卷之八十二 列傳第九

后妃九

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字
この巻の目次47
  1. 妹子中宮
  2. 藤原中宮(育子)
  3. 伊岐氏
  4. 某氏
  5. 中原氏
  6. 平中宮(徳子)
  7. 平氏
  8. 藤原殖子
  9. 藤原氏
  10. 藤原氏
  11. 藤原氏(小督局)
  12. 葵前
  13. 藤原中宮(任子)
  14. 某氏
  15. 藤原重子
  16. 源在子
  17. 藤原氏
  18. 藤原氏
  19. 源氏
  20. 尾張局
  21. 丹波局
  22. 藤原中宮(麗子)
  23. 源通子
  24. 高階氏
  25. 源氏
  26. 源氏
  27. 藤原氏
  28. 源氏
  29. 藤原氏
  30. 源氏
  31. 某氏
  32. 某氏
  33. 某氏
  34. 丹波局
  35. 某氏
  36. 藤原中宮(立子)
  37. 藤原氏
  38. 藤原氏
  39. 藤原氏
  40. 宰相局
  41. 某氏
  42. 藤原皇后(有子)
  43. 藤原中宮(長子)
  44. 藤原中宮(竴子)
  45. 藤原氏
  46. 藤原氏
  47. 藤原彦子

妹子中宮

二条天皇の中宮、諱は妹子(しょうし)。鳥羽天皇の皇女である(注:皇胤紹運録、今鏡による。女院小伝は第四皇女とし、一代要記・百錬抄は第五皇女、紹運録は第六皇女とするが、今は確定できない)。永治元年十一月、六条殿で生まれた(注:今鏡による)。世に乙姫宮と称された(注:台記久安二年の条による)。久寿元年、内親王となった(注:女院小伝による。一代要記は入宮の時のこととする)。

保元元年、東宮(二条天皇)に入り(注:百錬抄、女院小伝による)、昭陽舎を居所とした(注:今鏡による)。保元二年、准三宮とされた(注:一代要記、女院小伝、後宮略伝による)。平治元年、中宮となった(注:山槐記による)。中宮には子がなく、僧尊慧を養育した(注:吉記承安四年の条による)。永暦元年、病のため薙髪して戒を受けた(注:百錬抄、帝王編年記、女院小伝による)。法名は実相覚(注:女院小伝による。貴女抄は「覚」を「観」に作る)。

応保二年、高松院の号を進められた(注:貴女抄、後宮略伝による)。安元二年六月、押小路殿で崩御した。享年三十六(注:歴代皇紀による)。雲林院に葬られた(注:顕広王記による。百錬抄は香隆寺に葬るとする)。

藤原中宮(育子)

藤原中宮、諱は育子(いくし)。左大臣藤原実能の娘である。関白藤原忠通の養女となった(注:尊卑分脈による)。応保元年、女御となり(注:歴代皇紀、尊卑分脈による)、応保二年、中宮となった(注:帝王編年記による)。中宮には子がなかったが、六条天皇が生まれると、これを引き取って養育した(注:今鏡、皇胤紹運録、愚管抄、尊卑分脈による。今鏡は育子を忠通の娘とし、六条天皇を時能の娘の所生とするが、誤りである)。

仁安三年、薙髪した(注:百錬抄による)。承安二年、皇后と改められた(注:玉葉、帝紀抄、一代要記、帝王編年記による)。承安三年八月、崩御した。享年二十八(注:玉葉、一代要記、皇帝紀抄による。尊卑分脈は二十七歳とする)。

伊岐氏

伊岐氏は、大蔵大輔伊岐致遠(むねとお)の娘である。六条天皇を産んだ(注:顕広王記、愚管抄を参照してまとめた。源平盛衰記は紀氏に作るが誤り。致遠は、皇胤紹運録・皇年代略記はいずれも善盛に作り、神皇正統記は兼盛に作る)。

某氏

某氏は、右馬助光成の娘である(注:一代要記は右馬助光盛の娘とする)。僧尊慧を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

中原氏

中原氏は、大外記中原師元の娘である(注:一代要記、皇胤紹運録、貴女抄、斎院記による)。春日局と称された(注:吉記による)。僐子(せんし)内親王を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録による)。治承四年六月、卒去した(注:吉記は養和元年のこととする)。

【高倉天皇】

平中宮(徳子)

高倉天皇の平中宮、諱は徳子(とくこ)。太政大臣平清盛の娘であり、後白河法皇の養女となった(注:玉葉、百錬抄、源平盛衰記による)。承安元年、従三位に叙せられ、女御となった(注:玉葉、女院小伝による。後宮略伝の一本は治承元年二月の入内とするが誤り)。翌年、中宮となった(注:玉葉、源平盛衰記による)。

清盛は毎月厳島に参詣し、后が皇子を生むよう祈った(注:源平盛衰記、平家物語による)。治承二年、后は懐妊し、重盛の邸に退出した(注:重盛の邸については歴代皇紀による)。帝は使者を四十一社・七十四寺に遣わし、僧や陰陽博士を宮中に召して安産を祈らせた(注:山槐記、源平盛衰記による)。軽い罪の囚人・流人七十三人を赦免した(注:玉葉は十五人、山槐記は十三人とする)。

出産にあたり、難産となった。ある者は「藤原成親、西光法師、僧俊寛の祟りである」と言った。清盛の憂いは顔色にあらわれた(注:源平盛衰記による)。后もまた使者を石清水・平野・日吉に遣わして祈らせた(注:山槐記による)。使者が行き交い、冠や車蓋が絶えなかった。法皇は産室に臨み、みずから千手経を誦して祈った。ほどなく皇子が生まれた。これが安徳天皇である。旧例では、皇子が生まれると屋根に上り甑(こしき)を投げ、男子なら南に、女子なら北に落とすものであったが、このときは誤って北に落とし、人々は皆これを奇異に思った(注:平家物語、源平盛衰記による)。

養和元年、建礼門院の号を奉られた。寿永二年、西国に赴いた(注:玉葉による)。

はじめ后の出産が難航したとき、母の時子はこれを憂え、みずから一条の反橋まで赴いて車を停め、輿を担ぐ者たちの唱える言葉を聞いて占おうとした。すると童子十二人が橋を渡り、手を打ちながら声をそろえて「榻(しじ)よ榻よ、国王の榻よ、八重潮路(やえしおじ)の波寄する榻よ」と歌った。時子は帰ってこれを兄の時忠に告げて「『波寄する榻』とはどういう意味かわからないが、『国王の榻』とはおそらく皇子誕生の兆しであろう」と言った(注:源平盛衰記による)。はたして安徳天皇が海上で崩御するに及び、果たして輿の歌のとおりとなった。

后もまた海に身を投げたが、熊手にかけて引き上げられ、都に送り返された。吉田の僧房に身を寄せ、薙髪して戒を受けた(注:平家物語、源平盛衰記による)。法名は真如覚(しんにょかく)(注:女院小伝、後宮略伝による)。その後、華山天皇の野河山荘に移り住んだ(注:長門本平家物語による)。

一門が滅んだ後、都の近くに住むことを憚り、さらに大原の寂光院のかたわらに移った。草庵と竹の寝床は、かろうじて風雨や日差しをしのぐ程度のものであった。帥典侍や阿波内侍らも皆尼となり、薪水の世話をした。法皇は見舞いに赴こうとしたが、源頼朝を憚って果たせなかった。文治二年、補陀落寺への参詣にかこつけてその居所を訪ねた。相対して泣きながら過ぎし日のことを語り合った。后は軍中での窮迫や辱めを受けたことをつぶさに語り、むせび泣いて止まなかった(注:平家物語、源平盛衰記による)。

建保元年十二月、大原で崩御した(注:大原の記述は平家物語、源平盛衰記による)。享年五十七(注:歴代皇紀による。源平盛衰記は六十八歳、紹運要略は五十八歳、女院小伝は五十九歳とするが、今は后が中宮であった期間を十六年とする文によって定めた)。后はみずから安徳天皇の宸筆や手書きの古い紙を糊で貼り合わせ、その像を造った。この像は今も寂光院にある。

平氏

掌侍平氏は、宮内少輔平義範の娘である(注:山槐記、皇胤紹運録による)。少将内侍と称された(注:一代要記による)。惟明親王を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録による)。

藤原殖子

典侍藤原殖子(しょくし)は、修理大夫藤原信隆の娘である(注:皇胤紹運録、百錬抄、女院小伝による)。はじめ建礼門院に仕え、兵衛督と称された。帝(高倉天皇)がこれを寵愛した(注:増鏡による)。まもなく典侍となり、従三位に至った(注:一代要記、女院小伝による)。後高倉院、後鳥羽天皇を産んだ(注:皇胤紹運録、女院小伝による。増鏡を参照してまとめた)。

建久三年、准三宮とされ(注:玉葉、百錬抄による。一代要記は建久九年とするが誤り)、七条院の号を奉られた(注:百錬抄による)。元久二年、薙髪した(注:明月記、百錬抄、歴代皇紀、帝王編年記、女院小伝による。後宮略伝は元久四年とする)。法名は真如智(しんにょち)(注:女院小伝、後宮略伝による)。

北条泰時らが都を陥落させ、後鳥羽天皇を鳥羽殿に移して薙髪を強いたとき、帝は藤原信実にその真影を写させ、七条院に贈った。七条院は修明門院と車を同じくして鳥羽殿に赴き、帝に拝謁しようとした。帝は簾を掲げてじっと見つめたが、手を振って早く立ち去るよう促した。女院たちは皆悲しみ泣き、宮中に入ることもできずに帰った。帝はついに隠岐に流された(注:東鑑、承久記を参照してまとめた)。

安貞二年九月、薨去した(注:百錬抄、一代要記、女院小伝による)。享年七十二(注:一代要記、歴代皇紀、帝王編年記による)。

藤原氏

典侍藤原氏は、参議藤原頼定の娘である。按察典侍と称された。潔子(けっし)内親王を産んだ(注:山槐記、貴女抄を参照してまとめた)。

藤原氏

藤原氏は、右近衛少将藤原公重の娘である。帥局と称された。功子(こうし)内親王を産んだ(注:玉葉、山槐記、皇胤紹運録を参照してまとめた)。治承三年正月、卒去した(注:玉葉、山槐記、帝王紀抄による)。

藤原氏(小督局)

藤原氏は、権中納言藤原成範の娘である(注:皇胤紹運録による)。小督局(こごうのつぼね)と称された(注:山槐記、平家物語、源平盛衰記による。長門本平家物語は藤原通憲の孫娘で、三条小河に住んでいたため小河殿と号したという)。

箏と琵琶を得意とした。宮中に入って大いに寵愛を受け、これにより建礼門院への寵愛はしだいに薄れた(注:長門本平家物語、源平盛衰記を参照してまとめた。平家物語は「葵前が亡くなり、帝が深く悲しみ嘆いたので、中宮が小督を差し出して慰めた」というが、いずれが正しいかは分からない)。

はじめ小督は実家にいたとき、藤原隆房と密かに通じていた。宮中に入った後も、隆房は未練を捨てきれなかった。隆房は清盛の娘婿である。清盛は疑って「中宮の寵愛が衰え、隆房が思い悩んでいるのは、皆小督のせいだ」と考え、これを殺そうとした。小督はひそかに宮中を抜け出し、嵯峨の民家に身を隠した。帝は悲しみと憤りのあまり、ほとんど食事も喉を通らなかった。

清盛はその事情を知り、怒って建礼門院を自邸に迎え入れ、女官たちが帝のもとに参上できないようにした。その意図は帝を追い詰めることにあったのであろう。廷臣たちも清盛を憚り、宿直に上がる者は少なかった。帝はひとり便殿に座り、そばに仕える者すら応じる者がいなかった。しばらくして、弾正大弼源仲国が遠くからその声を聞きつけて参上した。帝は「小督が嵯峨にいると聞いた。そなたが朕のために捜し出せ」と言い、書状をしたためて与えた。

仲国は官馬に乗って出発したが、あまねく捜しても見つからなかった。亀山の民家の前を通りかかったとき、箏を弾く者があった。耳を澄ませると、それは小督であった。仲国は笛を得意とし、たびたび宮中の宴に侍って小督の弾き方を知り尽くしていたので、それとわかったのである。門に入って書状を渡し、帝の意向をつぶさに伝えた。

小督は泣いて言った。「清盛が私を深く恨んでいると聞いています。もし宮中にいて、その毒牙にかかるようなことがあれば、君のご迷惑になります。それゆえ身を逃れてここに参りましたが、ここも長く留まることはできません。明日には大原へ行き、仏に仕えるつもりです」。仲国はこれを慰め、固く思いとどまらせて、急いで帰り帝に奏上した。帝は喜んだ。

翌夜、ひそかに小督を宮中に迎え入れ、寵愛はいっそう深まった。坊門院を産んだ。清盛はこれを聞いてますます怒り、人を遣わして小督を捕らえさせ、清間寺に押送して髪を切らせ、追い出した。時に年二十三であった(注:平家物語による。源平盛衰記を参照した。長門本平家物語によれば、清盛が宮中に入り小督を引き出し、その美しさに心を動かされて「そなた、私に仕える気はないか」と耳打ちしたところ、小督は「私はかたじけなくも宮仕えの身、太陽が天にある限り、どうして二心を抱きましょうか」と拒んだので、清盛は激怒し、髪を剃り耳と鼻を削いで追放したという。帝はこれを憂い憤って病を発し、崩御したという)。

帝は崩御に臨み、清間寺に葬るよう遺詔した。小督はついに大原に住んだ(注:源平盛衰記による)。その後の消息は分からない。

葵前

葵前(あおいのまえ)は、中宮に仕える下女であった。帝はこれを寵愛し、後宮でその寵は並ぶ者がないほどであった。宮中では「葵女御」と呼んだ。帝はその評判を恥じて、二度と召さなくなった。関白藤原基房は帝の心中を察し、機会をうかがって「養女として迎え、後宮に加えたい」と申し出た。帝はこれを聞き入れず、「そなたの願いのとおりにするのは、退位した後にすることもあろう。朕が在位中にそれを行えば、後の世の人は何と言うだろうか」と言った。

しかしその後も帝は葵前を思い続け、古歌を書いて葵前に贈った。葵前はこれを持ち帰り、ついに病を得て亡くなった(注:平家物語による。源平盛衰記にもこの話が載るが、葵前を宿禰、基房を忠通に作る)。

【後鳥羽天皇】

藤原中宮(任子)

後鳥羽天皇の藤原中宮、諱は任子(にんし)。摂政藤原兼実の娘である(注:一代要記、女院小伝、後宮略伝、紹運要略による)。文治五年、従三位に叙せられた(注:玉葉、仲資王記、女院小伝、後宮略伝による)。建久元年、女御となり、まもなく中宮に立てられた。年は十八で、帝より七歳年上であった(注:玉葉、一代要記、帝王編年記による。女院小伝は十七歳とする)。春華門院を産んだ(注:一代要記、帝王編年記、愚管抄による)。

建久七年、八条院のもとに退出した。はじめ権大納言源通親は帝に取り入って、帝の乳母と密通し、自分の娘を宮中に入れようとしていた。上皇の宮人高階栄子もまた通親と謀り、帝の挙動をうかがっては、頼朝の意向と偽って帝に政務に励み遊興を慎むよう勧める一方で、ひそかに頼朝にその様子を告げていた。帝の意にそわないことがあると、偽りの言葉を作って中宮と兼実の仲を裂いた。これによって中宮への寵愛が衰え、ついに宮中を退出することになった(注:愚管抄による)。

正治二年、宜秋門院の号を奉られた(注:玉葉、一代要記による)。建仁元年、尼となり、法名を清浄智といった(注:一代要記、帝王編年記による。法名は女院小伝による。歴代皇紀は建保元年のこととする)。建暦二年、院号・年官・年爵を辞退した(注:皇帝紀抄、帝王編年記、女院小伝による)。暦仁元年十二月、崩御した(注:歴代皇紀による)。享年六十六(注:玉葉に中宮となったとき年十八とあるのに基づく。歴代皇紀、女院小伝は六十五歳とするが誤り)。

某氏

典侍某氏は、少納言典侍と称された。僧道守を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録による)。

藤原重子

藤原重子(じゅうし)は、式部少輔藤原範季の娘である(注:皇胤紹運録、尊卑分脈、女院小伝を参照してまとめた。百錬抄の承元元年の条では重子を親子に作る)。順徳天皇(注:仲資王記、女院小伝、歴代皇紀による)、雅成親王(注:一代要記、帝王編年記、皇胤紹運録による)、寛成親王(注:仲資王記、百錬抄、皇胤紹運録、諸門跡譜による)を産んだ。

はじめ源在子が帝に深く寵愛されていたが、やがてその愛が衰え、これによって重子が寵愛を得た(注:愚管抄による)。建久九年、従三位に叙せられ、まもなく従二位に進んだ(注:女院小伝による)。二条君と称された(注:増鏡による)。

承元元年、准三宮とされ、修明門院の号を奉られた(注:歴代皇紀、院号定部類記引外記頼平記による)。帝はかつて群臣を水無瀬殿に集めて賭弓を行わせ、近習を遣わして修明門院に賭物を求めさせ、これを試そうとした。門院は韓櫃(からびつ)を与えたが、それはひどく重かった。開けて見ると、中身は銭であった。使者はこれを卑しんだ。帝は笑って「門院は故事をよく知っている。殿上での賭弓では銭を賭物とするのが故事である。そなたたちが知らないだけのことだ」と言った(注:増鏡による)。

承久三年、北条泰時が帝に薙髪を迫ったとき、門院もまた尼となり(注:百錬抄、光台院御室伝による)、法名を法性覚といった。十一月、院号・年官・年爵・封戸・諸司からの支給などを辞退した(注:女院小伝による)。岡崎に引きこもって暮らした(注:明月記、平戸記を参照してまとめた)。その後盗賊が押し入ることがあり、門院はこれを避けて四辻に移った(注:平戸記による)。文永元年八月、薨去した。享年八十三(注:歴代皇紀、女院小伝による)。

源在子

源在子(ざいし)は、法勝寺執行能円の娘である(注:尊卑分脈、五代帝王物語、増鏡による)。寿永の乱に際し、能円は西国に逃れ、在子は母藤原氏とともに都に留まった。母は参議源通親と密通し(注:愚管抄による。藤原氏の記述は尊卑分脈による)、通親は在子を自分の娘のように扱った。

宮中に入り、宰相君と称された。土御門天皇(注:増鏡、帝王編年記による。女院小伝は内大臣通親の娘とする)、ある皇女(注:明月記寛喜三年の条による)を産んだ。

帝(後鳥羽天皇)が譲位しようとしたとき、まだ皇太子は定まっていなかった。帝の意中には為仁・長仁の二皇子があり、いずれを立てるべきか迷っていた。斎戒して石灰壇に登り、七日間伊勢の神を拝んだ。籤を引いて占うと、為仁と出た。帝の本心は長仁にあったので、占いの結果に従わず、いたく不満であった。食事の膳に向かっても箸を取らず、長く思案してから「どうしたものか、どうしたものか」とつぶやいたが、周囲の者はその理由が分からなかった。

そのとき在子が食事の給仕をしていた。帝は振り返って「行って通親に伝えよ。今宮の食膳には特に心を配るようにと」と言った。在子はその意味を悟り、喜びを抑えきれず、走って通親に告げた。通親も大いに喜んだ。為仁親王はついに帝位に就いた。これが土御門天皇である。

在子はもとの姓を藤原としていたが、僧の娘が国母となることはできないため、通親を父として源姓を名乗った(注:五代帝王物語による)。後に母が亡くなると、在子は通親と密通するようになった。これによって寵愛はしだいに衰えた(注:愚管抄による)。

土御門天皇の即位に伴い、従三位に叙せられ、准三宮とされた(注:業資王記、百錬抄、女院小伝による)。建仁二年、承明門院の号を奉られた(注:一代要記、女院小伝、院号定部類記引帥入道記外記記による)。建暦元年、尼となり、法名を真如妙といった(注:女院小伝による)。

後嵯峨天皇がまだ即位前であったころ、門院に従って土御門殿に住んでいた。即位した後もたびたび土御門殿を訪れたので、世の人々はこれを栄誉なことと見なした(注:増鏡による)。正嘉元年七月、薨去した。享年八十七(注:増鏡、歴代皇紀、帝王編年記、女院小伝による。百錬抄は八十六歳、一代要記は八十八歳とする)。朝廷は三日間政務を停止した(注:園太暦貞和二年の条による)。

藤原氏

藤原氏は、内大臣藤原信清の娘である(注:帝王編年記、皇胤紹運録、諸門跡譜、一代要記による。女院小伝は信隆の娘とする)。西御方と称され(注:帝王編年記、平戸記寛平三年の条による)、また坊門局とも称された(注:帝王編年記、仲資王記元久元年の条、一代要記による)。

長仁親王(注:帝王編年記、皇胤紹運録、諸門跡譜による)、頼仁親王(注:帝王編年記、平戸記寛平三年の条による。一代要記は少納言典侍の所生とするが誤り)、嘉陽門院(注:皇胤紹運録、女院小伝による)を産んだ。帝(後鳥羽天皇)の隠岐配流に従った。帝の崩御後、都に帰った(注:平戸記寛平三年の条による)。

藤原氏

藤原氏は、大納言藤原定能の娘である。大宮局と称された。尊円法親王、僧行超を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録による)。

源氏

源氏は、少納言源信康の娘である(注:一代要記、帝王編年記、尊卑分脈による)。兵衛督局と称された(注:歴代皇紀による。皇胤紹運録は丹波局とする)。粛子(しゅくし)内親王を産んだ(注:帝王紀抄による)。

尾張局

尾張局は、法眼顕清の娘である。朝仁親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜、一代要記による)。

丹波局

丹波局は、名を石といい、父は御簾を編むことを生業としていた。舞女として宮中に入り、寵愛を受けた(注:明月記による)。後に右衛門督と称された。熙子内親王を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

瀧、姫法師も、やはりともに舞女として宮中に入った。瀧は覚仁法親王を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録による。一代要記は丹波局と称するとするが、金の字は取らない)。姫法師は僧覚誉(注:一代要記、皇胤紹運録、諸門跡譜による)、僧道伊、僧道縁を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

【土御門天皇】

藤原中宮(麗子)

土御門天皇の藤原中宮、諱は麗子(れいし)。太政大臣藤原実頼の娘である(注:歴代皇紀、一代要記、女院小伝による)。元久二年、従三位に叙せられ(注:皇帝紀抄、百錬抄、女院小伝による)、女御となった(注:一代要記、百錬抄、女院小伝による)。七月、中宮に立てられた(注:皇帝紀抄による。一代要記は四月とする)。

承元四年、陰明門院の号を奉られた(注:歴代皇紀、女院小伝、諡号雑記による)。承久三年、尼となった(注:帝王編年記、女院小伝、紹運要略による。歴代皇紀は承久二年のこととする)。寛元元年九月、崩御した。享年五十九(注:百錬抄、歴代皇紀、女院小伝による)。

源通子

典侍源通子(みちこ)は、参議源通宗の娘である。後嵯峨天皇(注:皇胤紹運録、貴女抄による)、仁助法親王、静仁法親王(注:一代要記、帝王編年記、皇胤紹運録による。諸門跡譜は静仁を治部卿局の所生とする)、正親町院(注:歴代皇紀、皇胤紹運録による)を産んだ。仁治三年七月、皇太后を追尊され、山陵と国忌斎が置かれた(注:百錬抄による。皇太后の追尊は神皇正統記、一代要記による)。

高階氏

掌侍高階氏は、大舎人頭高階仲資の娘である(注:一代要記、帝王編年記、皇胤紹運録による。大舎人頭の記述は高階系図による)。美作掌侍と称された(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。道仁法親王(注:帝王編年記、諸門跡譜による)、ある皇女(注:一代要記による)を産んだ。

源氏

掌侍源氏は、源貞光の娘である。秀子(しゅうし)を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録を参照してまとめた)。

源氏

源氏は、贈皇太后(源通子)の同母妹である。春子(しゅんし)を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録を参照してまとめた)。

藤原氏

藤原氏は、中納言藤原範光の娘である。宮内卿局と称された。知子(ともこ)を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録を参照してまとめた)。承元元年五月、卒去した(注:明月記による)。

源氏

源氏は、権中納言源有雅の娘である。仙華門院を産んだ(注:歴代皇紀による)。

藤原氏

藤原氏は、法印藤原定勝の娘である(注:一代要記による。藤原氏であることは尊卑分脈による)。治部卿局と称された(注:一代要記、皇胤紹運録、諸門跡譜による)。道円法親王(注:諸門跡譜による)、信子(のぶこ)(注:一代要記、皇胤紹運録を参照してまとめた)を産んだ。

源氏

源氏は、僧都証遍の娘である。左京大夫局と称された(注:一代要記、尊卑分脈を参照してまとめた)。諄子(じゅんし)内親王を産んだ(注:一代要記による)。

某氏

某氏は、法眼覚亮の娘である。尊守法親王を産んだ(注:帝王編年記による。皇胤紹運録、諸門跡譜は「法眼」を「法橋」に作る。一代要記は「亮」を「宴」に作る)。

某氏

某氏は、法眼円誉の娘である(注:一代要記は律師兼尊の娘とする。帝王編年記は「誉」を「基」に作る)。最仁法親王を産んだ(注:一代要記、帝王編年記、皇胤紹運録、諸門跡譜による)。

某氏

某氏は、法印尋慧の娘である。尊助法親王を産んだ(注:一代要記、帝王編年記、皇胤紹運録による)。

丹波局

丹波局は、法橋雲顕の娘である。是子(ぜし)を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録を参照してまとめた)。

某氏

某氏は、律師兼尊の娘である。僧増仁を産んだ(注:一代要記による)。

【順徳天皇】

藤原中宮(立子)

順徳天皇の藤原中宮、諱は立子(りゅうし)。摂政藤原良経の娘である(注:一代要記、歴代皇紀、皇胤紹運録、女院小伝による)。承元三年、東宮に入った(注:玉葉、百錬抄、一代要記による。歴代皇紀は承元四年のこととするが誤り)。承元四年、従三位に叙せられ(注:皇帝紀抄、女院小伝による)、女御となった(注:皇帝紀抄、歴代皇紀、女院小伝による。一代要記は承元五年のこととする)。

建暦元年、准三宮とされ(注:業資王記による)、中宮に立てられた(注:皇帝紀抄、一代要記、歴代皇紀、帝王編年記による)。九条廃帝(仲恭天皇)(注:帝王編年記による)、明義門院(注:歴代皇紀、貴女抄、女院小伝による。一代要記は「義」を「喜」に作り、藤原信清の娘の所生とするが誤り)を産んだ。

后は生まれつき重々しく口数が少なく、和歌や箏を得意とした。承久の乱の後は山荘に引きこもって暮らし、常に悲しみに沈み、和歌を詠んで思いを慰めた(注:増鏡による)。後堀河天皇の即位に伴い、東一条院の号を奉られた(注:帝王編年記、紹運要略、諡号雑記による)。

嘉禄二年、尼となり(注:歴代皇紀、紹運要略による)、法名を清浄観といった(注:女院小伝による)。宝治元年十二月、崩御した。享年五十七(注:歴代皇紀、女院小伝による)。

藤原氏

藤原氏は、内大臣藤原信清の娘である。永安門院を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

藤原氏

藤原氏は、権中納言藤原範光の娘である。彦成王、善統親王を産んだ(注:尊卑分脈による)。

藤原氏

藤原氏は、従三位藤原清季の娘である。忠成王を産んだ(注:皇胤紹運録、尊卑分脈による)。尊覚法親王、覚慧法親王(注:諸門跡譜、尊卑分脈による)も産んだ。

宰相局

宰相局は、法印公雅の娘である。ある皇子を産んだ(注:仁和寺日次記建保五年の条による)。

【九条廃帝】

某氏

九条廃帝(仲恭天皇)の後宮某氏は、法印性慶の娘である。右京大夫と称された(注:歴代皇紀、女院小伝による。性慶の娘であることは皇胤紹運録による)。和徳門院を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

【後堀河天皇】

藤原皇后(有子)

後堀河天皇の藤原皇后、諱は有子(ゆうし)。太政大臣藤原公房の娘である(注:一代要記、歴代皇紀、女院小伝による)。貞応元年、従三位に叙せられ、女御となった(注:女院記、女院小伝による)。貞応二年、中宮に立てられ、嘉禄二年、皇后と改められた(注:一代要記、歴代皇紀による)。

当時、中宮の父である関白藤原家実が権勢を独占していたため、后は宮中にいられず、浄土寺に退出した。それでも后への寵愛は変わらず、帝の思いは絶えることなく、文のやり取りが続いた(注:増鏡による)。安貞元年、安喜門院の号を奉られた(注:一代要記、歴代皇紀、紹運要略、諡号雑記による)。

寛元四年、尼となり、法名を真清浄といった(注:女院小伝による)。弘安九年二月、崩御した。享年八十(注:歴代皇紀、女院小伝による)。

藤原中宮(長子)

藤原中宮、諱は長子(ちょうし)。関白藤原家実の娘である(注:一代要記、女院小伝による)。嘉禄二年、従三位に叙せられ、女御となった(注:女院小伝による)。まもなく中宮となった。時に年九歳であった(注:一代要記、女院小伝、五代帝王物語による)。

寵愛はなく、やがて家実が職を罷免され、前摂政藤原道家が関白となると、道家は自分の娘を入内させようとしたため、后は別宮に退出した(注:増鏡による)。寛喜元年、鷹司院の号を奉られた(注:明月記、一代要記、歴代皇紀による)。四条天皇の准母とされた(注:玉葉嘉禎三年の条、百錬抄による)。

寛元四年、尼となった(注:百錬抄、女院小伝による)。法名は蓮華性(注:女院小伝による)。建治元年二月、崩御した。享年五十八(注:帝王編年記、女院小伝による)。

藤原中宮(竴子)

藤原中宮、諱は竴子(しゅんし)。関白藤原道家の娘である(注:一代要記、歴代皇紀、皇胤紹運録、女院小伝による)。寛喜元年、従三位に叙せられ、まもなく女御となり、寛喜二年、中宮となった(注:明月記、女院小伝による)。四条天皇を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

天福元年、藻壁門院の号を奉られた(注:一代要記、院号定部類記引番記及外記記による)。

はじめ後鳥羽天皇の中宮(任子)に院号を加えたとき、議論する者たちは「藻壁門」の号をこれに擬したが、兼実は不吉であるとして「宜秋門院」に改めさせた。この度その号が竴子に用いられることになると、宜秋門院は側近に「先日は不吉だとしたのに、今はよいというのか」と語ったという。これはおそらく、道家が祖父(兼実)の議論を知らなかったことを譏ったものであろう。院号を議定していたちょうどそのとき、藻壁門が倒れ、世の人々はこれを不吉なことと見なした(注:明月記による)。

九月、皇子を出産したが、その皇子は早世し、竴子自身もまた崩御した。享年二十五(注:明月記、百錬抄、歴代皇紀、女院小伝による)。后は容貌美しく、その寵遇は並ぶ者がないほどであった。これより先、帝は病に伏していたが、后の崩御に遭って悲しみに沈み、ついに崩御するに至ったという(注:増鏡による)。

藤原氏

典侍藤原氏は、権中納言藤原家行の娘である(注:一代要記、歴代皇紀、女院小伝による)。別当典侍と称された(注:一代要記による)。室町院、神仙門院を産んだ(注:女院小伝による。皇胤紹運録は藻壁門院の所生とする)。

藤原氏

典侍藤原氏は、権大納言藤原兼良の娘である。大納言局と称された(注:明月記寛喜三年の条、尊卑分脈による)。昱子内親王を産んだ(注:明月記、皇胤紹運録による)。

【四条天皇】

藤原彦子

四条天皇の女御藤原彦子(げんし)は、摂政藤原教実の娘である(注:歴代皇紀、女院小伝による)。仁治二年、従三位に叙せられた(注:百錬抄、女院小伝による)。女御となったのは年九歳のときであった(注:増鏡による。百錬抄は十四歳、女院小伝は十五歳とする)。

仁治三年、准三宮とされ(注:歴代皇紀、女院小伝による)、寛元元年、宣仁門院の号を奉られた(注:百錬抄、歴代皇紀、女院小伝による)。寛元四年、尼となり(注:女院小伝、紹運要略による)、法名を清浄阿といった(注:女院小伝による)。弘長二年正月、薨去した(注:歴代皇紀、女院小伝による)。享年三十(注:増鏡の仁治二年九歳という記述に基づく。歴代皇紀は二十歳、女院小伝は三十六歳とする)。