卷之一百八十三 列傳第一百十
將軍五
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
宗尊親王
¶宗尊親王(むねたかしんのう)は、後嵯峨帝(ごさがてい)の第二子である。(注:『五代帝王物語』『増鏡』による。『歴代皇紀』『東鑑』は第一子とするが、おそらく誤りである。詳しくは「皇子伝」に記す。)寛元二年正月、親王となった。(注:『百錬抄』『歴代皇紀』『将軍執権次第』による。)母の身分が低かったため皇太子にはなれなかったが、帝はこれを不憫に思っていた。(注:『増鏡』による。)建長四年正月、上皇の御所で元服の加冠の儀を行い、三品に叙せられた。二月、北条時頼(ほうじょうときより)は征夷大将軍藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を廃し、宗尊を迎えて鎌倉を鎮めたいと願い出た。上皇はこれを許した。(注:『増鏡』『東鑑』による。)三月、帯剣を許された。(注:『百錬抄』による。『東鑑』も参照した。)四月、鎌倉に至り、征夷大将軍となった。(注:『一代要記』『百錬抄』『帝王編年記』『東鑑』による。『増鏡』は二月とし、『将軍執権次第』は三月とする。)時頼は御所を改築し、これを崇め奉ることは前任の将軍をはるかに超えるものであった。(注:『増鏡』『東鑑』による。)この月、引付(ひきつけ)を二番から五番に増やした。二階堂行盛(にかいどうゆきもり)と秋田義景(あきたよしかげ)が評定衆(ひょうじょうしゅう)を兼ねて引付頭となった。(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)九月、旱魃のため鎌倉および諸国での酒の売買を禁じ、酒壺や甕を押し倒して破壊させた。十月、次のような法令を頒布した。「子女を掠奪した者、牛馬を盗んだ者は、三度に及べば妻子にも罪が及ぶ。放火は強盗に準じて処罰する。殺害・傷害の罪は本人のみを捕える。窃盗は軽微であっても二度に及べば処罰する。人妻を姦した者は金銭を納めて贖罪させる。」
¶寛元五年十月、薪・炭・籾殻(もみがら)・糠(ぬか)の価格を定め、強引な買い占めを禁じた。西国の地頭が徴収する租税は、多くが本来の定めに従わず百姓を侵し搾取していたため、六波羅(ろくはら)に命じてこれを禁じさせた。寛元六年四月、宋へ派遣する船の数を五艘に制限すると定めた。十二月、評定衆の大名を除いて従者が騎馬することを禁じ、従者の人数を減らすよう命じた。(注:『東鑑』による。)康元元年三月、連署(れんしょ)の北条重時(ほうじょうしげとき)が退任した。六波羅北方(ろくはらきたかた)の北条長時(ほうじょうながとき)も退任し、北条政村(ほうじょうまさむら)が連署となった。(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)四月、北条時茂(ほうじょうときしげ)を六波羅北方とした。六月、これより先、下野(しもつけ)・陸奥(むつ)で盗賊が蜂起し、旅人を襲って掠奪していた。このため両国の地頭に「所在に兵士を配置して不意の襲撃に備えよ。取り締まりを怠り賊を見逃した者はその領地を没収する」と命じた。(注:『東鑑』による。)十一月、執権の北条時頼が退任し、北条長時が執権の職務を代行した。(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)
¶正嘉元年十二月、廂衆(ひさししゅう)を置き、将士五十余人を選んで交代で幕府に宿直させ、左近衛少将藤原能清(ふじわらのよしきよ)、侍従藤原雅有(ふじわらのまさあり)ら朝廷の官人六人を番頭とした。これより先、これが上皇御所の警衛にまぎらわしいのではないかと疑い、京師に使者を遣わして許可を求めていた。朝廷はこれを許し、御書を賜った。正嘉二年九月、諸国で盗賊が蜂起し、各地を荒らし回った。諸国の守護に命じてこれを追捕させた。文応元年正月、早昼番(そうちゅうばん)を置き、和歌・蹴鞠(けまり)・管弦・書および弓馬などの技芸に通じた若者をこれに充てた。二月、延暦寺(えんりゃくじ)の僧徒が園城寺(おんじょうじ)を焼き討ちしようと謀ったため、六波羅に兵を遣わして備えさせた。十二月、京の市中の警衛に入る御家人に旅費を負担させたため、百姓が嘆き恨んだ。そこで田一段ごとに銭三百文、五町ごとに官馬一匹と人夫二人を出させるよう法令を下した。
¶弘長二年、これより先、各駅に早馬二頭を置いて急報に備えていたが、鎌倉に到着する将士が命令を偽って勝手に使用し、時には数頭を出させることもあった。そこで六波羅に「変事がない限りみだりに早馬を出してはならない。また将士が人夫を使役して私物を運ばせることを禁じる。あわせて駅長には日々の食料を支給せよ」と命じた。関東諸国の神社仏寺には「祭祀を怠らず、修繕を時宜にかなって行え。橋梁を修理し、街路を掃除せよ」と命じた。また、将士の邸宅や供の者の数が制限を超えること、僧徒が頭を布で覆って市中を往来すること、念仏僧が婦女を集めて集会を開くこと、病人や孤児、遺骸を路上に捨てることを禁じた。(注:『東鑑』による。)三月、訴訟が滞っていたため、引付衆を召してこれを督責し、評定衆および引付衆に誓約書を提出させた。(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)六月、三蒲義村の子で僧となっていた良賢(りょうけん)が謀反を企てたため、捕えて殺した。(注:『東鑑』『保暦間記』による。)弘長二年六月、引付衆を減らして三番とした。(注:『関東評定伝』による。)弘長三年六月、『帝範(ていはん)』の講義を聴いた。八月、『臣軌(しんき)』を読んだ。九月、民間で切銭(きりせん、破損した銭)を使用することを禁じた。十一月、北条時頼が没した。この年、京師へ参内しようとして、あらかじめ諸国に「田五町ごとに人夫二人と伝馬一頭を課し、田一段につき銭百文を課す」と命じたが、大風で穀物が実らなかったためこれを取りやめ、代わりに銭のみを課した。(注:『東鑑』による。)
¶文永元年七月、北条長時が退任した。八月、北条政村が執権の職務を代行した。北条時宗(ほうじょうときむね)が連署となり、北条時輔(ほうじょうときすけ)を六波羅南方(ろくはらみなみかた)とした。(注:『将軍執権次第』『帝王編年記』による。)十月、北条実時(ほうじょうさねとき)、安達泰盛(あだちやすもり)を越訴奉行(おっそぶぎょう)とした。(注:『関東評定伝』による。越訴奉行の設置・廃止の経緯については考証できない。)文永二年九月、中務卿(なかつかさきょう)に任じられ、一品に叙せられた。(注:『将軍執権次第』『帝王編年記』による。)文永三年三月、引付衆を廃止し、問注所(もんちゅうじょ)に訴訟を裁定させることとした。(注:『東鑑』『関東評定伝』を参照した。)六月、僧正良基(りょうき)、法印厳慧(ごんえ)らはもともと宗尊に近しく、ひそかに一党とともに北条氏を滅ぼそうと謀った。宗尊はこれを知らなかった。ここに至って事が露見し、(注:『東鑑』『増鏡』『関東評定伝』『保暦間記』を参照した。)良基は高野山(こうやさん)に逃れ、絶食して死んだ。(注:『保暦間記』『関東評定伝』による。)厳慧は逃亡した。(注:『東鑑』『関東評定伝』による。)時宗と政村は宗尊を京師へ送り返し、六波羅北方の邸に住まわせ、その子惟康(これやす)を立てて将軍とした。(注:『東鑑』『増鏡』『五代帝王物語』を参照した。)上皇は左少弁藤原経任(ふじわらのつねとう)を遣わして北条氏の真意をうかがわせ、他に異心のないことを知って安堵した。こうして宗尊は承明門院(じょうめいもんいん)の土御門(つちみかど)の故宮に移ることができ、初めて上皇および准三宮(じゅさんぐう)である母と対面した。(注:『増鏡』『五代帝王物語』を参照した。)
¶宗尊はその後、右近馬場(うこんのばば)へ行って雪を眺め、歌を詠んだ。「猶賴む(奈保多能牟)、北野雪の(岐多能能由岐能)、朝ぼらけ(阿佐保羅計)、跡無き事に(阿斗奈岐古斗珥)、埋もるる身は(宇豆毛留留美波)。」(注:『増鏡』による。)文永九年二月、剃髪して行証(ぎょうしょう)と号した。(注:『将軍執権次第』による。『帝王編年記』は行勝、『皇胤紹運録』は覚恵とする。)文永十一年七月、薨去(こうきょ)した。享年三十三。(注:『歴代皇紀』『帝王編年記』『将軍執権次第』による。『皇胤紹運録』は三十二とするが誤りである。)宗尊は和歌に優れ、(注:『増鏡』による。)権大納言藤原為家(ふじわらのためいえ)を師とした。(注:『東鑑』による。)著書に『瓊玉集(けいぎょくしゅう)』十巻がある。(注:『瓊玉集』の跋文による。)子は二人。長男は惟康。次男は僧となった真覚(しんかく)で、権僧正となった。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)真覚は後に髪を結って還俗し、一女をもうけて後醍醐帝(ごだいごてい)の宮中に入れた。帝はこの娘を塩谷高貞(えんやたかさだ)に下賜した。(注:『諸門跡譜』による。『太平記』を参照した。)宗尊の二人の娘は、長女が掄子女王(りんししじょおう)、次女が瑞子女王(ずいししじょおう)といい、共に後宇多帝(ごうだてい)の宮中に入った。(注:『増鏡』による。)
惟康親王
¶惟康親王は、文永三年七月、北条時宗らに推されて父の職を継ぎ、従四位下(じゅしいのげ)に叙せられて征夷大将軍となった。(注:『公卿補任』『増鏡』による。)時に三歳であった。(注:『増鏡』『五代帝王物語』『将軍執権次第』による。)文永五年三月、北条時宗を執権とし、北条政村が再び連署となった。(注:『帝王編年記』『関東評定伝』『将軍執権次第』による。)四月、引付衆を五番に復した。(注:『関東評定伝』による。)文永七年正月、六波羅北方の北条時茂が没した。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)十二月、詔により源の姓を賜り、従三位に進み、左近衛中将となった。(注:『公卿補任』『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)文永八年二月、尾張守(おわりのかみ)を兼ねた。(注:『公卿補任』による。『将軍執権次第』は三月とするが誤りである。)文永九年正月、従二位に進んだ。(注:『公卿補任』『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)二月、北条時輔が謀反を起こしたため、北条義宗(ほうじょうよしむね)を遣わしてこれを討ち滅ぼした。(注:『帝王編年記』『五代帝王物語』による。)文永十年五月、連署の北条政村が退任した。六月、北条義政(ほうじょうよしまさ)を連署とした。(注:『帝王編年記』『関東評定伝』『将軍執権次第』による。)
¶建治元年九月、元(げん)の使者杜世忠(とせいちゅう)らを鎌倉で斬り、次のような法令を下した。「公私ともに出費を節約し、民衆を休ませて、軍事の費用に充てよ。京師の大番役の兵を停止し、在京の兵士を鎮西(ちんぜい)諸国へ派遣して、元の侵攻に備えよ。」(注:『関東評定伝』による。)十一月、初めて九州探題(たんだい)を置いた。北条実政(ほうじょうさねまさ)をこれに任じ、元軍に備えさせた。(注:『帝王編年記』による。『太平記』では永仁元年に初めて鎮西探題が置かれたとするが、誤りである。)十二月、北条時国(ほうじょうときくに)を六波羅南方とした。(注:『帝王編年記』『平氏系図』による。『将軍執権次第』は建治三年十二月とする。)建治二年正月、讃岐権守(さぬきのごんのかみ)を兼ねた。(注:『公卿補任』『将軍執権次第』による。)十二月、六波羅北方の北条義宗が退任した。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)建治三年四月、連署の北条義政が退任した。十二月、北条時村(ほうじょうときむら)を六波羅北方とした。(注:『帝王編年記』『関東評定伝』『将軍執権次第』による。)
¶弘安二年正月、正二位に進んだ。(注:『公卿補任』『帝王編年記』による。『将軍執権次第』は二月とする。)弘安四年、元の軍勢が侵攻したが、暴風に遭って戦艦はことごとく沈没した。上陸した残兵は鎮西の兵がこれを撃ち滅ぼした。(注:『関東評定伝』『八幡愚童訓』を参照した。)弘安六年四月、北条業時(ほうじょうなりとき)を連署とした。(注:『帝王編年記』『関東評定伝』による。『将軍執権次第』は二月とする。)十月、九州探題の北条実政を長門(ながと)の警固とした。(注:『帝王編年記』による。)弘安七年四月、執権の北条時宗が退任した。(注:『関東評定伝』『将軍執権次第』による。)六月、六波羅南方の北条時国を常陸(ひたち)に流した。(注:『将軍執権次第』による。)七月、北条貞時(ほうじょうさだとき)を執権とした。(注:『帝王編年記』『関東評定伝』『将軍執権次第』による。)十月、時国を殺した。(注:『将軍執権次第』による。)十二月、北条兼時(ほうじょうかねとき)を六波羅南方とした。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)弘安八年十一月、安達泰盛およびその子宗景(むねかげ)を誅殺した。(注:『保暦間記』『帝王編年記』による。)
¶弘安十年六月、中納言を拝命し、右近衛大将を兼ねた。(注:『公卿補任』『将軍執権次第』による。)連署の北条業時が退任した。八月、六波羅北方の北条時村が退任し、北条宣時(ほうじょうのぶとき)を連署とした。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)十月、親王となり、二品に叙せられた。(注:『公卿補任』『帝王編年記』による。)正応元年二月、北条盛房(ほうじょうもりふさ)を六波羅南方とし、北条兼時を北方とした。(注:『将軍執権次第』による。)正応二年九月、北条貞時は惟康を廃して京師へ送り返した。出発するにあたり、綱代輿を逆さまに担いで到着した。当時の人々はこれを異様に思い、「将軍が京師へ流された」と語り合った。(注:『増鏡』による。九月の月は『保暦間記』による。)嵯峨(さが)に住んだ。十二月、剃髪した。(注:『増鏡』『将軍執権次第』を参照した。)嘉暦元年十月、薨去した。(注:『常楽記』による。)享年六十三。(注:『増鏡』にある、将軍就任時三歳であったとの記述から算出した。)三人の子はいずれも僧となった。仁澄(にんちょう)は大僧正、天台座主(てんだいざす)、日光山別当となった。(注:『皇胤紹運録』『僧官補任』による。『天台座主記』は久明親王の子とするが誤りである。)増慧(ぞうえ)は僧正、増珍(ぞうちん)は大僧正となった。(注:『諸門跡譜』による。)一女は久明親王(ひさあきしんのう)に嫁いだ。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『保暦間記』による。惟康の子については諸書で記述に異同があるが、ここでは一つ一つ注記しない。)
久明親王
¶久明親王は、後深草帝(ごふかくさてい)の第六子である。正応二年、北条貞時は惟康親王を廃し、久明を迎えて鎌倉の主帥とした。(注:『増鏡』『保暦間記』による。)十月、親王となり、三品に叙せられ、征夷大将軍となった。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)正応三年十一月、北条時輔の子某(なにがし)が三浦頼盛(みうらよりもり)とともに謀反を起こし、誅殺された。(注:『保暦間記』による。)永仁元年正月、六波羅北方の北条兼時が退任した。三月、兼時を九州探題とし、北条久時(ほうじょうひさとき)を六波羅北方とした。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』『平氏系図』による。)七月、北条時家(ほうじょうときいえ)を九州探題とした。(注:『帝王編年記』による。『平氏系図』を参照した。)永仁三年四月、北条兼時が退任した。(注:『帝王編年記』による。『将軍執権次第』は六月、『平氏系図』は三月とする。)
¶永仁四年三月、吉見義春(よしみよしはる)が兵を起こそうと謀ったため、捕えて殺した。(注:『尊卑分脈』による。)十一月、義春の子義世(よしよ)を殺し、その一党である僧良基は流罪に処した。(注:『保暦間記』による。『将軍執権次第』は義世の死を永仁五年三月とする。)この年、北条実政を再び九州探題とし、将士の進退を状況に応じて処断させた。(注:『帝王編年記』による。)永仁五年五月、六波羅南方の北条盛房が退任した。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』『平氏系図』による。)六月、六波羅北方の北条久時が退任し、(注:『帝王編年記』『平氏系図』による。『将軍執権次第』は五月とする。)北条宗方(ほうじょうむねかた)をこれに任じた。七月、北条宗宣(ほうじょうむねのぶ)を六波羅南方とした。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』『平氏系図』による。)十二月、式部卿(しきぶきょう)に任じられ、一品に進んだ。(注:『帝王編年記』による。『増鏡』『将軍執権次第』を参照した。)
¶正安二年十二月、六波羅北方の北条宗方が退任した。正安三年六月、北条基時(ほうじょうもとどき)がこれに代わった。八月、執権の北条貞時が退任し、北条師時(ほうじょうもろとき)がこれに代わった。連署の北条宣時が退任し、北条時村がこれに代わった。(注:『帝王編年記』『将軍執権次第』による。)九月、九州探題の北条実政が退任した。十一月、北条政顕(ほうじょうまさあき)がこれに代わった。(注:『帝王編年記』による。)乾元元年正月、六波羅南方の北条宗宣が退任した。七月、金沢貞顕(かねさわさだあき)がこれに代わった。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。)嘉元二年十月、六波羅北方の北条基時が退任した。十一月、北条時範(ほうじょうときのり)がこれに代わった。(注:『平氏系図』による。『武家補任』を参照した。)
¶嘉元三年四月、北条宗方が北条時村を殺した。(注:『保暦間記』による。『将軍執権次第』を参照した。)五月、宗方を捕えて誅殺した。(注:『保暦間記』による。『帝王編年記』『平氏系図』はともに四月とする。)七月、北条宗宣を連署とした。徳治二年八月、六波羅北方の北条時範が没した。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。)延慶元年七月、北条貞時は久明を廃し、久明の長子守邦王(もりくにおう)を推して主帥とした。(注:『将軍執権次第』『保暦間記』による。)久明は佐介谷(さすけがやつ)に移り、ほどなく京師へ帰った。(注:『歴代皇紀』『将軍執権次第』による。)嘉暦三年十月、薨去した。(注:『公卿補任』『常楽記』『将軍執権次第』による。)享年五十三。(注:『将軍執権次第』の建治二年生まれとする記述、および『歴代皇紀』の正応二年に十三歳であったとする記述から算出した。)子は二人、守邦親王(もりくにしんのう)と久良親王(ひさよししんのう)である。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)久良は嘉暦三年、源の姓を賜り、右近衛中将となり、従三位に叙せられた。元徳元年、左近衛中将に転じた。元徳二年、親王となった。その子宗明(むねあき)は、(注:『尊卑分脈』は宗明を実は関白道平(みちひら)の子とするが、ここでは採らない。)光明院(こうみょういん)に仕え、従四位下に叙せられて侍従に任じられ、後に従一位権大納言にまで至った。(注:『公卿補任』による。)
守邦親王
¶守邦親王は、久明親王の長子である。(注:『皇胤紹運録』による。)延慶元年七月、北条貞時に推されて鎌倉の主帥となった。時に七歳であった。(注:『将軍執権次第』による。年齢は薨去の年から推算した。)八月、征夷大将軍となった。(注:『歴代皇紀』『保暦間記』による。)十月、親王となり、(注:『歴代皇紀』による。)三品に叙せられた。(注:『将軍執権次第』による。)後に二品に進んだ。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)十二月、北条貞房(ほうじょうさだふさ)を六波羅北方とした。(注:『将軍執権次第』による。)この年、六波羅南方の金沢貞顕が退任した。(注:『平氏系図』による。『将軍執権次第』には、翌年正月に鎌倉へ帰ったとある。)延慶二年十一月、六波羅北方の北条貞房が没した。(注:『平氏系図』は十二月とする。)延慶三年、金沢貞顕を六波羅北方とした。(注:『将軍執権次第』による。)七月、北条時敦(ほうじょうときあつ)を六波羅南方とした。(注:『平氏系図』による。)
¶応長元年九月、執権の北条師時が没した。十月、北条熙時(ほうじょうひろとき)を連署とした。正和元年六月、連署の北条宗宣が没した。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。『将軍執権次第』はこの年に北条時敦を六波羅北方としたとするが、おおむね誤りである。)正和三年十一月、六波羅北方の金沢貞顕が退任した。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』を参照した。)正和四年七月、北条基時を執権とし、金沢貞顕を連署とした。六波羅南方の北条時教(ほうじょうときのり)を北方とした。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。)北条維貞(ほうじょうこれさだ)を六波羅南方とした。(注:『将軍執権次第』による。)正和五年、執権の北条基時が退任し、北条高時(ほうじょうたかとき)がこれに代わった。
¶元応二年五月、六波羅北方の北条時敦が没した。元亨元年十一月、常葉範貞(ときわのりさだ)がこれに代わった。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。)この年、北条英時(ほうじょうひでとき)を九州探題とした。(注:『武家補任』による。前任の政顕が退任した年月は明らかでない。)正中元年八月、六波羅南方の北条維貞が退任した。十一月、金沢貞将(かねさわさだゆき)を六波羅南方とした。(注:『将軍執権次第』による。『平氏系図』は嘉暦元年九月とする。)嘉暦元年三月、執権の北条高時が退任した。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。)四月、連署の金沢貞顕が退任し、赤橋守時(あかはしもりとき)を執権とし、北条維貞を連署とした。嘉暦二年九月、維貞が没した。(注:『将軍執権次第』による。)
¶元徳二年閏六月、北条茂時(ほうじょうしげとき)を連署とした。(注:『将軍執権次第』は七月とする。)六波羅南方の金沢貞将が退任した。八月、北条時益(ほうじょうときます)がこれに代わった。(注:『将軍執権次第』は七月とする。)十一月、六波羅北方の常葉範貞が退任した。(注:『平氏系図』による。)十二月、北条仲時(ほうじょうなかとき)がこれに代わった。(注:『将軍執権次第』『平氏系図』による。)元弘元年八月、後醍醐帝は北条氏を誅殺しようと謀った。高時は将を派遣し兵を送って御所を犯そうとしたため、帝はひそかに笠置(かさぎ)へ行幸した。九月、高時は兵を発して行在所(あんざいしょ)を攻め落とした。元弘二年三月、帝を隠岐(おき)へ遷した。元弘三年三月、帝は船上山(せんじょうさん)へ行幸し、四方に勅して高時を討たせた。五月、官軍が六波羅を包囲した。時益と仲時は光厳院(こうごんいん)を奉じて東へ逃れようとしたが、途中で自害した。新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉を攻め落とし、北条氏は滅んだ。(注:『太平記』『増鏡』による。)守邦はここに至って剃髪した。八月、薨去した。享年三十二。(注:『将軍執権次第』による。)