卷之八十五 列傳第十二
后妃十二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次38
藤原中宮(禧子)
¶後醍醐天皇の中宮、藤原禧子(ふじわらのきし)。太政大臣実兼(さねかね)の娘である(注:花園帝御記、増鏡、女院小伝、歴代皇記、太平記による)。天皇がまだ皇太子であった時、これを見て気に入り(注:増鏡による)、ついに東宮に入った。懽子内親王(かんしないしんのう)を生んだ(注:増鏡、皇胤紹運録による)。文保二年四月、三位を授けられた。七月、女御となった(注:女院小伝、後宮略伝による)。元応元年八月、立てられて中宮となった(注:後宮略伝、歴代皇紀による。○太平記には、中宮は寵愛を得られず、生涯天皇に侍ることがなかったとあるが、これは誤りである)。元弘元年、天皇が笠置(かさぎ)に行幸した際、中宮は懽子の住む野宮の傍らに身を隠した(注:増鏡による)。二年五月、光厳院がこれに礼成門院の号を奉った(注:女院小伝、歴代皇紀、尊卑分脈による)。はじめ中宮は懽子を生んだ後、長らく子ができなかった。天皇はちょうど北条高時を討つことを謀っており、嘉暦二年、「中宮が再び懐妊した」と宣言して常盤井殿に移らせ、多くの僧を集めて密法を修めさせた。あたかも安産を祈っているかのようであったが、何年経っても出産せず、実はこれは高時を呪詛するためのものであった(注:増鏡、異本太平記による)。翌年、天皇は隠岐に遷されることとなり、中宮は六波羅に赴いて天皇と別れを告げ、悲しみに堪えられず、歌を詠んだ。「此の上の 思ひは有らず つれ無さの 命よされば 何時を限りぞ」。この後、憂い思い煩って病となり(注:増鏡による。○歌は太平記巻四に出る)、ついに髪を剃って尼となった(注:増鏡、女院小伝による)。元弘三年六月、天皇が都に戻ると、髪を伸ばすよう詔があり、再び中宮となった。しかし病はますます重くなり、五壇法を修めて祈った(注:増鏡による)。十月、崩じ、後京極院と称された(注:後宮略伝、歴代皇紀、尊卑分脈による)。
珣子中宮
¶中宮、藤原珣子(じゅんし)(注:○歴代皇紀には恂子、後宮略伝には祹子とあるが、おそらく誤りである。○按ずるに、「祹」の字は本来「玉」偏の字である)。後伏見天皇の長女である(注:皇胤紹運録、女院小伝による)。応長元年六月、内親王となった。文保二年二月、一品に叙された(注:女院小伝による)。元弘三年十二月、立てられて中宮となった(注:女院小伝、後宮略伝による)。一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による)。延元二年正月、新室町院(しんむろまちいん)の号を進められた(注:貴女抄、女院小伝、歴代皇紀による)。五月、崩じた(注:女院小伝による。○後宮略伝には正月に崩じ、後に号を追進されたとある)。
藤原廉子
¶藤原廉子(れんし)は、右近衛中将公廉(きんかど)の娘である(注:尊卑分脈、太平記による)。太政大臣公賢(きんかた)の養女となった(注:女院小伝による)。才知と容色に優れ、和歌をよくした。はじめ後京極院に仕えていたが、天皇がこれを見て気に入り、宮中に召し入れた(注:増鏡、太平記による)。元徳三年、従三位に叙され(注:女院小伝による)、内侍三位(ないしのさんみ)と称された(注:増鏡による)。元弘二年、天皇に従って隠岐に赴き、賊(北条氏)が平定されると従って京へ帰り、大仏貞直(おさらぎさだなお)の采地を賜って湯沐邑(ゆもくゆう)とした(注:増鏡、太平記による)。建武二年四月、准三宮となった(注:女院小伝による)。廉子は生まれつき鋭敏で、天皇の意を巧みに迎えることに長け、もっぱら寵愛を独占した。天皇が各地を転々とし幽閉されるような時でも、離れることはなかった。しかし賄賂による謁見の便宜を図り、外部からの権勢を招き寄せた。何か訴えごとがあるたびに、役人たちはこれに奔走して応じ、内外の人々の望みは正妻をも凌ぐほどであった。このため賞罰が乱れ、臣下たちは憤り憎んだ。足利尊氏は護良親王(もりよししんのう)の勇武を忌み嫌い、これを除こうと謀った。そこで廉子に取り入り、あらぬ讒言を進めた。廉子はこれを天皇に訴え、ついに護良親王への寵は絶たれてしまった。尊氏が謀反を起こしたのは、廉子の仕業によるものであった(注:太平記による)。皇太子桓良(かんりょう)親王、および後村上天皇、成良(なりよし)親王(注:神皇正統記、皇胤紹運録による)、祥子内親王、惟子内親王を生んだ(注:皇胤紹運録、歴代皇紀による)。正平六年十二月、新待賢門院(しんたいけんもんいん)の号を奉られた(注:女院小伝、園太暦、太平記による。○女院小伝には、国中では皇后と称されたとあるが、その年月は詳らかでない。園太暦には皇太后が先の朝廷の皇太后宮職に関わるという文言があるが、その文意は詳らかでない。よって今はこれを採らない)。十四年四月、吉野で薨じた(注:源通冬願文、女院小伝による。○吉野の地は太平記による)。享年五十九(注:源通冬願文による)。後村上天皇はこれに服して三年の喪に服した(注:新葉和歌集による)。
藤原榮子
¶女御藤原栄子(えいし)は、関白道平(みちひら)の娘である(注:歴代皇紀、尊卑分脈による)。元弘三年十二月、女御となった(注:歴代皇紀による。この書では二年のこととするが、当時天皇は隠岐におり、この出来事があるはずがない。よって今は三年のこととする)。
藤原親子
¶典侍藤原親子(ちかこ)は、参議宗親(むねちか)の娘である。中納言典侍と称された。満良(みつよし)親王を生んだ(注:尊卑分脈、古本帝王系図による)。
藤原為子
¶藤原為子(ためこ)は、権大納言為世(ためよ)の娘である(注:増鏡、冷泉系図、太平記、皇胤紹運録による)。はじめ後二条天皇に仕え(注:冷泉系図による)、後醍醐天皇が皇太子であった時、召されて宮中に入った。大いに寵愛され、権大納言局と称された(注:増鏡による)。尊良(たかよし)親王、宗良(むねよし)親王(注:皇胤紹運録、冷泉系図、増鏡による)、瓊子内親王(注:作者部類による)、欣子内親王、および一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による。○増鏡には、為子は三人の内親王を生んだとあるが、その名や事実については考証できない)。早くに亡くなった。天皇の即位に及んで、勅により従三位を贈られた。為子は和歌に優れ、為世が続千載和歌集を撰する際、その詠んだ歌を多く採録した(注:増鏡による)。
藤原實子
¶藤原実子(じつし)は、左大臣実雄(さねお)の娘である(注:皇胤紹運録による)。はじめ後宇多天皇の後宮にあり、後に後醍醐天皇に仕えた(注:園太暦系図による)。一皇女を生み、従一位に叙された(注:皇胤紹運録による)。
藤原守子
¶藤原守子(もりこ)は、左大臣実泰(さねやす)の娘である。従二位に叙された(注:園太暦系図による)。玄円法親王を生んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。
源親子
¶源親子(ちかこ)は、権大納言師親(もろちか)の娘である(注:皇胤紹運録による)。はじめ亀山天皇の後宮に入り、皇子某を生んだ。後に京極院に仕え、後醍醐天皇がこれを見て寵愛した。三位に叙され、民部卿三位と称された(注:増鏡、皇胤紹運録、太平記による)。護良親王、妣子内親王を生んだ(注:皇胤紹運録による)。天皇が各地に遷り移った際、親子は京にとどまった。当時、護良親王は十津川(とつかわ)に逃れており、親子は憂い思い悩んで堪えられず、北野社に参詣し、七日間籠って祈った。和歌を詠んで曰く、「忘れずは 神も哀れと 思ひ知れ 心尽くしの 古への旅」。夢に一人の老翁が現れ、梅の花の一枝を手にし、杖に寄りかかって立っていた。親子がその来た所を尋ねると、翁は顔色を曇らせて何も言わず、梅の花を残して立ち去った。親子がこれを見ると、和歌が結び付けられていた。「巡り来て 遂には澄むべき 月影の 暫し曇るを 何歎くらん」。目覚めてこれを不思議に思い、吉兆であると考えた。後に果たしてその通りになった(注:太平記による)。
菅原氏
¶菅原氏は、正三位在仲(ありなか)の娘である。少将内侍と称された。聖助法親王を生んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。
藤原氏
藤原氏
¶藤原氏は、左近衛中将為道(ためみち)の娘である(注:冷泉系図による)。はじめ中宮宣旨(せんじ)であったが、天皇の寵を受けた(注:増鏡による)。法仁法親王(注:増鏡、冷泉系図、皇胤紹運録、諸門跡譜による)、懐良(かねよし)親王(注:○按ずるに、この書には阿蘇宮の母は法仁法親王の母と同じとあり、阿蘇宮はおそらく懐良親王のことであろう。別本の後醍醐帝系には、母は尊良親王の母と同じとあるが、今はひとまずこの書の記述に従う)、および一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による)。権大納言三位局と称された(注:皇胤紹運録、冷泉系図による)。天皇が隠岐に遷された際、尼となった(注:増鏡による)。
大納言局
¶大納言局は、一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による。○按ずるに、園太暦系図には権大納言公敏(きんとし)の娘、後醍醐大納言局と称されたとあり、おそらくこの人物であろう)。
權中納言局
¶権中納言局は、一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による。○按ずるに、この書には後宇多院権中納言局とあるが、誰の娘かは記されていない。園太暦系図によれば、権大納言藤原公泰(きんやす)の娘で、後醍醐天皇の宮女となり、後に世を捨てて尼となったとあり、おそらくこの人物であろう)。
民部卿局
¶民部卿局は、一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による)。
坊門局
¶坊門局は、一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による)。
左衛門督局
¶左衛門督局は、為忠(ためただ)の娘である(注:○為忠の姓氏は伝わっていない。按ずるに、冷泉系図、勧修寺系図にはいずれも為忠という人物が見えるが、どちらであるかは分からない)。遊義門院に仕えた。一皇女を生んだ(注:皇胤紹運録による)。
近衛局
¶近衛局は、昭訓門院に仕えた。一皇子を生んだ(注:皇胤紹運録による)。
某氏
¶某氏は、基時(もととき)の娘である(注:○基時の姓は伝わっていない)。一皇子を生んだ(注:皇胤紹運録による)。
¶【後村上天皇】
某女御
¶後村上天皇の女御某は、関白某の娘である。宮中に入って女御となった(注:新葉和歌集による。○この書を考証するに、門院がまだ女御であった時、福恩寺前関白内大臣家で歌合があり、題を「禁中月」として、関白が詠んだ歌には、女御が后の位に昇ることを期待する意が込められていた。これによれば、門院はおそらく福恩寺関白の娘であろう。しかし福恩寺関白が誰であるかもまだ分からない。女御が后になったという記述は、諸書に見当たらない)。後亀山天皇を生んだ(注:説は本紀に見える)。天皇が崩じるに及んで、髪を落とし、嘉喜門院(かきもんいん)の号を奉られた(注:新葉和歌集、嘉喜門院集、後亀山和歌題辞による)。門院は琵琶を得意としていたが、天皇が崩じてからは、哀しみ慕う思いに堪えられず、二度と自ら弾くことはなかった。天授三年七月七日、吉野の行宮で管弦の宴が催された。門院はこれを観覧し、演奏が終わった。夜、亀山天皇はたびたび門院に琵琶を弾くよう求め、門院はこれに応じて一曲弾いた。天皇は昔を思い出し感慨に堪えられず、和歌を詠んだ。「斯くてのみ 耐えすぎかはや 其の上の 無き思ほゆる 峰の松風」。門院はこれに和して詠んだ。「哀れとも 君ぞ聞きける 今ははや 吹き絶えぬべき 峰の松風」(注:新葉和歌集、嘉喜門院集による。○按ずるに、この書に載る歌詞にはそれぞれ小さな違いがある。今は新葉集に従う)。宗良親王が新葉和歌集を撰する際、門院に和歌を求めた。門院は大納言藤原実為(さねため)に命じて和歌百余首を書き写させ、宗良親王に贈った。宗良親王はこれを閲覧し、集に載せるべきものに印をつけ、書を奉って謝辞を述べ、かつ次のように言った。「七夕の松風の唱和は、人の目を驚かせ心を奪い、感慨と詠嘆に堪えないほどで、ほとんど歴代の勅撰集にも劣らないものです。どうして吉野の紅葉とともに山谷に埋もれさせることができましょうか。私は御咎めを恐れず、たびたびこれをお願いした次第です」(注:嘉喜門院集による)。
教子
¶教子は、その姓氏が伝わっていない。従二位に叙された。世泰(よやす)親王を生んだ。世泰親王が薨じると、如意輪寺に葬られた。翌年、教子は如意輪寺に赴き、冥福を修した。後亀山天皇は和歌を賜ってこれを慰めた。教子は歌を奉って答え、いっそう哀しみを深めた(注:新葉和歌集による)。
某中宮
¶後亀山天皇の中宮は、誰の娘か詳らかでない。宮中に入って女御となり(注:新葉和歌集による)、阿佐殿(あさどの)と称された(注:嘉喜門院集による)。建徳二年九月、紅葉一枝を嘉喜門院に献じた。門院は和歌を詠んで謝した。「君が早 秋の宮居に 移るべき ほとを紅葉の 色にこそ知れ」。天皇はこれに代わって和した。「散らで尚 千歳の秋も 色添へよ 藐姑射山の 峰の紅葉は」。天皇の即位に及んで、中宮となった(注:新葉和歌集による。○按ずるに、歌詞は嘉喜門院集に載るものと小さな違いがある)。
¶【後小松天皇】
藤原資子
¶後小松天皇の後宮、藤原資子(すけこ)は、贈左大臣資国(すけくに)の娘である(注:貴女抄、尊卑分脈、歴代皇紀による)。叔父の儀同三司資教(すけのり)の養女となって宮中に入った。称光天皇、竜樹寺宮を生んだ。二位に叙された。応永三十二年七月、准三宮となった。同日、光範門院(こうはんもんいん)の号を進められた(注:尊卑分脈、薩戒記、貴女抄を参照した。竜樹寺宮については皇胤紹運録による)。永享五年十月、髪を剃った。時に年五十であった(注:尊卑分脈による)。
藤原氏
¶藤原氏は、家柄も衣冠も本来のもので、吉野の行宮に従っていた。後に宮中に入り、侍女となって寵愛を受けた。後宮の女性がこれを讒言して言った。「あの者はいまだ南朝を忘れず、常に刃物を隠し持ち、天皇家に害をなそうとするでしょう」。天皇はこれを憎んで追い出した。民家で僧宗純(そうじゅん)を生んだという(注:一休年譜による)。
北朝后妃
¶【附錄】 北朝后妃
¶【光嚴天皇】
壽子內親王
¶光厳天皇の後宮、寿子内親王(じゅしないしんのう)は、花園天皇の長女である(注:皇胤紹運録、後宮略伝による)。幼くして永陽門院の養子となった。門院が薨じると、その封邑を譲り受けた(注:園太暦による)。後に宮中に入って妃となった(注:皇胤紹運録、園太暦、諡号雑記による)。子はなかった。崇光院、後光厳院が生まれると、命によりこの妃の子とされた(注:○皇胤紹運録、園太暦を参照した)。建武四年、徽安門院(きあんもんいん)の号を得た(注:貴女抄、後宮略伝による)。延文二年、出家して尼となり、萩原に庵を構えて住んだ(注:園太暦による)。翌年四月、薨じた(注:常楽記による)。
懽子內親王
¶懽子内親王は、後醍醐天皇の長女である(注:皇胤紹運録、後宮略伝による)。正慶二年、宮中に入って妃となった(注:歴代皇紀による)。建武二年、宣政門院(せんせいもんいん)の号を得た(注:後宮略伝、歴代皇紀による。○貴女抄には三年とある)。暦応三年、宮中を出て保安寺に入り、尼となった(注:歴代皇紀による。○祐植記抄には二年のこととある)。時に年二十六であった(注:後宮略伝、女院小伝による)。
藤原秀子
¶藤原秀子(しゅうし)は、内大臣公秀(きんひで)の娘である(注:尊卑分脈、女院小伝による)。光厳天皇の即位に際し、はじめ右大臣藤原秀衡(ひでひら)の娘が宮中に召されたが、寵愛を得られず、代わって秀子が召し入れられた。その父の家号にちなんで三条局と呼ばれた(注:増鏡による)。寵を得て、崇光院を生んだ(注:皇胤紹運録、女院小伝による)。建武三年、典侍となった。翌年、従三位を授けられた(注:女院小伝、園太暦による)。その後、後光厳院を生んだ(注:皇胤紹運録、女院小伝による)。文和元年、准三宮となり、陽禄門院(ようろくもんいん)の号を得た。本来の封邑のほかに、特に五百戸の邑を加えられた。十一月、病により髪を剃った。まもなく薨じた。享年四十二(注:園太暦による)。
藤原氏
¶藤原氏は、権大納言公蔭(きんかげ)の娘である。徽安門院に仕え、一条局と称し、また後対御方(のちのたいのおんかた)とも称された。宮中に入り、義仁親王を生んだ(注:皇胤紹運録、尊卑分脈による)。
¶【崇光天皇】
藤原氏
¶崇光天皇の女御藤原氏は、太政大臣公賢(きんかた)の娘である。はじめ徽安門院に仕え、東御方(ひがしのおんかた)と称された(注:園太暦系図による)。宮中に入って女御となり、安福殿女御と称された。延文二年、門院とともに尼となった(注:園太暦による)。名を了覚と改め、なお門院に仕え続け、梅津比丘尼(うめづびくに)と称された(注:園太暦系図による)。
源資子
¶典侍源資子(すけこ)は、権大納言主旨重資(しげすけ)の娘である(注:○「大」はあるいは「中」に作る)。宮中に入って典侍となった(注:尊卑分脈、椿葉記による)。按察典侍(あぜちのてんじ)と称された(注:椿葉記による)。栄仁(よしひと)親王を生んだ(注:皇胤紹運録、椿葉記による)。従三位を授けられ、杉殿(すぎどの)と称された(注:尊卑分脈、皇胤紹運録による)。
¶【後光嚴天皇】
藤原仲子
¶後光厳天皇の後宮、藤原仲子(ちゅうし)は、贈左大臣兼綱(かねつな)の娘である(注:尊卑分脈、貴女抄による)。宮中に入って典侍となり、中納言典侍と称された(注:後愚昧記による)。後円融院(注:皇胤紹運録、貴女抄による)、および煕永(ひろなが)親王、堯仁(ぎょうにん)法親王を生んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜、仁和寺御伝による)。従三位を授けられた(注:尊卑分脈、院号定部類記による)。後小松天皇の即位に及んで、准三宮となった。崇賢門院(すうけんもんいん)の号を得た(注:貴女抄、後愚昧記、院号定部類記による)。本来の封邑のほかに、特に五百戸の邑を加えられた(注:院号定部類記による)。応永五年、薨じた。享年九十三(注:尊卑分脈による)。門院は梅町に住んだので、世に梅町殿と称された(注:尊卑分脈、後愚昧記による)。
橘氏
¶内侍橘氏は、従三位以繁(もちしげ)の娘である(注:○橘氏系図、公卿補任を参照した)。少納言内侍と称された(注:後愚昧記による)。明承法親王を生んだ(注:後愚昧記別記による。○天台座主記には、伯耆殿局が明承を生んだとある)。後光厳院が崩じるに及んで、髪を落として尼となった(注:後愚昧記による)。
右衞門局
¶右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)は、その姓氏が詳らかでない。亮仁(りょうにん)法親王、覚増(かくぞう)法親王を生んだ(注:後愚昧記による)。
藤原氏
¶藤原氏は、円満院大夫法師長快(ちょうかい)の娘である(注:後深心院関白記による。長快については尊卑分脈による)。左京大夫局と称され(注:尊卑分脈、後愚昧記、後深心院関白記による)、また伯耆殿局(ほうきどののつぼね)とも称された(注:後愚昧記、天台座主記による)。覚叡(かくえい)法親王、久尊(くそん)親王を生んだ(注:尊卑分脈による。○後愚昧記、後深心院関白記、天台座主記を参照した)。後光厳院が崩じるに及んで、尼となった(注:後愚昧記による)。
藤原嚴子
¶藤原氏。後光厳院は晩年に権大納言藤原資名(すけな)の娘を召して寵愛し、後円融院の保母として二位を授け、二品局(にほんのつぼね)と呼んだ。二品局はその寵愛を頼みにして、多くの不法な行いをした。かつて北面の武士藤原懐国(かねくに)と私通し、備前守への任官を願い出た。懐国は権勢を頼みにして、同僚たちを侮り軽んじた。後光厳院はこれを次第に憎むようになり、その食邑を収めて人に与えた。後光厳院が崩じてわずか十数日後、懐国は害を受け、二品局もまた宮中を出て尼となった(注:後愚昧記、後深心院関白記を参照した)。
¶【後圓融天皇】
藤原康子
¶後円融天皇の後宮、藤原厳子(ごんし)は、内大臣公忠(きんただ)の娘である(注:尊卑分脈、貴女抄による)。応安四年、宮中に入った(注:後愚昧記による)。後小松天皇(注:皇胤紹運録、貴女抄による)、および一皇女を生んだ(注:後愚昧記による)。後小松天皇の即位に及んで、准三宮となり、通陽門院(つうようもんいん)の号を得た(注:貴女抄、院号訂部類記による)。文明五年十二月、薨じた。享年六十九(注:尊卑分脈による)。後円融院が譲位した後、次第に淫らで荒々しくなり、猜疑心も甚だしくなった。門院ははじめ皇女を出産した際、実家の公忠邸に退いていた。出産後わずか十数日で、院はこれが他の男性と密通しているのではと疑い、急ぎ宮中に呼び戻させた。まもなく召し出したが、門院はちょうど夫人としての服飾を整えられておらず、すぐには参上できなかった。院は大いに怒り、刃を持って部屋に押し入り、門院を斬りつけて傷を負わせた。崇賢門院はその後の禍を恐れ、公忠と謀って、酒を持って院のもとを訪れ、天皇と共に酌み交わした。院が酔いつぶれて何も分からなくなったのを見計らい、人を走らせて公忠に知らせ、輿を差し向けて門院を運び出させ、これによって難を逃れることができた。院はまた寵愛していたある官人が足利義満と密通していると疑って罷免した。そのとき義満の使者がちょうど到着し、院はこれを聞いて驚き恐れ、義満が自分を恨んでいるのだと考え、島へ遷ることを謀った。仏間に入って自害しようとしたが、崇賢門院がこれを諭して止めた(注:尊卑分脈、貴女抄による)。
藤原今子
¶藤原今子(こんし)は、権大納言資康(すけやす)の娘である。宮中に入って寵愛を受け、従一位に叙され、後小松天皇の准母となった(注:尊卑分脈、貴女抄による)。後に足利義満に嫁ぎ(注:尊卑分脈による)、北山に住んだ(注:後深心院関白記による)。後小松天皇の即位に及んで、准三宮となり、北山院(きたやまいん)の号を得た(注:尊卑分脈、貴女抄、院号訂部類記による)。
¶典侍藤原今子(注:皇胤紹運録による)は、権大納言隆卿(たかきょう)の娘である(注:尊卑分脈、後愚昧記による)。従三位に叙された(注:皇胤紹運録による)。帥典侍(そちのてんじ)と称された(注:後愚昧記による)。道朝法親王を生んだ(注:皇胤紹運録、尊卑分脈による)。