卷之九十七 列傳第廿四

皇子十二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次40
  1. 恒尊親王
  2. 雅尊親王
  3. 貞良親王
  4. 圓助法親王
  5. 淨助法親王
  6. 省仁親王
  7. 覺助法親王
  8. 忠助法親王
  9. 最助法親王
  10. 慈助法親王
  11. 仁慧法親王
  12. 僧勝助
  13. 幸仁親王
  14. 滿仁親王
  15. 行覺法親王
  16. 深性法親王
  17. 恒助法親王
  18. 知仁親王
  19. 啟仁親王
  20. 繼仁親王
  21. 守良親王
  22. 兼良親王
  23. 桓明親王
  24. 良助法親王
  25. 僧道性
  26. 聖雲法親王
  27. 覺雲法親王
  28. 定良親王
  29. 性慧法親王
  30. 性覺法親王
  31. 性融法親王
  32. 順助法親王
  33. 慈道法親王
  34. 行圓法親王
  35. 恒雲法親王
  36. 益性法親王
  37. 道澄法親王
  38. 僧尊誓
  39. 寬尊法親王
  40. 尊珍法親王

恒尊親王

後嵯峨(ごさが)天皇には十五人の皇子があった。中宮藤原氏は、後深草(ごふかくさ)帝・亀山(かめやま)帝・恒尊(つねたか)親王・雅尊(まさたか)親王・貞良(さだよし)親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。『東鑑』は雅尊親王を四宮と称するが、生没の時期から推すと実際には第四子ではない。中宮所生の子として数えて第四番目としたのであろう。よってこの説は採らない)。典侍(ないしのすけ)平棟子(たいらのむねこ)は第二子宗尊(むねたか)親王を生んだ(注:『五代帝王物語』『増鏡』による。『歴代皇紀』および『増鏡』の一説、『東鑑』は第一子とする。今、生年から推して本書の説に従う)。掌侍(ないしのじょう)藤原氏は第十子覚助(かくじょ)法親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』による。第十子とするのは『釈家官班記』による)。御匣殿(みくしげどの)藤原氏は第九子省仁(せいにん)親王(注:『諸門跡譜』『釈家官班記』による。『百錬抄』『歴代皇紀』は第三子とする。『百錬抄』の一説には第四子、『仁和寺御伝』には第六子とある。しかし弘安五年に薨じ享年三十六とする記述から推せば、その誕生は亀山帝の誕生より前になる。とすれば『百錬抄』の一説が実情に近いであろう。ただし他の書に証拠となるものがないので、今はひとまず本書の説に従っておく)と忠助(ちゅうじょ)法親王を生んだ(注:『諸門跡譜』による)。宮人藤原氏は仁慧(にんえ)法親王を生んだ。藤原氏は最助(さいじょ)法親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。藤原氏は第十三子慈助(じじょ)法親王を生んだ(注:『諸門跡譜』による)。藤原氏は第一子円助(えんじょ)法親王を生んだ(注:『増鏡』による。『釈家官班記』『諸門跡譜』はいずれも第七子とする。今、生年から推して本書の説に従う)。藤原氏は浄助(じょうじょ)法親王を生んだ。源氏は僧勝助(しょうじょ)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。宗尊親王については別に伝がある。

雅尊親王

恒尊(つねたか)親王。(原文の本文はこの一句のみで、雅尊親王自身についての記事はない。)

貞良親王

雅尊親王は(注:『東鑑』には雅を惟につくるが、誤りである)、建長六年に親王となった(注:『百錬抄』『一代要記』による)。康元元年九月に薨じ、享年三歳であった(注:『百錬抄』による)。

圓助法親王

貞良親王は、正嘉元年に親王となり(注:『百錬抄』『一代要記』による)、正元二年三月に薨じた。享年四歳であった(注:『一代要記』による)。

淨助法親王

円助(えんじょ)法親王は美しい容姿の持ち主で、帝(後嵯峨天皇)に深く寵愛された(注:『百錬抄』『一代要記』による)。建長元年、円満院に入って剃髪し、仁助法親王に師事した(注:『岡屋関白記』『百錬抄』『増鏡』による)。権大僧都となり、のち親王に陞った(注:『岡屋関白記』『百錬抄』『一代要記』『釈家官班記』による)。正嘉元年、円城寺長吏となった。弘長二年、四天王寺別当となった(注:『僧官補任』による)。のちに牛車の使用を許された(注:『皇胤紹運録』による)。文永十一年、直ちに二品を授けられた(注:『釈家官班記』による)。園城寺長吏が二品を授けられたのは、これが初めてである。弘安五年八月に薨じ(注:『歴代皇紀』、『園太暦』貞和二年条による)、享年四十七であった(注:『歴代皇紀』による。『一代要記』は正元元年に薨じ享年二十二とする)。金龍寺と称した(注:『諸門跡譜』による。『一代要記』は禅林寺につくる)。

省仁親王

浄助(じょうじょ)法親王は円満院に住した(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『諸門跡譜』による)。弘安三年十一月に薨じ(注:『一代要記』『歴代皇紀』、『園太暦』貞和二年条による)、享年二十八であった。青蓮華院と称した(注:『諸門跡譜』による)。

覺助法親王

省仁親王は、建長三年に親王となった。正嘉元年、仁和寺に入り、僧法助の弟子となった。剃髪して性助と改名した(注:『皇胤紹運録』『百錬抄』『一代要記』『帝王編年記』による。『仁和寺御伝』は建長三年に仁和寺に入ったとし、『釈家官班記』は僧道深の弟子になったとするが、いずれも誤りであろう)。翌年、六勝寺検校に補せられ、綱所を賜り、さらに仁和寺寺務に補せられた(注:『仁和寺御伝』による)。文永十一年、直ちに二品を授けられた(注:『釈家官班記』による)。弘安五年十二月に薨じ、享年三十六であった(注:『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による)。後中御室と称し(注:『仁和寺御伝』『釈家官班記』『諸門跡譜』による)、また甘露王院御室(注:『仁和寺御伝』による)、あるいは禅林寺とも称した(注:『帝王編年記』による)。

忠助法親王

覚助(かくじょ)法親王は、僧静忠の弟子となり、聖護院に住した(注:『釈家官班記』による)。文永五年、園城寺長吏に任じられた(注:『僧官補任』による)。正安二年、直ちに二品を授けられ(注:『釈家官班記』による)、のちに一品に進んだ(注:『皇胤紹運録』『僧官補任』による)。嘉元元年、四天王寺別当に補せられた(注:『僧官補任』による)。皇子で出家した身でありながら一品を授けられたのは、これが初めてである。

最助法親王

忠助(ちゅうじょ)法親王は聖護院に住した。正応二年、園城寺長吏となり(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『僧官補任』による)、三年八月に薨じた(注:『歴代皇紀』、『園太暦』貞和二年条による)。最助(さいじょ)法親王は梶井に入り、澄覚法親王の弟子となった(注:『諸門跡譜』による)。のちに円融房に住した。弘安九年、天台座主となった(注:『諸門跡譜』『天台座主記』による)。正応四年、四天王寺別当に任じられた(注:『僧官補任』による)。永仁元年二月に薨じ(注:『園太暦』貞和二年条による)、享年四十一であった(注:『天台座主記』の弘安九年時点で三十四歳とする記述による)。

慈助法親王

慈助(じじょ)法親王は尊助法親王の弟子となり、青蓮華院に住した(注:『皇胤紹運録』『天台座主記』による)。正応年間に天台座主となること二度に及び(注:『帝王編年記』『天台座主記』『僧官補任』による)、牛車の使用を許された(注:『皇胤紹運録』による)。永仁三年七月に薨じ(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』、『園太暦』貞和二年条、『諸門跡譜』による)、享年四十二であった(注:『歴代皇紀』による)。市河宮と称した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『僧官補任』による)。

仁慧法親王

仁慧(にんえ)法親王は法住寺に入り、静仁法親王のもとで学んだ。文永四年、大僧都となり(注:『皇胤紹運録』による)、のちに親王に陞った。双林寺、また新熊野とも称した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。

僧勝助

僧勝助(しょうじょ)は仁和寺に入って教えを受け、保寿院に住し、また勝法院とも称した(注:『皇胤紹運録』による)。

幸仁親王

後深草(ごふかくさ)天皇には七人の皇子があった。宮人藤原愔子(ふじわらのおんし)は伏見(ふしみ)帝(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』による)と第三子満仁(みつひと)親王を生んだ(注:『仁和寺御伝』『諸門跡譜』は第四子とする)。三善忠子(みよしのただこ)は第四子深性(じんしょう)法親王を生んだ(注:『釈家官班記』『諸門跡譜』は第六子とする)。藤原成子(ふじわらのせいし)は第一子幸仁(ゆきひと)親王を生んだ。御匣殿藤原房子(ふじわらのふさこ)は第六子久明(ひさあきら)親王(注:『皇胤紹運録』による。諸皇子の生まれた順序については諸書に異同があるので、今その生没年から推して訂正した)と第五子行覚(ぎょうかく)法親王を生んだ。典侍藤原氏は第七子恒助(こうじょ)法親王を生んだ(注:『諸門跡譜』による)。久明親王については別に伝がある。

滿仁親王

幸仁親王は、文永二年十月に薨じ、享年四歳であった(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。『一代要記』『歴代皇紀』はいずれも文永九年五月に薨じたとするが、誤りである)。

行覺法親王

満仁(みつひと)親王は、文永八年に親王となった。弘安元年、仁和寺に入り(注:『仁和寺御伝』による)、性助親王の弟子となった(注:『仁和寺御伝』『釈家官班記』による)。剃髪して性仁と改名した(注:『皇胤紹運録』『仁和寺御伝』による)。弘安二年、六勝寺検校に補せられた。五年、仁和寺寺務に補せられた。六年、一身阿闍梨となった。九年、綱所総法務を賜った(注:『仁和寺御伝』による)。正応元年、直ちに二品を授けられた。正安二年、一品に進んだ(注:『仁和寺御伝』『釈家官班記』による)。嘉元二年八月に薨じ、享年三十八であった。高雄御室と称した(注:『諸門跡譜』による。『仁和寺御伝』は一品に進んだのを嘉元二年のこととする)。

深性法親王

行覚(ぎょうかく)法親王は円満院に住した(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『諸門跡譜』による)。正応二年、園城寺長吏に任じられ(注:『僧官補任』による)、ほどなく四天王寺別当となった(注:『諸門跡譜』による)。永仁元年九月に薨じ、享年二十一であった(注:『歴代皇紀』による)。

恒助法親王

深性(じんしょう)法親王は、弘安十年、仁和寺に入り、性仁法親王のもとで教えを受けた。正応元年、親王となった(注:『仁和寺御伝』による)。永仁元年、直ちに二品を授けられた(注:『仁和寺御伝』『釈家官班記』による)。翌年、一身阿闍梨となった。三年、六勝寺検校に補せられた。五年、綱所を賜った。正安元年六月に薨じ、享年二十九であった(注:『仁和寺御伝』による。『釈家官班記』『諸門跡譜』は享年二十五につくる)。尊勝院御室と称した(注:『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による)。

知仁親王

恒助(こうじょ)法親王は円満院に住し、園城寺長吏となり、四天王寺別当に任じられた(注:『諸門跡譜』による)。延慶三年七月に薨じ、享年二十であった(注:『歴代皇紀』による)。金龍寺と称した(注:『諸門跡譜』による)。

啟仁親王

亀山(かめやま)天皇には二十四人の皇子があった。皇后藤原氏は、知仁(ともひと)親王と後宇多(ごうだ)帝を生んだ。女御藤原位子(ふじわらのいし)は啓仁(ひろひと)親王と継仁(つぐひと)親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)。典侍藤原氏は第七子良助(りょうじょ)法親王(注:『諸門跡譜』による)と聖雲(しょううん)法親王、第十子覚雲(かくうん)法親王を生んだ(注:第十子とするのは『釈家官班記』による)。平氏は順助(じゅんじょ)法親王、第十六子慈道(じどう)法親王(注:第十六子とするのは『釈家官班記』『諸門跡譜』による)、行円(ぎょうえん)法親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。宮人藤原瑛子(ふじわらのえいし)は恒明(つねあきら)親王を生んだ。藤原寿子(ふじわらのじゅし)は定良(さだよし)親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。『園太暦』観応二年条は恒明を帝の末子とする)。某氏は尊珍(そんちん)法親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。藤原氏は第五子守良(もりよし)親王を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。第五子とするのは『太平記』による)。

繼仁親王

藤原氏は性慧(しょうえ)法親王を生んだ。源氏は性覚(しょうかく)法親王を生んだ。某氏は僧道性(どうしょう)、第十九子益性(やくしょう)法親王、性融(しょうゆう)法親王を生んだ。藤原氏は恒雲(こううん)法親王を生んだ。藤原氏は道澄(どうちょう)法親王を生んだ。藤原氏は兼良(かねよし)親王を生んだ。某氏は道性を生んだ。第十九子益性法親王、僧尊誓(そんせい)、二十三子寛尊(かんそん)法親王は、いずれも生母が伝わらない(注:『皇胤紹運録』による。十九子・二十三子とする数え方は『釈家官班記』による。『帝王編年記』には慧覚・守性の二人が載るが、他の書には見えないので、今は採らない)。

守良親王

知仁(ともひと)親王は、文永四年八月に薨じ、享年三歳であった(注:『帝王編年記』『一代要記』による。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』は享年二歳につくる)。

兼良親王

啓仁(ひろひと)親王は、弘安元年十二月に薨じ、享年三歳であった(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『歴代皇紀』による)。

桓明親王

継仁(つぐひと)親王は、弘安三年九月に薨じ(注:『一代要記』『増鏡』による)、享年二歳であった(注:『歴代皇紀』『増鏡』による)。継仁が生まれてまだ数か月のころ、帝(亀山天皇)に従って修明門院(しゅめいもんいん)とともに万里小路殿(までのこうじどの)へ行幸したことがあった。当時朝廷はちょうど倹約を命じる詔を下していたので、帝と継仁の乗る車は、いずれも急いで鍍金を剥がし、車の帷(とばり)も丈を短くして地に曳かないようにした。道端でこれを見た人々の中には、車の飾りが華美なものがあれば、ことごとく役人に壊されてしまう例もあった。人々はこれを不吉なこととし、果たして継仁は早世したという(注:『増鏡』による)。

良助法親王

守良(もりよし)親王は四品を叙せられ、兵部卿となった。のちに剃髪し、法名を覚静といった。世に五辻宮(いつつじのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)。近江(おうみ)の伊吹山のふもとに隠棲していた。元弘の変の際、北条仲時(ほうじょうなかとき)が新帝を奉じて近江まで逃れてきたが、付近の民兵たちが守良親王を主として奉じ、番場峠(ばんばとうげ)に拠ってこれを迎え撃った。仲時とその一党はみな自害した。新帝および後伏見(ごふしみ)・花園(はなぞの)の両上皇、皇太子康仁(やすひと)親王が捕らえられ(注:『増鏡』『太平記』による)、その後、守良親王の行方は知れなくなった(注:『尊卑分脈』は元弘二年に薨じたとするが、誤りである)。

僧道性

兼良(かねよし)親王は、正応五年十月に薨じた(注:『尊卑分脈』による)。

聖雲法親王

恒明(つねあきら)親王は、とりわけ帝(亀山天皇)に鍾愛された(注:『園太暦』による)。一品を叙せられ(注:『皇胤紹運録』、『園太暦』観応二年条による。『一代要記』は二品につくる)、式部卿となった(注:『皇胤紹運録』『園太暦』『尊卑分脈』による)。のちに剃髪した(注:法名は伝わらない)。正平六年九月に薨じ、享年四十九であった(注:『園太暦』による。『後愚昧記』は正平二十二年に薨じたとする)。恒明は常磐井殿に住したので、世に常磐井宮(ときわいのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。子の全仁(たけひと)は親王となり、三品を叙せられ(注:『皇胤紹運録』による)、中務卿に任じられ、太宰帥を兼ねた。ほかの十人の子は、いずれも出家して僧となった(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)。全仁の子の満仁(みつひと)もまた親王となり、弾正尹に任じられたが、出家して僧となった(注:『尊卑分脈』による)。当時、満仁が寵愛する妾を着飾らせて足利義満に贈り、これによって親王の地位を得たのだと噂されたという(注:『後愚昧記』による)。

覺雲法親王

良助(りょうじょ)法親王は青蓮華院に入り(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)、尊助法親王の弟子となった(注:『天台座主記』による)。正安元年、天台座主となった(注:『僧官補任』『天台座主記』による)。文保二年八月に薨じ、享年五十一であった(注:『歴代皇紀』による)。常寿院と称した(注:『皇胤紹運録』『僧官補任』による。常寿は善法とも書く)。良助はかつて大和(やまと)の多武峰(とうのみね)清浄院に住したが、のちに還俗して吉野郡冬野邑(ふゆのむら)に隠れ住み、みずから多武峰優婆塞(うばそく)と称し、ついにその地で生涯を終えた。『法華経疏』を著し、天台の学徒たちはこれを尊んだ(注:『諸門跡譜』による)。

定良親王

僧道性(どうしょう)は蓮華光院に住し、また三宝院にも住した(注:『諸門跡譜』による)。弘安六年、醍醐寺座主となった(注:『醍醐寺座主次第』による)。のちに僧正となった(注:『皇胤紹運録』による)。早くに薨じた(注:『帝王編年記』『安井代々門跡次第』による)。西院と称し(注:『諸門跡譜』による)、あるいは閼伽井宮(あかいのみや)とも称した(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『安井代々門跡次第』による。『編年記』は道性法親王につくるが誤りである。『醍醐寺座主次第』は安井宮につくる)。

性慧法親王

聖雲(しょううん)法親王は三宝院に住した(注:『諸門跡譜』による)。はじめ僧正となり、のちに親王に陞り(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)、二品を叙せられ、醍醐寺座主となること二度に及んだ(注:『醍醐寺座主次第』による)。正和三年六月に薨じ、享年四十四であった(注:『諸門跡譜』による)。蓮智院と称し(注:『皇胤紹運録』による)、また宝池院とも称した(注:『一代要記』『帝王編年記』『醍醐寺座主次第』による)。

性覺法親王

覚雲(かくうん)法親王は澄覚法親王の弟子となり、梶井に入り(注:『釈家官班記』による)、のちに円融房に住した(注:『天台座主記』による)。弘安八年、親王となった(注:『一代要記』による)。正和四年、直ちに二品を授けられた(注:『釈家官班記』による)。前後して天台座主となること二度に及んだ(注:『僧官補任』『諸門跡譜』による)。元亨三年十月に薨じた(注:『園太暦』貞和二年条による)。菩提院と称した(注:『帝王編年記』『僧官補任』による)。

性融法親王

定良(さだよし)親王は、永仁五年に出家して僧となり、叡雲(えいうん)と改名し、梶井に住した(注:『皇胤紹運録』による)。早くに薨じた(注:『諸門跡譜』による。『一代要記』は叡雲を別人とするが、おそらく誤りである)。

順助法親王

性慧(しょうえ)法親王は僧道教の弟子となり、妙法院に住した(注:『諸門跡譜』による)。弘安八年、親王となった(注:『一代要記』による)。上野宮(こうずけのみや)と称し、また綾小路宮(あやのこうじのみや)とも称した(注:『皇胤紹運録』による)。

慈道法親王

性覚(しょうかく)法親王は円満院に住し(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)、三度園城寺長吏となった(注:『僧官補任』による)。柏宮(かしわのみや)と称した(注:『帝王編年記』『僧官補任』による。『諸門跡譜』の円満院の項には、行悟法親王は亀山帝の子で、園城寺長吏・四天王寺別当を務め、後円満院と称したとあるが、おそらく性覚法親王と同一人物であろう。ただし確証がないので、ひとまずここに付記して後考を待つ)。

行圓法親王

性融(しょうゆう)法親王は蓮華光院に住した(注:『諸門跡譜』による。按ずるに、『皇胤紹運録』『一代要記』はいずれも仁和寺に住したというが、『仁和寺御伝』にはその記載がない。おそらく初め仁和寺で剃髪し、のちに蓮華光院に住したのであろう。今は詳らかにできない)。はじめ僧正となり(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)、のちに柞谷宮(ゆすがだにのみや)と称した。早くに薨じた(注:『安井代々門跡次第』による)。

恒雲法親王

順助(じゅんじょ)法親王は聖護院に住した(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『諸門跡譜』による)。園城寺長吏となった。元応二年十月に薨じた(注:『皇胤紹運録』による)。

益性法親王

慈道(じどう)法親王は僧道玄の弟子となり、青蓮華院に住した(注:『皇胤紹運録』『釈家官班記』による)。三度天台座主に任じられた(注:『僧官補任』『天台座主記』による)。元応二年、直ちに二品を授けられた(注:『釈家官班記』による)。まもなく再び四天王寺別当に補せられた(注:『僧官補任』による)。興国二年四月に薨じ、十楽院と称した(注:『一代要記』『天台座主記』『常楽記』による)。

道澄法親王

行円(ぎょうえん)法親王は、はじめ行仁(ぎょうにん)といった(注:『一代要記』は行円を別人とし、しかも後宇多帝の子とするが、おそらく誤りである)。青蓮華院に入り、良助法親王の弟子となった。のちに慈道法親王のもとで学んだ(注:『皇胤紹運録』による)。十楽院に住した(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)。

僧尊誓

恒雲(こううん)法親王は梶井に入り、城興寺に住し(注:『皇胤紹運録』による)、二品を叙せられた。早くに薨じた(注:『諸門跡譜』による)。世に小河宮(おがわのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『諸門跡譜』による)。

寬尊法親王

益性(やくしょう)法親王は仁和寺に入り、僧益助の弟子となった(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による。『帝王編年記』『釈家官班記』はいずれも僧教範の弟子とする)。上乗院に住した(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『諸門跡譜』による)。興国四年、光明院から直々に二品を授けられた。遍照院と称した(注:『釈家官班記』による)。

尊珍法親王

道澄(どうちょう)法親王は十楽院に住した(注:『帝王編年記』による)。

僧尊誓(そんせい)は報恩寺に住した(注:『皇胤紹運録』による)。

寛尊(かんそん)法親王は(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『釈家官班記』による。『安井代々門跡次第』は観尊につくるが、誤りではないかと思われる)、性円法親王の弟子となった(注:『釈家官班記』『諸門跡譜』による)。はじめ寛融(かんゆう)と名乗り、蓮華光院に住し、のちに大覚寺に移り住んで権大僧都となり、そのまま僧正に任じられ、のちに親王となった(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。興国元年、光明院から直々に二品を授けられた(注:『釈家官班記』による)。天授の初め、一品に進んだ。性仁法親王以後、出家した皇子で一品を叙せられる者は稀であったが、寛尊は足利義満に媚びてこれを強く求め、後円融院はやむを得ずこれを授けたという(注:『仁和寺日次記』による)。のちに四天王寺別当となり、西院と称した(注:『皇胤紹運録』による)。

尊珍(そんちん)法親王は覚助法親王の弟子となり(注:『釈家官班記』による)、聖護院に住した(注:『皇胤紹運録』『僧官補任』による)。再び園城寺長吏となった(注:『僧官補任』による)。三宮に准じられた(注:『釈家官班記』『諸門跡譜』による)。のちに事件に連座して配流され、配所で薨じた(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による。按ずるに、両書ともその罪の由来を記していないが、おそらく北条高時によって流されたのであろう)。