卷之二百十二 列傳第一百卅九

將軍家臣廿二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次10
  1. 大友貞宗
  2. 少貳貞經
  3. 少貳賴尚
  4. 小田治久
  5. 結城親朝
  6. 伊達行胤
  7. 千葉貞胤
  8. 千葉氏胤
  9. 大內義弘
  10. 荻野朝忠

大友貞宗

大友貞宗(おおともさだむね)は豊後(ぶんご)の人で、鎮守府将軍藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である。五代前の祖である能直(よしなお)は、かつて中原親能(なかはらのちかよし)の養子となっていたが、後に本姓に復し、初めて大友を氏とした。(注:『尊卑分脈』による。大友系図では能直を源頼朝の子とするが、ここでは採らない。詳細は頼朝伝を見よ。)能直は左近衛将監となり(注:『大友系図』による)、源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えて寵遇を受け、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)討伐に従軍して功があった。また富士野(ふじの)の狩りに供をした際、曾我祐成(そがのすけなり)が弟の時致(ときむね)とともに父の仇を討ち、陣営が大いに騒然となった。頼朝が自ら出て防ごうとしたところ、能直がこれを諫めて押しとどめ、頼朝はその忠誠を称えた。(注:『東鑑(吾妻鏡)』による。)ほどなく豊前・豊後の守護に任じられ、鎮西奉行となり、さらに豊前守を兼ね検非違使も兼ねた。子孫は代々守護・奉行の職を継ぎ、西国に勢威を振るった。父の親時(ちかとき)は左近衛将監・式部大輔であった。長子の貞親(さだちか)は蒙古襲来を防いで功をあげたが早世した。貞宗は兄の跡を継ぎ、左近衛将監・左衛門尉となり、近江守を兼ね、守護職を継承し、剃髪して具簡(ぐかん)と号した。(注:『尊卑分脈』『大友系図』を参照併用。)

元弘年間、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が船上山(せんじょうざん)におられたとき、貞宗は菊池武時(きくちたけとき)・少弐貞経(しょうにさだつね)とひそかに帝に忠誠を通じていた。やがて武時が筑紫(つくし)探題北条英時(ほうじょうひでとき)を討とうと図り、使者を遣わして貞宗に知らせてきた。ところが貞宗は形勢をうかがうばかりで、出兵しようとしなかった。武時が英時を攻めると、貞宗はかえって英時を助け、武時を討ち取った。その後、官軍が六波羅(ろくはら)を攻め落とすに及んで貞宗は罪に問われそうになり、そこで貞経と謀を通じて共に英時を攻め、これを殺した。

延元元年、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京へ攻め上ったとき、貞宗に援軍を求めた。貞宗は大内弘世(おおうちひろよ)・厚東宗西(こうとうそうせい)とともに、兵船三百隻を率いてこれに応じた。ところが尊氏の軍は敗れ、湊川(みなとがわ)に退いて陣を敷いた。貞宗は足利直義(あしかがただよし)に従って引き返し官軍を防いだが、うまくいかなかった。貞宗は味方の軍が連敗するのを見て、もはやこのまま戦い続けるべきではないと考え、尊氏に進言した。「少弐貞経は筑紫におり、深く将軍にお心を寄せております。我らの船は数多くございますので、どうか急ぎ筑紫へお下りください。九州の兵を起こして攻め上れば、再びの勝利も期すことができましょう」。尊氏はこれに従い、筑紫へ向かった。菊池武俊(きくちたけとし)が多々良浜(たたらはま)で迎え撃ったが、貞宗は再び直義に従ってこれを打ち破った。(注:『太平記』による。)尊氏が再び京へ向かった際にも、貞宗はまた直義に従って福山城(ふくやまじょう)を攻め落とした。(注:『梅松論』による。『太平記』には、本間資氏(ほんましけうじ)が射た矢で的が大友の船に落ちたとあり、これによれば貞宗は尊氏軍に属していたことになり、本書の記述とは異なる。)さらに進んで湊川で戦った。直義は楠木正成(くすのきまさしげ)に追い詰められたが(注:『太平記』による)、貞宗は諸将とともに力戦し、ついにこれに勝った。(注:『太平記』北条家本・南都本・西源院本による。)ほどなく諸将とともに東寺(とうじ)で新田義貞(にったよしさだ)を防ぎ、これを退けた。(注:『太平記』による。)

子に貞載(さだとし)・氏泰(うじやす)がいる。(注:『大友系図』による。)貞載は左近衛将監となり(注:『大友系図』『太平記』による)、立花(たちばな)と号した。(注:『大友系図』による。)新田義貞に従って鎌倉(かまくら)で足利尊氏を討とうとしたが(注:『太平記』による)、ひそかに尊氏に内応した。(注:『梅松論』による。)竹下(たけした)の戦いで尊氏に降り、逆に官軍を攻め破った。翌年、尊氏に従って京へ入った際、結城親光(ゆうきちかみつ)が偽って降伏を申し出た。尊氏は貞載に命じてこれを受け入れさせたところ、貞載は親光に斬られて死んだ。(注:『太平記』による。『梅松論』には、人々が親光を殺した後、貞載は傷を包んで親光の首を持ち尊氏のもとへ参上し、尊氏はこれを賞賛したが、翌日傷がひどくなって死んだとある。いずれが正しいかは分からない。)貞載には子がなく、弟の宗匡(むねまさ)を跡継ぎとした。(注:『大友系図』による。)

氏泰は脇屋義助(わきやよしすけ)に従って山崎(やまざき)で足利尊氏を防いだが、諸軍が敗れたため、ついに尊氏に降った。(注:『太平記』による。ある本の『大友系図』には氏泰は正慶二年に死んだとあるが、これは誤りである。)尊氏は氏泰に源姓を授け、大炊助・式部丞を歴任させた。(注:『大友系図』による。)足利直冬(あしかがただふゆ)が肥後(ひご)へ逃れた際(注:『太平記』による)、大友一族は諸将とともにこれに従ったが、後に再び尊氏に降った。(注:『園太暦』『祇園執行日記抄』による。本書ではいずれも大友とのみ記し、氏泰の名は載せていない。今は考証のしようがない。)氏泰には子がなく、弟の氏時(うじとき)を跡継ぎとした。氏時は刑部大輔となった。正平年間に朝廷に帰順したが、ほどなくまた足利義詮(あしかがよしあきら)に降った。(注:『大友系図』『太平記』による。)

少貳貞經

少弐貞経(しょうにさだつね)は筑前(ちくぜん)の人である。五代前の祖である頼平(よりひら)は、大友能直の祖父景頼(かげより)の養子となり、武者所に補せられ、武藤(むとう)と称した。(注:『尊卑分脈』による。『少弐系図』には、頼平の父頼家(よりいえ)は太宰を務めたとある。)高祖である資頼(すけより)は弓馬に優れ、源頼朝に寵愛され、藤原泰衡討伐に従軍して功をあげた。(注:『少弐系図』による。)筑前守に任じられ(注:系図には筑後とある)、鎮西守護となり、太宰少弐に任じられた。子孫は代々この職を世襲し、太宰府に居住して少弐を氏の名とし、岩門郷(いわとごう)を領した。(注:『尊卑分脈』『少弐系図』による。)祖父の経資(つねすけ)は延元の初め、菊池武敏(きくちたけとし)と筑後(ちくご)の豊福(とよふく)で戦って功をあげた。(注:『小代文書』による。)父の盛経(もりつね)は筑後守となり、鎌倉で没した。貞経は祖先の職を継ぎ、剃髪して妙恵(みょうえ)と称した。(注:『少弐系図』『少弐家譜』による。)

元弘年間、後醍醐天皇が船上山に行幸された折、貞経は大友貞宗・菊池武時と示し合わせ、北条氏討伐の綸旨を賜るよう奏請した。天皇はこれを聞き入れ、錦の御旗を賜った。武時が筑紫を攻めようとしたとき、探題北条英時は使者を遣わしてこれを貞経に告げさせた。貞経は京での戦いで官軍が不利であると聞くと、たちまちその使者を斬り、貞宗とともに英時を助けて、ついに武時を殺した。官軍が京を奪回するに及んで貞経は大いに恐れ、使者を遣わして貞宗と約を結び、ともに英時を攻め殺して罪を償おうとした。(注:『太平記』による。)

尊氏が謀反を起こした際、たまたま貞経の二人の子が鎌倉に伺候していた。尊氏はそこで貞経に書状を送ってこれを誘った。やがて尊氏は京へ攻め上ったものの大敗し、弟の直義とともに西へ逃れ、太宰府(だざいふ)をめざした。貞経は馬や武具を多く用意して二人の到着を待ち、子の頼尚(よりひさ)らを遣わして、精鋭数百を率いて出迎えさせ、あわせて錦の直垂をこしらえて尊氏兄弟に献上した。菊池武敏はこれを迎え撃って頼尚を破り、太宰府まで攻め進んだ。貞経は兵が少なく支えきれず、武敏は火を放って貞経が用意していた武具をことごとく焼き払った。貞経は内山(うちやま)の仏寺に立てこもったが、女婿の原田某(はらだぼう)が貞経に迫り(注:「女婿」は西源院本『太平記』による)、ともに出て降伏しようとした。貞経はこれを聞き入れず、士卒に向かって言った。「私は将軍(尊氏)の格別な信頼を受けている。今その将軍がこの国境に迫ったと聞き、頼尚を遣わして出迎えさせたのに、これほどまでに挫け敗れてしまっては、どの面目あって将軍にまみえられようか」。そして百余人の部下とともに切腹して果てた。末の子で僧であった宗応(そうおう)は戸を壊して薪とし、父の遺体を火で焼き、自らもその火の中に身を投じて死んだ。(注:『太平記』『梅松論』を参照併用。)

貞経は臨終に際し、寺の僧に頼尚らを戒めるよう託して言った。「お前たちは私のために読経や追善供養をする必要はない。ただひたすら将軍を助けて覇業を成し遂げさせよ。それこそが何よりの仏事である。昔、三浦義明(みうらよしあき)は源氏の興隆を見抜き、衣笠(きぬがさ)で命を捨てたが、その褒賞は子孫にまで及んだ。私もまた義明のようでありたいと思う。お前たちは決して私のこの言葉を忘れてはならぬ」。尊氏はその死を聞いて深く悼み惜しみ、その悲しみは周囲にも及んだので、頼尚はこれによって一段と厚遇されるようになったという。(注:『梅松論』による。)子に頼尚がいる。

少貳賴尚

少弐頼尚(しょうによりひさ)は職を継いで太宰少弐となり、筑後守となって従五位上に叙せられた。(注:『武藤系図』『太平記』を参照併用。)貞経が挙兵した際、北条英時は長岡惟幸(ながおかこれゆき)を遣わして情勢を探らせたが(注:「惟幸」の名は金勝院本による)、貞経は病と称して会わなかった。惟幸はさらに頼尚のもとを訪ねると、ちょうど士卒たちが盾を作り鏃を研いでいるのを目にし、「これはまさに謀反の企てがある」と判断した。頼尚が席に着こうとする隙をうかがい、佩刀を抜いて前から刺しかかった。頼尚は元来素手の技に秀でていたため、碁盤を取り上げてこれを防ぎ、惟幸と揉み合ううちに周囲の者たちが駆け集まり、入り乱れて惟幸を刺し殺した。頼尚はこうして父とともに英時を討ち殺した。

その後、兵を率いて足利尊氏の軍を出迎えようとし、水木の渡し(みずきのわたし)を過ぎようとしたところ、菊池武敏が急に襲いかかり、後続の騎馬をことごとく討ち取ってしまった。頼尚は川に阻まれて引き返し救援することができなかった。(注:『太平記』による。)頼尚は赤間関(あかまがせき)で尊氏の軍に追いつき、蘆屋津(あしやのつ)まで従った。軍中ではすでに貞経の死が伝わっており、尊氏がこれを尋ねたところ、頼尚は軍の士気が挫けることを恐れ、「そうではないかもしれません」と偽って答えた。そして先導して宗像(むなかた)大宮司政弼(まさすけ)の家まで案内した(注:「政弼」の名は金勝院本『太平記』による)。

頼尚は蓑尾浜(みのおはま)に陣を進め、尊氏は武敏の大軍が博多(はかた)に屯していると聞き、夜、頼尚を召して計略を相談した。頼尚は言った。「太宰府での戦いで貞経がたやすく敗れたのは、私が不在で守兵が少なかったためです。とはいえ貞経は本国の地形をよく知っておりますから、おそらくすでに間道を抜けて脱出しているはずです。将軍が明日兵を進められれば、管内の諸郡の兵はこぞって先を争って味方につくでしょう。武敏は孤軍で恐れるに足りません。私一人の力で十分にこれを制することができます」。これを聞いた者たちはやや勇気づけられ、多々良浜まで軍を進めた。頼尚は武敏の兵の勢いが盛んなのを見て、尊氏・直義に進言した。「敵兵は多いといっても、今にも降伏してこようとしており、我が軍に本当に抵抗しようとする者はその麾下三百ほどに過ぎません。私が死力を尽くしてこれを蹴散らせば、敵は風前の塵にすぎなくなりましょう」。戦いが始まると降伏する者が続出し、武敏はついに敗走した。尊氏が筑紫を手中にできたのは、この戦いによるものであった。

尊氏・直義が太宰府に至って初めて貞経の死を知り、深く哀しんだ。直義は喪に服し、軍士の騒がしい振る舞いを禁じて、幾日も陣幕から出ようとしなかった。頼尚は酒肉を携えて赴き、礼を述べて言った。「義に殉じ節を守ることは、臣下として当然のことでございます。あなた様がここまでお心を寄せてくださること、まことに光栄の至りです。しかしながら軍機は緩めるべきではございません。どうか急ぎ外に出て将兵をご覧ください」。そして自ら立って酒を勧めた。直義はこれに応じて無理に酒を飲み、喪に服すことをやめた。

尊氏が東征しようとし、備後(びんご)に至って進撃の策を議した。ある者が「将軍ご兄弟は同じ船で進むのがよろしいでしょう」と言うと、頼尚は言った。「この一挙は天下の成否がかかっております。聞くところによれば敵は中国地方の諸城を多く攻めているとのことですから、まずこれを撃ち破れば、おおむね成功が見込めましょう。もし両将が同じ船で進めば、いったい誰が陸路の兵を統率するのでしょうか。将軍は海路より、直義殿は陸路よりお進みください。私、頼尚が陸軍の先鋒を務め、血戦して敵を退けることで、亡き父の供養といたしましょう」。尊氏はその言葉を壮とし、これに従った。(注:天正本『太平記』では、この頼尚の献策を平秀光(たいらのひでみつ)の言としている。)頼尚はこうして二千の兵を率いて直義に従い進軍した。湊川の戦いで大功をあげ、ついに京へ入り、九州の兵を率いて延暦寺(えんりゃくじ)を攻めたが、敗れて引き返した。(注:『梅松論』による。)

やがて新田義貞が東寺で尊氏を討とうとした際、頼尚は大友貞宗・厚東某(こうとうぼう)らとともにこれを防ぎ破り、名和長年(なわながとし)はこの戦いで戦死した。(注:『太平記』『梅松論』による。大友貞宗・厚東某の名は『太平記』による。)ほどなく直義の先鋒となり、阿弥陀峰(あみだがみね)で官軍を攻め破り、その後筑前へ帰った。尊氏は頼尚に領地数か所を与え、あわせて餞別として錦の直垂を贈った。直義もまた愛馬を贈り、これまでの功をねぎらった。(注:『梅松論』による。)

正平年間、頼尚は菊池武光(きくちたけみつ)に攻められ、形勢窮まってこれに降った。一色直氏(いっしきただうじ)が古浦城(こうらじょう)で頼尚を攻め、頼尚は大敗したが、武光の援助によって難を逃れ、血書をもって謝意を示した。武光が畠山重隆(はたけやましげたか)を討とうとした際(注:「重隆」の名は金勝院本による)、頼尚に出兵して援助するよう命じた。ところが頼尚はたちまち背き、阿蘇大宮司宇治惟時(あそだいぐうじうじこれとき)と謀を通じて(注:「惟時」の名は阿蘇社文書による)、太宰府で挙兵した。

翌年、武光は征西将軍懐良親王(かねよししんのう)を奉じて攻めてきた。頼尚は筑後川(ちくごがわ)を隔てて陣を敷き、武光は川を渡って進んだ。頼尚は大原(おおはら)に退いて陣を敷いたが、夜、武光に襲われて大敗した。翌日、数十度にわたって苦戦し、また敗れ、死者はおよそ三千余人にのぼり、ついに宝満岳(ほうまんだけ)に退いて立てこもった。ほどなく大友氏時とともに香椎(かしい)で武光を迎え撃ったが、また敗れた。足利義詮は斯波氏経(しばうじつね)を筑紫探題として援軍に遣わし、頼尚・氏時は氏経の子松王(まつおう)とともに長者原(ちょうじゃばる)で戦ったが、また敗れた。頼尚は退いて岡城(おかじょう)に拠り、武光と長く対峙した末に世を去った。(注:『太平記』による。)

三人の子がおり、直資(なおすけ)(注:『太平記』では直を忠に作る)・冬資(ふゆすけ)・頼澄(よりずみ)である。(注:『尊卑分脈』による。)直資は少弐の職を継いだが、二人の子とともに大原で戦死した。(注:『太平記』『尊卑分脈』を参照併用。)冬資は少弐に任じられ、建徳年間、足利義満(あしかがよしみつ)が今川貞世(いまがわさだよ)を鎮西に遣わした際、たまたま冬資は京にいたため、これに従って西へ下った。天授元年、肥後で軍を率いていたが、貞世に殺された。(注:『花営三代記』による。)頼澄は越後(えちご)守となった。冬資の死後、朝廷に帰順して少弐に任じられ、探題となった。(注:『尊卑分脈』『武藤系図』『阿蘇社文書』を参照併用。)

小田治久

小田治久(おだはるひさ)は、初め高知(たかとも)と名乗り、八田知家(はったともいえ)の七代の孫にあたる。父の貞知(さだとも)は常陸(ひたち)介で、代々常陸国小田の地を領し、名家として知られた。(注:『尊卑分脈』『小田系図』による。貞知は貞宗に作る本もある。)治久は尾張(おわり)権守となった。(注:『尊卑分脈』『結城文書』による。)元弘元年、関東の軍に従って笠置(かさぎ)に出陣し、転じて楠木正成の城を攻めた。(注:『光明寺蔵書残編』による。)後醍醐天皇が隠岐(おき)へ遷られる際、治久は佐々木高氏(ささきたかうじ)らとともにこれを護送した。(注:天正本『太平記』による。)

北条氏が滅びると治久は朝廷に帰順し、ほどなく宮内権少輔に任じられた。(注:『尊卑分脈』『結城文書』『烟田文書』による。)足利尊氏が謀反を起こした際、本国の将士の多くがこれに味方した。(注:『太平記』による。)治久は小田城(おだじょう)に拠って尊氏方と対抗した。延元二年、鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が西へ上る途中、下野(しもつけ)を経由し、別に侍従源顕国(みなもとのあきくに)を常陸から進ませたので、治久は出てこれに従った。佐竹義春(さたけよしはる)が兵を出して行く手を遮ったが、治久はこれを撃退し(注:『烟田文書』による)、途中で顕家と合流した。(注:『今川記』による。)

翌年、顕家は戦死し(注:『元弘日記裏書』『太平記』による)、治久は自らの城に戻り、兵を分けて志築城(しづくじょう)を守らせた。当時、前常陸大掾平高幹(たいらのたかもと)は尊氏方に応じて石岡城(いしおかじょう)にいたため、治久は兵を遣わしてこれを攻めた。(注:『常陸税所文書』による。)この年、准大臣源親房(みなもとのちかふさ)が漂着して常陸に至り、治久はこれを城に迎え入れ、何年にもわたって供応した。(注:『結城文書』による。)朝廷は特に治久に左近衛権少将を授け(注:『小田系図』による。本書では少将を中将に作るが、『太平記』『今川記』によりこれを正した)、あわせて常陸介を兼ねさせ(注:『小田系図』『結城文書』による)、本国の守護とした。(注:『結城文書』による。)

尊氏は関東の将士の多くが勤王であることを憂い、高師冬(こうのもろふゆ)を遣わして小田城を包囲させた。(注:『保暦間記』『結城文書』『常陸税所文書』による。)師冬はさらに平高幹を遣わして志築城を攻めさせたが、数か月かかっても攻め落とせなかった。(注:『常陸税所文書』による。)師冬はひそかに説客を遣わして治久を利で誘わせた。治久はちょうど戦いに倦んでおり、その誘いを聞くとひそかに二心を抱くようになった。親房はこれを察知し、急使を飛ばして結城親朝(ゆうきちかとも)に援軍を求めた。親朝は形勢をうかがうばかりで救援に来ず、治久はすでに心を決め、敵を城内に引き入れた。親房は関城(せきじょう)へ逃れて立てこもった。治久はこうして師冬に降ったが、師冬は以前の約束を反故にし、治久から守護職を奪い、その所領を削り、延元以後に任じられた官職をすべて停止して、もとのまま宮内権少輔と称させた。治久は大いに落胆し、再び朝廷に帰順する気持ちを持ったが、果たせなかった。(注:『結城文書』による。)

正平七年、尊氏の軍に従い、新田義宗(にったよしむね)と笛吹坂(ふえふきざか)で戦い、これを破った。(注:『太平記』による。)この年、治久は世を去った。(注:『小田系図』による。)治久はひととおり歴史書に通じ、文才があった。(注:『空華集』による。)治久の家に代々伝わる話では、始祖の知家は源義朝の庶子であり、藤原宗綱(ふじわらのむねつな)の養子となったため(注:『尊卑分脈』による)、藤原氏を名乗っていたという。この代になって尊氏に願い出て源氏に改めた。(注:『小田系図』による。)

子の孝朝(たかとも)は讃岐(さぬき)守となった。(注:『小田系図』『作者部類』による。)後に剃髪して恵尊(えそん)と称した。(注:『小田系図』『鎌倉大草子』による。)弘和年間、足利氏満(あしかがうじみつ)が自ら兵を率いて小山義政(おやまよしまさ)を攻めた際、孝朝は先鋒を務めて功をあげた。元中年間、義政の子若犬丸(わかいぬまる)が挙兵し、氏満はこれを撃ち破った。若犬丸は逃げて姿を隠したが、野田某(のだぼう)らがその一味の一人を捕え、鎌倉へ連行した。役人が取り調べると、囚人は「小田孝朝父子がひそかに若犬丸に味方し、それゆえに自分の家にかくまっていた」と述べた。氏満は孝朝を捕えようとしたが、孝朝は二人の子と信太某(しだぼう)らを率いて男体山(なんたいさん)に立てこもった。氏満は上杉朝宗(うえすぎともむね)にこれを攻めさせたが、城は山頂にあってきわめて険しく、孝朝は力の限り防ぎ守り、鎌倉方の兵は多くの死傷者を出し、一年余りかかっても攻め落とせなかった。

氏満は使者を遣わして孝朝を諭させて言った。「お前がすぐに出てきて降伏するならば、その罪を許し、所領も元のままとしよう。私は決して約束を違えぬ」。孝朝はついに出て降伏した。しかし子の五郎は降伏を承知せず(注:「五郎」の名は喜連川系図による)、残った兵を率いて男体山に立てこもった。鎌倉方の兵は明け方の霧に乗じて急襲し、城兵は浮き足立った。五郎は城に火を放ち、百余人の兵とともに自害して果てた。孝朝は先に降伏していたため、罪を免れることができた。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』を参照併用。)応永十年、孝朝は世を去った。孝朝は書と和歌に優れていた。子の治朝(はるとも)は父に先立って死に、孫の持家(もちいえ)が家を継いだ。(注:『小田系図』による。)

結城親朝

結城親朝(ゆうきちかとも)は七郎と称し、上野介宗広(こうずけのすけむねひろ)の長子である。(注:『結城家譜』『結城文書』を参照併用。)三河(みかわ)守となった。元弘三年、後醍醐天皇が隠岐におられたとき、遠く宗広および親朝に北条高時(ほうじょうたかとき)討伐を命じる勅を下した。宗広は鎌倉にあって護良親王(もりよししんのう)の令旨に応じ、諸将とともに鎌倉を攻めてこれを陥落させた。このとき親朝は陸奥白河(しらかわ)の邑にとどまって留守を守り、奥羽の兵を集めて不測の事態に備えた。乱が平定されると、その功により糠部郡九戸(ぬかのぶぐんくのへ)の邑を賜った。(注:『結城文書』による。)

鎮守府大将軍源顕家が任地に到着すると、親朝は評定衆となり、引付頭人を兼ねて国政に参与した。(注:『建武二年記』による。)建武二年、白河・高野(たかの)・岩瀬(いわせ)・安積(あさか)の四郡および近隣諸邑の検断を務め、ほどなく大蔵権少輔に任じられた。延元二年、下野の守護となり、これまでの功に報いて高野郡の地を賜った。陸奥五百河(いおがわ)に拠った賊兵があり、源顕家が兵を発してこれを討った際、親朝に援軍を命じ、間もなく大蔵権大輔となり、従四位下に叙せられた。(注:『結城文書』による。)

翌年、顕家が再び鎌倉から西へ上るにあたり、宗広はこれに従い、親朝を本国に残して守らせた。ところが顕家は敗死し、宗広もまた伊勢で病死したため、親朝は心中に危惧を抱くようになった。(注:『太平記』による。)准大臣源親房が漂着して常陸に至ると、親朝と謀を通じてともに敵を討つこととなった。興国四年、敵を長福砦(ちょうふくとりで)で撃ち、これを破った。(注:『結城文書』による。)興国元年、鎮守府大将軍源顕信(みなもとのあきのぶ)が陸奥に至り、親朝の城に入った。(注:『元弘日記裏書』による。)さらに進んで国府に入ろうとしたが、石塔義房(いしどうよしふさ)に遮られて進めなかった。途中、義房と対峙する中で親朝は兵を遣わしてこれを救援した。天皇はその功を称え、修理権大夫を授けた。(注:『結城文書』による。)

翌年、子の顕朝(あきとも)とともに顕信に従い、義房を攻めてその城を落とした。(注:『結城文書』『阿蘇社文書』を参照併用。)興国四年、源親房は関城にあった。天皇の意を奉じて親朝は上総(かずさ)の守護とされた。(注:『結城文書』による。)そもそも宗広が死に際し、必ず賊を誅するよう親朝に遺言していたため、親朝は当初は力を尽くして敵に当たっていた。ところがやがて官軍がたびたび将帥を失い、味方する者が次々と離反していったので、親朝もまた形勢が支えがたいと判断し、しだいに異心を抱くようになった。(注:『太平記』『結城文書』による。)

親房が小田城に拠って敵に包囲された際、親朝に援助を求めたが、親朝はいったんこれを承諾しながら、結局果たさなかった。親房は関城へ逃れて立てこもり、たびたび書状を送って援助を求め、切々と訴えたが、親朝はついに応じなかった。この年、ついに朝廷に背いて足利方に降った。こうして親房は城を捨てて西へ逃れ、関東の諸城は相次いで陥落した。(注:『結城家譜』による。)

正平の初め、足利尊氏は吉良貞家(きらさだいえ)を陸奥に鎮めるべく遣わし(注:『尊卑分脈』による)、これにより兵を発して源顕信を攻めた。このとき親朝は病に伏していたため、子の顕朝を遣わして貞家に従わせ、霊山(りょうぜん)・宇津峰(うつみね)などの地で顕信を攻めさせた。顕信は敗走し、そこで軍勢は後を追って出羽(でわ)に至り、立谷沢城(たてやざわじょう)を攻めて相応の功をあげた。ほどなく親朝は世を去った。三人の子があり、長男の顕朝は弾正少弼、次男の朝常(ともつね)は三河守、三男の朝胤(ともたね)は左兵衛尉であった。初めはみな朝廷方に力を尽くしていたが、後に親朝とともに離反した。源顕信が再び兵を発して陸奥に入った際、顕朝・朝常らはひそかにこれに呼応し、義兵を挙げようと図ったが果たせず、かえって吉良貞家に従って顕信を攻め、これを敗走させた。(注:『結城文書』による。)

伊達行胤

伊達行朝(だてゆきとも)は陸奥の人で(注:『伊達系図』『結城文書』による)、常陸介藤原時長(ふじわらのときなが)の後裔である。時長は源頼朝に仕え、常陸伊佐(いさ)の地を領していたが、大進局(だいしんのつぼね)という娘があり、頼朝の寵愛を受けて男子一人を産んだため、時長はこれによって頼朝に親しく近侍するようになった。剃髪して念西(ねんさい)と称した。文治年間、頼朝に従って陸奥に藤原泰衡を討ち、軍は熱借山(あつかりやま)に陣を進めた。時長は子の為宗(ためむね)らとともに先陣を切り、伊達郡(だてぐん)の敵の砦を破った。為宗は信夫荘司佐藤元逍(さとうもとゆき)を捕らえ、陸奥は平定された。頼朝は伊達郡を時長に与え、これにより伊達を氏とした。為宗は常陸冠者と号し、皇后宮権大進となった。(注:『東鑑』による。)子孫は代々陸奥に居住した。(注:『伊達系図』による。)

行朝は蔵人となり、左近衛将監に任じられ(注:『建武二年記』による)、後に宮内大輔となった。(注:『伊達系図』『結城文書』による。)結城親朝らとともに評定衆に列し、引付職を兼ねて奥羽の訴訟を聴くことに参与した。(注:『建武二年記』による。)建武二年、北条時行(ほうじょうときゆき)が謀反を起こし、陸奥の長倉(ながくら)で賊が挙兵した際、行朝はこれを撃ち破った。(注:『結城文書』『元弘日記裏書』を参照併用。)ほどなく源顕家に従って西へ上り、園城寺(おんじょうじ)で戦った。(注:『太平記』による。)延元二年、顕家は行朝らに五百河の賊を討たせ、田村荘司(たむらのしょうじ)の兵と合わせてこれを平らげた。(注:『結城文書』による。)

再び顕家に従って西上した。このとき芳賀禅可(はがぜんか)が宇都宮城(うつのみやじょう)に拠って謀反を起こしており、顕家は行朝らを遣わしてこれを攻めさせ、三日間包囲攻撃した末についに降伏させた。(注:『太平記』による。)後に顕家が戦死すると、行朝はまた源親房に従って常陸に至った。親房は小田城に拠り、行朝は伊佐城に拠った。高師冬が攻め寄せると、親房は関城に逃れて立てこもり、師冬はこれを幾年にもわたって包囲し続け、ついに兵糧が尽きて城は陥落した。敵は全軍をもって伊佐城を包囲し、行朝は兵を励まして防ぎ守った。(注:『結城文書』『別府文書』『関城書』を参照併用。)やがて陸奥にいた一族の者たちが、結城親朝とともに敵に降った。(注:『結城文書』による。)行朝は孤立した城では支えきれないと判断し、ついに師冬に降った。(注:『常陸税所文書』による。)正平三年、世を去った。(注:『伊達系図』による。)

行朝は和歌を好み、その詠んだ歌の多くが勅撰の諸集に収められている。(注:『続千載和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『風雅和歌集』による。『作者部類』には、二階堂行朝(にかいどうゆきとも)と伊達行朝は同時代の人で、姓も同じくし、ともに和歌に優れて勅撰の諸集に収められているため、撰者が同姓同名で区別がつかなかったので、伊達行朝の名を朝村(ともむら)と改めて集に収めた、とある。)

子に宗遠(むねとお)がおり、弾正少弼となった。(注:『相馬文書』によれば、正平七年に源顕信が兵を起こして陸奥に入り国府を襲った際、伊達飛騨前司・田村荘司らがみなこれに属したという。飛騨前司はおそらく宗遠のことであろう。)宗遠の子政宗(まさむね)は(注:『伊達系図』による)大膳大夫となり、剃髪して円孝(えんこう)と称した。(注:『伊達系図』『結城文書』による。『鎌倉大草子』では孝を教に作る。)応永七年、鎌倉にあって足利満兼(あしかがみつかね)に恨みを抱き、蘆名満盛(あしなみつもり)とひそかに謀反を企て、陸奥へ逃げ帰り(注:『結城文書』による)、赤館(あかだて)に拠って挙兵した。(注:『鎌倉大草子』による。)鎮将の足利満貞(あしかがみつさだ)は陸奥の将士に命じてこれを撃退させようとしたが、勝つことができなかった。応永九年、足利満兼は上杉氏憲(うえすぎうじのり)を遣わして兵を率いてこれを攻めさせたが、政宗はこれを撃退した。満兼はさらに大軍を送って包囲攻撃し、政宗は力尽きて降伏した。(注:『鎌倉大草子』による。)

千葉貞胤

千葉貞胤(ちばさだたね)は下総介胤綱(たねつな)の玄孫である。家督を継いで千葉介と称し(注:『千葉系図』による)、修理大夫となった。(注:『作者部類』による。)元弘元年、大仏貞直(おさらぎさだなお)に従って楠木正成の赤坂城(あかさかじょう)を攻めた。(注:『光明寺蔵書残篇』による。)元弘二年、北条高時は貞胤らを遣わして帝の車駕を隠岐まで護送させた。(注:『太平記』による。)

翌年、新田義貞が挙兵すると、貞胤はこれに従い、高時方の将金沢貞将(かねさわさだゆき)を鶴見(つるみ)で攻めてこれを破った。(注:『梅松論』による。)建武年間、足利尊氏討伐に従軍し、たびたび戦功をあげた。天皇が延暦寺に行幸された際、貞胤は兵を率いて護衛にあたり、源顕家が陸奥から勤王のために上ってくると、貞胤は兵を率いてこれに従った。(注:『太平記』による。)

義貞が園城寺を攻めた際、貞胤は伯父の宗胤(むねたね)とともに先陣を切り、門を奪って進んだ。宗胤は力戦の末、陣中で戦死した。(注:『太平記』『千葉系図』による。)ほどなく皇太子に従って北国へ赴いたが、雪に阻まれて道に迷い、たまたま足利高経(あしかがたかつね)の軍と出会った。貞胤の兵はみな飢えと寒さに苦しみ、もはや戦うことができず、自害しようとする者もあった。高経は使者を遣わして降伏を勧め、貞胤はついに部下五百騎とともにこれに降った。正平の初め、高師直(こうのもろなお)に従い、楠木正行(くすのきまさつら)と四条畷(しじょうなわて)で戦った。(注:『太平記』による。)正平六年、京で世を去った(注:『常楽記』『千葉系図』による)。享年六十一。子に氏胤(うじたね)がいる。(注:『千葉系図』による。)

千葉氏胤

千葉氏胤(ちばうじたね)は家督を継いで千葉介と称し(注:『千葉系図』による)、従五位下に叙せられ、和歌を能くした。(注:『作者部類』による。)正平六年、足利直義が男山(おとこやま)に拠った際、氏胤はこれに属した。(注:『園太暦』による。)その後、また尊氏に従い、直義と薩埵山(さったやま)で戦い、上杉憲顕(うえすぎのりあき)らを追撃して早河尻(はやかわじり)で戦ったが、敗れた。翌年、また尊氏に従い、新田義宗と笛吹坂で戦い、これを破った。(注:『太平記』による。)正平十八年、美濃(みの)で病死した。(注:『千葉系図』による。)

大內義弘

大内義弘(おおうちよしひろ)は孫大郎と称し、周防(すおう)の人で、姓は多々良氏(たたらうじ)である。その祖先の正恒(まさつね)が大内を氏とし、十代前の祖である盛房(もりふさ)から代々周防権介を務めた。父の弘世は従五位上を授けられた。(注:『大内家譜』による。)元弘・建武の間、乱に乗じて周防・長門(ながと)の地を攻め取り、これをもって勤王の軍の助けとした。正平十九年、朝廷に背いて足利義詮に降り、これにより二か国の守護に任じられた。(注:『太平記』による。)後に石見(いわみ)の守護も加えて授けられた。(注:『大内家譜』による。)

長門の前守護であった厚東駿河守(こうとうするがのかみ)は所領を失ったことを恨み、菊池武光とともに弘世を攻めた。弘世はこれを聞くと豊後で武光を襲撃したが大敗し、偽って降伏することで難を逃れて帰った。しかしその実情を人には語らず、多くの金銀財宝を携えて京へ上り、義詮の側近に賄賂を贈って、大いに評判を得た。

義弘は勇猛で並ぶ者がなく、和歌を好んだ。(注:『文禄清談』による。)十六歳のとき、今川貞世とともに筑紫を攻略し、前後二十余度の戦いを経て、ついに鎮西を平定した。(注:『応永記』による。)左京権大夫となり、従四位上に叙せられ、家督を継いで守護となった。足利義満はさらに豊前の守護も加えて授けた。(注:『大内家譜』による。)

山名氏清(やまなうじきよ)が義満に叛いた際、義弘は氏清の驍将小林某(こばやしぼう)と四条大宮(しじょうおおみや)で戦い、これを斬った。義満はこれを褒め称え、和泉(いずみ)・紀伊(きい)の守護を授けた。その後、山名義理(やまなよしまさ)が紀伊にあり、義満は義弘に命じてこれを攻めさせたところ、義理は戦わずして逃げた。(注:『明徳記』による。)

当時、南朝の官軍は日ごとに衰え、勢力範囲も縮小して、もはや支えることができない状態であった。翌年、義弘は吉野(よしの)の行宮に赴いて講和を協議した。議は成立し、神器は京へ入り、南北朝の皇統は一つに帰した。この事業には義弘の尽力があずかって大きかった。応永四年、義満は義弘に西海へ赴くよう命じ、少弐・菊池らの一族と戦ってこれに勝った。後に剃髪し、有繋(ゆうけい)と号した。(注:喜連川系図による。『大内家譜』では仏実(ぶつじつ)に作る。)

その威勢と富は天下に冠たるものであった。当時、三管領がおおいに権勢を振るい、義弘の功績を妬んでいた。義弘もまた自らの功をたのんで驕り、これに屈しなかった。そのため義弘の行動は、三管領によってことごとに妨げられ、非難された。(注:『文禄清談』による。)

義満が北山(きたやま)に邸宅を営もうとし、諸将に普請を手伝わせ、「士卒に労役をさせよ」と命じた際、義弘は「私の兵は弓矢に用いることはできても、土木の労役に用いることはできません」と言った。義満はこれを咎めはしなかったものの、内心大いに怒った。義弘もまた自らの立場に不安を覚え(注:『臥雲日件録』による)、ひそかに足利満兼と謀を通じ、東西呼応して兵を挙げ、期日を定めて京へ攻め入ろうとした。その狙いはおそらく義満を脅して三管領を排除させることにあった。

応永六年、義弘は堺浦(さかいうら)に至り、使者を遣わして義満に報告した。尊道法親王(そんどうほっしんのう)は義満の意を受けて使者を遣わし義弘を召したが、義弘は行かなかった。義満はさらに僧の中津(ちゅうしん)を遣わしてこれを諭させた。義弘は家臣たちと協議し、どう返答すべきか諮った。子の弘茂(ひろしげ)(注:「弘茂」の名はある本の大内系図による)が進み出て言った。「父上は身に六か国を領し、すでに十分な栄華でございます。今、将軍が使者を遣わして父上をお諭しになるのは、その意まことに厚いものです。ここは考えを改め、命に従うべきでございましょう」。平井備前(ひらいびぜん)もまたこれを諫めた。しかし杉豊後(すぎぶんご)は「大計はすでに立てられております。今さら中止できましょうか」と言った。義弘はこれをもっともとし、そこで中津に会って言った。

「私はかつて今川予州(いまがわよしゅう、貞世)を助け、海を渡って敵を滅ぼし、これによって九州は平定されました。氏清の乱では、私がその驍将を斃し、その凶暴な鋒先をくじいたことで、賊党は敗れました。剣璽(けんじ)は朝廷の宝器であり、秦の玉璽などとは比べものになりません。私が和議を唱え、これを京へ還したことで、南北朝は一つになりました。これらはすべて私の功績です。しかるに将軍は先に私に少弐を討てと命じておきながら、陰では彼に私を討たせようとされました。私にいったい何の罪がありましょうか。今また将軍は私の領国である和泉・紀伊を奪おうとされていると聞きます。私にいったい何の罪がありましょうか。その上、私を京へ召そうとされるのは、これはまさに私を誅殺しようというお心にほかなりません」。

中津は言った。「将軍がどうして少弐にあなた様を討たせようとされましょうか。両国を奪うという件にいたっては、ただの巷の噂に過ぎません。いったい何の根拠がございましょう。あなた様の功はまことに高いものです。ここはへりくだって退くことで、その身を保たれるのがよろしいでしょう」。義弘は言った。「あなたはもう何も言わずともよい。すでに鎌倉殿(足利満兼)と約束を交わし、陣中でその罪を問うことになっている。来月二日を待って、将軍にお目にかかることにしよう」。そして衣を払って立ち上がった。

中津が帰って報告すると、義満は細川頼之(ほそかわよりゆき)・畠山満家(はたけやまみついえ)らを遣わしてこれを討たせた。義弘は義満が東寺に出陣したと聞くと、石津(いしづ)に至って北に向かって一礼し、堺浦に戻って多くの櫓を築き、防備を固めた。(注:『応永記』による。)

ある日、住吉社(すみよししゃ)で祈願したところ、巫女がにわかに狂ったように跳びはねて、「義弘の企ては、まるで雪が炉にくべられるようなものだ」と口走った。義弘は笑って言った。「私は少数で多数を打ち破ろうとしている。それはむしろ雪が火を消すようなものだ」。(注:『文禄清談』による。)

ほどなく諸軍が攻め寄せてきた。義弘は出て戦い、殺傷した敵の数は数えきれないほどで、夜半になってようやく引き上げた。やがて諸軍はまた堺浦を包囲し、風上から火を放った。風は強く火の勢いも激しく、城兵の多くが死んだ。義弘はそこで敵陣へ馳せ向かい、縦横に突撃して行く手を阻む者を蹴散らし、満家に決戦を挑もうとした。満家の軍がこれを取り囲み、従っていた兵はことごとく死に、義弘自身も重傷を負って、もはや戦うことができなくなった。それでも大声で叫んで言った。「これぞ並ぶ者なき勇将、大内義弘である。我が首を持ち去り、将軍に示すがよい」。そしてついに満家に討たれた。

弘茂は自害しようとしたが、平井備前がこれを引き止めて降伏させ、こうして兵三百とともに降った。(注:『応永記』による。)その子孫は代々数か国を領し、西国に威勢を振るった。(注:『大内家譜』による。)

荻野朝忠

荻野朝忠(おぎのともただ)は彦六と称し、丹波(たんば)の人である。後醍醐天皇が船上山におられたとき、朝忠は一族の者たちとともに人を集めて勤王の兵を挙げ、左近衛中将源忠顕(みなもとのただあき)に従って六波羅を攻めたが、うまくいかなかった。朝忠は安達祐秀(あだちすけひで)・児島高徳(こじまたかのり)らとともに敗残の兵三千余人を集めて丹波に戻り、高山寺城(こうさんじじょう)に拠った。

ほどなく足利尊氏が篠村(しのむら)で挙兵したが、朝忠はこれに味方することを望まず、別に高徳らとともに若狭(わかさ)を経て京へ入った。尊氏が謀反を起こすと、朝忠は久下長沢(くげながさわ)・波々伯部(ほうかべ)の一族とともに、仁木頼章(にきよりあきら)を大将に推してこれに応じた。しかしほどなく事情あって尊氏を恨むようになった。

興国六年、児島高徳が新田義治(にったよしはる)を奉じて挙兵し、ひそかに使者を遣わして朝忠を誘った。朝忠はこれに従い、再び高山寺城に拠って、日を定めて共に事を起こそうと謀った。尊氏はこれを聞き、山名時氏(やまなときうじ)に命じてこれを攻めさせた。時氏は長期にわたって包囲し兵糧の道を断ったため、朝忠は支えきれず、ついに降伏した。(注:『太平記』による。)丹波の守護となった。(注:『園太暦』による。)尾張守に任じられた。正平三年、高師直に従って四条畷で戦った。(注:諸異本『太平記』による。)正平七年の春、国人が兵を挙げて朝忠を攻め、朝忠は敗走した。(注:『園太暦』による。)その後の消息は分からない。