卷之一百四十九 列傳第七十六

藤原伊通、藤原光賴、藤原惟方、藤原經宗ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原伊通

藤原伊通(ふじわらのこれみち)は、右大臣俊家(としいえ)の孫である。父の宗通(むねみち)は容貌が堂々として立派で、政務にきわめて通じていた。家をよく治めて規律があり、上下の者たちは仲睦まじく、誰も不満を漏らす者がなく、当時の人々から称賛されていた。白河上皇の寵愛を受け、しばしば重要な会議に加わった。官位は正二位権大納言にまで至った(注:『中右記』による)。世間では彼を阿古丸大納言と呼んだ(注:『今鏡』による)。

伊通は保安三年に参議に任じられ、大治五年には中宮権大夫となった。この年、参議の源師頼(みなもとのもろより)ら四人が権中納言に昇進した(注:『公卿補任』による)。伊通は自分が選に漏れたことを恥じ、官を辞して朝廷への出仕をやめてしまった。節会の日には、檳榔毛車(びんろうげのくるま)を壊して街路で焼き、粗末な褐色の衣と布の裳を身にまとい、馬を走らせて遊女の家で遊び興じた。院の寵臣である藤原家成(いえなり)に書状を送り、「私はこのままぶらぶらと気ままに過ごして一生を終えるつもりだ」と書き送った。ところがその子の為通(ためみち)が崇徳帝の寵愛を得たことから、帝は伊通を再び用いようとした。関白忠通(ただみち)はこれに反対したが、帝がたびたび鳥羽上皇に願い出た結果、ついに伊通は登用された。長承二年、陣座において直ちに権中納言に任じられた。陣座での官職任命は、伊通に始まるものである(注:『今鏡』による。長承二年という年は『公卿補任』による)。

永治元年、権大納言に転じ、まもなく正二位に昇進した。保元元年には内大臣に任じられ、翌年には左大臣となった(注:『公卿補任』による)。この年、藤原信頼(のぶより)が藤原通憲(みちのり、信西)を殺し、その子十二人を捕らえて死罪にしようとした。伊通は協議のうえ、死罪を減じて流罪にとどめさせた(注:『平治物語』による)。

永暦元年、太政大臣を拝命した。当時は綱紀がしだいに緩み、旧来の規範が日に日に廃れていくのを、伊通は深く憂え、意見書一篇を作って奉った。その概略にはこうある。「聖なる君主は人材を見捨てず、その長所を取り上げるものである。ちょうど腕の良い職人が材木を選ぶとき、曲がった木は車輪に、まっすぐな木は轅(ながえ)に用いるのと同じで、そうであってこそ世に見捨てられた才能はなくなる」。また言う。「太平の世が久しく続くと、上下ともに安逸に流れる。もし謀反を企てる者が時に乗じて野心を抱けば、その禍は測り知れない。私が聞くところでは、『嵯峨帝は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を近衛の将として引き立てたことで反逆者たちの意気を挫き、小一条院は源頼義(よりよし)を登用し、白河院は平忠盛(たいらのただもり)を召して禁中の警護に当たらせた』という。これらはみな、事の兆しをあらかじめ防ぐためである。ところが近ごろの殿上では、夜の宿直に人がいない。蔵人がいるにはいても、離れた部屋で安穏と寝ており、呼んでも応じない者がいる。これは天子の御身を重んじるゆえんではない」。また言う。「帝王が学問を尊ぶのは、詩や賦が巧みであることを言うのではなく、政治の要諦を知るためである。君主がこれを学んで臣下を使い、臣下がこれを学んで君主に仕えれば、天下はおのずと治まる。もしいたずらに詩賦の技巧にのみ長けて世の実情に通じない者であれば、無益な人間にすぎない。世には必ず経世の器量を備えた人物がいるはずで、その臣下の値打ちを知るのは君主に及ぶ者はない。どうかそうした人材を選んでいただきたい。およそ臣下でありながらひたすら我が身のためだけを図り、真心を尽くして公に奉仕しない者は、みな朝廷の罪人である。私が学んだところはこのようなものであり、聞き知ったことをまとめ、十七条憲法になぞらえて謹んで奉る」。その言葉は当時の政務にきわめて切実なものであった(注:八条宮所蔵本による)。

生来、諧謔を好む性質であった(注:『今鏡』『平治物語』による)。藤原信頼が三条殿を包囲した際、御所の女房たちの多くが井戸に身を投げて死んだ(注:『平治物語』による)。乱が平定されると、武士たちは功によって官職に任じられた。伊通は笑ってこう言った。「人を殺した者はみな官職を授かるものらしい。三条殿の井戸は最も多くの人を殺したというのに、どうして官職を授けないのか」(注:『今鏡』『平治物語』による)。

永万元年に薨去した。享年七十三。大宮大相国、また九条相国と称された(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。

伊通は幼いころ、弟の季通(すえみち)とともに、准后(じゅごう)の全子(ぜんし)に人相を見てもらったことがある。全子は二人を占ってこう言った。「兄は大臣になるだろうが、弟は公卿には至らないだろう」。果たしてその言葉の通りになった(注:『古事談』による)。

父の宗通は臨終に際して、所領の荘園を子どもたちに分け与え、伊通にその地名を記させた。兄の信通(のぶみち)と連署し、肥後の三重荘、丹波の今林荘を信通に与えた。そして子どもたちに命じて言った。「お前たちの母が亡くなった後は、それぞれで分け合いなさい」。宗通が薨去し、まもなく信通も亡くなった。信通の子の行通(ゆきみち)はまだ幼く、その母も病でまさに亡くなろうとしていた。そこで三重屋荘は伊通に、今林荘は弟の重通(しげみち)に譲ろうとしたところ、伊通は辞退してこう言った。「亡き父の言葉はまだ耳に残っている。書き付けた署名もまだ消えていないのに、どうしてこれに背くことができようか。まして父が亡くなれば子が跡を継ぐのは道理として当然のことだ。私は天の道を畏れ、人としての道に反することを恥じるゆえ、この命(めい)を受けることはできない」。こうして結局その荘園は行通に授けられた(注:『台記』による)。

伊通の著作には『無名抄』(注:『八雲御抄』による)、『大槐秘抄』、『人記除目抄』がある(注:仁和寺書籍目録による)。子には為通、伊実(これざね)がいる。為通は正四位下参議、中宮権大夫となった(注:『公卿補任』による)。伊実は膂力に優れ、人と戯れるたびに読書を好まなかったので、伊通が彼を教え諭した(注:『古今著聞集』による)。伊実は官位が正三位権中納言にまで至った(注:『公卿補任』による)。

藤原光賴

藤原光頼(みつより)は、中納言顕頼(あきより)の長男である。大治五年、修理亮(しゅりのすけ)となった。長承年間には蔵人となり、従五位下に叙せられた。保延・仁平年間には左右の少弁を歴任し、蔵人頭に補せられた。保元年間には参議に任じられ、正三位権中納言に昇進し、左衛門督を兼ねた。平治元年には検非違使別当を兼任した(注:『公卿補任』による)。

このとき、甥にあたる右衛門督藤原信頼が兵を挙げて内裏を占拠し、帝と上皇を幽閉し、兵を分けて諸門を守らせ、偽りの詔を発して公卿たちを召集した。光頼は信頼の狂暴な振る舞いを憎み、長らく朝廷に出仕していなかったが、乳母の子である右馬允(うまのじょう)藤原範能(のりよし)に鎧を着けて供をさせ、範能に言った。「もし事態が急変したら、お前が私の首を取ってくれ。乱暴な兵に辱められることのないように」。そうして御殿に上ると、信頼が第一の座に着き、公卿たちはその下に列していた。光頼はますますこれを不満に思い、「あの男は右衛門督、私は左衛門督だ。どうして私が彼の下に立たねばならないのか」と考えた。そこで左大弁藤原長方(ながかた)に会釈してこう言った。「今日の朝廷の席次には、序列というものがないのか」。そしてそのまま信頼の上座に着いた。信頼は恐れおののき顔色を失った。光頼は笏(しゃく)を正しく持ち、威儀を整えて言った。「今日の評議では、衛府の督である私が第一の座に着くのが道理である。ところで、諸卿を召集し、参上しない者は誅殺するとの仰せがあったと聞くが、いったい何を評議しようというのか」。その場にいた一同は誰も答えることができず、信頼もついに一言も発しなかった。光頼は振り返って「ああ、朝廷への出仕も無意味であったな」と言うと、おもむろに立ち上がった。

退出しようとして、弟の惟方(これかた)を呼び寄せてこう言った。「詔があったといいながら私を裏切るもので、いっさい話を聞かされていない。ただ聞くところでは、当代の才望ある者はみな誅殺されようとしており、私の名もその中にあるという。私がこの人々とともに死ぬのは、実のところ何の未練もない。だがお前は先ほど信頼と同じ車に乗り、信西(しんぜい)の首を検分していた。お前はすでに検非違使別当という重職にありながら、人の車の後ろに乗るとは、何と屈辱的なことか」。惟方は恥じ入って「これは詔によるものです」と言った。光頼は言った。「たとえ詔があったとしても、なぜ一度も異を唱えなかったのか。我が家は延喜帝の御代以来、今に至るまで十一代にわたって朝廷に仕えてきた。善政でなければ奉行せず、忠良でなければ共に事をなさなかった家柄だ。それなのに今、お前は凶悪な逆賊に与し、家の名声を地に堕とそうとしている。何と悲しいことか。大宰大弐平清盛(きよもり)はすでに熊野より戻り、大軍を率いてこれを討とうとしている。信頼が誅殺される日も遠くはあるまい。それに、信頼は事の大小を問わずお前と謀っていると聞く。ならばお前が万事に気を配り、帝のお体に驚きが及ばぬよう守り申し上げよ」。さらに尋ねた。「主上は今どちらにおられるのか」。惟方は「黒戸御所においでです」と答えた。「上皇はどちらか」。「一本御書所においでです」。「神鏡はどうなっているのか」。「温明殿にあり、剣璽は夜御殿にございます」。光頼はさらに朝餉所(あさがれいどころ)の窓の間に人影があるのを見て、「あれは誰か」と尋ねると、「信頼がそこにおり、それで宮中の侍たちが行き来しているのです」との答えであった。光頼は嘆いてこう言った。「世は乱れているとはいえ、天の理はいまだ失われてはいない。宗廟の神霊よ、どうして我が国家を助けてくださらないのか。異国には乱臣がいると聞くが、我が皇朝にこのようなことがあろうとは、これまで聞いたことがない」。そうして涙を流し、すすり泣きながら退出した。惟方は帝を奉じてひそかに六波羅に脱出させた。官軍が力を発揮できたのは、光頼の働きによるところが大きい(注:『平治物語』による。世に伝わるところでは、信頼はひそかに光頼を殺そうとしたが、光頼の持つ笏に光があり、信頼はこれに畏れをなして手を出せなかったという。その笏は今も勧修寺家に伝わり、これを光笏と呼ぶという。あわせてここに記しておく)。

永暦元年、権大納言となった。応保初年、正二位に昇進した。長寛二年、官を退いて出家し(注:『公卿補任』による)、名を光然(こうねん)と改めて(注:『尊卑分脈』による)、桂の里に住んだ(注:『今鏡』による)。承安三年に薨去した。享年五十(注:『公卿補任』による)。世間では桂大納言と称し、また葉室、あるいは六条とも号した(注:『尊卑分脈』による)。著作には『亜記』『月中記』がある(注:仁和寺書籍目録による)。

子には光方(みつかた)、光定(みつさだ)、光雅(みつまさ)、宗頼(むねより)がいる。光方は正五位下阿波守。光定は正五位下兵部権大輔(注:『尊卑分脈』による)。光雅は従二位権中納言となった(注:『公卿補任』による)。その著述に『龍記』がある。宗頼は叔父にあたる参議成頼(なりより)の養子となった。もともと光頼は成頼を後継ぎとし、日々の記録文書を彼に授けていた。嘉応年間、成頼は春日行幸に供奉した功績により、宗頼を正五位下に叙するよう願い出た。宗頼はその後累進して参議となり、ついに正二位権大納言に至った。建仁三年に薨去した。享年五十。かつて『権亜記』を著した(注:仁和寺書籍目録による)。光頼の弟が惟方である。

藤原惟方

藤原惟方(これかた)は、永治・平治の間に官位を重ねて昇進し、検非違使別当となり、従三位に進んだ(注:『公卿補任』による)。甥の信頼は、弟の信俊(のぶとし)に惟方の娘を娶らせていたため、両家は親密な間柄であった。信頼が謀反を企てるに及んで、惟方と深く結び、ついに兵を挙げて帝と上皇を幽閉し、惟方と権大納言藤原経宗(つねむね)に二宮(帝と上皇)の動静を見張らせ、機密の事柄はすべて惟方と謀った。兄の光頼は惟方をきわめて厳しく責めた。惟方は悔い改め、経宗らとともに謀を合わせ、夜に紛れて帝の御輿を奉じて内裏から脱出させた。藻壁門(そうへきもん)に至ると、賊兵がこれを怪しんで誰何した。惟方は「これは宮女が外出するのだ。お前たちが何を疑うことがあろうか」と答えた。それでも賊兵は信じず、弓で車の簾を持ち上げ、松明を掲げて中を照らした。帝は優美な姿で美しい装束を身にまとい、中宮とともに同じ車に乗っておられたが、賊兵はこれを本物の宮女だと思い込み、そのまま門を開いた。こうしてついに六波羅へと逃れることができた。惟方は背丈が低く、検非違使別当になってからは、人々は彼を「小別当」と呼んだ。信頼に与して両宮を幽閉した後、経宗とともに帝を賊の手から脱出させたことから、当時の人々は、中間に立って事を成し遂げたという意味で「中媒(ちゅうばい)」と称し、それゆえまた「中小別当」とも呼んだ。左大臣藤原伊通はこう評した。「『中』とは『忠』の意味であって、『中媒』の意味ではない。惟方はよく兄の教えに従い、逆賊の側を去って正道に帰った。これは賢者のなすことである」(注:『平治物語』による)。

惟方の母は帝の乳母であった。そのため帝に親しくされ、しだいに政務にも関与するようになった。経宗も帝の外戚として重んじられ、二人ともかなり帝の恩寵を頼みとし、互いに気脈を通じて朝廷の権を意のままにし、こう言っていた。「万事は主上の思し召しに従うべきであり、上皇にお知らせする必要はない」(注:『愚管抄』による。惟方の母が帝の乳母であったことは『平治物語』による)。上皇はこれを聞いて大いに怒り、「帝はまだお若く、そのような考えに至るはずがない。これはきっとあの二人が我ら父子を離間させようとしているのだ」と言い、平清盛に勅命を下してこの二人を捕らえさせ、死罪に処そうとした(注:『愚管抄』『平治物語』による)。前関白忠通が諫めてこれを止めさせた(注:『今鏡』『平治物語』による)。こうして惟方は長門に、経宗は阿波に流された(注:『愚管抄』『平治物語』による)。惟方は出家して名を寂信(じゃくしん)と改め、世に粟田別当と称された(注:『公卿補任』による)。経宗が赦されて都に戻った際、惟方は歌を詠んで自らの境遇を悲しみ、その言葉はひどく悲痛なものであった。上皇はこれを聞いて憐れみ、仁安元年、惟方を都に召し返した(注:『十訓抄』『古今著聞集』による。仁安元年という年は『愚管抄』による)。

子には惟定(これさだ、従五位下宮内大輔)、為頼(ためより、皇后宮権亮)、惟頼(これより、宮内大輔)、惟基(これもと、少納言勘解由次官)がいる(注:『尊卑分脈』による)。

藤原經宗

藤原経宗(つねむね)は、大納言経実(つねざね)の四男である。保元年間に、権大納言正二位に至った(注:『公卿補任』による)。もとより藤原信頼と親しかった。信頼が乱を起こすに及んで、経宗と藤原惟方を引き入れ、腹心として頼りにした。経宗は事がうまくいかないことを見越し、惟方とともに謀を合わせて、ひそかに帝の御輿を奉じて六波羅へ逃れさせた(注:『愚管抄』『平治物語』による)。乱が平定されると、経宗は帝の外戚であることから深く信任され、惟方とともにしだいに朝廷の権を侵すようになった。上皇は怒り、経宗を阿波に流した(注:『愚管抄』『平治物語』による)。応保二年、都に召し返された。長寛二年、官位を回復して帯剣を許され、まもなく右大臣に任じられた(注:『公卿補任』による)。当時の人々は彼を「阿波大臣」と呼んだ(注:『平治物語』による)。仁安・承安年間には左近衛大将、左馬寮御監を兼ね、左大臣に転じて従一位に叙せられた。治承二年、皇太子傅となった。寿永元年には輦車(れんしゃ)・牛車の使用を許された(注:『公卿補任』による)。

このとき、源義経とその兄頼朝との仲が不和となり、義経は頼朝追討の宣旨を下すよう奏上した。法皇は決断をためらい、公卿たちに評議させた。経宗はこう述べた。「今、京の都を守っているのはただ義経一人である。もし彼が憤りのあまり不測の事態を起こせば、朝廷は誰にこれを制させればよいか分からない。ひとまずその願いを許して義経の心を慰め、その後で頼朝に事情を説き、これが朝廷の本意ではないことを分からせれば、何の不都合があろうか」。法皇はこの意見に従った(注:『玉葉』『吾妻鏡』による)。頼朝はこれを聞いて経宗を恨みに思い、以後、経宗を議奏の選から外した(注:『愚管抄』による)。

経宗は上表して辞職を願い出た。文治五年、出家し、薨去した。享年七十一(注:『公卿補任』による)。経宗は長く要職にあって朝廷の儀式典礼に通じ、当時の人々から敬重された(注:『愚管抄』による)。世間では彼を大炊御門左大臣と称した。子に頼実(よりざね)がいる(注:『公卿補任』による)。

藤原賴實

藤原頼実(よりざね)は、官位を重ねて昇進した。正治元年、太政大臣を拝命した。建仁・元久年間には東宮傅を兼ね、従一位に叙せられた。まもなく太政大臣を辞したが、承元二年、再び太政大臣に任じられた。建保四年、剃髪して出家した。嘉禄元年に薨去した。享年七十一(注:『公卿補任』による)。