卷之一百四十二 列傳第六十九

藤原師實、藤原師通、藤原家忠、藤原教長ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次8
  1. 藤原師實
  2. 藤原師通
  3. 藤原家忠
  4. 藤原教長
  5. 藤原賴輔
  6. 源師房
  7. 源俊房
  8. 源師賴

藤原師實

藤原師実(ふじわらのもろざね)は、関白藤原頼通(よりみち)の子である。天喜年間、正五位下に叙せられ、侍従・左近衛権中将となり、従三位に進み、権中納言に任じられ、権大納言に転じた。康平三年、内大臣となった。治暦元年、右大臣に任じられ、従一位に叙せられた。延久の初め、東宮傅を兼ね、まもなく左大臣に転じた(注:公卿補任、尊卑分脈による)。後三条天皇が即位すると、天皇は政治の刷新に強い意欲を示し、旧弊の改革に努めた(注:栄花物語、続古事談による)。これ以前、歴代の天皇の多くは藤原氏を母方に持ち、政治の実権はすべて外戚の家に帰していた。後三条天皇は生まれつき英明であり、しかも三条天皇の外孫であって摂籙(せつろく、摂政・関白)の権威を借りずに済む立場にあったため、東宮であった頃から常に頼通の専横を嫌っていた。頼通もまた自分が天皇に受け入れられないことを悟り、宇治に引きこもった(注:栄花物語による)。頼通は常々師実を戒めて「お前は一日たりとも朝廷への出仕を欠かしてはならない。宮中に何事もなくても伺候せよ」と言っていた。天皇は蔵人に殿上の侍臣を見張らせ、一日に二、三度、「誰それは出仕している、誰それは出仕していない」と報告させたが、師実だけは一日も宿直を欠かすことがなかった。天皇は何か月にもわたってひそかに様子をうかがった末、ある夜急に師実を呼んで内密に語り、「そなたに娘はいるか」と尋ねた。師実は「一人娘がおります」と答えた。天皇は「その娘を東宮に嬪(ひん)として仕えさせよ」と言った。師実は拝謝して退出した。実のところ師実には実の娘はおらず、妻の兄弟の娘である賢子(けんし)を養女にしており、それをもって答えたのであった。師実はこのことを頼通に報告しようと、その夜のうちに身支度を整えて宇治へ赴き、頼通に告げて礼を述べ、「私は常々あなたの慈しみ深い教えを受け、朝廷への出仕を怠りませんでした。今日、果たしてこの栄えある命を賜りましたのは、まことにあなた様のおかげです」と言った。頼通は感激し、喜びの涙を流した。賢子は東宮に入り、たいへんな寵愛を得た。やがて東宮が即位して白河天皇となり、賢子を中宮に立てた(注:愚管抄による)。もともと頼通は関白の地位を弟の教通(のりみち)に譲る際、「のちにこれを我が子に伝えよ」と約束していたが、教通はついにその約束に背いた。頼通は恨みを抱いたまま世を去った。承保二年、教通が病の床に伏し、臨終に際して「子の信長に関白の職を継がせたい」と天皇に奏上して願い出、天皇はこれを許した。師実は落胆した。あるとき天皇がたまたま中宮のもとを訪れると、后(賢子)が髪を梳きながら涙をこぼし、敷物を濡らした。天皇は不審に思い、その理由を問いただした。后は「左大臣(師実)は、陛下が信長を関白になさろうとしていると聞き、憂いと恥ずかしさに耐えられず、山林に身を隠そうとしております。もしそうなれば、私もまた陛下と永遠にお別れすることになりましょう」と答えた。天皇は大いに驚き、ただちに担当の役人を召して、師実を関白に任じることに決めた(注:古事談による)。堀河天皇が譲位を受けて即位すると、関白は摂政に改められた。寛治二年、師実は太政大臣を拝命したが、まもなく辞した。四年、再び関白となり、政務を執ること摂政のごとくであった。嘉保元年、関白を辞したが、これは許され、随身・兵仗は以前のままとされ、輦車(れんしゃ)に乗ったまま宮中に入ることを許された。康和三年、剃髪して法覚(ほうかく)と名を改めた。この年、薨去した。享年六十(注:公卿補任、尊卑分脈による。法覚の名は尊卑分脈による)。世に後宇治入道と称され、また京極関白とも呼ばれた(注:尊卑分脈による)。その日記は京極関白記という(注:後三条天皇即位記が引く京極関白記による)。子に師通(もろみち)、家忠(いえただ)、経実(つねざね)、能実(よしざね)、忠教(ただのり)がいる。経実は正二位大納言で、家は大炊御門(おおいのみかど)と称した(注:尊卑分脈による)。二条天皇が即位すると、外祖父としての恩に報いて、正一位太政大臣を追贈された(注:今鏡による)。能実は正二位大納言で、小野宮と称した。忠教は正一位大納言で、難波と称した(注:尊卑分脈、および公卿補任を参照した)。

藤原師通

藤原師通(もろみち)は、生まれつき度量が広く、学問を好んで倦むことがなく、諸学に広く通じ、篆書・隷書や音楽にも巧みであった。大江匡房(おおえのまさふさ)から経書・史書を学び、また太宰帥源経信(だざいのそちみなもとのつねのぶ)について琵琶を学び、師をしのぐほどの評判があった(注:外記日記による)。延久・承保の間に次々と昇進し、正三位に叙せられた(注:外記日記による)。承暦元年、参議を拝命し、左近衛大将を兼ねた(注:公卿補任、水左記による。職原抄には、参議が近衛大将を兼ねたのは師通が最初であるとあるが、考えるにそれ以前にも巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣(ふゆつぐ)らが参議と大将を兼ねた例があり、著者の親房がたまたま見落としたのではないか)。永保年間、内大臣に至った。嘉保元年、父に代わって関白となり、従一位に叙せられた(注:外記日記、公卿補任、今鏡による)。師通は賢者を好み士人を愛し、学問に秀でた者を登用し、権勢や利益を追う徒輩を退けた。嘉保・永長の間、天下は粛然とした。康和元年、病の床に伏し、上表して辞職を願い出た(注:外記日記による)。まもなく薨去した。享年三十八(注:外記日記、公卿補任による)。世に後二条殿と称された(注:源平盛衰記、尊卑分脈による)。その日記は後二条関白記という(注:後二条関白記による)。匡房はかつて師通を評して、「あなた様の威厳あるお姿を仰ぎ見ると、とても世間並みの人とは思えない。異国の人に見せられないのが残念だ」と称賛した(注:外記日記、今鏡による)。さきに嘉保年間、延暦寺の僧徒が神輿を担いで、御所に押しかけて訴えを起こしたことがあった。師通は中務丞源頼治(なかつかさのじょうみなもとのよりはる)に命じてこれを防がせ、神人(じにん、神輿を担ぐ神社の従者)を射殺させた。僧徒は激怒し、師通を呪った。ちょうどその後師通が薨去したため、世間ではこれを神罰であるとした(注:源平盛衰記、愚管抄による。頼治の名は盛衰記による)。この頃、白河法皇はすでに譲位していたが、なお自ら政務を執っており、諸官庁の者が常にその門前に詰めかけていた。師通は嘆いて、「譲位した上皇のもとに、これほど多くの車馬が門前に立ち並ぶことがあってよいものか」と言った。師通が亡くなってからというもの、法皇はますますはばかるところがなくなり、当時の人々はこれを嘆き惜しんだ(注:今鏡による)。子の忠実(ただざね)については別に伝がある。家政(いえまさ)は正三位参議で、性格が厳しく激しかったため、当時の人々は彼を三条悪宰相と呼んだ。家隆(いえたか)は従四位少納言であった(注:尊卑分脈による)。

藤原家忠

藤原家忠(いえただ)は、家名を花山院(かざんいん)と称した。延久・応徳の間に次々と昇進して権中納言となり、従二位に叙せられた。寛治二年、正二位に進んだ。五年、権大納言に転じた(注:公卿補任、尊卑分脈による)。師通が薨去すると、年齢の序列からすれば家忠が関白となるべきであった。しかし父の師実は孫の忠実(ただざね、師通の子)を自分の子として引き取っており、忠実を摂籙(摂政・関白)の地位につけようという考えを持っていた。天皇はそこで忠実に太政官の政務を執らせることにした。康和五年、右近衛大将の職に欠員が生じ、家忠はこれを望んだ。法皇もまた寵臣の藤原宗通(むねみち)をこれに任じようとしていた。家忠はひそかに忠実と謀り、忠実は「他に策はありません。中宮を頼りに内々の後ろ盾としていただければ、望みがかなうかもしれません」と言った。家忠はその言葉に従い、ひそかに中宮に願い出た。しかし中宮は法皇の意向を覆せないことを知っており、あえて口添えをしなかった。まもなく法皇は右大弁藤原宗忠(むねただ)を遣わして、その意向を天皇に伝えさせた。折しも天皇は便殿で笛を吹いており、宗忠が奏上しても、天皇はわざと聞こえないふりをした。宗忠は隙を見て重ねて奏上したが、天皇は答えず、なおも笛を吹きながらゆっくりと立ち上がって奥に入ってしまった。宗忠は法皇のお咎めを恐れ、早く返答を得たいと願い出た。すると天皇は姿を現し、こう言った。「宗通を大将に任じることは、命じられるままに従おう。しかし朕には迷うところがある。昔このような教えがあった。『政治において最も重んずべきは人事である。上は大臣・大将から下は靫負尉(ゆげいのじょう)に至るまで、人材を巧みに選び、ひとえに世論の帰するところに従うべきである』と。朕はこれを深く心に留めている。今の人事について朕なりに考えるに、権大納言家忠は位も才望も宗通の比ではない。どうしてこの家忠を差し置いて宗通を取ることができようか。もし世に抜きん出た人材があれば、たとえ位が低く官が微であっても、抜擢してよいのだ。しかし宗通の才が人に勝るとは聞いたことがない。そなたはこの旨を法皇に奏上せよ」。宗忠がこの返答を伝えると、法皇は恥じ入って承服し、そこで家忠を大将に任じた(注:今鏡による)。保安元年、関白忠実が事件により法皇の意向に背いた。法皇は怒って内覧の職を停止し、家忠にこれを代えようとして、寵臣の藤原顕隆(あきたか)と相談した。顕隆は「稲荷祭の日、棚閣の上でのことは、いかがなさいますか」と言った。法皇はそこで思いとどまった。これより先、「稲荷祭の日、家忠が姻戚の藤原顕季(あきすえ)らと棚閣の上で酒宴を開き、公卿としての体面をひどく損なった」という噂が流れており、顕隆はこれを引き合いに出して家忠を讒言していたのである(注:愚管抄による)。翌年、家忠は左近衛大将に転じた。天承元年、左大臣を拝命し、従一位に叙せられた。保延二年、牛車に乗ったまま宮中に入ることを許された。この年、薨去した。享年七十五。

子の忠宗(ただむね)は権中納言であった(注:公卿補任、尊卑分脈による)。著書に監要記がある(注:仁和寺書籍目録による)。孫の忠雅(ただまさ)は太政大臣となった。忠親(ただちか)は内大臣で、中山(なかやま)と称した(注:公卿補任による)。著書に水鏡、山槐記がある(注:仁和寺書籍目録による)。

藤原教長

藤原教長(のりなが)は、幼名を文珠(もんじゅ)といい、忠教(ただのり)の子である。和歌に巧みで、書もよくし、藤原佐理(すけまさ)の楷書の法を学んだ(注:今鏡による)。大治・康治の間に次々と昇進して蔵人頭となり、参議を拝命した。久安五年、正三位に叙せられた。保元元年、左京大夫に転じた(注:公卿補任による)。教長は崇徳上皇に親しく仕えていた。上皇が挙兵しようとした際、教長は諫めたが止めることができず、深く憂えた。ひそかに内大臣藤原実能(さねよし)に告げ、実能もまた教長に同調して挙兵の不可を奏上したが、いずれも聞き入れられなかった。事が破れると、教長は髪をそり落として広隆寺に住み(注:保元物語による)、法名を親蓮(しんれん)と名乗った(注:尊卑分脈による)。朝廷は教長が上皇の近臣であったことから、人を遣わして逮捕させ、常陸国の浮島(うきしま)に流罪とした(注:保元物語による。浮島の地名は今鏡による)。応保二年、召還された(注:一代要記による)。その後高野山に隠棲し、そこで生涯を終えた(注:今鏡による)。著書に拾遺古今がある(注:仁和寺書籍目録による)。

教長の弟の頼輔(よりすけ)は、永暦年間、豊後守に任じられた。応保・仁安の間、大宰少弐、皇后宮亮となった。嘉応年間、刑部卿を拝命し、従三位に至った(注:尊卑分脈による)。寿永二年、平氏が天皇を奉じて太宰府に入ろうとした際、頼輔の子の頼経(よりつね)がこれを拒んだ(注:平家物語、源平盛衰記による)。文治二年、薨去した(注:尊卑分脈による)。頼輔は鼻が大きく、人々は彼を「鼻豊後(はなぶんご)」と呼んだ(注:平家物語、源平盛衰記による)。

藤原賴輔

源師房(みなもとのもろふさ)は、はじめ資定(すけさだ)といい、具平親王(ともひらしんのう)の長男である(注:公卿補任、尊卑分脈による)。生まれてわずか二歳のとき、親王はこれを見て不思議に思い、「この子には将軍の相がある。後に必ず大将となるだろう」と言った(注:続古事談による)。成長すると、才能と見識は広く深く、文章に巧みで、和歌にも優れていた(注:今鏡による)。関白藤原頼通は師房と父子の約束を結び(注:公卿補任、尊卑分脈による。栄花物語、今鏡では藤原道長の養子とする)、自分の妹を師房の妻とした。ある人がひそかに妻の容貌の醜さを言う者があったが、師房は「夫婦というものは、しばらくの間の巡り合わせであり、容姿の美醜など心にかけるに足りない」と言った(注:宝物集、栄花物語による)。寛仁四年、従四位下に叙せられ、源朝臣の姓を賜り、今の名に改めた。まもなく侍従・右近衛中将となった。万寿元年、次々と昇進して従三位に叙せられた。三年、権中納言に任じられた。長元・康平の間、権大納言となり、右近衛大将を兼ねた。治暦元年、内大臣を拝命した。後三条天皇が即位すると右大臣に転じ、大将はもとのままとし、輦車に乗ったまま宮門に入ることを許された。白河天皇が即位すると、さらに厚遇を加えられ、従一位に叙せられ、牛車の使用を許され、左近衛大将に転じ、まもなく皇太子傅を兼ねた。承暦元年、病により官職を辞そうとしたが、丁重な詔によって許されなかった(注:公卿補任による)。天皇は蔵人頭源俊実(としざね)を遣わし、邸宅にて太政大臣を拝命させた。その日のうちに薨去した。享年七十(注:扶桑略記、公卿補任による)。土御門(つちみかど)と称された(注:尊卑分脈による)。著書に叙位除目抄、土右記がある(注:仁和寺書籍目録による)。子に俊房(としふさ)、顕房(あきふさ)、師忠(もろただ)、広綱(ひろつな)がいる。師忠は正二位大納言で、澤大納言(さわのだいなごん)と称した。広綱は従四位下摂津守であった(注:尊卑分脈による)。

源師房

源俊房(としふさ)は、天喜年間、従二位に叙せられ、参議に任じられた(注:公卿補任による)。前の斎院であった娟子内親王(けんしないしんのう)は皇太后と同居していたが、俊房はこれと密通した。皇太子は大いに怒り、天皇に奏上してその罪を正そうとした。天皇はやむを得ず、俊房の朝廷への出仕を停止させた(注:栄花物語、古事談による)。まもなく正二位に進み、権中納言に任じられた。しかし後三条天皇の御代が終わるまで、大きく重用されることはなかった。承暦年間、大納言に任じられ、まもなく陸奥出羽按察使を兼ねた(注:公卿補任による)。永保二年、右大臣に欠員が生じ、天皇はその人選を決めかねて大江匡房と相談したところ、匡房は俊房を推薦した。天皇は「朕もそう思う。しかし顕房(あきふさ、俊房の弟)は現に中宮の父であり、今もし彼を任じなければ、出家して世を捨ててしまうのではないかと恐れる。その他にも先任で望みを抱いている者が多く、朕はそれゆえに決めかねているのだ」と言った。匡房は「大臣は序列に従って進む官ではなく、肝要なのはふさわしい人物を得ることです。まして顕房はすでに国司を務めた身ではありませんか」と言った。天皇は「国司を経た者が大臣に至った例がないわけではない。菅原道真のような例がそうだ」と言った。匡房は「道真公は文章博士であり、この限りではありません。それに人情に照らして考えれば、弟でありながら兄が大臣に昇るのを妬み憎むようなことがあってよいでしょうか」と言った(注:今鏡による)。そこで俊房を右大臣に任じた。翌年、左大臣に転じた。寛治七年、左近衛大将を兼ねた(注:扶桑略記、公卿補任による)。翌年、従一位に叙せられた。嘉保三年、輦車の使用を許された。保安二年、官を退いて剃髪し(注:公卿補任による)、寂俊(じゃくしゅん)と号した(注:尊卑分脈、後拾遺往生伝による)。薨去した。享年八十七(注:公卿補任、後拾遺往生伝による)。堀河左府(ほりかわのさふ)と称された(注:今鏡、尊卑分脈による)。その日記は水左記(すいさき)という(注:仁和寺書籍目録、印本尊卑分脈による)。俊房は政務に熟達し、祖父の具平親王から三代にわたってその才が受け継がれていた。文才があり、あわせて書にも優れていた。御殿の門に掲げる額の多くは彼の筆によるものであった(注:後拾遺往生伝による。今鏡も参照した)。子に師頼(もろより)、師時(もろとき)、師俊(もろとし)がいる。

源俊房

源師頼(もろより)は、博識で記憶力に優れ、文才があった(注:今鏡による)。大江匡房に学問を受けた(注:古今著聞集による)。永保・承徳の間、次第に昇進して参議に任じられ、右兵衛督を兼ねた(注:公卿補任による)。堀河天皇の御代、左大弁源基綱(もとつな)、右大弁藤原宗忠らが、いずれも後輩でありながら師頼を追い越して権中納言となった。師頼はこれを不満に思い、家に籠って数年間出仕しなかった。これにより右兵衛督の職を罷免された。崇徳天皇は、近年天変地異がしばしば起こることから、諸道の博士に勅命を下し、これを鎮める方法を尋ねさせた。博士たちは皆、「才能ある人物を登用し、その鬱屈した思いを晴らさせれば、天の心にかなうことになりましょう」と答えた。そこで師頼は権中納言に任じられた(注:古事談による)。就任後、釈奠(せきてん)の上卿(しょうけい)となり、何事も先例を尋ねてから行った。藤原成通(なりみち)がこれをねぎらって、「あなたは長らく家に籠って公務に従わずにおられたのに、こうして謙虚に先例を尋ね求められるとは。誤りがあるのではと案じておられるのでしょう」と言うと、師頼は振り返って「大廟に入っては何事も問うものだ、というではないか」とだけ答え、それ以上何も言わなかった。成通は恥じ入った(注:十訓抄、古事談による)。まもなく大納言に転じ、正二位に叙せられた(注:公卿補任、一代要記による)。保延五年、夏に日照りが続き、丹生(にう)・貴布禰(きふね)の神に雨乞いの祈願をした際、師頼がこれを執り行った。このとき大内記が事情があって出仕できず、少内記の文屋相永(ふんやのすけなが)が代わって事に当たったが、宣命(せんみょう)を作ることができなかった。師頼が代わってこれを書き、退出する際に「この宣命は必ず神のご感応を得るであろう」と言ったところ、果たして三日間大雨が降った(注:古今著聞集による)。この年、薨去した。享年七十(注:尊卑分脈による。公卿補任、一代要記では七十二とする)。小野宮(おののみや)と称された。弟に師時(もろとき)、師俊(もろとし)がいる(注:尊卑分脈による)。師時は詩歌に優れ、才能で名高く、匡房に称賛された(注:今鏡による)。正三位権中納言に至り、皇太后宮大夫を兼ねた(注:公卿補任による)。著書に沓記(注:印本尊卑分脈による)、長秋記がある(注:仁和寺書籍目録による)。師時が薨去すると、鳥羽上皇はその家に命じてこれらの記録を献上させ、鳥羽北殿に収蔵し、収める櫃(ひつ)の上に「権大夫次第」と題した(注:今鏡による)。師俊もまた次々と昇進して権中納言に至った(注:公卿補任、尊卑分脈による)。

源師賴

源顕房(あきふさ)は和歌に優れ、学問については兄に及ばなかったものの、当時かなりの声望があった(注:今鏡による)。後冷泉天皇の御代、侍従・右近衛少将・中将を経て蔵人頭となり、近江・周防介・伊予権守を兼ね、参議に任じられ、正三位に叙せられ、さらに転じて権大納言となった(注:公卿補任による)。白河天皇が即位すると、中宮の父であることから兄の俊房を超えて右近衛大将を兼ねた(注:栄花物語による)。永保三年、俊房が左大臣に転じると、顕房がこれに代わって右大臣となり、そのまま近衛大将の職も帯びた(注:栄花物語による)。寛治七年、病の床についたところ、天皇は勅命により軽罪の囚人を赦免し、その病の快復を祈った(注:中右記による)。嘉保元年、従一位に叙せられた。この年、薨去した。享年五十八(注:公卿補任、中右記、尊卑分脈による)。天皇は深く悲しみ、御膳を止め、三日間朝政を休み、正一位を追贈した(注:中右記による)。世に六条右府(ろくじょうのうふ)と称された(注:尊卑分脈による)。

これより先、治部卿源隆俊(たかとし)に娘がおり、その婿を選ぼうとして、人相見を呼んで俊房と顕房のどちらがふさわしいかを尋ねた。人相見は「お二人とものちに大臣に至られるでしょう」と答えた。さらに「兄弟のどちらがより栄えるか」と問うと、「弟君の方がより栄えます。あるいは至尊(天皇)をお生みになるかもしれません。あるいは並ぶ者のない地位に出られる方が、必ずこの方の子孫から出るでしょう」と答えた。のちに顕房の子の雅実(まさざね)が太政大臣に至り、娘の賢子(けんし)は白河天皇の中宮となって堀河天皇を生んだので、まさにその言葉の通りとなった(注:今鏡による)。顕房の子は雅実、顕仲(あきなか)、雅俊(まさとし)、国信(くにざね)、顕雅(あきまさ)、雅兼(まさかね)である(注:尊卑分脈による)。

雅実については別に伝がある。顕仲は従三位左京大夫で、神祇伯を兼ねた(注:公卿補任による)。和歌に巧みで(注:金葉集、印本尊卑分脈による)、書もよくした(注:十訓抄、古今著聞集による)。源俊頼(としより)が勅命を受けて金葉集を撰んだ際、顕仲はこれを心よく思わず、あらためて良玉集を著した(注:八雲御抄、仁和寺書籍目録による)。保延四年、薨去した。享年八十一(注:一代要記による)。雅俊は正二位権大納言であった。国信は正二位権中納言で(注:公卿補任による)、家は坊城(ぼうじょう)と称した(注:尊卑分脈による)。顕雅は正二位権大納言で、保延二年、薨去した(注:公卿補任による)。家は楊梅(やまもも)と称した(注:尊卑分脈による)。顕雅は性格が粗雑で軽率であり、これといった才能もなかった(注:古今著聞集による)。世間では「詩を作ることができないのに公卿に至った者は、顕雅を最初とする」と言われた(注:古事談による)。堀河天皇は笛を吹くことに優れており、あるとき侍臣に「朕は五常楽急を百遍奏でてみたい。そなたたちは草木が舞い出すのを見たら、五十遍吹いたところで知らせよ」と言った。伶人(音楽をつかさどる役人)の時元(ときもと)が簾を掲げて「木々が動いております」と告げ、果たして天皇の仰せの通りであった。その場に居合わせた者は皆その受け答えに感心したが、顕雅は軽々しく「木が自ら動いたのではない。風が吹いてそうなったのだ」と言い、居並ぶ者は皆口をふさいで笑いをこらえた(注:古今著聞集、体源抄による)。雅兼は才識があり、詩歌に優れていた(注:今鏡による)。天承元年、従三位に叙せられ、権中納言に任じられた(注:公卿補任による)。白河天皇はしばしばその才幹を称賛し、かつて鳥羽天皇に「朕はかつて藤原通俊(みちとし)、大江匡房を用いたが、彼らはまことに近ごろまれな名臣であり、みずから良き人材を得たと思っていた。今の雅兼はほとんどこの二人に劣らない」と語った(注:古事談による)。保延元年、病により官を辞した。朝廷に重要な議論がある度に、鳥羽天皇は雅兼を引見して諮問した(注:今鏡による)。康治二年、薨去した。享年六十五。世に薄雲中納言(うすぐものちゅうなごん)と称された。著書に礼記がある(注:仁和寺書籍目録による)。