卷之九十六 列傳第廿三

皇子十一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次35
  1. 【二條】一子
  2. 僧尊慧
  3. 【高倉】二子
  4. 後高倉院﹝守貞﹞
  5. 惟明親王
  6. 【後鳥羽】十二子
  7. 長仁親王
  8. 雅成親王
  9. 賴仁親王
  10. 覺仁法親王
  11. 寬成親王
  12. 朝仁親王
  13. 尊圓法親王
  14. 僧道守
  15. 僧覺譽
  16. 僧道伊
  17. 僧道緣
  18. 僧行超
  19. 【土御門】十子
  20. 尊守法親王
  21. 道仁法親王
  22. 道圓法親王
  23. 仁助法親王
  24. 靜仁法親王
  25. 最仁法親王
  26. 尊助法親王
  27. 僧增仁
  28. 僧懷尊
  29. 【順德】六子
  30. 忠成王
  31. 忠房親王
  32. 善統親主
  33. 覺慧法親王
  34. 彥成王
  35. 皇子某

【二條】一子

二条(にじょう)天皇には皇子が二人いた。宮人の伊岐氏(いきうじ)が六条帝(ろくじょうてい)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『皇代記』による)。某氏が僧尊慧を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)。

僧尊慧

尊慧(そんえ)は、高松院(たかまついん)の猶子となった。承安四年、園城寺(おんじょうじ)に入り(注:『吉記』による)、権大僧都となった(注:『一代要記』による)。仏法の器量ありとの評判があった。建久三年四月に薨じ、享年二十九。智恵光院宮(ちえこういんのみや)と称された(注:『明月記』による)。また狛宮(こまのみや)とも称された(注:『皇胤紹運録』による。ただし本書は法親王としているが、諸書に見えないため採らない)。

【高倉】二子

高倉(たかくら)天皇には皇子が四人いた。平中宮(たいらのちゅうぐう、平徳子)が安徳帝(あんとくてい)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『顕広王記』による)。典侍(ないしのすけ)藤原殖子(ふじわらのしょくし)が第二子の後高倉院・後鳥羽帝(ごとばてい)を生んだ(注:『一代要記』による)。内侍(ないし)平氏が第三子の惟明親王(これあきしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『平家物語』による。母の氏姓は『紹運録』による)。

後高倉院﹝守貞﹞

後高倉院(ごたかくらいん)は、名を守貞(もりさだ)という。治承三年二月に生まれた。高倉帝は平知盛(たいらのとももり)に命じてこれを養育させた(注:『山槐記』による。『愚管抄』では平宗盛が養育したとする)。寿永二年、平宗盛が安徳帝を奉じて西へ落ち延びる際、守貞も同行させ、儲君(皇太子)に擬した(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。安徳帝が崩じるに及んで京へ帰り、上西門院に養われた(注:『愚管抄』による)。文治五年、親王となった(注:『仲資王記』『吉部秘訓抄』『皇年代略記』による)。建久二年、三品(さんぼん)に叙せられた(注:『皇年代略記』『皇胤紹運録』による。『紹運録』には二品とするものもある)。守貞は常に不遇をかこち、邸宅は荒れ果て、鬱々として日を過ごしていた。これより先、侍女が夢に衣冠を着けた人々が大勢やって来て「まもなく剣璽をお移し申し上げる。汝らはよく供奉するように」と告げるのを見た。侍女が目覚めてこれを守貞に告げると、守貞は「そのようなことがあるはずがない」と言った(注:『増鏡』による)。建暦二年、ついに剃髪し、行助(ぎょうじょ)と名乗った(注:『仁和寺日次記』『皇胤紹運録』『一代要記』による)。建保六年、東大寺で受戒した(注:『皇年代略記』による)。承久三年、北条義時が九条帝(くじょうてい、仲恭天皇)を廃し、人を守貞のもとに遣わして、後堀河(ごほりかわ)天皇の即位の意向を伝えさせた。守貞は仏堂にいてこれを聞き、「たまたま道心を乱すだけのことだ」と言って聞き入れなかった。妃の陳子(ちんし)が懇ろに繰り返し説いたため、ついにこれに従い、後堀河帝が即位した。八月、尊号を太上法皇と奉り、万機に参与することとなった(注:『五代帝王物語』による。八月という時期は『百錬抄』『皇胤紹運録』による。『皇年代略記』には太上天皇とある)。即位せずして太上法皇の号を奉られたのは、これが最初である(注:『皇年代略記』『皇胤紹運録』による)。貞応二年五月に崩じ(注:『百錬抄』『増鏡』『帝王編年記』による)、享年四十五(注:『一代要記』『紹運要略』による)。北白河に葬られた(注:『百錬抄』による)。後高倉院と称された(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『百錬抄』による)。はじめ贈太政大臣藤原基家(ふじわらのもといえ)の娘、陳子を妃に迎え(注:『百錬抄』には諫子とするものもある)、基家の持明院第(じ)に住んだことから持明院宮(じみょういんのみや)と称され(注:『勧修寺諸記抜萃』『百錬抄』による。基家の邸に住んだことは『抜萃』による)、あるいは持明院法皇とも称され(注:『帝王編年記』による)、また広瀬院(ひろせいん)とも称された(注:『太平記』による)。妃の陳子は、後堀河帝の即位に伴い従三位に叙せられ、三宮に準じられて北白河院(きたしらかわいん)と号した(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『院号定部類記』引く番記および外記記による)。  三人の子は、尊性法親王(そんしょうほっしんのう)、道深法親王(どうしんほっしんのう)、後堀河帝である(注:『神皇正統記』『帝王編年記』『皇年代略記』『皇胤紹運録』を参照した)。五人の女子は、利子内親王(りしないしんのう)、邦子内親王(くにこないしんのう)、能子内親王(よしこないしんのう)、本子内親王(もとこないしんのう)、有子内親王(ありこないしんのう)である(注:『皇胤紹運録』による)。尊性法親王は妙法院に住した(注:『天台座主記』による)。承元三年、一身阿闍梨・権大僧都となった。承久二年、権僧正に任じられた。三年、親王となった(注:『天台座主記』による)。貞応三年、二品に叙せられた(注:『天台座主記』『釈家官班記』による)。嘉禄元年、四天王寺別当となり、ついで天台座主に任じられた(注:『天台座主記』『僧官補任』による)。延応元年九月に薨じ、享年四十六(注:『天台座主記』『帝王編年記』による)。綾小路宮(あやのこうじのみや)と称された(注:『天台座主記』『皇胤紹運録』による)。道深法親王は仁和寺に入り、道助親王(どうじょしんのう)の弟子となった(注:『仁和寺御伝』『仁和寺日次記』による)。権少僧都・一身阿闍梨となった(注:『百錬抄』『仁和寺御伝』を参照した)。承久三年、親王となり(注:『百錬抄』『帝王編年記』『仁和寺御伝』による)、広隆寺別当に補せられた(注:『仁和寺御伝』による)。寛喜元年、直ちに二品に叙せられ(注:『帝王編年記』『仁和寺御伝』による)、総法務となり、六勝寺検校に補せられ、牛車の宣旨を許された(注:『仁和寺御伝』による)。建長元年七月に薨じ、享年四十四(注:『百錬抄』『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による。『歴代皇紀』には四十六とある)。金剛定院御室(こんごうじょういんのおむろ)と称され、また大聖院(だいしょういん)・間田院(まだいん)とも称された(注:『仁和寺御伝』による。『皇胤紹運録』は光台院とするが誤りである)。利子は嘉禄二年、内親王・伊勢斎となった。天福元年、その職を辞して京に帰った(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。四条帝(しじょうてい)は皇后と尊び、皇母に準じた(注:『百錬抄』『歴代皇紀』『女院小伝』による)。廷応元年、病により尼となり、式乾門院(しきけんもんいん)と号した(注:『百錬抄』『女院小伝』『院号定部類記』引く外記記による)。法名は真性智(しんしょうち)(注:『女院小伝』による)。建長三年正月に崩じ、享年五十五(注:『百錬抄』『歴代皇紀』『女院小伝』による)。邦子は承久三年、内親王となり(注:『女院小伝』による)、後堀河帝は皇后と尊び、皇母に準じた。元仁元年、安嘉門院(あんかもんいん)と号した(注:『一代要記』『歴代皇紀』『女院小伝』による)。文暦二年、尼となった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』による)。法名は正如覚(しょうにょかく)(注:『女院小伝』による)。弘安六年九月に崩じ、享年七十五(注:『歴代皇紀』『帝王編年記』『管見記』による)。能子は出家して尼となった(注:『平戸記』による)。仁治元年、内親王となった。寛元三年九月に薨じ、享年四十六(注:『平戸記』『百錬抄』による)。押小路宮(おしのこうじのみや)と称され(注:『平戸記』『百錬抄』『皇胤紹運録』による)、また白河宮(しらかわのみや)とも称された(注:『平戸記』による)。本子は出家して尼となった(注:『一代要記』による。『皇胤紹運録』は本子を皇太后とするが、ここでは採らない)。

惟明親王

惟明親王(これあきしんのう)は、寿永二年、平宗盛が安徳帝および守貞親王を奉じて西へ落ち延びた際、京には主となる帝がいなくなった。諸皇子の中から立てるべき者を議したところ、候補となったのは惟明と後鳥羽帝の二人のみであった(注:『愚管抄』『源平盛衰記』『平家物語』による)。後白河法皇がこれを占わせたところ、惟明が吉と出た(注:『玉海』による)。そこで惟明を召し出したが、惟明はまだ幼く、泣き叫んで前に進もうとしなかったため、法皇は不興に思った(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。再び占わせたところ結果が合わず(注:『玉海』による)、ついに即位はかなわなかった(注:『玉海』『源平盛衰記』『長門本平家物語』『増鏡』による)。文治五年、親王となった(注:『仲資王記』『吉部秘訓抄』による)。建久六年、七条院(しちじょういん)の養子となり、その御所で元服し(注:『百錬抄』による)、三品に叙せられた(注:『百錬抄』『一代要記』による)。承元五年、剃髪して法名を聖円(しょうえん)とした。承久三年五月に薨じ、享年四十三。三人の子は、僧聖海(しょうかい)、僧尊雲(そんうん)、国尊王(くにたかおう)である(注:『一代要記』による)。聖海は聖真(しょうしん)とも名乗り、三宝院に住し(注:『諸門跡譜』による)、法印・大僧都となり、高桑(たかくわ)と称された(注:『一代要記』による)。のちに法親王となり、三品に叙せられた(注:『諸門跡譜』による)。尊雲は延暦寺に住し、大僧都となった(注:『一代要記』『天台座主記』による)。国尊王は大智院(だいちいん)と称され(注:『一代要記』による)、また交野宮(かたののみや)とも称された(注:『皇胤紹運録』による)。

【後鳥羽】十二子

後鳥羽(ごとば)天皇には皇子が十四人いた。宮人の源在子(みなもとのざいし)が土御門帝(つちみかどてい)を生んだ。藤原重子(ふじわらのじゅうし)が順徳帝(じゅんとくてい)(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『歴代皇紀』『百錬抄』による)、第四子の雅成親王(まさなりしんのう)(注:『仁和寺日次記』『明月記』による)、第七子の寛成親王(ひろなりしんのう)を生んだ(注:『天台座主記』『諸門跡譜』による。『百錬抄』は第三子とするが誤りである)。典侍某氏が僧尊守(そんしゅ)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。宮人藤原氏が第二子の長仁親王(ちょうにんしんのう)(注:『仁和寺御伝』による。『釈家官班記』『諸門跡譜』はいずれも第六子とするが誤りである)、頼仁親王(よりひとしんのう)を生んだ。某氏が覚仁法親王(かくにんほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。某氏が第八子の朝仁親王(ともひとしんのう)を生んだ(注:『諸門跡譜』による。『仁和寺御伝』は第六子とするが誤りである)。藤原氏が尊円法親王(そんえんほっしんのう)、僧行超(ぎょうちょう)を生んだ。某氏が僧覚誉(かくよ)を生んだ。僧道伊(どうい)、僧三縁(さんえん)については(注:『皇胤紹運録』による。『紹運録』はもとの本に依って宝也(ほうや)を帝の子としているが、今『一代要記』によって頼仁の子と定める。また『賀茂系図』によれば、賀茂氏久(かものうじひさ)は帝の子で、帝が隠岐に遷られた際、賀茂の祠官能久(よしひさ)に託されて養育され、成長して名を賜り賀茂氏を名乗って祠官となり、子孫は松下を氏族としたというが、諸書に見えないため、ここでは採らない)、この二人は母の氏姓が伝わっていない。

長仁親王

長仁親王(ちょうにんしんのう)は、正治元年、親王となった。建永元年、剃髪した(注:『明月記』『百錬抄』『仁和寺御伝』による)。道法法親王(どうほうほっしんのう)から受戒し、名を道助(どうじょ)と改めて仁和寺に住んだ(注:『仁和寺御伝』による)。承元四年、直ちに二品に叙せられた(注:『仁和寺御伝』『釈家官班記』による)。建保年間、六勝寺検校に補せられ、綱所(ごうしょ)を賜って総法務となった。寛喜三年、高野山に隠棲した(注:『仁和寺御伝』による)。建長元年正月に薨じ、享年五十四(注:『仁和寺御伝』『百錬抄』による)。光台院御室(こうだいいんのおむろ)と称された(注:『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による)。

雅成親王

雅成親王(まさなりしんのう)は、宣陽門院(せんようもんいん)に養育され、六条殿(ろくじょうどの)に住んだことから(注:『明月記』による)、六条宮(ろくじょうのみや)と称された(注:『一代要記』、ある本の『皇胤紹運録』、『百錬抄』による)。元久元年、親王となり(注:『明月記』『百錬抄』による)、三品に叙せられた(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。本書には年月の記載がない)。承久三年、北条義時により但馬(たじま)に流された(注:『百錬抄』『一代要記』『歴代皇紀』『承久記』による)。嘉禄二年、逃亡を図ったが事が露見して幽閉された(注:『明月記』による)。ついに剃髪した(注:『一代要記』『歴代皇紀』による)。建長七年二月、但馬で薨じ(注:『百錬抄』『歴代皇紀』『一代要記』による)、享年五十六(注:年齢は『百錬抄』の正治二年生誕とする記述による。『歴代皇紀』は五十七とするが誤りである)。三人の子、澄覚(ちょうかく)、承慧(じょうえ)、源雲(げんうん)は、いずれも僧となった(注:『皇胤紹運録』による)。澄覚法親王は尊覚法親王の弟子となり(注:『釈家官班記』『天台座主記』による)、梶井(かじい)に住んだ(注:『皇胤紹運録』『僧官補任』『諸門跡譜』による)。文永二年、天台座主に任じられた。三年、大僧正となった。八年、再び天台座主となった。十年、牛車の宣旨を許された(注:『天台座主記』による)。十一年、親王となった(注:『天台座主記』『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『釈家官班記』による)。皇孫で僧であった者が親王となったのは、これが最初である(注:『釈家官班記』による。『天台座主記』『諸門跡譜』『初例抄』はいずれも皇孫が親王となった最初の例とするが、その者が僧であったことには触れていない。おそらく小一条院や後高倉院などの子は数に入れていないのであろう)。

賴仁親王

頼仁親王(よりひとしんのう)は、承元四年、親王となった(注:『百錬抄』による)。承久三年、北条義時により備前(びぜん)児島(こじま)に流された(注:『百錬抄』『承久記』による。『一代要記』『歴代皇紀』も参照した)。冷泉宮(れいぜいのみや)と称された(注:『百錬抄』『一代要記』『歴代皇紀』『皇胤紹運録』による)。二人の子はいずれも僧となった(注:『一代要記』による)。

覺仁法親王

覚仁法親王(かくにんほっしんのう)は、平等院に住し(注:『一代要記』による)、権大僧都となった。建保六年、親王となった(注:『仁和寺日次記』による)。この年、園城寺長吏に任じられた(注:『僧官補任』による)。宝治元年、牛車の宣旨を許された(注:『百錬抄』による)。寛元四年、熊野三山検校となった(注:『葉黄記』による。『僧官補任』は宝治二年とするが誤りである)。文永三年四月に薨じ、享年六十九(注:『歴代皇紀』による)。桜井宮(さくらいのみや)と称された(注:『百錬抄』『増鏡』『僧官補任』『皇胤紹運録』による)。

寬成親王

寛成親王(ひろなりしんのう)は、承元二年、親王となった(注:『釈家官班記』による)。建保二年、剃髪して名を尊快(そんかい)と改めた(注:『仁和寺日次記』『一代要記』による)。梶井に住した(注:『僧官補任』『諸門跡譜』『釈家官班記』による)。承久二年、一身阿闍梨となった(注:『仁和寺日次記』による)。三年、天台座主となった(注:『僧官補任』による)。寛元四年四月に薨じ、享年四十三(注:『天台座主記』『歴代皇紀』による)。

朝仁親王

朝仁親王(ともひとしんのう)は、承元二年、親王となった(注:『天台座主記』『釈家官班記』『百錬抄』による)。建保四年、僧慈円(じえん)の弟子となり、剃髪して名を道覚(どうかく)と改めた(注:『天台座主記』『仁和寺日次記』による)。六年、一身阿闍梨となり(注:『仁和寺日次記』による)、青蓮院に住した(注:『天台座主記』『諸門跡譜』による)。後鳥羽帝はかつて朝仁の母のために西山善峰(にしやまよしみね)に堂を建てたが、承久の乱が起こるとそこに逃れて住んだため、西山宮(にしやまのみや)と称された(注:『葉黄記』による)。宝治元年、天台座主に任じられた(注:『葉黄記』『天台座主記』『僧官補任』による)。二年、無動寺検校となった(注:『僧官補任』による)。和歌に長けていた(注:『諸門跡譜』による)。建長二年正月に薨じ、享年四十七(注:『歴代皇紀』『天台座主記』『僧官補任』による)。

尊圓法親王

尊円法親王(そんえんほっしんのう)は聖護院に住した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。建保五年、僧円忠(えんちゅう)の弟子となり、一身阿闍梨に補せられた(注:『仁和寺日次記』による)。六年、親王となった(注:『百錬抄』『仁和寺日次記』による)。寛喜三年十月に薨じ、享年二十五(注:『歴代皇紀』『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による。『紹運録』にはおよそ備前に配流されたとあるが、諸書に見えないため採らない)。

僧道守

僧道守(どうしゅ)は、初め円快(えんかい)と名乗り、仁和寺保寿院に住し、法印となった(注:『皇胤紹運録』による)。

僧覺譽

僧覚誉(かくよ)は禅林寺に住し、大僧都となった(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。

僧道伊

僧道伊(どうい)は園城寺に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。

僧道緣

僧道縁(どうえん)は仁和寺に住み、一身阿闍梨となった(注:『皇胤紹運録』『仁和寺日次記』による)。

僧行超

僧行超(ぎょうちょう)は延暦寺に住み、大僧都となった(注:『一代要記』による。『皇胤紹運録』には権大僧都とある)。

【土御門】十子

土御門(つちみかど)天皇には皇子が十一人いた。贈皇太后源氏が後嵯峨帝(ごさがてい)(注:『歴代皇紀』『皇年代略記』『神皇正統記』による)、第五子の仁助法親王(にんじょほっしんのう)(注:『諸門跡譜』による)、静仁法親王(じょうにんほっしんのう)を生んだ。掌侍(ないしのじょう)高階氏(たかしなうじ)が道仁法親王(どうにんほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)。宮人藤原氏が第四子の道円法親王(どうえんほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『安井代々門跡次第』による。第四子であることは『門跡次第』による)。某氏が第一子の尊守法親王(そんしゅほっしんのう)を生んだ(注:諸書には生まれた順序の記載がなく、ただ没年から第一子と定めた)。某氏が最仁法親王(さいにんほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)。某氏が第八子の尊助法親王(そんじょほっしんのう)を生んだ(注:『諸門跡譜』による)。某氏が僧増仁(ぞうにん)を生んだ。僧懐尊(かいそん)(注:『皇胤紹運録』による)、僧寂恵(じゃくえ)(注:『一代要記』による)の二人は、母の氏姓が伝わっていない。

尊守法親王

尊守法親王(そんしゅほっしんのう)は妙法院に住した(注:『諸門跡譜』による)。文応元年十月に薨じ(注:『園太暦』貞和二年条による。『歴代皇紀』は正月とする)、享年五十一(注:『歴代皇紀』による)。高橋宮(たかはしのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。

道仁法親王

道仁法親王(どうにんほっしんのう)は法住寺に住した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。宝治二年、親王となった(注:『百錬抄』による)。建長三年、園城寺長吏に任じられた(注:『僧官補任』による)。弘安三年正月に薨じた(注:『一代要記』による)。

道圓法親王

道円法親王(どうえんほっしんのう)は蓮華光院に住した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『安井代々門跡次第』による)。

仁助法親王

仁助法親王(にんじょほっしんのう)は円満院に住し(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)、僧正となった。仁治三年、親王となり(注:『百錬抄』による)、園城寺長吏に任じられた(注:『僧官補任』による)。建長元年、四天王寺別当に補せられ(注:『百錬抄』『僧官補任』による)、長講堂検校となった(注:『諸門跡譜』による)。弘長二年八月に薨じ(注:『一代要記』『歴代皇紀』『園太暦』貞和二年条による)、享年四十八(注:『歴代皇紀』による)。

靜仁法親王

静仁法親王(じょうにんほっしんのう)は法住寺に住した(注:『諸門跡譜』による。『僧官補任』には双林寺とある)。建長六年、園城寺長吏に任じられた。文永三年、熊野三山検校となった(注:『僧官補任』による)。

最仁法親王

最仁法親王(さいにんほっしんのう)は尊覚法親王の弟子となり(注:『天台座主記』『諸門跡譜』による)、梶井に住した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。弘長三年、天台座主となった。永仁三年二月、中山房で薨じ、享年六十九(注:本書には六十三とするものもある。また寛元二年に十三歳、弘長三年に三十七歳ともいう。諸書の間に異同があり、今は考証できない)。後中山宮(のちのなかやまのみや)と称された(注:『天台座主記』による。『皇胤紹運録』『諸門跡譜』はいずれも中山宮とするが誤りである)。

尊助法親王

尊助法親王(そんじょほっしんのう)は尊快法親王の弟子となり(注:『天台座主記』による)、青蓮院に住し(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『釈家官班記』による)、権大僧都となった(注:『僧官補任』『百錬抄』による)。建長四年、親王となった(注:『百錬抄』による)。六年、無動寺検校に補せられた(注:『僧官補任』による)。正元元年、天台座主となった(注:『天台座主記』『僧官補任』による)。二年、牛車の宣旨を許された(注:『天台座主記』による)。弘安九年、四天王寺別当に補せられた(注:『僧官補任』による)。正応二年、直ちに二品に叙せられた(注:『釈家官班記』による)。十一月に薨じ、享年七十四(注:『天台座主記』『帝王編年記』による)。大原宮(おおはらのみや)と称された(注:『天台座主記』による)。

僧增仁

僧増仁(ぞうにん)は延暦寺に住み、権大僧都となり、汁谷宮(しるたにのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。

僧懷尊

僧懐尊(かいそん)は園城寺に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。

【順德】六子

僧寂慧(じゃくえ)。

忠成王

順徳(じゅんとく)天皇には皇子が七人いた。中宮藤原氏が九条廃帝(くじょうはいてい、仲恭天皇)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『百錬抄』『一代要記』『歴代皇紀』による)。宮人藤原氏が尊覚法親王(そんがくほっしんのう)、忠成王(ただなりおう)、覚慧法親王(かくえほっしんのう)を生んだ。藤原氏が善統親王(よしむねしんのう)、彦成王(ひこなりおう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。某氏が皇子某を生んだ(注:『仁和寺日次記』による。順徳天皇の諸皇子の出生順については、諸書の記載にそれぞれ異同がある。『歴代皇紀』『帝王編年記』などの諸書は廃帝を第一子とする。『諸門跡譜』『天台座主記』は尊覚を第一子とする。しかし『皇紀』『一代要記』『皇年代略記』はいずれも、廃帝は建保六年に生まれ文暦元年に崩じたとしており、これが事実に近いと思われる。『座主記』には、尊覚は建保二年に生まれ文永元年に薨じ、享年五十とある。今、薨年および本書の受戒の年から推せば、その生誕は建保三年に当たるはずであり、二年とするのは誤りと思われる。『日次記』には、皇子某は建保五年生まれとある。これによれば、第一子が尊覚、第二子が某、第三子が廃帝ということになる。『紹運録』には、忠成王は弘安二年に薨じ、享年五十九とある。『皇紀』には、善統親王は文保元年に薨じ、享年八十五とある。あわせて薨年から推せば、忠成は承久三年生まれ、善統は天福元年生まれということになり、第四子が忠成、第五子が善統ということになる。しかし諸書の記載が入り組んでいて確定できないため、ここでは第何子であるかを記さない。覚慧・彦成については、生没年月が伝わっていない)。

忠房親王

尊覚法親王(そんがくほっしんのう)は尊快法親王の弟子となり(注:『天台座主記』『諸門跡譜』による)、梶井に住した(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。建長元年、天台座主に任じられた(注:『百錬抄』『天台座主記』『僧官補任』による)。文永元年十月、中山房で薨じ、享年五十(注:『天台座主記』『歴代皇紀』による)。中山宮(なかやまのみや)と称された(注:『天台座主記』『僧官補任』による)。

善統親主

忠成王(ただなりおう)は巌葳宮(いわしのみや)と称され、また広御所宮(ひろごしょのみや)とも称された(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)。四条帝が崩じると、修明門院(しゅめいもんいん)および前摂政の九条道家(くじょうみちいえ)は忠成を立てようとしたが、北条氏がこれを聞き入れず、ついに後嵯峨帝が立てられた(注:『神皇正統記』による。本書は修明を承明とするが誤りである)。弘安二年十二月に薨じ(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)、享年五十九(注:『皇胤紹運録』による。『歴代皇紀』は弘安三年薨、享年五十八とするが誤りである)。  子は彦豊王(ひことよおう)、源彦仁(みなもとのひこひと)、僧尊忠(そんちゅう)、僧益助(えきじょ)、僧承慧(じょうえ)である(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』『一代要記』による)。彦豊は加加宮(かがのみや)と称された(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による)。彦仁は源朝臣の姓を賜り、正三位に叙せられ、右近衛中将に至った(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。『一代要記』は右を左とする)。尊忠は梶井に住し、僧正となり、入江(いりえ)と称された。益助は上乗院に住し、大僧正となり(注:『諸門跡譜』『尊卑分脈』による)、慈雲寺(じうんじ)と称された(注:『諸門跡譜』による)。承慧は僧正となり、小河(おがわ)と称された。  彦仁の子は忠房親王(ただふさしんのう)、承鎮法親王(じょうちんほっしんのう)(注:『一代要記』『尊卑分脈』による)、僧玄覚(げんかく)である(注:『一代要記』による)。女子は守子内親王(もりこないしんのう)である(注:『尊卑分脈』『皇胤紹運録』による)。承鎮は後宇多帝の養子となり(注:『諸門跡譜』『釈家官班記』による)、承覚法親王(じょうかくほっしんのう)の弟子となって(注:『釈家官班記』による)梶井に住し(注:『尊卑分脈』『諸門跡譜』『釈家官班記』による)、阿闍梨となった。文保元年、親王となり(注:『釈家官班記』による)、正中三年、天台座主となった(注:『天台座主記』による。『僧官補任』は正中二年のこととする)。

覺慧法親王

忠房親王(ただふさしんのう)は、次第に昇進して従二位権中納言(ごんちゅうなごん)となった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。後宇多帝の養子となった(注:『職原抄』による)。元応元年、親王となり、弾正尹(だんじょういん)に任じられた(注:『公卿補任』による)。建武二年、足利尊氏が鎌倉で反乱を起こすと、忠房は大智院宮(だいちいんのみや、名は伝わっていない)および藤原実世(ふじわらのさねよ)らとともに東山道から進撃し、信濃(しなの)の大井城(おおいじょう)を攻め落とし、ついに鎌倉へ向かった。まもなく東海道軍が敗れ、新田義貞らは西へ敗走した。尊氏はその勢いに乗じて追撃した。翌年、京師に攻め入った。帝は延暦寺へ行幸し、忠房は甲斐・信濃・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の兵二万余を率いて東坂本(ひがしさかもと)まで引き返した。官軍は大いに奮起し、赤山(あかやま)に陣を進めた。まもなく尊氏は敗走した(注:『太平記』による。本書には忠房が尊氏を撃ったとは記されていないが、実世が兵二万を率いて赤山に陣したと記されていることから、忠房についても同様であったことがわかる)。のちに剃髪し、法名を禅慧(ぜんね)とした(注:『尊卑分脈』による)。正平二年七月に薨じ(注:『公卿補任』による)、子の源彦良(みなもとのひこよし)は(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による)、参議従二位左近衛中将となった(注:『公卿補任』による。『尊卑分脈』は従三位とする)。

彥成王

善統親王(よしむねしんのう)は、文保元年三月に薨じ、享年八十五(注:『歴代皇紀』による)。四辻(よつつじ)と号した(注:『帝王編年記』による)。二人の子は尊雅王(そんがおう)、僧深慧(しんね)である(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。『一代要記』には三子として僧深慧・行助(ぎょうじょ)・仁昭(にんしょう)とある)。尊雅の子善成(よしなり)は、源朝臣の姓を賜り、従一位左大臣に至った。剃髪し(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)、法名を常勝(じょうしょう)とした(注:『公卿補任』による)。善成は『源氏物語』を読むことを好み、その書に描かれた惟光(これみつ)・良清(よしきよ)の人となりを慕って、その疑義を解き明かす書を著し、これを『河海抄(かかいしょう)』と名づけた(注:本書の序による)。自ら「博士惟良撰(はかせこれよしせん)」と署したが、これはおそらく惟光・良清の字を取って仮託した名であろう。これより先にこの書に注釈を施した者は多かったが、いずれも『河海抄』の精確さには及ばなかった。後世の人は「『源氏物語』に『河海抄』があるのは、暗夜に灯火を得たようなものだ」と評した(注:『岷江入楚』による)。

皇子某

覚慧法親王(かくえほっしんのう)は聖護院に住し、真如院(しんにょいん)と称された(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。

彦成王(ひこなりおう)。

皇子某。