卷之八十四 列傳第十一

后妃十一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次35
  1. 姈子皇后
  2. 藤原忠子
  3. 源基子
  4. 掄子
  5. 瑞子
  6. 藤原氏
  7. 藤原氏
  8. 藤原氏
  9. 藤原中宮(鏱子)
  10. 藤原經子
  11. 藤原季子
  12. 藤原氏
  13. 藤原英子
  14. 某氏
  15. 源氏
  16. 藤原氏
  17. 治部卿局
  18. 西御方
  19. 藤原寧子
  20. 藤原氏
  21. 藤原氏
  22. 高階氏
  23. 治部卿局
  24. 右京大夫局
  25. 藤原中宮(忻子)
  26. 藤原頊子
  27. 平氏
  28. 藤原氏
  29. 藤原氏
  30. 藤原宗子
  31. 平氏
  32. 新大納言局
  33. 藤原氏
  34. 藤原實子
  35. 藤原氏

姈子皇后

後宇多天皇の皇后、諱は姈子(れいし)(注:歴代皇紀は姈を姾に作る)。後深草天皇の長女である。母は東二条院。文永八年正月、内親王となった(注:女院小伝による)。弘長八年八月、皇后に立てられた(注:歴代皇紀による)。

後に子がなく、後二条天皇の准母となった(注:皇胤紹運録、女院小伝、園太暦文和元年の条による)。帝(後宇多天皇)の譲位後、後深草天皇の宮に退いて住んだ(注:増鏡による)。正応四年八月、遊義門院の号を奉られた(注:貴女抄、諡号雑記による)。

永仁の初め、亀山法皇と密通し、万里小路殿に移り住んだ(注:増鏡、歴代皇紀、女院小伝を参照してまとめた)。後に嵯峨の今林に住んだ(注:増鏡による)。徳治二年七月、崩御した(注:園太暦文和元年の条による)。享年三十八(注:歴代皇紀、女院記、女院小伝による)。

后は格別の寵愛を一身に受けていたので、その崩御に際して、帝は悲しみ慕う思いが尽きず、ついに薙髪し、後宮の女性たちを退けて、長く精進潔斎の生活を送った。今林に法華堂を建てて遺骨を納め、「仏事を修めるたびに、必ず忌日にはお参りしよう」と言った。后の遺髪を用いて手ずから梵字を刺繍し、また一字ごとに三度礼拝しながら法華経を遺書の紙背に書き写し、これを摂取院に納めた(注:増鏡による)。

藤原忠子

典侍藤原忠子(ちゅうし)は、参議藤原忠継の娘である(注:歴代皇紀、貴女抄、女院小伝、後宮略伝による。典侍であることは増鏡による)。内大臣藤原師継の養女となった(注:神皇正統記による)。

宮中に入り典侍となり、中納言典侍と称された(注:増鏡による)。後醍醐天皇、承覚法親王、性円法親王(注:皇胤紹運録による)、達智門院(注:増鏡、女院小伝による)を産んだ。

亀山天皇がこれを召して寵愛し、禅林寺殿に移り住んだ(注:増鏡による)。永仁六年七月、従三位に叙せられ(注:女院小伝、尊卑分脈による。後宮略伝は永仁五年のこととするが、おそらく誤りである)、正安三年七月、准三宮とされた(注:女院記、女院小伝による)。

嘉元元年九月、出家して尼となり、法名を蓮華智といった(注:女院小伝、尊卑分脈による)。文保二年四月、談天門院の号を奉られた(注:歴代皇紀、貴女抄による)。元応元年十一月、薨去した(注:公卿補任、歴代皇紀、皇代記、増鏡による)。享年五十二(注:女院記、女院小伝、後宮略伝による)。

源基子

源基子(きし)は、内大臣久我具守の娘である。祖父の太政大臣久我基具の養女となった(注:歴代皇紀、女院小伝、後宮略伝、尊卑分脈による)。

はじめ新陽明門院に仕え、東御方と称された。寵愛を受け(注:増鏡による)、後二条天皇を産んだ。後二条天皇の崩御後、出家して尼となり、法名を清浄法といった。

延慶元年十一月、従三位に叙せられた。十二月、准三宮とされ(注:歴代皇紀、女院小伝、後宮略伝による)、西華門院の号を奉られた(注:院号定部類記引藤原実躬記、貴女抄、女院小伝、後宮略伝による)。正平十年八月、薨去した。享年八十七(注:園太暦による)。

掄子

掄子(りんし)は、中務卿宗尊親王の長女である(注:増鏡による。皇胤紹運録、尊卑分脈はいずれも少女〔末娘〕とする)。

はじめ亀山法皇に仕えたが、寵愛はなかった。法皇が亀山殿に移った後も、禅林寺殿にとどまって住んでいた。源有房が宿直に上がっていた際、これと密通して子を産んだ(注:増鏡による)。その後、帝(後宇多天皇)もまたこれを寵愛し、崇明門院を産んだ(注:皇胤紹運録による。歴代皇紀は永嘉門院の所生とするが、今は増鏡によれば永嘉門院に子がなく崇明門院を養女としたとあることから、本書の説に従う)。

瑞子

瑞子(ずいし)は、崇尊親王(宗尊親王)の少女(末娘)である(注:増鏡による。皇胤紹運録、尊卑分脈は長女とする)。亀山天皇の養女となった(注:後宮略伝による)。

乾元元年正月、宮中に入り(注:歴代皇紀による)、その日のうちに准三宮とされ(注:女院小伝による)、永嘉門院の号を奉られた(注:歴代皇紀による)。寵愛を受けたが子はなく、帝は瑞子に皇孫の邦良親王と皇女禖子内親王を養育させた(注:増鏡による)。

正中元年六月、帝(後宇多天皇)が崩御した。七月、出家して尼となり、法名を妙法智といった(注:歴代皇紀、女院記、女院小伝による)。元徳元年八月、薨去した(注:常楽記、園太暦貞和二年の条による)。享年五十八(注:歴代皇紀、女院小伝による)。

藤原氏

藤原氏は、大納言藤原長雅の娘である。皇女一人を産んだ(注:一代要記による)。

藤原氏

藤原氏は、参議藤原実俊の娘である(注:皇胤紹運録、諸門跡譜、尊卑分脈による)。遊義門院に仕え、一条局と称された(注:皇胤紹運録、尊卑分脈による)。

寵愛を受け、良治親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。後に後醍醐天皇の宮に入り、世良親王(注:増鏡、皇胤紹運録、島津家本太平記、尊卑分脈による)、静尊法親王(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)、皇女一人(注:皇胤紹運録による)を産んだ。

藤原氏

藤原氏は、参議藤原宗親の娘である。愉子内親王を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

【伏見天皇】

藤原中宮(鏱子)

伏見天皇の藤原中宮、諱は鏱子(しんし)。太政大臣洞院実兼の長女である(注:一代要記、貴女抄、女院小伝、後宮略伝、尊卑分脈による。長女であることは女院小伝による)。正応元年四月、従三位に叙せられた(注:女院記、女院小伝による)。六月、宮中に入った(注:一代要記、増鏡による)。

後深草上皇がこれを養女とするよう命じた(注:増鏡による)。まもなく女御となり、八月、中宮に立てられた(注:一代要記、女院小伝による)。子はなく、勅により後伏見天皇を養子とした(注:増鏡、歴代皇紀、帝王編年記、皇胤紹運録による)。

永仁六年八月、永福門院の号を奉られた(注:貴女抄、後宮略伝による)。正和五年六月、尼となり、法名を真如源といった(注:歴代皇紀、女院記、女院小伝による。一代要記は「真」を「空」に作る)。興国三年五月、崩御した。享年七十二(注:歴代皇紀、女院小伝、後宮略伝、尊卑分脈による)。

藤原經子

藤原経子(けいし)は、参議藤原経氏の娘である(注:神皇正統記、一代要記、帝王編年記、皇胤紹運録による)。後伏見天皇を産み、准三宮とされた(注:神皇正統記、一代要記、歴代皇紀、帝王編年記、皇胤紹運録による)。

藤原季子

藤原季子(きし)は、左大臣洞院実雄の娘で(注:歴代皇紀、貴女抄、女院小伝、後宮略伝による)、永福門院の異母妹である。帝(伏見天皇)がひそかにこれを寵愛した(注:増鏡による。異母妹は歴代皇紀による)。

永仁五年正月、従三位に叙せられた(注:女院小伝、後宮略伝による)。花園天皇(注:神皇正統記、増鏡、女院小伝による)、寛性法親王(注:皇胤紹運録、仁和寺御伝、諸門跡譜による)、朔平門院、延明門院(注:皇胤紹運録、歴代皇紀、女院小伝による)を産んだ。

帝(伏見天皇)の崩御後、出家して尼となり、法名を円常覚といった(注:女院小伝による)。嘉暦元年二月、准三宮とされ(注:歴代皇紀、女院小伝による)、顕親門院の号を奉られた(注:増鏡、貴女抄、女院小伝による)。延元元年二月、薨去した。享年七十二(注:歴代皇紀、女院小伝による)。

藤原氏

藤原氏は、権大納言藤原実明の長女で、宣光門院の異母姉である。徳陽門院に仕え、三条局と称され(注:園太暦系図、尊卑分脈による)、また東御方とも称された(注:歴代皇紀、女院小伝、皇胤紹運録による)。従三位に叙せられた(注:尊卑分脈による)。

寵愛を受け、道熙法親王(注:皇胤紹運録、園太暦系図による。尊卑分脈は尊実法親王を産んだとするが、寛胤・尊実を伏見天皇の子とする説はいずれも誤りであるため採らない)、進子内親王(注:皇胤紹運録の諸本は後伏見天皇の皇女とするが、今は一代要記、園太暦などの諸書に基づき伏見天皇の皇女と定める。詳細は皇女伝に記す)を産んだ。

後に後伏見天皇もまたこれと私通し、長助法親王(注:皇胤紹運録、諸門跡譜、園太暦による)、寛胤法親王、承胤法親王、亮性法親王(注:皇胤紹運録による)、章徳門院(注:皇胤紹運録、歴代皇紀、女院小伝、後宮略伝による)を産んだ。後に左大臣藤原公賢に嫁いだ(注:園太暦系図による)。

藤原英子

藤原英子(えいし)は、権中納言藤原公宗の娘である。従三位に叙せられた。章義門院を産んだ(注:園太暦系図、女院小伝、後宮略伝、尊卑分脈による)。

某氏

掌侍某氏は、俊衡の娘である(注:俊衡の姓および官職は不明)。播磨内侍と称され、尊彦親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。

源氏

源氏は、参議源具氏の娘である。権大納言局と称された。吉永親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。

藤原氏

藤原氏は、参議藤原茂通の娘である。春日局と称された。尊熙法親王を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

治部卿局

治部卿局は、法印任快の娘である。また春日局とも称された。慧助法親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による。春日局の呼称は紹運録による)。

西御方

西御方は、姓氏が明らかでない。広義門院に仕えた。寵愛を受け、聖珍法親王を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

【後伏見天皇】

藤原寧子

後伏見天皇の女御藤原寧子(ねいし)は、左大臣西園寺公衡の長女である(注:貴女抄、女院小伝、後宮略伝による。長女であることは女院小伝による)。徳治元年四月、選ばれて宮中に入った(注:女院記による)。

光厳院、光明院(注:皇代記、皇年代記、皇胤紹運録、後宮略伝による)、景仁親王(注:皇胤紹運録による)、新室町院(注:歴代皇紀、貴女抄、女院小伝による)、ある皇女(注:皇胤紹運録による)を産んだ。花園天皇の准母とされた(注:増鏡、貴女抄、女院小伝、園太暦による)。

延慶二年正月、従三位に叙せられ(注:女院小伝、後宮略伝による)、女御となり(注:後宮略伝による)、准三宮とされ、広義門院の号を奉られた(注:女院小伝、後宮略伝による)。延元元年二月、出家して尼となった(注:歴代皇紀、女院小伝による。後宮略伝は三月のこととするが、おそらく誤り)。

崇光院が吉野に入り、都に主のいない状態になったとき、足利尊氏は政務を門院に奏上して決裁を仰いだ(注:園太暦による)。後光厳天皇の即位に際しても、尊氏は門院に願い出て政務に関与させた。門院は光厳・光明の両院がなお南朝方にあることから、政務に携わることでかえって不利益が生じることを懸念し、固く辞退したが聞き入れられなかった(注:続神皇正統記による)。

正平十二年閏七月、急に薨去した(注:園太暦による)。享年六十六(注:女院小伝の徳治元年に年十五であったという記述に基づく)。

藤原氏

藤原氏は、権大納言藤原実明の娘である。対御方と称され、従三位に叙せられた(注:園太暦系図、尊卑分脈による)。尊実法親王(注:皇胤紹運録による。尊卑分脈は三条局の所生とするが、今は採らない)、尊省親王、および皇女一人(注:園太暦系図、尊卑分脈による)を産んだ。文中元年二月、薨去した(注:後深心院関白記による)。

藤原氏

藤原氏は、これもまた実明の娘である。宣光門院に仕え、廊御方と称された。寵愛を受け、皇子一人、皇女一人を産んだ(注:園太暦系図、尊卑分脈による)。

高階氏

高階氏は、従二位高階邦経の娘である。堀河局と称され(注:皇胤紹運録、諸門跡譜、仁和寺御伝による)、また別当局とも称された(注:仁和寺御伝による)。法守法親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。

治部卿局

治部卿局は、尊胤法親王を産んだ(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。

右京大夫局

右京大夫局は、皇女二人を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

【後二条天皇】

藤原中宮(忻子)

後二条天皇の藤原中宮、諱は忻子(きんし)。太政大臣堀川公孝の娘である(注:増鏡、貴女抄、女院小伝、後宮略伝による)。従三位に叙せられた(注:女院小伝、後宮略伝による)。

乾元元年八月、宮中に入り(注:女院小伝、尊卑分脈による)、女御となった(注:歴代皇紀、女院小伝、増鏡による)。寵愛を受けた(注:増鏡による)。嘉元元年九月、中宮に立てられた(注:公卿補任、歴代皇紀、女院小伝、後宮略伝による)。

公孝の家からはこれまで后を出したことがなく、この度のことを人々は皆栄誉なことと見なした。徳治三年八月、帝が崩御し、后は実家に退出した(注:増鏡による)。閏月、出家して尼となり、法名を真実覚といった(注:歴代皇紀、女院小伝による)。延慶三年十二月、長楽門院の号を奉られた(注:女院小伝、後宮略伝による)。正平七年二月、崩御した。享年七十(注:女院小伝による)。

藤原頊子

尚侍藤原頊子(ぎょくし)は、摂政一条実経の娘である(注:歴代皇紀、貴女抄、女院小伝、後宮略伝による)。帝がまだ内大臣久我具守の邸にいたころ、召されて寵愛を受けた(注:増鏡による)。嘉元元年三月、尚侍となり、従三位に叙せられた(注:女院小伝による。後宮略伝は五月とする)。

帝の崩御後、尼となった(注:増鏡、女院小伝による)。元応二年三月、准三宮とされ(注:女院小伝による。歴代皇紀は二月とする)、万秋門院の号を奉られた(注:女院小伝、後宮略伝による)。延元三年三月、薨去した。享年十一(注:歴代皇紀、女院小伝、後宮略伝による)。

平氏

掌侍平氏は、少納言平棟俊の娘である(注:歴代皇紀は「棟」を「輔」に作る)。勾当内侍と称された。寿成門院を産んだ(注:皇胤紹運録、女院小伝による)。

藤原氏

御匣殿藤原氏は、内大臣二条公親の娘である。長楽門院に仕えた(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による)。寵愛を受け、尊済法親王を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録、諸門跡譜による)。

藤原氏

藤原氏は、権中納言藤原公泰の娘である。権大納言局と称された。祐助法親王、聖尊法親王、栄子内親王を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

藤原宗子

藤原宗子(そうし)は、参議藤原宗親の娘である。後醍醐天皇の皇太子邦良(注:一代要記、皇胤紹運録による)、邦省親王(注:皇胤紹運録による)を産んだ。

平氏

平氏は、参議平信輔の娘である。婸子(ようし)内親王を産んだ(注:皇胤紹運録による。「婸」の字は、本来は女偏に「易」である)。

新大納言局

新大納言局は、法眼良珍の娘である。珉子(みんし)内親王を産んだ(注:皇胤紹運録による)。

【花園天皇】

藤原氏

花園天皇の典侍藤原氏は、従三位藤原頼任の娘である。別当典侍と称され、また中納言局とも称された(注:皇胤紹運録、尊卑分脈による。中納言局の呼称は尊卑分脈による)。皇女一人を産んだ(注:皇胤紹運録、尊卑分脈による)。

藤原實子

藤原実子(じつし)は、権大納言藤原実明の娘である(注:園太暦系図、女院小伝による)。祖父の太政大臣洞院公守がこれを養女とした(注:女院小伝、尊卑分脈、園太暦観応二年の条による)。

宮中に入り、直仁親王(注:園太暦系図、皇胤紹運録による)、業永親王(注:園太暦系図、仁和寺御伝、諸門跡譜による)、ある皇女(注:皇胤紹運録による)、徽安門院(注:園太暦系図、皇胤紹運録、女院小伝、後宮略伝による)、儀子内親王(注:園太暦系図、尊卑分脈による)を産んだ。

元弘二年正月、光厳院より従三位を授けられた(注:女院小伝による)。十二月、准三宮とされた(注:女院小伝、尊卑分脈による)。延元三年四月、光明院より宣光門院の号を奉られた(注:歴代皇紀、貴女抄、女院小伝による)。帝(花園天皇)の崩御後、尼となり、法名を遍照智といった(注:園太暦系図、女院小伝、尊卑分脈による)。

藤原氏

藤原氏は、実子の妹である。後伏見天皇の宮に入り、一条局と称された。帝がこれを寵愛し、覚誉法親王を産んだ(注:園太暦系図、尊卑分脈による)。