卷之第八 本紀第八
推古天皇、舒明天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
推古天皇
¶推古天皇は、はじめ額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と称した。欽明帝の娘で、用明帝の同母妹である。容姿は端麗で、立ち居振る舞いに節度があった。
¶敏達帝五年、皇后に立てられた。
¶崇峻帝五年十一月、崇峻帝が崩御した。群臣は皇后(推古天皇)に即位を請うたが、皇后はこれを辞退した。百官が上表して即位を勧め、三度に及んでようやくこれに従った。十二月八日己卯、豊浦宮(とゆらのみや)において天皇の位に即いた。これを豊御食炊屋姫天皇という(注:本書によれば、天皇は18歳で皇后に立てられ、34歳のとき敏達帝が崩御し、39歳のとき崇峻帝が崩御したとする。また天皇の崩御の記事の下の注には75歳とある。今、干支によってこれを数えると、前後の年紀が食い違っており、どこかに誤りがあると思われる。それゆえここには即位時の年齢を記さない。皇代略紀には、欽明帝十七年丙子の年に生まれ、敏達帝五年に皇后となった、年19歳、とある。皇年代略記には、丙子の年に生まれ、21歳で皇后となり、37歳で即位した、とある。水鏡・愚管抄・帝王編年記にはいずれも即位時38歳とあるが、これも採らない)。大臣の蘇我馬子は元のままとした(注:「大臣」以下の記述は公卿補任による)。
¶元年癸丑、夏四月十日己卯、厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)を皇太子に立て、万機(ばんき、政務)を摂録(せつろく、代わって取りまとめる)させた。秋九月、用明天皇を改葬した。この年、四天王寺(してんのうじ)を難波の荒陵(あらはか)に創建した。
¶二年甲寅、春二月丙寅朔、皇太子および大臣の蘇我馬子に詔して、仏教を興隆させた。そこで群臣は競って仏寺を造営した。
¶三年乙卯、夏五月十日丁卯、高麗の僧・恵慈(えじ)が来朝し、百済の僧・慧聡(えそう)もほどなくして来朝し、仏教を大いに広めた。秋七月、将軍の紀男麻呂らが筑紫から帰った。
¶四年丙辰、冬十一月、法興寺(ほうこうじ)が完成した。蘇我善徳(そがのぜんとこ)を寺司(てらのつかさ)とした。
¶五年丁巳、夏四月丁丑朔、百済王がその子の阿佐(あさ)を遣わして朝貢させた。冬十一月甲子(注:今、干支を推算すると、この月は癸酉朔であり甲子の日はなく、おそらく甲午の誤りであろう。甲午は22日にあたる)、難波磐金(なにわのいわかね)を新羅に遣わした。
¶六年戊午、夏四月、磐金が新羅から帰り、鵲(かささぎ)二羽を献上した。秋八月己亥朔、新羅が孔雀一羽を献上した。冬十月十日丁未、越国が白鹿を献上した。
¶七年己未、夏四月二十七日辛酉、地震があり、家屋がことごとく倒壊した。四方に命じて地の神を祭らせた。秋九月癸亥朔、百済が駱駝・驢馬(ろば)・羊・白雉(はくち)を貢納した。
¶八年庚申、春二月、新羅が任那と戦った。詔して境部臣(さかいべのおみ)を大将軍、穂積臣(ほづみのおみ)を副将軍とし(注:境部臣・穂積臣は、いずれも名が欠けている)、万余の軍勢を率いて任那を救援させた。新羅の兵を大いに破り、その五つの城を落とした。新羅は土地を割いて降伏を乞うた。天皇はさらに使者を新羅・任那に遣わし、その状況を検分させた。そこで二国は調を貢納し、二国とも兵を収めて毎年必ず朝貢することを誓った。そこで諸将を召還した。ところが帰り着くころ、新羅はまた任那に侵攻した。
¶九年辛酉、春三月五日戊子、大伴嚙を高麗に、坂本糠手(さかもとのぬかて)を百済に遣わし、任那を救援させた。夏五月、天皇は耳梨(みみなし)の行宮(かりみや)に滞在した。このとき大雨が降り、川の水が氾濫した。秋九月、新羅の間者(かんじゃ、間諜)が対馬に至り、これを捕らえて上野国(こうずけのくに)に流した。冬十一月五日甲申、新羅討伐を議した。
¶十年壬戌、春二月己酉朔、来目皇子(くめのみこ)を征新羅将軍とし、兵二万五千を率いさせて新羅を討たせようとした。夏六月三日己酉、大伴嚙・坂本糠手が百済から帰った。来目皇子は病のため、出征を果たせなかった。冬十月、百済の僧・観勒(かんろく)が来朝し、暦の本、および天文・地理・遁甲(とんこう)・方術などの書物を献上した。勅して書生を選び、これを学ばせた。閏月十五日己丑、高麗の僧・僧隆(そうりゅう)・雲聡(うんそう)が帰化した。
¶十一年癸亥、春二月四日丙子、来目皇子が筑紫で薨じた。夏四月壬申朔、当麻皇子(たぎまのみこ)を征新羅将軍としたが、ちょうど妻の喪に遭って出征を果たせなかった。冬十月四日壬申、天皇は小墾田宮(おはりだのみや)に居を遷した。十二月五日壬申、初めて冠位十二階を定めた。
¶十二年甲子、春正月戊戌朔、諸臣にそれぞれの位に応じて冠位を賜った。夏四月三日戊辰、皇太子(聖徳太子)が憲法十七条を撰した。秋九月、朝廷の礼法を改めた。
¶十三年乙丑、夏四月辛酉朔、皇太子および群臣に詔して、ともに誓願を発させ、初めて銅像・繡像(しゅうぞう)の丈六仏像(じょうろくぶつぞう)を各一体造らせ、鞍作鳥(くらつくりのとり)を仏工とした。高麗王の大興(たいこう)がこれを聞いて、黄金三百両を献上した。秋閏七月己未朔、皇太子は諸王・諸臣に褶(ひらみ、装束の一種)を着けるよう命じた。
¶十四年丙寅、夏四月八日壬辰、丈六の銅仏を元興寺(がんごうじ)に安置し、斎会(さいえ)を設けた。これより四月八日・七月十五日を諸寺の斎会の日とし、毎年これを恒例とした。秋七月、皇太子に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じさせた。
¶十五年丁卯、春二月庚辰朔、壬生部(みぶべ)を定めた。九日戊子、詔してこう仰せられた。「朕が聞くところでは、我が皇祖の天皇が世を治められたとき、天を局(かが)め地を蹐(ぬきあし)するほどに慎み深く、神々を篤く礼し、山川をあまねく祭り、幽かに天地に通じさせられた、それゆえ陰陽は調和し、万物の生成もよく整った、という。今、朕の身に当たっても、神祇を祭ることを、どうして怠ってよいだろうか。群臣はともに心を尽くして神祇を拝すべきである。」十五日甲午、皇太子および大臣の馬子は、百官を率いて神祇を祭った。秋七月三日庚戌、大礼(だいらい)の小野妹子(おののいもこ)を隋に遣わし、鞍作福利(くらつくりのふくり)を通事(つうじ、通訳)とした(注:本書はこれ以降、隋をすべて「唐」と書いている。先代旧事本紀はこれに基づいて遣唐使の始まりとするが、この年は隋の大業三年に当たり、隋書にもわが国の遣使のことが載っている。翌年には裴世清(はいせいせい)が遣わされて来朝しており、いずれも本書の記述と合致する。二十六年の記事で「隋」と書いているのが正しい。神皇正統記もまた「遣隋大使」と称しているので、今はすべて「隋」と改めて記す)。この冬(注:聖徳太子伝暦には「十月」の二字がある)、倭(やまと)の高市池(たけちのいけ)・藤原池(ふじわらのいけ)・肩岡池(かたおかのいけ)・菅原池(すがわらのいけ、注:太子伝暦には別に三立(みたち)・山田・剣(つるぎ)の三池があり、合わせて七か所とする)、山背(やましろ)の栗隈溝(くりくまのうなで)、河内の戸苅池(とかりのいけ)・依網池(よさみのいけ、注:太子伝暦には別に大津・安宿(あすかべ)の二池があり、合わせて四か所とする)を作り、諸国に屯倉を置いた。
¶十六年戊辰、夏四月、小野妹子が隋から帰った。隋の使者・裴世清が妹子に従って来朝した。筑紫に至ったとき、難波雄成(なにわのおなり)を遣わしてこれを出迎えさせ、難波に新しい客館を造った。六月十五日丙辰、世清が難波津に到着した。飾り立てた船30艘でこれを迎え、新館に入れた。中臣宮地烏麻呂(なかとみのみやどころのからすまろ)・大河内糠手(おおしこうちのぬかて)・船王平(ふねのおおきみひら)を掌客(しょうきゃく、接待役)とした。秋八月三日癸卯、世清が都に入った。額田部比羅夫(ぬかたべのひらぶ)を遣わして飾り馬の騎兵を率いさせ、海石榴市(つばいち)で出迎えさせた。十二日壬子、世清が朝廷に参上し、その国書と贈り物を奉った。十六日丙辰、朝廷で世清らをもてなした。九月五日乙亥、また難波でもてなした。十一日辛巳、世清らが帰国した。再び妹子を大使、難波雄成を小使として隋に遣わした。学生・留学僧あわせて8人がこれに従った。この年、新羅人が多く帰化した(注:先代旧事本紀には、この年、物部鎌足姫大刀自(もののべのかまたりひめおおとじ)を参政とした、とある)。
¶十七年己巳、夏四月四日庚子、百済人85人が肥後の葦北津(あしきたのつ)に漂着した。難波徳摩呂(なにわのとこまろ)・船龍(ふねのたつ)に命じて送り返させた。秋九月、小野妹子らが隋から帰った。
¶十八年庚午、春三月、高麗が僧の曇徴(どんちょう)・法定(ほうじょう)を貢った。冬十月九日丁酉、新羅・任那が朝貢し、使者にそれぞれの位に応じて品物を賜った。
¶十九年辛未、夏五月五日己丑、菟田野(うだの)で薬猟(くすりがり)を行った。秋八月、新羅・任那が朝貢した。
¶二十年壬申、春正月七日丁亥、酒宴を催して群臣をもてなした。二月二十日庚午、皇太夫人の堅塩媛を改葬した。夏五月五日癸未、羽田(はた)で薬猟を行った。
¶二十一年癸酉、冬十一月、掖上池(わきがみのいけ)・畝傍池(うねびのいけ)・和珥池(わにのいけ)の三池を作った。また大きな街道を開き、難波から都に至らせた。
¶二十二年甲戌、夏五月五日壬寅、薬猟を行った。六月十三日己卯、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)・矢田部造(やたべのみやつこ、名は欠けている)を隋に遣わした(注:先代旧事本紀には、大仁(だいにん)の矢田部御嬬(やたべのみつま)を大使、大礼の犬上御田鍬を小使とした、とある。またこの日、物部志佐古(もののべのしさこ)を大連とした、ともある)。
¶二十三年乙亥、秋九月、御田鍬らが隋から帰った。百済の使者がこれに従って来朝した。
¶二十四年丙子、春正月、桃や李(すもも)が実をつけた。秋七月、新羅が仏像を貢った。この年、掖玖(やく、屋久島)の人が来朝した。
¶二十五年丁丑、夏六月、出雲国から「神戸郡(かんべのこおり)で瓜が実り、その大きさは缶(ほとぎ、甕)ほどである」との報告があった。この年、五穀が豊作であった。
¶二十六年戊寅、秋八月癸酉朔、高麗が調を貢った。あわせて隋の捕虜、および駱駝や器物を献上した。
¶二十七年己卯、夏四月四日壬寅、近江国から「蒲生河(がもうがわ)に物があり、その形は人のようである」との報告があった。秋七月、摂津国から「漁夫が堀江に網を下ろして得た物は、その形が嬰児(えいじ、赤子)のようである」との報告があった。
¶二十八年庚辰、秋八月、掖玖の人が伊豆島(いずのしま)に漂着した。冬十月、檜隈陵(ひのくまのみささぎ)を修理した。十二月庚寅朔、空に赤い気(き)が現れた。長さ一丈余り、その形は鶏の尾に似ていた(注:「鶏」は本書には「碓」に作るが、今は聖徳太子伝暦に従う)。この年、皇太子は大臣の蘇我馬子と議して、天皇記(すめらみことのふみ)、および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとも)、公民などの本記(もとつふみ)を記録した(注:先代旧事本紀には、二月甲辰、皇太子および蘇我馬子は勅を奉じて、先代旧事天皇紀を記録した、とあり、その他の記述は本書の文と同じである。今世に行われている先代旧事本紀は、後人が仮託したものであって、当時の旧本ではないと考えられる)。
¶二十九年辛巳、春二月五日癸巳、皇太子(聖徳太子)が薨じた(注:水鏡・皇胤紹運録・一代要記・帝王編年記にはいずれも22日とある。今、天王寺(四天王寺)では22日を忌日として聖霊会(しょうりょうえ)を修している。また法隆寺金堂釈迦仏の銘文、上宮法王帝説、聖徳太子伝補闕記にはいずれも、壬午の年、二月二十二日に薨じた、とあり、本書とは一年の差がある。聖徳太子伝暦は、年月は本書と同じであるが、日を記していない。その注には、一説に壬午の年とするのは誤りである、とある。しかし銘文は当時に刻まれたものであるから、まったく否定することもできない。今はひとまず本書の旧文に従うこととする)。冬十二月二十一日癸酉、穴穂部間人皇后が崩じた(注:「冬十二月」以下の記述は法隆寺金堂釈迦仏の銘文による。「二十一日癸酉」は法王帝説による)。この年、新羅が調を貢納し、初めて上表した。
¶三十一年癸未、秋七月、新羅・任那が調を貢納し、仏像・金塔・舎利・大小の幡(はた)などを献上した。仏像は葛野秦寺(かどののはたでら)に置き、その他は四天王寺に納めた。この時、唐の僧・慧斉(えさい)・慧光(えこう)、医の慧日(えにち)・福因(ふくいん)らが、新羅の使者に従って来朝した。新羅はまた任那を攻めてこれを奪った。天皇は群臣を召して新羅討伐を議し、そこで難波磐金を新羅に、吉士倉下(きしのくらじ)を任那に遣わして、その状況を調べ問わせた。さらに大徳(だいとく)の境部雄麻呂(さかいべのおまろ)、小徳(しょうとく)の中臣国(なかとみのくに)を大将軍とし、小徳の河辺弥受(かわべのみつ)・物部依網乙等(もののべのよさみのおとら)・波多広庭(はたのひろにわ)・近江脚身飯蓋(おうみのあしみのいいふた)・平群宇志(へぐりのうし)・大伴連(名は欠けている)・大宅軍(おおやけのいくさ)を副将軍とし、数万の兵を率いさせて新羅を討たせた。新羅は恐れおののいて罪を請うたので、これを許した。冬十一月、磐金らが新羅から帰った。この年、春から秋まで長雨が続いて大水害となり、五穀が実らなかった。
¶三十二年甲申、夏四月戊申(注:今、この年月日の干支を推算すると、三十一年に移すべきであるが、本書および諸書はいずれも別に三十二年としているため、ここではあえて改めず、ひとまず旧文のままとする)、ある僧が斧を執って祖父を殴打する事件があった。天皇は大臣を召してこれを議し、重罪に処そうとした。諸寺の僧尼を召して取り調べ、連座させようとした。百済の僧・観勒が上表して、その悪逆を犯した者一人だけを罪に問い、その他は赦すよう請うたので、これを聞き入れた。戊午の日、詔してこう仰せられた。「そもそも僧でありながら法を犯すのでは、どうして俗人を教え導けようか。今より以後、僧正(そうじょう)・僧都(そうず)を置いて、僧尼を検校させるべきである。」壬戌の日、観勒を僧正とし、鞍作部徳積(くらつくりべのとくしゃく)を僧都とし、阿県連(あがたのむらじ、名は欠けている)を法頭(ほっとう、注:僧尼を監督する役)とした。秋九月丙子、仏寺の僧尼を調べ、寺を造り出家した経緯、得度(とくど)した年月日を詳しく記録させた。冬十月癸卯朔、蘇我馬子が葛城県(かずらきのあがた)を封戸(ふこ)として賜りたいと奏上したが、聞き入れられなかった。
¶三十三年乙酉、春正月戊寅(注:本書には「春正月壬申朔、戊寅」とあるが、今これを推算すると干支が合わない。おそらく三十二年を三十三年と誤ったものであろうが、今はひとまず旧文に従う)、高麗が僧の慧灌(えかん)を貢った(注:元亨釈書には、この年の夏は旱魃であった、とある)。
¶三十四年丙戌、春正月、桃や李の花が咲いた。三月、霜が降りた。夏五月二十日丁未、大臣の蘇我馬子が薨じた。六月、雪が降った。三月から七月まで長雨が続いた。天下は大飢饉となり、盗賊が各地で蜂起した。この年、蘇我蝦夷(そがのえみし)を大臣とした(注:「是歳」以下の記述は公卿補任・愚管抄・一代要記による)。
¶三十五年丁亥、春二月、陸奥国から「貉(むじな)が人に化けて歌う者がいる」との報告があった。夏五月、蠅(はえ)が群がり集まり、その広さは十丈ほどにもなり、その羽音は雷のようであった。信濃坂(しなののさか)を越えて、東の上野国(こうずけのくに)に至って散った。
¶三十六年戊子、春二月二十七日甲辰、天皇が病に伏した。三月二日戊申、日食があり、皆既(かいき)であった。六日壬子、病が篤くなった。田村皇子(たむらのみこ)を召してこう仰せられた。「天位に登って国家の大業を治め、万機に臨んで民を養い育てることは、その責任がまことに重く、たやすく言えることではない。お前は慎んでこれをよく考え、決して軽々しく言ってはならない。」また山背大兄王(やましろのおおえのおう)を召してこう仰せられた。「お前はまだ年若く、志望はあるだろうが、慎んで口にしてはならない。必ず群臣の議論を待って、それに従うようにせよ。」七日癸丑、天皇が崩御した(注:本書の注には、時に75歳とある。水鏡・皇胤紹運録・皇代略紀・皇年代略記・愚管抄・一代要記にはいずれも73歳とある。今、皇代略紀にいう丙子の年の生まれから数えれば、実際には73歳となる。本書の18歳で皇后に立てられたという記述に従えば、76歳となる。どちらが正しいか分からない)。遺詔してこう仰せられた。「近年、五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。山陵を興して手厚く葬ることをしてはならない。竹田皇子(たけだのみこ)の墓所に合葬するように。」そこで南庭に殯(もがり)をした。四月辛卯(注:本書には「夏四月壬午朔」とあるが、今推算すると、四月は丁丑朔であり、おそらく錯誤があるのであろう)、雹(ひょう)が降り、その大きさは桃の実ほどであった。壬辰の日、また雹が降り、春から夏にかけて旱魃が続いた。九月戊子、群臣は初めて天皇の喪礼を行い、それぞれ殯宮で誄(しのびごと、弔辞)を述べた。壬辰の日、竹田陵(たけだのみささぎ)に葬った(注:本書には「秋九月己巳朔」とあるが、今推算すると、九月は乙巳朔であり、戊子・壬辰の日はなく、必ず錯誤があるのであろう。おおよそ葬った地を記す場合には日付を記さず、次の帝の紀に記すのが通例である。しかしこのとき、皇嗣がまだ定まっておらず、どの帝紀に属させるべきかなかったため、ここに記した。古事記によれば、御陵は大野岡(おおののおか)の上にあったが、後に科長大陵(しながのおおみささぎ)に遷したという。延喜式には、磯長山田陵、とある)。追って推古天皇と諡した。
舒明天皇
¶舒明天皇は、はじめ田村皇子と称した。押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子で、敏達帝の嫡孫である。母は糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ)。
¶推古帝三十六年三月、推古帝が崩御した。天皇(田村皇子)はもともと有力な後継者の立場にあり、また遺詔を受けていたが、山背王(山背大兄王)もまた自分が遺志を受けたと考え、即位する意志を持っていた。そのため、後継者はまだ定まらなかった。大臣の蘇我蝦夷は群臣を大いに集めて、誰を立てるべきかを議した。皆は「遺詔に従い、田村皇子を立てるべきである」と言った。ただ境部摩理勢(さかいべのまりせ)らだけは、なおも山背王を推戴しようとし、議論は長く決着しなかったため、蝦夷はついに摩理勢を殺し、群臣とともに策を定めて天皇を推戴した。
¶元年己丑、春正月四日丙午、蝦夷は群卿を率いて、天皇の璽(しるし)を奉った。天皇はこれを辞退してこう仰せられた。「宗廟のことは重大事である。私は不賢の身であるのに、どうしてこれを引き受けられようか。」群臣は固く請うてこう言った。「大王は先朝(推古天皇)より深く愛されており、目に見える者も見えない者もその心を大王に寄せております。どうか皇統を継がれ、万民を照らし治められますように。」この日、ついに天皇の位に即いた(注:皇年代略記・皇胤紹運録・一代要記などの諸書にはいずれも37歳とある。水鏡には47歳とある。本書には享年の記載がなく、今はどちらとも決めがたいので、ここには記さない)。これを息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)という(注:本書の一説には、広額天皇を高市天皇(たけちのすめらみこと)と呼ぶともある。天皇は初め高市郡の岡本宮におられたため、これによってこう呼んだのであろう)。大臣の蘇我蝦夷は元のままとした。夏四月辛未朔、田部連(たべのむらじ、名は欠けている)を掖玖(やく)に遣わした。
¶二年庚寅、春正月十二日戊寅、宝皇女(たからのひめみこ、後の皇極・斉明天皇)を皇后に立て、蘇我法提郎媛(そがのほほてのいらつめ)を夫人とした。三月丙寅朔、高麗・百済が朝貢した。秋八月五日丁酉、大仁(だいにん)の犬上御田鍬、薬師(くすし)の恵日(えにち)を唐に遣わした。九月、田部連が掖玖から帰った。冬十月十二日癸卯、宮を飛鳥岡(あすかのおか)に移した。これを岡本宮(おかもとのみや)という。この年、難波の大郡(おおごおり)および三韓館(みつからのむろつみ)を修理した。
¶三年辛卯、春二月十日庚子、掖玖の人が帰化した。三月庚申朔、百済王の義慈(ぎじ)がその子の豊璋(ほうしょう)を人質として差し出した(注:三国史記・東国通鑑によれば、この時義慈はまだ即位していなかったとされ、詳しくは外国伝に述べる)。秋九月十九日乙亥、摂津の有間温湯(ありまのゆ)に行幸した。冬十二月十三日戊戌、宮に帰った。
¶四年壬辰、秋八月、唐の使者・高表仁(こうひょうじん)が犬上御田鍬らを送って対馬に至った。入唐した学問僧、および新羅の送使がこれに従った。冬十月四日甲寅、大伴馬養(おおとものうまかい)を遣わし、飾り立てた船30余隻で高表仁を出迎え、難波館に入れた。
¶五年癸巳、春正月二十六日甲辰、高表仁らが帰国し、吉士雄麻呂(きしのおまろ)・黒麻呂(くろまろ、姓は欠けている)に命じて対馬まで送らせた。
¶六年甲午、秋八月、彗星が南方に現れた。
¶七年乙未、春正月、彗星が東方に現れた。夏六月十日甲戌、百済が朝貢した。秋七月、瑞祥の蓮(はす)が剣池(つるぎのいけ)に生えた。
¶八年丙申、春正月壬辰朔、日食があった。三月、采女(うねめ)を姦した者を取り調べ、いずれも罪に処した。夏五月、長雨が続いて大水害となった。六月、岡本宮が火災に遭い、田中宮(たなかのみや)に遷った。この年、大旱魃となり、天下が飢えた。
¶九年丁酉、春二月二十三日戊寅、大きな星が西に流れ、雷のような音がした。三月二日丙戌、日食があった。この年、蝦夷が叛いた。大仁の上毛野形名(かみつけののかたな)を将軍として、これを討ち平定させた。
¶十年戊戌、秋七月十九日乙丑、大風が吹いて木を折り、屋根を吹き飛ばした。九月、長雨が続き、桃や李の花が咲いた。冬十月、有間温湯に行幸した。この年、百済・新羅・任那が、いずれも朝貢した。
¶十一年己亥、春正月八日壬子、天皇の車駕が有間から帰った。十一日乙卯、新嘗(にいなめ)の儀を行ったが、有間に滞在していたためにここまで延びたのである(注:本書の顕宗紀には、清寧帝二年冬十一月、播磨国司が新嘗の供物を弁じたとあり、類聚国史はこれを新嘗祭の最初として載せている。本書に「新嘗」の字が再び見えるのは用明帝二年四月であり、公事根源はこれを始まりとするが、その後まったく見えない。この記事に至って、去年十月に温湯に行幸したためここまで延びたとあることから見れば、11月に新嘗を行うことがすでに恒例となっていたことが分かる。それゆえこれ以後は記さない)。十二日丙辰、雲がないのに雷が鳴った。二十二日丙寅、大風雨があった。二十五日己巳、長星(彗星)が西北に現れた。秋七月、詔して大宮および大寺を百済川のほとりに造らせた。九月、新羅が使者を遣わし、入唐学問僧の恵隠(えおん)・恵雲(えうん)を送って都に至らせた。冬十一月庚子朔、朝廷で新羅の使者をもてなし、冠位一級を賜った。十二月十四日壬午、伊予温湯(いよのゆ)に行幸した。この月、九層の塔を百済川のほとりに建てた。
¶十二年庚子、春二月七日甲戌、星が月に入った。夏四月十六日壬午、天皇の車駕が伊予から帰り、厩坂宮(うまやさかのみや)に居した。五月五日辛丑、斎会を大々的に催し、僧の恵隠に無量寿経(むりょうじゅきょう)を説かせた。冬十月十一日乙亥、新羅・百済が朝貢した。入唐学生の高向玄理(たかむこのくろまろ)、学僧の清安(しょうあん)が、新羅の使者に従って帰国した。二国の使者にそれぞれ位一級を賜った。この月、天皇は百済宮(くだらのみや)に遷った(注:一代要記には、この年初めて斗・升・斤・両を定めた、とあるが、何に基づく記述か分からないので、参考として付記しておく)。
¶十三年辛丑、冬十月九日丁酉、天皇は百済宮で崩御した(注:本書には享年の記載がない。皇胤紹運録・愚管抄・神皇正統記・皇代略紀・一代要記にはいずれも、即位した年は37歳、崩じた年は49歳、とある。水鏡には、即位した年は47歳、とある。どちらが正しいか分からない)。十八日丙午、宮の北で殯をし、滑谷岡(なめはざまのおか)に葬り、後に押坂陵(おしさかのみささぎ)に改葬した(注:延喜式には、「坂」の下に「内」の字がある)。追って舒明天皇と諡した。