卷之一百七十七 列傳第一百四
宇都宮公綱、宇都宮泰藤、赤松氏範、石塔義房ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
宇都宮公綱
¶宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は、初め名を高綱といい、彌三郎と称した、下野の人である。(注:『宇都宮系図』『太平記』による。彌三郎と称したことは『太平記』に拠る。)その先祖は関白道兼から出ている。道兼の四世の孫である僧宗円が宇都宮座主となり、その子孫はこれによって氏とした。宗円は宗綱を生み、座主三郎と称し、下野守となった。宗綱は朝綱を生み、彌三郎と称し、左衛門尉となり、宇都宮検校を継いだ。鳥羽・後白河朝のとき、武者所となり、北面に補せられた。(注:『尊卑分脈』『系図』による。)源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆で兵を起こし、平宗盛(たいらのむねもり)らを撃つに及んで、東国はことごとくこれに属した。宗盛は朝綱・畠山重能らの家族もまたことごとくその配下にあったため、拘留して帰さなかった。戦いに敗れて出奔するに及び、朝綱らを殺そうとした。平貞能の言葉によって免れて帰ることができた。(注:貞能については本書および異本『平家物語』による。○『平家物語』では平知盛とする。)頼朝は伊賀壬生野郷の地頭職を授けた。文治年間、朝綱は孫の業綱とともに、頼朝に従って藤原泰衡を陸奥に討ち、功があった。(注:『東鑑』による。)まもなく髪を剃り、尾羽入道と改め称した。(注:『系図』による。)建久年間、下野の公田を掠めたことにより、国司行房(注:姓は欠けている。)に弾劾され、朝廷の議論により朝綱は遠流に処せられ、孫の頼綱・朝業にも及んだので、頼朝は深く嘆いた。(注:『東鑑』による。)朝綱は成綱を生み、左衛門尉となった。成綱は頼綱・業綱・永綱・朝業を生んだ。頼綱もまた彌三郎と称し、子孫はこれによって代々称した。頼綱は下野守・宇都宮検校となり、和歌に優れていた。(注:『系図』による。)元久二年、鎌倉に流言があり、「頼綱が謀反を企てている」というものであった。北条義時(ほうじょうよしとき)は兵を遣わしてこれを撃とうとした。頼綱は恐れて、髪を薙いで鎌倉に赴き、結城朝光のもとに行き、剃り落とした髻を献上し、それによって許された。(注:『東鑑』による。)頼綱は泰綱を生み、掃部介となり、宇都宮検校を継いだ。泰綱は景綱を生み、下野守となった。景綱は貞綱を生み、下野守・宇都宮検校となった。弘安年間、蒙古が西辺に侵攻したとき、北条時宗は貞綱に兵を率いてこれを防がせた。至った頃にはすでに平定されていたので、辺境の備えを修繕して帰った。
¶貞綱は公綱を生んだ。備前権守・兵部少輔を歴任し、治部大輔に任じられ、勇猛さで知られた。元弘二年、北条高時(ほうじょうたかとき)は京都の兵が少ないことから、公綱を遣わして六波羅の守りを助けさせた。折しも楠正成(くすのきまさしげ)が四天王寺に出兵し、京都の奪還を図っていた。北条仲時・北条時益は、隅田通治・高橋宗康に命じて兵五千を率いさせ、渡辺で戦わせたが、大敗した。仲時は公綱に言った。「勝敗は兵家の常である。とはいえ渡辺の敗北は、実に謀が拙く兵が怯えたことによるもので、人々の笑いものとなった。たとえこの者たちを再び出陣させても、どうしてまた事を成せようか。先に仲時が京を鎮めておいて、重ねて足下を煩わせ緊急の事態に備えてもらおうとしていたのだ。今日はまさに国家の成否の分かれ目であり、足下でなければどうにもならない。」公綱は言った。「二将はすでに挫かれてしまった。今また寡兵をもって大軍に臨むのは、うまくいくとは思えない。しかし公綱は命を受けて西上した以上、死力を尽くして効を示そうと思う。事の成否など、いちいち計算していられようか。」そこで立ち上がってまっすぐに出陣したが、騎馬はわずか十余りであった。東寺を過ぎる頃には、追いついてきた手勢の兵が七百となり、馬に乗った者に出会うたびにこれを奪って疾駆した。翌日、四天王寺に至り、付近の民家に火をかけて進軍した。楠正成はその鋭鋒を避け、夜のうちに陣を引き払って去った。公綱は馬を馳せて六波羅に勝利を報じた。仲時は大いに喜んだ。公綱は兵が少なく前進して戦うことが難しく、また敵を見ずに帰るのを恥じたため、そのまま寺内に陣を留めた。まもなく正成は夜に四方の山々に松明を連ね、次第に迫ってきたので、公綱は兵を厳しく整えてこれを待ち構えた。このように幾夜も続いたが、敵はついに来なかったので、兵士たちはやや息をつき、それぞれ退却したい気持ちを抱くようになった。ある者が公綱を諫めて言った。「寡兵をもって大軍に敵対するのは、もとよりよい策ではない。敵が幸いにも我々のために退いてくれたのだから、これを言い訳にするに十分である。どうか全軍を引き上げていただきたい。」公綱はこれに従い、そのまま引き返した。翌年、北条高時は大仏高直を遣わし、兵を率いて楠正成を千剣破に攻めさせたが、長らく効果がなかった。公綱は再び北条仲時の指揮を受け、手勢千余騎を率いて、攻めること十日余り、柵に迫り城に肉薄した。さらに兵士のうち前にいる者には戦わせ、後ろにいる者には山を掘らせ、三日で楼櫓を傾け倒した。残りの軍もこれに倣い、朝晩休みなく掘り崩した。まもなく、官軍が京都を奪還し、北条仲時・北条時益は誅殺された。公綱は大仏高直らとともに、奈良に逃げた。楠正成・左近衛中将源定平は兵を率いて攻めてきた。公綱は般若寺に拠ってこれを防いだ。数日にらみ合ったが、折しも書を賜って招諭されたので、公綱はそこで七百人を率いて降伏した。足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉で乱を起こすに及び、公綱は新田義貞(にったよしさだ)に従ってこれを鷺坂で破った。さらに千葉貞胤とともに脇屋義助に従い、手越河原で戦って功があり、賊は夜のうちに逃げ去った。ちょうど公綱の一族が宇都宮から来て合流し、義貞が箱根で進軍して戦った際にも、公綱はまた功があった。ついで義貞に従い、大渡で尊氏を防いだ。軍は敗れ、大友泰氏とともに尊氏に降った。これより先、公綱は宇都宮に留まっていた部下に出発を促していたが、折しも鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が兵を率いて援軍に入った。公綱の兵五百人はこれに従って西上した。志那浜に至って、公綱が尊氏に属したと聞き、別の道から京都に至った。公綱はこれを合流させ、神楽岡に拠った。官軍が攻めてきてその勢いが鋭く、公綱は援軍を求めたが、間に合わずに撃破され、ついに尊氏とともに西へ逃げた。途中で再び官軍に属し、尊氏を豊島河原で追撃してこれを破った。新田義貞が西征するにあたり、大軍が先発し、公綱は賀古川でこれに追いつき、そのまま従って赤松則村を白旗城に攻め、また脇屋義助および大井田氏経とともに船坂山を攻め破り、湊川で尊氏を退けようとしたが、軍は敗れて京都に還り、延暦寺を護衛し、東坂下を守り、義貞とともに高師重を叡山で撃ってこれを退けた。山の僧徒である今木隆賢が敵兵を手引きして入れたので、公綱の部下は山の麓でこれに遭遇し、隆賢を捕らえ、残りの兵をことごとく殺した。ついで諸将とともに京都に尊氏を攻めたが、戦いを重ねても利がなかった。尊氏が偽って和議を送るに及び、公綱は帝の車駕を護衛して京都に至ったが、尊氏に幽閉された。髪を剃り衣服を変え、宇都宮に逃げ帰った。延元年間、帝が吉野に行幸し、新田義貞が越前で兵を起こすと、官軍はまた勢いを盛り返した。公綱はそこで兵五百を率いて行在所に参上した。帝はこれをねぎらい、髪を蓄えるよう詔した。(注:『太平記』による。)左近衛少将を授けられ、正四位に叙せられ、(注:『太平記』『系図』による。)昇殿を許された。(注:『系図』による。)源顕家が足利義詮(あしかがよしあきら)を利根川で破り、武蔵府中に陣を布いた。公綱は兵千余を率いてこれに合流し、ともに鎌倉を攻め破り、そのまま顕家に従って西上し、上杉憲顕と青野原で戦い、大いにこれを破った。顕家の軍が敗れるに及んで、宇都宮に帰り、また髪を剃り、(注:『太平記』による。)名を理蓮と改め、正眼庵と号した。(注:『系図』による。)正平七年、帝は児島高徳を関東に遣わし、新田義貞の子弟に京都奪還を促した。公綱はこれに応じ、兵を挙げて東国を平定することを約束した。官軍が男山で敗れたと聞き、実現しなかった。(注:『太平記』による。)十一年、卒した。享年五十五。(注:『系図』による。)公綱は代々下野を守り、紀氏・清原氏を部曲(注:私兵・家人)とした。両氏の一族は繁栄しており、出陣のたびに必ずその羽翼となった。そのため兵は強く当時屈指であり、これを称して紀清両党といった。(注:『太平記』による。)
¶公綱には二子があり、氏綱・義綱という。氏綱は幼名を加賀寿丸といい、従五位下に叙せられ、下野・伊予守となった。(注:『系図』による。)延元の初め、公綱は源顕家に従い、足利義詮を鎌倉に討った。この時氏綱はまだ幼く、紀党の芳賀禅可がこれを擁して、宇都宮に拠って叛いた。顕家は兵を遣わして三日間急襲し、禅可は力尽きて降伏した。まもなく、また氏綱は義詮に属した。顕家が京都に赴くに及び、禅可は清党の千騎を率い、青野原で戦って敗れた。足利尊氏は直義と薩埵山で対峙した。氏綱は薬師寺元可の言葉を用い、兵千五百を発して尊氏を援け、高師直の一族三戸師親を将とした。折しも師親が突然自殺し、兵士の多くが逃亡し、残った者たちは大いに恐れた。元可は言った。「これは我が宇都宮の神が、他人に兵を率いさせないということだ。」人々はそこで氏綱を推して大将とした。直義は桃井直常に兵七千を遣わし、利根川で迎え撃たせた。氏綱は力戦してこれを破り、兵の勢いは大いに振るった。薩埵山に至る頃には、直義は敗走した。後に足利基氏は事によって芳賀禅可の越後守護を削り、上杉憲顕に与えた。禅可は憤り恨み、憲顕と戦って敗れ、常に報復を思っていた。基氏が鎌倉に赴くのをうかがい、途中で迎え撃とうと謀った。基氏はこれを聞いて怒り、自ら兵を率いて攻めてきた。禅可は子の伊賀守高貞(注:○按ずるに異本『太平記』では貞縄あるいは貞綱に作る。本書では或いは公頼に作る。芳賀系図には、公頼は後に高貞と改めたとあり、今これに従う。)、駿河守高家(注:○高家は天正本『太平記』による。)を遣わし、武蔵苦林野で迎え撃たせたが、大敗した。禅可は逃げ出し、基氏は氏綱がこれに謀に与ったと考え、そのまま兵を進めてこれを攻めた。氏綱は基氏の軍のもとに小山まで馳せ参じ、二心のないことを陳弁した。基氏の疑いは解け、そこで兵を引いた。(注:『太平記』による。)建徳元年、卒した。子の基綱が下野守となった。(注:『系図』による。)天授六年、小山義政と戦い、敗死した。(注:『花営三代記』『鎌倉大草子』『系図』による。)時に年三十一であった。公綱の従姪(いとこおい)に泰藤がいる。(注:『系図』による。)
宇都宮泰藤
¶宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)は、美濃将監と称した。(注:『太平記』による。)祖父泰宗は下野武茂郷に住み、そのため武茂氏を名乗った。(注:『系図』による。)泰藤に至って、また宇都宮を称した。(注:『建武二年記』による。)右兵衛尉(注:『系図』による)、右馬権頭(注:『建武二年記』による)、左近衛将監(注:『尊卑分脈』による)を歴任し、武者所に直に仕えた。(注:『建武二年記』による。)建武の初め、足利尊氏が鎌倉で乱を起こし、官軍を箱根で破り、一気に京都に攻め込んだ。泰藤は脇屋義助に従い、山崎で敵を防いだが利あらず、そのまま諸将とともに帝の車駕に従い、延暦寺に立てこもった。尊氏が和を請うに及んで、車駕が都に戻ると、泰藤は新田義貞に従い、皇太子を奉じて北の越前に走り、脇屋義助らとともに、瓜生保の杣山城に身を寄せた。折しも保は足利高経に属しており、城を閉じて受け入れなかったので、そこで金崎城に逃げた。高経は高師泰とともに、保および北陸諸国の兵を率いて金崎城を攻めてきた。まもなく、保は弟の義鑑が義貞の援軍となろうと謀っていると聞き、ひそかに逃げ帰ろうと図った。この時泰藤もまた降って師泰の配下にあった。ある日、天野政貞とともに陣営にいて、北条・新田・足利三氏の旗印のどちらがよいかを論じ合った。泰藤は新田氏を良しとし、政貞もこれに賛同した。保はひそかにこれを聞き、そのため二人と厚く結び、密計を用いて、ともに杣山城に脱出して戻った。師泰は兵を遣わして攻めてきたが、泰藤は湯尾の駅でこれを襲撃し、走らせた。ついで保の兄弟とともに金崎城を救援に行き、敦賀津で戦ったが、逆に敗れた。保・義鑑はこの戦いで死んだ。脇屋義助が高経と鯖江で戦うと、泰藤は政貞らとともにこれを撃ち破った。(注:『太平記』による。)泰藤は髪を薙ぎ、蓮常と号し、三河で生涯を終えた。(注:『系図』による。)子孫はさらに氏を宇津と改め、後に大久保を氏とした。(注:『大久保系図』による。○『系図』には、武茂綱家の子持綱が本宗を継いだとあり、おそらく泰藤の子孫であろうが、今は考証する材料がない。)
赤松氏範
¶赤松氏範(あかまつうじのり)(注:○範は或いは則に作る。)は、則村の子である。人となりは剛勇で膂力があり、弾正少弼となった。(注:『太平記』『赤松系図』による。)父が没した後、諸兄と不仲になったため、帰順した。(注:『太平記』による。)摂津中島および有馬・備前馬尾郷を食邑として賜った。(注:『赤松略譜』『赤松系図』による。)正平八年、中納言藤原隆俊に従い、足利義詮を京都に攻めた。義詮の軍は敗走し、氏範は自軍を率いて追撃し、北白河に至った。敵の長山頼基は勇を恃み、手綱を緩めてゆっくりと退いていた。氏範は馬を馳せてこれに追いつき、頼基は馬を巡らせ、大斧を振り上げて氏範に撃ちかかった。氏範は身をかわして少し退き、その柄をつかみ、ねじ折って奪い取った。頼基は恐れて逃げ去った。氏範は奪った斧を手にし、逃げる者を追撃して、殺した者は非常に多かった。十年、山名時氏とともに足利直冬に従い、再び足利義詮を神南に攻めた。足利尊氏が東寺に迫ると、氏範は桃井直常とともに出撃したが利あらず退却し、敵は後を追って攻めてきた。氏範の従士小牧五郎左衛門は傷を負い、歩くことができなくなった。氏範はこれを助けて連れ去ろうとした。直冬はこれに指図して敵を防がせたので、氏範はそこで小牧を門内に放り投げ、力戦して敵を退け、斬り殺した数は数え切れなかった。(注:○按ずるに北条家本・南都本『太平記』には、氏範は小里兵助・日吉八郎と戦い、傷を負って入城したとある。)十五年、畠山国清が行宮を侵犯してきた。氏範は吉野十八郷の兵を率い、征夷将軍陸良親王に従ってこれを防いだ。まもなく陸良が離反すると、帝は前関白師基を遣わしてこれを討たせたが、十八郷の兵は戦わずに散り走り、残った兵はほとんどいなかった。氏範は言った。「危険を見て逃げるのは、不義である。」二十五騎を率いて師基と一昼夜戦った。(注:○現行本『太平記』には三日夜とあるが、今は西源院本に従う。)身に数か所の傷を受け、力尽きて降伏し、播磨に帰った。(注:『太平記』による。)二十四年、中島で兵を挙げた。足利義満は氏範の兄則祐・光範を遣わしてこれを撃ち破り、氏範は天王寺に逃げた。(注:『花営三代記』による。)元中三年、播磨清水で戦って敗れ、子の氏春・家則・祐春・秀則および従っていた兵百余人とともにみな自殺した。時に年五十七であった。家臣の伊藤民部・今村五郎は幼い子の乙若丸を助けて薩摩に逃れた。(注:『赤松系図』による。)
石塔義房
¶石塔義房(いしどうよしふさ)は、少輔四郎と称し、足利尊氏の一族の祖にあたる人物である。父頼茂が、初めて石塔氏を名乗った。(注:『尊卑分脈』による。○按ずるに『太平記』には塔を或いは堂に作るが、おそらく誤りであろう。)尊氏が兵を挙げてより、義房は子の頼房・義基とともにその軍に従い、(注:『太平記』による。)髪を薙いで秀盛と名乗り、陸奥の鎮将として出向き、しばしばその地を往来した。(注:『結城文書』『佐竹文書』『阿蘇社文書』を参照。)興国元年、鎮守府大将軍源顕信が陸奥に至ると、義房は兵を出してこれを遮った。顕信は府に入ることができず、途中で陣を退いた。(注:『結城文書』による。)三年、顕信は結城親朝およびその子や甥たちを率いて攻めてきた。義房の軍は敗れ、陣営を捨てて逃げた。(注:『阿蘇社文書』『結城文書』による。)まもなくまた国人を招き集め、顕信と対峙した。(注:『結城文書』『相馬家伝』による。)親朝および伊達氏の一族を誘って降し、これによって関東はことごとく降伏した。(注:『結城文書』による。)まもなく、尊氏は吉良貞家に義房に代わって陸奥を鎮めさせたので、(注:『結城文書』『相馬家伝』による。)義房は任を解かれて帰った。正平五年、足利直義(あしかがただよし)が帰順し、まもなく再び反旗を翻し、尊氏と和を結んだかと思えば、また兵を構えて互いに攻め合った。義房は終始直義に従った。尊氏が薩埵山に至るに及んで、直義は義房および上杉憲顕にこれを囲ませた。尊氏の兵は疲れ糧食も乏しくなったが、義房らはこれを侮って急いで攻めなかった。まもなく直義の軍が敗れると、義房はそこで直義とともに尊氏のもとに帰った。尊氏の将士に礼遇されず、義房は恥じ悔いた。折しも直義が死に、頼るところを失って、心はますます不安になり、ついに帰順を謀った。新田義興(にったよしおき)が上野で兵を挙げ、尊氏を討ちに来るに及んで、義房は三浦高通・二階堂政元らとともにひそかにこれに応じ、陣に臨んで尊氏を斬って降ることを約した。義房はこの計略を子の頼房に告げた。頼房はこれに応じず、尊氏に変事を告げた。義房は恐れ、その夜のうちに高通らとともに兵三千余で出奔し、関戸で義興と合流し、ともに鎌倉を攻め取った。まもなく、義興は敗れて河村城に逃げ、義房は駿河に身を潜め、足利義詮は男山に帝の車駕に迫った。義房は吉良満貞とともに詔を奉じて援軍に入ったが、(注:『太平記』による。)その後の消息は分からない。三子は頼房・義基・範家という。(注:印本『尊卑分脈』による。)頼房には別に伝がある。
細川清氏
¶細川清氏(ほそかわきようじ)は、初め名を元氏といい、彌八と称し、和氏の子である。左近衛将監・阿波守・伊予守を歴任し、相模守となり、従四位下に至った。(注:『尊卑分脈』による。)人となりは剛勇で力が強かった。正平三年、高師直に従い、楠正行(くすのきまさつら)と四条畷で戦った。(注:『太平記』による。)六年、足利尊氏に従い、桃井直常を京都に攻め、また足利直義を八相山に攻めて、いずれも功があった。七年、細川顕氏とともに官軍を男山に囲んだ。翌年、山名時氏が官軍を率いて足利義詮を攻めると、義詮は神楽岡に陣取って防戦したが、諸軍はみな敗れ、清氏だけが比叡山を守り抜いた。ついで義詮に従い後光厳院を奉じて東へ逃れた。(注:『園太暦』『太平記』による。)途中、塩津で休んでいたところ、村民が四方から鼓を打って騒ぎ立て、軍士たちは後光厳の乗る輿を捨てて散り散りに逃げた。清氏は自ら後光厳を助けて美濃へ逃れた。十年、尊氏に従い足利直冬を京都に攻め、四条大宮で激戦した。敵の騎馬武者に桃井直常と偽って名乗り、清氏に挑む者があった。清氏はまっすぐ進んでその首を捕らえ、馬の鞍に組み付いてこれを斬り、そのまま直冬を撃ち走らせた。十四年、義詮の執事となり、金剛山攻めに従った。清氏は別に土岐直氏・赤松範実とともに竜泉寺城を囲んだが、数か月落とせなかった。ある日、直氏が明け方に陣を払って進攻したところ、清氏はこれを聞いて急ぎ駆けつけ、まっすぐ城門に迫ったが、旗持ちの兵は険しい地形に阻まれて進めなかった。清氏は自ら旗を取って先頭に立ち、直氏の兵はこれを見て競って攻め進んだ。城は陥落した。この時、佐々木高氏はたびたび邪な議論を構え、執事の地位を排斥しようとしており、また事あるごとに清氏とも仲違いしていた。十六年、義詮の取り決めで、七夕に清氏の邸で七百番歌合が催されることになった。高氏はこれを聞き、競って自邸を飾り立て、盛んに茶菓の趣向を凝らして、義詮を自分の邸に招こうとし、これによって二人はますます互いに疑い隔たるようになった。折しも清氏は二人の子を八幡宮で元服させ、いずれも名に「八幡」の字を付けた。義詮は「祖先の名を犯すことは、その心底が測りがたい」と言った。高氏はこれによって陥れようとし、呪詛の事を作り上げ、その証拠とした。義詮はますます怒り、高氏とともに清氏を誅殺しようと謀った。(注:『太平記』による。)清氏が仏事を修めようと、夜に天龍寺に赴いたところ、(注:『東寺長者補任』『太平記』による。)従う士がふだんより非常に多かった。義詮はこれを聞いて大いに恐れ、謀が漏れたと思い、慌てふためいて新熊野へ逃げ出した。清氏は驚いて引き返し、弟の僧璵を遣わして義詮に申し上げさせた。「今夜、巷の噂が入り乱れており、初めはその理由がわかりませんでした。異変を聞いて急いで戻ったところ、事の起こりが私のせいであるとは思いもよりませんでした。私は将軍に対して、いささかも背いたことはございません。もし讒言によって誤られ、無実の罪で害されるようなことがあれば、敵国に笑われるだけでなく、ついには乱の端緒ともなりましょう。伏してお願いいたします、有司に付してよく真偽を調べ、はっきりと罰をお下しください。私は喜んで陣門で誅に服します。」義詮は答えなかった。清氏は義詮の軍が討ちに来るのを待って自殺しようと考え、弟の頼和・将氏、従弟の氏春らとともに、兵を戒めて備え、集まった士は七百人であった。二日経っても、義詮は兵を出すことができなかった。清氏は言った。「都の足元に兵を集めるのは、騒動を招くおそれがある。退いて陳謝するに越したことはない。」そこで若狭へ走った。若狭はその領国であった。一族が途中まで追いついてきて、勧めて言った。「京都の兵は少のうございます。あなた様はこれだけの兵を率いていながら、どうしてこうも急いで逃げられるのですか。」清氏は馬を止めて諭して言った。「お前たちは私が臆病で逃げているとでも思うのか。私に戦わせれば、烏合の弱兵など恐れるに足りない。ただ君臣の義を思えば、死んでも欠くわけにはいかず、それゆえ退いて一度冤罪を明らかにしようと思うだけだ。今すぐ死に赴くことも惜しくはないが、ただ讒言する者が横行し、将軍が国を失う日が近いことを恐れるのだ。」そう言って慨然として涙を流し、従う兵はみな襟を濡らした。清氏はまた氏春・将氏を謝絶して言った。「私は罪を負って逃げ隠れているのに、弟たちが従ってくれている。この厚い友義には、感激に堪えない。しかし弟たちは将軍に罪を得たわけではないのに、今日私に従えば、死んでもなお罪を得ることになる。どうかここでお別れしたい。弟たちは将軍にお仕えして私の冤罪を訴え、かつ父祖の宗祀を保ってほしい。それが両全の策というものだ。」二人は固く従うことを願ったが、清氏は懇ろに諭して言った。「今弟たちと一緒にいれば、讒言する者はそれを口実にして、私が本当に謀反を企てていると将軍に信じさせるだろう。」二人はやむを得ず都に帰り、清氏は小浜城に走ってこれに拠った。清氏には元来謀反の意志はなく、ただ高氏に讒言されたため、ひとまず身を避け、義詮に悟ってもらえることを願っていたのである。義詮はついにこれを察せず、斯波氏頼・仁木義住を遣わして攻めさせた。清氏は嘲って言った。「小僧どもよ、私がお前たちを防ぐのに兵を用いるまでもない。二、三本の白木の棒だけで十分だ。」氏頼の先鋒が敦賀に至ると、清氏は数人の兵を遣わし、火を放って喚き騒がせた。敵兵は清氏が来たと思い、戦わずに逃げた。氏頼が引き続き到着すると、清氏は言った。「私が出陣すれば、一人として生きて帰さぬ。」官藤康に城を留守番させ、自ら出陣して迎え撃った。ところが官藤康はにわかに裏切り、城の後ろから敵を引き入れたので、清氏の従士は驚き散り、頼和とともに残兵五十騎(注:残兵の数は『後愚昧記』による)を率いて摂津に走り、石塔頼房を頼って帰順した。この時仁木頼夏は伊勢に走り、氏春は淡路に走り、松山某は摂津で兵を挙げ、それぞれ兵を集めて清氏に呼応した。畠山国清は伊豆に拠り、その弟義深は信濃を巡撫し、ともに官軍の声援を張った。清氏はそこで上奏して言った。「逃亡の臣が朝廷に罪を謝してより、四方の兵士で義挙に応じようとする者が日ごとに増えております。しかるに京都はもとより精兵に乏しく、また山名・仁木とも外で対峙しております。私はこの時にあたり、自ら先鋒となり、和田・楠らとともに、その虚を突いて進撃すれば、一戦で殲滅できましょう。そして私どもは謹んで宮闕を掃き清め、鑾駕をお迎えいたします。それは年内のことになりましょう。」帝はこれをお許しになった。楠正儀は固くこれを不可とお諫めしたが、帝は回復への思いが切実であったため、聞き入れられず、中納言藤原隆俊を将とし、清氏および石塔頼房・楠正儀がこれに従った。軍が四天王寺に至ると、氏春が船団八十艘を率いて合流した。足利義詮は東寺に陣を布き、佐々木高秀・今川貞世らを分遣して迎え撃たせた。人々の議論は方針が定まらなかった。清氏は言った。「彼らの実情は、私が以前からよく知るところだ。高秀・貞世は臆病で与しやすく、必ず一本の矢も放たずに我々に抗することはないだろう。洛中で戦えば、私どもがまっすぐに中軍を衝けば、義詮がどうして無事でいられようか。天下の成否は、この一挙にかかっている。」諸将はこれに従った。果たして高秀は出撃せず、貞世は形勢を見て先に逃げ、その他あえて出て防ぐ者はいなかった。義詮は後光厳を奉じて近江へ逃れ、官軍は京都に進入し、義詮の邸に火を放って焼いた。当初の朝議では、清氏は長く義詮の執事を務め、専ら兵権を握り、威名は以前から重んじられていたので、将帥の任を授ければ必ず士衆を招き寄せ、特に大きな功を立てるだろうと考えていた。しかしここに至って、兵を血に染めずに京都を取り、後光厳を逃走させたにもかかわらず、来て味方する者は誰もいなかった。四方の勤王の軍もまた道が塞がれて時機よく進むことができなかった。軍情は危うく懼れる状態となり、どうにもならないうちに足利義詮は大軍を統率して水陸から進み迫った。官軍は勢いが孤立し援軍も尽きて、みな引き上げた。清氏は河内へ逃げた。翌年の春、讃岐へ逃げ、白峰城に拠って、再挙して京都を奪還しようと計画した。氏春および弟の信氏、小笠原宮内大輔が兵を率いてこれに応じた。足利義詮は細川頼之を遣わして攻めさせた。頼之は、清氏の従弟である。その母を通じて偽って清氏を招き諭し、何度もやり取りが続いた。頼之は城の備えを完全に整え終えると、もはや通信しなくなった。まもなく飽浦信胤が備前から来て清氏を助け、小笠原美濃守は兵を出して頼之の帰路を断った。これによって軍勢はまた盛り返し、頼之は家臣の新開真行を遣わし、中院少将が守る西長尾城を攻めさせた。清氏は頼和・氏春を遣わしてこれを助けさせた。真行は夜ひそかに軍を進め、間道を通って白峰の麓に回り、まっすぐ城下に出た。頼之は五百騎を率い、明け方に城の後方に至った。清氏は勇を恃んで敵を侮り、軽騎で突出し、自ら数十人を斬った。敵軍は浮き足立ち、清氏は刀を振るってこれを追った。敵の兵卒が溝に飛び下りてひそかにその馬を刺したので、清氏は敵の馬を奪おうとし、傷を負ったふりをして馬から下り、刀を杖にして立った。敵兵の真壁六郎が馳せ寄ってきたので、清氏は奮い立って六郎を引っ張り倒し、その馬に飛び乗ろうとした。伊賀高光が続いて駆けつけ清氏に組みついた。清氏は六郎を投げ捨て、高光の脇に組みつき、まさに腰の刀を探ってこれを斬ろうとした。高光は隙をうかがって三度清氏を刺し、ついに討ち取られた。頼之の兵は入れ替わって白峰城に入り、真行は兵を収めて引き返した。頼和らは敵が退いたと聞いて言った。「これは我々の兵を分けさせようとする誘いだ。」そこで馬を馳せて引き返し、清氏を救おうとした。途中で真行と合戦し、これを大いに破った。白峰に進むと、初めて清氏が戦死して城が落ちたことを聞き、そこで淡路へ逃げた。この時城壁は堅固で、士衆も精強であったが、清氏が軽率で謀に乏しかったために、ついに敗死するに至り、これより四国はことごとく敵の手に落ちた。官軍の声援は日ごとに縮小し、当時の人々はこれを惜しんだ。(注:『太平記』による。)子の昌氏は八郎太郎と称し、阿波守となった。(注:『尊卑分脈』による。)
北條時行
¶北条時行(ほうじょうときゆき)は、高時の第二子である。(注:『太平記』による。)幼名を勝長寿丸といい、(注:『保暦間記』による。○『太平記』には或いは桃寿・兆寿・全嘉に作るが、いずれが正しいかは分からない。)相模二郎と称した。高時が新田義貞に攻められ、葛西谷に逃げたとき、時行はなお襁褓(むつき)の中にあり、母とともに別邸にいた。家臣の諏訪盛高はひそかにこれを匿おうと図ったが、女房たちに謀が知れて後々事が漏れることを恐れ、そこで行って偽りを言った。「殿は一度若君と今生の別れをなさりたいとのことです。すぐにお渡しください。聞けば太郎君はすでに賊に殺されたとのこと、私はこの度の行もまた免れがたいでしょう。」乳母たちは若君を抱いて泣いたが、盛高はわざと怒ってこれを奪い取って去り、信濃に赴き、諏訪の祠官である諏訪頼重の家に匿った。建武二年、藤原公宗が京都で謀反を企て、ひそかに時行に命じて兵を挙げてこれに呼応させようとした。まもなく事が発覚し、公宗は誅殺された。(注:『太平記』による。)時行はそこで諏訪頼重らとともに残党を招き集め、十日ほどで五万余人を得て、鎌倉に進み赴き、戦うたびに勝利を収めた。井出沢に至って、足利直義と戦い、これを敗走させた。そのまま鎌倉に入り、兵の勢いは大いに振るった。(注:『太平記』による。○『元弘日記裏書』『梅松論』『保暦間記』を参照。)朝廷は足利尊氏を遣わして討たせた。時行は名越・時基らに兵三万を率いさせ、これを迎え撃たせたところ、ちょうど大風が起こり、鎌倉の民家の多くが倒れ、軍士は大仏殿の中に避難した。にわかに仏殿の梁の木が風に折れて壊れ、圧死する者五百人に及び、人々はみな軍の進撃がうまくいかないことを悟った。時基はさらに日を選び直し、道を急いで進んだが、橋本で官軍に遭って迎え撃たれ、折しも後軍の多くが自ら崩れ潰えたため、退いて佐夜・中山・箱根などの地で戦ったが、いずれも敗れ、相模川を防壁として陣を布いた。この時川の水は激しく増水しており、時基は敵がたやすく渡れまいと考え、そのまま兵馬を休ませ、散った兵を集めていた。ところが官軍は夜のうちにひそかに川を渡り、表裏から挟み撃ちにした。時基は狼狽し、わずかに三百余人とともに鎌倉へ逃げ帰った。頼重らはそこで時行を先に逃がし、残兵四十余人とともに自殺し、みな顔の皮を剥いで見分けがつかないようにした。官軍が鎌倉に入り、死屍を検分し、時行もまた死んだものと思い込んだ。(注:『太平記』による。)時行はまだ幼く、その将士である大仏・名越らの子弟もまた、かつてひそかに僧に身をやつして隠れており、兵事に慣れていなかったため、兵を起こしてよりわずか二十日ほどで敗れてしまった。当時の人はこれを「二十日先代」あるいは「中先代」と呼んだ。(注:『梅松論』による。)これより後、時行は転々として定まる所がなかった。延元二年、帝が足利尊氏に迫られ、ひそかに吉野に行幸したと聞いた。四方で勤王の兵が挙がり、時行は使者を行在所に遣わして罪を謝し、尊氏兄弟を討って自ら効を立てることを願い出た。帝はこれをお聞き入れになった。折しも鎮守府大将軍源顕家が陸奥の兵を率いて西上したので、時行は兵五千を率いて伊豆から発し、これに従って足利義詮を鎌倉に撃ってこれを走らせ、そのまま美濃に至った。義詮の将である上杉憲顕・桃井直常らは、後方から顕家の軍を追撃し、青野原・洲俣で大戦した。時行はここで功があり、そのまま顕家に従って転戦し和泉に至り、(注:『太平記』による。)高師直と堺浦で戦った。顕家はここで討ち死にし、軍勢は潰え散った。(注:『元弘日記』『太平記』『保暦間記』を参照。)時行は行在所に赴き、(注:『太平記』による。)左馬権頭を授けられた。三年、義良親王が陸奥に鎮守として出発するにあたり、時行は宗良親王に従って海路を取り、先発して遠江に到着し、今川範氏の兵と匹馬駅で戦ってこれを破った。義良親王の船は風に遭って到着できず、時行は宗良親王とともに井伊介高顕のもとに身を寄せた。(注:『金勝院本太平記』による。)興国元年の春、高師泰が来て井伊城を囲み、幾月も解けなかった。秋になって城は陥落し、(注:『保暦間記』『鶴岡社務記』を参照。)宗良親王は越後へ逃れ、(注:『李花集』による。)時行は東国に身を隠した。正平七年、新田義興に従って鎌倉を攻め、足利基氏を敗走させ、ともに鎌倉に入って居を構えた。まもなく、義興は敗れて河村城に逃げ、ついで越後へ赴いた。時行は相模に潜み、再挙を図った。翌年、捕らえられ、ついに龍口で斬られた。長崎駿河四郎・工藤二郎もまた殉死した。(注:『鶴岡社務記』による。)
桃井直常
¶桃井直常(もものいただつね)は、足利義康の子孫である。高祖父義胤が、初めて上野の桃井に住み、子孫はこれによって氏とした。(注:『尊卑分脈』による。)直常は勇猛で人並み外れており、(注:『太平記』による。)右馬権頭・刑部大輔・弾正大弼(注:『園太暦』による)、駿河守を歴任し、播磨守となった。(注:『尊卑分脈』『太平記』『花営三代記』による。)足利尊氏は用いて越中守護とした。(注:『太平記』『祇園執行日記』による。)延元元年、鎮守府大将軍源顕家が兵十万余を率いて鎌倉を攻めると、直常は足利義詮に従ってこれを防いだが、大敗して箱根へ走った。翌年、顕家は勝ちに乗じて京都に至り、直常は諸将とともに出撃して追尾した。顕家は青野原に陣を布いていたが、直常は土岐頼遠とともに精鋭千余を選び、まっすぐその陣に突入し、数十合奮戦したが、身に三か所の傷を受け、従士は死傷してほぼ尽き、わずか数十騎で京都に入った。顕家は奈良に至り、足利尊氏はこれを攻めようとしたが、将を選ぶのに難儀した。高師直は言った。「桃井兄弟は勇猛で敵軍を震え上がらせています。これを遣わすに越したことはありません。」尊氏はこれに従った。直常と弟直信は命を受け、その日のうちに出陣した。顕家は般若坂に陣取っていたが、直常は士卒を激励して言った。「我ら兄弟が特にこの選に当たった。今日の戦いでもし不利になれば、これまでの功もあわせて無に帰してしまう。お前たちよ、努力せよ。」士衆は競って進み決戦し、これを大いに破り、顕家は身一つで逃げ延びた。尊氏はその功を認めなかったので、直常は不満を抱いた。折しも顕家の弟顕信が散った兵を収め集め、男山に陣を布いたので、尊氏は諸将を遣わしてこれを撃とうとしたが、将士たちは直常らが賞を得ていないのを見て、進んで行こうとする者がいなかった。そこで高師直は一族を挙げて出陣したが、利がなかった。直常はこれを聞いて言った。「私は命を受けてはいないが、その敗北を座視するに忍びようか。」そこでひそかに馬を馳せて男山に至り、一昼夜戦い、殺傷した者は非常に多く、死者は折り重なり、世の人々はその場所を桃井塚と名づけた。正平五年、足利尊氏は弟の直義と仲違いし、直常はひそかに直義に意を通じた。尊氏が西方でその子直冬を撃つに及んで、直義はひそかに逃れて帰順した。直常は越中に帰って兵を挙げ、直義と時期を約束し、足利義詮を攻めた。翌年、直義は男山に陣を布いた。直常は北国の兵を率いて越中を発し、折しも大雪で馬の足が没するほどであったので、士卒に橇に乗って先に進ませ、後から道を開かせて、人馬が通れるようにした。延暦寺まで進み、諸方で火を挙げて蜂起した。義詮は恐れて西へ逃げた。直常は京都に入った。義詮は尊氏の軍と合流して攻めてきた。直常はこれを迎え撃ち、互いに進んだり退いたりし、それぞれ引き上げて兵を休めた。佐々木高氏の兵七百余が直常の後方を断ち、軍は二つに分かれた。直常兄弟は馬を下りて泰然と座り、大声で叫んで言った。「死生は天にある。お前たちは一歩たりとも退くな。」数刻戦い、尊氏・義詮がその帰路を扼したため、直常は三方から敵を受け、兵士はみな疲れ果て、ついに敗れて関山へ走った。翌日、尊氏は西へ逃げ、直常は再び京都に入った。まもなく尊氏と直義が講和し、直常および石塔義房らは、勢いを恃み功を誇り、仁木頼章・細川頼春・土岐頼康・佐々木高氏らと不和になった。(注:『太平記』による。)直常は夜に直義のもとを訪ねて帰る途中、闇の中から人に刺された。直常は鎧を身につけていたため、傷を負わずに済み、そこで刺客を捕らえた。(注:『園太暦』による。)まもなく頼章・頼春らはみな逃げ出し、それぞれの領国に帰って事を謀った。そこで直常は義房らとともに、直義に越前へ逃れるよう勧めた。(注:『太平記』による。)尊氏の兵が近江に至ると、直義は直常および細川顕氏・畠山国清にこれを防がせたが利あらず、諸将はみな敗走した。直常だけは陣に三日間留まり、部下はみな帰るよう勧めたが、ついに兵を引いて越前へ帰った。(注:『天正本太平記』による。)この時、細川顕氏・畠山国清は直義を説き、尊氏と講和させようとした。直常は固くこれに反対し、渇望すべきでないとした。顕氏らは怒って尊氏の兵のもとに帰り、その後兵士たちは相次いで逃亡した。直常はまた直義に鎌倉へ逃れるよう勧めた。(注:『太平記』による。○細川顕氏は『天正本太平記』『園太暦』による。)尊氏が兵を率いて攻めてくると、宇都宮氏綱が兵を率いてこれを助けた。直常はこれを迎え撃ったが敗れ、直義の兵もまた大敗し、ついに尊氏に降った。直常は越前へ逃げ帰った。七年、足利義詮が男山に帝の車駕を迫ったとき、直常は左近衛少将新田義宗らとともに、勅を奉じて援軍に入った。能登まで進んだところ、車駕はすでに囲みを脱していたので、そこで兵を収めて帰国した。七年、義軍が各地で並び起こり、直常もまた信濃で兵を挙げ、本国の豪族である野尻・井口氏らがこれに応じた。馳せ参じる者が日ごとに多くなり、富樫介を攻めようとした。能登・加賀の兵士三千余が来て防いだが、陣立てがまだ整わないうちに、直常は掩撃してこれを大いに破った。夜になって、直常は軍事を議論しようと、ひそかに井口城に赴いた。折しも能登・加賀の兵士三百余が降ってきたが、周りの者は直常の所在を知らなかったため、これによって陣営は大いに騒動して失火し、降った兵たちはこの混乱に乗じて反撃し、三百余人を討ち取って帰った。直常は途中で、陣営を振り返ると火の手が上がっているのを見て、敵軍が来襲したものと思い、引き返してこれを防ごうとした。ある敗残の兵が、急いで叫んで言った。「事は敗れました。すぐにお逃げください。」直常はどうしてよいか分からず、ついに逃げて井口城に身を寄せた。(注:『太平記』による。○毛利家本・天正本には、十九年に直常は足利氏に降ったとある。しかし諸本にはみな、二十一年に足利義詮が斯波義将を遣わして直常を攻めさせたとある。事の顛末は考証しがたいので、書かないでおく。)後に髪を剃って京都に身を隠した。二十四年、越中へ逃げて兵を挙げ、松倉城を攻め落とした。建徳元年、さらに兵を発し、子の中務少輔直和を遣わして長沢に出陣させた。守護斯波義将は富樫竹童丸の兵と合流して攻めてきて、直和は敗死し、残った兵は松倉城に逃げ込んだ。まもなくまた離反し、直常は逃げ隠れた。翌年、再び越中で兵を挙げ、義将の兵と戦ったが利あらず、また能登の兵と後位荘で戦い、(注:『花営三代記』による。○本書では子の中務少輔を又馬助に作るが、今は『尊卑分脈』に従う。本書では義将を義経に作るが、『太平記』および『尊卑分脈』によってこれを訂正した。)ついに義将に敗れた。(注:『太平記』による。)その後の消息は分からない。
飽浦信胤
¶飽浦信胤(あくらのぶたね)は、三郎と称し、備前の人である。(注:『太平記』による。)佐々木秀義の後裔である。祖父胤泰が、初めて飽浦氏を称した。父長胤は薩摩守であった。信胤は左衛門尉・備前守を歴任した。(注:『佐々木系図』による。)建武の初め、田井信高とともに備中福山に拠り、足利尊氏に呼応し、細川定禅とともに京都を攻めた。延元四年、備前児島をもって帰順した。これより先、高師秋は右大臣藤原兼季の侍女に通じており、(注:○兼季は『公卿補任』による。)信胤はその容色を見て、また密かにこれと通じた。師秋はこれに気づかず、ちょうど伊勢に赴くところで、侍女に同行を求めた。侍女は偽ってこれを許し、退いて一人の老婆を欺いて言った。「お婆さん、年をとって子もいないのだから、私について東国へ下ってはどうですか。」老婆は「わかりました」と言った。夜になって、師秋が輿を迎えに来ると、女はそのまま老婆を輿に乗せて去らせた。師秋は大いに喜び、まっすぐ旅路についたが、夜が明けて輿の中を見ると老婆であったので、大いに驚き狐狸の仕業かと思い、これを打ち殺そうとした。老婆は涙ながらに事情を訴えて哀れみを乞うた。師秋は騙されたことに怒り、急いで本拠に引き返し、これを探したがすでにいなくなっており、侍女を捕らえて問いただすと、信胤のもとにいると聞いた。ますます怒り、これを攻めようとした。信胤は恐れて備前へ逃げ、そのまま帰順した。翌年、小豆島を攻め、敵軍を破り、使者を遣わして主将を迎え中国地方を巡らせてほしいと願い出た。この時讃岐の国司藤原有資、伊予守護大館氏明もまた使者を遣わして援兵を求めていた。帝は刑部卿脇屋義助に命じてこれに応じさせようとしたが、道が塞がれて進めずにいた。ちょうど信胤の使者が来て勝報をもたらしたので、帝は大いに喜び、勅旨をもってこれをねぎらい励まし、薩摩守を授けた。義助はまもなく出発し、信胤は戦船を率いて出迎え、ともに伊予まで進んだ。義助が急病で亡くなったので、信胤は兵を率いて帰った。細川清氏が細川頼春と讃岐で相争うに及んで、信胤は水軍を率いて頼春の輸送船を襲い斬った。(注:『太平記』による。)その後の消息は分からない。
楠正儀
¶楠正儀(くすのきまさのり)は、正成の子で、正行の弟である。(注:『太平記』による。)左衛門尉に任じられ、(注:『園太暦』『太平記』『観心寺文書』による。)河内守を兼ね、(注:『金剛寺文書』による。)左馬頭に遷った。(注:『太平記』『松尾寺文書』『観心寺文書』による。)兄の正行・正時が戦死すると、正儀は河内に留まって居を構えた。高師泰が石川に砦を築いて正儀を攻めた。畠山国清がまもなくこれに代わった。正儀は終始固く城を守り抜いた。正平五年、国清は足利直義に従って帰順した。(注:『太平記』による。)正儀はこれによって兵を出してこれを声援した。(注:『園太暦』による。)七年、足利義詮が款を通じてきたが、帝は自ら軍を率い、京都に行幸すると宣言し、実際には義詮を襲おうとしていた。行列が住吉に着いたとき、伊勢国司右衛門督源顕能は、伊賀・伊勢の兵三千を率いて、丹波路から進んだ。正儀は和田正忠とともに兵五千を率い、夜のうちに桂川を渡った。明け方、細川顕氏と戦い、これを破って、その甥の八郎を斬った。細川頼春が続いて到着すると、正儀の兵は盾を梯子代わりにして屋根に登り乱射し、敵兵はひるんだ。正儀は騎馬を放って突撃し、頼春を斬った。義詮は近江へ逃げた。帝の車駕は男山に留まり、義詮は大軍でこれに迫った。正儀・正忠は兵三千を率い、荒坂山でこれを防いだ。やや有利になったが、衆寡敵せず、男山に退いて陣を布いた。敵兵に包囲され、勤王の兵は到着せず、人々は正儀・正忠に河内に帰って兵を募るよう議した。正忠は家に帰ると、急病で亡くなった。正儀はぐずぐずして、時機を得て救援に赴かなかったので、官軍はついに敗績し、義詮は再び京都を占拠した。当時の人々は正儀を謗り、その家の名声を損なったと言った。(注:『太平記』による。)まもなく正儀は兵を発し、吉良満貞・石塔頼房らとともに摂津を攻め、守護代某を撃ってこれを走らせた。(注:『園太暦』による。)翌年、和田正武とともに中納言藤原隆俊に従い、山名時氏と合流して、義詮を京都に攻めた。義詮は神楽岡に陣を布き、林の間に兵を隠して出撃させた。正儀らはその兵の多寡を知ろうとし、兵五百に馬を下りて徒歩でこれを誘わせた。徐々に敵陣に近づくと、佐々木信詮が出撃してきたので、正儀はこれを撃って知略で退け、義詮は戦わずに逃げた。十四年、畠山国清が大挙して西上した。足利義詮は国清らの諸将を統率し、天野の行宮を侵犯した。正儀は和田正武とともに参内して奏上した。「この戦い、私どもは官軍が必ず勝つと考えます。そもそも兵において貴ぶべきものは三つ、天の時・地の利・人の和であります。今年は大将軍が西方におり、東を討つには利がありますが、西を征するには利がありません。道誓(注:畠山国清の法号)が西へ向けて出兵するのは、これ天の時に逆らうものです。官軍が守るところは、前に大河があり、後ろに深山があります。元弘以来、賊がしばしば攻めてきましたが、そのたびに利あらず退いており、これは我らが地の利を得ているからです。道誓は外には軍事を口実にしつつ、内には実は専ら功を求め賞を要求しようとしており、仲間からも嫉まれています。これは人の和を失っているのです。この三つを失えば、百万の兵といえども恐れるに足りません。ただ行宮の地勢が不便ですので、しばらく観心寺に行在所を移していただき、私どもは千剣破に拠って、日夜龍山・石川で敵を防ぎ撃ちます。また湯浅・山木・恩地・贄川の諸族に、紀伊守護代塩冶某に従って龍門山を守らせ、土着の兵を放って敵を撹乱し、休む間を与えなければ、敵は必ず疲れて引き返すでしょう。私どもはその機に乗じて追撃すれば、必ずこれを破れましょう。」帝は深くこれを是とし、行在所を観心寺に移された。正儀はそこで龍泉・龍門・平石・八尾などの砦を築き、兵を分けてこれを守らせ、自らは兵三百を率いて赤坂城に拠った。畠山国清らは津々山に陣を布き、兵を分けて諸砦を攻めてこれを陥落させ、進んで赤坂を攻めた。正儀は金剛山に退いて守りこれを誘い出した。義詮はまもなく兵を引き上げ、果たして正儀の予想通りとなった。正儀はまた渡辺に出兵した。これより先、国清は仁木義長と権勢を争って互いに排斥し合っており、この時に至って防禦を口実にして、私的に兵を出した。正儀は再び金剛山に入り、国清と義長は兵を交えようとした。義長は義詮を幽閉し、内輪もめが起こった。そこで諸方の官軍が一斉に蜂起し、諸城は形勢を見て潰え走った。正儀は水速城を攻め取った。十六年、正儀は佐々木秀詮および弟の氏詮を摂津に攻め、これを破り、二百七十余人を殺し捕らえ、溺死する者も非常に多かった。追撃して秀詮・氏詮を斬り、捕虜の名簿を記録し、みな衣服や薬を与えて放ち帰らせた。この年、細川清氏が降り、京都奪還のために諸軍を発するよう奏請した。帝は正儀を召し、これに対して正儀は言った。「元弘以来、官軍が京都を奪還したことは五回に及びますが、多くは軍勢を借りずには行えず、苦しむのは兵力が続かないことでした。それゆえたびたびこれを取り戻しても、またたびたびこれを失っております。今これを取ろうとするのに、清氏の力を借りる必要はなく、私一人で十分に処理できます。ただ恐れるのは、これを取った後、これを守り抜けないことです。もし棄てるのを恥じて戦を続ければ、今ある版図までことごとく失うことになりましょう。私は愚かにも、それがよいこととは思えません。」しかし帝および公卿・侍臣は、故郷に帰ることを切望されており、これによって聞き入れられなかった。そこで正儀に清氏とともに京都へ進むよう命じられた。十二月、官軍は京都を奪還した。まもなく、足利義詮は水陸の軍を督励して迫ってきた。翌年正月、官軍は京都を捨てて南へ逃げ、果たして正儀の言葉通りとなった。清氏は阿波へ逃げ、正儀と東西呼応して事を挙げることを約した。まもなく、清氏は戦死し、王師はほとんど燃え尽きた。正儀は敵の勢いが勝ちに乗じることを恐れ、官軍の士気が沮喪していたので、一戦してその気勢を奮い立たせようとした。民兵を集め、六千余人を得て、摂津に進攻し、浄光寺砦を攻め落とした。また石塔頼房とともに赤松光範を攻め、退いて尼崎に陣を布いたが、敵が大軍を発して来ると聞き、兵を引いて河内に帰った。(注:『太平記』による。)しばらくして、左兵衛督に任じられた。二十三年、帝が崩御された。(注:『花営三代記』による。)正儀はひそかに二心を懐いており、(注:『後愚昧記』による。)細川頼之がこの機に乗じて誘い、正儀はついに決心した。(注:『豫章記』による。)翌年の春、ひそかに足利義満に款を通じた。(注:『愚昧記』『花営三代記』による。)義満はすぐさま和泉・河内に檄を飛ばし、国人に宣告して言った。「楠正儀はすでに我らに降った。」(注:『花営三代記』による。)楠氏の一族で勤王の道にある者たちはこれに応じず、力を合わせて正儀を攻めた。(注:『後愚昧記』による。)細川頼之は義満と議して、赤松光範・細川頼元を遣わし、兵を率いて正儀を救わせた。まだ到着しないうちに、正儀は城を出て、四天王寺まで逃げた。(注:『後愚昧記』による。)ついに京都に入り、頼元と会った。翌日、義満に謁見し、まもなく河内に帰った。建徳元年、和田正武が兵を発し、その一族とともに正儀を討った。正儀は利あらず、再び義満のもとへ逃げ帰った。翌年の夏、義満は正儀を河内に帰し、そのため大軍を発してこれを声援させた。(注:『花営三代記』による。)この時、諸将はみな正儀が河南を保てないだろうと言った。そこでためらって進まなかった。細川頼之は義満に勧め、諸将に強いて川を渡らせた。(注:『後愚昧記』による。)秋になって、正儀は河内に帰ることができた。(注:『花営三代記』による。)正儀はすでに義満に降っていたので、北朝の主はその官職を罷免した。(注:『渡辺文書』による。)数年後、中務大輔を授けられた。(注:『通法寺文書』『多田院文書』『渡辺文書』による。)弘和の初め、帰順し、(注:『通法寺文書』『多田院文書』『三刀屋文書』『渡辺文書』を参照。)その左兵衛督としての地位はもとのままであった。(注:『渡辺文書』による。)義満は和泉守護山名氏清に命じて攻めさせ、正儀は氏清と平尾で戦い、敗績した。(注:『和漢合運暦』『通法寺文書』『三刀屋文書』による。)一族六人、家人百四十人がこの戦いで死んだ。(注:『和漢合運暦』による。)正儀は引き上げて帰り、旧領を保った。(注:『通法寺文書』による。)ついで参議を拝命した。(注:『観心寺文書』による。)元中年間、卒した。(注:○按ずるに正儀の没年は、諸書に見えるところがない。しかし今『観心寺文書』『二見文書』『渡辺系図』などによって考えると、弘和三年十二月、正儀はなお存命であった。翌年元中と改元されたが、元中七、八年の頃には、正儀はすでに卒し、子の正勝がその家政を執っていた。よって正儀の没年は元中年間であることが分かる。)
¶正儀は人となり慎重で謀を好み、誠実に人と接した。その用兵にあたっては、まず謀を巡らせてから戦ったので、多くは敗れることがなかった。しかし機に臨んで変に応じることについては、これがまたその短所であった。(注:『太平記』による。)正儀はかつて赤松光範と境を接して互いに攻め合っていたが、光範の部下の宇野正寛は子供の頃、父を正儀の兵に殺された。正寛は光範に申し上げて言った。「正儀は、あなた様の敵であり、また私の父の仇でもあります。どうか正儀のもとに身を投じて、ゆっくりとこれを図りたいと思います。」光範はその志を壮とし、名刀を与えてこれを送り出した。正寛は赤坂に至り、人を通じて正儀に近づいた。正儀はこれを召し見て、厚くいたわり慈しんだ。正寛もまた深くその恩恵に感じ入った。長い年月が経つうちに、その仇を忘れてしまった。十五歳になり、正儀から食邑を与えられたが、辞退して受けなかった。亡き父の七回忌の日に当たり、初めの志を遂げようとした。膝を進め刀を按じたが、正儀が穏やかに座っているのを見て、ついに刺すことができず、立ち上がって外に出て、大いに慟哭した。正儀は不審に思ってその理由を問い、正寛は事実をありのままに告げ、刀を抜いて自殺しようとした。周りの者が抱きとめてこれを止めた。そこで正寛は髪を剃って僧となり、光範に書を送り、あわせて授けられた刀を返した。その人心を得ることはこのようであった。(注:『吉野拾遺』による。)
¶子の正勝は、右馬頭となった。父が没すると、その配下を領した。(注:『渡辺系図』『二見文書』による。○按ずるに正勝が正儀の子であることは、実録の諸書には見えるところがない。今はしばらく『梶川系図』によった。)元中九年の春、畠山基国と千剣破城で戦い、勝てず、吉野へ逃げ帰った。(注:『渡辺系図』による。)この年、南北朝が講和し、帝は京都へお還りになった。正勝は鬱々として志を得なかった。応永六年の夏、大内義弘が足利義満と不和になり、堺城に拠って乱を起こすと、遠近は大いに震撼した。正勝は兵三百を率い、菊池肥前守とともに義弘を援けた。冬になって、城は陥落し、義弘は討ち死にした。正勝はその部下に言った。「むだ死にしても益はなく、降伏を願うこともまた我が恥とするところだ。」そこで兵を率いて大和へ逃げ、(注:『応永記』による。○本書はただ「楠」とだけ称して名を挙げていない。当時その部下を率いていたのは、正勝であった。それゆえこれを称したものである。)その後の消息は分からない。それより数十年、楠氏の一族は大和・河内の境に身を隠し、興復を図ろうとする者が、後を絶たなかったという。(注:『後崇光院御記』『今川記』『季瓊日録』を参照。)
小山義政
¶小山義政(おやまよしまさ)は、下野の人で、朝政の九世の孫である。(注:『尊卑分脈』による。)先祖の秀郷は国に勲功を著し、子孫は名族となり、小山氏がその宗家である。(注:『東鑑』『結城文書』による。)祖父秀朝は初め名を高朝といい、大夫判官と称した。元弘年間、北条氏の軍に従い、笠置および楠正成の城を攻めた。(注:『光明寺蔵書残篇』『太平記』による。○初名は『尊卑分脈』および『元弘日記裏書』による。)新田義貞が義兵を挙げるに及び、秀朝は出てこれに属し、金沢貞将を鶴見で破り、ともに進んで鎌倉を攻め、これを陥落させた。(注:『太平記』による。)ついで下野守となった。(注:『尊卑分脈』『梅松論』による。)建武二年、北条時行の軍を武蔵府中で防いだが、勝てずに戦死した。(注:『元弘日記裏書』『梅松論』『天正本太平記』による。)二子があり、朝郷・氏政という。(注:『尊卑分脈』による。)
¶朝郷は、幼名を今犬丸といい、幼くして家を継いだ。足利尊氏が謀反を起こしたとき、朝郷はこれに従って功があり、(注:『梅松論』『天正本太平記』による。○按ずるに『梅松論』には今犬を常犬に作る。)左衛門尉となった。(注:『尊卑分脈』『結城文書』による。)延元年間、官軍に捕虜とされた。刑に処せられようとしたとき、結城宗広はその一族であるとして、自分の隊に拘留してほしいと願い出た。後に国に帰り、また尊氏の党に加わった。准大臣源親房が常陸にあり、近国の将士を招き寄せていた。朝郷には帰順の意があり、これに応じようとした。しかしなお観望する気持ちを捨てきれず、ついに実現しなかった。(注:『結城文書』による。)早くに死んだ。弟の氏政が跡を継いだ。すなわち義政の父である。(注:『尊卑分脈』による。)氏政は左衛門佐となった。(注:『尊卑分脈』『常楽記』による。)正平七年、帝が男山に行幸し、京都奪還を図られた。児島高徳を東北諸国に遣わして、兵を挙げ男山を援けるよう促した。新田氏の一族および氏政は、宇都宮公綱らとともにみなこれに応じたが、男山が守りきれずに落ちたため、実現しなかった。(注:『太平記』による。)まもなく死んだ。
¶義政が跡を継ぎ、左馬助となり、(注:『鎌倉大草子』による。)下野守に任じられた。(注:『尊卑分脈』『花営三代記』『僧頼印行状』による。)天授六年、義政は兵を挙げ、(注:『鎌倉大草子』による。)宇都宮基綱が攻めてきたので、義政は迎え撃ち、これを裳原で斬った。(注:『花営三代記』『鎌倉大草子』による。)そこで、足利氏満は関東十二か国の兵を発し、武蔵府中に出陣し、上杉憲方を遣わして義政を攻めさせた。義政は防戦したが利あらず、(注:『鎌倉大草子』による。)使者を遣わして降伏を願い出、氏満はこれを聞き入れた。(注:『花営三代記』『鎌倉大草子』による。)しかしまもなく義政はついに降伏しなかった。弘和元年の春、氏満はまた大軍を発し、武蔵村岡に出陣し、上杉朝宗および木戸範秀を遣わして攻めさせた。義政は鷲城に拠ってこれを防いだ。白旗一隊が真っ先に進み、外郭を攻め破った。義政は兵を励まし奮撃してこれを退け、殺傷した者は非常に多く、数か月にらみ合いが続いた。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』による。)義政は時には伏兵を設けて敵の糧道を断ち、時には火を放って敵の陣営を焼いた。(注:『僧頼印行状』による。)朝宗らは士卒に草を運ばせて堀を埋めさせ、これによって攻めた。義政もまた兵を出してこれを防ぎ、敵の多くは傷を負い、敗れて退いた。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』による。)冬になって、城中の食糧はほとんど尽き、また後の援軍もなかった。(注:『鎌倉大草子』による。)義政は僧を遣わして降伏を願い出、かつ言った。「あなた様が幸いにも私の願いをお聞き入れくださるならば、私は髪を剃って僧となり、家の務めを子の若犬丸に譲りましょう。」氏満はまたこれを聞き入れた。そこで義政は鷲城を去り、これを二将に渡し、一族を率いて祇園城に移った。そのまま髪を剃り、名を永賢と改めた。氏満は梶原道景・三浦某を遣わしてこれを検分させ、若犬丸に家を継がせた。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』による。)氏満は元来義政の降伏を信じておらず、(注:『僧頼印行状』による。)それゆえ急いで兵を解かなかった。翌年になって、義政は自ら祇園城に火を放ち、糟尾山中に入り、険しい地形に拠って砦を構え、これを櫃沢城と名づけ、士卒を分けて長野・寺窪城に遣わしてこれを守らせた。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』による。)また草刈りや猟師を雇い入れ、糧食を運んでこれに備えた。氏満は憤って言った。「我はたびたび義政に欺かれてきた。今、我が義政の首を見ないうちは、あえて軍を引き上げない。」(注:『僧頼印行状』による。)再び上杉朝宗・木戸範季を遣わし、義政を甚だ急いで攻めさせ、白旗一隊がその先鋒となって、長野城を攻めてこれを陥落させた。ついで寺窪城もまた陥落した。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』による。)翌日、諸軍が一斉に進み、櫃沢城を攻めた。義政の軍は敗れ、もはや戦うことができなくなった。父子は夜に紛れて逃げた。(注:『僧頼印行状』による。)翌日、敵兵が追いつき、義政は自殺し、若犬丸は隙をついて逃げ去った。元中三年、若犬丸は祇園城に拠って兵を挙げ、守護代木戸修理亮は国の兵を発し、不可惠山(注:○可は一に留に作る)に陣を布いた。若犬丸はこれを襲撃して走らせた。足利氏満はまた自ら兵を率いて下総に至り、古河城に陣を布いた。若犬丸はその勢いに敵しがたいと察し、城を捨てて逃げた。氏満は国中を探させたが、見つからなかった。(注:『鎌倉大草子』『僧頼印行状』による。)これより後、若犬丸は転々として定まる所がなかった。応永三年、陸奥に至り、ひそかにかつて勤王した者たちの子や甥を招き集め、これによって義挙を図った。田村荘司・坂上清包がこれに応じた。これより先、新田義宗の子義則(注:義則の名は『喜連川系図』による)は、陸奥に身を隠していた。若犬丸は清包と議し、義則を立てて将とし、近国に義を唱えた。武蔵・上野の義徒がことごとく馳せ参じた。若犬丸はそこで義則・清包らとともにその兵を率い、進んで白河関に至った。足利氏満は自ら関東十か国の兵を統率して白河に至った。若犬丸らは最終的に敵しがたいと知り、自ら潰えて去った。その後の消息は分からない。二子があり、なお幼く、民間に身を隠していた。芦名盛政がこれを捕らえて鎌倉に送り、六浦の海に沈めた。(注:『鎌倉大草子』による。)