卷之一百四十八 列傳第七十五

藤原賴長、藤原師長、藤原通憲、藤原成範

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原賴長

藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、太政大臣藤原忠実(ふじわらのただざね)の次男である。幼名は菖蒲若(あやめわか)といった。長承年間に正二位に叙せられ、権大納言となった。保延の初めに右近衛大将を兼ね、内大臣に任じられた。保延五年、皇太子傅を兼務し、左近衛大将に転じた。(注:公卿補任・尊卑分脈による。幼名は台記による。)藤原通憲(ふじわらのみちのり)が学問を勧めたため、頼長は通憲を師とし、また源師頼(みなもとのもろより)・藤原成佐(ふじわらのなりすけ)にも学び、あわせて僧惠暁(えぎょう)から因明(いんみょう、仏教論理学)を学んだ。才名は日に日に高まり、父忠実は頼長を特に可愛がった。(注:今鏡・台記・保元物語を参照して記す。)康治(こうじ)二年、頼長は初めて易学を学び始めた。頼長は言った。「来年は甲子(きのえね)にあたり、革命の運にあたるので改元があるはずだ。易を学んでこの事を論じるのがよかろう。ところが世間では『易を学ぶ者には凶事がある』とか『五十歳になって初めて学ぶべきだ』とか言われている。これは根拠のない誤った説で信じるに足りない。論語の皇侃(おうがん)の疏によれば、若くして学んでも何の害もないという。」とはいえなお疑い恐れる気持ちがあったので、安倍泰親(あべのやすちか)に命じて河のほとりで泰山府君(たいざんふくん)を祭らせた。その時雨や雪が降っていたので、頼長は祭りを取りやめようとして言った。「易を学ぶ者は天地の道理を究め、物事の消長の理に通じようとするものだ。それなのに鬼神の祟りだなどと言う者がいる。理を究めるのは正しいことであり、鬼神の祟りというのは邪なことだ。天がどうして邪を正に勝たせるだろうか。」するとまもなく雪が晴れた。頼長は大いに喜び、天が許したのだと考えて、手を洗い口をすすいでから易経を読んだ。そして藤原成佐を招いて、日々その意義を講じ究めた。また通憲から筮(ぜい、占いの作法)を授かった。天養(てんよう)への改元は、結局頼長の手で決められた。(注:台記による。)ある日、通憲と占筮の先後(順序)について論じ合ったところ、通憲は言い負かされてしまい、頼長を戒めて言った。「あなたの才能はあまりに高く、古今に並ぶ者がありません。私はひそかにあなたのために危うく思っています。どうかもう学ぶのはおやめください。」頼長は内心これを喜んだ。(注:台記・保元物語による。)久安(きゅうあん)三年、詔によって頼長は一上(いちのかみ、太政官の首席)とされた。この年、新嘗会(しんじょうえ)において頼長は内弁(ないべん)を務めたが儀礼に失敗し、深く恥じ入って言った。「我が祖先で一上の地位にあった者はおよそ三人おり、いずれもその功徳を世に施し、天下の人々が仰ぎ見るところであった。私のようにうまくいかなかった者はいない。上は天の心に逆らい、下は人々の期待に背いたのだ。天も人も味方せず、このような失態を招いてしまった。これほどの恥はない。」翌年、式部権少輔(しきぶごんのしょうゆ)の職が欠員となり、その時甲斐権守(かいごんのかみ)であった成佐がその職への補任を願い出た。頼長は成佐を推薦して言った。「成佐は才学に優れ、同輩の中でも群を抜いています。もし抜擢しなければ、どうして後進を励ますことができましょうか。それに私は成佐を師として学び、いくらか文字を知ることができました。今幸いにも大臣の職を十三年務めておりますが、願わくは私の功労を成佐にも及ぼし、その願いをお聞き届けください。そうすれば公には人材登用となり、私には恩に報いることになります。」勅命によりこれが許された。(注:台記による。)久安五年、左大臣に任じられ、従一位に叙せられた。(注:公卿補任による。)久安六年、天皇が元服した。かつて頼長は妻の兄藤原公能(ふじわらのきんよし)の娘多子(たし)を養女としていたが、この時入内して女御となった。同じ頃、兄の忠通(ただみち)もまた藤原伊通(ふじわらのこれみち)の娘呈子(ていし)を養女として朝廷に入れ、后に立てようとしていた。呈子はもともと美福門院(びふくもんいん)の養女であった。頼長は多子を皇后に立てようと考え、忠通に頼んで法皇に願い出させた。法皇はどちらとも決めかねた。頼長は忠通がこれを妨げているのではと疑い、ひそかに上書して裁可を求めた。法皇は返答して言った。「朕にはもとより多子を退けるつもりはない。先に忠通が『朱雀帝以後は、執政の娘でなければ后に立てられない』と奏上したので、そなたは忠実に頼んで願い出させるがよい。忠実が願い出れば、忠通もどうしてこれを拒めようか。」そこで頼長は忠実の寵愛する妾を通じて願い出させた。忠実は高陽院(かやのいん)に赴き、上書して言った。「本日、多子を皇后に冊立していただきたい。」頼長もまた奏上して言った。「冷泉(れいぜい)・円融(えんゆう)・堀河(ほりかわ)の各天皇の母后も、みな執政の娘ではありませんでした。」さらに忠実と謀って、美福門院に書を奉じて願い出た。法皇は返答して言った。「摂政への宣下を行う方向で進めよう。」そして忠通にこれを諭した。しかしただ「冊立は先例によるものであり、多子を立てるとは述べていない」と言うにとどまった。忠実と頼長は大いに困惑した。頼長は忠実に言った。「多子が皇后になれないのならば、私は出家いたします。」忠実はこれを憂えた。まもなく呈子が従三位に叙せられたので、頼長はさらに法皇の近臣藤原季頼(ふじわらのすえより)を通じて奏上した。「呈子が先に冊立されるならば、私は出家いたします。」忠実もまた重ねて切実に上書して願い出た。法皇はなお決めかねていた。忠実は自ら法皇のもとに参上し、涙を流して言った。「頼長は性急な性格です。この事が成就しなければ出家してしまうでしょう。私は齢七十を過ぎ、一人の子を失うことになります。どうか陛下には私のゆえにお許しいただきたく、必ずしも先例を問う必要はございません。まして近くは堀河天皇の母后の先例もあるではありませんか。」法皇はついに多子を皇后に立てた。頼長は大いに喜んだ。呈子はほどなく中宮となった。(注:台記による。)頼長は事あるごとに忠通のすることを誹謗し、互いの猜疑は日に日に深まった。忠実もまた忠通を疎んじるようになり、忠通に授けていた朱器台盤(しゅきだいばん、藤原氏長者の証)を取り上げて頼長に授け、頼長を氏長者とした。この頃、天皇は頼長の驕り高ぶった振る舞いをひどく嫌っていた。仁平(にんぺい)元年の元会(がんえ、朝賀の儀)で、頼長は内弁を務めた。天皇は御帳(みちょう)に入ったまま出てこなかった。(注:台記・愚管抄を参照して記す。)夜が明けると、天皇は使いを送って法皇に「明日また頼長が来る」と奏上させ、頼長は参内を許されなかった。この月、位階の叙任があった。忠通は左少弁平範家(たいらののりいえ)に法皇へ「誰に執筆(しゅひつ、文書作成の役)をさせましょうか」と奏上させた。法皇は「左大臣に」と答えた。天皇は範家を召して「右大臣に執筆させるように」と命じたが、範家は法皇の詔をもって答えた。天皇は怒って「そなたは朕の言葉を法皇に申し上げるように」と言い、範家はそのとおり奏上した。法皇は大いに怒って言った。「ただ左大臣を召したまでのこと。上﨟(じょうろう、上位の者)がいるのに理由もなくその次の者を用いることがあろうか。」そして忠実に書を賜り、頼長を促した。ほどなく太政官の文書を内覧するよう詔が下った。(注:台記による。範家の姓は弁官補任・平氏系図による。)当時忠通はまさに関白の任にあったが、さらにこのような命が下ったので、人々は皆驚き怪しんだ。(注:愚管抄・保元物語による。)仁平三年、法皇は詔して頼長に進士(しんし)の試験を行わせた。(注:百錬抄による。法皇の詔は古今著聞集による。)頼長は建言して言った。「式部省が申すには、『釈奠(せきてん)の晴れの儀は、寛仁(かんにん)年間以来久しく廃れ、その次第を知る者がいない』とのことです。」そこでその儀式次第を草案として作成して上奏し、諸司に命じてこれを実施させた。(注:台記による。寛仁以降の件は百錬抄による。)久寿(きゅうじゅ)二年、頼長は上表して左大臣・内覧の職を辞そうとしたが、許されなかった。(注:公卿補任による。)天皇が崩御すると、ただちに皇嗣を定める議が行われたが、法皇はただ忠通とだけ相談し、頼長はこれに関与できなかった。(注:愚管抄による。)この頃、ある人が頼長に告げて言った。「ある人が巫女に亡き天皇の霊を降ろさせたところ、霊は巫女の口を借りて『かつて愛宕山(あたごやま)の天公の像の目に釘を打って朕を呪った者がいる。そのために朕は目が見えなくなり亡くなったのだ』と語った。法皇が人を遣わして調べさせたところ、果たしてその言葉のとおりであった。美福門院と関白はこれを忠実と頼長の仕業ではないかと疑い、そのため法皇は二人を深く憎んでいる。」頼長はこれを聞いて恐れおののき、天日にかけて身の潔白を誓った。(注:台記による。)まもなく後白河天皇が即位すると、頼長の内覧は停止された。(注:公卿補任による。)忠実は頼長を皇太子傅とするよう願い出た。法皇は言った。「皇太子は女院(にょいん、美福門院)が養育されたお方である。頼長は女院に対して無礼な振る舞いが多かった。思うに朕が世を去った後、頼長はきっと皇太子に忠誠を尽くさないだろう。どうして傅の任に就かせられようか。」頼長は恐れて法皇に上書し事情を訴えた。法皇はこれを慰め諭した。頼長は内覧の職に復そうとして諸社に祈願し、忠実もまた法皇に願い出たが、ついに叶うことはなかった。(注:台記による。)法皇はもとから崇徳(すとく)上皇を快く思っておらず、頼長はしばしば法皇を謗っていた。忠通が法皇に疎んじられるようになると、頼長は法皇にへつらい仕えた。しかしやがて法皇は次第に頼長を憎むようになり、もっぱら忠通を重用するようになった。ここに至って、頼長は崇徳上皇に取り入るようになった。(注:台記・愚管抄・保元物語を参照して記す。)かつて近衛(このえ)天皇が崩御した際、崇徳上皇は自分が再び即位するか、さもなくば重仁(しげひと)親王が即位するはずだと考えていた。ところが後白河天皇が即位したため、大いに憂え憤っていた。保元元年、鳥羽法皇が崩御した。上皇は頼長を召し、大事を挙げることについて相談した。頼長は事が成れば自分が摂政になれると考え(注:保元物語による)、こう答えた。「時機というものは得難く失いやすいものです。今、法皇が崩御された今こそ、時機はすでに到来しております。速やかに御決断なさり、もはや疑いを持たれてはなりません。」(注:異本保元物語による。)上皇はついに白河北殿(しらかわきたどの)に移って兵を集めた。事態が切迫すると、将兵に四方の門を守らせ、頼長は源為朝(みなもとのためとも)に策を尋ねた。為朝は「夜のうちに高松殿(たかまつどの)を襲い、不意を突きましょう」と答えたが、頼長はこれを用いることができなかった。まもなく天皇方が源義朝(みなもとのよしとも)らを攻め寄せさせ、上皇方の諸将は迎え撃ったが大敗した。頼長は逃げようとしたところ、流れ矢が頭に当たり(注:愚管抄には筑後前司源重定〈しげさだ〉がこれを射たとある)、口がきけなくなった。藤原盛憲(ふじわらのもりのり)らが助けて車に乗せた。忠実が奈良にいると聞いて会いに行こうとし、木津川まで行って忠実に知らせたが、忠実は会おうとしなかった。頼長は憤り、自ら舌を噛み切って、ついに奈良坂で亡くなった。(注:保元物語による。奈良坂は公卿補任による。)朝廷は人を遣わしてその墓を暴かせた。(注:百錬抄・保元物語による。)高倉天皇の代になって、使者を遣わし、墓前で正一位太政大臣を追贈した。(注:公卿補任・保元物語による。)

頼長は容姿端麗であったが、人柄は厳格で情け容赦がなかった。朝廷の会議で、公卿が遅れて来たり、自分と意見が異なったりすると、特に厳しく辱め、ひどい時にはその邸宅を壊したり焼いたりすることさえあった。当時の人々は彼を「悪左府(あくさふ)」と呼んだ。(注:愚管抄・今鏡・保元物語を参照して記す。)しかし人を責める際には、官吏から下働きの者に至るまで、必ず事情を詳しく聞き質し、是非を明らかにした。その人物の言い分に道理があれば、自らの非を認めて謝った。(注:保元物語による。)かつて忠実は忠通に命じて頼長を養子とさせたが(注:公卿補任・愚管抄・保元物語による。忠実が命じたことは今鏡による)、忠実が忠通を疎んじるようになると、頼長は力を尽くしてこれに反発した。(注:台記による。)忠通は和歌や漢詩に巧みで、書もよくした。頼長はこれを嘲って言った。「そのようなものは小手先の技にすぎず、国家の役には立たない。」(注:保元物語による。)また誰かが備前など三か国を併せて領有していることを嘲って言った。「二代の天皇の摂政を務め、三か国の租税を食んでいる。栄華といえば栄華だが、その欲深さが自らの名を汚すことになるとは考えないのだろうか。」頼長は氏長者となってからは、ますます忠通を忌み嫌い、二度と交わろうとしなかった。(注:台記による。)それでも朝堂で顔を合わせる際には、頼長は依然として礼儀正しく振る舞った。忠実がその理由を尋ねると、頼長は答えた。「どうして意見が合わないからといって、兄弟という天の定めた道理を乱してよいでしょうか。」(注:愚管抄による。)久寿の初め、ちょうど右大臣が欠員となった。頼長は大納言藤原宗輔(ふじわらのむねすけ)と以前から親しかったので、内大臣藤原実能(ふじわらのさねよし)を右大臣に転じさせ、宗輔を内大臣に任じようと図った。頼長は法皇に上書して言った。「宗輔は齢ほぼ八十になりますが、大納言の列にあって忠勤ぶりは並ぶ者がありません。ぜひ昇任させるべきです。もしこれを差し置いて次席の者を抜擢されるならば、私も職を辞す所存です。」法皇はこれを承諾したが実現しなかった。当時中宮の父藤原伊通(ふじわらのこれみち)もまた大納言で、宗輔の次席にあったが、中宮は忠通の養女であったため、頼長は宗輔を持ち上げることで伊通を退けようとしたのである。頼長の陰険で狡猾なやり方は、おおむねこのようなものであった。頼長は平素から経書や伝注を研究するのを好み、記憶力は人並外れて優れ、書物を手放すことがなかった。かつて春日(かすが)の社に何度か参詣した際、舟の中で類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)を読んで言った。「我々はもっぱら漢籍を読むべきだが、旅先にあってもまた本朝(日本)の書物を読むべきである。」かつて南史(なんし)を広く読み、食事や入浴の際にはいつも五人の書生にその大要を語らせてこれを聞いた。後にこれを暗誦してみると、語られた五百九十一の事柄のうち、記憶していたのは二百八十五であったが、それでもなお全てを覚えきれなかったことを恥じた。書物を買い求めるのを好み、書庫の東西にそれぞれ書架を設けて、陽棚(ようだな)・陰棚(いんだな)と名付けた。部門を経・史・雑記・本朝の四つに分け、その書物の多くは自ら書き写したものであった。(注:台記による。)著書には治相記(じそうき)・台記(たいき)がある。(注:仁和寺書籍目録による。)宇治左大臣(うじのさだいじん)と称された。子に兼長(かねなが)・師長(もろなが)・隆長(たかなが)、僧の範長(はんちょう)がいる。(注:尊卑分脈・保元物語による。)兼長は幼くして伯父忠通の養子となり(注:台記による)、正二位権中納言に至り、右近衛大将を兼ねた。(注:公卿補任・尊卑分脈による。)保元の初め、父の事件に連座して出雲(いずも)に流された。隆長は伊豆(いず)に、範長は安芸(あき)に流された。(注:尊卑分脈による。保元物語では伊豆を常陸(ひたち)としており、半井本(なからいぼん)では安芸を安房(あわ)としているが、いずれも誤りであろう。)

藤原師長

藤原師長(ふじわらのもろなが)は、幼名を万寿麻呂(まんじゅまろ)といった。(注:台記による。)仁平年間に右近衛権中将・参議に任じられ、たびたび昇進して従二位に至った。久寿年間には権中納言となった。(注:公卿補任による。)保元の初め、父頼長の事件に連座して土佐(とさ)の畑(はた)に流された。(注:今鏡・保元物語による。)長寛(ちょうかん)二年、赦されて都に戻った。(注:今鏡・保元物語・源平盛衰記による。畑という地名は源平盛衰記による。)按察使(あぜち)源資賢(みなもとのすけかた)が流刑地での様子を尋ねたところ、師長は答えず、ただ「韓康独住(かんこうどくじゅう、俗世を離れて隠棲すること)」の句を口ずさむのみであった。資賢はこれを聞いて涙を隠した。(注:古事談・十訓抄による。)上皇は師長を召し出して言った。「朕は久しく琵琶を聞いていない。」そして琵琶を授けた。師長はまず賀王恩(がおうおん)を奏で、続けて還城楽(げんじょうらく)を弾いた。上皇と側近の者たちはこれを聞いて感嘆し褒め称えた。(注:十訓抄による。)この年、師長は元の位に復し、正二位に進んだ。仁安(にんあん)年間には大納言に転じ、左近衛大将を兼ねた。(注:公卿補任による。)土佐大将(とさのだいしょう)と称された。(注:十訓抄による。)安元(あんげん)の初めに内大臣に任じられ、治承(じしょう)元年には太政大臣を拝命し、従一位に叙せられた。(注:公卿補任による。)治承三年、平清盛(たいらのきよもり)は廷臣たちが自分を陥れようと図ったことに怒り、数十人を流罪とした。師長は尾張(おわり)の井戸田(いとだ)に流され(注:源平盛衰記による)、剃髪して名を理覚(りかく)と改めた。(注:公卿補任による。)治承四年、赦されて都に戻った。(注:源平盛衰記による。)建久(けんきゅう)三年に薨去し、享年五十六であった。(注:歴代皇紀による。)妙音院(みょうおんいん)と称された。(注:公卿補任による。)師長は幼い頃から聡明で、音律を好み、とりわけ琵琶と箏に長け、いずれもその奥義を極めていた。(注:今鏡による。)式部大輔源惟守(みなもとのこれもり)は師長から琵琶を学んでいた。師長が土佐に流される際、惟守は大物浦(だいもつのうら)まで見送った。師長は感激し喜んで、秘曲「蒼海波(そうかいは)」を伝授した。(注:今鏡・保元物語による。千載和歌集・十訓抄では惟守を惟成〈これしげ〉としている。)諸国が日照りに見舞われ、あらゆる祈祷をしても効き目がなかった時、師長は勅命を受けて日吉社(ひえしゃ)で琵琶を弾いたところ、たちまち恵みの雨が降った。人々はこれに感嘆し、師長を「雨大臣(あめのおとど)」と称えた。(注:源平盛衰記による。)師長はかつて人に語って言った。「『舞を観て楽を聴けば、国の興亡が分かる』というのは、昔の賢者の説である。今の世に民間で行われている白拍子(しらびょうし)は、その音が商(しょう)の音に属しており、亡国の音である。舞の姿も端正でなく、天を仰いで立ち、憂い思う様子がある。」(注:壒嚢抄・続古事談による。)著書には三五要録(さんごようろく)・要略、仁智要録(じんちようろく)・要略、白馬節会鈔(あおうまのせちえしょう)がある。(注:仁和寺書籍目録による。)子の師妙(もろたえ)は右近衛少将、師良(もろよし)は従五位下であった。(注:尊卑分脈による。)

藤原通憲

藤原通憲(ふじわらのみちのり)は、大学頭(だいがくのかみ)季綱(すえつな)の孫で、加賀掾(かがのじょう)実兼(さねかね)の子である。長門守(ながとのかみ)高階経敏(たかしなのつねとし)の養子となった。(注:尊卑分脈による。本書には「通憲は高階氏を名乗ったが、子孫の代になってすべて本姓に復した」とある。しかし無題詩集・作者部類・仁和寺書籍目録は、いずれも藤原通憲と記している。これによれば通憲はすでに本姓に復していたことになる。今はこれに従う。)鳥羽(とば)・崇徳(すとく)・近衛(このえ)の三代の朝廷に仕え、正五位下に叙せられ、日向守(ひゅうがのかみ)に任じられた。(注:尊卑分脈・今鏡を参照して記す。)通憲は人相を見ることに長けていた。ある日、水鏡で自らの姿を映して見たところ、剣が頭を貫く相があり、内心これを不吉に思った。後に人相見に出会った際にも、同じく凶相であると告げられた。通憲は憂えて「どうすればこの凶を払えるか」と尋ねると、相手は「出家すれば免れるでしょう。ただし七十歳を過ぎてからのことは、私にも分かりません」と答えた。通憲はこの言葉を信じて出家しようと思ったが、自分の官位が低いことから、ひそかに法皇に願い出て言った。「私は出家したいと思いますが、『日向入道(ひゅうがにゅうどう)』と世に呼ばれるのも心残りです。どうか権少納言に任じていただきたく存じます。」法皇はこれを許さなかった。(注:平治物語による。)康治(こうじ)年間、通憲は再び剃髪を願い出た。法皇は前中納言藤原顕頼(ふじわらのあきより)にこのことを尋ねた。顕頼は「通憲は天下の才子であり、彼の右に出る者はおりません。その願いをお聞き届けにならないほうがよいでしょう」と答えた。通憲はなおも強く願い続けた。天養(てんよう)元年、ついに少納言に任じられた。まもなく剃髪し、名を円空(えんくう)と改め、さらに信西(しんぜい)と改めた。(注:台記による。)保元(ほうげん)元年、左大臣藤原頼長は崇徳上皇を奉じて白河殿(しらかわどの)に拠り、兵を集めて禁中を攻めようとした。通憲は勅命を受けて源義朝(みなもとのよしとも)に軍事について相談した。義朝が策を献じ、ついにこれに勝利した。乱が平定されると、頼長の一党である藤原成隆(ふじわらのなりたか)・藤原盛憲(ふじわらのもりのり)らは身を潜めて姿を現さなかった。通憲は計略をめぐらし、彼らの罪を「某はどこそこの国に配流、某はどこそこの地に流罪」というように言い触らした。すると逆賊の一党は罪が死罪には及ばないと考え、剃髪して降伏してきた。通憲はこれを一人残らず捕らえた。源為義(みなもとのためよし)・平忠正(たいらのただまさ)ら十八人もまた降伏を願い出た。通憲はついに彼らを死罪とすべきだと論じた。右大臣藤原雅定(ふじわらのまささだ)・大納言藤原伊通(ふじわらのこれみち)らは「嵯峨(さが)天皇以後、朝臣に死刑を科したことはこれまでにない。どうして今にわかにこれを処刑するのか。死一等を減じるのがよかろう」と議論したが、通憲は自説を固く曲げず、こう奏上した。「私が聞くところでは、非常の事態は君主が独断で処置すべきものです。今、謀反人を諸国に流せば、後々の禍根を残すことになりかねません。すべて斬るのに越したことはありません。」天皇はこれに従った。(注:保元物語による。)通憲の妻藤原朝子(ふじわらのあさこ)は、天皇の乳母であった。そのため通憲は特に信任され、天下の事柄で彼が関わり知らないものはなかった。(注:平治物語による。)かつて関白忠通は、内裏が荒廃し朝廷の儀式が廃れていることを憂えて、修繕を行うよう奏請したが、鳥羽天皇は民の負担や出費を懸念して許さなかった。通憲が政務を掌るようになると、あらためて修理を奏請した。そこで通憲は自ら計算を行い、昼夜を分かたず計画を立てた。殿舎や門廊、諸司・八省の建物は、わずか一年余りで完成した。朝会や内宴も、すべて旧来の儀式に復した。また延久(えんきゅう)の先例にならって記録所(きろくじょ)を設け、政務を裁決させた。(注:愚管抄・神皇正統記・今鏡・平治物語を参照して記す。)二条(にじょう)天皇が譲位を受けて即位すると、政治は上皇(後白河上皇)から出るようになった。通憲の権勢はますます盛んになった。当時、権中納言藤原信頼(ふじわらののぶより)は上皇に寵愛されており、通憲とは仲が悪かった。信頼は近衛大将への任官を願い出た。上皇はこれを通憲に告げた。通憲は言った。「叙位・除目は国家の大典です。人選を誤れば、上は天の心に背き、下は人情に反することになります。かつて白河上皇が大納言藤原宗通(ふじわらのむねみち)を大将にしようとした際、堀河天皇はこれを許さず、白河院は中納言藤原家成(ふじわらのいえなり)を大納言に任じようとしましたが、公卿たちは議論の末これを不可としました。大納言でさえ軽々しく人に授けるべきではないのに、まして大将においてはなおさらです。もし信頼をこれに任じれば、驕り高ぶりを招き、自ら禍敗を招くことになりましょう。どうか今しばらくお考え直しください。」上皇はこれを聞いて不快に思った。通憲は唐の安禄山(あんろくざん)の事跡を描いた図三巻を作らせ、これを上皇に進覧した。(注:平治物語による。)そしてその後書きにこう記した。「唐の玄宗(げんそう)は近世の賢主であった。しかしその治世の初めを慎み、終わりを疎かにした。泰山(たいざん)での封禅(ほうぜん)の儀を行うほどの盛時があったにもかかわらず、蜀(しょく)の地へ落ち延びる屈辱を免れなかった。今、いくつかの唐書及び唐暦・唐紀・楊妃内伝を引いて、その行いを詳らかにし、これを絵図に著した。伏して願わくは、後代の聖帝明王がこの図をご覧になり、政治と教化の得失を慎まれんことを。」(注:玉海による。)これはおそらく信頼を安禄山になぞらえた意図であった。信頼はこれを聞いて深く恨みに思った。(注:平治物語による。)かつて源義朝は自分の娘を通憲の子是憲(これのり)に嫁がせたいと願い出たが、通憲はこれを断り、まもなく平清盛の娘を迎えて息子成範(なりのり)の妻とした。義朝はこれを快く思わなかった。(注:愚管抄による。)信頼はこれに乗じて義朝と深く結び、通憲を殺害しようと謀った。(注:愚管抄・平治物語による。)平治(へいじ)元年、清盛が熊野(くまの)に参詣に出かけた隙をついて、信頼・義朝は兵を挙げた。この日、白い虹が太陽を貫くという異変があり、通憲は宮中に夜のうちに急変が起こるであろうと驚き、まっすぐ三条殿(さんじょうどの)に参じた。ちょうど上皇は宴遊の最中で、通憲の子どもたちも皆お側に仕えていた。通憲は上皇の興を削ぐことを恐れ、直接には奏上せず、ひそかに女官に告げてから退出した。帰宅して妻に「天変がこのようなありさまなので、そなたから子どもたちに知らせるように」と告げると、馬を走らせて大和田原(おおわだはら)へと逃れた。藤原師光(ふじわらのもろみつ)・藤原成景(ふじわらのなりかげ)ら四人がこれに従った。(注:平治物語による。)信頼と義朝は通憲が逃亡したことを知らず、相談して「通憲父子は常に院の御所に伺候しているから、捕らえて斬るべきだ」と言い、その夜のうちに兵を率いて三条殿を包囲し火を放った。(注:愚管抄による。)夜が明けると通憲の邸宅を焼き払い、多くの侍女や妾を殺害した。通憲は逃れる途中、石堂山(いしどうやま)を通過した際、再び星の異変を目にして嘆いて言った。「これは忠臣が君主に代わって災いを受ける前兆である。今、君主は弱く臣下は強い。忠臣が君主に代わってその身に災いを受けるとすれば、それはまさに私のことであろう。」成景を都に遣わして情勢を探らせたところ、変事が起きたとの報告があった。通憲は恐れ慌ててどうすることもできず、地面に穴を掘って自らそこに身を埋め、竹筒を通して息を継ぎながら、仏の名号を唱えた。師光らは剃髪して僧となり、悲しみ泣きながら立ち去った。出雲前司源光泰(みなもとのみつやす)は兵を率いて通憲の所在を捜索し、その従者を捕らえて厳しく問いただして事実をつかみ、その場所を掘り出した。通憲はまだ息が絶えていなかったが、ついにその首を斬られ、都の市中を引き回された上、獄門に晒された。(注:平治物語による。愚管抄には信西は自ら胸を刺して死んだとあり、どちらが正しいかは分からない。)

かつて通憲が剃髪しようとした際、藤原頼長は嘆いて言った。「あなたの高い才能は当代随一であるのに、世にこれを見出す者がなく、これほどまでに不遇である。私は常々これを朝廷のために恥ずかしく思っている。あなたがもし世を遁れるならば、誰が学問に励むだろうか。これは天が我が国を滅ぼそうとしているのだ。」通憲もまた頼長に言った。「私は薄命で、これといった顕職に就くこともできませんでした。今まさに世を遁れようとしていますが、人々はきっと『才能ある者に天はかえって幸いを与えず、学問さえ廃れさせてしまうのだ』と言うでしょう。どうか明公(あなた様)には学問に励んでいただきたく存じます。」そう言って二人は向き合って涙を流した。(注:台記による。)通憲は広大な才能と博覧強記の持ち主で、典故に通じ、あわせて仏教と天文にも精通していた。(注:今鏡・古事談による。)鳥羽法皇が熊野に行幸された際、宋の僧淡海(たんかい)を召し見えたが、言葉が通じなかった。通憲がこれを通訳すると、その受け答えはよどみなかった。淡海は「あなたは宋に留学されたのか、それとも宋の人なのか」と尋ねた。通憲は「私はかつて異国へ使いすることもあろうかと思い、それゆえいくらか異国の言葉に通じているだけです」と答えた。(注:平治物語による。)著書には本朝世紀(ほんちょうせいき)・法曹類林(ほうそうるいりん)、および日本紀註(にほんぎちゅう)二巻がある。(注:仁和寺書籍目録による。日本紀註は外書による。)また歌舞を好み、かつて曲の中から優れたものを選んで、遊女磯禅師(いそのぜんじ)に教えて舞わせた。白拍子(しらびょうし)はこれに始まるという。(注:徒然草による。)子には俊憲(としのり)・貞憲(さだのり)・成範(なりのり)・修範(ながのり)・光憲(みつのり)があり、他は皆僧となった。静賢(じょうけん)・澄憲(ちょうけん)・寛敏(かんびん)・憲曜(けんよう)・覚憲(かくけん)・明遍(みょうへん)・勝憲(しょうけん)・行憲(ぎょうけん)・憲俊(けんしゅん)・寛兼(かんけん)・憲慶(けんけい)である。(注:尊卑分脈による。)俊憲は勧学院(かんがくいん)で学んだ。康治年間、対策(策問への答案)に合格して文章博士(もんじょうはかせ)となり、式部少輔を経て刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)に任じられ、蔵人頭(くろうどのとう)に補せられ、正四位下に叙せられた。平治元年、参議に任じられた。(注:公卿補任による。)同年十二月、父の事件に連座して越後(えちご)に流された。(注:尊卑分脈による。)通憲はかつて後白河天皇を批判し、「謀反を企む臣下が側にいるのに気づいていない」と評した。ある人がこれを伝え聞いて「用心をしていないとは、なんと不明なことか」と言った。しかし通憲は人並外れた記憶力の持ち主で、一度聞いた事柄は歳月を経ても忘れることがなかった。そして何か事を興そうとすれば、決断して実行に移し、旧来のしきたりにこだわることがなかった。その長所はこのようなものであった。俊憲もまたひそかに人に語って「法皇はまるで晋の恵帝(けいてい)のようなお方だ。八王の乱のような権力争いが起こるのも遠くないだろう」と言った。人々はこれを的を射た言葉だと考えた。(注:玉海元暦元年の条による。本書には俊憲入道とのみ記され、姓氏を分けて記していない。尊卑分脈によれば、通憲の子俊憲は僧となったとあるので、同一人物と考えられることからここに記した。)貞憲もまた連座して土佐に流され、是憲は佐渡(さど)、修範は隠岐(おき)、静賢は安房(あわ)、澄憲は下野(しもつけ)に流された。寛敏は上野(こうずけ)、憲曜は陸奥(むつ)、覚憲は伊豆、明遍は越後、勝憲は安芸に流され、後にいずれも召還された。(注:平治物語では、俊憲は出雲、貞憲は隠岐、是憲は安房、修憲は阿波、静憲は丹波、澄憲は信濃、寛敏は上総、覚憲は伊予としている。)貞憲は従四位下少納言、是憲は従五位下少納言であった。(注:尊卑分脈による。)修範は参議正三位であった。(注:公卿補任・尊卑分脈による。)

藤原成範

藤原成範(ふじわらのなりのり)は、仁平(にんぺい)・保元(ほうげん)の頃、たびたび昇進して播磨守(はりまのかみ)となり、左近衛中将に任じられ、従四位上に進んだ。(注:公卿補任による。)信頼の乱に際して、藤原経宗(ふじわらのつねむね)・藤原惟方(ふじわらのこれかた)はいずれも信頼方に与していた。やがて事が成らないと悟ると、天皇を奉じて六波羅(ろくはら)に赴いた。乱が平定されると、経宗・惟方は成範がその企みを暴くのを恐れ、成範を陥れて下野(しもつけ)の室八島(むろのやしま)に流した。まもなく召還されて元の職に復した。(注:平治物語による。)仁安(にんあん)年間に正三位に叙せられ、左兵衛督(さひょうえのかみ)となった。承安(じょうあん)四年に参議に任じられ、安元(あんげん)二年に権中納言に任じられた。ほどなく民部卿を兼ね、正二位に至った。文治(ぶんじ)三年に薨去し、享年五十三であった。(注:公卿補任による。)成範は性格として桜の花を愛し、吉野山(よしのやま)の桜を移植して、樋口町(ひぐちまち)の邸宅の周りに植えた。人々はこれを「桜町(さくらまち)」と呼んだ。成範は神に花の寿命が長くあるよう祈ったところ、花は三七日(二十一日間)萎れることがなかった。天皇はその風流を愛でて、「桜町中納言」と書き記して賜った。(注:源平盛衰記による。平家物語を参照して記す。)子の基範(もとのり)は従三位で左近衛中将・刑部卿。成房(なりふさ)は兵部少輔・近江守。範行(のりゆき)は従四位下長門守。通成(みちなり)は侍従。兼範(かねのり)は大隅守であった。(注:尊卑分脈による。)