卷之一百四十六 列傳第七十三

藤原忠實、藤原忠通、藤原基實、藤原基房ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 藤原忠實
  2. 藤原忠通
  3. 藤原基實
  4. 藤原基房
  5. 源雅實
  6. 源雅定

藤原忠實

藤原忠実(ふじわらのただざね)は、関白藤原師通(もろみち)の長男である(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。祖父の師実(もろざね)がその子として養った(注:出典は尊卑分脈・台記・金鏡)。寛治年間、位階を重ねて正三位に進み、権中納言に任じられ、左近衛大将を兼ねた。承徳元年、権大納言となった。康和元年、太政官の文書を内覧するよう勅を受けた。翌年、右大臣を拝命し、東宮傅を兼ねた。長治年間、関白となった(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。

鳥羽帝の即位に際し、藤原公実(きんざね)は外戚の恩を頼み、摂政の地位を望んで法皇に願い出た。法皇の心も動いたが、院別当の源俊明(としあきら)が機敏に立ち回ってこれを止めたため、忠実は事なきを得た(注:出典は愚管抄)。そこで改めて忠実が摂政となったが、その経緯は俊明の伝に記す(注:出典は公卿補任・愚管抄)。天永三年、右大臣を辞し、まもなく従一位に進み、太政大臣を拝命した。永久初年、関白となった(注:出典は公卿補任・中右記)。

忠実はかねて牛車の使用を許されていたが、長らく乗らずにいた。のちに初めて乗り、朝廷を退出したのち人に語って言った。「御堂殿(みどうどの、藤原道長)が牛車を許されたのは、齢がほぼ極まってからのことだった。宇治殿(頼通)や大殿(師実)も、ともに四十一のときに賜っている。私は早くからこの宣旨を受けていたが、驕り高ぶることを深く恐れて、あえて乗らずにいたのだ。いま私もまた四十一になった。先例にならったまでのことだ」と(注:出典は中右記)。

かつて法皇は忠実に、娘の泰子(たいし)を帝の後宮に入れるよう勅したが、忠実は固く辞退した。法皇は怒り、藤原公実の娘の璋子(しょうし)を養女として代わりに入内させた。帝が幼かったころ、その振る舞いは軽々しく落ち着きがなく、あるとき小弓で人を射るようなこともあったため、忠実はこれを憂えていた。成長するにつれて行いはやや良くなっていったので、忠実は泰子を入内させなかったことを悔いた。保安元年、法皇が熊野に行幸した。帝は忠実に泰子の入内を命じ、婚礼の支度もすでに整っていた。ところが法皇はこれを聞いて大いに怒り、忠実を叱責して内覧を停止した(注:出典は古今著聞集)。忠実は宇治に退いて門を閉ざし外に出ず、歌を詠んで自らの身の上を嘆いた(注:出典は今鏡)が、祖先の神に祈って内覧の職に復した(注:出典は古今著聞集)。

法皇は忠実の長男の忠通(ただみち)に代わって関白を務めさせた。忠通はこれに背かず職に就いたが、なお父の罪を許すよう願い出た(注:出典は愚管抄)。翌年、忠実は内覧に復し、まもなく上表して辞職した(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。法皇はそこで忠通を関白とし、忠実を厳しく抑えつけた。

大治四年、法皇が崩御した。忠実はもとより鳥羽上皇の意にかなっており、かつて上皇に奏上して言った。「臣は帝の怒りに触れ、長く朝参を止められておりました。しかし忠通に政をとらせたところ、その栄誉と寵愛はまことに厚いものとなりました。願わくは来年正月の拝礼の日に、朝廷に参内して忠通の上座に座ることをお許しください」と。その日になって参内すると、公卿の席次はまだ定まっておらず、忠実は脚の病のため長く立っていられないと称して、一人だけ拝礼して退出した。関白以下の者たちがこれを助け起こした。当時の人々はこれを名誉なことと見なした(注:出典は愚管抄)。

長承元年、あらためて内覧の宣旨を受けた(注:出典は公卿補任)。人々はこれを怪しまぬ者はなかったが(注:出典は歴代皇紀)、まもなく上皇はついに泰子を入内させた(注:出典は今鏡・愚管抄)。保延六年、准三宮となり、食邑三千戸を賜り、輦車の使用を許された。これはすべて忠仁公(藤原良房)の先例に倣ったものである。忠実は上表してこれを辞退した(注:出典は公卿補任)。忠実は年老いて歩行がひどく困難になり、参内のたびに、あるいは輿に乗り、あるいは円座に座って人に引かせた(注:出典は今鏡)。剃髪して名を円理と改め、宇治に住んだ(注:出典は公卿補任)。世に富家殿(ふけどの)と称された(注:出典は尊卑分脈)。

忠実は次男の頼長(よりなが)をこの上なく愛し、その才は重用に堪えるものだと考えて、律令格式や叙位除目に関わる官奏の秘記のすべてを頼長に授けて言った。「これらは祖先から伝わる遺産であり、本来ならば忠通に伝えるべきものだ。しかし彼はすでに摂政の地位にあり、細かな実務にまで関わるべきではない。それにお前には男子が二人いる。我が家を継ぐのは必ずお前だろう」と。

久安年間、頼長の養女の多子(たし)が女御となり、忠通の養女の呈子(ていし)もまた入内し、両者はともに后の位に就こうと争った。頼長は忠実に告げて、多子のために強く働きかけるよう求めた。忠実はたびたび法皇に奏上したが、うまくいかなかった。忠実と頼長は忠通がこれを妨げていると考え、大いに怒った。奏請をやめずに続けた結果、ついに多子が后に立てられた。これより忠実は忠通を疎んじ、内覧の職を頼長に譲るよう命じた。忠通は黙って何も答えなかった。忠実は法皇に、忠通を諭してほしいと願い出た。忠通は上書して、それは道理に合わないと述べた。法皇はその上書を忠実に見せた。

忠実は大いに怒り、左衛門尉の源為義(ためよし)を呼び寄せ、兵を御倉町に屯させて東三条邸を守らせた。そして頼長に言った。「摂政は親不孝者だ。私は怒りを長らく蓄えてきた。それでも我慢して口にせず、たびたびお前のために内覧の職を求めてきた。ところが彼は従おうとせず、その言葉はすでに不遜であった。いま私は心を決めた。父子の縁を絶つ。摂政は天子から授かる職であり、私が奪うことはできない。しかし氏長者は私が譲るものであって、もとより勅によって授けられるものではない。彼から奪ってお前に与えることに、何のはばかりがあろうか」と。そして源仲行(なかゆき)・頼賢(よりかた)・仲賢(なかかた)を忠通の邸に遣わし、朱器台盤(しゅきだいばん)を奪わせた。朱器台盤とは藤原家の重宝であり、代々氏長者に伝えられてきたものである。頼長はいさめつつも辞退したが、聞き入れられなかった。頼賢が忠実に「蔵の鍵が手に入りません」と言うと、忠実は色をなして「なぜ錠を破らないのか」と言った。頼賢は蔵のそばで鍵を一つ手に入れ、ついに朱器台盤を取り出した。忠実は大いに喜び、これは天が与えたものだと考えて、すべてを頼長に授け、氏長者とした。

さらに法皇に上書して忠通の罪を訴えた。まもなく忠通の邸地・荘園を奪い、これを法皇に献上した。久安六年、忠実は母の喪に服したが、忠通にはその喪事にあずからせず、こう言った。「およそ家に凶事があれば、嫡長子の衰日を避けるものである。忠通はすでに我が子ではないのだから、その衰日を避ける必要はない。頼長の衰日を避けるべきである」と。ついで頼賢を忠通の邸に遣わし、師実・師通の記した二つの日記を取り上げた。そして法皇に願い出て、頼長を内覧とした(注:出典は台記)。

頼長のおごりと勝手な振る舞いは日ごとにひどくなり、法皇はこれをかなり嫌うようになった。近衛帝が崩御し皇嗣を議するに至って、法皇はもっぱら忠通にのみ相談し、二度と忠実・頼長を召すことはなかった(注:出典は愚管抄)。後白河帝が即位し、皇子の守仁(もりひと)を皇太子とした。忠実は頼長をその傅役にするよう願い出たが、法皇は聞き入れなかった(注:出典は台記)。

保元元年、法皇が崩御した。崇徳上皇が兵を挙げ、頼長がその謀主となった。まもなく兵は敗れ、頼長は流れ矢に当たった。忠実は大いに恐れ、頼長の子の兼長(かねなが)・師長(もろなが)・隆長(たかなが)を奈良へ逃がし、禅定院に住まわせた。そして宇治橋を断ち切り、僧の尋範(じんぱん)・千覚(せんかく)や源頼兼(よりかね)らに、寺の僧や郡の民を募らせて官軍に抵抗させた。忠通の子で興福寺別当の慧信(えしん)を殺害しようと謀ったが、慧信は京へ逃れた。頼長は傷を負って病み、ほとんど死にかけていた。橘俊成(たちばなのとしなり)が急ぎ忠実に告げ、一目会ってほしいと願ったが、忠実は涙を払って言った。「氏長者たる者が矢や刃で命を落とすことなど、あってよいはずがない。私はこの薄命な子に会うのは忍びない。帰ってわが子に伝えよ、お前の思うようにするがよい、二度と私に知らせ聞かせるな」と。俊成が戻って報告すると、頼長はすでに死んでいた。忠実は悲しんで泣きながら言った。「私は常々彼が摂関となり、百官の模範となることを期待していた。まさかこのようなことになろうとは思わなかった」と。

朝廷の議論では忠実を配流に処すべきだとされたが、忠通が強く嘆願してその赦免を得た。忠実はこれを聞いて嘆いて言った。「関白がここまで私を思ってくれるとは思わなかった。彼を長年疎んじてきたことを悔いる」と。そこで帝に誓書を献じ、悪心のないことを明らかにした。忠通は人を遣わして忠実を迎えようとしたが、忠実は病と称して出てこなかった。忠通はさらに子の基実(もとざね)を遣わして朝廷の意向を伝えさせた。こうして忠実は奈良を出て知足院に移り住んだ(注:出典は保元物語)。

応保二年、薨去した。享年八十五(注:出典は公卿補任・歴代皇紀・尊卑分脈)。著述には『乾鈔』十巻がある(注:出典は仁和寺書籍目録)。その日記は『知足院関白記』という(注:本書による)。忠実は容貌が豊かで美しく、声も清らかで朗らかであった。音楽を好み、箏を巧みに弾き、その奥義を師長に授けた(注:出典は今鏡)。『万秋楽』の秘説は忠実から伝えられたものとして、世に特に重んじられた(注:出典は体源抄)。子に忠通・頼長がいる(注:出典は尊卑分脈)。頼長には別に伝がある。

藤原忠通

藤原忠通(ただみち)は、嘉承・天永年間に位階を重ねて正一位権中納言に進んだ。永久三年、権大納言に転じ、内大臣となった。元永二年、左近衛大将を兼ねた。保安二年、太政官の文書を内覧し、まもなく関白となった(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。

かつて白河法皇は、泰子(たいし)の一件によって忠実を責め咎め、輔臣を交代させようとして密かにその人材を求めたが、忠通に及ぶ者はいなかった。そこで召し寄せて諭して言った。「俗にいう、『父は父、子は子』とな。父の罪が、子に何のかかわりがあろうか。卿が政をとるがよい」と。忠通は言った。「父が罪を得て廃されたのに、子がその赦免を願い出ることもせず、代わってその地位に就くのは、孝とは申せません。それに私の家は、代々この職を汚れながらも務めてまいりました。ですから職の授受には、それにふさわしい儀礼というものがございます。どうか忠実をお赦しいただき、その後に私が職に就くことをお許しください。そうすれば家の内の礼にも、欠けるところがなくなりましょう」と。法皇は感じ入ってこれを聞き入れた(注:出典は愚管抄)。

三年、従一位に進み、左大臣を拝命した(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。邸を皇居の近くに移し、参内するときは必ず他の公卿より先んじた。帝が忠通を召して政務を諮問するたびに、忠通は先例を条目ごとに挙げ、その典拠は明確であったので、法皇は特に彼を重んじた(注:出典は愚管抄)。崇徳帝の即位に及んで摂政の詔を受けたが、その儀礼はすべて忠仁公(藤原良房)の先例に倣った(注:出典は公卿補任)。大治三年、太政大臣を拝命した。翌年、また関白となった。近衛帝の即位に及んでは、再び摂政となった(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。

天養元年、勅により大和国を賜った。忠通が人を遣わして国内を検注させると、興福寺の僧徒が大いに反発してこれを拒んだ。翌年、さらに石見国を賜った。忠通はもとより備前・伊賀の二国を知行していたので、これに至って三国を併せ領することとなった。四年、頼長の長男の兼長(かねなが)が右近衛権少将に転じた。これより先、忠通は兼長を養って子としており、この年、侍従に任じられ正五位下に叙されていた。まもなく忠実が転任を奏請すると、法皇は「以前すでに奏上を許可しているのに、遅れているのはおかしい」と言った。忠実はそこで忠通に書状を送って責めたが、忠通は内心穏やかではなかった。少将に転じたとき、頼長が書状を奉ってこれに謝意を示した。忠通は返書に「めでたいことだ。ただ、そなたが引き延ばされたことを不満に思っているというなら、何の礼を言うことがあろうか」と記した。そして母の師子(もろこ)に「今後は、兼長の叙任や昇進のことには関わらない」と言った。頼長はさらに皇嘉門院の御匣(みくしげ)を介して謝意を伝えたが、忠通は聞き入れなかった。忠実はこれを聞いて忠通を恨んだ(注:出典は台記)。

五年、太政大臣を拝命した。太政大臣に再度任じられるのはここに始まる。六年、これを辞任した。ついで摂政も辞し、関白となった(注:出典は公卿補任)。

忠実は頼長を愛し、忠通を憎んでいた。頼長は内心内覧の職を望んでおり、忠実は忠通に「お前は内覧の職を頼長に伝えるべきだ。いずれ頼長はまたお前の子孫に返すだろう」と告げた。忠通は応じなかった。忠実は法皇に「どうか忠通を召し諭して、彼の本心を吐かせてください」と願い出た。法皇はそのことを忠通に告げた。忠通は申し上げた。「頼長はその性質が凶悪で険しく、もし彼が幼い主君を補佐するようなことになれば、天下はその禍を被ることになりましょう。しかしこのことを忠実が聞けば、必ず怒って私を責めるでしょう。私が父に従おうとすれば、君に対して不忠となります。忠と孝とを両全させることは難しく、それゆえ私ははばかって直接お答えすることができないのです。ただ、内覧の職のようなものは、むしろ公のものとして朝廷が収めるべきであって、私が私的に譲るべきものではないと申し上げます」と。法皇はこれを忠実に告げた。忠実は案の定大いに怒り(注:出典は愚管抄)、兵士に命じて朱器台盤を奪わせ、すべてを頼長に授けて氏長者とした。そしてついに忠通との縁を絶ち、その邸地・荘園を奪い取った。忠通はこれを意に介さず、いつも通り参内を続けた(注:台記・愚管抄を参考にまとめたもの)。頼長はこれをそしって「氏長者の地位を失ったのに、振る舞いがなおこのようであるとは」と言った。

忠通は嫡子の基実(もとざね)に元服の冠を加えようとし、諸国に命じてその費用を用意させ、それによって氏長者の地位を取り戻そうとしたが、事は結局立ち消えとなった。まもなく基実が元服し、次男の基房(もとふさ)が袴着の儀を行ったが、公卿で参会する者はなく、ただ藤原宗能(むねよし)・忠基(ただもと)・経定(つねさだ)がその事にあずかっただけで、叙位や昇殿の宣旨もなかった。それでも崇徳上皇と皇嘉門院は特にその邸を訪れた(注:出典は台記)。

帝は頼長の驕り高ぶった勝手な振る舞いを憎み、忠通を最も信頼するようになった。仁平元年、元日の節会で頼長が内弁を務めたが、帝は臨席しなかった(注:出典は台記・愚管抄)。翌日、帝が法皇のもとに参上した際、忠通も供をしたが、法皇は忠通に何も言葉をかけなかった(注:出典は台記)。帝が頼長を憎むのは、すべて忠通の仕業だと考えられていたのである(注:出典は台記・愚管抄)。まもなく頼長が内覧となると、法皇は藤原公教(きんのり)を遣わして忠通に告げさせた。「頼長を内覧としたのは、実は朕自身の考えによるものであって、忠実の言葉によるものではない。それに、卿が帝に不孝を教えたということについては、朕は深くこれを憎んでいる」と。

三年、帝が眼病を患い、雅仁(まさひと)親王の長男の守仁(もりひと)に譲位しようとした。忠通は帝の意を受けて法皇に奏上したが、法皇は聞き入れなかった。ある日、法皇は忠実に言った。「忠通は幼い主君を立てて権勢を思うままにしようとし、帝に譲位を勧めている。そのうえ朕が聞き入れないことを恐れて、帝に病と称させているのだ。彼の意図はこのようなものであり、天下はこれから次第に乱れるだろう」と。忠実は退出して頼長に告げた。「忠通の愚かさもはなはだしいものだ。もし親王の子を即位させれば、親王が必ず権力を専らにするだろう。彼にどうして関与する余地があろうか」と。忠通が繰り返し奏請すると、法皇は「事は重大にかかわる。朕は忠実と相談しよう」と言い、忠通はそこで奏請をやめた(注:出典は台記)。

頼長のおごり高ぶりは日ごとにひどくなり、法皇の側近たちを侮辱するまでになった。法皇は次第にこれを疎んじ、ようやく忠通の言葉を信じるようになった(注:出典は愚管抄)。

久寿二年、帝が崩御したが、後継ぎがいなかった。当時の人々は重仁(しげひと)親王に期待を寄せていたが、美福門院はこれを忌み嫌い、雅仁親王を立てようとした(注:出典は保元物語)。法皇は「雅仁は年長ではあるが、性質が軽々しく落ち着きがなく、皇統を継ぐにはふさわしくない」と言った。そこで誰を立てるべきか選ぼうとして、忠通を召して相談した。忠通は「皇位はこの上なく重いものです。私がどうしてみだりに申し上げられましょうか」と言った。法皇がなおも強く問うたが、忠通は答えなかった。法皇が「朕は卿の言葉を、大神宮からの神のお告げのように聞こう」と言うと、忠通はようやく言った。「そこまで仰せになるのでしたら、私も愚見を尽くさぬわけにはまいりません。四宮(しのみや)はいま親王であられ、御年すでに二十九であります。私はこの方を立てるのがよいと存じます」と。法皇は「よかろう」と言った。こうして皇嗣が定まり、四宮とはすなわち雅仁親王のことで、これがのちの後白河帝である(注:出典は愚管抄)。忠通は以前のように関白であり続けた(注:出典は公卿補任)。

これより先、頼長が権力を握って政を専らにし、忠通はただ官位にあるだけであったが、ここに至って忠通は奏上した。「陛下が親しく天下に臨まれ、綱紀を振るい整えられるからには、政の権を分けるべきではありません。もし私の才が用いるに足らないのであれば、どうか関白の職を罷免し、頼長にお授けください。そうでなければ、内覧と氏長者の地位は、もとより私に属すべきものであります」と。帝はこれを是とした。まもなく戦乱が起こり、頼長は戦って死んだ(注:出典は保元物語。帝がこれを是としたという部分は異本による)。忠通は再び氏長者となった(注:出典は公卿補任・保元物語)。

忠実は頼長に連座して配流に処されるべきところであったが、忠通は藤原通憲(みちのり)を通じて奏上して言った。「忠実がもし配流に処されるようなことになれば、私はどのような顔をして朝廷に立てましょうか」と。帝はそのために忠実を赦免した(注:出典は保元物語)。

二条帝が即位するに及んで、忠通は関白を辞し、子の基実がこれに代わった。忠通は仏教を好み、天台の教義に最も通じ、あわせて真言の教えも学んだ。法性寺のかたわらに別邸を造ったので、世に法性寺関白と称された。また桂の別邸にも往来し、詩歌を楽しみにしながら悠々自適に晩年を過ごした(注:出典は今鏡)。応保二年、剃髪して名を円観(えんかん)と改めた。長寛二年、薨去した。享年六十八(注:出典は公卿補任)。その日記は『法性寺関白記』という(注:本書による)。

忠通は人柄が寛大で温厚であり、喜怒を顔に表すことがなかった。詩を作り文章をつづることを大いに好み、その詩文集は世に大切にされた。若い頃から和歌をたしなみ、その作風は気品高く古雅であった。特に優れた作は、人麻呂(ひとまろ)にもほとんど劣らないと評された。かつて詩集三巻を選んで白河帝に献上した。また和漢の詩歌を編纂して、藤原基俊(もととし)に贈った。

最も得意としたのは書であり、宮門の扁額や寺院の障壁にしばしば筆をふるった(注:出典は今鏡)。かつて忠実に仕えていたとき、忠実が試みに屏風を出して書かせたところ、用意されたのはすべて小筆であった。忠通はわざと最も小さな筆を手にして、六つの大きな文字を書いた。忠実はこれに感嘆した(注:出典は古今著聞集)。あるとき、ある寺の門の額を頼まれ、忠通は筆を執ってこれを書いた。ところが、その寺が藤原基衡(もとひら)の創建したものだと聞くと、彼のために書いたことを恥じ、人を陸奥に遣わして無理に取り戻させた(注:出典は今鏡)。晩年には書法がいよいよ精巧となり、独自の一家をなし、世に法性寺様(ほっしょうじよう)と称された。若い頃に最勝寺の額を書いたが、その門を通るたびに、その拙さを恥じて顔を赤らめたという(注:出典は清案抄)。

忠通は関白として四代の帝に仕え、朝廷の典故に精通していた。左大弁の藤原為隆(ためたか)はかつて人に語って言った。「忠通は早くからその地位を極め、満ちれば欠けることを恐れて、ひたすら手を控えていた。それゆえ世の人は彼の真の力量を見ることがなかったのだ。もし忠実がなお関白であり続け、忠通と源有仁(ありひと)が左右の大臣となっていたなら、人材が並び立って、それぞれ力を尽くすことができただろうに。惜しいことだ」と(注:出典は今鏡)。子に基実・基房・兼実・兼房がいる。兼実には別に伝がある。兼房は太政大臣従一位に至り、禅林寺と称された(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。

藤原基實

藤原基実(もとざね)は官位を重ね、保元年間に正二位に進み、右大臣を拝命して皇太子傅を兼ねた。二条帝の即位に伴い、関白・氏長者となった。時に年十六であった(注:出典は公卿補任)。その栄進の速さは、古今に比べるものがなかった(注:出典は今鏡)。永暦初年、左大臣に転じた。永万元年、摂政となった。翌年、薨去した。享年二十四。朝廷は三日間政務を停止し、太政大臣正一位を追贈された。世に六条と称され(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)、あるいは中院とも(注:出典は尊卑分脈・愚管抄)、また梅津殿とも呼ばれた(注:出典は尊卑分脈)。人柄は色白でふくよかであり、父の面影をよく受け継いでいた(注:出典は今鏡)。子に基通(もとみち)・忠良(ただよし)がいる。基通には別に伝がある。忠良は大納言正二位となり(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)、鳴滝大納言と称された(注:出典は尊卑分脈)。

藤原基房

藤原基房(もとふさ)は左近衛権少将、正二位権大納言を歴任した。永暦年間、内大臣となり左近衛大将を兼ねた。長寛二年、左大臣に転じた。仁安元年、兄の基実が薨去したため、摂政・氏長者となった(注:出典は公卿補任)。

基実の妻の盛子(せいし)は、平清盛の娘であった。基実が薨去したとき、その子の基通はまだ幼く、摂籙家の荘園はすべて基房が手に入れるはずであった。参議の藤原邦綱(くにつな)は清盛に言った。「殿下(基実)の荘園を、すべて今の摂政(基房)のものとするのはよろしくありません。昔は法性寺殿(忠通)だけがすべてを併せ領していましたが、それ以外の場合はみな分割された例があります。まして亡き摂政殿の御子は、実子ではないとはいえ、名目上は盛子の子でありますから、これを分けて領させたとして、何の差し支えがありましょうか」と。清盛は大いに喜び、こうして基実の荘園・邸宅・古器・文書の多くは、基通母子のものとなった。基房は摂政となったものの、その所領はわずかに興福寺・法成寺・平等院・勧学院・鹿田・方上など、数か所にすぎなかった(注:出典は愚管抄)。

まもなく太政大臣に任じられた。承安二年、関白となった(注:出典は公卿補任・尊卑分脈)。基房は清盛と折り合いが悪く、治承三年、関白を停止され、太宰権帥に左遷された。基房は剃髪し、名を善観(ぜんかん)と改めた(注:出典は公卿補任・尊卑分脈。改名は尊卑分脈による)。清盛はこれを聞いて「およそ配流に処すべき者が、すでに僧の姿となったからには、法によりその配所を改めるべきだ」と言った。そこで備前国の湯迫(ゆばこ)に流された(注:出典は源平盛衰記)。翌年、召し還された(注:出典は玉海・山槐記。愚管抄・平家物語では養和元年のこととする)。

養和年間、帝が都を離れて西へ逃れた際、源義仲が京に入り、その功をたのんで勝手な振る舞いに及び、基房に婚姻を求めた。基房はその勢いに押されてこれを許した。まもなく義仲は法皇を五条第に幽閉し、朝臣の官職を剥奪するなど、その横暴は日に日にひどくなっていった。基房は義仲を呼び寄せ、落ち着いた態度で諭して言った。「卿は朝廷の尊さというものを聞いたことがあるか。そもそも皇帝という神聖な血統は、天地の神々によって守護されている。百代にわたり歴然として今日に至っている。これを軽んじ侮り、道に背いた者は、必ず滅び去ってきた。いまの平清盛を見よ。朝廷の権力を二十余年にわたって握り、法皇を脅して遷し、帝の御位を陵辱し、その罪悪は極まっている。天はその命を奪い、一族はことごとく逃げ散り、西海に身を寄せて、滅亡は目前に迫っている。卿も速やかに帝の車駕をお還しし、過ちを悔いて態度を改めれば、災いを免れることもできよう」と。義仲はこれにうなずいた。そして法皇を西洞院第に移し、朝臣の官職を元に戻した(注:出典は源平盛衰記)。

寛喜二年、薨去した。享年八十七。松殿(まつどの)と称され、また中山、あるいは菩提院とも呼ばれた(注:出典は尊卑分脈)。後白河法皇が画工に年中行事図を描かせた際、これを基房に見せた。基房はその誤りを付箋に書いて貼り、法皇に進呈したところ、法皇はこれを称賛し、その手書きを蓮華王院に納めるよう命じた(注:出典は古今著聞集)。

子に家房(いえふさ)・隆忠(たかただ)・師家(もろいえ)・忠房(ただふさ)がいる。家房は従二位権中納言。隆忠は従一位左大臣となり、大覚寺と称された。忠房は正二位大納言となった(注:出典は公卿補任・尊卑分脈。大覚寺の称は尊卑分脈による)。師家は八歳で権中納言となり、十二歳で内大臣・摂政・氏長者となった(注:出典は公卿補任)。貞永初年、天王寺に至って剃髪し(注:出典は百錬抄)、名を大心(だいしん)と改めた。暦仁元年、薨去した。享年六十九。天王寺と称された(注:出典は公卿補任)。子の実嗣(さねつぐ)は正二位大納言となった。実嗣は右近衛少将であった(注:出典は尊卑分脈)。

源雅實

源雅実(まさざね)は、右大臣源顕房(あきふさ)の長男である。若い頃、清貫(せいかん)の官途を歴任した。白河帝の即位に伴い参議に任じられ、従二位に進んだ。永保二年、権中納言に任じられた。応徳三年、権大納言に転じた。康和・長治年間、内大臣を拝命し、左近衛大将・皇太子傅を兼ねた。鳥羽帝の即位に伴い従一位に叙され、右大臣に遷った。保安三年、太政大臣を拝命した(注:出典は公卿補任)。特に勅により関白の上座に置かれた(注:出典は職原抄)。源氏でこの位に就いたのはこれが最初である(注:出典は公卿補任)。天治元年、官を辞し、剃髪して蓮覚(れんかく)と号した。大治二年、薨去した。享年六十九(注:出典は尊卑分脈・一代要記。蓮覚の号は分脈による)。久我(こが)と称された(注:出典は尊卑分脈)。その日記に『久我相国記』がある(注:出典は今鏡)。

雅実は素朴で率直に物を言う性質で、白河帝も常にこれをはばかっていた。父の顕房もまた雅実が伺候するたびに態度を改めるほどで、雅実は特に当時の人々から重んじられていた。ある僧正が政務を奏上した際、帝はこれを雅実に相談した。雅実は答えて「私は不才の身で、細かな事務には携わらず、いつも人に代行させております。お尋ねのことについては、私にはわかりかねます」と言った。帝は恥じ入った様子を見せた。

子の雅定(まささだ)は舞を得意としていた。堀河帝の時代のはじめ、石清水臨時祭があり、勅により公卿の子弟のうち舞の巧みな者が選ばれることになった。帝の意向は雅定に第一の舞を奏させることにあったが、関白の忠実をはばかって、藤原宗能(むねよし)にこれを命じた。雅実はこれを恥じ、雅定にその役を辞退させ、自らも門を閉ざして参内しなかった。帝はそこで雅定の位を進めて、その心を慰めた。雅実が参内して恩を謝したとき、ちょうど忠実の家で大饗が催されることになっており、雅実を尊者(しょうじゃ)として招くことになった。雅実はこれを承諾したが、その日になると忠実が使者を遣わして招いたにもかかわらず、物忌みを理由に行かなかった。

かつて雅実が瘧(おこり、熱病)を患ったとき、白河帝は僧の行尊(ぎょうそん)に祈らせてこれを治した。雅実は駻馬(かんば、荒馬)を贈ってこれに報いた。帝は戯れに人を遣わして雅実に言わせた。「行尊の功績は、実のところ朕の力添えによるものだ。卿は行尊にだけ褒美を与えて、どうして朕には何も報いないのか」と。雅実はそこで、武蔵大徳隆頼(りゅうらい)の作った小弓を献上したが、弦も矢筒も具えておらず、陸奥紙で包んだだけのものであった。帝は大いに笑った(注:出典は今鏡)。

また、忠実とともに帝の御前で酒を賜ったとき、三度目の酌に至って帝が酒を下げるよう命じた。忠実が退出しようとすると、雅実は目配せして「私は猿楽師のような身分ではない。どうして酒を賜っておきながら早々に退出させられるようなことがあろうか」と言った。帝は笑ってさらに酌をさせ、忠実は雅実を特にはばかるようになった。

雅実は舞楽にも優れていた。帝は伶人(れいじん)の多忠方(おおのただかた)に胡飲酒(こんじゅ)の舞を習わせ、召してこれを試させたが、意にかなわなかったので、雅実にこのことを告げた。雅実は「彼にはもともと素質がないので、妙技には至らないのだ」と答えた。帝は雅実自身に舞わせて試そうと思い、それとなくその意を伝えた。雅実は家から舞の道具を取り寄せさせたが、宿直所に入って横になったままであった。帝が何度も人を遣わして促しても起き上がらず、日が暮れてようやく起き上がって舞った。帝は大いに感嘆した。

これより先、忠方の弟の助忠(すけただ)が人に殺害されたことがあり、帝はこれを哀れんで「神楽の秘曲、胡飲酒、採桑老(さいそうろう)は、これで絶えてしまうだろう」と嘆いた。雅実は「神楽は帝御自身がこれを伝えておられ、採桑老は天王寺の楽人がこれを伝えております。胡飲酒だけが幸いにも私に伝わっております。どうか御心を痛めませんように」と言った(注:出典は古事談)。

子に顕通(あきみち)がいる(推定)。顕通は正二位権大納言となったが、父に先立って薨去した。顕通の長男の雅通(まさみち)は、叔父の雅定の養嗣子となった。次男は僧の明雲(みょううん)で(注:出典は尊卑分脈)、延暦寺の座主となった。源義仲の乱で賊兵に殺害された(注:出典は公卿補任・天台座主記。平家物語では次男を長男とする)。

源雅定

源雅定(まささだ)は、生まれてわずか九歳のとき、ちょうど鳥羽宮で童舞があった。雅定は胡飲酒の舞を舞い、その姿は美しくたおやかで、見る者は天童のようだと評した。堀河帝は御衣を脱いでこれを賜った(注:中右記・今鏡を参考にまとめたもの)。

堀河・鳥羽両帝の朝廷において、侍従・右近衛権中将・参議権中納言を歴任し、従三位に至った。保延二年、権大納言となった。六年、左近衛大将を兼ねた(注:出典は公卿補任)。

雅定は鳥羽上皇に親しく近侍しており、内大臣の藤原頼長が左大将を辞任するにあたって、雅定を自分の後任にさせようとした(注:出典は古今著聞集)。当時、右近衛大将の藤原実能(さねよし)、権大納言の藤原実行(さねゆき)は席次が雅定より上であり、二人ともこの職を得ようとしていた。崇徳帝の意向は実能にあった。上皇はこれを聞いて夜のうちに宮中に赴き、雅定のために働きかけたので、雅定は席次を超えてこの職を拝することができた(注:出典は古今著聞集・今鏡。実行については今鏡による)。上皇はまた淳和院・奨学院両院の別当職を、末永く雅定の家に属させるよう命じた(注:出典は職原抄)。

久安五年、内大臣を拝命した。このとき実行は右大臣を拝命していた(注:出典は公卿補任)。ある人が実行のもとへ祝いに赴くと、車馬が喧しく行き交い、門の外まで人であふれていた。取り次ぎを受けると、実行は着飾って出迎え、喜びが顔中にあふれていた。ところが雅定のもとに至ると、門も庭もひっそりと静まり返り、特に何の用意もされていなかった。雅定は急いで出てきて言った。「そもそも大臣を拝命した者には、大饗などの儀式があり、なかなか煩わしいものです。それをどうしてお祝いになるのですか」と。これによって人々は二人の器の優劣を知った(注:出典は公卿補任)。まもなく右大臣に転じた(注:出典は公卿補任)。

久寿初年、剃髪した。法名を蓮如(れんにょ)といった(注:出典は公卿補任・尊卑分脈。台記では法如とする)。当時、頼長は左大臣であったが、蔵人頭の藤原光頼(みつより)に言った。「右大臣が出家しようとしていると聞く。朝廷の典故に通じている者は、この人をおいて他にいない。いま病もないのに出家してしまえば、国家は何を頼りにすればよいのか。法皇に奏上してこれを止めるべきだ」と。光頼はためらって手を尽くさなかったため、すでに手遅れとなり、当時の人々はこれを嘆き惜しんだ(注:出典は台記)。

雅定は朝廷の典礼に精通し、家に伝わる学説をよく伝えていた。頼長はもとより博識をもって自負していたが、それでも時に雅定に質問することがあった。出家した後も、帝は人を遣わして雅定に諮問させた。世に重んじられることこのようであった(注:出典は続教訓抄)。

性格は戯れごとを好み、一日中談笑していた。かつて勅使として伊勢に赴いた際には、数日間まったく口をきかなかったので、側近の者たちはこれを不思議に思った。しかし内宮を出ると、いつものように談笑を始めたので、人々はその誠実さと敬虔さをたたえた(注:出典は台記)。

応保二年、薨去した。享年六十九(注:出典は公卿補任)。世に中院右大臣(なかのいんのうだいじん)と称された(注:出典は公卿補任・尊卑分脈。古事談によれば、雅定は常日頃から「私には六つの得意技がある。松君・双六・末木・舞・笙・職者である」と自称していたという。松君とはおそらく松若丸神楽曲のことであり、末木とは小弓の的当てのことである)。子がなかったため、兄顕通の子の雅通を養って嗣子とした(注:出典は尊卑分脈)。