卷之二百廿九 列傳第一百五十六

叛臣

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原信賴

藤原信頼(ふじわらののぶより)は、関白藤原道隆(ふじわらのみちたか)の八世の孫にあたり、従三位藤原忠隆(ふじわらのただたか)の三男である(注:『公卿補任』『平治物語』『尊卑分脈』を参照して記す)。人となりは凡庸で暗愚であり、これといった才能もなかった。ところがのちに後白河上皇に寵愛されるようになった(注:『平治物語』による)。右兵衛佐、左近衛権中将を歴任し、蔵人頭に任じられた。保元三年には参議に任じられて右衛門督を兼ね、さらに権中納言正三位に進み、検非違使別当となった(注:『公卿補任』『一代要記』『平治物語』による)。

信頼は寵愛を頼みにして驕り高ぶり、藤原通憲(ふじわらのみちのり、信西)と権勢を争い、互いに機会をうかがって相手を陥れようとしていた。信頼は大将の地位を望み、上皇もそれを許そうとしたが、通憲が強く諫めて阻んだ。信頼はこれを深く恨み、病と称してしばしば朝廷に出仕しなくなった。中納言源師仲(みなもとのもろなか)と結託し、その邸に通って日夜武芸を学び、通憲への恨みを晴らそうと謀った。しかし通憲は平清盛と姻戚関係を結んでおり、その勢力を揺るがすのは容易ではなかった。一方、源義朝(みなもとのよしとも)は孤立無援で、その声望は平氏に比べてかなり劣っていた。そのため義朝は平清盛と内心そりが合わなかった。信頼はこれを見て取り、心を傾けて義朝と厚く交わり、甘言を弄して喜ばせた。また権大納言藤原経宗(ふじわらのつねむね)、右近衛少将藤原成親(ふじわらのなりちか)、検非違使別当藤原惟方(ふじわらのこれかた、原文「為方」)らとも密かに結び、隙をうかがって事を起こそうとした。

平治元年、平清盛が熊野に参詣した。信頼はひそかに義朝に、通憲を除く計略を告げた。義朝はこれを承諾した。信頼は大いに喜び、剣と馬、それに武具五十揃いを贈った。義朝はさらに信頼に勧め、源頼政(みなもとのよりまさ)、源光基(みなもとのみつもと)、源季実(みなもとのすえざね)らを招かせたところ、皆これに応じた。

こうして信頼と義朝は兵五百を率い、夜、三条殿を包囲した。信頼は馬上から声を張り上げて言った。「臣信頼は長年格別のご恩を受けてまいりましたが、通憲の讒言により、今まさに誅殺されようとしております。それを聞いて心が安まらず、東国に逃れて死を免れたいと存じます。」上皇は驚いて「誰がこのような謀反を企てたのか」と仰せられた。源師仲は日頃から信頼に与しており、上皇の御車に近づいてこれを外に出し、御所を大殿へ移した。そして火を放ち、左右兵衛尉の大江家仲(おおえのいえなか)らは防戦して討ち死にした。院の内は混乱し、男女が互いに踏みつけ合い、死者が甚だ多く出た。

通憲は変事を知って先に逃れた。信頼はその邸を包囲して火をかけたが、通憲が服を変えて逃げたことを疑い、その家人をことごとく殺した。こうして信頼は上皇を擁して内裏に入れ、一本御書所に幽閉した。帝(二条天皇)は黒戸御所に移し、源重成(みなもとのしげなり)、源季実に両宮の護衛をさせた。信頼は自ら大臣大将となり、源義朝を播磨守とし、源重成以下も皆官位を授かった。通憲の子五人は籍を削られた。義朝の子義平(よしひら)は安倍野で平清盛を要撃する策を進言したが、信頼はこれに従うことができなかった。出雲前司源光泰(みなもとのみつやす)が通憲を探し出して斬り、その首を京に送った。信頼は藤原惟方と車を同じくして神楽岡へ赴き、これを見物した。信頼は朝餉所に居を構え、冠や服装、立ち居振る舞いはまるで天子さながらであった。毎朝の参内のたびに群臣の上座に着き、もっぱら政務を決裁した。人々はこれを陰で「悪右衛門督」と呼んだ。

平清盛が京に帰ると、帝はひそかにその邸へお出ましになり、上皇は仁和寺(にんなじ)へ行かれた。藤原成親がこれを信頼に告げた。信頼は酒を好み、いつも酔っていた。夜明けになってもまだ目を覚まさず、この知らせを聞いても信じずに言った、「私は惟方や経宗らに万事を任せておる。今どうしてこのようなことがあり得よう」。成親は「彼らの仕業でございます」と答えた。信頼はあわてて起き、中を確かめに行ったが、帝も上皇もすでにいらっしゃらなかった。大いに驚き動揺し、なすすべもなく、成親に耳打ちして「人に知られぬようにせよ」と言った。さらに惟方、経宗を探させたが、二人とも既に姿を消していた。信頼は憤り、歯ぎしりして悔しがった。

源義朝はこれを聞き、兵二千余を率いて禁中に立てこもり、兵を分けて宮門を守らせた。帝は平清盛に信頼と義朝討伐を命じた。清盛は子の重盛(しげもり)と弟の頼盛(よりもり)を遣わし、兵を分けて諸門を攻めさせた。信頼は自ら甲冑を身にまとい紫宸殿にいたが、敵兵が迫ったと聞いて出て防ごうとした。ところが震え上がって足がすくみ、階段を下りることもできなかった。体が肥え太っていて馬にも乗りにくく、左右の者に助け抱えられて馬に乗ったが、誤って地面に落ち、鼻を傷つけて血が顔中を覆った。

平重盛は五百余騎を率いて待賢門(たいけんもん)を攻めた。信頼は守りを捨てて逃げ帰った。平氏の軍は宮中に進み入ったが、源義朝は義平に命じてこれを退けさせ、平氏勢は皆引き返した。義朝と義平はこれを追って六波羅まで至った。信頼はさらに平氏の来襲を恐れ、義朝の軍の後ろにゆっくりと従っていたが、河原に至って軍を捨てて逃げてしまった。義朝の兵士たちがこれを追おうと願い出たが、義朝は「捨て置け。あの者が逃げ去ったところで、惜しむには及ばぬ」と言った。

義朝は戦いに敗れ、東国へ赴こうとした。八瀬(やせ)に至ったところ、信頼が追いついて呼びかけた、「先にそなたと約束したのに、どうして急に私を見捨てるのか」。義朝は大いに怒って言った、「卿が真っ先に大事を起こしておきながら、一戦もせぬうちに逃げ出すとは、どの面下げて私に会いに来るのか」。そして鞭でその頬を打った。信頼はうつむいて答えることもできず、鞭の跡を撫でながら立ち去った。従者の助吉(すけよし、注:姓は欠けて伝わらない)が進み出て言った、「なぜ我が主を辱めるのか。あなた方が勇者であるならば、なぜ戦って勝たなかったのか」。頼朝(よりとも)がこれを斬ろうとしたが、鎌田政家(かまたのまさいえ)が諫めてやめさせた。

信頼に従っていた騎馬武者はまだ五十人ほどいたが、互いに「我らの主君が人に辱められても、あえて抗うこともできぬとは、どうして頼りにするに足ろうか」と言い合い、皆散り散りに去ってしまい、助吉だけが従った。信頼はひどく疲れ果て、助吉が糒(ほしいい)を差し出しても食べることができなかった。どこへ行きたいかと尋ねると、信頼は「仁和寺に参って上皇に哀れみを乞うだけだ」と答えた。夜、蓮台野(れんだいの)を通りかかったところ、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵たちが葬送を終えて帰る一行に出くわした。信頼は彼らを敗残兵と思い、身ぐるみを剥ごうとした。助吉は「これは六波羅の兵である」と偽って告げた。逃げるうちに長坂(ながさか)まで至り、道に迷ってしまった。僧兵たちが立ち去ろうとしたとき、一人が火を灯してこちらを見た。信頼は震えながら急いで馬を下り、自ら甲冑と佩刀、それに鞍馬までも差し出して平伏し、許しを乞うた。僧兵たちはさらに助吉を捕らえ、その武具を剥ぎ取った。

その後、信頼は仁和寺にたどり着き、涙を流して死罪を許されるよう願った。上皇は帝に書状を送り、死一等を減じるよう求めたが、帝はこれを聞き入れなかった。上皇はさらに使者を遣わして許しを乞うたが、使者がまだ戻らぬうちに、官軍が仁和寺を包囲し、信頼を捕らえて連れ去った。平清盛は子の重盛に、謀反の実情を尋ねさせた。信頼は悲しみ泣くばかりで答えることができず、ただ「天魔の仕業でございます。どうかご憐憫を垂れて、私の命をお助けください」と言うのみであった。重盛は清盛に「あの者はこれほどまでに気弱な様子です。赦したところで何の害がありましょう」と言ったが、清盛は「信頼こそ元凶である。上皇が救おうとされても帝すらお聞き入れにならなかったのに、私がどうして許しを請えようか」と言い、六条河原で斬るよう命じた。

信頼は刑に臨んで涙ながらに「重盛殿は情け深い人だ、どうか私を死から救ってはくれまいか」と言い、身をよじって泣き叫んだので、処刑人はなかなか首を斬ることができなかった。ついに押さえつけて首を刎ねると、見物人が壁のように群がった。そこへ一人の老翁が人々を押し分けて入り、杖で信頼の死骸を打ち、目を怒らせて罵った、「お前は私の領地を奪い、私を飢えと寒さに追い込んだ。その罪悪は極まっている。身と首が別々になったのも、まったく当然のことだ」。信頼の一党数十人も皆誅殺された。信頼の兄基通(もとみち)は陸奥(むつ)に、弟信俊(のぶとし)は越後(えちご)に流された。弟家頼(いえより)の子信親(のぶちか)は逃げ隠れて姿を現さず、官位を剥奪された(注:『平治物語』による。家頼については『尊卑分脈』に拠って補う)。

信頼が敗れると、源師仲もまた捕らえられた。当初、帝が六波羅へお出ましになったとき、鎌田政家は神鏡を取り出して東国へ移そうとした。師仲は「天皇の神器を、勝手に動かすことなどできようか」と言い(注:京都半井本『平治物語』による)、櫃を打ち破って神鏡を取り出し、懐に収めた(注:『百錬抄』『古事談』による)。そして義朝が大刀を結び、櫃の鍵を佩刀に結びつけているのを見て、これも欺いて奪い取り(注:『愚管抄』による)、ついに神鏡を六波羅へ届けた(注:『百錬抄』『古事談』による)。

事が発覚すると、師仲は自ら申し開きをして言った、「私はもともと謀反に加わったのではありません。信頼や政家が神鏡を奪おうとしたので、私はひそかにこれを隠したのです。私が賊に与しなかったことは明白です。以前信頼と行動を共にしていたのは、ただその権勢を恐れていたからにすぎません。謀反の企てについては、まったく関知しておりませんでした」(注:『平治物語』による。政家に関する記述は杉原本『平治物語』に拠る)。罪が定められ、下野(しもつけ)に流された(注:『公卿補任』による)。仁安元年に召還され、世に伏見源中納言と称された(注:『公卿補任』『一代要記』『尊卑分脈』による)。

源義朝

源義朝(みなもとのよしとも)は、左衛門大尉源為義(みなもとのためよし)の長男である(注:『尊卑分脈』『保元物語』による)。坂東(ばんどう)で育ち、武勇に優れ知略があった(注:『保元物語』による。『吾妻鏡』治承四年の条に、頼朝が鎌倉に至って亡き父左典厩の亀谷の旧跡を訪ねたとある。これによれば義朝はかつて鎌倉に住んでいたと思われる。義平もまた「鎌倉悪源太」と称されており、これも証となろう)。下野守(しもつけのかみ)に任じられた(注:『尊卑分脈』『保元物語』による)。

鳥羽法皇(とばほうおう)は美福門院(びふくもんいん)を寵愛し、近衛帝(このえてい)が生まれた。法皇はこの子を鍾愛し、崇徳帝(すとくてい)に急ぎ近衛帝へ位を譲らせた。崇徳上皇は常々不満を抱いていた。久寿二年、近衛帝が崩御し、後白河帝(ごしらかわてい)が即位した。保元元年、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇は白河殿(しらかわどの)に兵を集め、再び皇位に就こうと図った。

これより先、法皇はあらかじめ乱の起こることを察知し、自ら将帥十人の名を書き記して美福門院に託していたが、義朝はその筆頭であった。また義朝と検非違使源義康(みなもとのよしやす)らに命じて禁中を守護させていた。乱が起こると、源為義や帥頼賢(そつのよりかた)、為朝(ためとも)ら為義の子らは白河殿に馳せ参じたが(注:『保元物語』による)、義朝だけは禁中に馳せ参じた。

当時、関白藤原忠通(ふじわらのただみち)以下の公卿たちは評議がまとまらず、なすすべもなかった。義朝は戦機を逸することを恐れ、たびたび決断を促した(注:『愚管抄』による)。帝は義朝を召して謀を諮った。義朝は次のように奏上した。「戦機は一つではございませんが、敵の不意を突くことが肝要です。一時に勝利を得るには、夜討ちに勝るものはございません。私が聞くところでは、南都の僧兵が吉野・十津川の兵を率いて、すでに今夜には宇治に至り、明朝には京へ入るとのことです。敵勢がまだ集結しないうちに討てば、たやすく功を挙げられましょう」。帝はこれに従った(注:『保元物語』による)。

勅命が下って言われた、「そなたは肉親を捨てて忠義に赴いた。その志は誠に見上げたものである。今、大将の任を授けるゆえ、忠義を尽くして功を立てよ。後日そなたに昇殿を許そう、望みどおりに」。義朝は「武士が戦場に赴くとき、生きて帰ることなど期しませぬ。もし今、昇殿をお許しいただけるならば、たった今この場で昇殿し、かねての望みを遂げとうございます」と申し出て、戎服のまま昇殿の階を進んだ。少納言入道信西(しんぜい)が帝に申し上げた、「義朝の曾祖父や祖父は昇殿を許されておりましたが、父為義は検非違使に留まりました。それを今、その子に急に昇殿を許されては、国の定めを損なうことになりましょう」。帝は「乱を鎮め難を平らげるのに、武将でなくして誰に頼ろうか。定めにこだわる必要はない」と仰せられた。義朝は感激して退出し、手にしていた鞭を、階の下の車寄せに結びつけるよう命じた。兵士たちがこれを不思議に思うと、義朝は「私は今日昇殿の栄を賜った。もし敵の刃に命を落とせば、誰がこの栄誉を知ろうか。それゆえこうしておくのだ」と言った(注:京都本・杉原本・鎌倉本『保元物語』による)。

こうして精鋭の騎馬武者四百余り(注:『保元物語』の異本によって兵数はそれぞれ異なるが、ここでは京都・杉原・鎌倉の三本に従う)を率い、大炊御門河原(おおいのみかどがわら)に陣を敷いた。安芸守平清盛は三条河原の東の堤に陣を布き、夜に乗じて共に攻め進んだ。頼賢と為朝は迎え撃ち、義朝は兵を放って猛攻を加えた。為義らは退いて白河殿を守った。

やがて夜が明けると、義朝は使者を走らせて奏上した、「私どもが急襲いたしましたが、守りは実に固く、火攻めのほかに手立てがございません。ただ法勝寺(ほっしょうじ)まで火が及ぶことを恐れ、あえて実行しておりません」。返答があった、「時宜に応じてよろしく計らえ。もし伽藍が火災に遭っても、再建は難しくない」。そこで風上から火を放って焼き払い、白河殿はついに陥落した(注:『保元物語』による)。

上皇はあわてて御所を出られたが、義朝は追いつくことができなかった。逃げた兵が法勝寺に匿われていると聞き、そこを探させたがやはり見つからず、寺を焼くことを願い出たが許されなかった(注:京都本・杉原本・半井本『保元物語』による)。

義朝は参内して勝利を奏上し、帝はその功に報いて左馬権頭(さまごんのかみ、注:京都・杉原・半井本では「右」に作る)に任じた。義朝はこれを望まず、次のように申し上げた、「亡き父満仲(みつなか)はかつてこの官にありました。私がこの官命を受けるのは、実に旧職を継ぐことになりましょう。しかし私は既に助(すけ)の地位にありながら、今わずかに権頭に転じるだけでは、栄誉とするには足りません」。帝はこれをもっともとし、左馬頭(さまのかみ)に任じ替え、藤原高季(ふじわらのたかすえ)を左京大夫とし、義朝をその後任とした。

やがて帝は清盛に命じて為義とその子らを捜索させた。為義は病のため遠くへ逃れることができず、ひそかに義朝のもとへ来て生命を乞うた。この時、清盛の叔父右馬助忠正(ただまさ)とその子らは上皇方に応じて挙兵していたが、戦に敗れて清盛に降伏を願い出た。清盛は日頃から忠正と不仲であり、義朝に為義を殺させようとして、まず忠正を斬った。帝は義朝に為義の誅殺を命じた。義朝はたびたびその赦免を願い出たが、帝は怒って「清盛は既に叔父を殺したというのに、そなたはなぜ命に背くのか。もしためらうならば、朕は清盛に命じて誅殺させるであろう」と仰せられた。義朝は悲しみ恐れ、どうすればよいか分からなかった。

臣下の鎌田政家を呼んで言った、「今、詔に従えば逆罪を犯すことになる。従わなければ勅命に背く罪に問われる。どうすればよいか」。政家は「これは重大な事です。臣下として容易に申し上げられることではございません。しかし判官殿(為義)は既に朝敵となられた身、結局は誅殺を免れることはできますまい。他人の手にかかって死ぬよりは、いっそご自身の手で始末なさる方がよろしいでしょう」と答えた。義朝は決意を固めた(注:『保元物語』による)。

政家に命じて為義を欺いて言わせた、「義朝と清盛の戦功に優劣などございましょうか。それなのに思いがけず朝議は清盛を上位と定めました。義朝もまた面目が立ちません。父上をお連れして東国へ落ち延びようと存じます。ただ道中の混乱を恐れますので、大勢で行動するのはよろしくありません。義朝は街道を通って参りますので、父上は紀伊から船でお進みください」。為義はこれを信じて車に乗って出た。七条朱雀に至ったところで、政家がこれを斬った。義朝はその首を持って参内した(注:鎌倉本『保元物語』による。京都本・杉原本『保元物語』には次のようにある。義朝が政家を呼んで相談すると、政家は「判官殿は既に朝敵となられた身、他人の手にかかって死ぬよりは、いっそご自身で始末なさる方がよろしいでしょう」と言った。義朝は「それならばそなたが計らえ」と言い、政家は「あなた自らお告げください」と答えた。そこで義朝は涙を抑えて為義に会い、「思いがけぬ変事が父上に及ぼうとしております。義朝は常々あらゆる手立てで父上の命をお救いしようとして参りましたが、父上はここにいらっしゃるべきではありません。とかく根も葉もない噂を招き、後の禍のもととなりましょう。義朝は東山に庵室を構えております。父上はしばらくそちらにお移りください」と言った。為義は大いに喜んで、「人の真心はわが子に勝るものはない。誰が自分の命をかけて他人の命を救おうか」と言ったという。どちらが正しいか分からないので、ひとまず本書の記述に従っておく)。

その後、義朝は弟五人をも殺した(注:『保元物語』による)。清盛は一族こぞって重い恩賞を受けた(注:『平治物語』による)。

帝の側近信西との縁により、その勢力は次第に強まっていった。義朝はかつて信西の子是憲(これのり)を娘婿に迎えようとしたが、信西は「私の子は学問を修める身であり、卿の婿にはふさわしくない」と、言葉にも態度にも驕った様子を見せて断った。義朝はこれを深く恨んだ(注:『愚管抄』による)。

帝が二条帝に位を譲ってからも、信西は自ら政務を執っていた。寵臣藤原信頼は日頃から信西と不仲であり、義朝が内心不満を抱いていることを知ると、これを味方に引き入れて信西を除こうと謀った。信頼は義朝に会うたびに機嫌よく言葉をかけ、「私は今、権力の座にあり、そなたのために便宜を図ろう。国司の職や官位、何を望んでも聞き入れぬことはない」と言った。義朝はこれを喜び、深く結託した。

平治元年十二月、清盛は子の重盛とともに熊野に参詣した。信頼は好機と見て、義朝を説いて言った、「信西は上皇の乳母の婿として、当代並ぶ者なき寵愛を受けている。政治は大小を問わずすべて彼の意のままだ。私が奏上する議はことごとく阻まれる。まことに讒言を弄する邪(よこしま)な人物の最たるものだ。信西を長く権力の座に留めれば、やがて禍の種となろう。しかも上皇もこれをかなり疎んじておられるが、まだ表立った罪咎がないので、じっと耐え忍んでおられるだけなのだ。清盛は信西と姻戚のよしみを結んでおり、常に源氏を讒言して害しようとしている。今の世では、そなたも無事では済むまい」。義朝は答えた、「保元の乱で、私の一族はほとんど誅殺され尽くした。今、私は孤立無援の身であり、清盛が隙をうかがって讒言を仕掛けようとしていることは、私も既に承知している。明公がこの事を起こされるならば、今この機を逃してはならぬ。存亡を一挙に決すべきである。わが一族の頼政や光基もまた常にこの機をうかがっている。明公は彼らを招いて共に謀られるがよい」。信頼は大いに喜び、すぐに名刀と駿馬を贈った。義朝は礼を言って、「戦陣で貴ぶべきは馬に勝るものはない。この駿馬に乗って敵陣に突入すれば、どこへ向かおうと打ち破れぬことはない」と言った。義朝が帰ると、信頼はさらに甲冑五十領を贈り、頼政や光基らを招いて密かにその意図を告げた。頼政らは「義朝は一族の長であり、既に公のお申し出に応じているのですから、我らがあえて従わぬことがございましょうか」と答え、こうして共に謀を合わせて挙兵した。

義朝は信頼とともに五百余騎を率い、まっすぐ三条殿に攻め入り、風上から火を放った。百官や宮女たちは死傷し、あるいは逃げ惑った。信西の西洞院(にしのとういん)の邸を焼き、信西が服を変えて逃げたのではないかと疑って、その侍女たちを多数殺した。帝と上皇を宮中に幽閉した。信頼はこうして禁中を占拠し、自ら大臣大将となった。義朝には従四位下を叙し、播磨を与えてその国守に任じた(注:『平治物語』による。従四位下については『愚管抄』『吾妻鏡』による)。義朝の子で蔵人の頼朝は右兵衛佐に任じられた(注:『愚管抄』『公卿補任』による)。

やがて清盛は変事を聞き、急ぎ京へ戻った。大納言藤原経宗と検非違使別当藤原惟方は謀を合わせ、帝を奉じてひそかに清盛の六波羅の邸へお連れした。上皇もまた夜半に身をやつし、単身仁和寺へお出ましになった。信頼と義朝は大いに恐れ、将士に逃げ去った者がいるのではと疑い、名簿を検めて兵を確認したが、なお二千余騎が残っていた。義朝はまた頼政や光基が二心を抱いているのを察し、これを殺して除こうとしたが、内乱を招くことを恐れて思いとどまった。

そこで陽明門・待賢門・郁芳門(いくほうもん)の三門と、昭明門・建礼門の脇の小門を開き、南・西・北の三方は閉ざし、白旗二十余流を掲げ、兵士を南殿の前後や誅壺(つぼ)に満ちさせた。

清盛は子の重盛、弟の頼盛らに命じ、兵三千余騎を率いてこれを攻めさせた。重盛は自ら五百騎を率いて待賢門へ向かった。信頼は臆病風に吹かれて矢の一本も射ることなく、守りを捨てて逃げ去った。重盛は進んで大庭の椋(むく)の木の下まで至ったところ、義朝が呼びかけた、「悪源太(義平)はおらぬか。信頼は臆病者で、既に敗れ去った。そなたが速やかにこれを撃退せよ」。義平はそこで精鋭十六騎を率いて力戦し、これを退けた。

頼盛は郁芳門を攻めたが、義朝が縦横に奮戦したため、頼盛は引き上げた。義朝はその勢いに乗じて追撃し、官軍が隙をうかがって禁中に突入した。義朝は引き返すことができず、六波羅へ進攻した。折しも頼政が官軍に付いたため、義平はやむを得ず退いた。義朝の兵馬はともに疲れ果て、進退窮まり、一戦に決死を期そうとしたが、政家が強く諫めたため、義朝は兵を引いて退いた。

官軍はその後を追い、三条河原まで迫った。政家は軍勢に「頭殿(こうのとの、義朝)は今、思うところあって身を避けておられる。卿らはしばらく殿(しんがり)を務めよ」と告げた。平賀義信(ひらがのよしのぶ)が馬を返して力戦し、義朝は左右を顧みてこれを助けさせた。佐々木秀義(ささきのひでよし)、首藤俊通(すどうのとしみち)らが先を争って戦いに加わった。俊通は討ち死にし、義朝はその隙に脱出した。

千束(せんぞく)に至る頃、比叡山西塔の僧兵が群れ集まって道をふさいだ。斉藤実盛(さいとうさねもり)の奇策によって、辛うじて脱出することができた。信頼もまた逃げてきて、義朝と共に東へ行こうとしたが、義朝は怒ってこれを打ち据え辱めた。折しも横川(よかわ)の僧兵が龍華越(りゅうげごえ)に砦を構えて待ち構えていた。従者たちは皆馬を下り、鹿角(防塁)を打ち破って通り抜けたが、僧兵は雨のように矢を射かけた。義朝の大叔父にあたる陸奥六郎義隆(むつのろくろうよしたか)が矢に当たって死んだので、義朝はその首を収めるよう命じた。子の朝長(ともなが)もまた重傷を負った。義朝は大いに怒り、兵を励まして奮戦し、多くを殺傷したので、僧兵は潰走した。

堅田(かたた)の浦まで進んだところで、義隆の首を見て嘆いて言った、「八幡殿(源義家)の血を受け継ぐ者は、もはやこの人だけであった。今この最愛の一族を失い、私はいよいよ頼るべきものがない」。涙を流しながら自らその首を湖水に沈め、そのまま湖を渡ろうとしたが、風波が激しく起こったため、道を転じて勢多(せた)へ向かった。

義朝は従者たちに「この先の道行きは、大勢で共にするのはよろしくない。そなたたちはそれぞれ道を分かれて去るがよい。かねての誓いを違えず、再び東国で会おう」と告げた。皆固く供を願い出たが、義朝は許さなかった。実盛ら二十余人はここで別れを告げて去り、ただ義平、朝長、頼朝、それに式部丞源重成(注:本書では「式部大輔」とするが、ここでは『尊卑分脈』に従う)、平賀義信、鎌田政家、金王(こんのう)だけが従った。

鏡の駅(かがみのうまや)まで行ったところ、敵が不破関(ふわのせき)を守っていると聞き、さらに小関(こぜき)から小野(おの)に出た。折しも大雪が降り、馬もすくんで前に進まなかった。義朝と従者たちは皆甲冑を脱いで徒歩となり、艱難辛苦を重ねた。ようやく美濃(みの)の青墓(あおはか)の駅にたどり着き、宿の女主人お富(とみ)の営む大炊(おおい)の家に身を寄せた。頼朝は遅れて追いつかなかった。

義朝は再び兵を起こして平氏を討とうと、義平と朝長をそれぞれの道に分けて派遣し、兵を募らせた。義朝はかつて大炊の娘延寿(えんじゅ)を寵愛し、二人の娘をもうけていた。そのため大炊は義朝を手厚くもてなした。ところが村人たちがこれを聞きつけ、群れをなして押し寄せ、屋敷を取り囲んだ。重成は義朝に「私がここで討ち死にし、あなたのために囲みを破ってみせましょう」と言い、ただ一騎で敵中に突入し、林の中に入って自ら義朝と偽り、十余人を射殺した後、自らの顔を切り裂き、腹を切って死んだ。

これによって義朝は脱出することができ、尾張(おわり)の野間(のま)へ赴いて長田荘司平忠致(おさだのしょうじたいらのただむね)を頼り、鎧と馬を借りて東国へ向かおうとした。また義信を遣わして兵を募らせようとしたところ、義信は「忠致は財力こそ豊かですが、その人柄は時勢に迎合し権勢になびく質で、真意を信用することはできません」と言った。義朝はこれに従わず、「忠致は政家の舅である。私は彼に他心のないことを請け合う。そなたは深く疑ってはならぬ」と言い、その意のままに向かうことにした。しかし道は塞がれており、義朝はこれを憂えた(注:『平治物語』による)。

大炊の兄に平三真遠(へいざさねとお)という者がおり、剃髪して鷲栖源光(わしのすげんこう)と称していたが(注:『吾妻鏡』による。『平治物語』では源光を「玄光」とし、大炊の弟としているが、ここでは本書の記述に従う)、かねてより義侠の人として知られていた。政家の計らいで金王を遣わして相談させたところ、源光は快く舟を用意し、義朝や政家らを乗せて柴で覆い、野間へ送り届けようとした。株瀬川(かぶせがわ)を下って折戸(おりど)を過ぎようとしたとき(注:鎌倉本『平治物語』では「折津」とする)、渡し場の役人が不審に思って呼び止めた。源光は聞こえないふりをして通り過ぎようとしたので、役人は矢を放って射かけた。源光は舟を戻して岸に着けた。役人は舟に乗り込み、柴を払って中を探った。

源光は窮地に陥り、義朝に自害させようと考え、次のように言った、「かりに義朝が敗走の身となったならば、従う者もきっと数十人は下るまい。それをどうして一人の僧に身を託し、鼠のように柴舟の中に隠れておられようか。たとえ義朝がここにいたとしても、あなた方の手にかかることはあるまい。とうに自害しているはずだ」。義朝は政家に耳打ちして「源光は私に死ねと勧めているのか」と言うと、政家は「しばらく様子を見ましょう」と答えた。役人もそれ以上深くは詮索せずに立ち去った(注:京都本・杉原本・半井本・鎌倉本『平治物語』による)。

翌日、内海(うつみ)に至ると、忠致は義朝を大変手厚くもてなした。義朝は早く出立しようとしたが、忠致はしきりに引き留めて「明日は元旦ですから、三日過ぎてからご出立ください」と言った。義朝はその意に逆らうことができず、二晩泊まることになった。忠致は子の景宗(かげむね)と密かに義朝殺害を謀った。三日目の夕方、湯浴みの支度をさせ、浴室に壮士三人を伏せておき、隙をうかがって刺そうとした。この時、金王が武器を持って湯浴みに付き添っていたため、決行できなかった。義朝が浴衣を求めたが、なかなか届かなかったので、金王が自ら取りに行った。その隙に壮士たちが入り込んだ。義朝はそのうちの一人を引き倒したが、残る二人が左右から刺し殺した。時に三十八歳であった(注:『愚管抄』によれば、政家が忠致の謀反を察知してこれを義朝に告げたところ、義朝は逃れられないと悟り、政家に自分の首を斬るよう命じた。政家はすぐにこれを斬り、続いて自害したという。ここでは本書の記述に従う)。

金王は走り戻り、その場で三人を斬った。源光と金王は忠致父子を捜したが見つからず、数人を殺傷して立ち去った。忠致は義朝の首を京へ送り、左獄門の樗(おうち)の木にかけて晒した(注:『平治物語』による)。

染物職人の五郎(ごろう)という者が、かつて義朝の恩顧を受けていたことから、その首を願い出て、左獄門のそばに埋葬した(注:『源平盛衰記』による)。のちに頼朝の覇業が成ると、朝廷に奏上して一つの伽藍を建て、その中に義朝の廟を造った。後白河法皇の勅命により義朝と政家の遺骨が探し求められ、東獄門のそばで見つかった。検非違使大江公朝(おおえのきんとも)にこれを鎌倉へ送らせた。頼朝は喪服を着て稲瀬川(いなせがわ)まで出迎え、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)を創建してこれを納め葬った(注:『吾妻鏡』による。『平家物語』には、朝廷が使者を遣わして義朝に正二位内大臣を贈ったとあり、『源平盛衰記』では太政大臣とする。他に確かな典拠がないため、ここでは採らない)。

義朝の子には義平、朝長、頼朝、義門(よしかど)、希義(まれよし)、範頼(のりより)、全成(ぜんじょう)(注:『吾妻鏡』『尊卑分脈』による。『平治物語』では全成を「全済」とする)、義円(ぎえん)、義経(よしつね)(注:『尊卑分脈』による)がいた。頼朝、範頼、義経についてはそれぞれ別に伝がある。

朝長は中宮進(ちゅうぐうのしん)に任じられ(注:『平治物語』『尊卑分脈』による)、従五位下に叙された(注:『尊卑分脈』による)。義朝が敗れた際、龍華越まで従い、横川の僧兵と戦って矢が腿に当たったが、矢を抜いてなお戦った。青墓に着くと、義平とともに義朝の命を受け、甲斐(かい)・信濃(しなの)で兵を募ることになった。義平は既に出発していたが、朝長は重傷を負っていた上、道中で風雪に遭った。この時に至って苦しみがひどく、出発しかけては引き返すことになった。義朝は怒って「頼朝はそなたより幼いのに、こんなに軟弱ではない。そなたはここに留まっておれ」と言った。朝長は「私の傷はひどく、もし追手に捕らえられれば、必ず父上の恥辱となりましょう。どうか父上ご自身の手で斬ってください。後々のご心配は無用に願います」と言った。義朝は「私はそなたを臆病者と思っていたが、今この言葉を聞けば、まことに我が子である」と言って斬ろうとしたが、大炊の延寿が慌ててこれを止めた。義朝は「子を激励するためのことだ」と言って刀を納めて退いた。

義朝はその後また朝長の臥所へ行き、「そなた自身どうするつもりか」と尋ねると、朝長は「既に心を決めております。ただ父上のご命令をお待ちするのみです」と答えた。義朝はついに朝長を刺し殺し、衣をかけて出た。大炊はこれを見て、その亡骸を竹藪の中に埋めた。後に頼盛が平宗清(たいらのむねきよ)に命じて墓を暴かせ、その首を京へ送った(注:『平治物語』による)。義門は宮内丞、左兵衛となったが、若くして世を去った(注:『尊卑分脈』による)。

希義は駿河(するが)の香貫(かぬき)に住んでいた。義朝の敗死後、母方の伯父にあたる木工頭藤原友忠(ふじわらのともただ)がこれを京へ送り(注:京都本『平治物語』による。流布本『平治物語』では「香貫」の二字を国人の名としているが、これは誤りである)、土佐(とさ)の気良(けら)の邑(むら)へ流された。幼くしてまだ名がなかったため、平氏がこれに希義と名付けた。気良に住んでいたことから気良冠者(けらのかんじゃ)と称された。

頼朝が挙兵すると、平氏は国人蓮池家綱(はすいけのいえつな)に命じてこれを殺させた(注:家綱の名は『吾妻鏡』による。本書では「家光」とし、長門本『平家物語』では「清常」とする)。家綱は希義の居所に至ってこれを告げた。希義は「私は亡き父のために日々法華経を唱えておりますが、今日はまだ読み終えておりません。しばらくお待ちください」と言い、家綱はこれを許した。希義は静かに経を二巻誦し終えると、自ら命を絶った(注:『平治物語』による。『吾妻鏡』には、家綱が希義を襲おうとしたところ、希義はかねて国人夜須行家(やすのゆきいえ)と示し合わせており、密かに夜須荘へ赴こうとしたが、家綱が追いついて道中で殺したとある)。首は京へ送られた。子は隆盛(たかもり)といい、後に殷富門院(いんぷもんいん)の判官代となった(注:『尊卑分脈』による)。

全成は幼名を今若(いまわか)といい、義円、義経と同腹の兄弟である。義朝が敗れると、母の常磐(ときわ)は三人の子を連れて逃げ隠れた。清盛は常磐の容色を気に入って側に召し入れたため、これによって今若らは皆命を助けられた。この事情は義経の伝に記してある。今若は後に僧となって名を改め、醍醐(だいご)に住んだ。気性が荒々しく勇猛であったため、人々は「醍醐悪禅師」と呼んだ(注:『平治物語』による。『尊卑分脈』では全成は後に隆超(りゅうちょう)と改名したとあるが、『吾妻鏡』など他の書には見えないため、ここでは採らない)。

頼朝が挙兵すると、全成は弟義円とともにこれに従った(注:『吾妻鏡』による。義円については『平治物語』による)。遠江(とおとうみ)の河野(こうの)に住み(注:『尊卑分脈』による)、河野法橋(こうののほっきょう)と称された(注:『平治物語』『尊卑分脈』による)。建仁年間、謀反を告げる者があり、頼家(よりいえ)は武田信光(たけだのぶみつ)に命じてこれを捕らえさせ、常陸(ひたち)に配流した。まもなく八田知家(はったともいえ)に命じてこれを殺させた(注:『吾妻鏡』による)。六人の子があり、頼保(よりやす)、頼高(よりたか)、頼全(よりぜん)、時元(ときもと)、道暁(どうぎょう)、頼成(よりなり)という(注:『尊卑分脈』による)。

頼全は播磨公(はりまこう)と称し、東山の延年寺(えんねんじ)に住んでいたが、全成と共に殺された。時元は阿野冠者(あののかんじゃ)と称し、承久元年に駿河で兵を集め、自ら密旨を受けたと宣言して東国を管領しようとした。平政子(ほうじょうまさこ)は北条義時(ほうじょうよしとき)に命じて兵を遣わし、これを討ち滅ぼした(注:『吾妻鏡』による)。

義円は初め円成(えんじょう)といい、幼名を乙若(おとわか)といった。円恵法親王(えんけいほっしんのう)の坊官となり、卿公(きょうのきみ)と称された。頼朝が挙兵すると、兄の全成とともにこれに従い(注:『平治物語』による)、兵千騎を率いて叔父行家(ゆきいえ)に従い、尾張(おわり)の洲股川(すのまたがわ)で平氏を防いだ。先を争って単騎で夜、川を渡ったところ、平氏の巡邏の騎馬武者に討たれた(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。

源義平

源義平(みなもとのよしひら)。義平は十五歳のとき、叔父にあたる春宮帯刀源義賢(みなもとのよしかた)と武蔵(むさし)の大倉(おおくら)で戦い、これを討ち取った(注:『平治物語』『源平盛衰記』による)。世に鎌倉悪源太(かまくらのあくげんた)と呼ばれた。

平治の乱が起こると、義平は鎌倉から京へ馳せ参じた。当時、信頼は思うままに諸将士に官職を授けており、義平にも官を授けようとした。義平はこれを辞退して言った、「保元の乱の折、叔父為義は急いで蔵人に任じられました。しかしそれは急ぐべきではない授任であったとして辞退し、受けませんでした。それこそまさに時宜にかなったことでございます。信西を殲滅し、世が安らかになるのを待って、国を治め官に就いても遅くはございません。かつて鎌倉におりました頃、兵たちは私を悪源太と呼び慣れておりました。どうかその旧称のままにさせていただきたく、わずかな手勢をお貸しいただければ、安倍野(あべの)で清盛を待ち伏せし、不意を突いて一人残らず討ち滅ぼしとうございます」。信頼はこれに従わなかった。

重盛が待賢門に攻め入ると、信頼は恐れおののき、陣を整える間もなく逃げ去った。義朝は怒り、義平にこれを防がせた。義平は鎌田政家、後藤実基(ごとうさねもと)、佐々木秀義、波多野義通(はたののよしみち)、三浦義澄(みうらのよしずみ)、首藤俊通、斉藤実盛、岡部忠澄(おかべのただずみ)、猪股範綱(いのまたののりつな)、熊谷直実(くまがいのなおざね)、平山季重(ひらやまのすえしげ)、金子家忠(かねこのいえただ)、安達遠基(あだちのとおもと)、平広常(たいらのひろつね)、関時員(せきのときかず)、片桐景重(かたぎりのかげしげ)の十六騎と共に進んだ。義平は左右に「櫨匂(はじにおい)の鎧を着け、黄赭白毛(きあかしろげ)の馬に乗っているのが重盛だ。皆、よく見覚えておけ」と言うと、馬を躍らせて飛び出し、縦横に駆け巡って重盛めがけて突進した。大庭の椋の木の下で戦い、左近の桜、右近の橘のあたりを七、八度も追い回し、その勢いは実に激しかった。重盛は大宮小路まで退き、改めて新手の兵五百騎を率いて再び大庭へ攻め入った。

義平は重盛に呼びかけた、「私とそなたは源平それぞれの嫡流の武者、互いに恥じることのない好敵手である。ぜひとも決死の勝負をしよう」。そして再び五、六度追い回した。重盛はまた兵を引いて大宮小路へ退いた。義朝は敵兵が次々と押し寄せるのを見て、人を遣わして激励し、速やかにこれを撃退させようとした。義平はまた十六騎とともに大宮小路に出てこれに突撃し、敵兵は総崩れとなった。

重盛は家臣の与三左衛門景安(よそうざえもんかげやす)、新藤左衛門家泰(しんどうざえもんいえやす)とともに逃げ、義平は政家とこれを追った。二条堀河まで至り、まさに追いつこうとしたとき、義平の馬がつまずいて倒れた。政家が重盛を射たが、鎧が堅くて矢が通らなかった。義平が「馬を射よ」と言い、政家がこれを射ると、重盛は馬から落ち、材木の上に立ったが兜が脱げ落ちた。政家がこれに迫ると、景安がこれを遮った。義平が馳せ寄って景安を刺し殺した。重盛はまさに義平と相対しようとしたところ、家泰が馬を進めて義平と組み合った。政家がこれを見て家泰を刺した。重盛はその隙に六波羅へ逃げ帰った。

折しも真冬の厳しい寒さで、雨に濡れた鞍が凍りつき、政家は手がかじかんで馬にとりつくことができなかった。義平が鞍に刻みを入れて登るよう教えた。鞍に足がかりの形を設けるのは、これに始まるという。

義朝が既に頼盛を退けて六波羅へ進撃していたので、義平もこれに赴こうとした。この時、頼政は六条河原に三百余騎を留め、形勢をうかがうばかりで進もうとしなかった。義平は怒って「頼政はどっちつかずの態度で勝敗をうかがっている。まずこれを討たねばならぬ」と言い、五十余騎を率いて撃ちかかった。頼政は敗れて清盛のもとへ逃げ込んだ。義平は六波羅の門内に攻め入り、清盛は自ら兵を率いて出撃した。交戦は長時間に及び、義平の麾下は朝から数度の戦いを重ねて鋭気がやや衰えた。平氏の軍が入り乱れてこれを防いだので、義平はついに兵をまとめて退いた。

義朝が敗走すると、義平もこれに従って美濃の青墓まで至った。義朝は義平と朝長に諸国で兵を募るよう命じた。義平は北国へ赴いて兵を募り、飛騨(ひだ)に至る頃には従う者もかなり増えていた。しかし義朝討死の報せが届くと、集まった者たちは皆散り散りになり、義平も自害しようとした。しかし思い直して、「深い恨みをまだ晴らしていないのに、大丈夫たる者がむざむざ死んでよいものか」と考え、ひそかに京へ戻り、平氏の動静をうかがうことにした。

義朝の旧臣に志内景澄(しないのかげずみ)という者がいたが、もとより身分が低く人に知られていなかった。そのため義朝の敗死後、平氏に身を寄せ、時勢の変化を待っていた。たまたま義平にめぐり会い、語り合って大いに喜び、義平を自分の下僕と偽って六波羅に出入りさせた。義平は自ら下働きの仕事をこなし、景澄は三条烏丸(からすま)に借家した(注:「三条烏丸」は異本『平治物語』による)。

宿の主人は義平の立ち居振る舞いをつくづく眺め、ただ者ではないと思うようになった。景澄はまた食事のたびに人に見せないようにしていたので、主人はますます疑いを深めた。そっと物陰から覗き見ると、景澄は食事を義平のために取り替えて食べさせていた。主人はこれを六波羅に告げた。清盛は難波経房(なんばのつねふさ)を遣わし、兵三百でこれを取り囲ませた。義平は刀を抜いて躍り出て、たちまち数人を斬り、屋根の上に跳び上がると、忽然と姿を消してしまった(注:『平治物語』による)。

経房は景澄だけを捕らえ、清盛のもとへ連れ帰った。清盛は景澄が二心を抱いていたことをなじり、斬るよう命じた。景澄は「私は代々源氏に仕えてきた者である。しばらくお前に仕えていたのは、源氏が再び興隆する時を待っていたにすぎぬ。お前は迂闊にもそれに気づかず、どうして私を嘲ることができようか」と言った。清盛は怒り、すぐにこれを斬った。

義平は野宿を重ねながら平氏の動静をうかがい続け、艱難辛苦を嘗め尽くし、東近江(ひがしおうみ)に旧知の者を探し求め、その家に身を寄せようとした。逢坂(おうさか)を通りかかったとき、疲れ果てて山中で臥せっていた。折しも経房が関明神(せきみょうじん)に参詣していたが、兵五十騎を分けて捜索させたところ、義平は起き上がって応戦した。経房が腕を射抜いたため、義平は刀を振るうことができなくなった。兵たちが群がって捕らえ、六波羅へ連れ帰り、廊下の下に座らせた。義平は怒って「私は運尽きて捕虜となったとはいえ、なぜ廊下の下に座らされねばならぬのか」と言い、自ら立ち上がって座敷に入った。

清盛は出てきて義平と向き合い、「先にそなたは烏丸で包囲されながら、三百騎を打ち破って脱出したというではないか。それが今、五十騎ごときに捕らわれるとはどうしたことか」と言った。義平は笑って答えた、「これも運命というものだ。そなたもまた運が尽きて、ついにこのような仕儀に至ったのだ。私は手強い敵であるから、生かしておくべきではない。早く斬るがよい」(注:諸本『平治物語』による)。こうして六条河原で斬られた。時に二十歳であった。

死に臨んで義平は罵って言った、「保元の乱では源平の将士を多く殺したが、それはいつも夜中のことであった。それを今、白昼に私を殺すとは、平家の奴輩(やつばら)め、なんと無礼なことか。もし信頼が私の言葉を用いていたならば、平家の者どもは一人として生き残ってはいなかったろう」。経房が「そなたはなんと口の減らぬことか」と言うと、義平は目を怒らせて「よくも私を斬ったな。さもなくば必ず雷に打たれて死んでいたところだ。お前たちもきっとそうなるぞ」と言った。後に経房は果たして雷に打たれて死んだので、世の人々はこれを義平の祟りだと噂した(注:『平治物語』による。鎌倉本『平治物語』では経房を「経遠」とし、『源平盛衰記』では「経俊」とするが、一の谷の合戦の際に経房はなお存命であった。どちらが正しいか分からないので、ここでは『十訓抄』および京都本・杉原本・半井本など諸種の異本『平治物語』に従っておく)。

鎌田政家

鎌田政家(かまたのまさいえ)は、本名を正清(まさきよ)といい、二郎(じろう)と称した(注:『平治物語』による)。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫であり(注:『尊卑分脈』による)、相撲人(すまいびと)であった(注:『保元物語』による)。父通清(みちきよ)は鎌田権守(かまたのごんのかみ)と号し、源為義に仕えた(注:『尊卑分脈』による。京都本・杉原本『保元物語』では通清を「正宗」、権守を「荘司」とするが、どちらが正しいか分からない)。

政家は父の跡を継いで義朝に仕え、勇敢さで知られた。白河殿の戦いで、為義の子頼実(よりざね)が出て戦い、二騎を射倒した。義朝は怒って自らこれに当たろうとしたが、政家は手綱を押さえて止め、「主将たる者が、どうして自らこのように軽々しく動かれるのですか」と言った。義朝が聞き入れなかったので、政家は兵士を指揮して主君を押しとどめ、自ら奮って敵に向かった。

そのとき、たまたま逸れ馬が義朝の陣に入り込んできたので、政家がこれを検分すると、鏃(やじり)が鞍を貫き、鑿(のみ)ほどの大きさであった。これを為朝が射たものと思い込み、義朝は「為朝はまだ年若く、これほどの力があるはずはない。これはきっと人を怖れさせるための偽計であろう。そなたが一戦してこれを挫け」と言った。政家はそこで百騎を率いてこれに向かった。為朝は罵って「お前はもともと我が家の家来ではないか。私の相手になるには足りぬ」と言った。政家は「昔は主君であったが、今は逆賊である。討たずしてどうしようか」と答え、その兜を射た。為朝は大いに怒り、首藤家末(すどうのいえすえ)らの猛者二十八騎を率いて迫った。政家はその鋭鋒に敵し難いと判じ、兵を引いてこれを避けた。為朝もまた深追いはしなかった(注:『保元物語』による)。

平治の乱では、信頼は政家を右兵衛尉とし、「この戦に勝てば、上総(かずさ)をもって報いよう」と約束した。重盛が待賢門を攻めた際には、政家は後藤実基らと十六騎で義平に従って力戦し、これを退けた。義朝が六波羅を攻めて戦況が不利になり、一戦に決死を期して馬を進め敵に向かおうとした際、政家は馬を押さえて諫めて言った、「かねてより源平両家と並び称されておりますが、世間では源氏をこそ最も勇猛とみなしております。しかし今日の戦いでは、矢は尽き刀は折れ、兵も馬も皆傷ついております。この状態で攻め寄せても、決して勝機は得られますまい。もし雑兵の中で命を落とし、屍を軍馬の蹄にさらすようなことになれば、末代までの恥辱となるばかりか、諸国の一族郎党もばらばらとなり、こぞって敵に降ることになりましょう。しばらく山林に身を隠し、敵に安心させぬようにするのが得策でございます」。義朝はこれに従った。

政家は義朝に従って尾張の野間まで至り、その舅平忠致の家に身を寄せたが、義朝は殺害された。政家はその時、忠致と酒を酌み交わしていたが、変事を聞いて座を立った。酌をしていた者が刀を抜いて政家に斬りかかると、政家はすかさずその刀を奪い取り、逆にこれを刺した。しかし忠致の子景致(かげむね)が後ろから斬りつけた。時に三十八歳であった(注:『平治物語』による)。

子には盛政(もりまさ)がおり、藤太(とうた)と称した。次男は光政(みつまさ)といい、藤次(とうじ)と称し、義経に仕えて佐藤継信(さとうのつぐのぶ)、忠信(ただのぶ)と並び称され、世に義経四天王と呼ばれた。盛政は一の谷で戦死し、光政は継信とともに屋島で戦死した。義経はこれを深く哀惜し、愛馬の名馬薄墨(うすずみ)を僧に施し、写経を行わせて卒塔婆を立てさせた(注:『源平盛衰記』による。『吾妻鏡』に、頼朝が政所を置いた際、俊長(としなが)という者を案主(あんじゅ)としたとある。俊長は鎌田新藤次(かまたのしんとうじ)と称しており、おそらく光政の子であろう。参考までに付記しておく)。

建久年間、頼朝は政家の忠義を思い、その子孫を広く探し求めて娘を一人見つけ、志農畿田(しのうきた)・名部(なべ)の二荘を与えてこれに報いた(注:『吾妻鏡』による)。後に髪を剃り、金木尼(かなぎのあま)と号した(注:『尊卑分脈』による)。