卷之一百七 列傳第三十四

彥國葺、難波根子武振熊、野見宿禰、天日槍ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次9
  1. 彥國葺
  2. 難波根子武振熊
  3. 野見宿禰
  4. 天日槍
  5. 田道間守
  6. 五十跡手
  7. 阿知使主
  8. 酒君
  9. 秦酒公

彥國葺

彦国葺(ひこくにふく)は、孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の三世の孫である(注:姓氏録による。この書には四世孫とする説もある)。崇神天皇十年、武埴安彦(たけはにやすひこ)とその妻・吾田媛(あたひめ)が謀反を企てた。埴安彦は山背(やましろ)から、吾田媛は大坂(おおさか)から、それぞれ道を分けて都に攻め入ろうとした。天皇は彦国葺と大彦命(おおひこのみこと)に命じて埴安彦を討たせた。彦国葺は埴安彦と輪韓河(わからがわ)を隔てて対陣した。埴安彦は河のほとりに立ち、遠くから彦国葺に「お前はなぜ軍を率いて来たのか」と言った。彦国葺は「お前は天に逆らい道に背き、王室を傾けようとしている。だから天皇の命を受けて討ちに来たのだ」と答えた。埴安彦が弓を引いて彦国葺を射たが当たらなかった。彦国葺が射返すと矢は埴安彦の胸に当たり、これを倒した。埴安彦の軍勢は総崩れとなり、討ち取られ捕らえられた者は半数を超えた。垂仁天皇の御代に大夫(まえつきみ)となった(注:日本書紀による)。子を大口納命(おおくちのうのみこと)という。大口納の子を難波宿禰(なにわのすくね)という。難波の子を大矢田宿禰(おおやたのすくね)という。大矢田は神功皇后の新羅征討に従軍し、凱旋の日に留まって鎮守将軍となった。かの国の王の娘である猶榻女(ゆうとうじょ)を娶り、二人の娘をもうけた(注:姓氏録による)。彦国葺には三人の孫がいた(注:この書には父の名は載っていない)。一人を大直侶宇命(おおなおろうのみこと)といい、成務天皇の御代に額田国造(ぬかたのくにのみやつこ)となった。一人を八千足尼(やちたりのすくね)といい、景行天皇の御代に吉備穴国造(きびのあなのくにのみやつこ)となった(注:旧事紀による)。一人を塩乗津彦(しおのりつひこ)といい、勇敢で力が強く、頭の上に三つに分かれた瘤(こぶ)があって長さ五寸、松の木のようであったので松樹君(まつのきのきみ)と号した。崇神天皇の御代、任那国(みまなのくに)が「わが国の東北に三已汶(さんいぶん)という地があり、方三百里、民は富み栄えております。新羅がこの地を得ようとしており、戦が絶えず民は生きる術もありません。どうか将軍を一人遣わして、この地を奪い取っていただきたい」と奏上した。天皇は大いに喜び、群臣に命じて将帥を選ばせた。群議は塩乗津彦を推した。天皇はそこで彼を遣わして鎮守させた。かの国では宰(つかさ)のことを「吉(きち)」と呼んだので、その子孫は「吉」を氏とした(注:姓氏録による)。

難波根子武振熊

難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)は(注:この書および古事記にはいずれも和珥臣(わにのおみ)の祖・難波根子武振熊と記す。ここでは姓氏録によれば、和邇部(わにべ)は天足彦国押人命の三世孫・彦国葺命の後裔であるという。また一説に彦姥津命(ひこおけつのみこと)の三世孫・難波宿禰の後裔ともいう。この書および古事記もまた彦国葺を和珥臣の遠祖としているので、難波根子はおそらく難波宿禰と同一人物か、あるいはその子であろう。今は詳しく考証できないので、ここに付記しておく)、忍熊皇子(おしくまのみこ)の乱に際し、武振熊は武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに兵を率いてこれを撃ち滅ぼした。仁徳天皇六十五年、飛騨(ひだ)に宿儺(すくな)という者がいた。前後に二つの顔を持ち、四本の手と四本の足があり、膝の裏のくぼみとかかとがなく、身軽ですばしこく力が強かった。左右に剣を帯び、前後どちらへも弓を射ることができ、その力を頼んで命令に従わず、人民を掠奪していた。武振熊は勅命を受けてこれを誅殺した(注:日本書紀による。この書の神功紀には武振熊と記されており、忍熊の乱からこの事件までは百七十年の隔たりがあるので、別人のように思われる。しかし古事記でも忍熊王を討った時の記述に難波根子武振熊とあり、実際には同一人物である)。

野見宿禰

野見宿禰(のみのすくね)は出雲(いずも)の人である(注:日本書紀による)。天穂日命(あめのほひのみこと)の十四世の孫である(注:続日本紀天応元年の記事および姓氏録による)。勇力をもって知られた。垂仁天皇の御代、当麻邑(たいまのむら)に当麻蹶速(たいまのけはや)という者がいた。勇猛で力が強く、角を折り鉤を伸ばすほどであった。常々人々に「四方に力を求めても、私の力に張り合える者などいるだろうか。もし強力な者に出会えたなら、死をもって勝負を決めたいものだ」と語っていた。天皇はこれを聞き、群臣に「当麻蹶速は天下の力士である。今の世に彼に匹敵できる者はいるか」と尋ねた。ある者が野見宿禰を推薦した。天皇はその日のうちに使者を遣わして彼を召した。野見が到着すると、天皇は角力(すもう)を命じ、二人はそれぞれ足を上げて蹴り合った。野見は蹶速の脇骨と腰を踏み折り、蹶速はついに死んだ。そこで蹶速の領地はすべて野見に賜わり、これによってその邑には腰折田(こしおれだ)という地名が残った。野見はそのまま朝廷に仕え続けた。三十二年、皇后日葉酢媛(ひばすひめ)が崩じ、葬儀の日取りが決まった。これより先、天皇は殉死を禁じていた。そこで群臣に皇后の葬儀について議論させた。野見は進み出て「そもそも陵墓に生きた人を埋め立てるのは、まことに不仁なことであり、後世に示すべきことではありません。私に良い方法がありますので、それに従わせてください」と申し出た。そこで出雲の土部(はじべ)百人を呼び出し、自ら指揮して、埴土(はにつち)で人や馬やさまざまな物の形を作らせ、朝廷に献上して「これより後は、これを生きた人の代わりに用い、陵墓に立てて、後世の定めとしましょう」と言った。天皇はこれを喜び、その土製の物を皇后の陵に立てた。これにより、この土製品を埴輪(はにわ)、また立物(たてもの)と名づけた。天皇は詔を下してこれを定めの制度とし、野見に厚く褒美を与え、陶(すえ)の地を賜わった。土部の職に任じ、姓を改めて土部臣(はじのおみ)とした。これより土部連(はじのむらじ)は代々大喪(たいそう)を司ることとなった(注:日本書紀による)。

天日槍

天日槍(あめのひぼこ)は(注:古語拾遺には海檜槍(うみのひぼこ)とある)、新羅(しらぎ)の王子である。垂仁天皇三年、海を渡って播磨(はりま)の宍粟邑(しさわのむら)に着いた。天皇は大友主(おおともぬし)と長尾市(ながおち)を遣わして事情を尋ねさせた。天日槍は「私は新羅国王の子です。日本に聖なる皇がいらっしゃると聞いたので、国を弟の知古(ちこ)に譲って帰化しました」と答えた。そして持参した宝物である羽太玉(はふとのたま)(注:この書の一本には葉細玉とある)、足高玉(あしたかのたま)、鵜鹿鹿(うかか)、赤石玉(あかしのたま)、出石小刀(いずしのかたな)、出石鉾(いずしのほこ)、日鏡(ひのかがみ)、熊神籬(くまのひもろぎ)を各一つずつ献上した(注:この書の註の一説には、膽狹淺太刀を加えて八種とする。古事記には、玉津宝珠二貫、振浪比礼、振風比礼、切風比礼、澳津鏡、辺津鏡の八種とあり、これを伊豆志(いずし)八前(やまえ)の大神とする)。天皇は天日槍に「播磨国の宍粟と淡路島の出浅(いでさ)、この二つの邑をお前の好きなように与えよう」と詔した。天日槍は「もし天恩により私の望みに従わせていただけるなら、自ら諸国を巡って、その地を選びたく存じます」と願い出た。天皇はこれを許した。そこで天日槍は菟道川(うじがわ)から北へ入り近江(おうみ)に至って吾名邑(あなのむら)に住んだが、いくらもしないうちに立ち去った。さらに若狭(わかさ)を経て西へ進み但馬(たじま)に至り、ついにそこに定住した。出島(いずし)の人・太耳(ふとみみ)の娘・麻多鳥(またとり)を娶った(注:この書では太耳を前津耳、あるいは前津見とも書き、麻多烏を麻拖能烏とも書く)。二人の間に但馬日楢杵(たじまのひならき)が生まれ、日楢杵は清彦(きよひこ)を生んだ(注:日本書紀による。この書の註の文も参照した。古事記には次のようにある。新羅国に阿具奴摩(あぐぬま)という名の沼があった。ある婦人が昼間その沼のほとりで昼寝をしていたところ、日の光が虹のように差し、まっすぐその陰部を射た。そばにいた一人の農夫がこれを見て不思議に思った。やがて婦人は身ごもり、赤い玉を産んだ。農夫はこれを譲り受けて、常に腰につけ、山谷の間で田を耕していた。ある日、牛に食糧を積んで耕作者に届けようとする途中、国王の子・天之日矛(あめのひぼこ)に出会った。天之日矛は、山に入って牛を殺そうとしていると思い込み、農夫を罰しようとした。農夫は玉を献じて罪を贖った。天之日矛はその玉を寝床のそばに置いておいたところ、玉は美しい女に変わった。天之日矛は喜んでこれを妻とした。しかし久しくして侮り罵るようになったので、妻は怒って「私はもともとあなたの妻にふさわしい者ではありません。今は父母の国に帰ります」と言い、小舟に乗って難波(なにわ)に至った。これがすなわち難波の比売碁曾社(ひめこそのやしろ)に祀られる阿加流比売神(あかるひめのかみ)である。天之日矛はこれを追いかけ、同じく難波に着いたが、神が道を塞いで進むことができず、退いて但馬に留まった。但馬の股尾(またお)の娘・前津見(まえつみ)を娶り、多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を生んだ。母呂須玖は多遅摩斐泥(たじまひね)を生み、斐泥は多遅摩比那良岐(たじまひならき)を生んだ。比那良岐には三人の子があり、多遅摩毛理(たじまもり)、多遅摩比多訶(たじまひたか)、清日子(きよひこ)といった。多遅摩比多訶は姪の由良度美(ゆらどみ)を娶り、葛城高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)を生んだ。高額比売命は息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の妃となり、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を生んだ)。清彦は但馬に代々住んだ。これより先、天日槍が献上した数々の宝物は但馬に納められ、土地の人々はこれを尊んで神宝とした(注:日本書紀による)。

八十八年、天皇は詔してこれを見たいと望み、使者を遣わして清彦に献上させた。清彦は自ら宝物を捧げて参上したが、心の中で出石小刀(いずしのかたな)を殊のほか愛惜し、ひそかに衣の中に隠していた。天皇はそれを知らず、清彦を召して御前で酒を賜わった。折しも小刀が衣の中から現れ、天皇はそれを見て怪しんで問いただした。清彦は隠しきれないと知り、ありのままに答えた。天皇は「神の宝をどうしてその仲間から離してよいものか」と言い、すべてを神府(かみのくら)に納めさせた。ところが後に蔵を開けてみると、小刀が見当たらなかった。そこで清彦に問わせたところ、「昨夜、その小刀が自然に私の家にやって来て、朝にはまた失われてしまいました」と答えた。天皇はますますこれを神秘なものと思い、それ以上探し求めることはしなかった。後にその小刀は淡路島で見つかった。島の人々はこれを神として祠を立てて祀った。清彦の子を田道間守(たじまもり)という(注:日本書紀による)。

田道間守

田道間守(たじまもり)は(注:釈日本紀が引く「天書」には丹馬物果(たじまのもつか)とあるが、「果」はおそらく「裹」の誤りであろう。丹馬物裹と田道間守とは、訓読みで音が通じ合う)、垂仁天皇九十年、常世国(とこよのくに)に遣わされ、非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を求めるよう命じられた。田道間守は海に船を出し険難を渡り、ついに常世国に至り、非時香菓を八竿八縵(やほこやかげ)得て帰国した。実にこれは景行天皇元年三月のことである(注:「天書」では二年とする)。この時すでに垂仁天皇は崩じていたため、香菓を山陵に供えて(注:「香菓を供えた」という記述は「天書」を参考にした。古事記には、菓の半分を分けて皇太后に献じたとあるが、日本書紀によれば日葉酢媛皇后は垂仁天皇より先に崩じているので、この記述は採らない)、こう言った。「私は朝廷の命を受け、遠く絶域の地まで参りました。万里の波を踏み分け、はるかに弱水(じゃくすい)を渡りました。そもそも常世国は神仙の秘められた地であり、世俗の者が容易に至れる所ではありません。そのため往復の間に、自然と十年もの歳月が過ぎてしまいました。まさか荒波を乗り越えて、再びこの国に戻れようとは思いもよりませんでした。幸いにも御霊威のおかげで、ようやく帰り着くことができました。しかし天皇はすでに崩じられ、復命することができません。私が生きていて何の益がありましょうか」。そして山陵を拝み、慟哭して息絶えた。これを聞いた者で涙を流さぬ者はなかった(注:日本書紀による)。天皇はその忠誠を哀れみ、伏見陵(ふしみのみささぎ)のかたわらに葬った(注:釈日本紀が引く「天書」による)。非時香菓とは、今でいう橘(たちばな)のことである(注:日本書紀による)。

五十跡手

五十跡手(いとて)は、天日槍の子孫である(注:釈日本紀が引く筑前国風土記による。この書には高麗国(こま)の意呂山(おろやま)から天降ってきた日桙(ひぼこ)の子孫とある。姓氏録によれば、糸井造(いといのみやつこ)は伊蘇志臣(いそしのおみ)と同祖であり、新羅の天日槍命の後裔であるという。五十跡手は実は伊蘇志と号したので、風土記には高麗国という記述があるものの、日桙はすなわち新羅の天日槍であって、両者が別人でないことは明らかである)。筑紫(つくし)の伊覩県(いとのあがた)に住んでいた。仲哀天皇八年、天皇が自ら熊襲(くまそ)を征伐しようと筑紫に着いた。五十跡手は船に乗って穴門(あなと)の引島(ひこしま)まで出迎え、舳先と艫(とも)に五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を立て、上の枝に八尺瓊(やさかに)を掛け、中の枝に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下の枝に十握剣(とつかのつるぎ)を掛けてこれを献上した。そして「私がこれを献上するのは、天皇が天下をお治めになることが八尺瓊の勾玉のように欠けることなく、山や海を照らし治めることが白銅鏡のように明らかであり、十握剣を提げて天下を平定なさることを願ってのことです」と申し上げた。天皇はこれを喜び、伊蘇志(いそし)の号を賜わった。当時の人々はその住む地を伊蘇国(いそのくに)と呼び、後に訛って伊覩(いと)となった。子孫は代々伊覩県主(いとのあがたぬし)を務めた(注:日本書紀による)。

阿知使主

阿知使主(あちのおみ)は(注:続日本紀や姓氏録には阿知王とも記されるが、ここでは日本書紀に従う)、漢の霊帝(れいてい)の曾孫である。漢が魏に禅譲するに及んで、神牛のお告げによって帯方(たいほう)へ出向き、保帯瑞(ほたいずい)を得た。その様子は宮城に似ていたので、国邑を建てて民を保護した。後に父兄に告げて「私は東国に聖主がいらっしゃると聞いている。どうしてそちらへ帰らないことがあろうか。もし長くここに留まれば、滅ぼされてしまうことを恐れる」と言った(注:続日本紀延暦四年の記事による)。子の都加使主(つかのおみ)、妹の迀興徳(うこうとく)、および七姓十七県の人々を率いて帰化した。実にこれは応神天皇二十年のことである(注:日本書紀による。妹の迀興徳および七姓については続日本紀延暦四年の記事による)。天皇は詔して高市郡(たけちのこおり)の檜前村(ひのくまのむら)を賜わり、そこに住まわせた(注:続日本紀宝亀三年の記事による)。阿知使主は「帯方の男女はみな才芸を持っております。近ごろ百済(くだら)と高麗(こま)の間に身を寄せ、心に迷いを抱いたまま、まだどちらに帰属すべきか定まっておりません。どうか天恩により、使者を遣わして彼らをお召しください」と奏上した。天皇は八腹氏(やはらうじ)に勅して彼らを召させ、公民とした。諸国の漢氏(あやうじ)は、その子孫である(注:続日本紀延暦四年の記事による)。三十七年、詔を受けて都加とともに呉(くれ)へ赴き、縫工(ぬいのたくみ)を求めた。まず高麗に至って道案内を頼んだ。高麗王は久礼波(くれは)と久礼志(くれし)の二人に案内させて呉に至らせ、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の女性を得た。四十一年、筑紫に帰り着いた。胸形(むなかた)の大神がこの女性たちを得ようとしたので、阿知は兄媛を残して立ち去った。摂津(せっつ)の武庫(むこ)に着いたところ、天皇が崩じたのに出会ったので、三人の女性を仁徳天皇に献上した。履中天皇がまだ皇太子であった時、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が反乱を起こした。阿知は平群木菟(へぐりのつく)とともに事変を告げ、皇太子を助けて馬に乗せて逃げた(注:日本書紀による)。皇太子が即位すると、阿知を蔵官(くらのつかさ)に取り立て、食封の地を賜わった(注:古事記による)。

酒君

酒君(さけのきみ)は、百済(くだら)王のある孫である。仁徳天皇の御代、紀角(きのつの)が百済に使いして国郡の境界を定めていた。酒君は傲慢で礼を失していたので、紀角は怒って百済王を責めた。王は恐れて、鉄の鎖で酒君を縛り、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)に付き添わせて日本に献上した。酒君は到着すると、石川(いしかわ)の錦織許呂斯(にしごりのころし)の家に逃げ隠れ、偽って「天皇はすでに私を赦してくださった。どうかあなたのもとに身を寄せて暮らさせてほしい」と言った。しばらくして、天皇はその罪を赦した。依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)が鷹を捕らえたが、当時の人は誰もそれが何であるか知らなかった。阿弭古は不思議に思ってこれを献上した。天皇は酒君を召してこれについて尋ねた。酒君は「百済にはこの鳥が多くいます。馴らして飼うことができ、また鼠を捕らえることもできます。俗にこれを『俱知(くち)』と呼びます」と答えた。そこで天皇は酒君にこれを飼わせた。まもなく馴れたので、酒君は組み紐をつけ鈴を結んで、腕にとまらせて献上した。天皇は百鳥の野でこれを試しに使わせたところ、多くの雉を捕らえた。そこで鷹甘部(たかかいべ)を置き、鷹を養う土地を鷹甘邑(たかかいのむら)と称するようになった(注:日本書紀による)。

秦酒公

秦酒公(はたのさけのきみ)は、秦の始皇帝の後裔・普洞王(ふどうおう)の子である。曾祖父を功満王(こうまんおう)といい、仲哀天皇八年に来朝して帰化した。祖父を弓月君(ゆづきのきみ)という(注:姓氏録による。この書では秦酒公を秦公宿禰酒(はたのきみのすくねさけ)とも、弓月君を融通王(ゆづきおう)とも書く)。応神天皇十四年、百済からやって来て、「私は百二十県の人民を率いて帰化いたしましたが(注:姓氏録には百二十七県の狛(こま)姓ともあり、あるいは二十七県百姓ともある)、新羅に妨げられ、皆加羅国(からのくに)に留まっております」と奏上した。天皇はそこで葛城襲津彦に命じて彼らを召させたが、三年経っても戻らなかった。そこであらためて平群木菟らを遣わし、兵を率いて召させ、ついに弓月の人民を襲津彦とともに連れ帰った(注:日本書紀による)。弓月は金銀・玉・帛(きぬ)など多くの珍宝を献上した。天皇はこれを喜び、大倭(やまと)の朝津間掖上(あさづまのわきがみ)の地を賜わって住まわせた。弓月には四人の子があり、真徳王(しんとくおう)、普洞王(注:一本には浦東君とある)、雲師王(うんしおう)、武良王(むらおう)といった。仁徳天皇の御代、秦氏の兵を諸郡に分けて配置し、養蚕と機織りをさせて絹を貢がせた。天皇はその献上した糸・綿・絹を衣服に用い、その柔らかく温かいことを称えて、普洞王に波陀(はだ)の姓を賜わった(注:姓氏録による)。酒(さけ)は雄略天皇に仕えた。あるとき天皇は木工(こだくみ)の闘鶏御田(つげのみた)に命じて初めて楼閣を造らせた。御田は楼閣の工事を指揮しながら、飛ぶように軽快に動き回っていた。伊勢の采女(うねめ)がたまたま仰ぎ見て驚き倒れ、捧げ持っていた御膳(みけ)をこぼしてしまった。天皇は御田に不埒なふるまいがあったのではと疑い、物部氏に付して処刑させようとした。酒はその場に控えていて、琴の音で天皇を諫めようと思い、弾きながら歌った。「神風の伊勢の(かむかぜのいせの)、伊勢の野の栄える枝を(いせののさかえるえだを)、五百経る懸けて(いおへるかけて)、その尽きるまでに(そのつきるまでに)、大君に(おおきみに)、堅く仕へまつらむと(かたくつかへまつらむと)、我が命も(わがいのちも)、長くもがと言ひし(ながくもがといひし)、工匠はや(たくみはや)、あたら工匠はや(あたらたくみはや)」。天皇は心を動かされ、御田を赦した。これより先、秦氏は分散して秦造(はたのみやつこ)に属さず、臣連(おみむらじ)らが勝手にこれを使役していた。酒はこの頃天皇の寵愛を受けていた。天皇は詔を下し、秦氏の部民百八十種を集めて、酒にこれを統率させた(注:姓氏録には、当時秦氏は流れ散らばり、現存する者は十のうち一つも残っていなかったとある。酒は功績により勅使を遣わして調べ集めることを願い出た。天皇は小子部雷(ちいさこべのいかづち)を遣わし、大隅(おおすみ)の阿多隼人(あたはやと)らを率いて捜索させ、九十二部・一万八千六百七十人を集めさせたとある)。酒はこれらを率いて養蚕を行い、庸調(ようちょう)の絹や縑(かとり)を献上して、御殿の前に積み上げた。これにより禹豆麻佐(うづまさ)という姓を賜わった(注:日本書紀による。この書の註の一本にも禹豆麻佐とある)。これは「満ち積もり利益のある」という意味を取ったものである。また勅命により諸々の秦氏に宮の側に大蔵(おおくら)を造らせ、その貢物を納めさせた。この時初めて大蔵の官職が置かれ、酒がその長官となった(注:姓氏録による)。