卷之二百廿七 列傳第一百五十四
叛臣
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
吉備田狹
¶『易経』の噬嗑(ぜいごう)卦には「雷電が噬嗑し、先王はこれによって刑罰を明らかにし法を定めた」とある。聖人はその上九の爻の意味を解いて、「悪が積み重なって覆い隠せなくなり、罪が大きくなって解けなくなれば、首かせをつけられて耳を滅ぼすほどの凶事となる」と述べている。そもそも天下は広く、民は多いが、それが一つにまとまり正しく治まって誰も揺るがすことができないのは、身分の上下がはっきりと定められ、君臣の分がしっかり決まっているからである。ひとたび隔たりが生じて背く者が出れば、小さな者は懲らしめ、大きな者は誅殺する。必ずこれを取り除いて秩序を一つにまとめてこそ、天下の治世は成り立つのである。
¶昔、天祖(あまつみおや)は経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)の二神に命じて、妖しく邪悪なものを打ち払わせ、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させた。その後、皇孫は天の磐座(いわくら)を離れて高千穂(たかちほ)の峰に降臨された。それ以来、神武天皇(じんむてんのう)は東征して長髄彦(ながすねひこ)を討ち滅ぼし、景行天皇(けいこうてんのう)は西方を討伐して熊襲(くまそ)の梟帥(たける)を討ち平らげた。天の威光を厳粛に奉じて、先人の功業をよく受け継いだのである。いずれも自ら弓矢を身につけ、風雨に身をさらしながら、天下を一つにまとめ和合させたのであって、この道によらないものはなかった。
¶しかし中世になると事変が多く、皇室の綱紀は緩み、姦臣や害をなす賊がのさばり猖獗(しょうけつ)を極めた。あるいは寵愛を頼みとし、あるいは凶暴な勢いに乗じ、あるいは山河の険しさを頼み、あるいは征討の武功を誇り、国や郡を割拠して朝廷を震え上がらせる者が、しばしば現れた。反乱の跡はそれぞれ異なるとはいえ、誅殺されて滅ぼされる点では一つに帰する。
¶『春秋』の書き方では、斉(せい)・豹(ひょう)・盗(とう)という三人の反逆者の名をそのまま記している。それゆえ「名を求めても得られない者もあれば、隠そうとしてかえって名が明らかになる者もある。これは不義を懲らしめるためである」というのである。かの庶其(しょき)や牟夷(ぼうい)といった者たちでさえ、筆誅は厳しかった。まして罪悪が天に満ち、都を騒がせた者においてはなおさらである。足利尊氏(あしかがたかうじ)や北条義時(ほうじょうよしとき)、北条高時(ほうじょうたかとき)らのように、兵を挙げて朝廷に逆らいながら、今これを将軍や家臣の列に置いているのは、時勢の変化を示すためである。よってここに「叛臣伝」を作る。
藤原仲麻呂
¶吉備上道田狭(きびのかみつみちのたさ)は、稚武彦命(わかたけひこのみこと)の子孫である。(注:『先代旧事本紀』には、仲彦命の子多佐が初めて上道国造となったとある。多佐と田狭とは音訓が通じる。しかし田狭を仲彦の子とする説には、他に根拠となる資料が見当たらない。一方『日本書紀』では、御友別の仲子である仲彦を上道臣の祖としている。『新撰姓氏録』によれば、御友別は稚武彦命の孫にあたる。そこで今は田狭を稚武彦命の子孫と定める。)
¶田狭の妻の稚媛(わかひめ)は国中で並ぶ者のない美貌の持ち主であった。二人の間には兄君(えきみ)・弟君(おときみ)という二子が生まれた。田狭はかつて宮中で、友人に自慢して「天下の佳人といっても、私の妻には及ばない。化粧で飾らず香油も加えずとも、世にまれな美しさで、当代随一である」と語った。雄略帝(ゆうりゃくてい)はこれを聞いて彼女を手に入れたいと思い、田狭を任那国司(みまなのくにのつかさ)に任命し、その隙に稚媛を妃として召し入れた。田狭はこれを聞いて恨みを抱き、任那に拠って反乱を起こし、自ら新羅(しらぎ)へ赴いて援助を求めた。
¶このころ新羅は長らく朝貢を怠っていたため、帝は弟君と吉備海部赤尾(きびのあまべのあかお)に新羅征討を命じた。折しも西漢(かわちのあや)の技術者歓因知利(かんいんちり)が帝の側に仕えており、「技術に優れた者は韓国(からくに)に多くおります。どうかお召しください」と奏上した。そこで弟君らにも同行するよう命じられた。一行は百済(くだら)を経由し、勅命により貢物と技術者を求めた。弟君らは百済に着いて用事を済ませたのち、新羅に入った。すると神が老女に姿を変えて現れた。弟君が都までの道のりを尋ねると、老女は「さらに一月ほど行けば都に着くでしょう」と答えた。弟君は道のりの遠さを嫌って新羅を討たずに引き返し、百済から献上された技術者たちを大島に集め、風待ちと称して数か月も滞留した。
¶田狭はこれを聞いて喜び、ひそかに使者を送って弟君に言わせた。「お前の首の骨はそれほど堅いのか、どうして人を討とうとするのか。帝がお前の母を寵愛して子までなしたと聞く。いずれ禍が及ぶのは間違いない。お前は百済に拠って日本と通じてはならぬ。私もまた任那に拠って、二度と帰るまい」と。ところが弟君の妻の樟媛(くすひめ)は国家への忠誠心が篤く、この謀反の企てを知ると、ひそかに弟君を毒殺してしまった。帝は日鷹堅磐固安銭(ひたかのかたしわこあにせん)を遣わして一行を迎えさせ、赤尾らはこれに従って帰国した。
¶稚媛は帝の寵愛を受けて星川皇子(ほしかわのみこ)を生んだ。帝が崩御すると、皇子は反乱を起こしたが、成功せずに死んだ。田狭はこの騒乱を聞いて皇子を助けようとし、船団四十艘を率いて駆けつけたが、途中で皇子の死を知り、引き返してしまった。(注:『日本書紀』による。ある一説には、弟君は百済から帰る際に漢手人部(あやのてひとべ)・衣縫部(きぬぬいべ)・宍人部(ししひとべ)を献上したとある。)その後の田狭の消息は伝わっていない。
弓削道鏡
¶藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、左大臣武智麻呂(むちまろ)の第二子である。生まれつき聡明で機敏、書物にもひととおり通じていた。大納言阿倍少麻呂(あべのすくなまろ)について算術を学び、その術に精通した。内舎人(うどねり)、大学少允(だいがくのしょうじょう)を経て、次第に昇進して従四位下に至り、民部卿(みんぶきょう)となった。河内国(かわちのくに)と摂津国(せっつのくに)が河堤の管理をめぐって争った際には、勅命により仲麻呂がこれを調べた。帝が紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸した折には、平城京(へいじょうきょう)の留守を預かった。天平十五年、参議に任じられ、左京大夫を兼ねた。帝が難波(なにわ)に行幸した際にも、また留守を預かった。ほどなく近江守を兼任した。天平十八年には式部卿となり、東山道鎮撫使を兼ね、従三位に進んだ。天平勝宝元年、大納言に任じられ、紫微令(しびれい)・中衛大将を兼ね、従二位に進んだ。
¶仲麻呂は孝謙帝(こうけんてい)に非常に寵愛され、常にその側近くに仕えた。天平勝宝四年、帝が東大寺に行幸して盧舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼を祝った際には、還御ののち仲麻呂の田村第(たむらのてい)に立ち寄られた。それ以来しばしば行幸があり、ついにこの邸は離宮のような扱いとなった。天平宝字元年、皇太子が廃され、大炊王(おおいおう)が皇太子に立てられた。これより先、仲麻呂の子の真従(まより)が亡くなり、その妻の粟田諸姉(あわたのもろあね)は寡婦となっていた。仲麻呂は大炊王を田村第に住まわせ、諸姉を妻とさせていた。この時に至って大炊王が皇太子となると、まもなく紫微内相(しびのないしょう)の職が設けられ、仲麻呂がこれに就いた。
¶仲麻呂はすでに帝の寵愛を得て、政権を意のままにしていた。参議橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は仲麻呂を除こうと謀ったが、逆に滅ぼされ、連座した者は多数に上った。仲麻呂の兄で右大臣の豊成(とよなり)もまた左遷されて大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)となった。これ以降、仲麻呂の威勢は内外に広く及び、百官はみな彼を恐れて目をそらすほどであった。
¶仲麻呂は次のように奏上した。「臣が聞くところによれば、功績を末永く称えることは国の常道であり、孝を尽くし続けることは家を継ぐ者の大業であるという。昔の記録をひもとくと、近江大津宮(おうみのおおつのみや)に天下を治められた天智帝(てんじてい)は、天が生んだ聖君であり、聡明で英邁な君主であって、制度を正し、規則を創始された。その折、臣の曾祖父である藤原内大臣(ないだいじん、鎌足)に功田百町を賜り、天下を一つにまとめた功績を称えられた。この賜りものは代々絶えることなく、今日まで伝えられている。それ以来、我が一族には冠位ある者が門を連ね、公卿が代々輩出してきた。
¶しかしひそかに恐れるのは、富貴は久しく保ちがたく、栄華はしぼみやすいということである。それゆえ安泰の中にも危うさを忘れず、夕べにも厳粛な思いを抱いてきた。ところが思いがけず凶徒が反逆を企て、危うく皇室を傾け、臣の一族を滅ぼしかけたことがあった。先祖の恩にまだ報いぬうちに、一族の命運が絶えかけたのである。そこで冥福を修め、末永く栄えることを願う次第である。
¶今、山階寺(やましなでら、興福寺)には維摩会(ゆいまえ)という法会があるが、これは内大臣藤原鎌足(かまたり)が創始したものである。しかし後を継いで盛んにする者がなく、三十年もの間この法会は中断していた。藤原朝廷の代になって、その子である太政大臣藤原不比等(ふひと)が、堂が傾こうとするのを嘆き、寺の造営が未完成であることを憂えて、改めて誓いを立て、先人の遺志を継いだ。そして毎年十月十日にこの法会を開くこととした。内大臣の忌日にあたる日に講説を終えるのは、皇室をお守りし、仏法を保ち、亡き御霊を導き、学僧たちを励ますためである。
¶伏してお願い申し上げるのは、この功田を永くこの寺に施し、維摩会を助けて、いよいよ盛んにすることである。そうすれば内大臣の大いなる功業は天地とともに長く伝わり、皇太后(こうたいごう、光明皇后)の誉れ高い評判も、日月とともに末永く輝くであろう。」帝はこれに応えて詔した。「上表を詳しく読んだ。徳に報いようとする志はまことに深い。学問を勧める橋渡しとなり、仏法の師範を崇めることは、朕もまた卿とともにこの因縁を植えたいと思う。担当の役所に告げて、早くこれを実行させるように。」
¶天平宝字二年、廃帝(はいてい、淳仁天皇)が即位した。帝は詔して、「内相(仲麻呂)の国家に対する功勲はすでに高い。しかしまだ十分な報奨も行われず、称号も加えられていない。参議や八省の卿・博士らに命じて、古式にのっとり正式な議を奏上させるように。根拠のない空言を述べて、聞こし召しを汚してはならない」と述べた。そしてついに仲麻呂を太保(たいほ、右大臣に相当)に任じ、次のように詔した。
¶「善を褒め悪を懲らしめることは、聖主の格言である。功績に報い労をねぎらうことは、明君の常の法である。藤原朝臣仲麻呂は、朝な夕なに怠らず、勤めを慎んで職を守り、君に仕えて忠誠を尽くし、政務を行うにあたって私心がなかった。愚かで拙い者にはその近しさを問わず退け、賢く善良な者は恨みを買ってでも取り立てた。逆徒(橘奈良麻呂ら)を戦う前に滅ぼし、民草は安寧を得た。危機の基をまだ事が起こらぬうちに固めたことで、皇統は末永く続くこととなった。国家に乱れがないのは、おおむねこの人物によるものである。その功労を評価すれば、まことに称賛に値する。
¶そもそも伊尹(いいん)は有莘(ゆうしん)の媵臣(ようしん、付き添いの家臣)であったが、ひとたび成湯(せいとう)を助けて阿衡(あこう)の号を得た。呂尚(りょしょう、太公望)は渭水(いすい)のほとりの老人であったが、文王(ぶんおう)を補佐して営丘(えいきゅう)の封地を得た。まして藤原朝臣仲麻呂は、その祖である内大臣鎌足以来、代々明徳をもって皇室を助け、十代の天子に仕えてほぼ百年、朝廷に事なく天下は清らかに治まってきたのである。これを思えば、古の例に照らしても並ぶ者がなく、その広く行き渡った恵みの美しさは、これに勝るものはない。
¶今より後、その姓の中に『恵美(えみ)』の二字を加えるように。暴を禁じて強きに勝ち、戦を止めて乱を鎮めたことから、名を『押勝(おしかつ)』とする。また、朕にとって母方の伯父にあたる卿は、その人柄まことによろしい。それゆえ字を『尚舅(しょうきゅう)』と称する。さらに功封三千戸、功田百町を与え、永く子孫に伝える賜り物とし、格別の勲功を表す。加えて特別に、銭を鋳造すること、稲を挙(こ、貸し出し)すること、また恵美家の印を用いることを許す。」(注:『続日本紀』による。宇佐託宣集所収の和気清麻呂の宇佐使いの記録および『水鏡』には、「帝は仲麻呂を見ると笑ったので、それで恵美と称した」とある。今考えるに、「笑み」と「恵美」は訓読みが同じであり、おそらく両書の記すところが事実で、詔の文はその言葉を美しく飾ったものであろう。)
¶この日、押勝は勅を奉じて、中納言石川年足(いしかわのとしたり)・参議文屋智奴(ふんやのちぬ)らとともに官名を改めた。渤海(ぼっかい)からの使者が来朝した際には、押勝は自邸で彼らをもてなす宴を開いた。女楽(にょがく)と綿一万屯(とん)を賜った。都に大風が吹いて押勝の邸が壊れると、絁(あしぎぬ)と綿がいくらか下賜された。まもなく帯刀資人(たちはきのしにん)二十人が加えられ、これまでと合わせて四十人となった。
¶天平宝字四年正月、帝がその邸に行幸し、五位以上および従官で主典(さかん)以上の者に、位に応じて節部省の絁と綿を賜った。数日後、上皇(孝謙上皇)と帝が内安殿(うちのあんでん)に出御し、押勝に従一位を授けた。上皇は口頭の勅で、「太保を乾政官(けんせいかん)の大臣とし、太保の職を太師(たいし)とする」と述べ、随身契(ずいしんけい)を賜った。翌日、再びその邸に行幸した。
¶天平宝字五年、平城宮を修理し、近江の保良宮(ほらのみや)へ行幸して住まわれることとなり、押勝に稲百万束を賜った。まもなく保良宮への行幸があり、その邸で宴を催し、まもなく正一位に進み、近江国浅井郡・高島郡の鉄穴(かなくそ)をそれぞれ一か所賜り、帯刀資人六十人が加えられ、これまでと合わせて百人となった。その夏冬の衣服は官から支給された。渤海の使者が来朝した際にも、またその邸で宴が催され、雑色(ぞうしき)の袷衣(あわせ)三十櫃(ひつ)が下賜された。
¶押勝の家は元より裕福であったが、寵愛と俸禄が日増しに加わり、この頃には邸宅を楊梅宮(やまもものみや)の南に建て、東西に楼を構え、その高さは宮城を見下ろすほどで、南門には矢倉まで設けた。押勝の子の真先(まさき)・訓儒麻呂(くすまろ)・朝猟(あさかり)は参議に進み、小湯麻呂(おゆまろ)・藤雄(ふじお)・辛加知(からかち)・執棹(とりかじ)は皆、衛府や国司に任じられた。その他の姻戚もまた要職に就いていた。
¶押勝は人々の怨みが積もって事が起こることを恐れ、猜疑と警戒をますます強めていた。当時、僧の道鏡(どうきょう)が上皇に常に仕えており、押勝への寵愛は次第に衰えていったため、押勝はひそかに道鏡を除こうと謀った。天平宝字八年、押勝は上皇に働きかけて、「都督(ととく)、四畿内・三関(さんげん)・近江・丹波・播磨などの国々の兵事を司る使とし、管内の兵士を各国二十人ずつ、五日交代で都督の衛所に集め、武芸を検分させ、諸国の兵の試験の法に準じて行いたい」と奏上し、許された。押勝はひそかにその人数を倍にし、乾政官の印を用いて命令を下した。
¶大外記(だいげき)高丘比良麻呂(たかおかのひらまろ)は禍が及ぶのを恐れ、ひそかにこの事情を奏上した。押勝は陰陽頭(おんみょうのかみ)大津大浦(おおつのおおうら)を召して吉凶を占わせたが、大浦は押勝の意図を察して、これもまた上皇に告げた。上皇は少納言山村王(やまむらおう)を遣わして中宮の鈴印(れいいん)を回収させた。押勝は訓儒麻呂に命じてこれを奪わせようとした。近衛の物部磯浪(もののべのいそなみ)が走って上皇に急を告げると、帝は授刀少尉(じゅとうのしょうじょう)坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)と将曹(しょうそう)牡鹿嶋足(おしかのしまたり)を遣わし、訓儒麻呂を射殺させた。押勝はさらに中衛将監(ちゅうえのしょうげん)矢田部老(やたべのおゆ)を遣わして奪おうとしたが、授刀の紀船守(きのふなもり)がこれを射殺した。
¶そこで詔が下された。「太師正一位藤原恵美朝臣押勝は、兵を起こして反逆を企てた。よって官位を削り、あわせて藤原の姓字も除く。その職分・功封は、ことごとく没収せよ。」そして使者を遣わして三関(さんげん)を守らせた。
¶その夜、仲麻呂は仲間を招き集め、宇治から近江へと逃走した。従五位下藤原蔵下麻呂(くらじまろ)が兵を率いてこれを討った。上皇は詔して、「逆臣恵美仲麻呂は、官印を盗んで逃走したと聞く。臣下の身でありながら、手厚い寵愛を存分に受け、寵愛が極まり福運も満ちたところで、自ら重い刑に身を落とそうとしている。愚かな民を脅し従えて、分不相応な望みを遂げようとしているのだ。もし勇士があってこの謀反の企てを覆し、急いでこれを討ち滅ぼす者があれば、必ず重く賞するであろう。また北陸道の諸国は、乾政官の印を用いる必要はない」と述べた。
¶山背守(やましろのかみ)日下部子麻呂(くさかべのこまろ)、衛門少尉佐伯伊多智(さえきのいたち)らは、まっすぐ田原道(たわらのみち)を取って先に近江に至り、勢多橋(せたのはし)を焼き落とした。仲麻呂はこれを見て顔色を失い、高島郡に逃れて、前少領角家足(すみのいえたり)の家に泊まり、越前へ逃れようとした。その夜、仲麻呂の臥所の屋根の上に、甕(かめ)ほどの大きさの星が落ちた。
¶伊多智らは越前まで馳せつけ、越前守辛加知を斬った。それを知らぬ仲麻呂は、冰上塩焼(ひかみのしおやき)を擁立して天皇に立てようとしていた。真先・朝猟らは三品(さんぽん)を称して精兵数十を遣わし、愛発関(あらちのせき)に入ろうとしたが、授刀の物部広成(もののべのひろなり)がこれを撃退した。
¶仲麻呂は進退窮まり、船に乗って浅井郡塩津(しおつ)を渡ろうとしたが、逆風のために船が転覆しかけた。そこで山道を取り、まっすぐ愛発関へ向かったが、伊多智らが数人を射殺した。仲麻呂は引き返して高島郡三尾崎(みおのさき)に至り、佐伯三野(さえきのみの)・大野真本(おおののまもと)らと戦った。正午から申の刻(午後四時頃)まで戦い、官軍は疲れ果てた。そこへ蔵下麻呂の軍が到着すると、真先は兵を率いて退いた。三野らは勝ちに乗じて追撃し、殺傷した者は非常に多かった。
¶仲麻呂は遠くに味方の敗北を見て、船に乗って逃亡した。官軍は水陸から挟み撃ちにし、仲麻呂は勝野(かちの)の鬼江(おにえ)で行く手を阻まれ、精鋭を尽くして戦ったが、軍勢は潰走した。仲麻呂は妻子三、四人とともに江に浮かんでいたところを、軍士石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられて斬られ、首は都に送られた。享年五十九。妻子および従者三十四人も、皆斬られた。またその一党である濃(みの)の少掾(しょうじょう)村国島主(むらくにのしまぬし)も誅殺された。
¶勅により、仲麻呂が改めた官名はことごとく元に戻された。詔して、「逆賊恵美仲麻呂は生まれつき凶悪で道に外れた性質であり、威勢と恩寵をほしいままにすること久しかった。それでもなお寛容にこれを許し、自ら改心することを願っていた。ところが寵愛が極まり勢いが増すにつれ、ついに大逆を謀るに至った。今月十一日に兵を起こし、鈴印を奪い取り、ひそかに冰上塩焼を擁立した。乾政官の符を偽造し、三関諸国に兵を発し、近江国に逃れ拠り、越前国へと逃げ込んだ。官軍は勢い盛んに、道を分けて追討した。十八日、仲麻呂とその子孫を斬った。悪事に加担していた者たち、水上塩焼(みなかみのしおやき)・恵美巨勢麻呂(こせまろ)・仲石伴(なかのいわとも)・石川氐人(いしかわのうじひと)・大伴古薩(おおとものこさつ)・阿倍小路(あべのおじ)らも同様である。逆賊を剪除したことは、天も人も共に慶ぶところである。遠近に布告し、皆にこれを知らせるように」と。また詔して、「豊成の官位を元に戻す」とした。子は真従・真先(注:先は光とも作る)・訓儒麻呂・朝猟・小湯麻呂・刷雄(よしお)・薩雄(さつお)・辛加知・執棹である。
¶真従(まより)は、天平勝宝の初めに従五位下に叙せられたが、父より先に亡くなった。真先は、天平宝字年間に陣国衛驍騎将軍(ちんこくえぎょうきしょうぐん)となり、美濃・飛驒・信濃の按察使(あぜち)を兼ね、参議正四位上に至って太宰帥(だざいのそち)を兼ねた。訓儒麻呂は、中宮院に仕えて詔旨を伝宣し、参議に至って丹波守(たんばのかみ)を兼ねた。
¶朝猟(あさかり)は、天平宝字の初めに陸奥守(むつのかみ)となり、まもなく按察使となって鎮守将軍を兼ねた。勅により陸奥国に桃生城(ものうのき)を、出羽国(でわのくに)に雄勝城(おがちのき)を築かせた。詔して、「命を尽くして君に仕えることは、忠臣の至極の節義である。労苦に応じて賞を与えることは、聖主の格言である。かつて先帝はたびたび明詔を下して雄勝城を築かせようとしたが、その事業は成し難く、前任の将も困難に陥っていた。しかし今、陸奥国按察使兼鎮守将軍正五位下藤原恵美朝臣朝猟らは、荒々しい蝦夷(えみし)を教え導き、朝廷の教化に馴れ従わせ、一戦も交えることなく築城を成し遂げた。また陸奥国牡鹿郡(おしかぐん)においては、河を越え嶺を凌いで桃生柵(ものうのき)を築き、賊の肝を奪うほどの威をなした。その功績を思えば、当然褒賞し昇進させるべきである。特に従四位下を授ける」とした。
¶天平宝字四年秋、新羅の使者金貞巻(きんていけん)が朝貢に来たが、その使者の礼を尽くす態度に不備があったため、朝猟に命じてこれを詰問させた。この事は「新羅伝」に見える。まもなく仁部卿(にんぶきょう)となり、按察使を兼ねたまま、さらに東海道節度使となり、従四位上に至って兵部卿(ひょうぶきょう)となった。天平宝字六年、参議を拝命した。(注:『続日本紀』による。)そもそも神亀年間に、按察使大野東人(おおののあずまひと)が陸奥国に多賀城(たがのき)を築いたが、朝猟は在任中に碑を建て、道のりの里数を記した。(注:多賀城碑による。)
¶小湯麻呂は従五位上。薩雄は右虎賁率(うこほんのそつ)。辛加知は左虎賁督(さこほんのかみ)、越前守。執棹は従五位下、美濃守。いずれも父と運命を共にした。
¶刷雄(よしお)は、天平勝宝三年に遣唐留学生となり、従五位下を授けられた。同四年、大使藤原清河(きよかわ)に従って唐に入った。父が誅殺された際には、日頃から禅行を修めていたことにより死罪を免れ、隠岐(おき)に流された。後に召し還され、宝亀年間に本位・本姓を回復して但馬守(たじまのかみ)となった。まもなく従五位上に進み、刑部大判事(ぎょうぶのだいはんじ)・大輔(たいふ)・上総守(かずさのかみ)を歴任した。延暦年間には、大学・右大舎人(うだいとねり)・陰陽頭を歴任した。(注:『続日本紀』による。)
¶弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、河内国(かわちのくに)の人である。(注:『皇胤紹運録』には施基皇子(しきのみこ)の子とあるが、『公卿補任』など他の書物には見えず、おそらく誤りであろう。そのため今はこの説を採らない。)若くして僧となり、禅行(ぜんぎょう)で知られた。孝謙帝(こうけんてい)に召されて内道場(ないどうじょう)に入り、禅師となった。(注:『続日本紀』による。)道鏡は僧正義淵(ぎえん)に師事し、如意輪法(にょいりんほう)・宿曜法(すくようほう)を修めて霊験があり、これによって寵遇を受けた。(注:『歴代皇紀』による。)
¶天平宝字年間、孝謙上皇が保良宮(ほらのみや)に行幸した際に病にかかり、道鏡が常にその側に仕えた。帝(淳仁天皇)がこれを咎めると、上皇は不快に思い、都へ帰ってしまった。まもなく使者を山階寺(やましなでら)に遣わし、詔を宣して少僧都(しょうそうず)慈訓(じくん)を罷免し、道鏡をこれに任じた。これより先、藤原仲麻呂は帝の寵愛を得て権力をほしいままにしていたが、道鏡が寵愛を得るに及んで仲麻呂は次第に疎んじられ、遠ざけられるようになり、ついに謀反を起こして誅殺された。
¶上皇は詔を下して、「朕は禅師(道鏡)を見るに、その行いはこの上なく清らかであり、仏法を受け継いで盛んにし、皇位を守護している。今、朕は髪を剃り袈裟を着けているとはいえ、朝政を見ないわけにはいかない。仏典には『国王が在位のときには、菩薩の浄戒を受持する』とある。これによれば、出家の姿であっても政治の妨げにはならないことが知られる。このことから思うに、出家した天子には、必ず出家した大臣がいるはずである。よって位を授けて大臣禅師(だいじんぜんじ)とし、職分と封戸は大臣に准ずる」とした。道鏡は上表してこれを辞退した。帝はこれに応えて、「大臣禅師の上表を見て、その意のあるところをよく理解した。ただ謙虚を守り、固く退譲の意を述べているが、仏教を興隆させるには高い位がなければ人々を心服させることができず、僧たちを励まし勧めるには、高い栄誉がなければ速やかな精進を促すことは難しい。今この位を授けるのは、どうして禅師に俗務を煩わせようとするものであろうか。この意をよく理解し、上表は取り下げるように」と述べた。
¶帝(淳仁天皇)が廃されて以来、道鏡は寵愛を頼みにいよいよ勝手気ままに振る舞うようになった。天平神護元年、道鏡は太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)となり、文武百官に拝賀させた。(注:『宇佐託宣集』所収の和気清麻呂の宇佐使いの記録によれば、道鏡は「私が僧都に任じられても、俗人たちに軽んじられる。どうか太政大臣に任じて、朝政を助けさせてほしい」と述べ、これが許されたという。道鏡は剣を帯び笏(しゃく)を持ち、袈裟を着けたまま、勝手に官吏の任免を行ったなどとある。その書は道鏡の事績を非常に詳しく載せているが、仲麻呂の謀反を道鏡が法王となった後の出来事としており、本書の記述と合わないため、その文をここでは取捨選択して付け加えるにとどめる。)
¶山階寺の僧基真(きしん)は、まじないと称して童子を縛り、他人の秘め事を言い当てさせ、毘沙門天(びしゃもんてん)の像を作ってその前に小さな珠をいくつか置き、仏舎利(ぶっしゃり)が現れたと称した。道鏡は人々を惑わしてこれを自分の瑞祥としようとし、帝に働きかけて天下に恩赦を行わせ、人々に位一階を賜らせた。帝は大いに喜び、舎利を迎え入れ、諸氏の中から容姿の優れた者二百人を選び、金銀・朱・紫の衣服を着せ、幡蓋(ばんがい)を捧げさせて前後に列した。百官のうち主典(さかん)以上の者はこれを拝した。道鏡が僧徒をよく教え導いて舎利を感得したとして、詔により法王(ほうおう)の位を授けられた。あわせて基真には法参議(ほうさんぎ)・大律師(だいりっし)・正四位上を授け、物部浄志朝臣(もののべのじょうしあそん)の姓を賜り、随身の兵八人をつけた。僧円興(えんこう)は法臣(ほうしん)の位を受けた。円興は基真の師である。法王の月々の禄は天皇の供御(くご)に準じ、法臣は大納言に、法参議は参議に準じられた。
¶こうして道鏡は鑾輿(らんよ、天子の乗り物)に乗り、衣服も食事も天皇に準じるものとなった。政治は大小を問わず、道鏡の裁定によらないものはなかった。弟の浄人(きよひと)は無位無官の身から起こって、八年の間に従二位大納言にまで至った。一族の男女で五位に叙せられた者は十人に上った。(注:『続日本紀』による。)
¶神護景雲元年、法王宮職(ほうおうくうしき)が置かれ、造宮卿高麗福信(こまのふくしん)が大夫(だいぶ)、大外記高丘比良麻呂が亮(すけ)、勅旨大丞葛井道依(ふじいのみちより)が大進(だいじょう)となり、少進一人、大属一人、少属二人が置かれた。基真は放埒で凶暴に振る舞い、高位の者すら憚らず、道行く人は虎のように恐れた。まもなく円興を凌辱した罪で、飛驒(ひだ)に追放された。
¶神護景雲三年正月、道鏡は西宮(にしのみや)の前殿で大臣以下の賀を受けた。数日後、帝がその邸で宴を催し、道鏡は五位以上の者に摺衣(すりぎぬ)一領ずつを与えた。太宰主神(だざいのかんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、宇佐八幡(うさはちまん)の神託と偽って、「道鏡を天子の位に即かせれば、天下は太平になる」と告げた。道鏡はこれを聞いて、次第に皇位への望みを抱くようになった。帝はこれに惑わされ、和気清麻呂(わけのきよまろ)を遣わして神託を受けさせた。清麻呂は帰って、神は許さぬ旨を奏上した。道鏡は激怒し、清麻呂を左遷して流罪とした。
¶宝亀元年、帝は由義宮(ゆげのみや)に行幸し(注:『続日本紀』による)、道鏡とともに遊興にふけり、その狎れ合いは度を過ぎるほどであった。道鏡は帝をますます喜ばせようとして、淫らな道具を進上した。これがもとで帝は病を得て、平城京に帰って崩御した。(注:『水鏡』による。)道鏡は「威福は自分の思うがままであり、人々は自分を推し戴くべきである」と考えていたが、山陵(さんりょう、御陵)の儀が終わると、喪に服す身のまま留め置かれた。群臣は白壁王(しらかべおう)を立てて即位させた。これが光仁帝(こうにんてい)である。
¶坂上苅田麻呂は道鏡の罪悪を奏上した。これにより命が下された。「道鏡法師が、恥知らずな野心を長らく抱いていたと聞く。先帝の陵の土もまだ乾かぬうちに、その奸謀が発覚したのは、神々の加護であり、社稷(しゃしょく、国家)の助けによるものである。しかし先帝の厚恩を思えば、刑を加えるには忍びない。死罪を減じて、下野薬師寺(しもつけのやくしじ)の別当(べっとう)に造(みやつこ)として送り、即日出発させよ。」また習宜阿曽麻呂を左遷し、多褹島守(たねのしまのかみ)とした。天平神護以来、僧尼の度牒(どちょう、出家の証明書)には道鏡の印が用いられていたが、この時に至って治部省(じぶしょう)の印に改められた。宝亀三年、道鏡は左遷先で亡くなり、庶人としての礼で葬られた。(注:『続日本紀』による。)