卷之二百十三 列傳第一百卌

文學一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字
この巻の目次29
  1. 王仁
  2. 船辰爾
  3. 白豬膽津
  4. 葛井廣成
  5. 紀清人
  6. 山田御方
  7. 高丘河內
  8. 高丘比良麻呂
  9. 太安萬侶
  10. 百濟倭麻呂
  11. 下毛野蟲麻呂
  12. 刀利宣令
  13. 下毛野古麻呂
  14. 調老人
  15. 伊與部馬養
  16. 大倭長岡
  17. 陽侯真身
  18. 矢集蟲麻呂
  19. 鹽屋古麻呂
  20. 山田銀
  21. 大倭小東人
  22. 守部大隅
  23. 越智廣江
  24. 背奈行文
  25. 調古麻呂
  26. 清村晉卿
  27. 調古麻呂
  28. 楢原東人
  29. 榮井蓑麻呂

王仁

武は事業を創始するためのものであり、文は成し遂げた事業を守り続けるためのものである。ちょうど陰陽や寒暑のどちらか一方を欠くことができないのと同じである。我が国の朝廷では、武による徳がまず広まり、その後に文教が興った。応神天皇(おうじんてんのう)が百済(くだら)からの貢物を受け入れて以来、天智天皇(てんじてんのう)が周公・孔子の道を学ぶに至り、教化が大いに行われ、あらゆる物事が調和していった。国や郡には学校が設けられ、朝廷の書庫には経書・史書・諸子・文集が納められた。大学寮では孔子を祀る釈奠(せきてん)の礼が行われ、朝廷の試験では対策(たいさく、策問による試験)が課された。奨学・勧学の制度や学館の設置は、いずれも優れた人材を育て、徳を身につけさせるためのものであった。科挙(かきょ)に類する試験は四つの科目に分かれ、選抜においては文系・武系の二つの部門が重んじられた。上に立つ者が行えば下の者もそれに倣い、文武の両道が整えられていった。それ以来、歴代の聖明な天子は学問を重んじ、夜更けまで書を読むことを怠らなかった。弘仁(こうにん)・天長(てんちょう)の頃には学問を講じ詩歌を詠じる気風が盛んになり、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の頃には学者や文人が肩を並べるほどになった。この隆盛した治世は、昔にもまさって卓越しており、優れた人材が次々と現れ、盛んに興隆した。しかし、その流れが行き着いた弊害として、ただ暗記や詩文の技巧にのみ努め、物事の道理を窮め本性を尽くす根本にまで立ち返ることができなくなった。そのため、文芸によって世に名を知られた者は非常に多いが、儒学によって道を広めた者はほとんどいなかった。また、その文章の体裁も対句や声律にとらわれ、雅やかで古風な趣きに近づくことができなかった。これは、隋末唐初の華美で技巧に走った風潮を受け継いだためである。もし優れた人物が現れてこれを主導すれば、晋・魏の文章を凌ぎ、漢・周の文章と肩を並べることも難しくはなかったであろう。『易経』に「天文を観て、時の変化を察する。人文を観て、天下を教化し成し遂げる」とある。聖人が賁(ひ、飾りととのえること)の道を用いる意義は、まさにここに極まる。吉備真備(きびのまきび)や阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)のような人物は、詩文の才を発揮し、その名を異国にまで知られた。清原夏野(きよはらのなつの)や菅原道真(すがわらのみちざね)は、学問に励んで功績を重ね、その名を後世の記録に光り輝かせた。そのほかの名だたる人物や重臣で、政治や事業の面で功績を著した者については、それぞれ別に伝を立てて記した。ここでは、専ら文芸によって称えられた者だけを取り上げ、順に「文学伝」として編纂した。

船辰爾

王仁(わに)は(注:『古事記』では和邇吉師と書く。今考えるに、王仁と和邇は音が通じる)、百済の人であり、その先祖は狗(く)といった。狗のさらに先祖は鸞(らん)といい、漢の高祖の血筋から出たという。狗が初めて百済に至り、そのまま住み着いた(注:『続日本紀』桓武天皇紀による)。王仁は経書に広く通じていた。応神天皇十五年、百済の使者である阿直岐(あちき)(注:『古事記』では阿知吉師と書く)が良馬を貢いできた。天皇はすぐに阿直岐にその馬の飼育を命じた。阿直岐は経書や伝記によく通じており、皇太子はこれを師として学んだ。天皇はかつて阿直岐に「そなたの国の博士で、そなたより賢い者はいるか」と尋ねた。阿直岐は「王仁という者がおり、この国きっての秀才です」と答えた。天皇はすぐに荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を遣わして王仁を招かせた。王仁はついにこれに従って日本に来た(注:『日本書紀』による)。王仁は『論語』十巻と『千字文』一巻を献上した(注:『古事記』による。考えるに、現在伝わる南朝梁の周興嗣が作った『千字文』は、当時まだ成立していなかった。疑わしい点があるため、『日本書紀』はこの記事を採用していない)。そこで皇太子はこれに従って学問を修めた(注:『日本書紀』による)。王仁は日本の言葉にもよく通じていた。仁徳天皇が即位した際、これを祝う和歌を詠んだ。「難波津に(なにはづに)、咲くやこの花(さくやこのはな)、冬ごもり(ふゆごもり)、今は春べと(いまははるべと)、咲くやこの花(さくやこのはな)」。世間では、陸奥(むつ)の采女(うねめ)が詠んだ安積山(あさかやま)の歌と並んで、和歌の父母と称されている(注:『古今和歌集』序文による。仁徳天皇即位の際にこの和歌を奉ったことは『奥義抄』による)。履中天皇の御代、内蔵(うちのくら)を建てて官の財物を収めた際、王仁は阿知吉師とともにその出納を記録した(注:『古語拾遺』による)。王仁の子孫には、阿浪古首(あらこのおびと)、書首(ふみのおびと)、文忌寸(ふみのいみき)、武生宿禰(たけふのすくね)、古志連(こしのむらじ)、栗栖首(くるすのおびと)、櫻野首(さくらののおびと)などがおり、いずれも王仁の後裔である(注:『新撰姓氏録』による。書首については『日本書紀』により、文忌寸については『続日本紀』による)。

白豬膽津

船辰爾(ふねのたつに)は、もとの姓を王氏といい、その先祖は百済の人であった。かつて応神天皇が荒田別に命じて、百済で学識のある者を求めさせた。百済の国主である貴須王(きすおう)は、自らの孫である辰孫王(しんそんおう)(注:辰孫王は、またの名を志宗王という)をこれに応じさせ、使者に従って日本に渡らせた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とし、大いに儒学の気風を広めさせた。辰孫王の子である太阿郎王(たいあろうおう)と耶王(やおう)は、仁徳天皇の側近として仕えた。太阿郎王は玄陽君(げんようくん)を生み、玄陽君は午定君(ごじょうくん)を生んだ。午定君には三人の子があり、長男を味沙(みさ)、次男を辰爾(たつに)、三男を麻呂(まろ)といった(注:『続日本紀』桓武天皇紀による。辰孫王については、応神天皇の御代に荒田別が百済でこれを得て皇太子の師としたとあり、その事績は王仁の場合とよく似ているため、別人ではないのではないかとも疑われるが、今はこれ以上考証する材料がない)。欽明天皇十四年、天皇が樟句宮(くすのみや)に行幸した際、辰爾は勅命を受けて船の数を記録した。そこで辰爾を船の長官とし、船史(ふねのふひと)の姓を賜った。船連(ふねのむらじ)はその子孫である(注:『新撰姓氏録』では、船連は太阿郎王の三世の孫である智仁君(ちにのきみ)の後裔とされている。智仁は辰爾の別の読み方で、音が通じる)。敏達天皇元年、高麗(こま)から上表文が届いた。諸々の使者を集めてこれを読ませたが、誰も意味を理解できなかった。辰爾がその文意を解き明かした。天皇は褒めて「辰爾はよく努めた、辰爾は立派である。そなたが学問を好まなければ、誰がこれを解読できただろうか。今後は宮中近くに仕えるように」と論した。さらに詔を下し、東西の史(ふひと)たちを責めて「そなたたちは、なぜ何の成果も上げられないのか。そなたたちは大勢いても、辰爾一人にも及ばない」と言った。また、高麗からの上表文にはカラスの羽が用いられており、文字の判別ができなかった。辰爾はその羽を取り、飯を蒸す甑(こしき)で蒸し、絹の布を押し当てて写し取った。すると文字がすべて見えるようになり、ようやく読むことができた。天皇はこれを大いに感嘆した(注:『日本書紀』による。『十訓抄』には、烏羽の表は、あるいは王仁が史(ふひと)としてこの功績を明らかにした話ではないかとあるが、何を根拠にしているかは分からない)。

葛井廣成

白豬膽津(しらいのいつ)は、辰爾の甥である。欽明天皇三十年の春、天皇は膽津に命じて白豬(しらい)の田部(たべ)の戸籍を検校させた。この年の四月、ついにその戸籍を定め、田戸(たへ)としてまとめた。天皇はその功績を褒め、白豬史(しらいのふひと)の姓を賜った。ほどなく田令(たつかさ)に任じられ、山田瑞子(やまだのみずこ)の副官となった。敏達天皇三年、大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)を吉備国に遣わし、白豬屯倉(しらいのみやけ)と田部をさらに増設し、その田部の名籍を膽津に授けた(注:『日本書紀』による)。

紀清人

葛井廣成(ふじいのひろなり)は、もとの姓を白豬史といい、従六位上に叙せられ、大外記(だいげき)となった。養老年間に新羅への遣使となり、その際に現在の姓を賜った(注:『続日本紀』による)。かつて対策(たいさく)の試験を受けたことがある。問いに曰く、「礼は敬うことを主として五つの区別を成し、楽は調和を根本として八音を包み込む。身を整え性を陶冶する働きは、宴においてこの道によるものであり、世を治め民を安んじる意義は、すでにこれに尽くされている。時代によって増減はあるが、歴代の王はこれを受け継いできた。礼楽を用いることについては、すでに先例がある。しかしその優劣はまだ定まっていないので、その区別を詳しく述べよ」。これに対して答えて曰く、「私が聞くところによれば、天地人の三才が初めて開けた時に礼の趣旨が興り、喜怒哀楽などの人の情がしだいに芽生えた時に楽の趣が動き出したという。陰の徳である礼の成立は、遠い昔から連綿と続く基盤を持ち、陽の徳である楽の始まりも、はるか太古に発してまことに久しい。ただし、縄を結んで記録とした時代のことは、はるか昔でつまびらかにし難いが、文字が生まれて以降のことは、はっきりと語ることができる。そもそも礼とは国を豊かにする化粧のようなものであり、楽とは風俗を変える味付けのようなものである。堯や舜が位を譲り合った治世は、この道によって上を安んじ、武力による変革が行われた世も、この糸口を保って下を教化した。善が美しく行われれば赤い蛇や龍のようなめでたいしるしが自然と現れ、調和が保たれれば黄竹や白雲の詩のような美しい調べがいっそう響き渡る。それゆえ、高きは天の果てにまで及び、日月とともに懸かり、遠きは地の果てにまであまねく広がり、山川とともに並び立つ。水や火の利益が万物を潤すように、梨や橘の味が口を喜ばせるように。たとえ姜氏(周公)が土地の制度を定めたようなことがなくても、夏王朝が天に応じた徳を持っていたようなことはある。すると、敬いを異にする趣旨はすべて収まり、同じくすることを見る跡が広く行き渡る。まことに祭祀の礼と鐘鼓の楽の節度は、道理においては両方を行う必要があり、義においてはどちらか一方を廃することは許されない」。また問うて曰く、「老子は世を逃れて隠れ、空虚玄妙の理を示し、孔子は困難の中にあっても、仁義の教えを修めた。ある者はこれを精妙とし、ある者はこれを粗雑とするが、その道理はどうか。その理由を聞きたい」。これに答えて曰く、「密かに聞くところによれば、山林を慕って隠者の衣をまとうのは、道家の玄妙な教えであるという。これは老子(柱下の官にあった人物)の流れをくむものであり、朝廷に入って高い官位に就くのは、仁義に厚い儒者である。これは孔子(司寇の官にあった人物)の教えによるものである。それゆえ、清らかで空虚な道理は『老子』の上下二篇に輝いて春の日のようであり、正しく施す跡は五経に明らかで秋の月のようである。まことによく人々の苦しみを救い、絶えかけた王道の教化を継ぐことができる。謹んで思うに、聖なる朝廷の徳は広く世に行き渡り、その教化は五岳よりも高く、動物も植物もその養い育てる恵みを受け、飛ぶ鳥も走る獣もその教化を被っている。激しい風が五日続いても木の枝を鳴らすことはなく、多くの雨が十日続いても土くれを崩すことはない。さらに南方の未開の民は青い靄を頼りに海を渡って来朝し、北方の異民族は身を飾って白雲を踏み山を越えて来朝する。その盛んで麗しい教化はこのようである。それでもなお恐れるのは、老子の教えがまだ盛衰を備えておらず、道家と儒家の趣旨に優劣があることである。その条目を分け、その精粗を見極めたいと思う。ひそかに考えるに、道家は一人のみ善くあることを根本とし、人を愛し敬う心がなく、父を捨て君に背く。儒家はともに世を救うことを根本とし、身分の上下の序列を分け、身を尽くし命を捧げる。これによって尋ねれば、その優劣ははっきりと判断できる」(注:『経国集』による)。天平年間、外従五位下に叙せられた。新羅からの使者が来朝した際、廣成は多治比土作(たじひのはにし)とともに筑紫に赴き、賓客をもてなす事務を検校した。廣成は「新羅の使者は貢物の呼び方を『調(みつぎ)』から『土毛(くにつもの)』に改め、文書の末尾に品物の数を注記しています。旧例に照らすと、これは大いに常礼を欠いています」と上奏した。太政官はこれを裁定し、「永手(ながて)以上の者を召して、非礼のありさまを告げ、その使者を追い返すように」とした。廣成は帰京して備後守(びんごのかみ)となり、次第に昇進して従五位上に至り、天皇の寵愛を大いに受けた。天皇の車駕が廣成の邸宅に行幸し、宴を催して宿泊したこともあった。廣成とその妻である県犬養八重(あがたのいぬかいのやえ)には正五位上が授けられた。天平勝宝の初め、中務少輔(なかつかさのしょうふ)となった(注:『続日本紀』による)。

山田御方

紀清人(きのきよひと)(注:清は淨とも書く)は、和銅年間に国史の編纂に加わった。霊亀元年、学業を褒められ、穀百石を賜った。養老の初め、再び穀百石を賜り、文章博士(もんじょうはかせ)となった。天皇は山田御方(やまだのみかた)、山上憶良(やまのうえのおくら)、越智廣江(おちのひろえ)、高丘河内(たかおかのかわち)、鹽屋古麻呂(しおやのこまろ)、刀利宣令(とりのせんりょう)ら十数人に、朝廷から退出した後に東宮(とうぐう、皇太子)に仕えるよう詔した。ほどなく学問に優れ師範となるにふさわしいとされ、絁(あしぎぬ)・糸・布・鍬を賜った。天平年間、右京亮(うきょうのすけ)を経て治部大輔(じぶのたいふ)に任じられ、再び文章博士を兼任した。天皇が難波宮(なにわのみや)に行幸した際、清人らは平城京(へいじょうきょう)に留守居役として残った。従四位下・武蔵守(むさしのかみ)にまで至った。天平勝宝五年、卒去した(注:『続日本紀』による)。

高丘河內

山田御方(やまだのみかた)(注:『日本書紀』では御方を御形と書き、『懐風藻』では三方と書く。いずれも読みは通じる)は、魏の司空であった王昶(おうちょう)の後裔である(注:『新撰姓氏録』による)。はじめ僧侶となり、新羅で学んだ。持統天皇の御代に還俗し、務広肆(むこうし)の位を授けられた(注:『日本書紀』による)。文武天皇の初め、正六位下を授けられた。慶雲年間、その学識を褒められ、布・鍬・塩・穀を賜った。和銅年間、従五位下に進み、周防守(すおうのかみ)となった。養老年間、従五位上に進み、文章博士となった。養老六年、贓罪(不正に財物を得た罪)に問われた。天皇は詔して「周防前守の山田史御方は、監督の任にありながら不正を働いたのだから、道理からいえば官職を剥奪すべきである。しかし以前に恩赦があり、その罪はすでに赦されている。法に従って贓物を弁償させようにも、その家には一尺の布さえない。朕が思うに、御方は書物を背負って遠方に赴き、異国に留学した。帰朝した後は、多くの学生に教授し、文章に携わる学士として、文章の作法にかなりよく通じている。もしこのような人物を惜しまなければ、この学問の道が廃れてしまうだろう。特別に恩情をかけ、贓物の弁償を求めないようにせよ」と述べた(注:『続日本紀』による)。後に大学頭(だいがくのかみ)にまで至った(注:『懐風藻』による)。

高丘比良麻呂

高丘河內(たかおかのかわち)は、もとの姓を樂浪(さざなみ)といい、父の沙門詠(しゃもんえい)は、天智天皇の御代に百済から日本に帰化した。河內ははじめ播磨大目(はりまのだいさかん)となり、正倉(しょうそう、官の倉庫)を造営した。和銅年間、その功績を賞されて位一階を進められ、絁十匹・布三十端を賜った。養老年間、文章博士となった。神亀の初め、現在の姓に改めた。天平年間、右京亮(うきょうのすけ)となり、京の百姓に宅地を分配した。造宮輔(ぞうぐうのすけ)となり、紫香楽離宮(しがらきのりきゅう)の造営に携わった。伯耆守(ほうきのかみ)に改められた。天平勝宝年間、正五位下・大学頭にまで至った。子に比良麻呂(ひらまろ)がいる(注:『続日本紀』による)。

太安萬侶

高丘比良麻呂(たかおかのひらまろ)は、若い頃から大学で学び、広く書物や記録に通じていた。天平宝字年間、越前介(えちぜんのすけ)となり、内蔵助(くらのすけ)に転じ、大外記を兼ねた。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が謀反を起こした際、比良麻呂はその変事を朝廷に上奏した。その功を褒められ、従四位下を授けられた。天平神護の初め、勲四等を賜り、ほどなく遠江守(とおとうみのかみ)を兼ねた。神護景雲元年、右衛士亮(うえじのすけ)を兼ね、内蔵頭(くらのかみ)にまで至った。姓を連(むらじ)から宿禰(すくね)に改められた(注:『続日本紀』による)。

百濟倭麻呂

太安萬侶(おおのやすまろ)は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔である(注:『新撰姓氏録』および『日本書紀私記』による)。慶雲の初め、従五位下に叙せられた。和銅年間、正五位上に進み(注:『続日本紀』による)、勲五等を授けられ、勅命を受けて『古事記』を編纂した。もともと天武天皇は、諸家に伝わる記録の多くが虚偽を伝え、ついにその真実を失っていることを憂えていた。当時、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物がおり、年は二十八歳、記憶力に優れ、上代の古い事柄に多く通じていた。そこで天皇はその記憶するところを記録させ、これをもとに帝紀を編纂しようとした。しかしその後、天皇は崩御した。持統・文武両天皇の御代を経ても、この事業の企ては実現しなかった。この時に至り、元明天皇がその志を継いで完成させようとした。安萬侶は勅命を受け、阿礼が伝えるところを採録し、天地開闢の昔から推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)の御代に至るまでを記録し、三巻にまとめて奉った(注:『古事記』序文による)。霊亀年間、従四位下に進み、氏の長(うじのちょう)となり、ほどなく民部卿(みんぶきょう)となった。養老七年、卒去した(注:『続日本紀』による)。

下毛野蟲麻呂

百濟倭麻呂(くだらのやまとまろ)は、その先祖は百済の人である(注:『新撰姓氏録』による)。慶雲年間、対策の試験を受けた。問いに曰く、「数歩の内に、むなしく蘭や蕙(けい)の香りが流れ、十軒ほどの家の中に、ただ一頭だけ優れた馬が馬房に伏している。羽毛の色は見分けがついても、結局は楚の国の並みの鶏を見誤り、玉と石も見分けにくく、ともすれば燕の国のありふれた石を珍重してしまう。まして、鈍才な師が寛容であったために、魯の哀公に軽んじられ、馬氏の四角四面なやり方が、魏の文帝に重んじられたということもある。優れた天子が人を見極めることの難しさを嘆いた趣旨は、まさにこのことをいうのであろう。人物を見極める方法について、その要点を述べよ」。これに答えて曰く、「密かに考えるに、赤帝(漢の高祖)は文明であったが、人を知ることをその弱点とし、素王(孔子)は天から才知を授かっていたが、人材登用においてはその判断を誤ることもあった。そうであれば、石と玉の見分けさえ難しく、蓬(よもぎ)の本性を推し量ることもできない。鳳凰と鶏の違いは分かっても、草の本質を見分けることなどとうていできない。ただし、求める心があれば必ず得られないことはなく、伊尹(いいん)は鼎(かなえ)を背負って殷の湯王に近づき、寧戚(ねいせき)は角を叩いて斉の桓公に取り入った。そのように、選ぶべき人材は必ず選び取られるものである。四凶を退けて虞舜の代に用い、二人の叔父(管叔・蔡叔)を除いて周の治世を安んじた。まして今、道は盛んに行われ、徳は栄えて人々を導いている。歳星(木星)の巡る先々では風雨の様子を占って敬い仰ぎ、大地の隅々に至るまで、国の境界の限りをすべて版図に収めている。ついには少微星(隠士の星)一つにも多くの賢人の位が応じ、五色の大雲が広く行き渡るように、賢者の列が国中に満ちている。愚かな者を追い払わずとも去り、賢者を招かずとも自然に集まる。この盛んで広大な様子は、まさにこの時代にふさわしいものであろう」。また問うて曰く、「宮中に伏して仕える臣下は、夜を徹して精勤し、清廉な役人は、日ごとに清く倹しくあろうとする。この二つの道を見比べると、両方を兼ね備えることは容易ではない。もしやむを得ず一つを選ぶとすれば、どちらを先とすべきか」。これに答えて曰く、「私が聞くところによれば、多くの役人に臨んでは賞罰の二つの権を頒ち、九州を治めては六つの条規を布くという。金を捨て玉を投げ捨てたのは虞舜の清廉さであり、風雨に身をさらして治水に努めたのは夏の禹王の勤勉さである。さらに、楊震(ようしん)は太守となって不正な道を退ける神の知を示し、馮豹(ふうひょう)は郎官となって宮中近くで天子に仕えた。その誉れは生前に世に知られ、その美名は死後にも称えられた。しかし清廉さは生まれつき天から授かるものであり、勤勉さは自らの努力によって積み重ねられるものである。また、水を飲み子牛を水辺に留めた者(清廉な役人)は歴史上わずかしかおらず、星を見て虎を避けて逃げた者(佞臣)は、昔も今も多い。私の器量は宋の宝玉のようなものではなく、燕の平凡な石のようなものであるから、どうして先後の根源を決めることができようか。ただひそかに、その大まかな趣旨の一端を述べたに過ぎない」(注:『経国集』による)。正六位上に叙せられ、但馬守(たじまのかみ)となった。五十六歳で卒去した(注:『懐風藻』による)。

刀利宣令

下毛野蟲麻呂(しもつけののむしまろ)は、かつて対策の試験を受けたことがある。問いに曰く、「天龍と呼ばれるものは、足がなくても走り、地馬と呼ばれるものは、翼がなくても飛ぶという。時代によって言い方は異なっても、利をもたらす点では同じである。しかし、いつわりを企てる者が勝手に西蜀(せいしょく)の贋金づくりをしたり、不正に利をむさぼる者がもっぱら東呉(とうご)の私鋳を行ったりすることがあってはならない。彼らは多くの小人をだまし欺き、公の役所をないがしろにする。そのために役人はしばしば取り調べに苦労し、いたずらに獄舎が満ちてしまう。そなたたち進士は、公の道理をわきまえるべきである。このような不正を懲らしめるには、どのようにすればよいか」。これに答えて曰く、「密かに聞くところによれば、砂や石が変じて珠玉になったとしても、それで飢えを癒すことは難しく、倉の穀物が丘のように積まれてこそ、容易に命をつなぐことができるという。これによって分かるように、絵に描いた餅の前では、なお血を飲むような思いをするしかなく、律令が定まって以降は、誰もが穀物を食べて暮らすことができる。太公望(たいこうぼう)が九府の貨幣制度を開き、管仲(かんちゅう)が広く通用する貨幣の仕組みを整えて以来、龍の文様が都の内に入り乱れ、亀の甲羅を模した銭が贈り物の中に混じるようになった。白銀はよこしまな心を煽り立て、赤銅の銭は不正な鋳造を競わせた。西蜀の銅山は、ただ佞臣にへつらう者たちの門戸を独占するだけとなり、東晋の金の溝は、ついには贅沢を誇る者たちの部屋を満たすだけとなった。姫氏の世に軽い貨幣が捨てられた時には、単穆公(ぜんぼくこう)が私利をむさぼる者を風刺し、劉安(りゅうあん)が私鋳を放任した時には、賈誼(かぎ)が災いを転じることの難しさを説いた。これはまさに、耕作や養蚕という本業を捨てて、小さな利益を争うことから起こるものである。謹んで思うに、聖なる朝廷は天の鏡を握り、地の鉾を統べ、その恵みの声はあまねく世に行き渡り、至高の教えは果てしなく広がっている。禾(いね)をくわえた獣がしばしば現れ、豊作を示す稲穂を見て集まる魚もたびたび見られる。今、いつわりを企てる行いを止めさせ、私鋳の道を断ち切ろうとしている。まことに農耕の仕事を調和させ、多くの倉を穀物で満たすことができれば、汲黯(きゅうあん)が淮陽で高枕に眠ったような治世の趣を受け継ぎ、邯鄲(かんたん)で見送りを受けた祖逖(そてき)の清らかな行いを発揮することができよう。そうなれば、貨幣の文様に惑わされることもなく、銭の目方に誤りもなくなる。たちまち、貨幣を削り取るような悪弊はやみ、炭を隠して不正を行うような風習も永久に絶えるであろう」。また問うて曰く、「周公・孔子の名分に基づく教えは、国を興し風俗を教化する規範であり、仏教・道教の格言は、福を招き災いを消す術である。すでに内(仏教・道教)と外(儒教)とで相反するものとしながらも、また精粗の点では一つの筋道であるともいう。これらが同じであるか否かを定め、その真偽を明らかにせよ」。これに答えて曰く、「密かに考えるに、はるかに歴代の君主を観れば、雷光のように速やかに、翼のように広く天下を治めた帝王たちがおり、遠く風声を聞けば、八方や三代にわたって道を通わせた帝がいる。時代を経て千年の昔になっても、その源はやはり一つに帰する。ただ、時代に応じた便宜は一様ではなく、弊害を救う方法もまた異なる。そもそも道家は清らかで虚しい境地に関わり、その本旨は一人のみ善くあることに帰し、儒家は曲がりくねった道理を抱きつつも、その本質は世をともに救うことに拠っている。それゆえ、麒麟が現れて涙を流したという故事は、魯の国の書物である『春秋』の秘められた教えに刻まれ、狼が踏み歩いたという詩は、周の詩集である『詩経』の正しい教えに明らかにされている。仏教の光が東に輝き、悟りの道を説くに至ったこと、また老子が紫の気とともに西へ去り、玄妙の教えの完成を望んだことについては、これはまことに事柄が深く隠れていて容易には探り得ず、道理も奥深くて理解しがたいところがある。しかし、詳しく風俗を教化する源をたどり、災いを消す術をつぶさに尋ねれば、すでに淄水(しすい)と澠水(べんすい)のように紛らわしい違いがあり(注:「浅」は誤りであろう)、また涇水(けいすい)と渭水(いすい)のように澄濁の分かれもある。ただし、学問が籯金(えいきん、多くの黄金)に及ばなければ、いたずらに同異の道理を見誤り、言葉が玉くずのように曖昧であれば、どうして真偽の趣旨を述べることができようか」(注:『経国集』による)。養老年間、従五位上・文章博士に至り、式部員外少輔(しきぶのいんがいのしょうふ)(注:『続日本紀』による)、大学助教(だいがくのじょきょう)を歴任した。三十六歳で卒去した(注:『懐風藻』による)。

下毛野古麻呂

刀利宣令(とりのせんりょう)(注:『万葉集』では刀利を土理と書く。音が通じる)は、かつて対策の試験を受けたことがある。問いに曰く、「官を設け職を分けるには、それにふさわしい人材を得なければならない。しかし職務の軽重は異なり、能力にも長短がある。人に任せて成果を求める際、これを覆せば禍となる。人材の登用と引き継ぎの要点について、聞かせてほしい」。これに答えて曰く、「密かに考えるに、天は北斗七星を垂れて三百六十五度の星の巡りを見分けさせ、地は八つの座を並べて三千の儀式を条ごとに定める。それゆえ、東西によって異なる勅を発し、四季の巡りを玉燭のように整え、刑罰と徳とを兼ね用いて、あらゆる政務を金の鏡のように公正に治めるのである。多くの臣下がそれぞれの職務を分担すれば、舜の臣であった禹(う)は謹み深い美徳をもたらし、十人の賢臣が朝廷に仕えれば、周の武王のもとに多くの人材が集う盛況が生まれた。士会(しかい)が政務に復帰すれば多くの盗賊が晋の国境から去り、太叔(たいしゅく)が政治を行えば多くの奸臣が鄭の蒲(ほ)の地に集まった。このように、職務の軽重や能力の長短は、おおよそ論じることができる。謹んで思うに、この国の朝廷は日の本を平らかに治め、その徳は天の果てにまで及び、禹王のように旗を執って有能な人材を招き、堯のように大道に座して賢者を訪ね求める。周を逃れ漢を避けた臣下たちも、朝廷の階(きざはし)に雁のように連なって仕え、穎水(えいすい)に遊び箕山(きざん)に隠れた高士たちも、宮殿の門に魚の鱗のように連なって仕えている。無為にして天体の運行のように治世を治め、道をもって衣を垂れたまま統治する。これによって分かるように、黄河の水を汲む者が同じ船に乗り合わせたという故事のように、木徳をもって七百年の王統が栄え、鹿を指して馬とした故事のように、金の精気(秦)は二世で滅びた。ふさわしい人材を得れば、政治の調和を歌う声が起こり、その任にふさわしくない者を用いれば、いたずらに禄を食むだけだという謗りを受ける。これに照らして論じれば、おおよその区別はつく。しかし、東方の魯の国では、生まれながらの聖人である孔子でさえ、二人の子供の問答に迷ったといい、西方の蜀では、文才に優れた者でさえ、たった一つの問いに答えられなかったという。まして大事業を授けることについては、天子でさえもこれを難しいとされる。ましてや、浅学非才の身で、どうして詳しく述べることができようか」。また問うて曰く、「激しい炎が山を燃やせば、これを恐れる者は逃げ帰り、柔らかな水が丘を浸せば、これに慣れた者はかえって命を落とす。それゆえ、子産(しさん、東里の人)は厳しい言葉を残し、西門豹(せいもんひょう)は厳格な政治を行った。しかし臧孫(ぞうそん)が政治を行うと子貢(たんぼく、木端)がこれを謗り、廉範(れんぱん)が官についてからは、雲中の民がその徳を詠じた。寛容と厳格の要点について、その考えを述べてほしい」。これに答えて曰く、「密かに考えるに、飛龍が絶えず動けば、その健やかで猛々しい働きが現れる。馬が休みなく歩めば、その従順さの利益が実を結ぶ。天地の気を受けるのは人であり、喜怒の情を抱くのは心である。同じものを受け継ぎながら異なるものを抱くのであるから、寛容と厳格のどちらも理にかなっている。厳格さはよく悪事を禁じ断つものであり、子産は激しい炎の喩えを用いた。寛容さはともに愛することであり、廉範は夜間の作業を許す命令を出した。沛公(はいこう、劉邦)が洛陽に入城した際には、義帝(ぎてい)がその寛容さを許した。子路(しろ)が志を語った際には、孔子(素王)はその勇ましさを喜んだ。これらはすでに経書に記され、また史書にも記されている。道理には二つの道があるが、その基本は一つである。ただし、髪を整え縄をほどくように穏やかに事を治めることは、昔の史書が美徳として讃えるところであり、寛容をもって厳格を助けることは、昔の聖人の格言である。それゆえ、水は高きを避けて低きに流れ、民は厳しさを離れて緩やかな方へ向かう。水や民の向かう先によって、寛容と厳格の大まかな要点が明らかになる。弦を張った武人が、寛やかな朝廷で箒を持って仕え、韋(なめしがわ)を帯びた文官が、太平の世に帯を締めて仕えるようにしたいものである」(注:『経国集』による)。養老年間、朝廷から退出した後は東宮に仕えるよう詔があり(注:『続日本紀』による)、正六位上に至った。五十九歳で卒去した(注:『懐風藻』による)。

調老人

下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の五世の孫であり、多奇波世君(たきはせのきみ)の後裔である(注:『新撰姓氏録』による)。直広参(じきこうさん)に叙せられた。文武天皇の初め、律令の編纂に加わった(注:『続日本紀』による)。大宝元年、従四位下に改め授けられ、右大弁(うだいべん)となり、新令の講義に加わった。大宝二年、朝政に参議した。ほどなく詔が下り、「下毛野古麻呂、伊吉博徳(いきのはかとこ)、調老人(つきのおきな)、伊与部馬養(いよべのうまかい)は、律令の制定に携わった。その功に応じて賞を議定せよ」とされた。古麻呂には田十町、封戸五十戸が賜られた。ただし封戸は本人一代限りとし、田は子孫一代に伝えることとされた。さらに二十町が加えられ、従四位上に進んだ。慶雲年間、兵部卿(ひょうぶきょう)となった。和銅元年、式部卿(しきぶきょう)に改められた。天皇は公卿を召見し、その職務ぶりを褒め、古麻呂を正四位下に進めた。和銅二年、大将軍となった(注:大将軍となった経緯は詳らかでない。当時、巨勢麻呂(こせのまろ)が陸奥鎮東将軍、佐伯石湯(さえきのいわゆ)が征越後蝦夷将軍であったことから、古麻呂の任命もこの頃であったかと思われるが、今はこれ以上考証する材料がない)。同年十二月、卒去した(注:『続日本紀』による)。

伊與部馬養

調老人(つきのおきな)は、その先祖は百済の人である(注:『新撰姓氏録』による)。老人は、持統天皇の御代に撰善言司(ぜんげんし、よい言葉を選び集める役)に任じられた(注:『日本書紀』による)。後に大学頭となった(注:『懐風藻』による)。卒去した後、大宝の初め、正五位上を追贈され、律令編纂の功績を追賞して、その子に功田十町、封戸百戸が賜られた。ただし封戸は本人一代限りとし、田は子孫一代に伝えることとされた(注:『続日本紀』による)。

大倭長岡

伊與部馬養(いよべのうまかい)(注:『日本書紀』では養を飼と書くが、読みは通じる)は、その先祖は火明命(ほあかりのみこと)の後裔である少神積命(すくなかみつみのみこと)から出ている(注:『三代実録』貞観四年による)。馬養は、持統天皇の御代に撰善言司に任じられた(注:『日本書紀』による)。後に皇太子学士となり、従五位下にまで至った。四十五歳で卒去した(注:『懐風藻』による)。大宝年間、律令編纂の功績を追賞して、その子に功田六町、封戸百戸が賜られた。封戸は本人一代限りとし、田は子孫一代に伝えることとされた。馬養はかつて丹波国与謝郡(たんばのくによさぐん)の郡司であった時、水江浦島子(みずのえのうらしまこ)の物語を文章に記し、世に伝えた(注:『釈日本紀』が引く『丹後国風土記』による)。

陽侯真身

大倭長岡(やまとのながおか)は、神知津彦命(かむちつひこのみこと)の後裔である。神知津彦は、神武天皇の御代にその功績によって大倭国造(やまとのくにのみやつこ)となり(注:『新撰姓氏録』による)、その子孫は代々この職を世襲した。父の五百足(いおたり)は従五位上に叙せられ、刑部少輔(ぎょうぶのしょうふ)となった。長岡はその後を継いで国造となった。若い頃から刑罰や法律の学問を好み、あわせて文章にも巧みであった。霊亀年間、唐に留学して多くのことを学び明らかにした。当時、法令について論じる者は、皆この長岡に質問して確かめた(注:『続日本紀』による)。養老年間、藤原不比等(ふじわらのふひと)が律令を改めて修めた際(注:『令義解』序文による)、長岡は二十四条を削り定めた。功田四町を賜った。天平勝宝年間、姓を忌寸(いみき)に改め、さらに宿禰を賜った。天平宝字の初め、次第に昇進して正五位上に至り、功田は子に伝えられた。ほどなく民部大輔(みんぶのたいふ)となり、坤宮官(こんぐうかん)の大忠(だいちゅう)を兼ね、左京大夫(さきょうのだいぶ)に補され、河内守(かわちのかみ)に転じた。その政治は苛烈で、役人も民もこれに苦しんだ。従四位下に進んだが、官を辞して自邸に退いた。また右京大夫となった。老齢を理由に辞職した。神護景雲二年の正月の宴において、天皇は特別に殿上に侍ることを許した。長岡は鬢や髪もまだ衰えず、立ち居振る舞いにも誤りがなかった。天皇が「そなたの年齢はいくつか」と尋ねると、長岡は「取るに足らぬこの身も、まさに八十歳になります」と答えた。天皇はこれに深く感嘆し、正四位下に進めた。翌年、卒去した(注:『続日本紀』による)。

矢集蟲麻呂

陽侯真身(やこのまみ)(注:『新撰姓氏録』では陽を楊と書き、侯を胡とも書く。いずれも音が通じる。今は『続日本紀』に従う)は、その先祖は隋の煬帝(ようだい)の後裔である達率(だっそつ)揚侯阿子王(ようこうあしおう)から出ている(注:『新撰姓氏録』による)。真身は、養老年間に律令の削定に加わり、功田四町を賜った。天平の初め、勅命により二人の弟子に漢語を教授し、豊後守(ぶんごのかみ)として地方に出た。当時、河内国と摂津国が河川の堤について争っており、勅命を受けてこれを検察した。但馬守(たじまのかみ)に転じ、従五位下に至った(注:『続日本紀』による)。

鹽屋古麻呂

矢集蟲麻呂(やずめのむしまろ)(注:矢は箭とも書く)は、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の後裔である(注:『新撰姓氏録』による)。養老年間、律令の削定に加わった。ほどなく明法博士(みょうぼうはかせ)となった。削定の功労により、功田五町を賜った。天平年間、外従五位下を授けられ、大判事(だいはんじ)、大学頭を歴任した。天平宝字の初め、功田は子に伝えられた(注:『続日本紀』による)。

山田銀

鹽屋古麻呂(しおやのこまろ)(注:『続日本紀』では古を吉と書き、あるいは上とも書く。今は『類聚国史』『懐風藻』に従う)は、葛城襲津彦命(かつらぎのそつひこのみこと)の後裔である(注:『新撰姓氏録』による)。養老年間、律令の削定に加わった。ほどなく明法博士となった。また削定の功労により、功田五町を賜った。天平宝字の初め、その田は子に伝えられた。天平年間、外従五位下を授けられた。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の事件に連座し、配流された。後に勅により召し還された(注:『続日本紀』による)。大学頭を補佐した(注:『懐風藻』による)。

大倭小東人

山田銀(やまだのしろがね)(注:銀は白巾とも書く)は、養老年間、律令の削定に加わった(注:『令義解』序文による)。外従五位下を授けられ、姓を史(ふひと)から連(むらじ)に改められ、明法博士となり、主計助(かずえのすけ)を兼ね、河内介(かわちのすけ)として地方に出た(注:『続日本紀』による)。銀は律令に精通しており、後に法律を学ぶ者はこれを模範として仰いだ(注:『文徳実録』天安二年による)。

守部大隅

大倭小東人(やまとのおあずまひと)は、養老年間、律令の削定に加わり、功田四町を賜った。天平年間、小東人と大外記の大倭永守(やまとのながもり)らは、姓を忌寸に改め、さらに宿禰を賜った。刑部少輔となった。藤原広嗣の事件に連座し、左遷された(注:この書物には、どの国の守あるいは介に左遷されたかは記されておらず、今はこれ以上考証する材料がない)。ほどなく召し還されて西海道巡察使の次官、摂津亮(せっつのすけ)となった。天平勝宝年間、参河守(みかわのかみ)に転じた。天平宝字の初め、正五位上に至った(注:『続日本紀』による)。

越智廣江

守部大隅(もりべのおおすみ)(注:大隅は大角とも書く。読みは通じる)は、もとの姓を鍛冶造(かぬちのみやつこ)といった。文武天皇の初め、律令の編纂に加わった。元明・元正両天皇の御代を通じて次第に昇進し従五位上に至り、刑部少輔を歴任し、明経第一博士(みょうぎょうだいいちはかせ)となった。養老年間、越智廣江(おちのひろえ)、背奈行文(せなのこうぶん)、調古麻呂(つきのこまろ)、矢集蟲麻呂、鹽屋古麻呂、山田御方、紀清人、下毛野蟲麻呂ら十数人とともに、学問に優れ師範となるにふさわしいとされ、特別に絁・糸・布・鍬を賜った。神亀年間、正五位下に進み、現在の姓を賜った。上表して辞職を願い出たが、丁重な詔によって許されず、絹・絁それぞれ十匹、綿百匹、布四十端を賜った(注:『続日本紀』による)。正五位上・大学博士にまで至った。七十三歳で卒去した(注:『懐風藻』による)。

背奈行文

越智廣江(おちのひろえ)は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔である(注:『新撰姓氏録』による)。養老年間、明経第一博士となった。朝廷から退出した後は東宮に仕えるよう詔があった(注:『続日本紀』による)。従五位下・刑部少輔にまで至り、大学博士を兼ねた(注:『懐風藻』による)。

調古麻呂

背奈行文(せなのこうぶん)は、養老年間、明経第二博士となった。神亀年間、従五位下を授けられた(注:『続日本紀』による)。大学助にまで至った。六十二歳で卒去した(注:『懐風藻』による)。かつて佞人を風刺する歌を作り、世に語り継がれ詠み継がれた(注:『万葉集』による)。

清村晉卿

調古麻呂(つきのこまろ)は、養老年間、明経博士となった(注:『続日本紀』による)。後に皇太子学士となった。正六位上にまで至った(注:『懐風藻』による)。

調古麻呂

清村晉卿(きよむらのしんけい)は、唐の人であり、もとの姓を袁(えん)といった。天平年間、遣唐使に随行して帰化した。二十歳にもならないうちから『文選(もんぜん)』や『爾雅(じが)』の音に通じ、音博士(おんはかせ)となった。神護景雲の初め、天皇が大学の釈奠(せきてん)に行幸した際、晋卿は従五位上を授けられた。大学頭、日向守(ひゅうがのかみ)を歴任した。宝亀の末、玄蕃頭(げんばのかみ)となり、現在の姓を賜った。延暦年間、安房守(あわのかみ)となった(注:『続日本紀』による)。

楢原東人

紀古麻呂(きのこまろ)の父は大人(うし)といい(注:『続日本紀』による)、天智天皇の御代に御史大夫(ぎょしたいふ)となり(注:『日本書紀』による)、従三位を追贈された(注:『続日本紀』による。以上は紀大人についての記事である)。古麻呂は文才があり、雪を望む詩(七言十二句)を作った。五十九歳で卒去した。子に飯麻呂(いいまろ)がいる(注:『続日本紀』『公卿補任』による。『紀氏系図』では古麻呂の弟とする)。

榮井蓑麻呂

紀飯麻呂(きのいいまろ)は、天平年間、藤原広嗣が反乱を起こした際、副将軍としてこれを討伐した。ほどなく右大弁となった。大宰府が廃止された際、飯麻呂は命を受けて官の財物を筑前国司に移した。畿内巡察使となり、常陸守(ひたちのかみ)として地方に出た。天平勝宝年間、大宰大弐(だざいのだいに)、大蔵卿(おおくらきょう)、右京大夫、西海道巡察使を歴任した。天平宝字の初め、左大弁に転じ、参議に任じられ、紫微大弼(しびのたいひつ)を兼ねた。官号の改称にともない義部卿(ぎぶきょう、刑部卿の改称)に遷り、美作守(みまさかのかみ)に任じられた。天平宝字六年、従三位を授けられた。病により辞職を願い出て、ほどなく薨去した(注:『続日本紀』による)。

楢原東人(ならはらのあずまひと)は、右京の人である。九経(きゅうけい、儒教の九つの経典)に広く通じ、名高い儒者として知られた(注:『文徳実録』仁寿二年による)。はじめ正六位上を授けられた。天平年間、次第に昇進して従五位下に至り(注:『続日本紀』による)、駿河守(するがのかみ)となった。かつて管内の廬原郡(いおはらのこおり)多胡浦(たごのうら)で黄金を得てこれを献上した。天皇は喜んで「よく努めた、この臣は」と言った。そこで「勤臣(ごんしん)」の意味を取り、伊蘇志臣(いそしのおみ)の姓を賜った(注:『続日本紀』を主とし、『文徳実録』も参考にした)。天平宝字の初め、正五位下に進んだ(注:『続日本紀』による)。

その孫の家譯(かやく)は、延暦年間、茲野宿禰(このすくね)の姓を改め賜った(注:『文徳実録』による)。弘仁の末、朝臣(あそん)の姓を賜った(注:『三代実録』貞観元年による)。従五位上に叙せられ、尾張守(おわりのかみ)となった(注:『文徳実録』による)。家譯の子である貞主(さだぬし)には別に伝がある。

榮井蓑麻呂(さかいのみのまろ)は、その先祖は高麗の人である(注:『新撰姓氏録』による)。天応元年、正五位下を授けられた。延暦の初め、造法華寺長官(ぞうほっけじちょうかん)、陰陽頭(おんみょうのかみ)となった。蓑麻呂は経書の学に明るく行いも修まり、清廉で慎み深いことは早くから知られていた。齢すでに八十に及び、後進の学者たちから特に推服された。朝廷は厚く賞し、特別に絁・布・米・塩を賜った(注:『続日本紀』による)。