卷之第三 本紀第三

仲哀天皇、應神天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字

仲哀天皇

仲哀天皇は、景行帝の孫で、日本武尊の第二子である。母は両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)(注:本書には母を皇后と記しているが、皇后に立てたという記述がないため、この呼称は採らない)。

天皇は容姿端正で、身の丈十尺であった。成務帝の四十八年、皇太子に立てられた。六十年六月、成務帝が崩御した。明くる年辛未、九月六日丁酉、成務天皇を葬った。

元年壬申、春正月十一日庚子、天皇が即位した(注:水鏡・愚管抄・皇代記・皇年代略記はいずれも、時に44歳とし、本書に崩年52歳とある記述と合致する。しかしこれから逆算すると、成務帝の十九年に生まれたことになり、本書の注および先代旧事本紀がいずれも「成務帝の四十八年に皇太子に立てられたとき31歳であった」とするのと一年の差が生じる。また日本武尊が薨じてから三十余年も隔たることになる。本書の元年の詔には、「朕はまだ二十歳にも及ばぬうちに、父王がすでに崩じられた」という文言があり、その誤りは明らかであるので、この年齢は採らない)。これを足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)という。秋九月丙戌朔、両道入姫命を尊んで皇太后とした。冬十月、大伴武以(おおとものたけもち)を大連(おおむらじ)とした。大連という官がここに始まる(注:「冬十月」以下は公卿補任・愚管抄による。先代旧事本紀には、垂仁帝の二十三年冬に物部大新河命(もののべのおおにいかわのみこと)を大臣とし、間もなく大臣の号を改めて大連としたとあるが、今は採らない)。十一月乙酉朔、諸国に詔して白鳥を貢がせ、日本武尊の陵域の池でこれを飼わせた。閏月四日戊午、越国(こしのくに)が白鳥四羽を貢いだ。天皇の弟の蘆髪蒲見別王(あしかみのかまわけのみこ)は、罪があって誅殺された。

二年癸酉、春正月十一日甲子、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后に立てた。二月六日戊子、角鹿(つぬが)に行幸し、行宮を造ってそこに滞在した。これを笥飯宮(けひのみや)という。この月、淡路(あわじ)に屯倉を置いた。三月十五日丁卯、天皇は南国を巡狩し、皇后と百官を角鹿にとどめ置いた。卿大夫以下の官人数百人が御供として紀伊に至り、徳勒津宮(とことつのみや)に滞在した。ちょうどそのとき熊襲が背いたため、天皇は自ら親征し、水軍はまっすぐ穴門(あなと)を目指した。この日、角鹿に使者を遣わし、皇后を穴門に集めさせた。夏六月十日庚寅、天皇は豊浦津(とゆらのつ)に船を泊めた。皇后が渟田門(ぬたのみと)に着くと、海鯽魚(たい)が多く船のそばを泳いでいた。皇后が酒を注ぐと、魚は酔ったように浮かび上がった。漁師たちはこれを得て、聖主の賜り物であると喜んだ。これより毎年六月になると、魚は酔ったように浮かぶという。秋七月五日乙卯、皇后が豊浦津に着いた。この日、皇后は海中で如意珠(にょいのたま)を得た。九月、穴門に宮室を興してそこに滞在した。これを豊浦宮(とゆらのみや)という。

八年己卯、春正月四日壬午、筑紫へ進み行幸した。崗県主(おかのあがたぬし)の祖である熊鰐(わに)が周芳(すおう)の沙磨浦(さばのうら)に出迎え、魚や塩の産する土地を献上し、海路を案内した。山鹿岬(やまがのみさき)から崗浦(おかのうら)に転じて入ろうとしたが、船が進まなくなった。天皇は熊鰐を責めた。熊鰐は詫びて、こう言った。「これは臣の罪ではございません。浦口には大倉主(おおくらぬし)・菟夫羅媛(つぶらひめ)という二柱の神がおり、きっとこの神の仕業でございましょう。」天皇は菟田伊賀彦(うだのいがひこ)にこれを祭らせると、船はようやく進めるようになった。皇后の船は洞海(くきのうみ)から来たが、潮が引いて進めなくなった。熊鰐は恐れかしこまり、池沼を作って多くの魚や鳥を集め、皇后に御覧に入れた。皇后の怒りはこれによって少し解けた。やがて潮が満ちてくると、進んで崗津(おかのつ)に泊まった。この時、伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖である五十迹手(いとて)が穴門の引島(ひきしま)に出迎え、八尺瓊(やさかに)・白銅鏡(ますみのかがみ)・十握剣(とつかのつるぎ)を献上した。天皇はこれを褒め、伊蘇志(いそし)という号を賜った。二十一日己亥、儺県(なのあがた)に行幸し、橿日宮(かしひのみや)に滞在した。秋九月五日己卯、群臣とともに熊襲討伐を議した。その時、神が皇后に憑いてこう告げた。「天皇はどうして熊襲の従わぬことを憂えるのか。そこは痩せた空しい国であり、どうして兵を煩わせるに足りようか。ほかに宝の国があり、金銀や彩色の多く産する地で、これを栲衾(たくぶすま)新羅国という。もし私をよく祭り、御船および穴門直踐立(あなとのあたいたてる)が献上した水田を幣(みてぐら)とすれば、刃に血を塗ることなく、その国は必ず自ら服し、熊襲もまた服従するであろう。」天皇はこれを疑い、高い嶽に登って遥かに海を望んだが、広く遠く、国は見えなかった。そこで、こう仰せられた。「朕がめぐり見渡したところ、海はあれども国はない。いったいどの神が朕を誘おうとするのか。それにわが皇祖の歴代天皇は、あますところなく神々を祭ってこられた。どうして祭り漏らした神があろうか。」神はまた皇后に憑いて、こう告げた。「私が見ているものを、どうして無いなどと言い、私の言葉を誹謗するのか。お前がそのように言うならば、お前はその国を得られぬであろう。今、皇后は身ごもっている。その子がきっとこれを得るであろう。」天皇はついに聞き入れず、熊襲を討ったが勝てずに引き返した。この年、秦の始皇帝・嬴政(えいせい)の子孫である功満王(こうまんおう)が帰化した(注:「この年」以下は新撰姓氏録による。三代実録には、仁和三年の記事に、功満王は仲哀帝の四年に帰化し、珍宝や蚕種を献上したとある。新撰姓氏録によれば、玉帛や蚕種を献上したのは功満王の子の弓月王(ゆづきのおう)であるという。付記して参考に備える)。

九年庚辰、春二月五日丁未、天皇の身にたちまち痛みが生じた。六日戊申、橿日宮で崩御した(注:本書の一説には、天皇は自ら熊襲を討伐し、賊の矢に当たって崩じたとある。また、天皇は神の教えを信じず、たちまち病を得て崩じたともある。古事記には、天皇が熊曾国(くまそのくに)を討とうとして琴を弾き、健内大臣(たけしうちのおおおみ)が沙庭(さにわ)に控えて神の命を請い、皇后が神の言葉を天皇に告げたが、天皇は信じず、ついに琴を投げ捨てて弾かなかった、神は大いに怒り、健内大臣が勧めて再び弾かせたところ、間もなく琴の音が聞こえなくなったので、火をともして見ると、すでに崩じていた、とある。諸説が入り乱れており、どれが正しいか分からない。今、当時の大勢から考えると、天業はようやく草創され、国家経綸はまさに始まったばかりであった。西のかた三韓を討つことこそ、当時最も急を要する務めであったはずである。それなのに天皇がひたすら熊襲のことにかかずらい、遠く三韓を討つ策を決められなかったというのは、ほとんど理解しがたい。しかも任那の人・蘇那曷叱智(そなかしち)の入貢は崇神天皇の御代のことであり、新羅の王子・天日槍の帰化は垂仁天皇の御代のことである。これは誰もが知るところである。それなのに天皇が「海はあれども国はない」と言ったという本書の記述もまた、疑いなしとはしがたい。また本書の注や古事記はいずれも、崩年を52歳とする。古事記の注には、壬戌の年の六月十一日に崩じたとある。しかし生まれた年について定説がないため、今はこれを採らない)。皇后と武内宿禰は喪を秘めて発表しなかった。皇后は中臣烏賊津(なかとみのいかつ)・大三輪大友主(おおみわのおおともぬし)・物部胆咋(もののべのいくい)・大伴武以らに詔して(注:先代旧事本紀には物部多遅麻(もののべのたぢま)を載せる)、百官を率いて宮中を守らせた。密かに武内宿禰に命じて御棺(みひつぎ)を奉じ、海路から穴門に至り、豊浦宮に殯(もがり)をした。皇后は天皇が神の教えに従わず早くに崩じたことを悲しみ、神に謝罪して宝の国を得ようとした。そこで百官に命じて、罪を解き過ちを改めさせ、小山田邑(おやまだのむら)に斎宮(いつきのみや)を造らせた。

三月壬申朔、吉日を選んで斎宮に入った。皇后自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津を審神者(さにわ)とし、多くの絹布を琴の頭と尾に置いて、こう請うた。「先に天皇にお告げになったのはどの神でございますか。」七日七夜祈ると、神々はそれぞれ名を告げた。そこで神の言葉に従って祭った。ほどなく鴨別(かもわけ)を遣わして熊襲を討たせると、十日ほどで従った。荷持田村(のとりたのむら)には羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がおり、人の体に鳥の翼を持ち、強壮でよく飛び、掠奪をはたらいて害をなしていた。皇后はこれを誅そうとした。十七日戊子、橿日宮を発ち、松峡宮(まつおのみや)に至った。二十日辛卯、層増岐野(そそきの)に軍を出してこれを撃ち滅ぼした。二十五日丙申、転じて山門県(やまとのあがた)に至り、土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅した。その兄の夏羽(なつは)は軍勢を率いて迎えに来たが、田油津媛が誅されたと聞くと、たちまち逃げ去った。

四月三日甲辰、皇后は肥前国(ひのみちのくちのくに)の松浦県(まつらのあがた)の玉島河(たましまがわ)のほとりに至り、針を曲げて鉤(はり)を作り、飯粒を餌とし、裳(も)の糸を釣り糸とした。磯の石に登って竿を投げ、こう祝(ちか)いを立てた。「私がもし宝の国を得られるならば、川の魚がこれを飲み込むであろう。」果たして細鱗魚(あゆ)を釣り上げた。皇后は、「神の教えには験(しるし)がある」と仰せられ、西征を決意した。さらに神々を祭り、神田を設け、裂田溝(さくたのうなで)を作ってこれに水を引いた。皇后は橿日浦(かしひのうら)に帰り、髪を解いて海に臨み、こう仰せられた。「私は神々の教えを奉じ、皇祖の御霊を頼りとして、自ら大海を渡り西征を成し遂げようと思う。今、髪を海水で濯ごう。もし験があるならば、髪は分かれて二つになるであろう。」そして海に髪を投げ入れて濯ぐと、髪は果たしておのずから分かれた。皇后はそれに従って二つの髻(みずら)に結い、群臣にこう仰せられた。「軍を興し人々を動かすことは、国家の大事である。安危と成敗は、必ずこの一事にかかっている。今、征伐を行うにあたり、事を群臣に委ねたとして、もし事が成らなければ、罪は群臣に帰することになる。これは甚だ痛ましいことである。私は女の身で至らぬ者ではあるが、しばらく男の姿を借りて、雄々しいはかりごとの助けとしよう。上は神々に頼り、下は群臣を頼みとして、兵を振るって険しい波を渡り、船を整えて財と土地を求めよう。事が成れば群臣とともにその功を分かち、成らなければ私一人が罪を負おう。」群臣は皆、こう申し上げた。「皇后が天下のためにお考えになったことです。臣らがどうして詔を奉じずにおられましょうか。」

九月十日己卯、諸国に命じて船を整え兵を鍛えさせた。しばらくの間、兵が集まらなかった。皇后は、「これはきっと神の御意志であろう」と仰せられ、大三輪社(おおみわのやしろ)を建てて、刀と矛を奉って祭った。すると軍勢はおのずと集まり、日を占い期日を定めた。皇后は自ら斧鉞を執り、三軍にこう命じた。「鉦や太鼓に節度がなく、旗指物が乱れれば、兵は整わない。財を貪り欲が多く、私心を抱いて内輪のことばかり顧みれば、必ず敵に捕らわれる。少数の敵だからと侮ってはならず、強敵だからと屈してはならない。凶悪な者は赦さず、降伏した者は殺してはならない。勝った者には必ず賞を与え、逃げた者は必ず罰せよ。」その時、神のお告げがあり、こう言った。「和魂(にぎみたま)は御身に従って寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となって水軍を導こう。」皇后はその命を拝し、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を祭りの主とした。この時、皇后はちょうど出産の月にあたっていた。そこで石を取って腰に挟み、こう祝いを立てた。「事が終わって帰る日に、この地で生まれますように。」その石は伊都県(いとのあがた)にあり、後の人はこれを鎮懷石(しずめいし)と伝えている(注:「後の人」以下は万葉集による。万葉集によれば、鎮懐石は二つあり、筑前国怡土郡(いとのこおり)深江村(ふかえのむら)の子負原(こうのはら)にあるという。あるいは肥前国彼杵郡(そのぎのこおり)にあるともいう。古老が伝えるところでは、「皇后が袖にしてこれを鎮懐とした」という。古事記には、御裳(みも)に纏われた石は筑紫の伊斗村(いとのむら)にあるとある。釈日本紀が引く筑紫風土記・筑前風土記には、いずれも怡土郡の児饗原(こふのはら)にあるとする)。そして和魂を請うて船を鎮め、荒魂を先鋒とした。

十月三日辛丑、ついに和珥津(わにのつ)を出発した(注:古事記には、皇后は神の教えに従い、真木(まき)の灰を瓠(ひさご)に入れ、また多くの箸(はし)や比羅傅(ひらで、皿)を作って、海に浮かべて渡った、とある)。大魚が船を左右から挟み、風は順風で船足は速く、櫓や楫の力を借りることなく、まっすぐ新羅に着いた。船が海潮を激しく打ち、波は新羅の国中にまで及んだ。新羅王の波沙寐錦(はさむきん)は(注:本書の注に載る一本には宇流助富利智干(うるそほりちかん)とある)、大いに驚いてこう言った。「神の軍勢には敵しようがない。」そして図籍(としゃく、戸籍や地図)を封じ、白い組紐で自ら両手を後ろに縛って降伏を願い出た。ある者はこれを誅すべきだと言った。皇后は、こう仰せられた。「私は神の教えを承って、この西の地を征したのである。先に三軍に命じて、自ら服する者を殺してはならぬとした。今すでに国を得て、人もまた降伏したというのに、これを殺すのは不祥なことである。」そして縛めを解き、放して飼部(かいべ)とした(注:本朝文粋に載る三善清行(みよしきよつら)の意見封事には、わが国の兵器では強弩が最も優れているという、伝えるところによれば、神功皇后が巧みな工夫によって特別に製作させたものだという、唐にも弩というものはあるが、この器の鋭利さには到底及ばないという、とある。思うに、強弩を造ったのは、あるいは三韓征討の時であろうか。しかし本書には記載がないので、付記して参考に備える)。そのまま新羅の都に入り、貴重な宝物を蔵める府庫を封じ、図籍文書を収め、手にしていた矛を新羅王の門に立てて、後の世の証とした。その矛は今も新羅の国門にあると伝えられている。新羅王は波珍干岐(はとりかんき)の微叱已知(みしこち)を人質とし、金・銀・彩色の織物や綾・羅・絹など、あわせて八十艘の船を献上した。これより後、新羅の調貢は八十艘の船をもって定めとした。高麗(こま)・百済(くだら)は新羅が降ったと聞き、密かにわが軍の勢いを偵察したが、とても勝てないと見て、これもまた降伏してきた。頭を地につけてこう言った。「今より以後、永く西蕃(せいばん)と称し、調貢を欠かすことはございません。」そこで命じて、国内に屯倉の官家(みやけ)を定めさせた(注:古事記には、百済国を渡(わたり)の屯家(みやけ)としたとある)。こうして三韓はことごとく服し、荒魂を祭ってその国を鎮めた(注:「祭って」以下は古事記による)。そして軍を整えて凱旋した。

十二月、筑紫で皇子をお産みになった。これが後の応神天皇である。皇后は神の教えに従い、穴門(あなと)の山田邑(やまだのむら)に祠を立て、表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)の神の荒魂を祭り、践立(ほむたち)を祭りの主とした。天皇を河内の長野陵(ながののみささぎ)に葬った(注:延喜式には恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)とある)。追って仲哀天皇と諡した。

應神天皇

応神天皇は、仲哀帝の第四子である。母は神功皇后。

仲哀帝の九年十二月十四日辛亥、筑紫の蚊田(かだ)でお生まれになった。幼いころから聡明で物事に通じ、その見識は深く遠く、立ち居振る舞いにも聖人としての並外れた様子があった。天皇がまだ胎内にあったとき、皇后は神の教えを奉じて三韓を征討した。天皇がお生まれになると、腕の上に鞆(とも、弓を射るときに腕に付ける防具)のような肉の盛り上がりがあり、皇后が男装して身に付けていたものに似ていた。そこで譽田(ほむた)と名づけた(注:古事記には、大鞆和気命(おおともわけのみこと)、またの名を品陀和気命(ほむだわけのみこと)という、とある。本書の注によれば、古くは鞆を譽田と呼んだという。本書の注に載る一説には、太子が笥飯大神(けひのおおかみ)を拝したとき、大神と太子は互いに名を交換した、そのため大神を去来紗別神(いざさわけのかみ)と呼び、太子を譽田別尊(ほむだわけのみこと)と名づけた、とある。すると、太子の初めの名は去来紗別尊であったことになる。古事記もまた、伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)が太子と名を交換したとする。付記して参考に備える)。また胎中天皇(たいちゅうのすめらみこと)とも称した(注:「また称する」以下は本書の継体紀および神皇正統記による)。

辛巳の年二月、皇后は天皇を奉じて百官を率い豊浦宮に至り、仲哀帝の喪を発し、御棺(みひつぎ)を奉じて都へ帰ろうとした。この時、天皇の異母兄である麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)が兵を挙げ、播磨で皇軍を待ち構えた。折しも麛坂王が亡くなり、忍熊王は退いて住吉に軍を屯した。皇后はそこで武内宿禰に天皇を奉じさせ、南海を回らせた(注:古事記には、皇后は内心疑い恐れて、表向きは喪船を仕立てて皇子を乗せ、皇子はすでに亡くなったと言い触らした、とある)。紀伊の水門(みなと)に着くと、皇后はまっすぐ難波へ向かおうとしたが、船が回って進まなくなり、務古水門(むこのみなと)に引き返した。占ったところ、ちょうど神のお告げを得たので、諸々の神の祠を建てて祭った。すると船はようやく進めるようになった。忍熊王はさらに軍を退いて菟道(うじ)に至った。皇后はそこで天皇と紀伊の日高で落ち合い、小竹宮(しののみや)に入った。昼が夜のように暗くなる日が続いた。三月五日庚子、皇后は武内宿禰・難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わして忍熊王を撃たせた。忍熊王は敗れて死んだ。十月二日甲子、群臣は皇后を尊んで皇太后とし、朝政に臨んで摂政とした。大臣の武内宿禰はもとのままであった(注:「大臣」以下は公卿補任による。先代旧事本紀には、この日、物部多遅麻を大連としたとある)。

壬午の年、十一月八日甲午、仲哀天皇を葬った。

癸未の年、正月三日戊子、皇太后は天皇を皇太子に立て、磐余(いわれ)に都を置いた(注:本書の注には、これを若桜宮(わかざくらのみや)という、とある。若桜宮という号は、実は履中帝の代に起こったものであり、この時にはまだその号はなかったはずである。おそらく皇太后が都した地に、履中帝もそのまま都したことから、この号がつき、さかのぼってそう称したのであろう。先代旧事本紀には、この日、物部五十琴(もののべのいこと)を大連としたとある)。

乙酉の年、三月七日己酉、新羅が使者を遣わして朝貢した。微叱許智(みしこち)が帰国を願い出た。これを許し、葛城襲津彦(かづらきのそつびこ)を遣わして送らせた。

癸巳の年、二月八日甲子、武内宿禰は皇太子を奉じて角鹿に赴き、笥飯大神を拝ませた。十七日癸酉、角鹿から帰った。皇太后は大殿に宴を設け、盃を挙げて歌を詠み、皇太子の長寿を祝った。武内宿禰は皇太子に代わって歌を返した(注:本書の注が引く魏志には、己未の年・庚申の年・癸亥の年に魏と使者を通わせたとあるが、わが国の史書には記載がないため、これを採らない)。

丙寅の年、三月乙亥朔、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳国(とくじゅんのくに)に遣わし、斯摩宿禰はそのまま百済を鎮め撫でて帰った。

丁卯の年、四月、百済と新羅がともに朝貢した。この時、新羅は百済の使者を脅し、その貢物をすり替えて献上した。勅してこれを新羅の使者に責め問うた。千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に遣わし、その罪を問わせた。

己巳の年、三月、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とし、百済人の久氐(くて)らを率いさせて新羅を討ちこれを破り、比自㶱(ひしほ)・南加羅(ありひしのから)・㖨安羅(とくあら)・多羅(たら)・卓淳(とくじゅん)・加羅(から)の七国を平定し、さらに南蛮の忱弥多礼(とむたれ)を討ち滅ぼして、その地を百済に与えた。

庚午の年、二月、荒田別らが帰った。五月、千熊長彦と久氐が百済から来て、さらに多沙城(たさのさし)を百済に加え与えた。辛未の年、三月、百済はまた久氐を遣わして朝貢した。

壬申の年、九月十日丙子、百済の使者・久氐が千熊長彦に従って来朝し、七枝刀(ななつさやのたち)・七子鏡(ななつこのかがみ)各一口、および貴重な宝物数種を貢いだ。

乙亥の年、百済王の肖古(しょうこ)が薨じた。

丙子の年、百済王に貴須(きす)が立った。

壬午の年、新羅が朝貢しなかったため、葛城襲津彦にこれを討たせた。

甲申の年、百済王の貴須が薨じ、子の枕流(とむる)が立った。

乙酉の年、百済王の枕流が薨じ、子の阿花(あか)がまだ幼かったため、叔父の辰斯(しんし)がその位を奪って立った(注:本書の注が引く晋起居注には、丙戌の年に晋と使者を通わせたとあるが、わが国の史書には記載がないため、これを採らない)。

己丑の年、四月十七日丁丑、皇太后が崩御した。十月十五日壬申、神功皇后を葬った。

元年庚寅、春正月丁亥朔、天皇が即位した。時に71歳(注:年齢は水鏡・愚管抄・皇代記、および本書に記す生年による)。これを誉田天皇(ほむだのすめらみこと)という。軽島(かるしま)に都し、これを明宮(あきらのみや)という(注:軽島に都したことは先代旧事本紀・古事記による。先代旧事本紀には豊明宮(とよあきらのみや)とある)。

二年辛卯、春三月壬子(注:本書には「春三月庚戌朔壬子」とあるが、今干支を推算すると、三月は庚辰朔で壬子の日はなく、四月が庚戌朔で壬子はその三日にあたる。干支の記載に誤りがあるが、確かめようがない)、仲姫(なかつひめ)を皇后に立てた。

三年壬辰、冬十月三日癸酉、東の蝦夷が朝貢した。そこで蝦夷に命じて厩坂道(うまやさかのみち)を作らせた。十一月、諸方の海人(あま)たちが騒ぎを起こし、皇命に従わなかった。大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして海人の宰(みこともち)とし、これを鎮め治めさせた。この年、百済王の辰斯が無礼を働いたため、紀角(きのつの)・羽田矢代(はたのやしろ)・蘇我石川(そがのいしかわ)・平群木菟(へぐりのつく)を百済に遣わしてこれを責めた。国人は辰斯を殺して謝罪し、紀角らは阿花を王に立てて帰国した。

五年甲午、秋八月十三日壬寅、諸国に命じて海人部(あまべ)および山守部(やまもりべ)を定めさせた。冬十月、伊豆に命じて長さ十丈の船を作らせた。これを海で試すと、軽やかに速く、走るがごとくであった。名づけて枯野(からの)といった。

六年乙未、春二月、近江に行幸した。

七年丙申、高麗(こま)・百済・任那・新羅が、そろって来朝した。武内宿禰に命じて韓人(からひと)たちを率いさせ、池を作らせた。これにより韓人池(からひとのいけ)と名づけた(注:古事記には百済池とある)。

八年丁酉、春三月、百済王の阿花が無礼であったため、忱弥多礼(とむたれ)、および峴南(けんなん)・支侵(しちん)・谷那(こくな)・東韓(とうかん)の地を削り取った。阿花は恐れ、その子の直支(とき)を来朝させて謝罪させた(注:本書の注は百済記を引く)。

九年戊戌、夏四月、武内宿禰を遣わして筑紫を監察させた(注:帝王編年記には、十年己亥に軽市(かるのいち)を創設したとあるが、何によったものか分からない。ひとまずここに付記する)。

十一年庚子、冬十月、剣池(つるぎのいけ)・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししがきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作った。

十四年癸卯、春二月、百済が縫衣女(きぬぬいめ)を貢いだ。この年、弓月君(ゆづきのきみ)が帰化を願い出たので、葛城襲津彦を加羅に遣わして迎えさせた。

十五年甲辰、秋八月六日丁卯、百済王の阿花は阿直岐(あちき)を使者として良馬二匹を貢いだ(注:古事記には、百済の照古王(しょうこおう)が阿知吉師(あちきし)を使者として、牝牡の馬各一匹、および横刀(たち)・大鏡を献上した、とある)。荒田別・巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わし、王仁(わに)を召し寄せた。

十六年乙巳、春二月、百済王は王仁を使者とし、冶工(かじ)の卓素(たくそ)、呉服(くれはとり)の西素(さいそ)、酒造りの仁番(にほ)らを率いて来朝させ、論語十巻、千字文一巻を献上した(注:「冶工を率いて」以下は古事記による。古事記にはまた、仁番はまたの名を須須許理(すすこり)という、とある)。この年、百済王の阿花が薨じた。直支に勅して、「国に帰って位を嗣げ」と仰せられ、先に削り取った東韓の地を賜った。秋八月、詔して平群木菟(へぐりのつく)・的戸田(いくはのとだ)を遣わし、兵を率いて新羅を討たせ、そのまま襲津彦と弓月の民とを率いて帰らせた。

十九年戊申、冬十月戊戌朔、吉野宮に行幸した。国樔(くず)の人々が醴酒(あまざけ)を献じ、歌を奏した。これより後、たびたび貢ぎ物を献じた。

二十年己酉、秋九月、漢の主・劉宏(りゅうこう)の子孫である阿知使主(あちのおみ)と、その子の都加使主(つかのおみ)が、十七県の人々を率いて帰化してきた(注:阿知使主を漢主の子孫と記すのは新撰姓氏録による)。

二十二年辛亥、春三月五日戊子、難波の大隅宮(おおすみのみや)に行幸した。夏四月、妃の兄媛(えひめ)が里帰りして吉備に帰った。秋九月六日丙戌、淡路島で狩りをし、吉備を巡り視察して、小豆島(しょうどしま)に行幸した。十日庚寅、葉田葦守宮(はんだのあしもりのみや)に至ると、兄媛の兄の御友別(みともわけ)が食事を献上したので、その子弟を吉備の諸県に封じた(注:新撰姓氏録には、天皇が国境を定めようとして、御車を巡らせ播磨に至ったとある。おそらくこの年のことであろう。付記して参考に備える)。

二十五年甲寅、百済王の直支が薨じ、子の久爾辛(くにしん)が立った。

二十八年丁巳、秋九月、高麗王が使者を遣わして朝貢した。その上表文に無礼があったため、使者を詰問し、その上表文を破棄した。

三十一年庚申、秋八月、詔してこう仰せられた。「官船の枯野は、伊豆国が貢いだものであるが、朽ちて使うに堪えなくなった。しかし長らく官用に供してきたその功は忘れてはならぬ。どうすればその名を朽ちさせず、後世に伝えることができようか。」群卿は詔を奉じ、役人に命じて船を壊して薪とし、これで塩を五百籠(ふしこ)煮させ、諸国に頒け与えた。そこで命じて船を作らせると、諸国から五百艘の船が献上され、武庫水門(むこのみなと)に集められた。ちょうどそのとき新羅の調(みつぎ)の使者が武庫に停泊しており、火事が起きて集められた船に燃え広がった。その使者を咎め責めた。新羅王は恐れて、腕の良い工匠を貢いだ。

三十七年丙寅、春二月戊午朔、阿知使主・都加使主を呉(くれ)に遣わし、縫工女(きぬぬいめ)を求めさせた(注:この時すでに呉は滅んで晋に入っていたが、おそらく旧名をそのまま用いたのであろう。以下も同様である)。

三十九年戊辰、百済王の直支は、その妹の新斉都媛(しせつひめ)を遣わして仕えさせた(注:本書には二十五年に直支が薨じ、子の久爾辛が立ったとある。東国通鑑によれば、この年は百済の比流王(ひるおう)の五年にあたり、ここに直支とあるのは誤りではないかと思われる)。

四十年己巳、春正月二十四日甲子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を皇太子に立て、大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ)に補佐させた。大山守皇子(おおやまもりのみこ)には山川林野を管掌させた(注:先代旧事本紀には、物部印葉(もののべのいなば)を大連としたとある)。

四十一年庚午、春二月十五日戊申、天皇が明宮で崩御した(注:本書の注に載る一説には、大隅宮とある)。御年111歳(注:本書には110歳とあり、皇太子に立てられた条の注に「時に3歳」とある記述と合致する。しかし本書は、帝が仲哀帝の九年庚辰にお生まれになったと明言しており、それならば庚午の年まで実に111歳となる。ゆえに水鏡・皇年代略記・帝王編年記に従う。古事記には、御年130歳、甲午の年の九月九日に崩じたとある)。この月、阿知使主らが工女の兄媛・弟媛、および呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)を率いて呉から至った。河内の恵我藻伏山岡陵(えがのもふしのやまのおかのみささぎ)に葬った(注:本書には葬った記述がなく、今は古事記・延喜式・皇年代略記による)。追って応神天皇と諡した。元明帝の和銅五年、天皇を豊前国宇佐郡に祀り、八幡大神宮(はちまんだいじんぐう)と号した(注:宇佐託宣集による)。清和帝は山城国男山(おとこやま)に石清水社(いわしみずしゃ)を創建し、年々の祭祀を奉った(注:石清水八幡縁起・神皇正統記による)。