卷之一百十六 列傳第四十三

遣唐人

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字
この巻の目次11
  1. 高向玄理
  2. 秦朝元
  3. 釋辨正
  4. 阿倍仲麻呂
  5. 藤原清河
  6. 大伴古麻呂
  7. 川部酒麻呂
  8. 大伴繼人
  9. 大伴國通
  10. 膳大丘
  11. 平群廣成

高向玄理

高向玄理(たかむこのくろまろ)は、初め高向漢人(たかむこのあやひと)と称し、また黒麻呂(くろまろ)とも名乗った。推古天皇十六年、小野妹子(おののいもこ)が隋に使いした際、玄理ら留学生を同行させ、隋で学ばせた。玄理は三十三年にわたって留学し、舒明天皇十二年に唐から帰国した。大化元年、国博士に任じられ、位は小徳冠であった。二年、新羅に使いし、人質を差し出させて任那の調を廃止させ、翌年帰国した。新羅は上臣大阿滄(じょうしんだいあさん)の金春秋(きんしゅんじゅう)に護送させ、春秋自身を人質とした。五年、僧旻(そうみん)とともに詔を承け、八省百官の制について議した。まもなく大錦上に任じられた(注:本書の註の一説には大華下とある)。白雉五年、遣唐押使となり、大使の小錦下河辺麻呂(かわべのまろ)、副使の大山下薬師恵日(くすしのえにち)、判官の大乙上書麻呂(ふみのまろ)(注:本書の註の一説には小山下とある)・宮の網田(みやのあみた)・小乙上岡宜(おかのよろし)・置始大伯(おきそめのおおく)・小乙下中臣間人老(なかとみのはしひとのおゆ)・田辺鳥(たなべのとり)らとともに、二隻の船に分乗して出発したが、数か月にわたり漂流し、新羅経由の航路をとって萊州(らいしゅう)に停泊し、ついに長安に入って高宗に謁見した。東宮監門の郭文挙(かくぶんきょ)は、日本の地理や建国当初の神々の名を次々に尋ねたが、玄理はそのたびに答えた。玄理は唐で没した(『日本紀』による)。

秦朝元

秦朝元(はたのちょうげん)の父は僧の弁正(べんしょう)である。弁正は諧謔に富み弁舌巧みで、老荘の学にも通じていた。大宝年間、勅命により唐に渡って学問を修めた。玄宗がまだ即位前の親王であった頃、弁正は碁の名手として寵愛を受けた。弁正には朝慶(ちょうけい)・朝元の二子があったが、弁正と朝慶はともに唐で没した。弁正はかつて望郷の絶句を作り、「日辺(にっぺん)に日本を瞻(み)、雲裏(うんり)に雲端を望む。遠遊は遠国に労し、長恨は長安に苦しむ」と詠んだ。朝元は帰国して朝廷に仕えた(『懐風藻』による)。天平の初め、勅命により弟子二人に漢語を教えた(『続日本紀』による)。四年、遣唐判官として唐に至った。玄宗は弁正ゆかりの縁により、朝元を厚く賜った(『懐風藻』による)。帰朝後、従五位上に叙せられ、図書頭・主計頭を歴任した(『続日本紀』による)。

釋辨正

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(注:『続日本紀』『続日本後紀』では「麻呂」を「満」に作り、『唐書』日本伝にも「仲満」とある)は、中務大輔阿倍船守(あべのふなもり)の子である。生まれつき聡明で読書を好み、従八位上に叙せられた。霊亀二年、遣唐留学生に選ばれた。時に十六歳であった。唐に渡って学問を修め(注:僧顕昭の『古今集抄』が国史を引く)、学識広く、姓名を晁衡(ちょうこう)と改めた。玄宗は左補闕を授け、儀王(ぎおう)の友とした(『新唐書』日本伝による。注:『古今集抄』には、唐朝が姓を晁、名を衡、字を仲としたとあるが、いずれが正しいかは分からない。また唐人王維らが贈った詩には「晁」を「鼂」に作るものもある。さらに『文苑英華』所収の包佶(ほうきつ)が日本国聘賀使晁臣卿の東帰を送る詩、および李白の詩集にいう「日本晁卿」により、晁と鼂は通じ、「臣卿」はおそらく仲麻呂の字であろう)。のち秘書校書に遷った(唐人儲光義(ちょこうぎ)の詩集による。注:本書所収の「洛中にて晁校書衡(ちょうこうしょこう)に眙(あ)う」という詩に、「万国天中に朝(ちょう)し、東隅道最も長し。晁生の美は度(はか)る無く、高駕春坊に仕う。蓬山の裏(うち)を出入りし、伊水の傍らに逍遙す。伯鸞大学に遊び、中夜一たび相望む。落日高殿に懸かり、秋風洞房に入る。屡々言う相去ること遠しと、覚えず晁光を生ず」とある。この「春坊に仕う」との句から年紀を推せば、粛宗が東宮であった頃に仕えたのであろうが、他に考証の手立てはない)。のち秘書監に至り(王維の詩集による)、衛尉卿を兼ねた。勝宝年間、遣唐大使藤原清河(ふじわらのきよかわ)が唐に至ると、玄宗は仲麻呂に命じてこれを接待させた(『日本高僧伝要文抄』による)。清河が帰国する段になり、仲麻呂も共に帰ろうとしたが(『古今集』による。注:本書には、仲麻呂は幾年を経ても帰国できなかったため、あらためて使者が唐に遣わされ、仲麻呂は共に帰ろうとして明州の海浜まで出た、とある。『日本紀略』延暦二十二年、藤原清河に位を贈る条によれば、勝宝四年に聘唐大使となり、天宝十二載に留学生晁衡と同船で帰国しようとしたという。また王維の詩集にある晁監を送る序には「我が開元天地大宝聖文神武応道皇帝」とあり、これより年紀を推せば、勝宝四年は天宝十一載に当たる。『唐書』によれば玄宗の尊号は天宝八載のことであるから、これに拠れば本書にいうところは清河のことであろう)、玄宗はそこで仲麻呂を使者に任じ、仲麻呂は詩を賦して、「命を銜(ふく)みて将に国を辞せんとす、才に非ずして侍臣を忝(かたじけの)うす。天中明主を恋い、海外慈親を憶う。伏奏して金闕を違(さ)り、騑驂(ひさん)玉律を去る。蓬莱郷路遠く、落木故園の林。西のかた恩を懐う日を望み、東のかた義を感ずる辰(とき)に帰る。平生一宝剣、留めて交わりを結びし人に贈る」と詠んだ(『文苑英華』『唐詩品彙』による。注:この二書はこの詩を胡衡(ここう)の作とする。近世、林恕(はやしがほ)の説に、「胡・朝の字は形が似ており、また張氏の『唐雅』では『胡』を『朝』に作ることがその証となる。杜氏『通典』倭部にいう天宝末の衛尉少卿胡衡とは、まさにその国の人物であり、これとも符合する」というので、今はこれに従って定めた)。尚書右丞王維は詩とその序を作って仲麻呂を見送り(王維の詩集による)、包佶・趙驊(ちょうか)らもみな詩を贈った(『文苑英華』による)。やがて明州に至り、唐の人々と別れた。仲麻呂は月を眺め、悲しみにひたって和歌を詠んだ。「天の原(あまのはら) ふりさけ見れば 春日(かすが)なる 三笠の山に 出でし月かも」。この歌を漢語に書き写して人々に示すと、皆感嘆した(『古今集』『土佐日記』による。注:『土佐日記』では「天の原」を「青海原(あおうなばら)」に作る)。ところが海上で暴風に遭い、安南に漂着した(『日本紀略』による)。唐の人々は仲麻呂が溺死したものと思い、翰林供奉の李白(りはく)は詩を作ってこれを哭した(唐人李白の詩集による。注:本書所収の「晁卿衡(ちょうけいこう)を哭す」に、「日本の晁卿帝都を辞し、征帆一片蓬壺(ほうこ)を繞る。明月帰らず碧海に沈み、白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ」とある)。仲麻呂は清河とともに再び唐に至った(『日本紀略』による。『新唐書』によれば、天宝十二歳(年)に晁衡が再び入朝したとあるのは、おそらくこのことである)。粛宗は仲麻呂を左散騎常侍安南都護に抜擢し(『新唐書』による)、のち光禄大夫に至り、御史中丞・北海郡開国公を兼ね、食邑三千戸を与えられた(『続日本後紀』『古今集抄』による)。宝亀元年正月、唐で没した。享年七十。代宗は潞州大都督を追贈した(『日本紀略』による。注:本書はこれを清河の事績としているが、これは本来の条が脱落し、清河と仲麻呂の事績が混同されたものであろう。今は『続日本後紀』承和三年の詔文、『古今集抄』が引く国史、および帝王系図によって定めた。『江談抄』には、「仲麻呂は唐で抑留され、楼上で餓死した。吉備真備(きびのまきび)が唐に渡った際、仲麻呂の霊に出会った」とあるが、その話は怪異に過ぎるので、今は採らない)。

仲麻呂はかつて手紙をしたため、新羅の宿衛王子金隠居(きんいんきょ)に託して故郷の親族に送った。新羅の使者金初王(きんしょおう)がその書状を携えて日本に至った(『続日本紀』による)。仲麻呂は唐にあること凡そ五十余年、身は栄達を極めたものの、望郷の思いはやむことなく、故国のことを語るときは、いつも悲しみに沈まぬことはなかった(『古今集抄』による)。宝亀十年、勅して、「元留学生阿倍朝臣仲麻呂は、唐にあって没したが、遺族は困窮しており、葬祭の備えにも事欠いている。よって東絁(あしぎぬ)百匹、白綿三百屯を賜う」とした(『続日本紀』による)。承和三年、遣唐使派遣を機に正二位を追贈し、詔して、「故留学問生、贈従二品安倍朝臣仲満は、身をもって荒海を渡り、学業は麟角(りんかく)のごとき至難を成し遂げた。詩文の峰は高く聳え、学問の海に波を揚げ、顕位はここに昇り、名声はすでに広く伝わった。それなのにどうして力尽きることなく帰国を果たせなかったのか。ただ天を掞(かかげ)るがごとき詩章のみが残り、地に擲(なげう)てば音を立てるほどの評判は長く伝わっている。冥土においてその功を追って賁(かざ)ることは、すでに先の詔によって高められているが、重ねて崇高な位を授け、この詔をもって与えるものである」とした(『続日本後紀』による。注:従二品を贈ったとの記述は諸書に見えず、あるいは延暦二十二年に清河へ位を贈った際のことかとも疑われる。『日本紀略』は該当箇所を欠いており、今は考証のしようがない)。

阿倍仲麻呂

藤原清河は、中納言大将藤原房前(ふささき)の第四子である。天平年間、従五位下に叙せられ、中務少輔となり、大養徳守(やまとのかみ)に遷り、従四位下に進んだ。勝宝元年、参議に任じられた。二年、遣唐大使となった。四年、節刀を授けられて唐へ赴き、正四位下に叙せられた(『続日本紀』による)。難波に至ると、天皇は高麗福信(こまのふくしん)を遣わして酒肉でねぎらい、御製の歌を賜った(『万葉集』による)。長安に至って玄宗に謁見すると、玄宗は、「あの国には賢君がいると聞く。今その使者を見るに、立ち居振る舞いが他国の使者と異なる」と言い、日本を「礼儀君子国」と称した。そして阿倍仲麻呂に命じ、清河らを案内させて府庫や三教殿を見学させた。また清河と副使吉備真備(きびのまきび)の肖像を描かせ、蕃藏(ばんぞう)に納めさせた。帰国に際し、玄宗は詩を賜り、「日下(にっか)殊俗に非ず、天中嘉会の朝(ちょう)。余を念いて義を懐うこと遠く、爾(なんじ)を矜(あわれ)みて畏途遥かなるを思う。漲海(ちょうかい)秋月を寛(ひろ)くし、帰帆夕颷(せきひょう)に駛(は)せん。因って驚く彼の君子、王化遠く昭昭たり」と詠んだ。特に鴻臚卿蔣挑捥(しょうちょうわん)を差し向けて楊州(揚州)まで送らせ、魏方進(ぎほうしん)に供給の任に当たらせた(『高僧伝要文抄』による)。この時、阿倍仲麻呂も帰国を願い出て(『古今集抄』による)、清河は仲麻呂と同じ船に乗って出発したが、暴風に遭って安南に漂着し(『日本紀略』延暦二十二年による)、驩州(かんしゅう)に至ったところ、随行の者の多くが現地人に殺害され、清河はかろうじて難を逃れた。再び長安に戻り、そのまま留まって唐に仕えることとなった(『続日本紀』による)。名を河清(かせい)と改め(『日本紀略』延暦二十二年による)、特進秘書監となった。天平宝字年間、渤海の使者が帰国する際、高元度(こうがんど)を迎入唐大使使に任じて同行させ、渤海王大欽茂(だいきんも)に書を賜って元度らを唐まで護送させた。大欽茂は輔国大将軍高南申(こうなんしん)を遣わして来朝させ、次のような牒(ちょう)を奉らせた。「藤原河清を迎える使者ら九十九人について。ただ今唐朝では、安禄山(あんろくざん)がまず反逆を起こし、史思明(ししめい)がのちに乱を起こして、内外が騒然とし、いまだ平定されておりません。使者を導こうにも危害を受けることが恐れられ、さりとてこのまま送り返しては聖意に背くことが懸念されます。そこで正使高元度ら十一人を唐へ遣わして河清を迎えさせ、判官全成(ぜんじょう)らは日本へ帰らせることといたしました。よってこの使者を差し向け、事の次第をご報告し、あわせて河清の上表文を献じます」。これに対する詔には、「遣唐大使藤原河清が久しく帰国しないことは、朕の深く憂うるところである。しかるに渤海王が南申を遣わし、河清の上表文を携えて入朝させた。王の誠意には、まことに喜ばしいものがある」とあった。河清が久しく異国にあることを憐れみ、遥かに文部卿を授けた(『続日本紀』による)。元度が唐に至ったが、動乱のため朝見はかなわなかった。しばらくして、粛宗は内使に命じて勅を宣べさせ、「特進秘書監藤原河清は、今回の使者の奏上に従い帰国させたいところであるが、ただ残賊がいまだ平定されておらず、道中は困難が多い。元度はまず南路を取って先に帰り、事の次第を復命せよ」と伝えた(注:『日本紀略』所載の勅文はこれと異なるが、いずれに拠ったものかは分からない)。そこで元度は録事羽栗翔(はぐりのかける)らを唐に留め置いて帰国し、河清はついに帰国がかなわなかった。朝廷はまた遥かに常陸守を授けた。八年、従三位に昇叙した。宝亀年間、新羅の使者が再び河清の書状を献じた。七年、遣唐使派遣を命じ、河清に書を賜って、「汝は遠い異域に使いし、久しく年月を経た。その忠誠は遠くまで聞こえ、消息も伝わっている。よって今回、聘使に託してお前を迎えることとする。絁(あしぎぬ)百匹、細布百端、砂金大一百両を賜う。よく努め、使者とともに帰国するように」と伝えた。九年、遣唐使が帰国する際、河清の娘喜娘(きじょう)がこれに従った。しかし暴風で船が破損し、喜娘は判官大伴継人(おおとものつぐひと)らとともに肥後国天草郡に漂着した。河清はついに唐で没した。訃報が届くと、従二位を追贈された(『続日本紀』による)。

延暦年間、河清の家人が自邸を捨てて寺とすることを願い出て、斉恩院(さいおんいん)と号した(『類聚国史』による)。二十二年、詔して、「入唐大使贈従二位藤原朝臣河清は、先帝の命を受けて唐国に聘し、帰国の途につきながらも海路に迷って漂流し、ついに異郷で没した。よって正二位を追贈する」とした(『日本紀略』による)。承和三年、遣唐使派遣を機に河清に従一品を追贈し、詔して、「故入唐大使贈正二位藤原朝臣河清に、従一品を追贈すべきである。昔、帝の選(せん)に応じて遠く皇華(こうか)の使命を果たしたが、帰帆はうまくいかず、かえって漂流の苦しみを受け、ついに異域にあって、たちまち世を去ってしまった。彼の死を顧みれば、まことに深く嘆き悲しむべきことである。特に時代を超えた恩寵を加え、追遠の思いを表すものである」とした(『続日本後紀』による)。

藤原清河

大伴古麻呂(おおとものこまろ)は、勝宝元年、左少弁となった。二年、遣唐副使となった。六年、唐から帰国して奏上した。「天宝十二載の元会の儀において、唐主は含元殿(がんげんでん)にあって朝賀を受けられました。この日、臣らは西側の列の第二席、吐蕃(とばん)の下に列せられ、新羅の使者は東側の列の第一席、大食国(だいしょくこく)の上に列せられました。臣は、『新羅は久しく日本に朝貢してきた国である。それなのに今かえって東側の上座に列せられるのは、道理に合わない』と抗弁いたしました。すると将軍呉懐実(ごかいじつ)は臣の顔色を見て、ただちに新羅の使者を吐蕃の下に移し、臣らを大食国の上に列せしめました」。この年、左大弁に転じ、正四位下に至った。天平宝字の初め、陸奥鎮守将軍按察使を兼ねた。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が皇位継承を巡る廃立を謀った際、古麻呂もこれに加担し、事が露見して尋問を受け、杖罪により死んだ(『続日本紀』による)。

はじめ古麻呂らが唐へ渡った折、肥前国松浦郡(まつらぐん)の人川部酒麻呂(かわべのさかまろ)が第四船の柁師(かじとり)を務めていた。帰国に際し、船尾から火が出て煙炎が艫(とも)を覆い、人々は皆恐れ慌てた。酒麻呂は舵を操って船の向きを変え、手が焼けただれても動じず、ついに火を消し止めた。その功により十階を授けられ、本郡の員外主帳(いんがいしゅちょう)に任じられた。宝亀年間、外従五位下に進んだ(『続日本紀』による)。古麻呂の子は継人(つぐひと)である(『公卿補任』による)。

大伴古麻呂

大伴継人は、宝亀六年、遣唐判官となった。八年、唐へ渡った。九年、帰国の途中、暴風のため船が難破し、舳(へさき)と艫(とも)が真っ二つに折れた。継人は、先の遣唐大使藤原清河の娘喜娘ら四十一人とともに舳の側に乗って、肥後国天草郡に漂着した。主神(かんづかさ)津守国麻呂(つもりのくにまろ)は遣唐判官らとともに五十六人が艫の側に乗って、薩摩国甑島郡(こしきじまぐん)に漂着した。継人は次のように奏上した。「去年六月、四隻の船が同時に海に出ました。七月、唐国揚州(ようしゅう)の海稜県(かいりょうけん)に泊まり、八月、揚州大都督府に至りました。十月、そこを発ち、今年正月、長安に至りました。唐主は内使趙宝英(ちょうほうえい)を遣わして出迎えさせ、外館に宿泊させました。三月、召されて対面し、事情を奏上いたしました。四月、暇乞いのため謁見いたしました。その際、使者楊光耀(ようこうよう)が揚州まで送り届け、出発させてくれました。そこで留学生を率いて長安を発ちました。また唐は趙宝英を遣わし、国書を携えさせて隣好を結ばせました。六月、維揚(いよう)に到着し、九月、揚子江の河口を発って蘇州常熟県で順風を待ちました。十一月五日、順風を得て、第一船・第二船が同時に出帆いたしました。八月の初め(注:原文のまま)、あらためて風波のため棚(たな)や良材が破損し、潮水が船内に満ちて甲板が浮き流されました。副使小野石根(おののいわね)ら三十八人、唐使趙宝英ら十五人が同時に溺死し、ただ臣一人だけが潜り抜けて舳先の欄干の角にたどり着きましたが、もはや助かる見込みはありませんでした。十一日の五更(未明)、帆柱が船底に倒れ、船体は真っ二つに断たれて舳と艫が分裂しました。四十余人は一丈四方ほどの舳の部分に折り重なって留まり、舳が沈みそうになったので、綱を切って舵にしがみつき、わずかに浮かび上がることができました。裸のまま宙に浮くように座り、水も穀物も口にできないまま、すでに六日が経ちました。十三日の亥の刻、肥後国天草郡の西仲島(にしなかしま)に漂着いたしました。臣がこうして生き永らえましたのは、ひとえに天のお救いによるものであり、この上ない喜びに堪えず、謹んでご報告申し上げます」。都に入ると従五位下に進み、能登守となり、のち伯耆守に改まった。延暦年間、左少弁に任じられた(『続日本紀』による)。皇太子が佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を参議とすることを望んだが、中納言藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が奏上してこれを罷めさせた。皇太子はこれを恨み、種継を殺そうとしたが果たせなかった(『水鏡』による)。天皇が平城京に行幸した際、皇太子が留守を守り、継人および大伴竹良(おおとものたけよし)に種継を殺させた。天皇は激怒し、皇太子を廃した。継人と竹良は首謀者として誅殺された(『続日本紀』による)。この事の詳細は「種継伝」に記す。

継人の子国通(くにみち)は、父の事件に連座して佐渡に流された。文才があり、国司や郡吏たちは疑問があるとその教えを請い、国中の公文書はすべて彼の手によって作られた。赦免に遇って都に入った。弘仁年間、陸奥権介・伊勢介・宮内民部少輔を歴任した。十四年、従四位下を授けられ、右中弁に任じられ、参議を拝命し、右大弁を兼ねた(『公卿補任』による)。天皇の諱(いみな)に触れたため、姓を伴宿禰(とものすくね)と改めた(『日本紀略』による)。天長年間、勘解由長官(かげゆのかみ)・陸奥出羽按察使・相模守・武蔵守を歴任し、従四位上に至った。五年、没した。享年六十一(『公卿補任』による)。子の善男(よしお)には別に伝がある。

川部酒麻呂

膳大丘(かしわでのおおおか)は、勝宝四年、遣唐使に従って唐へ渡った。帰国後、大学助教となった。景雲年間、次のように上言した。「臣はかつて唐に渡り、先聖(孔子)の遺風を尋ね、学校の輝かしい功績を目にしました。国子監には二つの門があり、それぞれに『文宣王廟』と題されておりました。かの地の国子学生程賢(ていけん)は臣に語って、『今の主上は大いに儒教の規範を崇め、孔子を追尊して王としました。鳳徳の徴(しるし)は、今にして現れたのです』と申しました。しかるに我が朝では旧来の典礼に准じて、なお以前の称号を用いております。これでは徳を崇める心に背き、敬意を尽くす道理を失うことを深く恐れます。大丘は愚かではございますが、見聞したことをそのままにできず、あえて浅見を申し上げ、ご明断を仰ぎたく存じます」。そこで勅により孔子を文宣王と称することとなった。宝亀年間、外従五位下に至り、大学博士となり、豊後介を兼ねた(『続日本紀』による)。

大伴繼人

平群広成(へぐりのひろなり)は、正六位上に叙せられた。天平五年、遣唐使多治比広成(たじひのひろなり)に従って唐へ渡った。六年、帰国のため蘇州を発ったが、暴風に遭って崑崙国(こんろんこく)まで漂流した(注:『曲江集』所収の玄宗の勅書によれば、林邑国(りんゆうこく)とされる)。賊に襲われ略奪され、また瘴癘(しょうれい)にかかって死んだ者百余人にのぼり、広成ら四人だけがかろうじて難を逃れた。崑崙王は食糧を与えたが、彼らを悪地に住まわせた。翌年、欽州(きんしゅう)の熟崑崙(じゅくこんろん)が来て、ひそかに広成を船に乗せて唐へ連れ帰った。そこで留学生阿倍仲麻呂に出会い、仲麻呂が唐主に願い出て、渤海経由の路を取って帰国することを許された。玄宗はこれを許し、船と食糧を与えた。十年、登州(とうしゅう)を発って渤海に至った。渤海王大欽茂は手厚くもてなし、翌年の春に護送することを約束した。折しも欽茂がその臣胥要徳(しょようとく)らを日本への聘使として遣わすことになったので、広成はぜひ共に帰らせてほしいと懇願した。海に出るとまた暴風に遭い、胥要徳らは溺死した。広成は残った人々を率いて、出羽国にたどり着くことができた。広成が唐にあった間、朝廷は久しく異域で苦労したことを憐れみ、遥かに外従五位下を授けた。帰国すると正五位上に叙せられた。まもなく刑部大輔・東山道巡察使となり、式部大輔に改まり、摂津大夫を兼ねた。勝宝の初め、従四位上に叙せられ、武蔵守となった。五年、没した(『続日本紀』による)。

大伴國通

高元度は、その系譜は詳らかでない。かねて遣唐大使藤原清河が唐に留まって帰国できずにいたため、天平宝字三年、元度を迎入唐大使使に任じて外従五位下を授け、渤海の使者とともに出発させた。元度は渤海の賀正使楊方度(ようほうど)らに従って唐へ向かい、遥かに元度に能登守を授けた。粛宗は清河の帰国を許し、元度をひと足先に帰国させることとし、甲冑一具・戍刀(じゅとう)一口・槍一竿・矢二隻を賜って、「安禄山の乱以来、多くの武器を失った。今、牛の角を材料にして弓を作ろうと考えている。聞けば日本には牛が多いという。卿は帰国したら牛角を求め、使者に託して献上せよ」と命じた。また中謁者謝時和(しゃじわ)に命じて元度を護衛させ蘇州まで送らせ、刺史李岵(りこ)と協議して船一艘を造らせた。長さ八丈で、押水手官(おうすいしゅかん)には越州浦陽府折衝賞紫金魚袋沈惟岳(ちんいがく)ら九人を、水手には浦陽府別将賜緑陸張什(りくちょうじゅう)ら三十人を差し向けさせた。太宰府に送り届けると、朝廷は従五位上上毛野広浜(かみつけののひろはま)・外従五位下広田小妹(ひろたのおいも)らを安芸国に遣わして船を造らせ、唐使を送らせた。また東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海の諸道に勅して、「牛角七千八百隻を貢ぜよ」と命じ、これを唐に贈った。元度は都に入ると従五位上に進み、参河守(みかわのかみ)となり、また左平準令(さひょうじゅんれい)となったが、のち事件に連座して流罪となった(『続日本紀』による)。

膳大丘

内蔵全成(くらのぜんじょう)は、天平宝字年間、迎入唐大使判官として渤海に至った。渤海王大欽茂は高元度ら十一人を唐へ赴かせることを協議し、全成らには帰朝して事の次第を奏上させることとした。帰路、暴風に遭って対馬に漂着し、その後都に入った。宝亀年間、大外記に任じられ、越後介を兼ね、敕旨少輔(ちょくししょうふ)に改まった。天応元年、征東副使となり、蝦夷を征討した。その功により正五位上に進み、勲五等を授けられ、陸奥守となり、鎮守副将軍を兼ねた。延暦年間、大蔵大輔・内蔵頭・讃岐守を歴任し、従四位下に至った(『続日本紀』による)。

平群廣成

清海惟岳(せいかいこれたけ)は、唐人である。もとの姓は沈(しん)といい、越州浦陽府折衝賞紫金魚袋であった。天平宝字年間、高元度が唐から帰国する際、唐は惟岳を押水手官に任じて元度を護送させ、太宰府に至った。朝廷は参議藤原真先(ふじわらのまさき)を遣わして惟岳らをもてなし、物を賜わらせた。太宰府は次のように上言した。「唐副使紀喬容(きけいよう)以下三十八人が口をそろえて、『大使沈惟岳は不正がすでに露見しており、部下を率いるにふさわしくありません。副使紀喬容と司兵晏子欽(あんしきん)こそ、指揮を執るにふさわしい人物です。ご裁断をお願い申し上げます』と申しております。府の官人が協議したところ、その申し立てには根拠がございます」。これに対する詔には、「大使・副使については、唐の中謁者謝時和が蘇州刺史とともに定めたことであるから、変更してはならない」とあった。出発しようとしたが風波が不順であったため、太宰府に勅して先例どおりに供給させた。高麗の使者王新福(おうしんぷく)が来て、「広平王(こうへいおう)が摂政となり、史朝義(ししちょうぎ)が皇帝を称している。鄧州(とうしゅう)・襄陽(じょうよう)はすでに史氏の勢力下に入り、李氏にはただ蘇州が残るのみで、道路は通じていない」と告げた。そこで太宰府に勅して、「惟岳らを安置せよ」と命じ、あわせて時服(じふく)を賜った。惟岳はついにそのまま留まって帰らなかった。従六位上を授けられた。宝亀年間、従五位下に至り、今の姓(清海)を賜って左京に編入された。延暦年間、美作権掾(みまさかのごんのじょう)となった(『続日本紀』による)。