卷之一百五十 列傳第七十七

藤原實行、藤原公教、藤原實能、藤原實定ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次7
  1. 藤原實行
  2. 藤原公教
  3. 藤原實能
  4. 藤原實定
  5. 藤原成通
  6. 藤原宗長
  7. 藤原雅經

藤原實行

藤原実行(ふじわらのさねゆき)は、権大納言藤原公実(きんざね)の次男である(注:『公卿補任』による。ただし『尊卑分脈』と『今鏡』では三男とする)。永久三年、参議となり、まもなく従三位に進んだ。保安三年には権中納言となり、左衛門督・右衛門督、検非違使別当(けびいしべっとう)を兼ねて歴任した。天承元年、権大納言となり、久安年間には右大臣となった。続いて太政大臣を拝命し、節会(せちえ)の際には序列に従って歩まず直接昇殿することを特別に許された。保元二年に致仕し、まもなく剃髪して蓮覚(れんかく)と改名した。応保二年、八十三歳で薨去した(注:『尊卑分脈』は八十四歳とする)。八条太政大臣と号し(注:『公卿補任』による)、また三条とも号した(注:『尊卑分脈』による)。その日記は『八条相国記』と呼ばれる。実行は学問の才があり、朝儀の作法に通じていた。生まれつき大変孝行な性格で、親が病気になると衣服も脱がずに朝夕付き添って看病した。父の喪に服していたとき、藤原基俊(もととし)が弔問に訪れ、梅の木に和歌を結びつけて詠んだ。

「昔見し(牟加志美志)、主顔にて(河流自我保珥氐)、梅がえの(宇迷我延能)、花だに我に(波奈陀珥和禮珥)、物語りせよ(毛能我多利世余)」

実行はこれに深く心を動かされ、返歌を詠んだ。

「根に帰る(禰珥加倍流)、花の姿の(波奈能須我多能)、恋しくは(由加志玖波)、直木の下を(多陀古能毛斗烏)、形見とは見よ(加多美斗波美余)」

(注:以上『今鏡』による。)子に公教(きんのり)、公行(きんゆき)、公宗(きんむね)がいる(注:『尊卑分脈』による)。公行は従三位参議となり、久安四年に薨去した(注:『公卿補任』による)。公宗は正五位下民部大輔であった(注:『尊卑分脈』による)。

藤原公教

藤原公教は、侍従、左近衛少将・右近衛少将、中将を歴任した。保延二年、権中納言に任じられ、久安年間には正二位に叙せられて大納言となり、左近衛大将を兼ねた。保元二年、内大臣を拝命した(注:『公卿補任』による)。永暦元年、薨去した(注:『山槐記』『公卿補任』による)。公教は生まれつき温厚で、公務には謹んで励んだが、栄達や利益には淡々として貪ることがなく、世間からは賢者と評された(注:『今鏡』による)。あるとき客と対座していたところ、飛んできた小石が格子にぶつかった。客は顔色を失ったが、公教は振り返って「誰の仕業か」と尋ねた。家人が「隣家の少将が投げたものです」と答えると、公教は笑って「ここは危険な場所だ、いてはいけない」と言い、客を導いて席を移した。しばらくして、また小石が飛んできたが、公教は談笑して平然としており、最後まで不快な様子を見せなかった。その度量の広さはこれほどであった(注:『十訓抄』による)。かつて少将であったころ、毎晩正装して鳥羽(とば)上皇や待賢門院(たいけんもんいん)に伺候し、参上する時刻は必ず決まっていた。そのため宮女たちは日が暮れる時刻を「少将時」と呼んだ(注:『今鏡』による)。子に実綱(さねつな)、実国(さねくに)、実房(さねふさ)がいる。実綱は正三位権中納言となり、実国は正二位権大納言となった。実房は要職を次々と歴任し、正二位左大臣にまで至った。実行の弟が実能(さねよし)である(注:『公卿補任』による)。

藤原實能

藤原実能は、次第に昇進を重ね、保安年間に従三位に進み、権中納言に任じられた。天承・保延間には左右衛門督を兼ね、権大納言に任じられて右近衛大将を兼ねた。久安六年、内大臣となり、左近衛大将に転じ、まもなく東宮傅(とうぐうのふ)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。保元元年、鳥羽法皇が病に伏した。このとき崇徳(すとく)上皇は復位を謀ろうとしており、人心は騒然として内外ともに恐れを抱いていた。実能は密かに法皇に上奏して言った。「陛下がひとたび群臣を捨ててお隠れになれば、天下は必ず乱れます。どうか万歳の後のことに深くお心を留めください。」法皇もまた以前からこれを疑っており、その言葉に深く同意した。そこで十人の将帥に勅命を下してその誓書を取り、美福門院(びふくもんいん)に預けさせた(注:『愚管抄』による)。まもなく法皇が崩御すると、案の定、上皇は復位を謀った。実能はさらに左京大夫藤原教長(のりなが)を通じて上皇を諫めて言った。「たとえ世が末の世に近づいているとはいえ、帝王の位は実に祖先の神霊のご加護によるものであって、人の力で得られるものではありません。まして弟が兄に代わって位に就いた例も一つではありません。どうか天命に従い、心をゆるやかにしてこの先の歳月をお過ごしください。もし事が一度失敗すれば、悔いても及びません。」上皇はこれを聞き入れず、ついに配流の辱めを受けることとなった(注:『保元物語』による)。実能は左大臣に転じ、従一位に進んだ。保元二年、剃髪した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。法名を真理(しんり)といい、六十二歳で薨去した(注:『尊卑分脈』による)。世に徳大寺と称され(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)、また大炊御門(おおいのみかど)とも号した(注:『今鏡』による)。子に公能(きんよし)、公親(きんちか)、公保(きんやす)がいる(注:『尊卑分脈』による)。

公親は幼い頃から学問を好み、藤原頼長(よりなが)はその聡明さを称賛した(注:『台記』による)。参議正三位にまで至り、平治元年に薨去した。公保は正二位権大納言となり、安元二年に薨去した。公能は正二位右大臣となり、応保元年、四十七歳で薨去した(注:『尊卑分脈』は七を八に作る、すなわち四十八歳とする説もある)。大炊御門と号した。子に実定(さねさだ)、実家(さねいえ)、実守(さねもり)がいる(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。

実家は正二位大納言となり、建久四年に薨去した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。八条と号した(注:『尊卑分脈』による)。実守は従二位権中納言となり、文治元年に薨去した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。

藤原實定

藤原実定は、生まれつき聡明で、かなりの才学があった(注:『玉海』『古今著聞集』による)。早くから清要の官を歴任した。保元三年、権中納言に任じられた(注:『公卿補任』による)。応保二年、帝が日吉社(ひえしゃ)に行幸した際、藤原実長(さねなが)は行事の功により実定を超えて従二位に叙せられた。実定はこれを不服として、以前に父公能の邸に行幸があった際の恩賞を改めて願い出て、その結果従二位に叙せられたが、席次は実長の下に置かれた。長寬二年、実長とともに権大納言に任じられたが、実定はなお不満で、ついに大納言を辞し、正二位に叙せられることで実長を超えた(注:『公卿補任』『古今著聞集』による)。およそ公卿たる者が官を辞して位を進めるということは、これより前には例がなかった(注:『古今著聞集』による)。仁安の初め、皇后宮大夫に任じられたが、嘉應二年にこれを辞した(注:『公卿補任』による)。以後、何年も家に籠もり、志を得ずに沈鬱な日々を送ったが、詩歌を作って心を慰め、優れた句も多く、世に広く伝えられ称賛された(注:『古今著聞集』による)。治承元年、再び大納言に任じられ、まもなく左近衛大将を兼ねた。

(注:『源平盛衰記』によれば、承安元年、左大将の官が欠員となった際、実定は家柄・才能ともに世に重んじられ、しかも大納言の首座にあったため、自らは必ず選ばれるものと思っていた。ところが右大将平重盛(しげもり)がこれに転任し、弟の中納言宗盛(むねもり)が右大将に任じられた。実定はそこで山林に籠もり、藤原顕長(あきなが)に和歌を贈ったが、その言葉はもの悲しいものであった。顕長は返歌を贈って慰め諭した。実定は数年にわたり沈滞し、鬱々として楽しまず、出家の志を抱くようになった。家臣の佐藤近宗(ちかむね)を召してひそかにその心中を告げたところ、近宗はこれを強く諫めて思いとどまらせ、安芸の厳島明神(いつくしまみょうじん)に参詣して大将の職を得られるよう祈願することを勧めた。実定はこれに従った。厳島の神、静海はもとよりこの神を篤く崇めていたが、実定自らが参詣して祈願したことを聞き、心を痛めて「近衛大将はあの家が代々務めてきた職である。私がこの人を差し置いて宗盛を推挙したのは、私の過ちであった」と述べた。そこで宗盛に右大将を辞めさせ、重盛を降格させてこれに任じ、実定を推挙して左大将を兼ねさせた。実定の経歴を調べると、『古今著聞集』の記載は『公卿補任』と一致しており、十分に根拠とするに足る。『源平盛衰記』の記述は誤りであり、こじつけによるものである。実定が顕長と和歌を贈答したという話は『古今和歌集』に見えるが、顕長は仁安二年に薨去しており、この点からもその誤りは明らかである。したがってこの説は採用しない。)

壽永二年、内大臣となり、大将は元のままであった(注:『公卿補任』による)。源義仲(よしなか)が反乱を起こし、妻の兄である権大納言藤原師家(もろいえ)を摂政にしようとしたが、大臣の官に欠員がなかったため、実定から内大臣の官を借りて師家をこれに任じ、そのため実定の内大臣は一時停止された(注:『玉海』『愚管抄』『公卿補任』『源平盛衰記』を参照した)。義仲が誅殺されると、実定は再び内大臣に任じられた。文治中には右大臣を拝命し、まもなく左大臣に転じた。建久元年、官を辞し、子の左近衛中将公継(きんつぐ)を参議に推挙した。翌年、剃髪して如円(にょえん)と改名し、この年のうちに五十三歳で薨去した。後徳大寺(ごとくだいじ)と称された(注:『公卿補任』による)。

源義経(よしつね)が兄頼朝(よりとも)追討の宣旨を朝廷に奏請したとき、この件は三公の合議に付された。実定はすぐには可否を示さず、頼朝はこれに感謝した。頼朝が推挙する公卿を選んだ際にも実定はその中に含まれており、実定が薨去すると頼朝は深くこれを惜しんだ(注:『東鑑』による)。実定の家には多くの蔵書があり、和書・漢籍あわせて一万巻余りに及んだ。花園(はなぞの)左大臣の日記八十巻ほどと、四条戸部(しじょうこほう)の日記百巻余りは、いずれも世に類のないものであった(注:『玉海』による)。実定は何より和歌を好み、一室を設けて常に歌人を招き、詩歌を吟じて自ら楽しんだ。子に公守(きんもり)、公継がいる(注:『尊卑分脈』による)。公守は右近衛中将であった(注:『玉海』による)。公継については別に伝がある。

藤原成通

藤原成通(なりみち)は、右大臣俊家(としいえ)の孫で、権大納言宗通(むねみち)の四男である(注:『公卿補任』による)。九歳のとき瘧(おこり)にかかり、ある僧都に祈祷させたが効果がなかった。宗通は別の僧を招いて改めて祈祷させようとしたが、成通は言った。「聞くところによれば、私がまだ母の胎内にいたころから、あの僧都はすでに修験者として名を成していました。九歳まで無事に育ったのに、誰が効き目がなかったなどと言えましょうか。今この病にかかったからといって、急に他の僧に祈祷させ、たとえその力にすがって治ったとしても、それは私の望むところではありません。まして効き目があるかどうかも定かではありません。それに私の病は命を落とすほどのものではありませんから、どうか父上はご心配なさいませんように。」宗通はこれを聞いて驚き感心した(注:鴨長明『発心集』による)。永久・天承間には右近衛少将・中将を歴任し、参議に任じられた。長承三年、従三位に進み、権中納言に任じられて侍従を兼ねた。康治二年、正二位に叙せられ、久安五年、権大納言に転じた。平治元年、剃髪して栖蓮(せいれん)と改名し、六十三歳で薨去した(注:『公卿補任』による)。

成通は容姿が美しく、車や衣服にはその時々で人目を引く意匠を凝らした。生まれつき人の美点を褒めることを好み、称賛すべきことに出会うと必ず涙を流すほどであった。人並み外れた精力の持ち主で、多くの技芸に通じていた。詩に巧みで、和歌にも長じていた。崇徳帝がかつて群臣に和歌を献上させたとき、成通が心情を詠んだ作は最も人々に感嘆され称賛された。また馬を操ることにも優れ、かつて白河への行幸に供奉したとき、川の途中で馬がつまずいたが、たちまち鞍の上に立ち上がり、着物の裾すら濡らさなかった(注:『今鏡』による)。

何よりも蹴鞠(けまり)を好み、飽くことなく練習を重ねた。病のときは寝たまま鞠を蹴り、雨の日には大極殿にひそかに入ってこっそり練習し、ついにその奥義を極めるに至った。あるとき従者十人ほどを座らせ、その肩の上を歩きながら鞠を蹴った。その中に僧が一人いたが、成通はその頭を踏んで通り過ぎた。人々は皆「靴が身体に触れる感触は、まるで鷹が腕にとまっているかのように軽やかだ」と言い、当の僧は「まるで笠が頭に乗っているだけのように感じた」と語った(注:『鞠譜』による)。

ある日、庭で鞠を蹴っていたところ、鞠が誤って御簾(みす)の中に入ってしまい、成通は跳んでこれを追った。そのとき宗通がその場に座っていたので、成通はその席を踏みつけてしまうことを恐れ、宗通の足の上で鞠を受け止め、体をひるがえして外に出た(注:『古今著聞集』による)。

また清水寺(きよみずでら)に参詣した際には、高欄の上で鞠を蹴り、足には靴を履いたままであったので、見物人は皆驚き呆れた。成通はかつて自ら言った。「私は人が鞠場に入るのを見れば、その技の巧拙を見抜くだけでなく、その者の運命までも見て取ることができ、これまで一度も見誤ったことがない。」また言った。「私は蹴鞠を七千日続け、思いを凝らして神に通じるほどになり、自らその妙技は古今に並ぶ者がないと思っている。世の歌人が柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を尊び祀るように、後世の鞠の好者もまた、私を祀らずにはいられないだろう。」(注:『鞠譜』による)後世、蹴鞠が盛んに行われるようになると、成通の西洞院(にしのとういん)の旧宅に鞠の神を祀る社が建てられた。これは成通のこの言葉に基づくものであるという(注:『諸神根元抄』『雲井春』などを参照した)。

(注:『鞠譜』には次のような話が載っている。私は蹴鞠を七千日続けた。最初の千日に至ったとき、鞠を棚の上に置いて禁足とし、酒を酌み交わして大いに楽しんだ。客が帰った後、独り灯火の下に座っていると、ふと人の顔で猿の身体をした三人の子供が現れ、共に一つの鞠を担いで持ってきて、「我らは鞠の神である」と言った。その額にはそれぞれ金文字があり、一人は「春楊花」、一人は「夏安林」、一人は「秋園」と記されていた。彼らは言った。「王侯が鞠を好めば、国は富み、その身は長寿を得る。おおよそ人が思い悩むことの多くは罪障となるものだが、鞠を好む者は、ひとたび鞠場に入れば他の雑念がなくなり、それがそのまま功徳となる。あなたはいっそう励むがよい。」そう言い終わると姿は見えなくなった。この話は怪異にわたるもので信じがたいため、採用しない。)

成通が著した『鞠譜』一篇は世に伝わっている(注:『鞠譜』による)。成通は身のこなしが人並み外れて軽やかで、塀の側面を走ったり、屋根の上を転げ回ったり、たちまち軒先に立ったりすることができた。宗通はたびたびその軽々しい振る舞いを慎むよう戒め、鳥羽帝もまたこれについて注意したが、成通は改めなかった(注:『古今著聞集』による)。成通には実子がなく、甥の為通(ためみち)の子泰通(やすみち)を養って跡継ぎとした。泰通は壽永・建久間に参議・中納言を歴任し、正治中には正二位権大納言にまで至った(注:『公卿補任』による)。また源行宗(ゆきむね)の子有通(ありみち)を養子として、下総守とした(注:『尊卑分脈』による)。

藤原宗長

藤原宗長(むねなが)は、大納言忠教(ただのり)の曾孫である。祖父の頼輔(よりすけ)が養って子とした。頼輔は豊後守、太宰少弐を歴任し、刑部卿従三位にまで至った(注:『尊卑分脈』による。養子となったことは『公卿補任』による)。父の頼経(よりつね)は源行家(ゆきいえ)・義経と通じたことに連座し、文治五年、伊豆に流された(注:『東鑑』による)。このとき宗長は右近衛少将であったが、同じく連座して官を罷免され、後に刑部卿従三位にまで至った(注:『公卿補任』『東鑑』による。『東鑑』は左近衛とするが、今は『公卿補任』に従う)。

もともと頼輔は藤原成通に蹴鞠を学び、次第に名声を得ていた。宗長はその技を受け継ぎ、長年練習を重ねてついにその妙技を極めた。弟の雅経(まさつね)とともに、優れた弟子として並び称された。後鳥羽上皇は蹴鞠を好み、宗長を師とした。上皇の蹴鞠の技もまた非常に巧みであり、宗長は雅経や藤原泰通らとともに上表して「蹴鞠長者」と称え申し上げた(注:『雲井春』による。「鞠師」については『尊卑分脈』による)。上皇が前太政大臣藤原頼時(よりとき)の邸に臨んだ際、蹴鞠が催されて宴が賜られた(注:『明月記』『承元御鞠記』による)。邸の上・中・下座それぞれに八人ずつが並び、冠の綏(ひも)や襪(しとうず)に禁色を用いることを許されたのは、これに始まる(注:『雲井春』による)。

子に宗教(むねのり)、輔長(すけなが)がいる。宗教は刑部卿となり、土御門(つちみかど)帝は宗教を蹴鞠の師とした。宗教には二子があり、教継(のりつぐ)、教俊(のりとし)という。教継は左近衛少将に任じられ、正四位下に叙せられた。教俊は侍従となった(注:『尊卑分脈』による)。宗長の弟が雅経である。

藤原雅經

藤原雅経(まさつね)は、建久中に侍従となった。建仁・建永間には越前介、加賀権介を兼ねて歴任し、左近衛少将に任じられた(注:『公卿補任』による)。和歌に優れていたことから和歌所(わかどころ)に出仕し(注:『後鳥羽院口伝』『明月記』による)、勅命を受けて源通具(みちとも)、藤原定家(さだいえ)らとともに『新古今和歌集』を撰した(注:同書の序による)。承元中、左近衛中将に転じた。建保六年、従三位に進んだ。承久二年、参議に任じられ、翌年、五十二歳で薨去した(注:『公卿補任』による)。

雅経はかつて藤原定家に和歌を学んだが、その子孫の代になると、歌風は二条家とほとんど違いがなくなった(注:『正徹物語』による)。また蹴鞠を好み、兄弟ともに当代随一と称された。宗長を難波(なんば)と号し、雅経を飛鳥井(あすかい)と号し、その子孫はこれを家名とした。後に難波の家は次第に衰え、ただ飛鳥井家だけが和歌・蹴鞠の両方で世に尊ばれた(注:『雲井春』による。

注:『古今著聞集』には次のような話がある。雅経が若いころ、華山院(かざんいん)の釣殿(つりどの)に仮住まいしていたとき、毎日賀茂社(かもしゃ)に参詣していた。あるとき和歌を詠んだ。

「世中に(與乃奈加珥)、数成らぬ身の(加孺奈羅奴美乃)、友千鳥(斗毛知妬利)、泣きこそ渡れ(奈岐古曾和多禮)、賀茂の河原に(加毛乃加波羅珥)」

ある夜、社司の夢に神が現れて告げた。「私はあの『泣きこそ渡れ』と詠んだ者を哀れに思う。おまえは必ずその人を捜し出しなさい。」社司はあまねく捜し求めて雅経を見つけ出し、夢のことを告げた。雅経は深く感じ入り、これ以来しだいに官位が進んでいったという。)

子に教定(のりさだ)がおり、右兵衛督正三位にまで至った(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。