卷之一百四十五 列傳第七十二
平忠盛、平經盛、平教盛、平忠度ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
平忠盛
¶平忠盛(たいらのただもり)は、鎮守府将軍平貞盛(さだもり)の五代目の子孫である。高祖父の平維衡(これひら)は伊勢(いせ)守・下野(しもつけ)守などを歴任し(注:平氏系図による)、勇猛な策略で世に名を知られた(注:古事談による)。長保年間、平致頼(むねより)と兵を構えて争った。この事件が朝廷に聞こえ、淡路(あわじ)に流された(注:小右記による)。父の平正盛(まさもり)は伊勢守・因幡(いなば)守・讃岐(さぬき)守などを歴任した(注:系図による)。嘉承年間、追討使となり出雲(いずも)で源義親(よしちか)を討って功をあげ、その勇猛さでも知られた(注:百錬抄による)。
¶忠盛は白河(しらかわ)・堀河(ほりかわ)・鳥羽(とば)の三代の朝廷に仕え(注:平家物語、源平盛衰記による)、正四位上に叙せられ、播磨(はりま)守・伊勢守・備前(びぜん)守などを歴任し、検非違使・左衛門大尉となった(注:系図による)。大治年間、山陽道・南海道の二道に海賊が起こると、忠盛は勅命を受けてこれを捕らえた(注:朝野群載による)。
¶長承元年、鳥羽上皇が得長寿院(とくちょうじゅいん)を創建すると、忠盛に土木の事を取り仕切らせる勅命が下った。その功により但馬(たじま)守に任じられた。まもなく刑部卿に抜擢され、内昇殿を許された。上皇の寵遇は日に日に厚くなり、これを妬んだ公卿たちは密かに相談して忠盛を陥れようと謀り、豊明節会(とよあかりのせちえ)の日を期して事を起こそうとした。
¶忠盛はこれを聞いて言った。「わが家は身分こそ低いが、代々武人の家系である。ひとたび辱めを受ければ、家の名声を大きく損なう。かといって避けて参内しなければ、臆病者との謗りを受けるおそれがある。身を全うして恥を免れるには、これが良策であろう」。そこで木刀を作らせ、銀箔を塗り、鞘巻のように室を飾って腰に佩き、家臣の平家貞(いえさだ)を従えた。忠盛が昇殿すると、暗がりに向かって刀を抜いて見せた。その光は氷のようであった。公卿たちは恐れをなし、謀は実行されなかった。
¶やがて宴で歌舞が次々と催され、忠盛に舞を奏でるよう命が下った。幕僚たちは調子を変えて「伊勢の瓶子は酢甕であるぞ」と歌った。忠盛は若い頃、伊賀(いが)と伊勢の間に住んでおり、世間ではその一族を「伊勢平氏」と呼んでいた。また忠盛は片目が細かったので、それにかこつけて嘲ったのである(注:「平氏」と「瓶子」は音が近く、「眇(すがめ)」と「酢甕」は国語で音が近い)。忠盛は憤慨し、宴が終わらぬうちに退出した。退出する際、刀を解いて主殿司に預けて去った。
¶その後、公卿たちは「忠盛は勅許を得ずに剣を帯びて殿上に上がり、勝手に兵衛を従えました。官籍を削り処罰すべきです」と奏上した。上皇は驚いて忠盛を召し、事情を問うた。忠盛は釈明して言った。「先ほど、私の家僮が公卿方に謀があると聞きつけ、その跡を追って参内いたしました。私自身は実のところ何も知りませんでした。罪は逃れようがございません。ただ、私が帯びていた刀はすでに主殿司に預けてございますので、どうかお調べの上、罪状をお定めください」。そこで刀を取り寄せて見たところ、木刀であった。上皇は感嘆して言った。「良将たる者の心構えは、まさにこうあるべきである。兵士が危難に赴くのもまた常のことだ。深く罪に問うには及ばない」(注:平家物語、源平盛衰記による)。
¶かつて白河法皇は常々勇士を選んで護衛とし、あるとき忠盛に「昔、小一条院(こいちじょういん)は源頼義(よりよし)を側近くに置き、片時もその側を離れさせなかった。今、そなたも朕の側を離れてはならぬ」と言った(注:藤原伊通(これみち)の意見、古今著聞集による)。
¶法皇には寵愛する姫があり、祇園社(ぎおんしゃ)の東南に別宮を建てて住まわせ、世間では「祇園女御」と呼んだ。法皇はしばしばそこへ通った。ある夜、忍んでお出かけになり、忠盛は北面の武士として供をした。折しも暗闇の中に急な雨が降り、行く手に鬼が現れた。頭髪は針を束ねたようで、体から光を放ち、明滅していた。見る者は皆恐れおののいた。法皇はこれを追い払うよう命じた。忠盛は進み出て射ようとしたが、鬼ではなく狐狸の変化ではないかと考え、生け捕りにするのがよいと思い直した。まっすぐ進んで捕らえてみると、それは一人の老僧であった。神社に灯明をともそうとして、麦稈を頭にかぶって雨をしのぎ、油差しを提げ、火種の器を持って火を吹いていたのだった。こうして事の真相が明らかになり、人々の心はようやく落ち着いた。法皇は忠盛の胆力と機知を称えた(注:平家物語、源平盛衰記による)。その後、この女御は忠盛に下賜された(注:平家物語による。源平盛衰記では忠盛に下賜された女性を兵衛佐局としているが、これは誤りであろう)。
¶法皇はかつて天下に殺生を厳しく禁じていた。あるとき加藤成家(なりいえ)という者が、鷹を飼って鳥を捕らえていた。検非違使庁に召し出されて取り調べを受けた。成家は自ら申し開いて言った。「私は刑部卿忠盛様の家来です。毎日新鮮な鳥を獲って女御様の御膳に供するのが務めで、もし怠れば直ちに重い罰を受けます。そもそも源平両家の家法では、いわゆる重科とは斬首を意味します。愚かで身分の低い私でも、朝廷に厳しい掟があることは存じております。しかし朝廷の掟を犯してもその罪はせいぜい禁獄や流罪にとどまりますが、源平の家法に背けばたちまち死罪となります。ですから、ただ死を免れる算段のためにこうしたまでで、他に考えはございませんでした」。この件が法皇の耳に入ると、法皇は笑って「そのような潔白な者は、放してやるがよい」と言った(注:古事談による)。
¶思うに、当時の武臣が権勢を頼んでほしいままに振る舞い、自ら生殺与奪の権を握っていながら朝廷もこれを制することができなかったのは、おおよそこのような有様であった。
¶忠盛は仁平三年に没した。享年五十八(注:忠盛についてのこれ以下は平家物語、源平盛衰記による)。子には清盛(きよもり)・経盛(つねもり)・教盛(のりもり)・家盛(いえもり)・頼盛(よりもり)・忠度(ただのり)がいる(注:源平盛衰記による。系図では家盛を清盛の弟、経盛の兄としている)。清盛・頼盛には別に伝がある。家盛は従四位下右馬頭であった(注:系図による。平家物語では右馬助としている)。
平經盛
¶平経盛(つねもり)は、和歌に巧みで、笛を吹くことにも優れていた(注:平家物語、源平盛衰記による)。久安年間に従五位下に叙せられ、保元・嘉応の間に次々と昇進を重ねて従三位に叙せられた。治承の初め、正三位に進み、太皇太后宮大夫に任じられ、ほどなく修理大夫を兼ねた。養和元年、参議に任じられた(注:公卿補任による)。
¶寿永二年、帝に従って西海に赴いた。壇ノ浦(だんのうら)の戦いで敗れると、ひそかに山に入って髪を剃った(注:東鑑による)。その後、海に身を投げて死んだ(注:平家物語による。源平盛衰記には、山に入って自ら刃に伏して死んだとある)。享年六十一。子には経正(つねまさ)・経俊(つねとし)・敦盛(あつもり)がいる(注:平氏系図による)。経俊は若狭(わかさ)守で、一ノ谷(いちのたに)で戦死した(注:平家物語、源平盛衰記による)。
平教盛
¶平教盛(のりもり)は、兄の清盛に特に厚く愛され、そのため六波羅の総門のそばに邸宅を構えて住んだ。世間ではこれを「門脇殿(かどわきどの)」と呼んだ(注:源平盛衰記による)。
¶久安四年、本府の奏請により左近衛将監に任じられ、ほどなく蔵人となった。仁平の初め、淡路守に任じられた。保元年間、左馬権頭を兼ね、大和守に遷った(注:公卿補任による)。平治元年、右衛門督藤原信頼(のぶより)が乱を起こすと、教盛は弟の頼盛らとともに官軍を率いてこれを攻め、信頼は誅殺された(注:平治物語による)。その功により越中守に任じられた(注:公卿補任、岡崎本平治物語による)。
¶永暦元年、常陸介に遷り、次々と昇進して正四位下に叙せられた(注:公卿補任による)。応保元年、右少弁平時忠(ときただ)の一件に連座し、皇弟憲仁(のりひと)親王を皇太子に立てようと謀ったとして官を奪われた(注:源平盛衰記による。この書では教盛を誤って頼盛としているが、今、山槐記・公卿補任によって訂正した)。翌年、能登守に任じられ、内蔵頭を兼ねた。仁安元年、春宮亮を兼ねた。高倉帝が即位すると、蔵人頭となり、参議に任じられ、正三位に叙せられた。養和元年、権中納言に任じられた(注:公卿補任による)。
¶寿永二年、帝に従って西海に赴いた。十一月、源行家(ゆきいえ)が兵を率いて播磨に至ると、教盛は重衡(しげひら)らとともに一万の兵を率いて室山(むろやま)で待ち構え、五つの陣に分かれ、教盛は後方に控えた。行家が至ると、四つの陣はわざと敗走を装い、行家が教盛の陣を突くと、教盛は兵を放って奮戦し、四陣が合流して包囲し、これを大いに破った(注:源平盛衰記、平家物語による)。首百八十級を斬り、ついに備前・播磨を回復した(注:源平盛衰記による)。
¶三年、宗盛(むねもり)らが帝を奉じて一ノ谷城に拠ったとき、叙位・除目を行い、教盛を正二位大納言に任じた。教盛は和歌を詠んだ。「今日までも(けふまでも)、あればあるとや(あればあるとや)、思ふらむ(おもふらむ)、夢中にも(ゆめのうちにも)、夢を見る哉(ゆめをみるかな)」。そしてついにこれを辞退した(注:平家物語、源平盛衰記による)。
¶帝が壇ノ浦で崩じると、教盛は自ら刃に伏して死んだ(注:醍醐雑事記、源平盛衰記による。東鑑では海に身を投げて死んだとしており、どちらが正しいかは分からない)。享年五十七(注:公卿補任による)。子には通盛(みちもり)・教経(のりつね)・業盛(なりもり)がいる。業盛は従五位下に叙せられ(注:平氏系図による)、一ノ谷で戦死した(注:平家物語、源平盛衰記による)。享年十七(注:源平盛衰記による)。次に忠快(ちゅうかい)・盛縁(せいえん)がいるが、いずれも僧となった(注:平氏系図による)。
平忠度
¶平忠度(ただのり)は熊野(くまの)で生まれ育ち(注:平家物語による)、膂力は人並み外れて優れ、勇猛の名は一時に鳴り響いた。また和歌にも優れ、藤原俊成(としなり)について学んだ(注:平家物語、源平盛衰記による)。官は正四位下に至り、左兵衛佐・薩摩守に任じられた(注:平氏系図による)。
¶養和元年、甥の重衡らとともに源行家を洲俣川(すのまたがわ)で破った。忠度の麾下は殺傷・捕獲するところ頗る多く、行家の子の行頼(ゆきより)を捕らえた(注:東鑑、源平盛衰記、吉季による。行頼の名は尊卑分脈による)。
¶寿永二年、源義仲(よしなか)が延暦寺に至った。足利義清(よしきよ)が丹波に至り、京師を犯そうとした。宗盛は諸将を分けて派遣し、忠度は兵を率いて義清を防いだ(注:玉海、吉記を参照した。平家物語では忠度が一千騎を率いて淀に赴いたとしているが、これは誤りである)。まもなく宗盛は諸将を呼び戻し、帝を奉じて四方に逃れた。
¶三年、源義経が一ノ谷を襲うと(注:平家物語、源平盛衰記による)、忠度はこのとき西門を守り、土肥実平(どひさねひら)を防いだ(注:平家物語による)。事は不意を突かれ、軍は大敗した。忠度は左右の三人とともに水辺へと走った。岡部忠澄(ただすみ)が十余騎を率いて大声をあげて迫った。忠度は「我は東国の兵である」と偽って言い、馬を躍らせて走った。忠澄が追い迫ると、忠度の従者がこれを遮って防いだ。忠澄はついに進んで忠度と組み合い、馬から落ちた。忠度は刀を抜いて三度刺し、わずかにその顎の下を傷つけた。忠澄の従卒が駆けつけ、背後から忠度を撃ち、右腕を斬り落とした。
¶忠度は自ら逃れられないと悟り、「そなた、しばし待て。私は仏の御名を唱えてから死のう」と言った。そして忠澄を引き寄せて一丈余り投げ飛ばし、帯を解いて甲冑を脱ぎ、西に向かって端座し、声高く仏名を唱えた。忠澄はひざまずいて姓名を尋ねた。忠度は言った。「そなたは何と愚かな。今この極みに至って、どうして姓名を告げようか。そなたが私を討ち取れば必ず重い恩賞を受けるであろう。早く我が首を斬れ」。忠澄はついに忠度を斬った。享年四十二。忠澄がその鎧を検めると、一巻の書物があり、日頃詠んだ和歌であった。その中に姓名が記されており、それによって忠度であると知れた。
¶そもそも忠度が鎮西に赴く前、淀から引き返し、ひそかに五条を訪れた。俊成に会って別れを告げ、一巻の書を差し出して言った。「忠度は教えを受けて以来、参上せぬ時はございませんでした。しかしここ数年、天下は騒然とし、京師も落ち着かず、たびたびお伺いすることができませんでした。今、天子は都を離れられ、わが家の禍いもまさに及ぼうとしております。聞けば公は勅命を奉じて歌集を撰しておられるとのこと。ひそかに願わくは、忠度もまた公のご庇護によって一首なりとも留めていただきたく存じます。思いがけずこのような事態に至りました。もし世が太平に治まれば、必ずその機会もございましょうが、卷の中に採録され一首でも載せていただけるなら、死する日といえども、なお生きる年に等しいものです」。俊成は涙をぬぐって承諾し、忠度は喜んで礼を言って退出した。俊成が千載集を撰するにあたり、「故郷の花」の一首を取って載せた。しかし朝議を憚って、姓名は記さなかった。人々はこれを惜しんだ(注:平家物語、源平盛衰記を参照した)。子に忠行(ただゆき)といい、八田蔵人(はったのくろうど)と号した者がいる(注:平氏系図による)。
平經正
¶平経正(つねまさ)は和歌に巧みで、琵琶を弾くことにも優れていた。幼くして仁和寺(にんなじ)に入り、守覚法親王(しゅかくほっしんのう)に仕えた。法親王はたいそう経正を可愛がり、自ら愛用する琵琶で「青山(せいざん)」という名器を与えた(注:平家物語、源平盛衰記による)。朝廷に仕えては皇后宮亮となり(注:源平盛衰記による)、但馬守となって正四位下に進んだ(注:平氏系図による)。
¶帝が西へ都落ちするに及び、経正は琵琶を携えて仁和寺に詣で、法親王に謁見し、数曲を弾いて別れを告げた。聴く者で涙を流さぬ者はいなかった。弾き終えると、琵琶を法親王に返して言った。「この楽器は昔頂戴いたしましたもので、常に生涯大切にしたいと願っておりました。しかし今、遠く別れ、我が身が西海で果てれば、この楽器もまた失われてしまいましょう。それゆえお返し申し上げます。いつの日か乱が治まり、再びお目にかかることができましたなら、どうかまた賜りますように」。法親王は涙を流すばかりで答えることができなかった。経正はついに和歌を詠んで辞去した(注:平家物語、源平盛衰記による)。
¶寿永三年、一ノ谷城が陥落した。経正は大蔵谷(おおくらだに)を走り過ぎたところ、敵兵の庄高家(しょうのたかいえ)が大声で叫んだ。「敵を見て逃げるとは、平家の公達ではないか。来たれ、我と勝負を決せよ」(注:この書では「庄」を「城」としているが、今これを訂正した)。経正は振り返って「あえて逃げているのではない。お前は我が相手ではない」と言った。高家は怒って急に迫ったので、経正は逃れられないと悟り、馬を下りて刀を引き抜き、自ら腹を切って死んだ(注:源平盛衰記による。諸本の平家物語では、経正は川越重房(しげふさ)に討たれたとする。八坂本では佐々木高綱(たかつな)、南都本では成田五郎(なりたごろう)とする。どれが正しいかは分からない)。経正にはわずか六歳の子がいたが、平氏一族が滅びると、六条河原で斬られた(注:長門本平家物語による)。
平敦盛
¶平敦盛(あつもり)は従五位下に叙せられた。官職を持たなかったので、世間では「無官大夫(むかんのたいふ)」と呼んだ。一ノ谷城が陥落すると、平氏は一族こぞって舟に乗って逃れたが、敦盛は一人遅れ、単騎で水辺に向かった。従兄の知盛(とももり)の船が海に一町ほど入っていくのを望み見ていたところ、源義経の麾下の熊谷直実(くまがいなおざね)が馬を馳せて大声で叫んだ。「そなたは平氏の大将ではないか。我は天下第一の剛の者、熊谷直実である。引き返して勝負を決せよ」。敦盛は轡を返して水辺に至り、直実と組み合い、馬から落ちて転げ合った。直実がその上に乗り、膝で鎧の袖を押さえ、刀を抜いて首を斬ろうとした。ふと見下ろすと、その顔はしとやかな美少年であった。直実は心中これを哀れみ、刃を下すに忍びず、その姓名を尋ねた。敦盛は「ただ早く斬れ」とだけ言った。直実は「姓名も分からぬまま雑兵の中に紛れさせては、かえって辱めではないか」と言った。敦盛はそこで実を告げ、ついに討たれた(注:平家物語、源平盛衰記による)。享年十六(注:源平盛衰記による)。
平通盛
¶平通盛(みちもり)は、初め名を公盛(きみもり)といった。永暦元年、蔵人に補せられ、従五位下に叙せられた。長寛・治承の間、次々と昇進して正四位下越前守となり、中宮亮を兼ね、従三位に叙せられた(注:公卿補任による)。
¶養和元年三月、重衡らとともに兵を率いて源行家を洲俣(すのまた)で撃ち、これを敗った(注:吉記、東鑑、平家物語、源平盛衰記による)。八月、通盛は但馬守経正とともに兵を率いて義仲を撃った。通盛が越前国府に至ったとき、義仲の兵勢がたいへん盛んであったので、使者を遣わして援軍を乞うた(注:吉記による)。通盛は経正が来て共に進むのを待とうとしたが、経正は若狭に兵を留めたまま逗留し、至らなかった(注:玉海による)。
¶九月、通盛は兵衛尉清家(姓は不詳)を将として加賀に赴かせた。折しも加賀の人、稲津実澄(いなづさねずみ)らが叛いて義仲に応じ(注:稲津の名は尊卑分脈による)、陣営の背後から襲ってきた。国府の兵は少なく、通盛は麾下八十余人を率いて出て戦ったが、支えきれず、敦賀(つるが)に退いて守りを固め(注:吉記による)、さらに援兵を請うた(注:玉海による)。朝廷は行盛(ゆきもり)・忠度を援軍として遣わしたが(注:百錬抄による)、北国の兵が攻め寄せ、城は支えきれなかった。十一月、軍を京師に返した(注:吉記による)。
¶寿永三年二月、通盛は教盛に従って備中下道(しもつみち)にいた。この時、讃岐の庁の兵二千余人が叛いて京師に向かおうとし、道すがらその陣営を襲った。教盛は通盛・教経に命じてこれを撃たせた。庁の兵は淡路に逃げ走り、通盛は教盛とともに急ぎ攻めてこれを殲滅した。さらに伊予(いよ)に進んで河野通信(こうのみちのぶ)を攻めようとし、四国に赴いた。教経は讃岐の産島(うぶしま)の行宮に至り、通盛は阿波(あわ)の花苑(はなぞの)に至った。通信は恐れて安芸(あき)に逃げた。
¶一ノ谷城が陥落すると、通盛は湊川(みなとがわ)を走り過ぎたが、佐々木俊綱(としつな)が追いついた。通盛は力戦して死んだ(注:平家物語、源平盛衰記による。俊綱の名は東鑑による。この書では成綱としている)。
平教經
¶平教経(のりつね)は、初め名を国盛(くにもり)といった。正五位下に叙せられ、能登守に任じられた(注:平氏系図による)。
¶寿永二年、平氏が山陽道・南海道を回復すると、源義仲は将の足利義清・海野幸広(うんののゆきひろ)を遣わして攻めさせ、軍は備中(びっちゅう)の水島(みずしま)に至り、屋島(やしま)を犯そうとした。宗盛は重衡・通盛・教経を遣わし、大いに水軍を率いてこれを防がせた。敵は七千余騎で、夜明け前に出発した。教経は士卒を激励し、軍船二百艘を纜(ともづな)で繋ぎ合わせ(注:源平盛衰記では一千余艘とする)、板を渡して進退の便を図り、船の中は平らな大路のようであった(注:平家物語による)。
¶時を定めて合戦となり、教経は弓に優れ、自ら接戦して敵将高梨高信(たかなしたかのぶ)以下十三人を射殺した(注:源平盛衰記による)。折しも日食で空が暗くなり、東西の判別がつかなくなったため、敵は大敗して逃げ去った。
¶翌年、教経は父に従って備中下道にいた。讃岐の庁の兵が来襲すると、教経は大いに怒って言った。「これは奴輩である。昔は我が馬に秣を与え水を飲ませていたくせに、今にわかに源氏に帰服し、我が陣営に矢を射かけるとは、実にけしからぬことだ。すべて討ち滅ぼしてくれよう」。そこで軽舟に乗り、兄の通盛とともに徹底的に追撃した。庁の兵は淡路に逃げ、源義嗣(よしつぐ)・源義久(よしひさ)を頼った。教経兄弟はついに淡路に至り、一昼夜攻め立てて義嗣を斬り、義久を捕虜にした。残党は逃げ散ったが、ことごとく追ってこれを滅ぼした。首一百三十二級を獲た(注:平家物語、源平盛衰記を参照した。保暦間記では一百六十級とする)。福原(ふくはら)に戦勝を報じた。
¶さらに河野通信を攻めようとし、通盛と道を分かって四国に赴いた。教経は屋島の行宮に至り、通信は安芸に逃げて沼田次郎(ぬまたのじろう)と合流した。教経は進んでこれを破った。通信は伊予に逃げ帰り、沼田次郎は窮して降伏し、これを捕らえて連れ帰った。
¶教経はまた、「義嗣の一党である淡路の人、安摩宗益(あまのむねます)が、その徒党を率いてひそかに京師に赴こうとしている」と聞き(注:平家物語、源平盛衰記による。「阿摩」は諸書によって「阿間」とも、また「天野」とも書かれ、「宗益」は「宗員」「宗景」とも書かれる)、百五十騎を率いて西海の海上でこれを迎え撃った。宗益は進むことができず、退いて和泉(いずみ)の吹井浦(ふけいのうら)に舟を泊めた。その一党である紀伊(きい)の人、園部重茂(そのべしげもち)が来てこれと合流しようとし(注:重茂は平家物語では忠康とする)、ともに京師に赴こうとした。教経はさらに紀伊に至ってこれを撃破し、首三十六級を獲た(注:源平盛衰記による。平家物語には、園部忠康はすでに阿康忠景と合流しており、教経は和泉でこれを撃ち、首一百三十級を獲たとあるが、どちらが正しいかは分からない)。またもや福原に戦勝を報じた。
¶豊後(ぶんご)の人、緒方惟能(おがたこれよし)・海田宗親(かいだむねちか)(注:海田宗親は源平盛衰記による)・臼杵維高(うすきこれたか)が、それぞれの手勢を率いて今木城(いまきじょう)に拠り、通信もまた伊予からそこへ赴いて合流した。教経は兵二千余騎を率いてこれを攻め(注:平家物語では三千余騎とする)、一昼夜でこれを陥落させた。惟能・通信は敗走し、教経は福原に帰った。
¶源義経が一ノ谷を攻めようとし、まず三草山(みくさやま)に至った。資盛(すけもり)・有盛(ありもり)らは兵を率いてこれを防いだが、夜、義経に襲われ、軍を捨てて逃げた。宗盛はさらに兵を遣わしてこれを防ごうとし、使者を送って諸将を督促したが、諸将はみな尻込みした(注:平家物語、源平盛衰記による)。
¶宗盛は教経に言った。「三草の防戦は難儀している。先に平盛俊(もりとし)を遣わして軍務を統率させたが、兵士はなお主将なきことに苦しんでいる。これをどうしたものか。そなたが赴いて方策を示し、軍士を激励してもらいたい」。教経は答えた。「軍に臨んで敵に対する者は、たとえ自ら先頭に立とうとも、時には躓くこともございます。まして諸将は困難を避けて安逸につこうとしております。このようなことで勝利を収めようとしても、私には理解できません。もし身を全うしたいのであれば、戦場に赴かないほうがましというものです。諸将が難しいとする所へ、私は軽々しく赴くまでのこと。公はどうかお気になさいませんように」。そしてついに三草に赴き、山の麓に陣を張った。
¶二、三頭の驚いた鹿が飛び出してきたので、教経は士卒に言った。「鹿は野の獣であるから、人を恐れて逃げ隠れるはずだ。今ここに来たということは、思うに敵兵がひそかに襲おうとしているのだろう。お前たち、警戒を怠るな」。果たして義経は精鋭数千を率いて夜明けにわかに攻め寄せ、軍は大敗し、諸将の多くが命を落とした(注:源平盛衰記による)。
¶宗盛はまた帝を奉じて屋島に移った。四年、義経が屋島を攻めると、宗盛らは舟に乗ってこれを避けた。海と陸とで矢を射交わす戦いとなり、宗盛は特に教経を岸に登らせてこれを防がせた。教経は決死の兵三十余人を率い、船を返して上陸し、矢を放って力戦し、敵兵は多くが死傷した。義経の麾下、佐藤継信(さとうつぐのぶ)が矢に当たって馬から落ちると、教経の家僮菊王(きくおう)が進んでその首を斬ろうとしたが、継信の弟の忠信(ただのぶ)がこれを射殺した。忠信の従卒が菊王の首を取ろうとしたので、教経は菊王を引っさげて船に投げ入れた。やがて日が暮れ、義経は牟礼(むれ)高松に陣を退いた。
¶その夜、教経は義経を襲おうとしたが、江見守方(えみのもりかた)と平盛嗣(もりつぐ)が先鋒を争って夜明けまでもつれ、そのため果たせなかった。教経は夜明けに攻め寄せた(注:平家物語、源平盛衰記による)。盛嗣・景清(かげきよ)以下の精鋭が、それぞれ短い得物を手に縦横に駆け回り、必死でこれに当たったので、敵兵はやや怯んだ。教経は別に兵二十人を率い、矢を放ってこれを防いだが、騎馬と徒歩とでは敵わず、舟を返して退いた(注:源平盛衰記による)。
¶壇ノ浦の戦いに敗れると、東国の兵は日頃から教経の勇猛の名を聞いていたので、我先にとこれを討ち取ろうとした。教経は身を挺して血戦し、遠くの者は射殺し、近くの者は組み討って海に投げ込んだ。従兄の知盛は教経が奮戦してやまないのを見て、これを止めて言った。「大勢はすでに決した。君は自らの身の処し方を考えるべきで、そのようにいたずらに多く殺すことはない。彼らは皆雑兵に過ぎず、相手にするに足りない」。
¶教経はそこで義経と刺し違えて死のうとした。折しも義経の舟が教経の舟をかすめて通り過ぎたので、教経は兜を脱ぎ、鎧の袖を外し、その舟に躍り込み、振り返って義経を探した。義経は自ら敵わないと悟り、人々の中に紛れて避けた。教経はついに義経を見つけ、大声で自ら名乗り、進んで組み討とうとした。義経の従士が前に立ちはだかったので、教経はこれを蹴り倒した。義経はその隙に別の船に移った。教経は膂力こそ人に抜きん出ていたが、身の軽やかさは義経に及ばず、そのため取り逃がした。
¶敵兵の安芸時家(あきのときいえ)(注:平家物語では実光とする)が、配下の力士二人とともに一斉に進んでこれに当たった。教経はその一人を蹴って海に落とし、残る二人を両脇に抱えたまま、ついに海に沈んだ(注:源平盛衰記による。平家物語も参照した)。享年二十六(注:平家物語による。源平盛衰記の一説、および醍醐雑事記では、自ら刃に伏して死んだとするが、どちらが正しいかは分からない。東鑑では、一ノ谷の戦いで教経は遠江守安田義定(やすだよしさだ)に捕らえられ、諸将の首とともに京師に送られ、獄門に梟されたとする。平家物語・盛衰記はいずれも、翌年壇ノ浦で戦死したとする。玉海の寿永三年二月十九日の記事を按じると、教経が存命であったとする説が載っている。醍醐雑事記が壇ノ浦で戦死した諸将を列挙する中にも、教経の名がある。これによれば、義定に捕らえられたのは、本物の教経ではないことが明らかである)。