇り、あるいは兵卒の列から出て将相の高い地位に至った者もあります。頼義は功臣の末裔として、公に奉仕する忠節を守ってまいりました。かつて奥州では夷賊が蜂起し、郡県を占拠して異民族の地とし、人民を追い立てて蛮族の奴隷のようにしました。数十年の間、六箇郡は国務に従わず、朝廷の威光を忘れたかのようでした。とりわけ近年、その暴虐ぶりは甚だしいものでした。永承六年、朝廷は頼義を陸奥守に任じて征伐を専任させました。天喜元年には鎮守府将軍を兼ねました。頼義は帝の詔を承って、虎狼のごとき蛮俗の地に赴き、甲冑をまとって千里の道を行き、矢石をかいくぐって万死の覚悟で任にあたりました。賊の首魁である安倍貞任と重任、散位藤原経清らは、兵略のかいあってことごとく誅殺されました。ある者は首を京師に伝え、ある者は隴道に晒し首としました。その他の賊、安倍宗任ら五人は自ら降伏いたしました。夷狄の住む地はすでに朝廷の直轄地となり、叛逆の輩は皆天皇の民となりました。この功績により、去る康平六年に伊予守に任じられました。頼義はその年、残党の平定のため奥州に留まりました。去年二月にようやく入京いたしましたので、速やかに伊予国へ赴くべきところですが、戦の間、軍功のあった者が十余人おり、恩賞を求めましたもののいまだ裁可を得ておりません。ご沙汰を待つばかりで、任国に赴くこともままなりません。まして去年九月にようやく任符を賜り、道中に手間取ったのも自然の成り行きでございます。四年の任期のうち、二年を空しく過ごし、かの国の官物も徴収納入することができませんでした。それでいて封家への納官の督促は雲のように押し寄せております。それゆえ私財をもって、しばらくその不足を補ってまいりました。今かの国の役人が申すには、たびたび日照りの被害に見舞われ、稲は実らず、国中に秋の実りなく、民には飢えの色があるとのことです。復興の策を講じ、かつ弁済の努めを果たすためには、重ねて先例を検討する必要があります。ある者は在任年限を数えて考慮され、ある者は国の疲弊の程度によって重任とされております。古今を通じてこのような例は数多くございます。まして希代の大功を成し遂げながら、どうして格別の厚い恩賞がないのでしょうか。昔、班超(はんちょう)は西域を平定して、早々に千戸の侯に封じられました。今、頼義は東夷を征伐したのですから、どうして重任の恩賞を賜らないことがありましょうか。彼は三十年を費やして功を顕したのに対し、こちらは十三年を経て勲功を立てました。遅速の違いこそあれ、すでに優劣は明らかであり、選び取るにあたって、どうして憐れみをかけないことがありましょうか。伏してお願い申し上げますに、天恩をもって征夷の功に応じ、速やかに重任の宣旨を下されますよう。かつ復興の策を講じ、弁済の努めを果たしたく存じます」(注:本朝続文粋による。注:頼義がこのように再任を願い出たことは分かるが、朝廷がどう裁決したかについては、諸書に記載が見当たらない)。

承保二年、剃髪し、まもなく亡くなった(注:水左記による。注:尊卑分脈には永保二年に剃髪し、まもなく亡くなり、享年八十八とある)。世に伊予入道と称された。

頼義は絵を描くことに巧みであった。幼い頃、戯れに中門の廊下の壁に不動明王の像を描いたところ、絵に詳しい客がこれを見て大いに驚き、父頼信に尋ねた。頼信は、「これは我が子が描いたものだ。この子は常々絵を描くのを好んでいるが、私は無益なことだと思っている」と答えた。客は、「これは天賦の才というもので、人が努力して及ぶものではありません。禁じてはなりません」と言った(注:古今著聞集)。頼義は仏教を篤く信仰しており(注:続往生伝)、かつて六条坊門の北に堂を建て、陸奥での戦役で得た敵の首級の残りを埋め、耳納堂と名付けた(注:古事談・東斎随筆・尊卑分脈)。子には義綱(よしつな)、義光(よしみつ)といい(注:尊卑分脈)、義家には別に伝がある(注:源平盛衰記によれば、頼義の末子頼俊(よりとし)は頼義に従って貞任を討ち、勇猛に戦ったが流れ矢に当たって死んだ。頼義は深く悲しんだ。後冷泉帝はこれを聞き、自ら死者の成仏を願う言葉を書いて、その棺に納めさせたという。しかし諸系図によれば、頼俊は頼親の孫であり、頼義から見れば従甥にあたる。ここでは源平盛衰記の説は採らない)。

源義綱

源義綱は、賀茂社で元服したことから賀茂二郎と称された(注:尊卑分脈)。康平年間、父に従って貞任を討ち、その功により左衛門少尉に任じられた(注:百錬抄・扶桑略記・一代要記・陸奥話記)。陸奥・伊勢・甲斐・美濃など諸国の守を歴任した(注:尊卑分脈)。寛治七年、平師妙(たいらのもろたえ)・師季(もろすえ)らが出羽で横暴を働き、国守信明(のぶあき)の館を焼いて財物を略奪した(注:中右記。注:信明の姓は不明)。当時義綱は陸奥守であり、勅命を受けてこれを討伐し平定した(注:中右記・百錬抄)。翌年三月、その首を箱に納めて献上した(注:中右記)。降伏した俘囚を率いて京に至り(注:中右記・百錬抄)、功により従四位上を叙された(注:中右記。注:尊卑分脈には義綱は正五位下で終わったとあるが、おそらく誤りである)。

天仁二年、甥の義忠(よしただ)が何者かに殺された。朝議はこれを義綱の子義明(よしあき)らの仕業と見なし、検非違使源重時(みなもとのしげとき)に義明を討たせた(注:百錬抄・歴代皇記・帝王編年記)。義明は戦死した(注:尊卑分脈)。義綱はこれを無実と思い、逃げて近江の甲賀山に立て籠もった。朝廷は義綱の甥為義(ためよし)に命じてこれを討たせた。義綱は剃髪して降伏を願い出た(注:百錬抄・尊卑分脈)。子の義弘(よしひろ)、義俊(よしとし)、義仲(よしなか)、義範(よしのり)は皆自殺した(注:尊卑分脈)。為義は義綱を伴って京へ帰り、朝廷は詔してその死罪を減じ、佐渡に流した(注:百錬抄・尊卑分脈)。長承三年、再び咎めを受け、ついに自殺した(注:尊卑分脈)。

源義光

源義光は、新羅明神社で元服したことから新羅三郎と称された(注:尊卑分脈)。また館三郎とも称された(注:十訓抄)。幼い頃から弓馬に優れていた。成人してからは勇猛で知略があった。左兵衛尉となり、京で宿衛の任にあたっていた。兄義家が清原武衡(きよはらのたけひら)を攻めて家衡(いえひら)が不利になったと聞き、援軍として赴きたいと奏請したが許されず、そのまま官を辞して陸奥へ赴いた(注:尊卑分脈・古今著聞集)。義家は大いに喜び、感涙して、「今日お前に会えたのは、亡き父上が再びこの世に現れたかのようだ。力を合わせて賊を討てば、必ず打ち破れるだろう」と言った。

賊は義家に従って金沢柵を包囲していた。武衡は義光に降伏を願い出たが、義家は聞き入れなかった。武衡は重ねて、「あなたが柵の中まで来てくだされば、すぐに降伏いたします」と願った。義光はこれを義家に告げ、柵に入って降伏を受け入れようとしたが、義家は固くこれを止めた(注:奥州後三年軍記)。そこで従者藤原季方(ふじわらのすえかた)を遣わした。武衡は兵を厳重に構えて待ち受けたが、季方はほとんど恐れる様子を見せなかった。武衡が黄金で買収しようとしたが、季方は受け取らず、「この城はいずれ陥落する。それらの物は皆いずれ我らの手中に入るものだ」と言って、剣を手にして立ち去った(注:十訓抄・奥州後三年軍記)。

城が陥落するに及び、義光は武衡をかばい、その助命を願い出たが、義家は聞き入れなかった。まもなく義家に従って京へ帰った(注:奥州後三年軍記)。刑部丞に任じられ、常陸介、甲斐守を歴任し、従五位上を叙され、刑部少輔に至った。大治二年に亡くなった(注:尊卑分脈。注:印本の尊卑分脈には大治六年に亡くなり、享年七十三とある)。

義光は若い頃から音律を好み、その奥義を極めた。かつて豊原時元(とよはらのときもと)に笙を学んだ。時元が亡くなった時、その子時秋(ときあき)はまだ幼く、秘曲を伝授されていなかったため、義光に大食調入調を授けていた。義光が陸奥へ赴く際、時秋は近江の鏡駅まで追いかけてきて、同行を願い出た。義光は何度も思いとどまらせようとしたが、聞き入れなかった。足柄山まで来たところで、義光は馬を止めてこう語った。「私はお前の志に深く感じ入っている。しかしこの山には関所があり、無断で通ることは固く禁じられている。私はすでに死を覚悟しており、必ず関を斬り破って通るつもりだ。お前がそれに巻き込まれて死んでも何の益もない。早く帰るがよい」。時秋はなおも従うことを願ってやまなかったが、義光はその心中を察し、馬を下りて二枚の楯を敷いて共に座った。そして矢筒の中から時元より伝授された大食入調の譜を取り出して見せた。また笙を持っているかと尋ねると、時秋は懐から笙を取り出した。義光は「お前が私に従ってきたのは、思うにこのためであろう。私はこれから戦に赴くが、生きて帰れるかどうかはわからない。お前には官職の務めがある。帰って己の芸を全うするがよい」と言い、秘曲をことごとく伝授し、それぞれ別れて去った(注:古今著聞集)。

義光はかつて藤原顕季(ふじわらのあきすえ)と荘園を争ったことがあった。顕季は自分が正しいと思い、必ず勝てると考えていた。ところが訴訟は長らく決着せず、顕季はこれを不審に思った。白河法皇は顕季に、「荘園の訴訟が長く決まらないのを恨みに思っているか」と尋ねた。顕季はそこで義光の理不尽な言い分の様子を詳しく述べた。法皇は、「お前はあれに荘園を譲ってやるがよい」と言った。顕季は黙って答えなかった。法皇は静かにこう諭した。「お前の領地には余裕があり、一つの荘園を得ても失っても、お前にとっては大した違いはない。義光は領地が多くなく、わずかにその地を頼みとしているのだから、彼が失うものは実に大きい。ならばお前が譲ってやるべきだ。それに義光は荒々しく猛々しい武人である。万一お前に対して恨みを晴らそうとすれば、災いは計り知れない。訴訟の是非については朕もよく承知している。しかしあえて裁決を下さないのは、お前を大事に思うからだ」。顕季は感激して涙を流し、立ち上がって礼を述べ、退出して義光を招き、争っていた荘園を与えた。義光は大いに喜び、名簿を書いて渡した。その後、顕季は外出するたびに、必ず甲冑を着けた兵士数人が付き従って警護するようになった。顕季がそのわけを尋ねると、「刑部殿(義光)の家来です」と答えた。顕季はこれによってますます帝の恩を感じ入ったという(注:十訓抄・古事談)。当時の朝政は姑息で、武人が勢力を振るうことが、おおよそこのようであった。

子の義業(よしなり)は刑部太郎と称し、左衛門尉、検非違使となった。その曾孫佐竹秀義(さたけのひでよし)には別に伝がある。義清(よしきよ)は刑部三郎と称した。その孫武田信義(たけだのぶよし)、安田義定(やすだよしさだ)、曾孫小笠原長清(おがさわらながきよ)には別に伝がある。盛義(もりよし)は刑部四郎と称し、左兵衛尉となった。その子平賀義信(ひらがよしのぶ)には別に伝がある。親義(ちかよし)は岡田冠者と称した。祐義(すけよし)は刑部六郎と称した(注:義業以下は尊卑分脈による)。

源義家

源義家は、伊予守頼義の長男である。幼名は源太といった。かつて頼義が八幡神から剣を賜る夢を見て、目覚めてこれを不思議に思った。ほどなくその妻が身ごもり、義家が生まれた。七歳の時、石清水宮で元服したことから八幡太郎と号した(注:尊卑分脈・閨中抄。注:幼名源太は平治物語による。注:陸奥話記・十訓抄はいずれも、鳥海の戦いで義家の騎射が神業のようであったため、賊が「八幡太郎」と呼んだとする。ただし頼義の三人の子はそれぞれ神社で元服し、皆その社名を称号としたので、ここではその説は採らない)。

義家は人となり勇猛で決断力に富み、騎射に最も優れていた(注:尊卑分脈・陸奥話記)。永承年間、頼義に従って陸奥で安倍貞任を攻め、鳥海柵で戦い(注:陸奥話記・扶桑略記)、貞任に大敗を喫した。義家の馬が矢に当たると、藤原則明が賊の馬を奪って与えた。義家は奮戦して矢を連射し、向かうところ敵をなぎ倒した。賊はその勇猛さに感嘆し、神のようだと言った(注:陸奥話記・今昔物語)。康平五年、衣川関を攻めて大いにこれを破り、貞任は誅殺された(注:陸奥話記・扶桑略記。注:古今著聞集には、衣川の戦いで貞任が敗走した際、義家が追いついて矢をつがえて射ようとし、大声で和歌の上句を「衣の館は(古呂毛乃多氐波)、滅びにけり(保古呂毘珥計利)」と詠んだところ、貞任は馬を止めて振り返り、下句を「年を經し(斗志遠倍志)、絲の亂れの(以斗能美駄禮能)、苦しさに(玖流志佐珥)」と続けて詠んだので、義家は矢を収めて引き返したとある。ただしこの話は他に見当たらず、和歌を詠む者たちの間で好事家が作った話ではないかと思われる。ここでは採らない)。

東国での戦は総じて十余年に及び、陸奥が平定されたのは義家の功績によるところが大きかった(注:陸奥話記・扶桑略記・今昔物語)。康平六年、その功により従五位下を叙され、出羽守となった(注:陸奥話記・一代要記・扶桑略記・今昔物語)。ほどなく京へ帰り、関白藤原頼通(ふじわらのよりみち)の邸を訪れて陸奥での戦の話をした。大江匡房(おおえのまさふさ)は離れた席でこれを聞き、「彼には将才があるが、惜しいことに兵法を知らない」と言った。従者がこれを義家に告げると、義家は「そうかもしれない」と思った。匡房が退出するのを見て、その牛車のところへ行って拝礼した。礼儀は非常に丁重で、ついに匡房を師として兵書を学んだ(注:奥州後三年軍記・古今著聞集)。

承暦三年、右兵衛尉源重宗(みなもとのしげむね)が、散位源国房(みなもとのくにふさ)と美濃で兵を構えて争った(注:水左記・扶桑略記)。朝廷は義家に討伐を命じた。国房は義家の従祖父頼光(よりみつ)の孫であり、父頼国(よりくに)が美濃守であったことから美濃七郎と称された。重宗は頼光の叔父満政(みつまさ)の曾孫である(注:尊卑分脈)。

以前、義家の従者がかつて国房に辱められたことがあったが、義家はそれを知らなかった。ある時頼義がちょうど仏事を営んでおり、義家もその席にいたが、ある人が義家に耳打ちしてその事を告げた。義家は勢いよく立ち上がって館へ引き返した。頼義が人をやって様子を見させると、「ちょうど戦装束をまとい馬に鞍を置いているところです」との報告があった。頼義は「先ほど見た時、彼の毛髪が逆立っていたのは、きっとわけがあったのだ」と言い、人をやって止めさせようとし、「お前に憤ることがあるなら、仏事が終わるのを待ってから出発するがよい。一両日延ばすだけのことだ」と伝えて門を閉ざした。義家は錠を破って出て行き、従う騎馬はわずか三人であった。関山に馳せ着く頃には従う者が十五騎になっていた。翌日、美濃に着くと二十五騎の兵を見つけ、国房の家を焼いた。国房は逃げた。従騎は義家に、「あの者の足取りをつかんで、殺してしまいましょう」と言ったが、義家は「私の恨みはすでに晴らした。もうそれでよい」と言って引き返した(注:古事談)。

この一件があって、義家は詔を奉じて重宗らを討ったが、重宗はこれを聞いて逃げ隠れた(注:水左記)。やがて重宗は国房と兵を合わせて義家に抵抗したが、義家はついに重宗を誅殺した(注:尊卑分脈。注:国房の事については諸書ともその顛末を詳らかにしないが、尊卑分脈によれば国房は伊豆・陸奥などの守や諸官を歴任し、正四位下に至ったとある。とすれば当時戦で死ななかったことは明らかであるが、これ以上のことは分からない)。

永保元年、園城寺の僧徒が延暦寺を攻めたため、義家は再び詔を奉じてこれを逮捕した(注:扶桑略記)。ほどなく帝が石清水へ行幸された際、僧徒がまだ平定されていなかったため、特に義家と弟義綱に勅命を下して行幸に従わせ、彼らは本来警護の職ではなかったため、関白師実(もろざね)の前駆をつとめた。夜になると、義家は装束を改め、弓矢を執って御輿の傍らに立った(注:水左記・続古事談)。春日への行幸でも、義家はまた家来の兵を率いて朱雀門を守衛した。特に詔があって甲冑を着け弓矢を執った(注:水左記)。帝は皇太子のことで輔仁親王(すけひとしんのう)と不仲であったため、行幸のたびに義家、義綱を従えさせた(注:愚管抄)。

永保三年、義家は陸奥守となり、鎮守府将軍を兼ねた。当時藤原清衡(ふじわらのきよひら)、清原家衡は、清原真衡(きよはらのさねひら)と兵を構えて争っていた。義家は急いで陸奥へ赴き、真衡を助けて出羽の家衡を攻めたが、うまくいかず引き返した。家衡の叔父武衡は義家が敗れたと聞いて兵を挙げ家衡に呼応し、共謀して金沢柵に立て籠もった(注:奥州後三年軍記)。

寛治元年九月、義家は再び自ら数万騎を率いて金沢柵を攻めた。敵は伏兵を仕掛けて待ち構えていた。義家は遠くに雁の列が乱れるのを見て、伏兵があることを察し、兵士に偵察させた。果たして伏兵を発見し、これを撃ち滅ぼした。そして部下たちに、「兵書にはこうある。『伏兵が野にあれば、飛ぶ雁の列が乱れる』と。私がもし学んでいなければ、今月まさに賊の計略にはまるところであった」と語った(注:奥州後三年軍記・古今著聞集)。

そのまま進んで柵を包囲した。折しも弟義光が京から来たので、義家は大いに喜び、兵を分けて義光に授け、力を合わせて攻めた。柵の中は固く守り、矢や石が両側から降り注いで死傷者が甚だ多く、長らく陥落しなかった。義家は毎日兵士の勇怯を評定し、それぞれ座を分けて座らせた。戦いが終わるとその座次を改めて定め、これによって激励した。義光の従者藤原季方は、戦うたびに必ず勇敢で(注:季方の姓は尊卑分脈による)、一度も臆病者の座に着いたことがなく、軍中でこれを名誉としていた。季割惟弘(すえわりのこれひろ)という者がいて、戦に臨むといつも臆病であったが、ある日自ら奮い立って、「私が勇敢か臆病か、今日決めてやる」と言い、真っ先に進んだが、矢が首に当たって死んだ。食べた物が傷口から出て、皆はこれを笑った。義家はこれを聞いて、「生来臆病な者が奮い立って戦うと、死に方は必ずこのようになる。哀れなことだ」と言った。

吉彦秀武は義家に、「柵の守りは固く、我が軍は疲れています。攻めても益はありません。時をかけて持久すれば、敵は糧が尽きて手立てを失い、戦わずして自滅するでしょう」と説いた。義家はこれに従った(注:本書によれば秀武は初め真衡に仕えていたが、恨みがあって兵を挙げ、清衡・家衡に真衡を襲うよう説いた。義家は国司として真衡を助け、清衡・家衡を討った。その戦の発端をたどると、実は秀武によるものであり、真衡の仇である秀武に対して清衡・家衡はその一味ということになる。ここで秀武がこの計略を義家に説き、ついに武衡・家衡を打ち破ることができた。事の筋道が食い違い、主客が入り乱れているが、思うに頼義が貞任を討った日、秀武は一隊の将であったため、この縁で義家に帰服してこの行動に出たのであろう。しかし本書には脱落が多く、詳細を知ることができず、他に参照できる書もないので、今はひとまず元の記述に従う)。

やがて柵の中は食糧が乏しくなり、武衡は義光に降伏を願い出たが、義家は聞き入れず、柵の中はますます窮迫した。そこで衰弱した者を逃がすようにしむけた。秀武(本書では季武とあるが、ここで訂正する)は、「これを斬って逃げ道を絶つべきです。そうすれば柵の中の人数が多いほど、糧の尽きるのがますます早まります」と言った。義家はこれに従った。それ以来、もう逃げる者はいなくなった。柵の中の糧は果たして尽きた。そのころすでに冬になっており、奥地の寒さは厳しかった。義家の将士は皆これに苦しみ、「まもなく大雪が降れば、必ず凍死してしまうだろう」と語り合った。皆妻子のことを気にかけ、こっそり鎧を脱ぎ、馬を国府へ送り返し、妻子にそれを売らせて帰京の費用にしようとする者までいた。

ある夜、義家は側近の藤原資通(ふじわらのすけみち)に命じて、「今夜柵は必ず陥落するだろう。軍営に火を放って、士卒に暖を取らせよ」と令を下させた。軍中はこれを不思議に思った。夜が明けると、果たして武衡・家衡は柵を焼いて自ら逃げ出した。義家はこれを追撃し、武衡・家衡を捕らえて斬り、その一味四十八人の首を晒した。陸奥・出羽はことごとく平定された。義家は国解を上奏して、「武衡・家衡の謀反は、貞任・宗任よりも罪が重いものでした。今回は特に大がかりな徴発をせずとも、幸いにも討ち平らげることができました。速やかに追討の官符を下され、その首を宮門に献上させてください」と述べた。しかし朝議はこれを私闘とみなし、官符を下さず、その功に恩賞を与えなかった。そのため首は道端に捨てて京へ帰った(注:奥州後三年軍記。注:中右記・百錬抄はいずれもこれを寛治元年の出来事とするが、本書は寛治五年としており、誤りである)。

寛治五年、藤原実清(ふじわらのさねきよ)と清原則清(のりきよ)が河内の田園を争い、義家と義綱がそれぞれの側についたため、互いに譲らなかった。これによって双方が憤り争い、今にも互いに攻め合いそうになった。朝議は「天下の変事が起こることを恐れる」として、五畿七道に詔を下し、義家の兵士が京へ入ることを禁じ、また諸国の百姓が田園の証文を義家に寄進することを禁じたので、事は収まった(注:百錬抄)。

義家は左近衛将監、検非違使、左衛門尉、左馬権頭、河内・相模・武蔵・信濃・下野・伊予などの守を歴任し、正四位下を叙された。嘉承元年、病により剃髪した。天仁元年に亡くなった。享年六十八(注:尊卑分脈。天仁元年は閨中抄による)。

義家は英略が世に抜きん出て、機知は神のようであり、身のこなしは俊敏で並ぶ者がなかった(注:扶桑略記・十訓抄・古事談・古今著聞集を参照)。また和歌にも優れており(注:閨中抄)、陸奥へ赴く途中、勿来関(なこそのせき)を過ぎた時に山桜の落花を詠んだ歌があり、後世の人々に語り伝えられている(注:千載和歌集)。陸奥での戦で、義家が射れば必ず敵の甲を貫き、弦音とともに倒れない者はなかった。清原武則はその射力を試そうとし、堅い甲三領を重ね、桂の木の枝に掛けて義家に射させた。義家は一発でこれを貫き通した。武則は大いに驚いて、「神業だ、人間の及ぶところではない」と言った(注:陸奥話記・扶桑略記・保元物語)。

白河法皇はかつて悪夢にうなされ、義家に武器を献上させてこれを祓おうとした。義家は黒漆塗りの弓一張を献上した。法皇はこれを枕元に置いたところ、悪夢はやんだ。そこで「お前が献上した弓は、陸奥の戦場で使ったものではないか」と尋ねると、義家は「もう覚えておりません」と答えた。法皇はこれに感嘆した(注:古事談。注:源平盛衰記によれば、寛治年間、堀河帝が悪夢にうなされた際、義家に甲冑姿で宮中に控えるよう詔があり、義家が御殿の上を睨みつけて弓を三度鳴らし弦を弾くと、帝の病はたちまち癒えたとある。これは古事談の記す話と同一の出来事と思われるが、記録者によって異同があるのだろう)。

かつて貞任が敗れた時、弟の宗任は頼義のもとに詣でて降伏し、頼義はこれを厚遇した。宗任は日々義家に仕え、朝夕怠りなかった。義家もまた誠意をもって彼に接し、少しも疑い嫌うことがなかった。ある日、狩りの野で、ただ宗任だけを従えていた。一匹の狐を見つけて追いながら、「私はこれを殺すには忍びない」と言い、言い終わるとともに矢を放ち、矢は耳をかすめて地に落ち、狐は倒れた。宗任がそれを拾い上げて見せると、義家は「恐ろしさに気を失って倒れただけだ。今にも生き返るだろう。生き返ったら放してやれ」と言った。宗任がその矢を拾って差し出すと、義家は背を向けてそれを矢筒に差させた。見ていた者たちはこれを立派だと思った。しかし宗任はついに害意を抱くことはなかった。

かつて義家がお忍びで人の家を訪れた時、宗任だけが従い、中門で控えていた。時は雨の夜で暗く、たまたま盗賊数十人が松明を持って様子をうかがいに来た。宗任はこれに気づき、ちょうど犬が吠えるのを聞いて、蟇目の鏑矢を放った。続けて二矢放つと、犬は吠えながら走り去った。義家が中から「誰か」と問うと、「宗任です」と答えた。義家が「なぜそんなに急いで矢を射るのか」と言うと、盗賊たちはこれを聞いて「八幡殿がいらっしゃる」と言って皆逃げ去った(注:古今著聞集)。

義家は外出する時は必ず家来の兵を随行させて備えとしたが、人に見せることはなかった。ある日、右大臣藤原頼宗(ふじわらのよりむね)の邸で碁を打っていた時、供の小者一人だけを連れていた。たまたま刀を抜いて突入してきた者がいたが、義家がそこにいると聞くと刀を投げ出して縛につかせるがままになった。すると兵士数十人が脇の建物から現れて、その者を取り押さえて連れ出した。その備えの周到さはこのようであった(注:十訓抄・古事談)。

義家は父祖の事業を受け継ぎ、威名を大いに高めた。坂東の武士は皆心から彼に服従しない者はなかった(注:保元物語)。その子孫の代に至って、天下の兵馬の権を専らにするに至ったのは、実にここに基づくものである。義家の子は義宗(よしむね)、義親(よしちか)、義国(よしくに)、義忠、義時(よしとき)、義隆(よしたか)である(注:高階系図は高階惟頼を義家の第四子とするが、その根拠は不明であり、ここでは採らない)。

義宗は兵庫允となり、若くして亡くなった。義親については叛臣伝にある。義忠は帯刀長、検非違使を歴任し、河内守に任じられた。かつて叔父義光と不仲であった。天仁二年、義光は義忠の家来鹿島三郎(かしまさぶろう)に命じて義忠を殺させた。義時は陸奥五郎と称し、左兵衛尉となった。義隆は陸奥六郎と称した(注:尊卑分脈)。平治の乱で、源義朝(みなもとのよしとも)に従って龍華越(りゅうげごえ)で戦死した(注:平治物語・東鑑治承四年)。子の頼隆(よりたか)は毛利冠者と称した。生まれてわずか月余りで、父の一件のために下総に流された。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵すると、千葉常胤(ちばのつねたね)とともに頼朝に謁見した。頼朝はその風采を見て喜び、「まことに源氏の血筋である」と言い、常胤の上座に座らせた(注:東鑑)。

源義國

源義国は三郎と称した。上野新田郡に住み、帯刀長となり、従五位下を叙され、加賀介となり、式部丞に遷り、検非違使に任じられた。康和年間、兵を率いて常陸の佐竹昌義(さたけまさよし)を討った。久安の末、義国は衛士として禁裏に入る際、途中で右大臣藤原実能(ふじわらのさねよし)に出会い、その従者に叱られ鞭打たれて、義国は馬から落ちた。従者たちは憤慨し、まっすぐ馳せて実能の邸を焼き、その恨みを晴らした。朝廷は義国を追放し、下野の足利に蟄居させた(注:尊卑分脈の写本・印本、および常陸正宗寺の古記を参照。注:東鑑養和元年の記事によれば、当時足利を領していたのは藤原俊綱(としつな)である。尊卑分脈によれば義国の母は足利有綱(ありつな)の娘であるが、印本の一説には、義国はかつて関東の賊を討ち、有綱の子基綱(もとつな)の家に身を寄せ、ついに基綱の娘を妻にしたとある。おそらく義国は罪を得て新田に住めなくなり、足利氏と姻戚関係にあったためそこに身を寄せたのであろう。しかし他に確かめる術がない。有綱の兄俊綱は養和元年に死んだとされるが、そうすると基綱の娘を娶ったという話は疑わしくなる。俊綱は義重(よししげ)と同時代の人物であり、もし俊綱を有綱の兄とすれば、義重とその祖母の伯父とが年齢が近くなってしまい、道理に合わない。また尊卑分脈には、有綱の従祖父師種(もろたね)が平維茂(たいらのこれもち)と戦ったとある。維茂は藤原実方(さねかた)と同時代の人物で、実方は長徳四年に亡くなっている。養和元年まで百余年あるので、その世代関係にはおそらく欠落があり、基綱の娘を娶ったという話もまた信じてよいのかもしれない。ひとまず付記して参考に備える)。

久寿元年、剃髪し、世に荒加賀入道と称された。翌年、亡くなった。子は義重、義康(よしやす)、季邦(すえくに)。義重および義康の子義兼(よしかね)には別に伝がある。義康については義兼の伝を見よ。季邦は八条院蔵人判官代となった(注:尊卑分脈)。義親の子は為義である。

源為義

源為義は陸奥四郎と称した(注:保元物語)。康和四年、父義親は隠岐に流され(注:百錬抄)、義家は為義に叔父義忠の跡を継がせようと考えた(注:尊卑分脈・岡崎本保元物語)。天仁二年、義忠が従者に殺され、その事件は従叔父義綱に関わりがあるとされた。義綱は近江の甲賀山へ逃げた。為義はこの時十四歳であったが、勅命を受けてこれを討った。義綱は剃髪して降伏し、為義は義綱を伴って京へ帰った(注:百錬抄・尊卑分脈)。為義は左兵衛尉に抜擢され、ついに祖父義家の跡を継ぐことができた(注:岡崎本保元物語)。ほどなく左衛門大尉となった(注:諸本の保元物語・剣巻・尊卑分脈では、左衛門尉への任官を天仁二年とするものや、永久元年、保安四年とするものがある。中右記・長秋記・百錬抄はいずれも天永・保安の間に左衛門尉としているので、おそらく天仁と天永の間のことであろう。よってここに記す。大尉については玉海の建久二年の記事による)。

永久元年、興福寺の僧徒が延暦寺を攻めようとした際、為義は詔を奉じてこれを防いだ。従う者はわずか十七騎で、栗山で戦ってこれを敗走させた(注:保元物語。注:栗山は諸書では栗栖、栗前などとも書かれるが、ここでは異本の保元物語に従う)。保安四年、検非違使に任じられ、従五位下を叙された(注:検非違使への任官については、諸本の保元物語、剣巻、尊卑分脈など記述が一致しない。現行本の保元物語には二十八歳で検非違使となり五位を叙されたとあり、天仁二年に十四歳であったことから逆算すると保安四年でちょうど二十八歳になるので、これに従う。従五位下は尊卑分脈による。注:尊卑分脈によれば、為義は治部丞、中宮少進、左馬允、兵庫助、尾張介、伊予・相模・河内などの守を歴任したとあるが、諸本の保元物語、平家物語、剣巻はいずれも、為義は陸奥・伊予の守を望んだが許されず、ついに国守にはならなかったとしている。その他の歴任についても確かな根拠がないため、ここでは採らない)。

久寿元年、子の為朝(ためとも)が豊後で乱暴を働き鎮西を騒がせたため、為義は連座して官を解かれた(注:台記・尊卑分脈。注:保元物語では久寿二年のこととする)。

保元元年七月、鳥羽法皇が崩御した。崇徳上皇は左大臣藤原頼長(ふじわらのよりなが)と謀り、再び即位しようとした。しばしば為義を召したが、為義はためらって参上しなかった。上皇は参議藤原教長(のりなが)を為義の邸に遣わして意向を伝えさせた。為義は辞退して、「私はかつて勅命を奉じて義綱を甲賀山に降し、僧徒を栗子山で防ぎました。それ以来事があれば子らに命じるだけで、自ら戦に臨むことはありませんでした。それゆえいくらか軍事に疎くなっております。まして今は老いが迫っており、どうして事を成し遂げられましょうか。長男義朝は坂東で育ち、兵事に通じ、麾下にも精鋭が多くおりますが、すでに高松殿に参上しております。他の子らはその器量に及びません。八郎為朝は鎮西で育ち、武勇に優れ、弓も戦も得意で、今ちょうど京におります。どうか彼のことをお聞き及びください。私には名だたる甲がございます。薄金、膝丸、楯無、慈姑、八龍、月数、日数と申します。源太産衣という鎧が、夢の中で疾風に吹き飛ばされましたので、私は心中これを不吉に思い、あえて辞退する次第です」と述べた。教長は、「あなたは代々の武門の家柄であるから、速やかに朝廷にお仕えすべきである。夢見の忌みなど気にするに及ばない」と言った。為義はやむを得ず、子の頼賢(よりかた)、頼仲(よりなか)、為宗(ためむね)、為成(ためなり)、為朝、為仲(ためなか)とともに白河殿へ参上した(注:京師本・杉原本・鎌倉本の保元物語には義憲を為義の子として載せ、愚管抄には頼賢、為朝の二子としており、どちらが正しいか分からない)。

上皇は大いに喜び、為義を判官代に任じ、荘園と名剣鵜丸を賜った(注:保元物語)。頼賢は蔵人となった(注:宇井本保元物語)。そして子らを率いて西門を守らせ、兵は百騎ほどであった。為朝だけは二十八騎を率いて西河原門を守った(注:諸本の保元物語はいずれも、為朝が西門を、為義が西河原門を守ったとし、兵数も異なっているが、ここでは現行本に従う)。

頼長は為朝を召して軍議を諮った。為朝が策を進言したが聞き入れられず、また為義とも議論した。為義は、「聞くところによれば、甲兵の多くは高松殿に集まっているとのことです。我が軍は少ないとはいえ、防ぎきれないことはありません。皇輿(天皇の乗り物)をひとまず宮を出させ、南都に行幸させ、宇治橋を断ち切って、機を見て動くのがよろしいでしょう。もし形勢が振るわなければ、皇輿を奉じて関東へ至り、足柄・箱根の険阻に拠り、八州の兵を集めて、皇輿を再び京へお戻しすればよいのです。そうすれば我らの思いのままです」と言った。頼長は、「その通りだが、我が君(崇徳上皇)は太上法皇の正嫡であり、一の宮もまた我が君の正嫡であるのに、四の宮を即位させたことは、人も神も共に憤るところである。今こそ機に乗じて策を決すべきであり、いつまた期すというのか。皇輿は宮を出すべきではない。お前は志を励まし功を立てて、後日の栄達を図るべきである」と言った。為義は、「私はすでに死を覚悟しました。それでは出陣いたします」と言った(注:諸本の保元物語による。注:愚管抄には次のようにある。為義が白河殿に参上して、「麾下の兵は皆義朝に属しており、こちらに来る者は甚だ少のうございます。二人の子だけでこの宮を守っていても、どうして事を成し遂げられましょうか。座して敵の来るのを待つのは得策ではありません。どうか速やかに宇治へ行幸され、橋を断ってこれを防ぐようお願いいたします。さもなければ直ちに近江へ行幸され、甲賀山に拠れば、東国の兵が集まってまいりましょう。もし兵がまだ集まらなければ、関東へ行幸され、足柄の険に拠って東国の兵を招き集めれば、志を遂げることができましょう。それも叶わなければ、私めが高松殿を襲い、一戦して決着をつけましょう」と言った。頼長は、「事を急ぐ必要はない。我が兵はもとより少ないが、大和の檜垣冠者に吉野の兵を率いて来させており、まもなく到着するはずだ。しばらく待つがよい」と言った。為義は落胆して退いた)。

やがて帝は源義朝、平清盛(たいらのきよもり)、源頼政(みなもとのよりまさ)らを遣わして夜襲をかけさせ、為義らは奮戦してこれを防いだ。義朝は風上から火を放ち、宮中は混乱した。上皇は馬に乗って宮を脱出し、為義らは徒歩で従った。如意山に至った時、上皇は諸将に、「お前たちは早く立ち去るがよい。朕はここで降伏する」と言った。為義らは、「私どもは死をもってお仕えする覚悟です。乗輿を置いてどこへ参りましょうか」と答えた。上皇は、「お前たちが立ち去らなければ、かえって朕の累(わずらい)となる」と言った。諸将は涙を流して去り、為義は木工神主の家に身を隠した。清盛は勅命を受けて兵三百を率い、東坂下の大津まで来て、厳しく捜索した(注:保元物語)。

為義はこれを聞き、三河尻五郎大夫景俊(かげとし)(注:現行本には三河三郎大夫近末とあるが、ここでは諸本の保元物語に従う)の家に逃げ隠れ、東国へ逃れようとした。しかし病のため歩くことができず、ようやく蓑浦まで着いたところで、追手が迫ってきた。子らは力戦してこれを防いだが、従う兵はほぼ死に絶えた。再び景俊の家に入り、ついに黒谷の仏寺まで逃れ、剃髪して名を義法と改めた。為義は子らに、「私は今すでに老い衰え、もはや力尽きた。義朝を頼って降伏を乞おうと思う。義朝もよもやその恩賞に目がくらんで私の余命まで奪うことはあるまい」と言った。為朝はそれは不可であるとし、関東へ赴いて後の再挙を図るよう勧めたが、為義は聞き入れず、家来に旨を伝えさせて義朝のもとへ向かわせ、西坂をひそかに通って行き、子らには散り散りに逃げるよう命じ、「一か所に集まってはならない。まとめて討ち取られてはならぬ」と戒めた。互いにすすり泣いて別れた。

義朝は父を迎えて自分の家に住まわせ、たびたび死罪を減じるよう奏請したが、許されなかった。義朝はやむを得ず、ついに父を殺した。時に為義は六十一歳であった(注:現行本・半井本の保元物語はいずれも六十三歳とする。諸本には天仁二年に十四歳、永久元年に十八歳とあるので、これから逆算した数字である)。義朝はその首を朝廷に献上し、朝廷はまた義朝にこれを下賜し、北白河の円覚寺に葬らせた。為義は六条堀河に邸を構えたことから、世に六条判官と称された(注:保元物語、諸異本を参照)。

子は義朝、義賢(よしかた)、義広(よしひろ)、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、行家(ゆきいえ)、為家(ためいえ)、頼定(よりさだ)、正親(まさちか)、為義、義俊、経家(つねいえ)、義成(よしなり)、僧仙覚(せんがく)、僧頼憲(らいけん)、乙若(おとわか)、亀若(かめわか)、鶴若(つるわか)、天王(てんのう)である。

義朝については叛臣伝にある。行家には別に伝がある。義賢は、近衛帝が東宮であった時、帯刀長として仕えた(注:尊卑分脈。注:本書には藤原忠平流に熊野別当湛快(たんかい)の子湛増(たんぞう)がいて実の名を実原(さねはら)といい、為義の子であったとするが、剣巻では外孫とし、源平盛衰記では従母の夫(おばの婿)としている。ひとまず付記して参考に備える)。仁平の末、上野多胡郡に住んだ(注:源平盛衰記は武蔵とするが誤り)。秩父重隆(ちちぶしげたか)に養子として迎えられた。そのため武蔵比企郡へたびたび行き来し、士卒の多くが彼に帰属した(注:源平盛衰記・長門本平家物語を参照)。甥の義平(よしひら)と不和になり、久寿二年、大蔵館で兵を構えて戦い、敗死した(注:東鑑・源平盛衰記・長門本平家物語・尊卑分脈)。

子は仲家(なかいえ)、義仲(よしなか)。仲家は父の死後、源頼政の養子となり、八条院蔵人となって六条蔵人と称された。治承の乱で、頼政に従い子の仲光(なかみつ)とともに戦死した(注:山槐記・源平盛衰記・平家物語・尊卑分脈を参照)。義仲については叛臣伝にある。

義広は初め名を義範(よしのり)といった(注:玉海永寿二年)。常陸信太に住み、信太三郎先生と称され、人々が次第に彼に従った。治承四年、甥の頼朝が常陸に至って佐竹秀義を攻めた際、義広は弟行家とともに国府へ至り頼朝に謁見した。翌年、鹿島社の戸を略奪し、ついに頼朝を討とうと図った。兵三万を率いて常陸から下野へ進み、人を遣わして足利忠綱(あしかがただつな)を誘った。忠綱はこれに応じた。また小山朝政(おやまともまさ)を誘ったが、朝政は偽って承知したふりをした。義広は大いに喜び、朝政の家に至った。朝政は先に野木宮に陣取ってこれを攻めた。義広は大敗し、士卒は逃げ散った。下河辺行平(しもこうべゆきひら)、政義(まさよし)がこれを古我の高野の津で迎え撃ち、義広はかろうじて信濃へ逃れ、甥の義仲を頼った(注:東鑑)。

寿永二年、義仲に従って京へ入った。義仲は義広を追討使にしようとしたが、朝議は頼朝を憚ってこれを許さなかった。義仲はさらに奏上して、「先に義広を追討使にと願い出ましたが、院宣がまだ下されておりません。義広に備後国を賜り、その国の兵を統率させて平氏を討たせたいと存じます」と言った。法皇は使者を遣わして、「義広はもとより気弱な者で、その任に堪えられないのではと恐れ、それで命を下さなかっただけである。卿がよいと思うなら、それでよい。ただしその任官については、たやすくは許せない」と伝えさせた(注:玉海。注:本書にはまた「美濃守義広」と書かれており、源平盛衰記も同様であるが、これは本文と異なっている。これ以上のことは分からない)。

寿永三年、頼朝は弟の範頼(のりより)、義経(よしつね)を西上させて義仲を討たせた。義仲は義広に三百騎を率いさせ、芋洗でこれを防がせたが、兵は敗れて逃げ散った(注:東鑑、諸本の平家物語。注:玉海は宇治とする)。五月、波多野泰通(はたのやすみち)、大井実春(おおいさねはる)らと伊勢の羽取山で戦い、敗死した(注:東鑑。注:源平盛衰記は六月とする。尊卑分脈には為義の第三子として名を義憲、信太三郎と称するとあり、文治元年に伊豆守に任じられ、後に義経に従って西海へ逃れ、伊賀に隠れ住んだが、頼朝が服部時定(はっとりときさだ)に命じて攻めさせ、義憲は自殺したとある。盛衰記もまた文治元年に信太三郎義憲が伊豆守に任じられたとするが、義経に従ったことは載せていない。ただ異本の平家物語の説が尊卑分脈と同じで、義憲は義範または義教とも書かれる。ここでは百錬抄、東鑑に従う。文治元年、源氏六人が任官し、その中に義範が伊豆守として名がある。尊卑分脈および山名系図を考えるに、当時伊豆守であったのは新田義重の子山名三郎義範であり、信太三郎ではない。おそらく義広が初め義範と名乗っていたことから、尊卑分脈や盛衰記が誤って山名義範を信太義範としてしまったのであろう。そして義経に従ったのは伊豆右衛門尉有綱である。ゆえにまた誤って伊豆守義範を義経に従った者としてしまったのだろう。東鑑を見ると、有綱は後に大和に隠れ住み、平時定がこれを攻め、有綱は自殺した。これは伊豆守仲綱(なかつな)の子で義経の婿にあたる人物である。尊卑分脈、平家物語はいずれもこれを伊賀に隠れたとしており、伝聞の誤りはおおよそこうしたことに起因するのであろう。義広の戦死はすでにこれより前のことであり、義範は頼朝の代を通じて鎌倉で仕え続けており、義経に従う道理がない。盛衰記にはまた、元暦元年六月、中原親能(なかはらちかよし)が為義の末子である前美濃守義広を補したとあるが、これは東鑑に記載される信太三郎のことである。ここに異同を挙げて参考の一助とする)。

頼賢は左衛門尉となった。保元の乱で、父に従って白河殿の西門を守った。義朝らが攻めてきた際、兄弟が先を争った。頼賢はついに進んで戦い、川を隔てて矢を射て二人を射当てた。弟頼仲とともに兵数十を率いて敵陣に突入し力戦した。軍が敗れるに及び、弟頼仲、為宗、為成とともに船岡山で殺された(注:異本保元物語)。子の義房(よしふさ)は八条院蔵人となり、八条太郎と称した。叔父行家の養子となった。頼仲は掃部助、左兵衛尉となった。為宗は丹波に住み、丹波冠者と称した。為成は八幡に住み、八幡七郎と称した。為家は淡路冠者と称した。頼定は加賀冠者と称した。正親は練絹冠者と称した。維義(これよし)は松井冠者と称した(注:尊卑分脈)。

乙若、亀若、鶴若、天王は再び六条堀河に住んでいたが、朝廷は義朝に命じてこれを殺させた。義朝は秦野延景(はたのぶかげ)を遣わして船岡でこれを殺させ、合わせて円覚寺の為義の墓の傍らに埋葬した。従者たちも刑場まで随行し、同じく自殺した(注:保元物語。注:尊卑分脈を参照)。為家、義俊、経家、義成、僧頼憲の五人はいずれも養子である(注:尊卑分脈。注:現行本の保元物語では為義の子は四十二人とし、京師本・杉原本では四十六人とする。そしていずれも、為義がかつて「私は子を六十六人もうけ、それぞれ諸国に一人ずつ住まわせたい」と願っていたと語ったとするが、ここでは採らない)。

源為朝

源為朝は、人となり並外れて大柄で、気性は豪快、腕力は人並み外れていた。身長は七尺ほどあり、左手は右手より四寸長かった。弓を最も得意とし、幼い頃から勇を頼んで人を見下していた。わずか十三歳の時、為義は彼が教え諭せる子ではないと見て、鎮西へ追放した。為朝は豊後に住み、鎮西八郎と称し、自ら九国総追捕使を名乗った。筑紫を平定しようとしたところ、菊池、原田の諸族が兵を集めてこれに抵抗した。為朝は妻の父阿曾三郎平忠国(あそさぶろうたいらのただくに)を道案内として、大小二十余戦を戦い、いくつもの城を陥落させた。十五歳になる頃には九国を掠め取り、多くの不法を働いた。国中が挙げて訴え出たため、朝廷は為義に彼を呼び戻すよう命じたが、応じなかった(注:保元物語)。

久寿元年、為義はこれに連座して官を解かれた(注:台記・尊卑分脈)。久寿二年、朝廷は太宰府に為朝を捕らえさせ、その一味を処罰させた(注:百錬抄)。為朝は父が官を解かれたと聞き、「父上は私のせいで罪を得た。どうしてじっとしていられようか。私は帰って罪を乞おう」と言った。鎮西の兵士の多くが従いたいと願ったが、為朝は「大勢を率いて京へ入るべきではない」と言い、勇猛な者二十八人だけを率いて京へ上った(注:諸本の保元物語はいずれも、永寿元年に為朝を捕らえよとの勅命が下り、翌二年に為義が官を解かれたとし、為朝はこれを聞いて首藤酒郎家季(すどうさかろういえすえ)、悪七別当(あくしちべっとう)らを率いて京へ上ったとするが、ここでは台記、百錬抄に従っており、諸本の記述は誤りである)。

保元の乱で、父に従って白河殿へ参上した。左大臣頼長が意見を求めると、為朝はこう答えた。「私は長く鎮西におり、城を落とし包囲を破ること、幾度も戦陣を経験してまいりました。勝利を得るには、夜襲に勝るものはありません。今夜高松殿を襲い、三方から火を放ち、一方から攻めれば、敵は兵と火に挟まれて必ず支えきれないでしょう。私に敵する者は兄義朝だけですが、私は一矢でこれを倒せます。まして清盛のような弱兵など言うに及びません。主上がもし他所へ移られるなら、私にその供の者を少々射させてください。そうすれば彼らは必ず御輿を捨てて逃げ出すでしょう。私はそこで御輿をこちらへ移し、陛下を再び皇位にお就けすることは、手のひらを返すよりたやすいことです。勝敗を決する機会は、夜が明けるのを待つべきではありません」。頼長は、「為朝は年若く、勇を頼んで血気にはやり、事があまりに軽率だ。お前たちのような軽騎兵の私闘であれば夜討ちも有効だろう。だが今は二人の帝が位を争っている大事であり、どうして軽々しく事を起こせようか。南都の僧兵を召しているので、おそらく明け方には到着するだろう。それを待って、態勢を整えてから戦うべきである」と言った。為朝は退いて人に、「戦の作法は朝廷の礼儀作法とは異なり、もとより武人に任せるべきものだ。公家の徒に、どうして軍事が分かろうか。兄上(義朝)は兵法に通じており、夜に乗じて火攻めにするだろう。誰がそれを防げようか。敗北は目前だというのに、明朝になって兵が集まるのを悠長に待っていられようか」と言った。

やがて義朝、清盛らが夜襲をかけてきたので、為朝は怒って、「私はたびたび申し上げたのに、今まさにその通りになった」と言った(注:保元物語)。上皇は急いで為朝を蔵人に任じ、これを励まそうとした(注:半井本保元物語)。為朝は、「敵兵が迫っている今、対策を講じるべき時です。こんな時に除目(任官の儀式)などしている場合ではありません。官を望む者には与えればよいでしょう。私は特に元のまま鎮西八郎と名乗ります」と言った。

いざ戦おうとした時、兄弟が先陣を争って決まらなかった。為朝は「私はかつて兄たちを見下したことで追放された身だ。今日は父の前で先を争うべきではない」と考え、「兄上たちはどうぞお進みください。もし敵が強くて防げない時は、どうか私にお命じください」と言った。清盛配下の武将伊藤景綱(いとうかげつな)とその子忠清(ただきよ)、忠直(ただなお)が進み出てくると、為朝は「清盛でさえ敵にも足りないのに、まして貴様らごときが。おとなしく退くがよい」と言った。景綱は怒って矢を射た。為朝は、「お前の勇気に免じて、一矢与えよう。受けてみるがよい」と言い、矢を放って忠直の胸を貫き、忠清の鎧の袖にも当てた。全軍震え上がり、あえて進み出る者はいなかった。清盛は兵を引いたが、山田伊行(やまだこれゆき)だけが馬を返して、「八郎殿にお目にかかりたい」と叫んだ。為朝はまたこれを射殺した。

翌朝、義朝は鎌田政家(かまだまさいえ)に百騎を率いて進撃させた。政家が射た矢は為朝の冑に当たった。為朝は大いに怒って、「お前ごときのために矢を一本無駄にすることがあろうか。素手で捕らえてやる」と言い、拳を握って進んだ。首藤家季ら二十八騎がこれに従った。政家は兵を引いて逃げた。義朝は自ら二百余騎を率いて進み、「私は源義朝である。今宣旨を受けて官軍を指揮している。お前たちは私の家来ではなかったか。速やかに武器を捨てて去るがよい」と大声で言った。為朝はこれに応じて、「父上は院宣を奉じて全軍を統率しておられます。為朝はその一隊の兵をここに率いております」と言った。義朝はまた、「私は宣旨の使いであり、しかもお前の兄でもある。私に矢を放てば、天罰を逃れられまい。弓矢を捨てて降伏するがよい」と言った。為朝は、「兄に矢を放つのと、父の命に背いて兵を構えるのと、どちらが天罰重かろうか」と言った。義朝は恥じ入って言葉に詰まった。

やがて両軍が交戦し、為朝の矢は一つも外れず、当たれば必ず倒れた。遠くに義朝の姿を見つけ、矢をつがえて射ようとしたが、父と兄がひそかに勝敗について密約しているかもしれないと考え、思いとどまった。義朝軍が進んで決戦を挑んできたので、為朝は家季に、「敵兵は非常に多い。もし我が軍の矢が尽きて白兵戦になれば、一人で百人に当たるとしても敵しきれないだろう。一矢を放って敵の大将を怯ませたいが、どうだろうか」と言った。家季は、「よいでしょう。ただし誤って殺してしまわないように」と言った。為朝はそこで矢を放ち、鏃は義朝の兜を断ち割り、宝荘厳院の門の柱に突き刺さった。義朝は馬を進めて、「お前は元々弓の名手なのに、なぜ今はそれほどでもないのか」と言った。為朝は、「兄上に遠慮して本気を出しておりません。もしお許しいただけるなら、当たった場所を申し上げます」と言った。矢をつがえて放とうとした時、事態は切迫し、深巣清国(ふかすきよくに)が義朝の馬前に進み出て遮った。為朝はこれを射殺した。

両軍は入り乱れて戦い、互いに勝敗があった。義朝は風に乗じて火を放ち、果たして為朝が予想した通り、軍は敗れた。為義は僧となって降伏しようとしたが、為朝は、「それはなりません。新院(崇徳上皇)は主上の兄君であり、左府(頼長)もまた関白の弟ではありませんか。それでも罪が許されないのに、まして兄上が父上の助命を願ったとして、朝廷がそれを許すでしょうか。それよりも関東へ赴き、三浦、畠山、小山田などの一族を説き、その兵馬を借りて東国を支配下に置くべきです。官軍が討伐に来れば、私が力を尽くして防ぎましょう。それでも支えきれなければ、その時に死んでも遅くはありません」と言った。為義はこれに従わず、ついに義朝に殺された(注:京師本・杉原本・半井本にはいずれも、為朝が為義に関東で兵を集め、子らをそれぞれ東北諸道に配置し、鎌倉に都を建てて百官を設けるよう、平将門のしたことに倣うよう勧めたとあるが、その言はいかにも誇張で作り話めいており、おそらく作者による脚色であろう。ここでは採らない)。

為朝は逃げ落ちて近江の輪田に隠れた(注:源平盛衰記は近江石山寺に隠れたとし、平家物語剣巻は筑紫の田根に至って隠れたとする)。筑紫へ赴いて復讐を図ろうとしたが(注:「復讐を図ろうとした」の三字は諸異本による)、清盛の部将平家貞(たいらのいえさだ)が兵を率いて京へ入ったと聞き、実行できなかった。やがて病にかかり、湯屋を借りて湯浴みをしていた。折しも佐渡兵衛源重貞(みなもとのしげさだ)が勅命を受けて捜索しており、ある者がその容姿を怪しんでこれを告げた。重貞はその入浴の様子を探り、兵三十余(注:諸本の保元物語では三百余とする)を率いて湯屋を包囲した。為朝は裸のまま手木(湯屋の道具)を持って数人を殴り殺したが、ついに捕らえられ、京へ送られた。

帝は北の陣で為朝を御覧になり、朝議は斬罪に処すこととした。しかし為朝が並外れた壮士であることから死罪を一等減じ、腕の筋を断って伊豆大島へ流した。五十日ほど経つと傷は癒え、腕力は多少衰えたものの、矢を射る腕はかえって以前より長けていた。為朝は自ら思うには、「私はもともと清和天皇の血筋であり、八幡太郎(義家)の子孫でもある。先祖の事業を絶やすわけにはいかない。この地は朝廷が私に賜ったものだ」と(注:保元物語)。

そこで自ら大島、三宅島、八丈島、御蔵島、青ヶ島の五島を領有し(注:鎌倉本・半井本の保元物語では、津島、新島、三倉島を加えて八島とするが、ここでは現行本および京師本・杉原本に従う)、その租税を奪った。島の中で自分に従わない者があれば、皆から弓矢を取り上げて焼き捨てた。旧臣たちも次第に集まってきて、勢いは日に日に盛んになった。

十年ほど経ったある時、海上に鷺が飛ぶのを見かけ、その先に島があるだろうと考え、船で一昼夜航海したところ、果たしてある島にたどり着いた。伝えられるところではこれを鬼が島という。為朝はその土地の人々を武力で服従させ、島を葦島と名付け、一人を島に残して大島へ帰った。そして伊豆の人民を脅すため、たびたび国府へ往来させ、横暴の度合いが甚だしくなり、土地の人々はこれに悩まされた。

嘉応二年、伊豆介工藤茂光(くどうしげみつ)は京へ上って事の次第を奏上し、朝廷は茂光に詔して兵五百を率いてこれを討伐させた。戦艦が大島に着くと、為朝は従士に、「私がもし逃げようと思えば、敵が万を数えても、たやすく撃ち破れる。思えば私はかつて筑紫にいて九国に武威を示し、西海の人々はことごとく畏れ服した。保元の乱では、東国の武士たちも直に私の弓の腕前を見たはずだ。流罪の身となったとはいえ、なお島の主となれたのだから、しばらくは快く過ごせた。それでも私が命を惜しんで死なずにいたのは、父の志を継いで、我が事を成し遂げようと思ったからだ。今、たとえ官軍を射退けたとしても、勅命に背いたことに変わりはなく、結局は逃れられまい。多くの人民を殺してみても、何の益があろうか。私の心はすでに決まった。お前たちは皆ここで散り散りになるがよい」と言った。そして弓を執って海辺に出て、大きな矢をつがえ、遠く一艘の船を狙って射ると、矢は船を貫き、船は沈んで乗っていた者は皆水没した。全軍は大いに恐れ、あえて船を進めようとしなかった。為朝は家に帰り、柱にもたれて腹を切って死んだ。享年三十二(注:現行本に保元元年に十八歳とあることから逆算した数字。注:本書には保元元年に十八歳、永万元年に二十九歳、嘉応二年に三十三歳とあり、一書の記述には矛盾があるが、「三」はおそらく「二」の誤りであろう。諸本はいずれも保元元年に十八歳とするが、その死んだ年については記していない。ただし京師本は二十八歳、杉原本は三十八歳とする。尊卑分脈には安元二年に死んだとあり、杉原本の記述と一致する。どちらが正しいか分からないが、ここではひとまず本書に従う)。

加藤景廉(かとうかげかど)が進んでその首を斬り、京へ送って晒し首にした(注:諸本保元物語)。為朝の弓の腕前は並ぶ者がなく、強い弓と長い矢は世に例がなく、後世その鏃を槍として伝えたという。為朝が立ち寄ったとされる諸島には、今も彼を祀る祠が立っているという。

子の義実(よしざね)は上西門院判官代となった。次男実信(さねのぶ)は上西門院蔵人となった(注:義実以下は尊卑分脈による)。次男為頼(ためより)は大島で生まれ、島冠者と称した。為朝は自害する前に、まず彼を刺し殺した。次男為家は大島二郎と称し、五歳の時、母に抱かれて逃れたため難を逃れることができた(注:諸本保元物語。注:尊卑分脈を参照。注:難太平記・足利系図はいずれも、足利義兼が実は為朝の末子であり、義康の養子となったとするが、尊卑分脈には義康の妻藤原氏が義兼を生んだとあるので、この二書の説は疑わしく、ここでは採らない)。

平景政

平景政は、鎮守府将軍平忠通(たいらのただみち)の孫である。父景成(かげしげ)は鎌倉権守と称した。景政は権五郎と称し(注:諸本の平氏系図を参照)、勇武で知られた。わずか十六歳の時、源義家に従って仙北の金沢柵を攻め、真っ先に進んだところ、敵の矢が景政の目に当たった(注:保元物語には鳥海三郎に射られたとあるが、鳥海三郎は安倍頼時の子家任のことであり、貞任が敗死した際に降伏しているので、この時死んでいないことは明らかである。ここでは採らない)。景政は自らその矢を折り、そのまま矢を射て敵を倒したが、冑を脱いで倒れ伏した時も、矢はなお目に刺さったままであった。三浦為継(みうらためつぐ)がこれを抜こうとして、足で景政の顔を踏みつけた。景政は刀を抜いて為継を刺そうとした。為継は驚いてわけを尋ねた。景政は、「戦場で命を落とすのは武士の本望とするところだ。しかし生きたまま顔を踏まれるのは、これ以上の屈辱はない。むしろお前を斬って死のうと思う」と言った。為継はそこで跪いて矢を抜いた。その後の消息は分からない(注:奥州後三年軍記)。

子孫は代々相模に住み、大庭氏、梶原氏の一族は源頼朝に従って功があった(注:平氏系図・源平盛衰記を参照)。相模鎌倉には景政を祀る祠があり、御霊祠という。建久五年、頼朝は八田知家(はったともいえ)を遣わして幣帛を奉じてこれを祭らせた(注:東鑑)。