卷之一百七十八 列傳第一百五
藤原宣房、藤原為明、藤原良基、藤原公賢ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原宣房
¶藤原宣房(ふじわらののぶふさ)は、もとの名を通俊(みちとし)といい、従三位資通の子である(注:尊卑分脈・公卿補任による)。家号は万里小路(までのこうじ)、あるいは吉田といった(注:尊卑分脈による)。亀山天皇の代に従五位下に叙せられ、次第に昇進して蔵人頭となり、左中弁を兼ね、参議に任じられ、弾正大弼を兼ねた。後二条天皇が崩御すると、宣房は官を罷免され、散位のまま十余年を過ごした。後醍醐天皇が即位するに及んで再び出仕し、たいへん寵愛されて権中納言に任じられた(注:公卿補任による)。天皇が北条氏を討とうと謀ったが、事はほぼ漏れてしまった。北条高時は権中納言藤原資朝(ふじわらのすけとも)・蔵人頭藤原俊基(ふじわらのとしもと)を捕らえて鎌倉に連行し、公卿たちは皆恐れおののいて立ち尽くした。その夜、天皇は前権中納言藤原冬房(注:あるいは冬方、あるいは定房とも書く)を顧みて、「資朝・俊基が捕らえられた。高時が今度どのような凶事をなすか分からない。そなたよく計らってくれ」と言った。冬房は「近頃武臣が横暴になっている。まず釈明の文書を送り、その怒りを鎮めるのがよいでしょう」と答えた。すぐに文案を作らせ、天皇はそれを読んで涙を紙の上に落とし、自ら御袖でそれを拭った。左右の者は皆悲しみ嘆いた(注:太平記による)。宣房にこれを持たせて鎌倉へ行かせ、説得させた。高時に会って事情を明らかに説明すると、事はそのおかげで解決し、二人は死を免れることができた(注:増鏡・太平記を参照してまとめた)。宣房は帰京して権大納言となり(注:公卿補任・増鏡による)、勅許を得て帯剣を許され、まもなく正官に転じた(注:公卿補任による)。天皇が笠置に行幸するに及び、宣房はその子藤房(ふじふさ)・季房(すえふさ)が謀に加わっていたため捕らえられた(注:公卿補任・増鏡・光明寺蔵書残篇・太平記を参照してまとめた)。光厳院は宣房ら十人の官爵を剥奪した(注:増鏡による)。北条高時は宣房が世に名声があったことから、家に放還し、朝廷に官職の回復を奏請した。光厳院はこれを許し、藤原資明(ふじわらのすけあき)を遣わして起用の旨を伝えさせ、「もし命令を受け入れるならば、ご子息は必ず召還されて元の官職に戻されるでしょう。私が貴殿のためにこれを保証します」と言わせた(注:太平記による)。宣房はそこで出仕した(注:公卿補任・太平記による)。天皇が京に還ると、官職はもとのままとされ、陸奥出羽按察使を兼ね、まもなくこれを辞し、従一位に昇った。延元元年、剃髪した(注:公卿補任による)。天皇が再び延暦寺に行幸した際にはお供をし、また京に還るのに従った(注:太平記による)。その後光明院に仕えた。宣房は歴代の天皇に仕え(注:公卿補任による)、故実典礼に広く通じていた(注:万一記・臥雲日件録による)。その日記に万一記がある(注:万一記による)。二人の子、藤房・季房には別に伝がある。養孫の仲房(なかふさ)が家を継いだ(注:公卿補任・尊卑分脈による)。正平六年、吉野行在所に参上した(注:園太暦・太平記による)。事情が合わなかったため、留まることを許されず京に戻った(注:園太暦による)。その後後円融院に仕え、官は准大臣にまで至った(注:公卿補任による)。
藤原為明
¶藤原為明(ふじわらのためあき)は、権中納言為藤(ためふじ)の子である。永仁四年、従五位下に叙せられて侍従となり、まもなく左近衛少将に任じられた。正中三年、左近衛中将に転じた(注:公卿補任による)。和歌に巧みであった。後醍醐天皇が和歌会を催すたびに、必ず召されて出席した。北条氏討伐の謀が漏れた際、六波羅に捕らえられ、尋問を受けようとした。彼は歌人であって疑うべき者ではなく、ただ度々宴集に列しただけで、あるいは天皇の意向を知っているかもしれないとされた。脅して真実を得ようとし、青竹を熾った炭の上に敷き、これを引いて踏ませようとした。為明は顔色を変えず、静かに硯を求めて歌を詠んだ。「思ひきや(於毛比幾夜)、我が敷島の(和我志幾志磨能)、道ならで(美知奈羅傳)、憂き世の事を(宇幾與能古斗遠)、問はるべしとは(斗波流倍志斗波)」。常葉範貞(ときわののりさだ)らはこれを読んで感嘆し、それ以上問いただすことなく釈放した。天皇が御所を出た際、大納言藤原師賢(ふじわらのもろかた)に従って延暦寺に赴いたが、事が敗れると笠置に赴き、城が落ちて捕らえられた(注:太平記による)。尊良親王(たかよししんのう)に従って土佐に流され(注:増鏡・新葉和歌集による)、事が平定されると京に還った。正平年間、崇光院から従三位を授けられた。南北朝が和睦するに及んで吉野の行宮に参上し、参議に任じられた。十四年、権中納言に転じ、侍従を兼ねた。翌年、正三位に叙せられた(注:公卿補任による)。後光厳院の命により新拾遺和歌集を撰したが、完成しないうちに薨じた(注:尊卑分脈・拾芥抄による)。
藤原良基
¶藤原良基(ふじわらのよしもと)は、関白道平(みちひら)の子である。元徳の初め、権中納言に任じられたが、まもなくこれを辞した。光厳天皇が即位すると、再び本官に任じられた。後醍醐天皇が入京すると、権大納言に転じた。その後光明・崇光・後光厳・後円融の四代に仕え、右大臣に進み、皇太子傅を兼ねた。正平年間、関白・氏長者となり、従一位に叙せられ、左大臣に転じ、後に関白を辞した。弘和年間、太政大臣を拝命し、摂政となった。元中五年、六十九歳で薨じた(注:公卿補任による。尊卑分脈は六十三歳とする)。後普光園院と称された(注:尊卑分脈・摂関次第による)。
¶良基は和歌に巧みで、博覧強記、故実に精通していた。後醍醐天皇が隠岐から還った際、儀式に用いる器物や供奉の作法を詳しく進言した。かつて心を北朝に寄せ、また足利尊氏・直義らと常に親しくしていた。興国・元中の頃、争乱が相次ぎ、書籍は散逸し、典章制度は廃れて整わなかった。良基は旧来の儀礼を斟酌し、問いに応じて明快に説明し、考証も正確であったので、光明天皇以下五代の師範となった。足利氏と親しかったことから、諸家の旧記を多く手に入れることができた。そのため宮中への出入りが日に日に盛んになり、朝廷も幕府もこれによって拠り所を得た(注:諸書の大意を参照してまとめた)。著書に御禊記・榊葉日記などがあり、世に伝わっている(注:仁和寺書籍目録による。世間では、後光厳天皇が即位した際、三種の神器がなく、議論する者は皆これを憂えたが、良基が「足利尊氏を宝剣に見立て、私を神璽に見立てれば十分です。神器がないことを憂える必要はありません」と奏上したと伝えられる。しかし諸書に記載がないので、ここでは採用しない)。七人の子があり、長男は師良(もろよし)、次男は師嗣(もろつぐ)、残りは皆僧となった(注:尊卑分脈による)。師良・師嗣は共に高い地位を保って生涯を終えた(注:尊卑分脈・公卿補任・摂関次第による)。
藤原公賢
¶藤原公賢(ふじわらのきんかた)は、左大臣実泰(さねやす)の子である。延慶年間、参議に任じられた。正和・文保の間に累進して正二位となり、大納言となった。嘉暦元年、右近衛大将・右馬寮御監を兼ねた(注:公卿補任による)。後醍醐天皇の寵姫廉子(れんし)の仮の父であったことから、たびたび寵愛を受けた(注:女院小伝による)。元徳二年、内大臣を拝命した。元弘の初め、官職を辞した。天皇の車駕が隠岐から還ると、再び内大臣となり、式部卿を兼ねた。まもなく従一位右大臣を授けられ、春宮傅を兼ねた(注:公卿補任による)。足利尊氏が再び京都に攻め入ると、公賢は延暦寺への行幸に従った(注:諸種の異本太平記による)。その後光明院に仕え、左大臣となった。正平年間、太政大臣を拝命したが、まもなくこれを辞した。尊氏が降伏を願い出て、後村上天皇が京に還ろうとした際、公賢は左大臣に任じられ(注:公卿補任による)、後院別当を兼ねた。天皇の直筆の詔で庶務を委ねられ、適宜これを処理した。まもなく男山が守り切れなくなり(注:園太暦による)、その後は後光厳院に仕え、剃髪して空元(くうげん)と号した(注:公卿補任による)。十五年四月、七十歳で薨じた(注:園太暦系図・尊卑分脈による)。
¶公賢の家には多くの蔵書があり、博覧にして広く物事に通じ、礼式典故に習熟していた。太政官の職を辞していたが、長年の名望によって重んじられ、光明院以降、事あるごとに諮問を受けた。当時は戦乱が続き、朝廷の儀礼が廃れて欠けていたが、彼の助言によって多く正されるところがあった。著書に園太暦・皇代暦・歴代最要抄・略代抄がある(注:園太暦による。本書にはまた歴代抄・歴代要官抄とも記されているが、これらは恐らく皆最要抄の別名であろう)。長男は実世(さねよ)、次男は実夏(さねなつ)で、残る十四人の子は皆僧となった(注:園太暦系図・尊卑分脈による)。実世には別に伝がある。
藤原實夏
¶藤原実夏(ふじわらのさねなつ)は、建武年間、記録所寄人となり(注:公卿補任・建武二年祭による)、権左中弁に任じられ、その後光明・崇光の二代に仕え、従三位に叙せられて参議に任じられ、権大納言に進んだ(注:公卿補任による)。正平七年、詔を受けて行宮に参上し、特に本来の位である権左中弁から権中納言正三位に抜擢され、参議従三位などに叙任されていた期間を延元・興国年間の官籍に追加して記録することを許された。これにより度々行き来して奉仕した。まもなく後光厳院に仕えることに戻り、本来の官職に復した(注:園太暦による)。最終的には従一位内大臣、左近衛大将を兼ねるに至った(注:公卿補任・尊卑分脈による)。三人の子、公定(きんさだ)・公為(きんため)・公頼(きんより)があった(注:園太暦系図・尊卑分脈による)。公定は官が左大臣従一位に至り(注:公卿補任・園太暦系図・尊卑分脈による)、系譜学に精通し、尊卑分脈若干巻を著した(注:尊卑分脈による)。
藤原資名
¶藤原資名(ふじわらのすけな)は、権大納言俊光(としみつ)の子で、権中納言資明(すけあき)の兄である(注:尊卑分脈による)。後伏見法皇の時代、深く目をかけられた(注:増鏡による)。後醍醐天皇の代、累進して正二位権大納言に至った(注:公卿補任による)。そもそも伏見天皇の即位に際して北条貞時が定めた方策により、後深草・亀山両天皇の子孫が交互に皇統を継ぐこととなっていた。後深草天皇の系統を持明院統という。当時後醍醐天皇は亀山天皇の孫として即位していたが、後伏見法皇の皇子量仁(かずひと)親王を皇太子に立てていた。天皇はちょうど北条高時を除く謀をめぐらしていたので、法皇は量仁親王を早く即位させようと、密かにその事情を鎌倉に告げた。元弘元年、北条高時は京都に兵を派遣し、天皇はひそかに宮を出て笠置に行幸したが、高時の兵がこれを攻め落とし、天皇を六波羅に幽閉した。大仏貞直(おさらぎさだなお)らは三種の神器を量仁親王に伝えるよう求めたが、天皇はこれを承知しなかった。仲時(なかとき)らが強く求めてやまなかったため、天皇はやむなく資名と源具親(みなもとのともちか)に命じて新たに器を作らせて量仁親王に伝えさせ、ついに天皇は隠岐に遷された。光厳天皇が京都で即位すると、資名は最も寵任され、その要職を掌握した。元弘三年、天下の義軍が一斉に挙兵し、京都に進み入った。資名とその弟資明は急いで光厳院を促し、六波羅に入って守らせた。北条仲時らは戦いに敗れ、光厳院および後伏見・花園両上皇を奉じて東へ逃れ、資名や藤原経顕(ふじわらのつねあき)らがこれに従った。近江の番場(ばんば)に至ると、従軍していた軍勢は総崩れとなり、光厳天皇と両上皇は守良親王(もりよししんのう)の軍に捕らえられた。資名は光厳天皇の側近であったため罪を免れられないことを恐れ、髪を剃って逃げ去った。まもなく高時が誅殺され、天皇の車駕は京都に還った(注:太平記による)。光厳院は廃されて太上天皇とされ、持明院に退いて住んだ(注:皇年代略記による)。資名は数年間身を隠していたが、やがて足利尊氏の乱が起こった。もともと熊野別当道有(どうゆう)は日頃から資名と親しく、尊氏が西へ逃れるに及んで、大義名分がないことを憂い、持明院統を擁立しようとし、両統の争いを口実にしようとする考えがあった。そこで道有を京都に遣わし、密かにその意向を資名に伝えさせた。資名はそこで(後醍醐天皇の)廃位の宣旨を願い出て、僧賢俊(けんしゅん)にこれを持たせて尊氏に届けさせた。尊氏はそこで鎮西の兵を率い、長駆して京都に入り、東寺に拠って陣とした。新田義貞(にったよしさだ)は天皇を奉じて延暦寺に行幸させ、太田全職(おおたぜんしょく)に命じて花園法皇と廃位された天皇を護送させ、延暦寺に至らせた。光厳院はもとより尊氏と密かに通じており、途中で病と称して法勝寺に駐まった。まもなく尊氏が京都に入って市街戦となり、全職はそちらに駆けつけようとして、光厳院の側近に「敵兵が迫っています。皆様はしばらくここに留まってお待ちください。すぐに輿を促して参ります」と言った。資名はそこで法皇と光厳院を東寺の尊氏のもとへ連れて行った。こうして皇統は両立し、天下はついに南北に分かれることとなった(注:太平記による。本書には、全職が光厳院を留めて、法皇と豊仁(とよひと)親王だけを連れて去ったとあるが、これは誤りである。今は北条家本・西源院本・南都本に従う)。弟は資明(注:尊卑分脈による)。
藤原資明
¶藤原資明(ふじわらのすけあき)は、累進して正二位権大納言に至った(注:公卿補任・尊卑分脈による)。六波羅が敗れると、新天皇(光厳天皇)に従って東へ逃れた(注:増鏡による)。天皇が隠岐から帰ると、詔によってその罪を赦され、官爵を回復した(注:公卿補任による)。足利尊氏が鎮西の兵を率い、再び京都を攻めた。資明は天皇の延暦寺行幸に従ったが(注:資明が行幸に従ったことは西源院本による)、ひそかに光厳院のもとから抜け出し、尊氏の軍に入った。尊氏は光厳院が以前自分を援助してくれたことがあったので、その地位を回復させようとした。しかし人々は、光厳院の皇位継承がうまくいかなかったのは北条氏が滅亡したことと関わりがあるとして、これを嫌った(注:太平記による)。そこで光厳院の弟豊仁(とよひと)親王を立てた。これが光明院である(注:天正本太平記による)。天皇が延暦寺から還り、花山院に入ると、尊氏は神器の引き渡しを迫った。天皇はまた新たに作らせた神器をこれに授けた。光明院が即位して十二年、伊勢国崎の神戸(かんべ)に円成(えんじょう)という僧がおり、伊勢神宮に参詣して宝剣を得たと称し、これを資明のもとに持参した。資明は足利直義(ただよし)・平野神社の神主卜部兼員(うらべかねかず)らと謀り、これを朝廷に奏上した。その言うところによれば、「円成が神宮に参詣しようとして海の潮に浴していると、何か光り輝くものが漂い寄ってきた。長さは十握(とつか)ほどで、柄は三鈷(さんこ)のような形をしていた。それを持って神宮に参ると、たちまち一人の童子が現れ、何かに憑かれたように円成を指して、『治承以来、王室には多難が続き、天下はしばしば乱れた。これはまことに神剣がなく皇位を守れなかったためである。今、天照大神が海神に命じて、これをもたらされたのだ』と言った。この僧が持っているのがそれである」という。祭主らはこの事情を詳しく記録し、円成はそれを持って京都へ向かった。途中、長谷寺に参詣して宿泊したところ(注:長谷寺とするのは天正本による。本書には春日社とある)、傍らにいた人が「今夜、私は法師の言葉が天子に届く夢を見た。あなたがまさにその人ではないか」と言った。その人に尋ねると、資明の門客であった。光明院は大いに喜び、円成を大僧都に任じ、摂津国葛葉(くずは)の関税を与えた。内大臣藤原経顕がこれを諫めると、光明院はその諫めに従い、宝剣を返して平野社に納めさせた(注:太平記による)。正平八年、五十七歳で薨じた(注:園太暦・常楽記による)。
藤原經顯
¶藤原経顕(ふじわらのつねあき)は、権中納言定資(さだすけ)の子である。初めは後醍醐天皇に仕え、参議に任じられた。天皇が隠岐に行幸すると、京に留まって光厳院に仕え、中納言に任じられた。崇光・後光厳・後円融の四代に歴仕し、たいへん親任されて、累進して従一位内大臣に至った(注:公卿補任による。たいへん親任されたというのは太平記による)。藤原資明と権勢を争い、互いに軋轢があった。資明が宝剣を光明院に献上した件は、まことに現実離れした荒唐無稽なものであった。経顕はこれを諫めて、「宝剣が失われてから、今日まで既に百六十余年になります。それが失われたのはもともと治世の時であったはずで、どうして今のような乱世に現れるのでしょうか。もし聖徳の隆盛に応じてのことであれば、天下は安寧でなければならないはずです。今は禍乱がしばしば起こり、戦乱がやみません。この剣が何に応じて出現したのか分かりません。私が思いますに、この件は資明の姦計と偽りから出たもので、佞臣がへつらって陛下の聡明を欺いているのです。陛下がこれを本当のことと思われれば、恐らく天下の物笑いとなりましょう。また葛葉の関税は、長らく東大寺に与えられてきたものです。今理由もなくこれを奪えば、僧たちは必ず怨みを訴えるでしょう。どうか速やかに先の宣旨を取り消し、もとのように東大寺に返し与えてください」と述べた。光明院はこれに従い、ついにこれを返させた(注:太平記による)。これによって、二人の仲はますます悪化した(注:異本太平記による)。文中二年、七十六歳で薨じた(注:公卿補任・尊卑分脈による)。芝山内大臣と称され、また勧修寺とも称された(注:尊卑分脈による)。