卷之八十七 列傳第十四
皇子二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次58
麛坂皇子
¶麛坂皇子(かごさかのみこ)は、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の第四皇子である。神功皇后(じんぐうこうごう)は応神天皇(おうじんてんのう)を生んだ。妃の大中姫(おおなかつひめ)は麛坂皇子・忍熊皇子(おしくまのみこ)を生み、弟姫(おとひめ)は誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んだ。(注:『日本紀』による。ただし『古事記』では誉屋別は神功皇后が生んだとする。)
忍熊皇子
¶麛坂皇子は忍熊皇子とともに、応神天皇の庶兄にあたる。仲哀天皇八年、天皇は皇后とともに熊襲(くまそ)を討った。翌年、天皇は行宮(あんぐう)で崩じた。皇后は西方の三韓を征討して帰り、筑紫(つくし)で応神天皇を生んだ。辛巳(かのとみ)の年二月、皇后は百官を率い、天皇の柩(梓宮)を奉じて海路より都へ帰ろうとした。麛坂・忍熊はこれを聞き、密かに謀って言った。「皇后には子があり、群臣も皆これに従う。必ず幼い主君を立てるであろう。我らがどうして弟に従わねばならぬのか」。そこで山陵を造ると偽って播磨(はりま)に赴き、舟の橋を架ける工事を装った。赤石(あかし)から淡路島にかけて、石を取り陵を築くという名目を宣言し、人々にそれぞれ武器を持たせて皇后を迎え撃とうとした。このとき倉見別(くらみわけ)および五十狭茅宿禰(いさちのすくね)が麛坂に味方し、将軍として東国の兵を発した。麛坂と忍熊は菟餓野(とがの)で狩りをし、祈って言った。「事が成るならば、必ず大きな獲物があるだろう」。やがて二人が仮小屋に座っていると、赤い猪が突然現れ、麛坂に噛みついて殺してしまった。(注:『日本紀』による。『古事記』では、麛坂王が歴木(くぬぎ)に登って座っていたところ、怒った猪がその木を倒して噛み殺したとする。)
誉屋別皇子
¶忍熊皇子は(注:『姓氏録』では忍熊別皇子とする)、兄の麛坂とともに挙兵を謀ったが、麛坂が死んだことで軍勢は恐れおののいた。忍熊は倉見別に言った。「これは大いなる怪異である。この地で敵を待ち受けることはできぬ」。そこで軍を引いて住吉(すみのえ)に退き駐屯した。皇后は変事を聞き、水軍を率いて難波(なにわ)に到着した。忍熊はさらに軍を菟道(うじ)に退かせ、皇后はついに紀伊(きい)に至った。三月、大臣の武内(たけしうち)と武振熊(たけふるくま)を遣わして忍熊を討たせた。武内らは山背(やましろ)に出て、菟道川の北岸に駐屯した。忍熊が軍を出して戦おうとしたとき、その先鋒の熊之凝(くまのこり)が歌を作って高らかに歌い、味方を励ました。武内は兵を解き弓の弦を断って、偽って和睦を持ちかけた。忍熊はこれを信じ、同じく兵を解き弦を断って、それを川に投げ込んだ。忍熊軍が川を渡り終えると、武内の兵は新たに弦を張り、不意を突いた。忍熊は倉見別・五十狭茅に言った。「我らはすでに欺かれた。今は予備の兵もなく、再び戦うことはできぬ」。そこで軍勢を引いて退いた。逢坂(おうさか)に至って武内と戦い、大敗して逃げた。狭狭浪(ささなみ)の栗林に至る頃には、兵士はほとんど潰滅していた。忍熊は追い詰められて悲しみの歌を歌い、五十狭茅とともに瀬田(せた)の渡し場に身を投げて死んだ。(注:『日本紀』による。)
根鳥皇子
¶誉屋別皇子。
稚野毛二派皇子
¶稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)は、応神天皇の第十一皇子である。仲姫皇后(なかつひめこうごう)は仁徳天皇(にんとくてんのう)・根鳥皇子(ねとりのみこ)を生んだ。妃の高城入姫(たかきのいりひめ)は織田大中彦皇子(おだのおおなかつひこのみこ)・大山守皇子(おおやまもりのみこ)・去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)を生んだ。宮主宅媛(みやぬしのやかひめ)は皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を生んだ。弟姫は稚野毛二派皇子を生んだ。糸媛(いとひめ)は隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)を生んだ。日向泉長姫(ひむかのいずみのながひめ)は大葉枝皇子(おおはえのみこ)・小葉枝皇子(おはえのみこ)を生んだ。(注:『日本紀』による。)宮人の迦具漏媛(かぐろひめ)は堅石王(かたしわのみこ)を生んだ。(注:『古事記』による。『日本紀』および『旧事紀』はいずれも、天皇には男女二十人の子があったとするが、『古事記』は皇子十一人・皇女十五人、合わせて二十六人とする。)
額田大中彦皇子
¶額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は根鳥皇子である。子に中日子王(なかつひこのみこ)・伊和島王(いわしまのみこ)があった。(注:『古事記』による。)
大山守皇子
¶大山守皇子は稚野毛二派皇子である。(注:「野」は「渟」に作る本もある。)三男四女を生んだ。男は大郎子(おおいらつこ)といい、またの名を意富富杼王(おおほどのみこ)という。取売王(とりめのみこ)といい、沙弥王(さみのみこ)という。長女の忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)は(注:『古事記』による)允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后となった。末女の弟姫(おとひめ)は衣通郎姫(そとおしのいらつめ)と号し、これもまた允恭天皇の後宮に入った。(注:『日本紀』による。)大郎子は彦主人王(ひこうしのみこ)を生み、彦主人王は男大迹王(おほどのみこ)を生んだ。(注:『釈日本紀』が引く『上宮記』による。)武烈天皇(ぶれつてんのう)が崩じるに及び、男大迹王が即位した。これが継体天皇(けいたいてんのう)である。(注:『日本紀』による。)
去来真稚皇子
¶去来真稚皇子は額田大中彦皇子である。天皇(応神天皇)が崩じたとき、皇太子(菟道稚郎子)は仁徳天皇と互いに位を譲り合い、どちらも即位しようとしなかった。大中彦はこの間に大和の屯田(みた)・屯倉(みやけ)を治めようとし、屯田司の淤宇宿禰(おうのすくね)に言った。「屯田はもともと山守(大山守皇子)の領地に属する。それゆえ私がこれを治めよう。お前が管掌してはならぬ」。淤宇はこれに従わず、皇太子に訴え出た。太子はこれを裁定せず、仁徳天皇に伺いを立てた。天皇もまた自ら決めず、倭吾子籠(やまとのあごこ)を召して尋ね、その返答を大中彦に告げた。大中彦は自ら非を認めて事を収めた。仁徳天皇六十二年、大中彦が鬭雞(つげ)で狩りをしていたとき、野に廬(いおり)のようなものを見つけた。人をやって見させると、それは窟(あな)であった。鬭雞の稲置(いなぎ)大山主(おおやまぬし)を召して尋ねた。「これは何の窟か」。答えて言った。「氷室(ひむろ)でございます。地を一丈余り掘り、厚く茅や葦を敷き、そこに氷を蔵し、草で覆えば、夏を通して溶けません。夏の暑い盛りにこれを取り出して用います」。大中彦はそこでこれを天皇に献上した。これより毎年冬の終わりに氷を切り出して蔵し、春分になるとこれを頒布するようになった。(注:『日本紀』による。)
皇太子菟道稚郎子
¶皇太子菟道稚郎子は大山守皇子である。天皇(応神天皇)はかつて菟道稚郎子を後継に立てようとしたが、当時仁徳天皇と大山守は年齢の序列で稚郎子より上であった。天皇は試みに問いを設けてその意向を探った。大山守の答えは天皇の意に逆らうものであったため、天皇は喜ばなかった。稚郎子を立てるに及んで、大山守には山川林野を掌らせることを命じた。翌年、天皇が崩じると、大山守はもとより後継になれなかったことを恨んでおり、大和の屯田の一件も重なって、怨みはいよいよ深まった。当時、皇太子は仁徳天皇と互いに位を譲り合い、菟道に退いて住んでいた。大山守は密かに謀反を企て、太子を襲おうとした。仁徳天皇はその計画を知り、太子に告げた。(注:『日本紀』による。)太子はそこで山の上に帳や幕を盛んに張り巡らせ、百官が行き来しているかのように見せかけ、一人の舎人(とねり)に太子の身代わりとして胡床(こしょう)に座らせた。太子自身は布の衣を着て、船頭に紛れて楫(かじ)を操り、河辺に伏兵を置いて待ち構えた。大山守はこれを知らず、夜明け前に川に至り、従う数百の兵は皆鎧を着け、船に乗り込もうとした際、山の上の帳幕を望み見て、太子はそこにいるものと思い込んだ。船が川の中程に至ったとき、太子は船頭に命じて船縁(ふなべり)を踏ませ、船を傾けさせた。大山守は水に落ちて浮き沈みし、伏兵が矢を放ったため岸に上がることもできず、ついに溺死した。太子は鉤(かぎ)でその屍を探し求め、考羅済(こうらのわたり)でこれを見つけ、那良山(ならやま)に収め葬った。(注:『日本紀』による。『古事記』の記述も併せ取った。)
隼総別皇子
¶隼総別皇子は去来真稚皇子である。
大葉枝皇子
¶大葉枝皇子は皇太子菟道稚郎子である。幼くして書を読むことを好み、百済人(くだらびと)の阿直岐(あちき)および王仁(わに)を師として、典籍に広く通じ、天皇はことのほか可愛がった。応神天皇二十八年、高麗(こま)が上表して言った。「高麗の王が日本国に教え示す」。太子はこれを読んで大いに怒り、使者を召してその無礼を責め、面前で上表文を引き裂いて投げ捨てた。四十年正月、皇太子に立てられた。翌年、天皇が崩じると、皇太子は仁徳天皇に位を譲って言った。「そもそも天下に君臨して万民を治める者は、天のようにすべてを覆い、地のようにすべてを容れるものです。上下が相和して喜べば、天下は安泰となります。今、私はあなたの弟であり、そのうえ徳もありません。どうして大業を継ぐことができましょうか。大王は生まれつき優れて聡明で、仁愛と孝行の評判は遠くまで聞こえ、年齢もすでに長じておられます。天下の君となるにふさわしいのはあなたです。先帝が私を太子に立てられたのは、才徳によるものではなく、ただ愛情によるものにすぎません。宗廟社稷という重い務めを、私がどうして担うに足りましょうか。まして兄を敬い弟を慈しむのは聖なる君の道、愚かな臣の道であり、これは今も変わらぬ常の道理です。どうか大王、疑わずに速やかに帝位にお即きください。私は臣としてお助けするのみです」。天皇は言った。「そうではない。先帝は仰せられた。『皇位を一日たりとも空にしてはならぬ』と。あらかじめ明徳の者を選んで副えとし、皇位を継がせて民を授けようとされ、その寵愛の証を広く万国に知らしめられた。私は賢くはないが、どうして先帝の命を捨てられよう」。固く辞退して受けなかった。太子もまた即位を承知せず、菟道に退いて宮を建てて住んだ。こうして皇位が空位であること三年に及んだ。あるとき海人(あま)が新鮮な魚を菟道の宮に献上した。太子は言った。「私は天皇ではない」。そこで難波(なにわ)へ献上させた。天皇もまた辞退し、菟道へ献上するよう諭した。魚は道中で腐ってしまい、改めて捕らえて献上したが、譲り合うことは前と同じであった。魚はまた腐り、海人はこれに困り果て、魚を捨てて泣いた。諺に「海人よ、自分の物のために泣く」というのは、これを言ったものである。太子は言った。「私には兄王の志を奪えないとわかった。どうして生き長らえて天下を悩ませることがあろうか」。そして自ら命を絶った。天皇はこれを聞いて大いに驚き、馬を馳せて菟道の宮に至ったが、すでに三日が経っていた。天皇は胸を打ち叫び哭き、髪を解いて屍にまたがり、三度「わが弟太子よ」と呼んだ。すると太子は声に応じて息を吹き返し、起き上がって座った。天皇は言った。「なぜこのようなことになったのか。死者に知る心があれば、先帝は私を何とお思いになるだろうか」。太子は言った。「これは天命です。誰にも留めることはできません。私は地下で先帝にお会いし、兄王が聖徳あって位をお譲りになったことを詳しく申し上げるつもりです。今、私が死に急いだと聞けば、母上もさぞお心を痛めるでしょう。どうか八田皇女(やたのひめみこ)を後宮にお納めください」。言い終えて息絶えた。天皇は喪服を着けて哀悼の意を表し、慟哭して、ついに菟道山の上に葬った。(注:『日本紀』による。『続日本後紀』には、宇治稚彦皇子(菟道稚郎子)はわが朝の賢明な人物であり、その死に際して遺言で散骨させたとある。しかし当時はまだ仏教が伝来しておらず、これは後世の仏僧が作り出した話で太子を誣いるものと思われるため、採らない。)
小葉枝皇子
¶小葉枝皇子は隼総別皇子である。仁徳天皇四十年三月、天皇は雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を妃に迎えようとし、隼総別にその意向を伝えさせた。隼総別は雌鳥と通じ合い、久しく復命しなかった。天皇はまだそれを知らず、自ら雌鳥の部屋を訪ねた。そのとき雌鳥は機(はた)で絹を織っており、侍女が歌を歌った。「久方の(比佐箇多能)、天(あめ)の金機(阿梅箇儺麼多)、雌鳥が(謎迺利餓)、織る金機(於瑠箇儺麼多)、隼別の(波揶步佐和氣能)、御襲(みそ)料(瀰於須譬鵝泥)」。天皇はこれで隼総別が密通していることを知り、心中これを警戒した。(注:『古事記』には、天皇が弟の速総別王(隼総別)を仲立ちとして遣わしたところ、雌鳥皇女は速総別に「天皇は皇后の嫉妬を憚って、八田若郎女(やたのわきいらつめ)を後宮にお納めになれないでいます。ですから私はお仕えしたくありません。あなたの妻になりたいのです」と言い、そのまま情を通じて復命しなかったとある。天皇がたまたま雌鳥王の部屋を訪れると、雌鳥王は機を織っており、天皇が歌を作り、雌鳥王もまた歌を作って答えたとする。)しかし天皇はもともと兄弟の情に厚く、また皇后を憚って、耐え忍んで罪に問わなかった。ある日、隼総別が雌鳥の膝を枕にして横たわり、尋ねて言った。「鷦鷯(さざき、仁徳天皇の別名)と隼(はやぶさ)とではどちらが速いか」。答えて「隼です」。隼総別は「それゆえ私が先んじるのだ」と言った。天皇はこれを聞いて不快に思った。隼総別の舎人たちが歌を歌った。「隼は(破夜步佐波)、天に上り(阿梅珥能朋利)、飛翔り(等弭箇慨梨)、齋(いつき)が上の(伊菟岐餓宇倍能)、鷦鷯取らさね(娑奘岐等羅佐泥)」。天皇はこれを聞いて大いに怒り、「私は私怨によって肉親を滅ぼすことは望まぬ。だが彼はかえって社稷を危うくしようとするのか」と言い、これを殺そうとした。(注:『古事記』には、雌鳥王が速総別王がやって来るのを見て歌った歌がある。「雲雀は(比婆理波)、天に翔ける(阿米邇迦氣流)、高行くや(多迦由玖夜)、速總別(波夜夫佐和氣)、雀取らさね(佐邪岐登良佐泥)」。天皇はこれを聞いて速総別王を殺そうとしたとする。)隼総別は雌鳥とともに伊勢神宮へ逃れ、天皇は吉備品遅部雄鮒(きびのほむじべのおふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりまのさえきのあたいあがのこ)に命じて追わせ、「追いついたならばその場で殺せ」と勅した。雄鮒らは伊勢の蔣代野(こもしろの)で追いつき、二人を殺した。(注:『日本紀』による。『古事記』には、速総別王と雌鳥王は倉梯山(くらはしやま)に逃げ込み、宇陀(うだ)の蘇邇(そに)まで行ったところで官軍に殺されたとある。)
堅石王
¶堅石王は大葉枝皇子である。
住吉仲皇子
¶住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)は小葉枝皇子である。
大草香皇子
¶大草香皇子(おおくさかのみこ)は堅石王である。(注:本によっては加多遅王(かたじのみこ)に作る。)子に久奴王(くぬのみこ)があった。(注:『古事記』による。)
眉輪王
¶眉輪王(まよわのおおきみ)は仁徳天皇の第五皇子である。磐之媛皇后(いわのひめこうごう)は履中天皇(りちゅうてんのう)・住吉仲皇子・反正天皇(はんぜいてんのう)・允恭天皇を生んだ。妃の日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)は大草香皇子を生んだ。
磐坂市辺押磐皇子
¶磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのべのおしはのみこ)は住吉仲皇子である。履中天皇は喪が明けてまだ即位していなかった頃、羽田矢代宿禰女黒媛(はたのやしろのすくねのむすめくろひめ)を妃に迎えようとし、仲皇子に会う日取りを告げさせた。仲皇子は天皇になりすまして黒媛と通じ、帰り際に自分の手鈴を置き忘れた。翌夜、天皇が訪れ、帳を開けて入ると、寝台のあたりで鈴の音がした。天皇が怪しんで尋ねると、黒媛は「昨夜お持ちになった鈴ではございませんか」と答えた。天皇はこれで仲皇子が黒媛と通じたことを知ったが、黙って立ち去った。仲皇子は誅されることを恐れ、兵を挙げて宮を包囲した。平群木菟(へぐりのつく)らは天皇を奉じて密かに逃れ、大和に入った。仲皇子は火を放って宮を焼き、阿曇浜子(あずみのはまこ)に命じて淡路の海人を集め、飛鳥山(あすかやま)の要所を押さえさせた。天皇はすでに脱出しており、兵が来たと聞いて龍田(たつた)を越えた。海人数十人がこれを追ったが、逆に天皇方に捕らえられた。倭吾子籠は仲皇子のために兵を率いて攪食栗林(かごのくりばやし)で天皇軍を防いだが、官軍が多く集まったのを見て降伏した。天皇は瑞歯別皇子(みずはわけのみこ、後の反正天皇)と平群木菟を遣わし、難波に赴いて仲皇子を討たせた。瑞歯別皇子は仲皇子の側近であった隼人(はやと)の刺領巾(さしひれ)を重い褒賞で誘い、刺領巾は厠(かわや)にいた仲皇子を刺し殺した。(注:『日本紀』による。)
御馬皇子
¶御馬皇子(みまのみこ)は大草香皇子である。(注:『古事記』では大日下王(おおくさかのみこ)に作るが、今は『日本紀』に従う。)またの名を波多毗大郎子(はたびのおおいらつこ)という。天皇(仁徳天皇)は大日下部(おおくさかべ)を置いた。(注:『古事記』による。「草香」と「日下」は訓読みが同じである。)安康天皇(あんこうてんのう)が即位すると、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ、後の雄略天皇)のために大草香の妹である幡梭皇女(はたびのひめみこ)を娶らせようとし、根使主(ねのおみ)にその意向を伝えさせた。大草香は答えて言った。「私は近頃重い病にかかり、たとえば船に荷物を積んで潮が満ちるのを待つようなものです。しかし死は天命であり、惜しむには足りません。ただ独り身の妹がいることが気がかりで、安らかに目を閉じられずにいるだけです。今、陛下が妹の醜さを厭わず、後宮に加えようとされるのであれば、この身に余る御恩命を、私がどうしてお断りできましょうか」。そこで自らの私宝である押木珠縵(おしきのたまかずら)を根使主に託して言った。「粗末な物ですが、どうか誓いの証としてお受け取りください。あなたからよろしくお取り次ぎください」。根使主はその美しさを愛でて密かに自分のものとし、偽って奏上した。「大草香皇子は仰せに従わず、私にこう申しました。『彼(安康天皇)は同族とはいえ、どうして我が妹を妻にできようか』と」。天皇は怒り、兵を遣わして大草香の邸を包囲し、攻め殺してしまった。天皇はそこで幡梭を大泊瀬皇子の妃とした。かつて大草香が難に遭ったとき、その臣である難波日香蚊(なにわのひかか)が皇子の首を抱き、二人の子はそれぞれ皇子の足を持って叫んだ。「悲しいことだ。我が主に罪はない。我ら父子三人、生きては主に仕え、死んで殉じないのは、臣たる道に背くことだ」。そう言って皆自ら首を刎ねた。人々は皆涙を流した。雄略天皇十四年、根使主の悪事が発覚して誅されると、天皇は日香蚊の子孫を探し求めさせ、大草部吉士(おおくさべのきし)の姓を賜ったという。大草香の妃であった中蒂姫(なかしひめ)は眉輪王を生んだ。(注:『日本紀』による。)
高部皇子
¶高部皇子(たかべのみこ)は眉輪王である。(注:『古事記』では目弱王(まよわのみこ)に作る。)安康天皇元年二月、天皇はすでに大草香を殺し、その妃であった中蒂姫を妃として迎え、間もなく皇后に立てた。眉輪は母のゆえに罪を免れ、宮中で養われた。安康天皇三年八月、天皇は山宮に行幸し、楼上で宴を催した。酒に酔って皇后に言った。「我が妹よ(注:本文の注に、古い習わしでは妻を妹と呼んだとある)、そなたとは深い仲だが、ただ眉輪王が成長した後、私がその父を殺したことを知って、必ず復讐の心を抱くのではないかと恐れている。私は常々そのことを気にかけているのだ」。そう言って皇后の膝を枕にして横になった。(注:『日本紀』による。「王長之後」以下は『古事記』の記述も併せ取った。)眉輪はこのとき七歳であったが(注:『旧事紀』『古事記』による)、楼の下で遊んでおり、その話をすべて聞いてしまった。そこで楼上に登り、天皇が酔って眠っているのをうかがい、刺し殺した。(注:『古事記』には、天皇の傍らの刀を取って斬ったとある。)大泊瀬皇子は変事を聞き、兄たちが眉輪にやらせたのではと疑い、自ら兵を率いて事の次第を糾明した。眉輪は言った。「私は天位を求めているのではありません。ただ父の仇を討ったまでのことです」。(注:『水鏡』には、眉輪王はその場で自ら首を刎ねて死んだとある。)境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)は眉輪をそそのかしたとして、ともに逃げて大臣葛城円(かつらぎのつぶら)の邸に匿われた。大泊瀬皇子は使者を遣わして引き渡しを求めたが、円は応じなかったため、さらに兵を増やして邸を包囲し、火を放った。眉輪らは焼け死んだ。(注:『日本紀』による。)
皇太子木梨軽
¶皇太子木梨軽(きなしのかる)は履中天皇の第二皇子である。妃の黒媛(くろひめ)は磐坂市辺押磐皇子・御馬皇子(みまのみこ)を生んだ。(注:『日本紀』による。)
境黒彦皇子
¶境黒彦皇子は磐坂市辺押磐皇子である。(注:「押磐」の「磐」は「羽」に作る本もあり、『古事記』では忍歯別王(おしはわけのみこ)に作る。)安康天皇はかつて押磐に位を伝えようとし、あらかじめ後事を託していた。大泊瀬皇子はこれを深く恨んでいた。眉輪王を誅殺した後、使者を遣わして押磐を誘い出して言った。「近江の狭狭岐山(ささきやま)の韓帒(からふくろ)が『来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)には猪や鹿が多い』と申しております。皇子とともに狩りをして楽しみたく存じます」。押磐はそこで狩りに従った。大泊瀬皇子は「猪がいるぞ」と偽って叫び、弓を引いて馬を馳せ、押磐を射殺した。帳内(とねり)の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は(注:またの名を仲子(なかつこ)という)、屍を抱いて号泣し立ち去らなかったため、これも併せて殺された。(注:『日本紀』による。)押磐は槽(ひつぎおけ)に納めて埋葬された。(注:『古事記』による。)押磐は億計王(おけのみこ)・弘計王(をけのみこ)・橘王(たちばなのみこ)および一人の女子を生んだ。(注:『日本紀』の注による。本文の注では飯豊女王(いいとよのひめみこ)を二女とするが、今は採らない。詳しくは皇女伝を見よ。)億計王・弘計王は難を避けて逃れ、播磨(はりま)の赤石(あかし)まで走った。この話は『顕宗紀』に見える。清寧天皇(せいねいてんのう)が崩じると、弘計王が即位した。これが顕宗天皇(けんぞうてんのう)である。哀悼の詔を下し、押磐の屍を探し求めさせ、老人たちを召して自ら尋ねた。置目(おきめ)という名の老女がおり、狭狭城山君韓帒(ささきのやまのきみからふくろ)の妹であったが、その所在を知っていると申し出た。天皇は皇太子とともに置目を伴って蚊屋野に行幸し、ついに屍を見つけた。墓穴に臨んで悲しみ嘆いて言った。「古来より、これほど痛ましいことはない」。そこで改葬しようとしたが、押磐と佐伯部売輪は一緒に埋められており、区別がつかなかった。押磐の乳母が「売輪は上の歯が抜け落ちておりました」と申し出たため、これによってようやく頭骨を見分けることができた。そこで二つの塚を並べ、葬儀に差をつけなかった。そして押磐を殺した狭狭城山君韓帒を誅した。韓帒は頭を叩いて哀れみを乞い、天皇はその罪を減じて、戸籍から除いて押磐の墓守とし、山部連(やまべのむらじ)に隷属させた。韓帒の一族の倭帒(やまとふくろ)は置目に功があったことで赦され、もとの姓を賜った。(注:『日本紀』による。)天皇は特に詔を下し、置目を宮のそばに住まわせ、朝夕参内させ、手厚く褒美を与えた。置目は年老いて歩くのが難儀になった。そこで詔して、御殿の入口から置目の住まいまで、綱を張って鈴をつけさせ、それを頼りに出入りさせ、また来訪を告げる合図とした。顕宗天皇二年、置目は年老いたことを理由に故郷への帰還を願い出た。天皇はこれを憐れみ、御製の歌と物千段を賜って帰らせた。(注:『日本紀』による。『古事記』の記述も併せ取った。)仁賢天皇(にんけんてんのう)は諸国の佐伯部を探し求めさせ、売輪の子孫を佐伯造(さえきのみやつこ)とした。(注:『日本紀』による。)
八釣白彦皇子
¶八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)は御馬皇子である。三輪身狭(みわのむさ)と親しかったが、押磐皇子が殺されるに及んで恐れ憂い、身の置き所を失い、身狭のもとへ逃れた。大泊瀬皇子は兵を遣わしてこれを捕らえようとした。三輪の磐井のほとりで御馬は戦い捕らえられ、死に臨んで井戸を指して呪って言った。「この井戸の水は民は飲めても、王たる者は飲むことができぬように」。(注:『日本紀』による。)
磐城皇子
星川稚宮皇子
¶星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)は高部皇子である。
大郎皇子
¶大郎皇子(おおいらつこのみこ)は允恭天皇の第五皇子である。忍坂大中姫皇后は皇太子木梨軽・境黒彦皇子・安康天皇・八釣白彦皇子・雄略天皇を生んだ。(注:『日本紀』『古事記』による。『日本紀』顕宗紀の注に、難波小野王(なにわのおののみこ)は雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと、允恭天皇)の曾孫であり、磐城王の孫、丘稚子王(おかのわくごのみこ)の娘であるとある。これによれば磐城王は允恭天皇の子ということになるが、他に考証する材料がないため、ひとまずここに付す。)
椀子皇子
¶椀子皇子(まろこのみこ)は皇太子木梨軽である。天皇(允恭天皇)はかつて軽部(かるべ)を定めた。(注:『古事記』による。)允恭天皇二十三年三月、皇太子に立てられた。容姿が美しく、同母妹の軽大娘(かるのおおいらつめ)もまた艶やかであった。太子は常にこれを犯したいと思ったが、罪を恐れて果たせずにいるうちに、恋い焦がれて死にそうになった。そこで自ら思った。「むなしく死ぬくらいなら、望みを遂げて罪を得たほうがましだ」。こうして密かに通じてしまった。翌年六月、天皇の御膳の羹(あつもの)が凍り付くという異変が起き、天皇はこれを怪しんだ。占わせたところ、占い師は「内に乱れがあります。近親相姦ではありませんか」と言った。ある者が「皇太子が軽大娘皇女と通じています」と申し出た。そこで問いただすと事実であった。天皇は「太子は皇位継承者であるから、刑罰を加えることはできない」と言い、軽大娘を伊予(いよ)に流した。允恭天皇四十二年、天皇が崩じると、太子は暴虐となり婦女に淫らな行いを重ねたため、群臣の心は穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)に傾いた。太子は密かに兵を集め、穴穂皇子を襲おうとした。穴穂皇子もまたこれに備え、それぞれ武器を作った。(注:「各造器械」は『古事記』による。)穴穂括箭(あなほのやはず)・軽括箭(かるのやはず)という矢筈の名は、これに始まる。太子は人心が離れていくのを悟り、物部大前(もののべのおおまえ)の家に身を隠した。穴穗皇子がこれを包囲すると、大前は出迎えて言った。「どうか太子を害さないでください。私に考えがあります」。太子はついに自害した。あるいは伊予に流されたとも言う。(注:『日本紀』による。『古事記』には、天皇が崩じて皇太子がまだ即位しないうちに、その妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)を犯したため、百官や民がことごとく背いて穴穗皇子に帰服したとある。太子は恐れて大前小前大臣(おおまえおまえのおおおみ)の家に逃げ込んだという。大前小前大臣は太子を捕らえて降伏させ、伊予の湯に流したところ、出発に際して軽大郎女が追いついてきて、ともに自害したとする。また『水鏡』はこれを安康天皇元年の出来事とするが、これは誤りである。)
耳皇子
¶耳皇子(みみのみこ)は境黒彦皇子である。大泊瀬皇子に追い詰められ、大臣葛城円の邸で焼死した。坂合部贄(さかいべのにえ)はその屍を抱き、ともに焼け死んだ。その舎人たちは焼けた骨を収めたが、見分けがつかなかったため、まとめて一つの棺に納め、新漢(いまき)の槻木(つきのき)の南の丘に葬った。(注:『日本紀』による。)
厚皇子
¶厚皇子(あつのみこ)は八釣白彦皇子である。この皇子もまた大泊瀬皇子に殺された。(注:『古事記』には、眉輪王が円の家に逃げ込んだとき、大泊瀬皇子は変事を聞いて黒彦のもとへ行き、ともに謀ったが、黒彦がそれを気にかけない様子であったため、大泊瀬皇子は罵って剣を抜いて殺したとある。そして白彦のもとへも行き、同じようにした。大泊瀬皇子はその襟をつかんで小治田(おわりだ)まで連れて行き、穴を掘って生きたまま立たせて埋めた。腰まで埋まったところで両眼が飛び出して死んだという。)
兎皇子
¶兎皇子(うさぎのみこ)は雄略天皇の第三皇子である。妃の葛城韓媛(かつらぎのからひめ)は清寧天皇を生んだ。吉備稚媛(きびのわかひめ)は磐城皇子・星川稚宮皇子を生んだ。(注:『日本紀』による。)
中皇子
¶中皇子(なかつみこ)は磐城皇子である。雄略天皇二十三年、弟の星川とともに焼死した。
上殖葉皇子
¶上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)は星川稚宮皇子である。人となりは道理に外れて悪く行いが悪かった。雄略天皇二十三年八月、天皇の病が重くなり、大連(おおむらじ)大伴室屋(おおとものむろや)らに遺詔して「星川に政事を任せてはならぬ」と告げた。天皇が崩じると、母の稚媛(わかひめ)は密かに星川に言った。「天位に登ろうと思うなら、まず大蔵(おおくら)の官職を手に入れなさい」。磐城皇子はこれを諫めて言った。「皇太子(清寧天皇)は弟とはいえ、すでに正しく東宮の位にある。どうして欺くことができようか」。星川はこれに従わず、大蔵に拠って外門を閉ざし、勝手に官の物を用いた。室屋らは軍を発し、大蔵を包囲して火を放った。磐城・星川、およびこれに従った者は皆焼死した。河内三野県主小根(かわちのみののあがたぬしおね)は火を避けて逃げ出し、草香部漢彦(くさかべのあやひこ)の脚に抱きついて哀れみを乞うた。漢彦は室屋に頼んでこれを許してもらった。小根はそこで難波来目邑(なにわのくめのむら)の大井戸の田十町を室屋に納め、また田地を漢彦に与えた。吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは乱を聞いて星川を助けようとし、戦艦四十艘を率いてやって来たが、星川の敗北を聞いて帰った。清寧天皇は使者を遣わしてこれを責め、その所領の山部(やまべ)を奪った。(注:『日本紀』による。)
火焔皇子
¶火焔皇子(ほのおのみこ)は継体天皇の第九皇子である。手白香皇后(たしらかこうごう)は欽明天皇(きんめいてんのう)を生んだ。妃の目子媛(めのこひめ)は安閑天皇(あんかんてんのう)・宣化天皇(せんかてんのう)を生んだ。稚子媛(わかこひめ)は大郎皇子を生んだ。倭媛(やまとひめ)は椀子皇子・耳皇子を生んだ。荑媛(はえひめ)は厚皇子を生んだ。広媛(ひろひめ)は兎皇子・中皇子を生んだ。(注:『日本紀』による。)
箭田珠勝大兄皇子
¶箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)は大郎皇子である。
石上皇子
¶石上皇子(いそのかみのみこ)は椀子皇子である。
倉皇子
¶倉皇子(くらのみこ)は耳皇子である。
蝋觜鳥皇子
¶蝋觜鳥皇子(ろうしちょうのみこ)は厚皇子である。
椀子皇子
¶椀子皇子(まろこのみこ)は兎皇子である。
石上部皇子
¶石上部皇子(いそのかみべのみこ)は中皇子である。
山背皇子
¶山背皇子(やましろのみこ)は宣化天皇の第二皇子である。橘仲皇后(たちばなのなかつこうごう)は上殖葉皇子を生んだ。妃の大河内稚子媛(おおしこうちのわかこひめ)は火焔皇子を生んだ。(注:『日本紀』による。)
桜井皇子
¶桜井皇子(さくらいのみこ)は上殖葉皇子であり、またの名を椀子という。(注:『日本紀』による。)子は十市王(とおちのみこ)という。十市王の子は多治比古王(たじひこのみこ)といい、多治比公(たじひのきみ)の姓を賜った。(注:『三代実録』貞観八年による。)
橘本稚皇子
¶橘本稚皇子(たちばなもとのわかみこ)は火焔皇子である。
茨城皇子
¶茨城皇子(いばらきのみこ)は欽明天皇の第十六皇子である。石姫皇后(いしひめこうごう)は箭田珠勝大兄皇子・敏達天皇(びだつてんのう)を生んだ。妃の倉稚綾姫(くらのわかやひめ)は石上皇子を生んだ。日影皇女(ひかげのひめみこ)は倉皇子を生んだ。堅塩媛(きたしひめ)は用明天皇(ようめいてんのう)・蝋觜鳥皇子・椀子皇子・石上部皇子・山背皇子・桜井皇子・橘本稚皇子を生んだ。小姉君(おあねのきみ)は茨城皇子・葛城皇子・穴穂部皇子(あなほべのみこ)・崇峻天皇(すしゅんてんのう)を生み、糠子(ぬかこ)は橘麻呂皇子(たちばなまろのみこ)を生んだ。(注:『日本紀』による。)
葛城皇子
¶葛城皇子(かつらぎのみこ)は箭田珠勝大兄皇子である。欽明天皇十三年四月に薨じた。(注:『日本紀』による。)
穴穂部皇子
¶穴穂部皇子は石上皇子である。
橘麻呂皇子
¶橘麻呂皇子は倉皇子である。
押坂彦人大兄皇子
¶押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)は蝋觜鳥皇子である。
竹田皇子
¶竹田皇子(たけだのみこ)は椀子皇子である。
尾張皇子
¶尾張皇子(おわりのみこ)は石上部皇子である。
難波皇子
¶難波皇子(なにわのみこ)は山背皇子である。
春日皇子
¶春日皇子(かすがのみこ)は桜井皇子である。娘に吉備姫王(きびひめのおおきみ)があり(注:『皇胤紹運録』による)、茅渟王(ちぬのみこ)に嫁いで皇極天皇(こうぎょくてんのう)を生んだ。(注:『日本紀』による。)
大派皇子
¶大派皇子(おおまたのみこ)は橘本稚皇子である。
聖徳太子厩戸
¶聖徳太子厩戸(しょうとくたいしうまやど)は葛城皇子である。
山背大兄王
麻呂子皇子
¶麻呂子皇子(まろこのみこ)は穴穂部皇子である。(注:『古事記』では三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのみこ)に作る。)またの名を天香子(あめのかごこ)、また住跡(すみあと)という。敏達天皇が崩じたとき、穴穂部は密かに野心を抱いていた。群臣が皆殯宮(もがりのみや)に集まったとき、穴穂部は憤って言った。「どうして死んだ王の宮廷に仕え、生きている王(自分)のもとに参らないのか」。やがて用明天皇が即位すると、穴穂部は密かに不軌を謀った。用明天皇元年五月、炊屋姫皇后(かしきやひめこうごう、後の推古天皇)を犯そうとし、無理に殯宮に押し入ろうとした。三輪逆(みわのさかう)は兵衛を指揮し、門を閉ざして入れなかった。穴穂部が「誰がここにいるのか」と問うと、兵衛は「三輪君逆がおります」と答えた。穴穂部は七度呼んだが、ついに門は開かなかった。そこで大臣蘇我馬子(そがのうまこ)・大連物部守屋(もののべのもりや)に言った。「逆はしばしば無礼を働いている。先に殯庭で誄(しのびごと)を奉ったとき、こう言った。『朝廷を荒らさず、鏡のように清らかに治め平らかに仕えよう。今、天皇の子弟は多く、かつ両大臣がおられる。誰が独りで仕えると言えようか』と。その無礼はこの通りである。また私は殯宮を見ようとしたのに、拒んで入れず、七度呼んでも応じなかった。斬るがよい」。二人は共に「仰せの通りに」と答えた。穴穂部はもとより守屋と親しく、そこでともに兵を率いて磐余(いわれ)の池のほとりを包囲した。逆はこれを知り、三諸岳(みもろのおか)に逃げた。夜半に山を出て、炊屋姫皇后の別宮である海石榴市(つばいち)に潜んだが、一族の白堤(しらつつみ)・横山(よこやま)に密告された。穴穂部は再び守屋を遣わし、逆とその二子を討たせた。そして自ら出向こうとした。馬子はこれを聞き、穴穂部の家に赴いて、ちょうど門を出るところに諫めて言った。「王たる者は刑を行う場に近づくべきではありません。どうか自らお出向きになりませんように」。穴穂部は聞き入れなかったが、馬子は磐余の池のほとりまでついて行き、強く諫めたところ、穴穂部はようやく思いとどまり、胡床に腰掛けて守屋の帰りを待った。しばらくして守屋が至り、「逆らを誅滅しました」と告げた。(注:本文の注には一説として、穴穂部皇子が自ら赴いて射殺したとある。また逆は敏達天皇の寵臣で、内外の政事をすべて委ねられていたため、皇后と馬子はともに穴穂部を憎んでいたともいう。)翌年四月、用明天皇が崩じた。守屋は穴穂部を立てようと図った。六月、馬子は炊屋姫皇后の詔を奉じ、佐伯丹経手(さえきのにえて)・土師磐村(はじのいわむら)・的真嚙(いくはのまくい)を遣わし、穴穂部および宅部皇子(やかべのみこ)を討たせた。宅部は穴穂部ともっとも親しかった。この夜半、丹経手らは穴穂部の宮を包囲し、兵士が楼に登って穴穂部の肩を斬った。穴穂部は地に墜ちて奥の部屋に逃げ込んだが、燭を掲げて捜し出され殺された。翌日、宅部も誅された。(注:『日本紀』による。『聖徳太子伝暦』には、穴太部皇子・宅部皇子は用明天皇の兄弟であるとある。『皇胤紹運録』もまた宅部を欽明天皇の子とする。しかし『日本紀』の注には、宅部皇子は檜隈天皇(ひのくまのすめらみこと)の子で、上女王(かみつひめみこ)の父であるとし、詳細は不明とする。今考えるに、檜隈天皇とは宣化天皇のことである。欽明天皇は檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られたが、檜隈天皇と称された文はまだ見られない。『日本紀』の注もすでに未詳としているので、確定する材料がなく、採らない。)
来目皇子
¶来目皇子(くめのみこ)は橘麻呂皇子である。
殖栗皇子
¶殖栗皇子(えぐりのみこ)は敏達天皇の第六皇子である。広姫皇后(ひろひめこうごう)は押坂彦人大兄皇子を生んだ。額田部皇后(ぬかたべこうごう、後の推古天皇)は竹田皇子・尾張皇子を生んだ。夫人の老女君(おみなのきみ)は難波皇子・春日皇子・大派皇子を生んだ。(注:『日本紀』による。)
田目皇子
¶田目皇子(ためのみこ)は押坂彦人大兄皇子であり、またの名を麻呂古(まろこ)という。(注:『日本紀』用明紀には「太子彦人皇子」とあり、『古事記』もまた太子と称する。しかし彼が太子に立てられたことは他に見えない。おそらく後に追尊してそう称したのであろう。)糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ)を娶り、舒明天皇(じょめいてんのう)を生んだ。(注:『日本紀』による。)また中津王(なかつのみこ)・多良王(たらのみこ)を生んだ。(注:『古事記』による。『姓氏録』に大原真人(おおはらのまひと)らは敏達天皇の孫、百済王(くだらのみこ)の子孫から出るとある。これによれば「多良王」の上には「久」の一字が脱けているのではないか。「百済」と「久多良」は訓読みが通じる。)さらに茅渟王・山代王(やましろのみこ)・笠縫王(かさぬいのみこ)および一人の女子を生んだ。(注:『古事記』『皇胤紹運録』による。)茅渟王は吉備姫王を娶り、皇極天皇・孝徳天皇(こうとくてんのう)を生んだ。(注:『日本紀』による。)
茨田皇子
¶茨田皇子(まむたのみこ)は竹田皇子であり、またの名を小貝(おかい)という。(注:『古事記』による。)大臣蘇我馬子が物部守屋を討伐した際、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)らとともに兵を率い、守屋を攻め進んだ。(注:『日本紀』による。)
¶尾張皇子。娘に位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)があった。(注:本によっては多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)とする。)聖徳太子の妃となったが、太子が薨じると、橘王は悲しみのあまり奏上して言った。「わが大王はかつて『世間は虚仮(こけ)であり、ただ仏のみが真実である』とお告げになりました。その教えを味わうに、大王は天寿国(てんじゅこく)にお生まれになったはずですが、かの国の姿は目で見て測ることができません。どうか図像によって、大王が往生された様子を拝見したく存じます」。推古天皇はこれを憐れに思い、諸々の采女(うねめ)に命じて刺繍の帷(とばり)を二枚造らせ、東漢末賢(やまとのあやのまけん)・高麗加西溢(こまのかせいいつ)らに図柄を書かせて賜った。(注:『法王帝説』による。)
¶難波皇子。子に栗隈王(くりくまのおおきみ)があり、別に伝がある。(注:『橘氏系図』による。一説では難波皇子は大俣王(おおまたのみこ)を生み、大俣王が栗隈王を生んだとするが、今は『姓氏録』『公卿補任』に従う。)
¶春日皇子。
¶大派皇子。舒明天皇の御代、蘇我氏が権勢をほしいままにし、朝政が緩んでいたことを大派は憂えた。蘇我蝦夷(そがのえみし)に言った。「群卿や百官の参朝がひどく遅い。どうか今後は卯の刻の初めに参朝し、巳の刻の後に退出するようにし、鐘を合図としてほしい」。蝦夷はこれに従わなかった。(注:『日本紀』による。)
¶用明天皇は六人の皇子があった。穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)は聖徳太子厩戸・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子を生んだ。嬪(ひん)の石寸名(いしきな)は田目皇子を生んだ。宮人の広子(ひろこ)は麻呂子皇子を生んだ。(注:『日本紀』による。本文の推古天皇元年の記事では厩戸を第二子とするが、これは嫡庶にかかわらず年齢の順に並べたものであろう。)
¶聖徳太子厩戸は(注:『日本紀』の一説に、またの名を豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)というとある。しかし『日本紀』および『法王帝説』『聖徳太子伝暦』『聖徳太子補闕記』はいずれも「聖徳」の名を記していない。『日本紀』の敏達五年の条には「東宮聖徳」とあるが、これも名として書かれたものではない。『神皇正統記』は「聖徳」を諡(おくりな)とする。今『元亨釈書』を考えるに、「聖徳」は太子の全体の行いを挙げて称したものである。おそらく当時の人々が尊んで呼んだ称であり、後世そのままこの号を用いたのであろう)、母は穴穂部間人皇后である。皇后は懐妊中、たまたま宮中を巡視に出て、馬官(うまつかさ)の厩戸(うまやと)に至り、労することなく出産した。それで厩戸と名付けた。(注:『日本紀』『太子伝暦』による。)生まれながらにして物を言うことができ、聖なる智慧があった。(注:『日本紀』による。)数歳のとき、諸皇子とともに宮中に集まり、口論して戯れていた。天皇がこれを聞き、鞭を取って立ち上がると、諸皇子は皆逃げ隠れたが、太子だけは肌を脱いで進み出た。天皇が「お前はなぜそうするのか」と問うと、太子は「天は階段をかけて昇ることができず、地は穴を掘って身を隠すことができません。それゆえ進み出て鞭をお受けするのです」と答えた。天皇はこれを不思議に思った。(注:『太子伝暦』『太子伝補闕記』による。)やや長じると書を読むことを好み、生まれつき非常に聡明で、十人の訴えを同時に聞いても誤りがなかった。(注:『法王帝説』『太子伝補闕記』『太子伝暦』には、八人が同時に訴え事を述べても、太子はすべて聞き分けて誤りがなかったため、八耳皇子(やつみみのみこ)と号したとある。)天皇はこれを愛し、宮の南の上殿(かみつみあらか)に住まわせたため、上宮厩戸豊聡耳皇子(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)と号した。太子は仏教を好み、典籍を広く読んだ。大臣蘇我馬子もまた仏を信じていた。敏達天皇十四年、馬子が病にかかり、仏に祈ることを奏請した。(注:『日本紀』による。)天皇はもとより仏教を好まず、太子に言った。「我が国にはもとより神がある。それなのに今、馬子は異国の神を祭ろうとしている。これをどうすべきか」。太子は言った。「もろもろの仏の道は、諸々の神もあえて逆らうことはありません。今、馬子が仏法を興そうとするのは、国家の福ではないでしょうか」。天皇はそこで馬子の願いを許した。(注:『太子伝暦』による。)このとき天下に疫病が流行り、民の多くが死んだ。大連物部守屋・中臣勝海(なかとみのかつみ)は「これはおそらく馬子が仏法を興し行ったためです」と奏上した。そこで天皇は詔を下し、祠(ほこら)や仏像を焼かせた。(注:『日本紀』による。)太子と馬子は二人の所業を深く憎んだ。(注:『太子伝暦』『太子伝補闕記』による。)この年、天皇が崩じ、用明天皇が即位した。用明天皇三年、瘡(かさ)の病が篤くなった。(注:『日本紀』による。)太子は昼夜側に仕え、三宝に祈り続け、口を絶やすことがなかった。(注:『太子伝暦』による。)天皇はそのために仏に帰依しようとしたが、これまで天子が仏を礼拝したことはなかったため、群臣を召して会議させた。守屋・勝海は強く不可であると述べたが、馬子は「ただ詔に従うのみです」と言った。そこで豊国法師(とよくにのほうし)を宮中に招き入れた。(注:『日本紀』による。)太子は馬子の手を握り涙を流して言った。「三宝の妙なる理は、人々が知らぬために、みだりに異論を生じるのです。今、大臣が福田(ふくでん、仏)に心を寄せられたことは、これに勝る喜びはありません」。馬子は頭を地に付けて言った。「殿下の聖徳のおかげで、仏法が興隆いたします。私は死んでも、生きているのと同じでございます」。(注:『太子伝暦』による。)守屋はこれを睨みつけて大いに怒った。(注:『日本紀』による。)太子は左右の者に言った。「大連は因果の理に迷っている。禍が今まさに至ろうとしているが、まだ気づいていないだけだ」。(注:『太子伝暦』『水鏡』による。)ある者がこれを守屋に告げたため、守屋は兵を備えて自衛し、勝海は兵を率いて守屋を助けた。太子は舎人の迹見赤檮(とみのいちい)に命じて密かに勝海を殺させた。(注:『日本紀』による。『太子伝暦』『水鏡』の記述も併せ取った。)天皇は病が篤くなると、太子と誓って「寺および薬師仏像を造ろう」と約束し、病の平癒を祈った。(注:『法王帝説』による。)やがて天皇は崩じた。当時、後継はまだ定まっておらず、守屋は穴穂部皇子を立てようとしたが、馬子は先に兵を発して穴穂部を攻めた。(注:『日本紀』による。)太子はこのことについて多く発言し、聞き入れずにこれを殺させた。(注:『太子伝暦』による。)そしてついに太子とともに守屋を殺す謀をした。このとき用明天皇の喪はまだ殯(もがり)の最中であり、太子は額のところで髪を束ね(注:本文の注に、昔は子供は十五、六歳の間は額で髪を束ね、十七、八歳になると角髪(みずら)に分けたとある)、自ら軍の後ろに従った。守屋の兵は強く、太子は自ら考えて「仏の力を借りなければ勝つことはできない」と思った。そこで白膠木(ぬるで)で四天王の像を作り、これを頭髪の中に納めて誓いを立てた。「もし今、私を勝たせてくださるならば、必ず護世四王のために寺塔を建てましょう」。やがて守屋は敗れて死に、太子は寺を建てて四天王の像を安置した。守屋の奴婢・資財・田宅を没収し、すべて寺に施捨した。一万頃(けい)を迹見赤檮に賞として与えた。(注:『日本紀』による。)崇峻天皇が即位すると、馬子の驕り高ぶった振る舞いを憎み、密かに太子に言った。「馬子は内では私欲をほしいままにし、外では仏教を口実に取り繕っているが、実には忠義の心などない。お前はどう思うか」。太子は答えて言った。「馬子は確かに驕り高ぶった臣です。ただ陛下、耐え忍んでください」。(注:『太子伝暦』『水鏡』による。)天皇は気性が激しく悪を憎む性質で(注:『太子伝暦』による)、時に憤りの言葉を発した。馬子はこれを聞いて恐れ、密かに不軌を謀った。(注:『日本紀』による。)太子はその間に立ち、双方の企てを知りながらも、これを収めることができなかった。日を重ねて耐え忍んでいたが(注:『愚管抄』による)、天皇はついに弑逆されて崩じた。太子はこれを聞いて哭いて言った。「これは過去の報いである」。馬子は後に弑逆を実行した東漢駒(やまとのあやのこま)を捕らえ、罪に問うて殺した。(注:『日本紀』による。『太子伝暦』の記述も併せ取った。)天下はますます馬子を憎んだ。(注:『水鏡』による。)太子もまた言った。「たとえこの誅罰があったとしても、君を弑した名は千年経っても雪(そそ)ぐことはできまい」。(注:『太子伝暦』による。)しかしその後は再び態度を低くして馬子に従い、あえて逆らうことはなかった。(注:『愚管抄』による。)群臣はそこで敏達天皇の皇后(額田部皇女)に即位を勧め、これが推古天皇である。推古天皇元年、太子は皇太子・摂政に立てられ、万機を委ねられた。推古天皇二年、太子と馬子に詔して仏法を興隆させた。これにより諸々の臣や連(むらじ)たちが競って仏塔を造り、これを寺と呼んだ。推古天皇三年、高麗僧の慧慈(えじ)が来朝し、太子はこれを師とした。(注:『日本紀』による。)五戒を受け、僧の号にならって自ら勝鬘(しょうまん)と名乗った。(注:『四天王寺手印記』による。)推古天皇十一年、太子は初めて冠位十二階を制定した。詳細は職官志に記す。(注:『日本紀』による。)
¶翌年、憲法十七条を制定した。第一条に言う。「和をもって貴しとなし、逆らい背くことのないようにせよ。人には皆それぞれの徒党があり、道理をわきまえた者は少ない。それゆえ主君や父に従わず、また近隣ともいさかいを起こす。しかし上の者が和し下の者が睦まじく、事を論じ合って調和すれば、事の道理はおのずと通じ、何事も成らないことはない」。第二条に言う。「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧である。これはあらゆる生あるものの最後の拠り所であり、万国の究極の教えである。いつの時代の誰であっても、この法を貴ばぬ者はいない。人には甚だしく悪い者は少なく、よく教えれば従う。三宝に帰依しなければ、何をもって曲がった心を正すことができようか」。第三条に言う。「詔を受けたならば必ず謹んで従え。君は天であり、臣は地である。天が覆い地が載せることによって、四季が順調に巡り、万物の気が通じる。地が天を覆おうとすれば、秩序は壊れてしまう。それゆえ君が言えば臣はこれを承り、上が行えば下はこれになびく。ゆえに詔を受けたら必ず慎み、謹まなければおのずと敗れる」。第四条に言う。「群臣や百官は礼を根本とせよ。民を治める根本は、礼にある。上に礼がなければ下は治まらず、下に礼がなければ必ず罪を犯す者が出る。それゆえ群臣に礼があれば序列は乱れず、百姓に礼があれば国家はおのずと治まる」。第五条に言う。「食への貪りを断ち、欲望を捨てて、訴訟を明らかに裁け。百姓の訴えは一日に千件にも及ぶ。一日でさえこれほどであるから、まして年月を重ねればなおさらである。近頃、訴訟を扱う者は利を得ることを常とし、賄賂を見てから裁決を聞く有様である。財のある者の訴えは石を水に投げ込むように容易く通り、貧しい者の訴えは水を石に投げるように通らない。それゆえ貧しい民はどうしてよいかわからず、臣たる道もここに欠けてしまう」。第六条に言う。「悪を懲らしめ善を勧めるのは、古くからの良き掟である。それゆえ人の善行を隠さず、悪を見たら必ず正せ。へつらい欺く者は、国家を覆す利器であり、人民を絶つ鋭い剣である。またこびへつらう者は、上に対しては下の過ちを好んで言い立て、下に会えば上の過失を誹謗する。このような人は皆、君に対して忠がなく、民に対して仁がない。これは大乱の根本である」。第七条に言う。「人にはそれぞれ任務があり、その掌るところを乱してはならない。賢く道理をわきまえた者が官に任じられれば称賛の声が起こり、よこしまな者が官にあれば禍乱が繁くなる。世に生まれながらにして知恵ある者は少なく、多くは思いを重ねて聖なる境地に至る。事の大小にかかわらず、得がたい人材を得れば必ず治まり、時の緩急にかかわらず、賢者に出会えばおのずとゆとりが生まれる。これによって国家は永く続き、社稷は危うくならない。それゆえ古の聖王は官のために人を求め、人のために官を求めることはしなかった」。第八条に言う。「群卿や百官は朝早く出仕し、遅く退出せよ。公事は怠ることが許されず、一日をかけてもなお終わらないことがある。それゆえ朝の出仕が遅ければ急な用に間に合わず、早く退出すれば必ず事が終わらない」。第九条に言う。「信は義の根本である。何事にも信がなければならない。善悪や成否の要は、信にある。群臣が共に信があれば何事も成り、群臣に信がなければ万事ことごとく敗れる」。第十条に言う。「怒りを絶ち憤りを捨て、人が自分と違っても怒るな。人には皆それぞれの心があり、心にはそれぞれの執着がある。相手が是とすれば自分は非とし、自分が是とすれば相手は非とする。自分が必ずしも聖人ではなく、相手も必ずしも愚か者ではない。ともに凡夫であるにすぎない。是非の理を、どうして定めることができようか。互いに賢さと愚かさを併せ持つのは、輪に端がないようなものだ。それゆえ、相手が怒ったとしても、かえって自分の過ちを恐れ、自分だけが正しいと思っても、皆の意見に従うべきである」。第十一条に言う。「功と過ちを明らかに見極め、賞罰を必ず正しく行え。近頃は功績のない者に賞が与えられ、罪のない者に罰が与えられている。政務を執る群卿は、賞罰を明らかにすべきである」。第十二条に言う。「国司や国造は百姓から勝手に取り立ててはならない。国に二人の君はなく、民に二人の主はいない。国中の万民は、王を主とする。任命された官吏は皆、王の臣である。どうして公の税とは別に、百姓から取り立てることが許されようか」。第十三条に言う。「諸々の官に任ぜられた者は、同じくその職掌を心得よ。病や使いのために職務に空白が生じることがある。しかし職に復帰した日には、和やかに以前から知っていたかのように振る舞え。事情を知らなかったことを理由に公務を妨げてはならない」。第十四条に言う。「群臣や百官は嫉妬してはならない。自分が人を嫉めば、人もまた自分を嫉む。嫉妬の患いには際限がない。それゆえ、知恵が自分に勝る者があれば喜ばず、才能が自分より優れていれば嫉妬する。これでは五百年に一度でようやく賢者に出会い、千年に一度でようやく聖人を待つことになる。賢者や聖人を得られなければ、どうして国を治めることができようか」。第十五条に言う。「私心を離れて公につくのは、臣たる者の道である。すべて人には私心があり、私心があれば必ず恨みが生じ、恨みがあれば必ず調和を乱す。調和を乱せば私心が公を妨げ、恨みが起これば制度に背いて法を害する。それゆえ第一条に『上下が和諧せよ』と述べたのも、この心によるものである」。第十六条に言う。「民を使役するに時期を選ぶのは、古くからの良き掟である。それゆえ冬の農閑期には民を使役してもよいが、春から秋にかけての農業や養蚕の時期には、民を使役してはならない。農業をしなければ何を食べ、養蚕をしなければ何を着るというのか」。第十七条に言う。「事は独断で決めてはならず、必ず多くの者と論じ合え。小さな事は軽んじてよく、必ずしも皆で論じる必要はない。ただ大事を論じるときには、判断を誤ることがあるかもしれないと疑うべきである。それゆえ多くの者と論じ合えば、意見はおのずと道理にかなうものとなる」。(注:『日本紀』による。)
¶推古天皇十三年、斑鳩宮(いかるがのみや)に移り住んだ。(注:『日本紀』による。)推古天皇十四年、天皇は太子に『勝鬘経』『法華経』の二経を講じさせ、諸々の名僧を前に招いて論議させた。太子は法服を着けて法座に上り、払子(ほっす)を振るって受け答えした。天皇はこれを喜び、詔して播磨の水田百町を賜った。(注:『日本紀』による。『太子伝暦』の記述も併せ取った。)太子はかつて『法華経』に脱字があるのではないかと疑い、完全な経典を得たいと思っていた。(注:『太子伝暦』による。)推古天皇十五年、大礼小野妹子(だいらいおののいもこ)を隋に派遣するよう奏請した。(注:『日本紀』による。)その国書はすべて太子の言葉によるものであった。翌年、妹子は経典を得て帰国した。推古天皇十九年五月五日、天皇は菟田(うだ)に行幸し、猟師が獣を追う様子を見物しようとした。太子は諫めて言った。「仏の教えの五戒の一つに、殺生をしてはならないとあります。儒教で言う仁と同じものです。どうか陛下、永くこのようなことはお控えください」。天皇はこれを聞き入れた。(注:『太子伝暦』による。)これより毎年この日に薬草を採るようになり、これを薬猟(くすりがり)と名付けた。(注:『日本紀』による。)推古天皇二十二年、馬子が病にかかった。太子は馬子のために僧尼千人を得度させることを奏上した。(注:『日本紀』による。『太子伝暦』の記述も併せ取った。)推古天皇二十五年、天皇は太子に改めて『勝鬘経』を講じさせた。馬子はこれによって太子の功徳を称賛し、その労に報いるよう願い出た。天皇は大いに喜び、太子の湯沐邑(ゆのむら)を増やし、東宮の俸禄を通常の二倍に加えた。太子はこれをすべて自らが創建した寺に施した。(注:『太子伝暦』による。)推古天皇二十八年、馬子とともに『天皇記』『国記』、および臣・連・伴造(とものみやつこ)・百八十部(ももあまりやそとも)の公民の本記を編纂した。(注:『日本紀』による。)推古天皇二十九年、これより先、太子が病にかかり、天皇は田村皇子(たむらのみこ、後の舒明天皇)を遣わして病を見舞わせ、あわせて言い残すことがあるかを尋ねさせた。太子は田村皇子に託して奏上させたが、その言葉は仏法の興隆と伽藍の造営についてのことに過ぎなかった。(注:『扶桑略記』による。『太子伝暦』の記述も併せ取った。)二月、斑鳩宮で薨じた。(注:『日本紀』による。)享年四十九。(注:『水鏡』『法王帝説』『太子伝暦』『太子伝補闕記』による。)磯長陵(しながのみささぎ)に葬られた。(注:『日本紀』による。)天下の人々は皆哀しみ惜しみ、哭泣の声は道々に満ち、月を越えても絶えなかった。(注:『日本紀』による。『太子伝暦』の記述も併せ取った。)
¶世に伝わるところでは、太子が生まれたとき、体に不思議な香りがあり(注:『太子伝暦』『太子伝補闕記』による)、拳を握ったまま開かなかった。(注:『神皇正統記』による。)二歳二月、東に向かって「南無仏」と唱え(注:『水鏡』『太子伝暦』による)、自ら手を開いて仏舎利を出したという。(注:『神皇正統記』による。)成長してからは常に修行を行った。かつて片岡山(かたおかやま)に遊んだとき、飢えて倒れている者を見かけ、その姓名を尋ねたが、答えなかった。太子は飲食を与えるよう命じ、自ら衣を脱いでこれに掛けた。翌日、人を遣わして見させると、すでに死んでいた。そこで棺に納めてその場に葬った。数日後、太子は左右の者に言った。「先日の飢えた者は、実は真人(しんじん、聖なる人)であった」。再び人を遣わして墓を開いて見させると、棺の中にはただ衣だけがあり、当時の人々は大いに驚き不思議に思った。(注:『太子伝暦』『太子伝補闕記』には飢えた者が詠んだ歌が載っているが、『日本書紀』には太子の歌はあっても飢えた者の歌はない。今、『帝説』を考えるに、巨勢三枝(こせのみえだ)の歌三首があり、その一つに「斑鳩の(伊加留我乃)、止美(とみ)の小川の(斗美能乎何波乃)、絶えばこそ(多曳婆許曾)、我が大君の(和我於保基美乃)、御名忘らえめ(彌奈和須良叡米)」とある。『伝暦』『補闕記』はこれを飢えた者の歌とするが、誤りである。)そもそも欽明天皇十三年、百済が初めて仏像と経論を献上した。天皇はこれを疑って信じず、群臣に次々と尋ねた。蘇我稲目(そがのいなめ)は真っ先にその教えを信じたが、物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)は固く正論を執ってこれを排斥した。それゆえその法は行われず廃れていた。太子と馬子が意気投合し、守屋・勝海を殺すに及んで、その道はようやく盛んになった。数十年を経ずして、寺は四十六か所、僧尼は千三百八十余人となった。(注:『日本紀』による。)太子が建てた寺は、四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘樹寺・蜂岡寺・池後寺・葛城寺・元興寺・日向寺・定林寺・法興寺という。(注:『法王帝説』『太子伝暦』『元亨釈書』の記述を併せ取った。)著した書には『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の疏があり、上宮疏(じょうぐうしょ)と号し、皆深い議論を得たものであるという。(注:『太子伝暦』『太子伝補闕記』による。)世に上宮法王と称され、あるいは法主王とも称された。(注:『法王帝説』による。)太子には八男六女があり、長男を山背大兄王といい、次に財王(たからのみこ)・日置王(ひおきのみこ)・長谷王(はつせのみこ)・三枝王(さきくさのみこ)・伊止志古王(いとしこのみこ)・麻呂古王(まろこのみこ)・白髪部王(しらかべのみこ)という。(注:『皇胤紹運録』『太子伝暦』の多くは用明天皇の皇子を太子の子とするが、今は『法王帝説』に従う。)
¶山背大兄王は、諸子の中でもっとも賢明であった。(注:『法王帝説』による。)推古天皇の病が篤くなったとき、田村皇子は宮中に入って遺詔を受けた。また大兄も召され、「お前はまだ幼く、位を望む気持ちがあったとしても、口に出して言わず、必ず群議に従うように」と詔された。天皇が崩じると、大臣蘇我蝦夷は群卿を自邸に集め、二人の王子が受けた遺詔を告げた。しかし群議はまとまらなかった。大兄はこれを聞き、三国王(みくにのみこ)・桜井和慈古(さくらいのわじこ)を遣わし、密かに蝦夷に言った。「叔父上は田村皇子を即位させようとしているとお聞きします。私はその道理がわからず、叔父上のお考えをはっきりとお聞かせいただきたい」。蝦夷は阿倍麻呂(あべのまろ)らを遣わして大兄に伝えさせた。「取るに足らない私めが、どうして継嗣を勝手に決めることができましょうか。ただ遺詔を挙げて群臣に告げたまでのことです。群臣は皆『遺詔の通りであれば、田村皇子が当然位を継ぐべきである』と申しております。これは群卿の言葉であり、私一人の考えではありません。私にもいささか思うところはありますが、お伝えするわけにはまいりません。どうか直接お会いしてお話しさせてください」。大兄は使いを遣わして麻呂らに尋ねた。「遺詔とはどのようなものか」。答えて言った。「私どもは詳細を存じませんが、大臣が仰せられたところによれば『先帝が病篤くなられた日、田村皇子に詔して「国政は軽々しいものではない、慎んで言葉を発するように」と仰せられ、次に大王(大兄)に詔して「お前はまだ幼い、口に出さず、必ず群議に従うように」と仰せられた。これは女王たちや采女たちが皆聞いていたことである』ということです」。大兄はさらに問うた。「その遺詔を専ら聞いたのは誰か」。答えて「私どもはその詳細を存じません」。大兄はそこで麻呂らに告げさせた。「私の叔父は大変な思いを尽くしてくださり、使者を送るだけでなく、特に重臣を遣わし、手厚くお教えくださった。まことに大恩である。しかし今、群卿が言う遺詔というものは、私が聞いたところと少し異なる。私はかつて先帝の病を聞いて宮中に馳せ参じたとき、中臣弥気(なかとみのみけ)が禁省(きんしょう)から出てきて『天皇がお呼びです』と言った。そこで閤門(こうもん)に進み向かうと、栗隈釆女黒女(くりくまのうねめくろめ)が庭に出迎え、大殿に導き入れた。栗下女王(くりしたのひめみこ)や女孺(にょじゅ)の鮪女(しびめ)ら数十人が帝の側に侍り、田村皇子もそこにいた。帝は病篤く、私を見ることができなかった。栗下女王が『山背大兄王が参られました』と奏上すると、帝は起き上がって詔した。『朕は徳が薄いにもかかわらず、久しく大業を承けてきた。今、寿命が尽きようとしており、病はもはや隠しようがない。お前はもとより朕の腹心であり、その寵愛の情は他と比べようもない。そもそも国家という大きな器は、朕の代だけのものではなく、古来難しいものだ。お前はまだ幼いが、慎んで言葉を発するように』。当時、左右近侍の者は皆これを知っている。私はこの大恩を受け、一方では喜び、一方では悲しみ、どうすべきかわからずにいた。心の中で『宗廟社稷という重い事柄である。私は取るに足らず賢くもないのに、どうしてこれを担えようか』と思い、すぐに叔父や群卿に告げようとしたが、その機会を得られないまま今日に至ったのだ。私はかつて叔父の病を見舞うために都へ赴き、豊浦寺(とゆらでら)に滞在した。その日、先帝は八口釆女鮪女(やくちのうねめしびめ)を遣わして詔を伝えた。『お前の叔父の大臣は常々お前のことを話している。私が世を去った後、位を継ぐのはお前ではないか。それゆえ慎んで自愛せよ』。すでにこのようなことがあったのだから、何を疑うことがあろうか。しかし私は天下を貪っているのではなく、ただ聞いたことを告げているだけである。神々がこれを証してくださるだろう。今、群卿がもし、厳しい矛を地に立てて執るような態度で(注:『釈日本紀』に、厳しい矛を立てて執るとは、その中庸を執ることであるとある)、よくその中庸を得るならば、明らかに私の叔父の意向に立ち返るであろう」。このとき泊瀬仲王(はつせのなかつみこ)は(注:『法王帝説』によれば、聖徳太子は長谷王を生み、その母は膳部氏(かしわでうじ)であるという。「泊瀬」と「長谷」は訓読みが通じるので、あるいはこの人物であろうか。しかし下文に「我ら父子は共に蘇我氏から出ている」とあることから、大兄は蘇我氏の女を娶り泊瀬王を生んだのであろう。今は考証する材料がない)、別に中臣弥気および河辺臣(かわべのおみ)を呼んで言った。「我ら父子は共に蘇我氏から出ていることは天下の知るところである。それゆえ高い山のように頼みとしている。どうか位を継ぐことについて、軽々しく口にしないでほしい」。そして三国王・桜井和慈古を阿倍麻呂らとともに遣わし、その返答を求めた。蝦夷は紀塩手(きのしおて)・大伴鯨(おおとものくじら)に命じて答えさせた。「先日申し上げた通りで、他に異なることはありません。私があえて、どの王を軽んじ、どの王を重んじるということがありましょうか」。数日後、大兄はさらに和慈古を遣わして蝦夷に告げさせた。「先日のことは、ただ聞いたところを述べたまでで、どうして叔父上に逆らうことがありましょうか」。この日、蝦夷は病と称して会わなかった。翌日、和慈古と麻呂らを召し、大兄に伝えさせた。「磯城島宮(しきしまのみや)で天下を治められた天皇(欽明天皇)の御代から近頃に至るまで、賢者たちが政を輔けてきました。今、私はその後を承け、謹んで群臣の上に立っておりますが、独断で策を決めることはできません。しかもこの事はきわめて重大であり、伝言で済ませるわけにはまいりません。どうか直接お会いしてお話ししたいのです。遺詔を誤って伝えることのないようにしたいのです」。これより先、蝦夷は密かに境部摩理勢(さかいべのまりせ)とこの件について話し合っており、摩理勢は大兄を推していた。そこで改めて摩理勢に尋ねると、摩理勢は考えを変えず、ついに斑鳩に赴き、泊瀬王の宮に身を寄せた。(注:泊瀬王とは、おそらく泊瀬仲王のことであろう。)蝦夷は怒り、群卿を遣わして大兄に摩理勢を捕らえるよう求めた。大兄は答えて言った。「摩理勢は聖王(厩戸皇子)に好かれていた者で、しばらく身を寄せているだけです。私がどうして叔父上のお気持ちに逆らうことがありましょうか。どうか咎めないでください」。そして摩理勢に言った。「お前は先王の恩を忘れずにやって来た。しかしお前一人のために天下が乱れることになりかねない。先王は臨終に際して子らに『あらゆる悪をなさず、あらゆる善を行え』と教えられた。私はこの言葉を受けて、永久の戒めとしている。それゆえ私事の情はあっても、耐え忍んで口に出さない。お前も恨みに思わないでほしい。私は決して叔父上に逆らいたくない。どうか今から心を改めて群議に従ってほしい」。他の大夫たちもまた摩理勢を諭して「この命に逆らってはならない」と言った。そこで摩理勢は家に帰って十日余り経ったとき、泊瀬王が病で薨じた。蝦夷は田村皇子を即位させた。これが舒明天皇である。(注:『日本紀』による。)
¶皇極天皇が即位するに至り、蝦夷の子の入鹿(いるか)が政治を専断し、古人大兄(ふるひとのおおえ)を後継にしようとして、大兄(山背大兄王)らの名声が天下に鳴り響くのを忌み嫌い、これを除こうと謀った。皇極天皇二年十一月、軍勢を斑鳩に遣わし、大兄らを攻めさせた。奴(やっこ)の三成(みなり)は舎人数十人とともに防ぎ戦い、敵将の土師猪手(はじのいて)を射殺した。軍勢は恐れて退き、互いに「一人当千とはこの三成のことか」と語り合った。大兄は骨肉を寝所に置いて欺き、密かに子弟や妃妾とともに機に乗じて膽駒山(いこまやま)に逃げ隠れた。軍勢は火を放って宮を焼いた。焼け残った骨を見て、大兄らは皆死んだものと思い、包囲を解いて引き上げた。大兄らは山中にいて、糧食が尽きて数日を経た。三輪文屋(みわのふみや)が勧めて言った。「どうか深草(ふかくさ)の屯倉(みやけ)に行って馬を得て、東国へ赴き乳部(みぶ、大兄の食封の民)を頼り、兵を起こして戻って戦いましょう。必ず勝てるはずです」。大兄は言った。「あなたの言うことはもっともだ。しかし私はかねてより、千年経っても民に労役を課したくないと願ってきた。まして自分一人の身のために、どうして百姓に害を及ぼしてよかろうか。また民に、私のために父母を失ったと言わせたくもない。そもそも身を捨てて国を安んじるのは、大丈夫のすることではないか。何も必ずしも戦って勝つことを求める必要はない」。やがて入鹿は大兄らが山中でまだ死んでいないことを実際に知り、大いに恐れて急いで兵を遣わして捜索させたが、ついに捕らえることができなかった。大兄らは斑鳩寺(いかるがでら)に戻って入ったが、再び兵が来て包囲した。大兄は文屋に命じて諸将に言わせた。「私がもし兵を起こして入鹿を討てば、必ず勝つであろう。しかし私は自分一人の身のために百姓を傷つけ損なうことを望まない。それゆえ、今この身を入鹿に与えよう」。そして子弟や妃とともに首をくくって死んだ。当時の人々は「幡蓋(はたきぬがさ)や伎楽(ぎがく)が空中に現れ、入鹿を指し示し、そして黒雲に変わった」と語ったという。(注:『日本紀』による。)大兄は難波麻呂古王(なにわのまろこのみこ)・麻呂古王(まろこのみこ)・弓削王(ゆげのみこ)・甲可王(こうかのみこ)・尾張王(おわりのみこ)および二人の女子を生んだ。(注:『法王帝説』による。厩戸皇子の子にも麻呂古という名があり、これは疑わしい。『太子伝暦』では「麻呂古王」を「難波王」に作り、また別の「麻呂古王」を「末呂女王」に作っている。あるいはこちらが実情に近いのかもしれない。『伝暦』はまた佐佐王(ささのみこ)を加えて八人としている。)大兄らが薨じるに及び、厩戸皇子の子孫は男女ともに絶えてしまった。これより先、こんな童謡があった。「岩の上に(伊波能杯儞)、小猿米焼くく(古佐屢渠梅野俱)、米だにも(渠梅多儞母)、食げて通らせ(多礙底騰哀羅栖)、山羊の小父(歌麻之之能鳥膩)」。当時の人々はこれを評して「『岩の上に』は上宮(厩戸皇子一族)を喩え、『小猿くく』は入鹿を喩え、『米焼くく』は上宮を焼いたことを喩え、『米だにも』『食げて通らせ』『山羊の小父』は山背王(山背大兄王)の頭髪が斑らで、色が山羊の毛に似ていたことを喩えたものである」と言った。またある者は「宮を捨てて山に隠れる兆しであった」と言った。(注:『日本紀』による。)
¶麻呂子皇子は、またの名を当麻(たいま)という。推古天皇十一年春、新羅(しらぎ)を征討する大将軍であった来目皇子(くめのみこ)が、遠征の途中で病に倒れて薨じた。四月、麻呂子がこれに代わった。七月、難波から船を発し、妃の舎人姫(とねりひめ)も自ら従った。播磨の赤石に至ったとき、舎人姫が薨じたため、檜笠岡(ひかさのおか)の上に葬った。これにより麻呂子もまた遠征を果たさず、都へ帰った。(注:『日本紀』による。)麻呂子はかつて聖徳太子の教えを受け、万法蔵院(まんぽうぞういん)を創建した。推古天皇はこれを官寺とすることを勅した。これが当麻寺(たいまでら)である。(注:『古今著聞集』『元亨釈書』による。)
¶来目皇子は麻呂子の異母弟である。推古天皇十年、新羅征討の将軍となり、二万五千の兵を率いて新羅を討とうとした。四月、筑紫(つくし)の島郡(しまのこおり)の屯所に到着し、多くの船を集めて物資や食糧を輸送した。六月、来目は病にかかり出発できなかった。翌年二月、ついに筑紫で亡くなった。天皇はこれを聞いて大いに驚き、皇太子および大臣蘇我馬子に言った。「皇子はまさに大事に臨もうとしていたのに、その功を遂げられなかったことは、朕は深く悲しく思う」。そこで土師猪手(はじのいて)を遣わして周防(すおう)の娑婆(さば)で殯(もがり)を行わせ、後に河内の植生山(はにゅうやま)の岡の上に葬った。(注:『日本紀』による。)
¶殖栗皇子。
¶田目皇子は、またの名を豊浦(とゆら)という。(注:『法王帝説』には、用明天皇が崩じた後、田目王が穴太部間人皇后と通じ、佐富女王(さほのひめみこ)を生んだとあるが、他に見えないため採らない。)
¶茨田皇子。