卷之二百廿八 列傳第一百五十五

叛臣

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次7
  1. 平將門
  2. 藤原純友
  3. 平忠常
  4. 安倍賴時
  5. 安倍貞任
  6. 安倍宗任
  7. 源義親

平將門

平将門(たいらのまさかど)は、上総介(かずさのすけ)高望(たかもち)の孫で、鎮守府将軍良将(よしまさ)の三男である。(注:『扶桑略記』『今昔物語』では良将を良持とする。本書下総の項では良持は良将の弟としており、おそらく誤りであろう。)相馬小二郎(そうまのこじろう)と称した。(注:『平氏系図』による。)人並み外れて勇猛で、騎射に最も長けていた。若い頃、摂政藤原忠平に仕え、その推薦を求めて検非違使になろうとしたが、忠平はこれを取り合わなかった。将門は志を遂げられず失望し憤慨した。(注:『神皇正統記』による。)そこで関東へ下り、下総国豊田郡に居を構えた。(注:『扶桑略記』による。)配下の者たちを率いて常陸・下総の間を往来し、掠奪を事とした。(注:『今昔物語』による。)

当時、伯父の国香(くにか)は常陸大掾であったが、将門はこれを攻め殺した。(注:『将門記』『神皇正統記』による。)源護(みなもとのまもる)という者がおり、その三人の子、扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)は皆将門に殺された。護は力及ばず復讐できず、常に歎き恨んでいた。将門の伯父良兼(よしかね)は下総介であったが、甥の良正(よしまさ)とともに護の娘を娶っていた。良正は良兼に将門を殺して妻の実家の讎を報いるよう勧めた。これより先、良兼は娘の縁組の件で将門と仲違いしており、(注:『将門記』による。伯父と甥の関係は『平氏系図』に拠る。本書では叔父および弟としている。)また父良将の田をめぐって争い、互いに怨み合っていた。(注:『今昔物語』による。)

承平六年、良兼は常陸で将門を攻めた。国香の子、左馬允貞盛(さだもり)はこれに従って良兼に加勢した。将門は新治郡でこれを迎え撃とうとし、百騎余りを従えて自ら偵察に出たところ、下野との国境で敵に遭遇した。良兼の兵は数千人であったが、将門はまず歩兵に命じて矢を射させ、人馬十数を射殺した。良兼の兵はおじ気づいて潰走し、将門はこれを追って包囲した。やがて将門は「夫婦は瓦のように固く親しく、親戚は葦のように疎遠なものだ。この者たちを皆殺しにすれば、遠近に悪評が広まるだろう」と考え、包囲の一角を解いた。良兼と従兵千余人はそのため脱出できた。(注:『将門記』による。)

朝廷は、勝手に互いを攻め合い百姓を侵し乱したとして将門を召喚し、罪を科そうとした。将門は京へ馳せ参じて事情を弁明し、軽い処分で赦された。(注:『将門記』『今昔物語』による。)

七年、良兼は再び将門を攻め、常陸・下総の間で戦った。将門は軍中に神異があったとして兵を収めて引き上げた。良兼は兵を放って焼き討ちと掠奪をほしいままにし、豊田郡の栗栖院(くりすいん)・常羽御厩(いくはのみまや)はことごとく灰燼に帰した。良兼は将門を捕らえられなかったことを恨み、将門の子春丸(はるまる)に賄賂を贈って石井の陣営を探らせ、要害の地をすべて知った。十二月、夜に乗じてこれを襲った。将門の兵は十人に満たなかったが、目を怒らせ大声で叫びながら進み、風のように馳せ駆けて多治良利(たじのよしとし)を射殺し、良兼の兵は戦わずして逃げた。良兼はこれ以来力尽き、再び戦うことができなくなった。貞盛は京へ逃れた。天慶二年、良兼は死去した。(注:『将門記』による。)

将門はついに下総に拠った。常陸の藤原玄明(はるあき)は長官を軽んじ侮り、官物を横領していた。常陸介藤原維幾(これちか)はこれを罪に問おうとした。玄明は恐れて将門に降った。将門はその手引きを頼りに常陸を奪い取ろうとし、(注:『将門記』『今昔物語』を参照。)千余人を率いて常陸へ赴いた。(注:『扶桑略記』による。)維幾は備えを固めて待ち受けた。将門は人を遣わして維幾に「玄明を釈放すれば、私はすぐに兵を引く」と告げたが、維幾は聞き入れなかった。将門は三千人を撃ち殺し、維幾を捕らえて連れ帰り、印鑰(いんやく)を奪い、街市を焼き払い掠奪した。(注:『将門記』、『扶桑略記』を参照。)

武蔵権守興世王(おきよおう)は凶悪で乱を好み、将門と誼を通じて共に謀を進めた。武蔵介源経基(つねもと)は京へ逃れて事の次第を奏上した。朝廷は詔を下して将門を詰問した。将門は常陸・下総・下野・武蔵・上総に迫って解文(げぶみ)を取り、謀反の意志のないことを証明させた。朝廷はこれを信じた。(注:『今昔物語』を主とし『日本紀略』を参照。)

興世王は将門に説いて言った。「一国を掠め取っただけでも、その罪は許されまい。いっそ坂東全体を併合し、天下の情勢をうかがうべきだ」と。将門は大いに喜び、下野守藤原弘雅(ひろまさ)らを攻め、迎え降らせた。上野に至ると、(注:『将門記』『今昔物語』『日本紀略』『扶桑略記』による。)介藤原尚範(なおのり)を追放し、国府に入って役人を入れ替えた。(注:『今昔物語』『日本紀略』『扶桑略記』による。)

たまたま八幡大菩薩の使者と称する者が現れ、人々の前で「朕は皇位を蔭子(おんし)である将門に譲る。楽を奏でて迎えるがよい」と声高に言った。将門は再拝してこの託宣を受け、全軍が沸き立った。将門は自ら「新皇」と称した。弟の将平(まさひら)は諫めて言った。「帝王の興りには、おのずから天命がある。兄上はよくよく考えるべきだ」と。将門は聞き入れず、「今の世では戦に勝った者が天子となる。弓矢の技においては、私は生まれつきの才がある。何を憚ることがあろうか」と言った。(注:『将門記』『今昔物語』による。)

そこで下総に帰り、猿島郡石井郷に偽の宮殿を造営した。(注:『扶桑略記』による。)磯橋(いそはし)を京の山崎に、大井津(おおいのつ)を大津になぞらえ、(注:『将門記』『今昔物語』による。)大臣以下、文武百官を任じたが、暦博士だけは適任者が得られなかった。(注:『今昔物語』『扶桑略記』による。)弟の将頼(まさより)を下野守、将文(まさぶみ)を相模守、将武(まさたけ)を伊豆守、将為(まさため)を下総守とし、多治経明(たじのつねあき)を上野守、興世王を上総守、藤原玄茂(はるもち)を常陸守、文室好立(ふんやのよしたつ)を安房守とした。(注:『扶桑略記』による。)

諸国の長官たちは風聞を聞いただけで逃げ出し、世間では将門を「外都鬼王(げとのきおう)」と呼んだ。(注:『平氏系図』による。)信濃・常陸から緊急の駅奏が相次いで届き、朝廷は官符を発して東山道・東海道の要害を整備させ、隣接する諸国に守備を増強させた。(注:『日本紀略』による。)

以前、将門は比叡山に登り、京の都を見下ろして帝位を窺う心を抱いたことがあった。(注:『神皇正統記』による。)そして藤原純友(すみとも)と示し合わせ、「いつか私が帝位に就いたら、お前を関白にしよう」と約束したという。(注:『大鏡』による。)純友は南海道・山陽道の間で掠奪を働いていたが、将門の挙兵を聞いて自らも国司や役人を攻め殺し、沿海の地を騒がせた。(注:『日本紀略』『今昔物語』による。)

将門は摂政藤原忠平に書を送り、自分は脅迫されてやむを得ずこの挙に出たのだと訴えた。しかし朝廷が調査したところ、その言い分には食い違いが多かった。将門の書はこう述べている。「先年、源護の訴えによって糾問を受け、私は昼夜を分かたず都へ上りました。幸い恩赦をこうむり、旧領に帰り着きました。その後、良兼が数千の兵を率いて私を攻めてきました。背を向けて逃げるわけにはいかず、これと戦って防ぎました。その次第は下総国から提出した解文に詳しく記してあります。朝廷はすでに良兼を追捕する官符を下していたにもかかわらず、改めて私を召喚なさいました。心安からず、あえて上京いたしませんでした。また今年の夏、貞盛が将門を問い質せという官符を奉じて常陸に来て、国司がこれを取り次ぎました。貞盛は本来、追捕を逃れて京へ奔った身のはずです。朝廷はその事情を糾明すべきところ、かえって貞盛に理のある官符をお与えになりました。これは偽りを重ねたことの明らかな証です。また常陸介藤原維幾の息子為憲(ためのり)は父の権勢を頼み、乱暴に民を害しています。私の従者玄明はこれを愁い訴え続けました。私はその事の次第を糾そうと、自らその地に赴きました。ところが為憲は貞盛と心を合わせて迎え撃ってきたのです。私はこれを防いで打ち破りました。これは私の本意ではなく、事情はやむを得ぬところから出たものです。しかし自ら思うに、すでに一国を滅ぼした以上、律令の定めるところ許されますまい。たとえ百の県を滅ぼそうとも、その罪は同じことです。ならばいっそ朝議を待つ間に、坂東の諸国を管領しようと思います。将門は柏原帝の五世の孫であり、天下の半ばを領したとして、誰がそれをいけないと言えましょうか。昔から兵威を振るって天下を取った者は、史書に見えるところです。将門の武才は、天が与えたものです。それなのに朝廷は褒賞をお与えにならず、しばしば譴責を受けてまいりました。わが身を省みれば恥じ入ることばかりで、面目の施しようもありません。ただ悔やまれるのは、若い頃、殿下(忠平)に名簿を捧げてお仕えし、その摂政の御世にこのような挙に及ぶことになろうとは夢にも思わなかったことです。この歎きと恨みは、言葉に尽くせません」と。(注:『将門記』による。)

天慶三年、参議右衛門督藤原忠文(ただふみ)を征東大将軍に任じてこれを討たせることとなった。東山道・東海道から兵を募り、殊勲を立てた者には破格の恩賞を与えると布告した。将門は武蔵・相模を巡って留守を置き、賦役を課した。貞盛が常陸にいると聞き、兵を率いて捜索したが、久しく所在がつかめなかったため、もう心配はないと考えて下総に帰り、兵士を解散させた。手元に残ったのはわずか千人ほどであった。貞盛はこれを探り知り、下野押領使藤原秀郷(ひでさと)とともに兵を率いて襲いかかった。将門は慌てて出撃したが大敗した。貞盛・秀郷は勝ちに乗じてこれを攻めた。将門は自軍が寡兵で敵わないと悟り、二将をおびき寄せて険しい地で迎え撃とうとし、幸島(さしま)に退いて守った。(注:『扶桑略記』では「島広山」とする。)貞盛・秀郷は火を放ってその陣営を焼き、幸島の北山で追撃戦を行った。これより先、将門は常に精兵八千を選んで身辺を守らせていたが、この時はまだ集まっておらず、手元の兵はわずか四百余人であった。それでも力の限り防ぎ戦い、官軍はいったんひるんだ。しかし貞盛・秀郷は士卒を督励して大いに戦い、ついに将門軍を打ち破った。将門は単騎で敵陣に突入し、貞盛がこれを射殺した。首は京へ送られ、一党もことごとく誅殺された。(注:『今昔物語』による。)

藤原純友

藤原純友(すみとも)は、権中納言藤原長良(ながら)の曾孫である。父の良範(よしのり)は筑前守・大宰少弐であった。(注:『尊卑分脈』による。)純友は性格が荒々しくよこしまで、身持ちが定まらなかった。伊予掾となった。(注:『扶桑略記』による。)

承平年間、南海道で群盗が大いに起こり、海上で掠奪を働いた。沿海の郡や村はこれに騒然となった。朝廷は紀淑人(きのよしと)を伊予守として派遣し、海賊の鎮撫にあたらせた。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)純友もまた国掾として追捕にあたった。(注:『外記日記』による。)賊は淑人の威信に服し、多くが帰順した。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)

ところが純友はひそかに謀反の志を抱くようになり、任期が満ちても帰京せず、(注:『日本紀略』『外記日記』による。)日振島(ひぶりしま)に居を構えた。(注:『日本紀略』『続本朝文粋』による。)この頃、平将門は常陸・下総の間に勢力を張り、その威勢は近隣諸国を震わせていた。純友は残党を誘い集めてこれに呼応し、ひそかに京の都を襲う機会を窺った。夜ごと兵を放って坊や市に火を放たせ、都の内は騒ぎ乱れた。(注:『扶桑略記』による。)備前介藤原子高(さねたか)がその動きを察知し、京へ上って奏上しようとしたが、純友はこれを追って殺し、その妻子を捕虜にし、あわせて播磨介島田惟幹(これもと)をも殺害した。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)

天慶二年、朝廷は官符を下して純友を諭し、従五位下を授けた。しかし純友は改心せず、乱暴はいよいよ激しさを増した。讃岐介藤原国風(くにかぜ)がこれを攻めたが、かえって敗れ、阿波へ逃れた。純友はさらに進んで讃岐国府を焼き払った。国風はまた淡路へ逃れ、勇猛な兵を集めて讃岐に戻った。(注:『扶桑略記』による。)純友は伊予・讃岐を略取し、さらに山陽道の地を侵した。追捕使左衛門尉在原相安(すけやす)は敗走し、純友は周防の鋳銭司や土佐の幡多郡を焼いた。(注:『日本紀略』による。)

朝廷は左近衛少将小野好古(よしふる)を追捕使長官、大宰少弐源経基を次官、右衛門尉藤原慶幸(のりゆき)を判官、志(さかん)大蔵春実(はるざね)を主典とし、それぞれ播磨・讃岐へ分かれて向かわせた。戦艦二百余艘を造り、まっすぐ日振島へ向かわせた。純友は千五百余艘を並べてこれを迎え撃った。官軍がまだ到着しないうちに、頭目の藤原恒利(つねとし)が投降してきた。恒利は海陸の地形の険しさや平坦さ、また賊の巣窟をことごとく知っていたので、(注:『扶桑略記』による。)藤原国風はこれを道案内として、勢いよくこれを追撃した。純友の軍は大敗した。(注:『扶桑略記』『日本紀略』による。)国風は兵を分けて陸路を断ち、軽舟を遣わして純友の潜伏先を突き止めようとしたが、風に遭ってその行方を見失った。(注:『扶桑略記』による。)

純友は逃れて太宰府に至り、勢いを再び盛り返した。官軍は敗退し、純友は太宰府に攻め入って代々蓄えられた財物を奪い、館舎を焼き払った。管内は震え上がった。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)参議右衛門督藤原忠文が征西大将軍に任じられ、諸軍を統べてこれを討つこととなったが、まだ出発していなかった。(注:『扶桑略記』による。)小野好古は陸路から、藤原慶幸・大蔵春実は海路から、筑前博多津へ向かってこれを攻めた。純友の軍は潰え、捕虜と斬首はほぼ全軍に及び、船八百余艘を奪った。弱り果てた者たちは海へ逃げ、純友は伊予へ逃げ帰ったが、警固の使い橘遠保(とおやす)がこれを斬った。(注:『扶桑略記』『外記日記』による。)子の重太丸(じゅうたまる)は年十三であったがほとんど成人のようで、父に従って盗みを働き、同時に殺された。(注:『日本紀略』『外記日記』『今昔物語』による。〔『尊卑分脈』によれば純友には有信・紀年・伊王丸という三人の子がいたとされる。有信・紀年がどうなったかは分からない。伊王丸が『日本紀略』にいう重太丸であろうか。〕)遠保は父子の首を京へ持ち帰り、絵師に命じてこれを写させた。帝はこれを御覧になった。(注:『今昔物語』による。)

平忠常

平忠常(ただつね)(注:「常」は「経」または「恒」とも書く。)は、上総介高望の曾孫で、鎮守府将軍良文(よしふみ)の孫である。良文は武蔵国村岡に住み、村岡五郎と称した。父の忠頼(ただより)は村岡次郎と称した。(注:『平氏系図』による。)忠常は下総に住み、(注:『扶桑略記』による。『左経記』は下野とするが誤り。)上総介に任じられ、(注:『百錬抄』『扶桑略記』『平氏系図』による。『編年残編』は下総権介とする。)従五位下に叙せられ、武蔵押領使となった。(注:『平氏系図』による。)

忠常は代々東国に住み、一族は数多く勢力が強盛で、その勢いを頼んで横暴に振る舞い、(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)上総・下総の二国にまたがって拠り、貢賦を納めず、徭役にも応じなかった。(注:『今昔物語』による。)

長元元年、兵を挙げて反乱を起こし、上総国府を陥落させた。(注:『小右記』による。)安房を侵し、国守惟忠(これただ)を焼き殺した。(注:『編年残編』による。本書では姓を欠く。)朝廷は検非違使平直方(なおかた)らを遣わし、東海道・東山道二道の兵を率いて追討させた。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)翌年、さらに北陸道にも官符を下し、二道の兵とともに討伐にあたらせた。(注:『小右記』『日本紀略』『扶桑略記』による。)

三年、安房守藤原光業(みつなり)は忠常を恐れ、印鑰を捨てて京へ逃げ帰った。(注:『日本紀略』による。『編年残編』を参照。)直方らは長く戦功を挙げられず、朝廷は詔を下してこれを召還し、(注:『日本紀略』『百錬抄』による。)甲斐守源頼信(よりのぶ)にこれを代わらせた。(注:『日本紀略』による。『百錬抄』『編年残編』は四年のこととするが誤り。)この頃、忠常の一族は武蔵・上総の間で威勢を誇っていた。(注:『平氏系図』による。)

四年、頼信は軍を進めて常陸に次いだ。(注:「四年」は『左経記』による。)左衛門尉平惟基(これもと)もこれに従った。上総・下総の間には大水があり、忠常はその要害を頼んで防備を固めた。頼信は人を遣わして忠常を説得させた。忠常は言った。「私はかねてよりあなた様の名声を聞き及んでおり、身を委ねてお仕えするつもりでおりました。しかし惟基は私の仇でありながら、あなた様の側近にいます。私は仇の前に跪いて拝することは忍びません」と。また折しも大河には船もなく、渡ることができなかった。ついに忠常は頼信の命に従わなかった。

やがて頼信は兵を率いて直接川を渡った。(注:『今昔物語』による。〔平惟基とは維幹(これもと)のことである。維幹は国香の孫であり、国香の子貞盛はかつて源経基とともに平将門を誅した仲であった。頼信は経基の孫にあたるため、維幹とも力を合わせたのである。一方、忠常は将門の従甥にあたり、将門の旧領を領有していた。それゆえ維幹とは代々の仇敵であった。ただし今、これを裏付ける他の史料はなく、参考として付記するにとどめる。〕)忠常は慌てふためき、なすすべを知らず、髪を剃り名を常安(じょうあん)と改め、二人の子常昌(つねまさ)・常進(つねゆき)らとともに、降伏の書状を捧げて降った。頼信は忠常を連れて美濃国野上まで戻ったが、忠常はそこで病死したため、首を斬って京へ入った。朝廷の議では、忠常はすでに降伏しており、その上東国は疲弊しているとして、これ以上追及することなくこの一件は打ち切りとなった。(注:『左経記』による。)常昌は後に下総権介に任じられ、千葉介と称した。千葉氏・上総氏の二氏は、いずれもその子孫である。(注:『平氏系図』による。)

安倍賴時

安倍頼時(よりとき)は、初め頼良(よりよし)と名乗った。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)祖父忠頼(ただより)は代々陸奥に住み、俘囚(ふしゅう)の酋長であった。父の忠良(ただよし)は陸奥大掾であった。頼時は安大夫(あんのたいふ)と称し、(注:『安藤系図』による。)父祖の事業を受け継いで勢力はますます強大となり、陸奥一円を横行して人民を掠奪した。部落はことごとく服従し、ついに六郡の豪族の長となった。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。〔『東鑑』によれば、いわゆる六郡とは、伊賀・加賀・江刺・稗貫・志波・岩手である。〕)

西は白河関を境とし、東は率土(そつど)の浜に至り、衣川(ころもがわ)の要害の地はその中央に当たっていた。頼時は険しい地形に拠って関を設け、これを衣関(ころもがせき)と名づけた。海陸の地をまたにかけ、財産は豊かであった。(注:『東鑑』文治五年の条による。)貢賦を納めず、徭役にも応じず、国司もこれを制することができなかった。

永承年間、陸奥守藤原登任(なりとう)は数千の兵を発してこれを討った。秋田城介平重成(しげなり)を先鋒とし、自らその後に続いた。頼時は諸部の俘囚を率い、鬼切部(おにきりべ)で迎え撃ち、これを大破した。この事が朝廷に伝わると、朝議は源頼義(よりよし)を陸奥守鎮守府将軍としてこれを討たせることとした。折しも大赦があり、頼時は自ら悔い改めることを許された。頼時は大いに喜んで兵を収め、国司の実名を犯したという理由で今の名(頼時)に改めた。(注:「頼義」と「頼良」は訓読みが同じであったためである。)

頼義は任期の終わりに鎮守府で政務を執った。頼時は駿馬や金銀財宝を贈り、士卒にも手厚く賄賂を送った。頼義が帰国する際、権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞(みつさだ)・元貞(もとさだ)が頼義に従って阿久利川(あくとがわ)に宿営した。ところがその夜、何者かがその陣営を襲い、人馬を殺傷する事件が起こった。頼義は光貞を呼んで「日頃、誰かに恨まれるようなことはなかったか」と尋ねた。光貞は「頼時の長子貞任(さだとう)がかつて私の妹に求婚したことがありました。私はその家柄を賤しんで許しませんでした。おそらくあれの仕業でございましょう」と答えた。頼義は貞任を捕らえるよう命じた。

頼時は怒って言った。「人がこの世に生きる上で、誰しも妻子を思わぬ者はいない。貞任は不出来な子ではあるが、私はどうしてその死を黙って見過ごせようか。我が方の兵力はもとより十分に戦えるだけのものがある。ここは関を閉ざして敵の来襲を待つに越したことはない。もし戦いに敗れ、一族もろとも死ぬことになっても、悔いはない」と。そしてついに関を閉ざし、再び反旗を翻した。頼義は兵を率いてこれを攻めた。頼時の娘婿である藤原経清(つねきよ)と平永衡(ながひら)は、それぞれの手勢を率いて頼義に帰順していたが、ある者が永衡について頼義に讒言したため、頼義は永衡を捕らえて斬った。経清はこれを見て疑い恐れ、手勢を率いて頼時のもとへ逃げ込んだ。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)

頼義は国府に引き返してこれを守り、気仙郡司金為時(きんのためとき)に頼時を攻めさせた。頼時は弟の僧良照(りょうしょう)に命じてこれを防がせた。為時はやや優勢であったが後詰めの援軍がなく、一戦しただけで退いた。頼時は俘囚の安倍富忠(とみただ)が兵を挙げて官軍についたと聞き、自ら赴いて利害を説いたが、従う者は二千人に満たなかった。富忠は険阻な地に伏兵を潜ませてこれを迎え撃った。両軍は二日にわたって交戦し、頼時は流れ矢に当たり、鳥海(とりのうみ)に引き返して死んだ。時に天喜五年のことである。

頼時には八人の子があった。長男は盲目で井殿(いどの)と称した。次男は貞任。次男は宗任(むねとう)で、鳥海三郎と称した。次は僧官照(かんしょう)で、境講師(さかいのこうし)と称した。次は正任(まさとう)で、黒沢尻五郎(くろさわじりごろう)と称した。(注:『東鑑』による。〔『安藤系図』は官照を井殿の名とし、『藤崎系図』は家任(いえとう)が出家した際の称号とするが、いずれも誤りであろう。〕)次は重任(しげとう)で、北浦六郎(きたうらろくろう)と称した。次は家任で、鳥海弥三郎(とりのうみやさぶろう)と称した。(注:『安藤系図』による。〔『藤崎系図』は重任を正任の兄とするが、おそらく誤りであろう。〕)次は則任(のりとう)で、白鳥八郎(しらとりはちろう)と称した。(注:『東鑑』『藤崎系図』による。名は『陸奥話記』に拠る。本書では「行任」とする。)

安倍貞任

安倍貞任(さだとう)。貞任は厨川(くりやがわ)の邑に住み、厨川二郎と称した。容貌は堂々として大きく、色白で肉付きがよかった。身の丈六尺余り、腰回りは七尺四寸あった。父の死後、その兵を引き継いだ。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)

天喜五年十一月、貞任は源頼義が攻めてくると聞き、自ら精兵四千余りを率いて出陣し、河崎柵(かわさきのさく)に拠り、鳥海(とりのうみ)で迎え撃った。折しも大風雪となり、官軍は飢えと寒さに苦しんだ。貞任は精鋭の騎馬隊を放って突撃させ、数百人を討ち取った。さらに剽悍な騎兵二百余りに左右から挟み撃ちさせて大いに打ち破り、頼義はかろうじて逃げのびた。貞任の勢いはますます盛んになり、人民を掠奪して回った。(注:『扶桑略記』『陸奥話記』による。)別動隊として藤原経清に数百の兵を率いさせ、衣川関を出撃させた。諸郡に使者を遣わし、私的な符牒を用いて官物を徴発した。

康平五年、頼義は清原武則(たけのり)らと兵を合わせ、貞任の叔父僧良照の柵を攻めた。良照の軍は大いに崩れた。弟の宗任は騎兵八百を率いて柵を出て応戦したが敗れた。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)別に遊撃隊を遣わして清原武道(たけみち)の陣を襲わせたが、これもまた敗れた。(注:『陸奥話記』による。)ついに柵を捨てて逃走した。しばらくして官軍は食糧が尽きた。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)宗任はその疲弊に乗じ、磐井郡以南の諸郡を誘って官軍の兵糧の道を断たせ、その輜重を奪わせた。(注:『陸奥話記』による。)

貞任は一同に謀って言った。「聞くところによれば、近頃敵軍は食糧が尽き、四方に散って食を求めており、陣中に残る兵はわずか数千に過ぎないという。我が精鋭をもってこれを襲えば、必ず打ち破れよう」と。九月、精兵八千余りを率いてこれを襲ったが、官軍には備えがあった。貞任は大敗して陣営に戻った。官軍は夜に乗じて迫り攻め、火を放って焼き払ったため、陣中は大いに乱れ、味方同士で撃ち合う始末となり、死傷者が多数出た。貞任は高梨宿(たかなしのしゅく)の石坂柵(いしさかのさく)を捨てて依川(いかわ)に退いて守った。(注:『扶桑略記』『陸奥話記』による。)木を切り倒して道を塞ぎ、険しい地に拠って守りを固めた。

翌日、官軍が攻めてきて藤原業近(なりちか)の柵を焼いた。貞任は火の手が上がるのを見て大いに驚き、また退いて鳥海柵(とのみのさく)に拠った。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)その勇猛な将、平孝忠(たかただ)・金師道(きんのもろみち)・安倍時任(ときとう)・安倍貞行(さだゆき)・金依方(きんのよりかた)らは皆戦死した。(注:『陸奥話記』による。)やがて官軍が突如迫り、貞任・宗任は戦わずして逃げ、厨川柵(くりやがわのさく)に立てこもった。(注:『扶桑略記』『陸奥話記』『今昔物語』による。)その地は西北に大きな沢があり、両面は川に阻まれ、岸の高さは三丈余り、柵の上には物見櫓を構え、堀の中には刃を植え鉄蒺藜(てつびし)を仕掛けるなど、守りは非常に固かった。官軍はまたこれを包囲した。貞任は矢を射かけ、煮え湯を浴びせかけるなどして力の限り防いだ。女たち数十人が櫓に登って歌をうたい、官軍を挑発した。頼義は怒り、急いでこれを攻めた。貞任は数百人を撃ち殺した。(注:『陸奥話記』による。)

官軍は建物を壊して堀を埋め、火を放って焼き払った。折しも大風が激しく吹き荒れ、櫓や屋舎は一気に焼け落ち、賊軍は大いに崩れ乱れた。官軍は包囲を緩めて逃げる敵を外に出させ、横から討ってほとんど討ち尽くした。貞任は剣を振るって戦いに出たが、官軍が槍を集めて突き刺してもなお息絶えず、大盾に乗せられて頼義の前まで運ばれた。頼義はその罪を数え上げた。貞任は一言も発することなくやがて息を引き取った。時に年四十四であった。(注:『扶桑略記』『陸奥話記』『今昔物語』による。)弟の重任と藤原経清は生け捕りにされて斬られた。弟の家任、伯父の為元(ためもと)は降伏した。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)良照は出羽まで逃げたが、出羽守源斉頼(なりより)に捕らえられた。(注:『扶桑略記』による。)

貞任には二人の子があった。長男は千代童子(ちよどうじ)といい、年十三、容姿は美しく、勇猛さに祖父譲りの風があった。貞任が敗れた際、柵を出て戦い、官軍に捕らえられた。頼義はこれを哀れみ、死罪を免れさせようとしたが、清原武則が進み出て諫めて言った。「将軍、小さな情けにとらわれて後の大きな禍を残してはなりません」と。頼義はこの言葉をもっともだとして、これを斬った。(注:『扶桑略記』『陸奥話記』『今昔物語』による。)次男の高星(たかあき)は、乳母がこれを抱いて津軽の藤崎に逃げ隠れ、後にその地を治めるようになった。(注:『藤崎系図』による。)

はじめ貞任の首を京へ送る際、投降した者にこれを担がせた。近江まで来たとき、見張りの者は担ぎ手にその首を洗い髪を梳かせるよう命じた。担ぎ手は自分の櫛を貸してほしいと願い出た。見張りが「お前の櫛を使えばよいではないか」と言うと、担ぎ手は涙を流して言った。「我が主が生きておられた時、私は天を仰ぐようにお慕い申しておりました。どうして今日、この私の櫛で主の髪を梳くことなどできましょうか」と。そして長く嗚咽し続け、見ていた者たちも皆哀れに思った。(注:『扶桑略記』『陸奥話記』『今昔物語』による。)

安倍宗任

安倍宗任(むねとう)。宗任は戦いに敗れた際、泥沼の中に身を投じて難を逃れた。家任らが降伏したと聞き、弟の則任(のりとう)および金為行(きんのためゆき)・金則行(きんののりゆき)・金経永(きんのつねなが)・藤原業近・藤原頼久(よりひさ)・藤原遠久(とおひさ)らを率いて出て降伏した。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。)弟の正任は出羽に逃げ隠れていたが、これを聞いてやはり降伏した。(注:『陸奥話記』による。)

七年春、頼義は宗任・正任・僧良増(りょうぞう)ら五人を伴って京へ上り、宗任・家任は伊予へ、良照は太宰府へ流された。(注:『一代要記』『百錬抄』『朝野群載』による。)宗任は頼義の家にいる間、源義家に親しく用いられた。(注:『古今著聞集』による。〔『平家物語』剣巻には次のような話がある。宗任が京に上った際、公家たちが「宗任は夷狄の者だから、その振る舞いはさぞ野卑であろう」と言い合い、梅の花を見せてからかった。すると宗任は和歌を詠んで「我が国の 梅の花とは 見たれども 大宮人は 如何に云うらむ」(我が国では梅の花だと見ておりますが、都の方々は何とお呼びになるのでしょうか)と答えたので、公家たちは恥じ入って引き下がったという。ただしこれは後世の物好きが作った話と思われるので、ここでは採用しない。〕)後に出家し、筑紫に住んだ。(注:『今昔物語』による。)松浦党は、その子孫である。(注:『平家物語』剣巻による。)

源義親

源義親(よしちか)は、鎮守府将軍源義家(よしいえ)の次男で、左兵衛尉となり対馬守に任じられ、従五位上に叙せられた。(注:『尊卑分脈』による。)

康和年間、鎮西を横行して人民を侵し虐げたため、朝廷は兵を発してこれを討たせた。(注:『百錬抄』による。)翌年、義家は従者を遣わして義親を呼び出したが、応じなかった。さらに朝廷の使者をも殺した。(注:『中右記』による。)その罪により隠岐へ流された。(注:『百錬抄』による。〔『尊卑分脈』は康和二年に朝命に背いたとし、翌年出雲へ流されたとする。『古事談』は康和五年のこととするが、これはおそらく誤りであろう。〕)しかし義親は配流の地に赴かず、出雲にとどまった。目代を殺し、人馬を奪い、官物を掠奪した。(注:『百錬抄』による。『古事談』を参照。)

嘉承二年、朝廷は平正盛(まさもり)を追討使としてこれを討たせた。(注:『尊卑分脈』『帝王編年記』による。〔『歴代皇紀』は永長七年とするが誤りである。〕)天仁元年、義親は誅殺され、その首は右獄門にさらされた。(注:『百錬抄』『一代要記』『古事談』による。)子には義信(よしのぶ)・義俊(よしとし)・義春(よしはる)(注:別本では「春」を「泰」につくる。)・為義(ためよし)・宗清(むねきよ)・義行(よしゆき)がいた。義信は対馬大郎(つしまのたろう)と称し、従四位下に叙せられ、左兵衛佐に任じられた。(注:『尊卑分脈』による。)為義については源義家の伝にある。義親が誅殺された後も、後年たびたび義親を偽って名乗る者が現れ、あるいは捕らえられ、あるいは殺された。(注:『百錬抄』『中右記』『長秋記』を参照。)