卷之一百八十二 列傳第一百九
將軍四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原賴經
¶藤原頼経(ふじわらのよりつね)は、摂政道家(みちいえ)の三男である。(注:出典は『公卿補任』『保暦間記』『承久記』)幼名は三虎(さんこ)といった。(注:出典は『保暦間記』)生まれた年・月・日・刻がすべて寅(とら)に当たっていたことから、この名がつけられた。(注:出典は『愚管抄』)承久元年、源実朝(みなもとのさねとも)が亡くなり、跡継ぎがいなかった。北条義時(ほうじょうよしとき)は軍事の実権を握っており、源氏一門から新たな将軍を立てることを望まなかった。(注:『吾妻鏡』『愚管抄』の大意による)太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね)の妻は、源頼朝(みなもとのよりとも)の妹婿にあたる中納言・藤原能保(ふじわらのよしやす)の娘であった。道家はこの公経の娘を妻に迎え、頼経が生まれた。(注:出典は『尊卑分脈』)義時は頼経が頼朝と縁続きであることから、諸将と相談のうえ、相模(さがみ)守・北条時房(ほうじょうときふさ)を京へ遣わし、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に奏上して許しを求めた。同年十月、頼経を迎えて主将に立てたが、このときわずか二歳であった。(注:出典は『吾妻鏡』、『愚管抄』も参照。『吾妻鏡』では六月に将軍宣下があり七月に鎌倉に到着したとあるため、本来の記事は六月とすべきだが、ここでは実際の到着に従って記した)北条政子(ほうじょうまさこ)が政務を執った。(注:出典は『吾妻鏡』『将軍執権次第』)幕府の政務は大小を問わずすべて義時の裁断を仰いだ。小侍所(こさむらいどころ)を設け、北条重時(ほうじょうしげとき)を別当(べっとう)に任じた。八月、後藤基綱(ごとうもとつな)を京へ遣わし、後鳥羽上皇の病状を見舞わせた。九月、前信濃(しなの)守・藤原行光(ふじわらのゆきみつ)が病により政所執事(まんどころしつじ)を辞し、左衛門尉・伊賀光宗(いがみつむね)がこれに代わった。この月、鎌倉で大火があった。承久三年二月、盗賊が七条院(しちじょういん)の住む三条殿(さんじょうどの)に放火した。三善康俊(みよしやすとし)を京へ遣わして見舞わせ、大江親広(おおえのちかひろ)と伊賀光季(いがみつすえ)に命じて盗賊を捜索させた。(注:出典は『吾妻鏡』)五月、後鳥羽上皇は五畿七道(ごきしちどう)の兵を徴発して義時討伐を企てた。政子は北条時房・北条泰時(ほうじょうやすとき)を東海道から、武田信光(たけだのぶみつ)・小笠原長清(おがさわらながきよ)らを東山道から、北条朝時(ほうじょうともとき)を北陸道から進発させ、三道並進して京へ向かわせた。両軍は尾張川(おわりがわ)および宇治(うじ)・勢多(せた)で戦い、朝廷方の軍は大敗した。後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳(じゅんとく)の三上皇、および雅成親王(まさなりしんのう)・頼仁親王(よりひとしんのう)の二親王は配流となった。この謀に加わった廷臣の多くは殺された。(注:出典は『吾妻鏡』『承久記』)八月、中宮属・三善康信(みよしやすのぶ)が病により問注所執事(もんちゅうじょしつじ)を辞し、子の民部丞康俊がこれに代わって執事となった。(注:出典は『吾妻鏡』『関東評定伝』)九月、京畿(けいき)に在住する家臣に命じて、太上法皇(だじょうほうおう、後鳥羽上皇)の御所である高陽院(かやのいん)を警護させた。貞応二年十月、近習番(きんじゅばん)を置いた。元仁元年三月、釜の取っ手のあたりに野菜が生えるという怪異があり、これを祓い清める祈禱を行った。六月、北条義時が没した。政子は泰時と時房を執権(しっけん)に任じ、北条時盛(ほうじょうときもり)・北条時氏(ほうじょうときうじ)を六波羅(ろくはら)に遣わして、京畿および西海の軍事を統轄させた。八月、式部丞・伊賀光宗が罪を得て信濃に配流され、弟の左衛門尉朝行(ともゆき)・右衛門尉光重(みつしげ)は鎮西(ちんぜい、九州)に配流された。民部丞・藤原行盛(ふじわらのゆきもり)が政所執事となった。(注:出典は『吾妻鏡』)嘉禄元年七月、政子が没した。(注:『吾妻鏡』に記載を欠くため『関東評定伝』による)評定衆(ひょうじょうしゅう)を置いて軍政に参与させた。大学助教・中原師員(なかはらのもろかず)、前駿河(するが)守・三浦義村(みうらのよしむら)、前駿河守・藤原行村(ふじわらのゆきむら)、出羽(でわ)守・藤原家長(ふじわらのいえなが)ら十一人が評定衆となった。おおむね朝廷に仕えて儒官を帯びた者や北条氏の親戚から選んで充てた。(注:出典は『関東評定伝』)十二月、頼経が元服した。(注:出典は『吾妻鏡』)嘉禄二年正月、頼経は右近衛権少将に任じられ、正五位下に叙され、征夷大将軍となった。(注:『吾妻鏡』に記載を欠くため『公卿補任』による)この月、田畑を賭けの対象とすることを禁じ、また利息が元本の倍を超える貸付や、銭を米や銭の相場以上で貸し付けることを禁じた。四月、河越重員(かわごえしげかず)を武蔵(むさし)留守所総検校に任じた。賊の忍寂(にんじゃく)なる者が、若宮禅師公暁(わかみやぜんじこうぎょう)を名乗って白川関(しらかわのせき)に徒党を集め、反乱を企てた。節城朝広(せつじょうともひろ)・浅利知義(あさりともよし)がこれを討ち取った。八月、準布(じゅんぷ、布による代用貨幣)の使用を止め、銅銭を通用させた。(注:『吾妻鏡』に記載を欠く)寛喜二年閏正月、滝口(たきぐち、御所警固の武士)に衛兵がいないとして、院宣によりこれを徴発し、小山(おやま)・千葉(ちば)などの一族に各々一子を宿直に出させた。三月、駿河守・北条重時を六波羅に遣わした。(注:出典は『吾妻鏡』)修理権亮(しゅりのごんのすけ)・北条時氏が任を解かれて帰った。(注:出典は『明月記』『吾妻鏡』『帝王編年記』。『平氏系図』『将軍執権次第』では安貞元年のこととする)寛喜三年二月、従四位上に叙された。(注:『吾妻鏡』では「上」を「下」につくる)三月、右近衛中将に転じた。(注:『公卿補任』では「右」を「左」につくる)四月、正四位下に叙された。(注:出典は『公卿補任』『吾妻鏡』『将軍執権次第』)六波羅に命じて次のように布告させた。「強盗・殺人の二罪については、首謀者を斬罪とし、一味の者は鎮西へ配流とする。また京の諸社の祭礼の日に、武士でない者が武器を帯びることを禁じる。」五月には、諸国の守護の裁断について次のように命じた。「大犯三箇条(だいぼんさんかじょう、謀反・殺害人・強盗などの重大事)を超えて裁断してはならず、それ以外の事案を守護が専断することは許さない。検非違使(けびいし)の取り締まりはできる限り寛大にし、民が納税に力を尽くせるようにせよ。守護・地頭が荘園領主から訴えられた場合、六波羅がこれを召喚し、三度呼び出しても応じない者は、その名を記して鎌倉に報告せよ。盗みの額が百銭以下であれば、その倍を弁償させ、百銭を超える場合は、本人のみを逮捕して罰し、親族に累を及ぼしてはならない。ただし謀反などの重罪はこの限りではない。」(注:出典は『吾妻鏡』)貞永元年正月、備後(びんご)権守を兼ねた。(注:出典は『公卿補任』)二月、従三位に叙された。(注:出典は『公卿補任』『吾妻鏡』)八月、北条泰時が式目(しきもく、御成敗式目)五十箇条を定め、これを裁判の基準とした。(注:出典は『吾妻鏡』『貞永式目』)前筑後(ちくご)守・藤原資頼(ふじわらのすけより)が鎮西奉行を辞し、子の左衛門尉資能(すけよし)がこれに代わった。(注:出典は『吾妻鏡』、『尊卑分脈』も参照)九月、畿内近国および西国に対し、土地に関する訴訟について、公領は従来どおり国司の裁定に任せ、荘園については荘園領主から朝廷へ申し立てさせ、朝廷の裁断を仰ぐよう命じた。(注:出典は『吾妻鏡』)天福元年、権中納言に任じられた。(注:出典は『公卿補任』)
¶文暦元年十二月、正三位に昇り、権中納言を辞した。(注:出典は『公卿補任』『吾妻鏡』)嘉禎元年正月、鎌倉の僧徒が武器を帯びることを禁じた。(注:出典は『吾妻鏡』)五月、前上野(こうずけ)介・結城朝光(ゆうきともみつ)が評定衆となったが、まもなく辞任した。(注:出典は『吾妻鏡』『関東評定伝』)七月、次のように命じた。「およそ所職(しょしき、官職・所領の権利)や所帯(しょたい、所領)、および境界に関する争訟は、まず訴える者に誓書を提出させよ。訴えに証拠がない場合は、その土地を没収する。土地を持たない者は、刑を受けて悔いがないことを誓わせたうえで、はじめて裁決を聞かせよ。」六波羅に対しては、「京での殺傷事件で武士が関わるものは、検非違使庁に報告してその処分を聞くこと。強盗が自白した場合、首謀者は六波羅で裁決し、従犯は関東に送って蝦夷(えぞ)へ流罪とすること。」また、次のようにも命じた。「大番役(おおばんやく、京の警固のための交替勤務)の交代には、もともと期限が定められている。近頃は武士の交代出仕が期限どおりに行われないことが多い。今後は期限に遅れた者には、さらに二か月の宿直を科すこと。」これより先、武士が急使を出す際、多くは通行人の馬を勝手に徴発して乗るため、道行く人々が難儀していた。ここに至ってこれを禁じ、各駅に伝馬(てんま)を増設した。(注:出典は『吾妻鏡』)十月、陸奥(むつ)出羽按察使に任じられた。十一月、従二位に叙された。(注:出典は『公卿補任』)嘉禎二年七月、正二位に叙された。(注:出典は『公卿補任』『将軍執権次第』)これより先、興福寺(こうふくじ)の僧が騒乱を起こしたため、在京および近国の武士に一族を率いて京を警固させたが、一族の者の中には宗家(そうけ、本家)の命令に従わない者もあった。宗家がこれを鎌倉に訴えたため、次のように命じた。「今後、大番役に緊急の事態が生じた場合は、庶流の者は家督(かとく、本家の当主)の催促に従うべきである。」(注:出典は『吾妻鏡』)九月、前近江(おうみ)守・佐々木信綱(ささきのぶつな)が評定衆を辞し、遠江守・北条朝時がこれに代わった。(注:出典は『吾妻鏡』『関東評定伝』)十一月、民部卿に任じられた。(注:出典は『公卿補任』『吾妻鏡』)嘉禎三年四月、北条資時(ほうじょうすけとき)が評定衆となった。(注:出典は『吾妻鏡』『関東評定伝』)暦仁元年正月、京へ上った。(注:出典は『吾妻鏡』『将軍執権次第』)二月、再び権中納言に任じられ、右衛門督を兼ね、まもなく検非違使別当を兼ねた。(注:出典は『吾妻鏡』『公卿補任』)当時、天皇の行幸があり、検非違使別当の職にある者は馬に乗って行列を護衛する慣わしであったが、頼経は乗馬に慣れていなかったため、供奉(ぐぶ)することができなかった。(注:出典は『五代帝王物語』)三月、権大納言に遷った。(注:出典は『公卿補任』『吾妻鏡』)左衛門尉・海老名忠行(えびなただゆき)が関東(鎌倉幕府)の推薦を経ずに叙爵(じょしゃく)を受けたとして、その位記(いき、位階を証する文書)を取り上げるよう奏上した。(注:出典は『吾妻鏡』)四月、若狭(わかさ)守・三浦泰村(みうらのやすむら)、出羽守・二階堂行義(にかいどうゆきよし)が評定衆となった。(注:出典は『吾妻鏡』『関東評定伝』)この月、権大納言を辞した。(注:出典は『吾妻鏡』『公卿補任』)六月、前加賀(かが)守・三善康俊が病により問注所執事を辞し、子の民部少丞康持(やすもち)がこれに代わって執事となった。(注:出典は『吾妻鏡』『関東評定伝』)京の街路に篝火(かがりび)を設け、兵衛を配置した。十月、鎌倉へ帰った。延応元年九月、これより先、諸国の地頭は延暦寺(えんりゃくじ)の僧徒や財を納めた富商に代理をさせて職務に当たらせていたが、ここに至ってこれを禁じた。また、武士の寡婦が他家に再嫁しながら、なお前夫の所領や家人を領有し続けることを禁じた。仁治元年三月、関東の家臣および鎌倉に祗候する者の奢侈を禁じ、質素倹約に努めさせた。また、武士やその臣下・従者が私的に朝廷の官職を求めることを禁じた。九月、家臣で朝廷の官職を帯びながら朝廷の務めを果たさない者には、それぞれ差をつけて絹を納めさせた。仁治二年五月、民部少丞・大江以康(おおえのもちやす)が問注(訴訟の審理)を誤った罪により、所領一か所を削られた。六月、これより先、諸国の民の訴訟は奉行人(ぶぎょうにん)に分担させて裁かせていたが、審理しきれない事案は鎌倉に送って御教書(みぎょうしょ)を仰いでいた。そのため民が行き来を重ねるうちに日月を費やし、貧しく力のない者ほど苦しんでいた。ここに至り、奉書(ほうしょ、簡略な裁許状)によって処理するよう命じた。また六波羅に対しては、「西海(さいかい、九州)の諸社の神人(じにん)や有力者の賓客が、事にかこつけて民を害している。詳しく取り調べ、その身柄を送致せよ。」と命じた。これより先、京での重罪人の裁断はすべて検非違使庁に送って処刑させていたが、ここに至って六波羅から申請させ、その場で裁決させるようにした。十一月、武蔵の荒れ地を開墾し、多摩川(たまがわ)の水を引いて灌漑した。十二月、士人の中から弓馬に長じた者、および文字・歌・弦楽・蹴鞠(けまり)にすぐれた者をそれぞれ一人ずつ選び、小侍所に宿直させた。(注:出典は『吾妻鏡』)仁治三年六月、左京権大夫・北条泰時が没し、孫の左近衛将監(さこんえのしょうげん)・経時(つねとき)が跡を継いで執権となった。(注:出典は『保暦間記』『関東評定伝』)寛元元年七月、北条政村(ほうじょうまさむら)ら百四十六人に命じて番を分けて交替で宿直させ、不意の外出の際の供の騎馬に充てた。(注:出典は『吾妻鏡』)寛元二年四月、征夷大将軍の職を子の頼嗣(よりつぐ)に譲った。翌年、剃髪した。(注:出典は『吾妻鏡』『公卿補任』)法名を行智(ぎょうち)といった。(注:出典は『公卿補任』)寛元四年、北条経時が病になり、弟の時頼(ときより)が代わって執権となった。経時はまもなく没した。(注:出典は『吾妻鏡』『保暦間記』『五代帝王物語』)北条朝時の子で越後(えちご)守の光時(みつとき)は頼経の寵愛を受けており、「時頼は義時の曾孫であり、私は義時の孫にあたる。時頼ごときに私の官職を越えさせてはならない」と考え、ひそかに時頼を除こうと図り、頼経もその謀に加わっていた。(注:出典は『保暦間記』)まもなくこの企ては発覚し、時頼は従叔祖父(じゅうしゅくそふ)の政村らと相談のうえ、頼経を京へ帰し、改めて頼嗣を将軍として仰いだ。三浦氏が誅殺された際、道家がかつて三浦泰村らをそそのかし、北条氏を滅ぼしてその職に代わらせようとしたという密告があった。時頼はこれを聞いたが、深く追及しなかった。(注:出典は『吾妻鏡』)建長三年、頼経はさらに僧の了行(りょうぎょう)らを各所に遣わし、ひそかに武士たちを誘って北条氏を滅ぼそうと謀った。佐々木氏信(ささきうじのぶ)が了行らを捕らえて送致した。これによって頼嗣は職を解かれて京へ帰され、代わって宗尊親王(むねたかしんのう)を迎えて主将に立てた。(注:『吾妻鏡』『保暦間記』を参照)康元元年八月、頼経は京で没した。享年三十九。(注:出典は『吾妻鏡』『歴代皇紀』『帝王編年記』『公卿補任』『将軍執権次第』)
¶頼経は在職中、政治の実権はすべて北条氏の手にあり、頼経はただ将軍という空名を持つのみであった。幼い頃から女性たちの手で育てられたため、その振る舞いはとかく日時の吉凶にとらわれがちであった。神仏に祈願し施しをすることは、月を欠かすことがないほどであった。(注:本書の大意による)かつて正月に月食があった際、頼経はその日の干支・宿曜(しゅくよう)がいずれも自分の本命(ほんみょう、生まれ年の干支)に当たるとして、これをひどく忌み嫌い、あらかじめ僧の隆弁(りゅうべん)らに命じて祈禱により災いを祓わせた。ところが当日は曇って雨がこぼれ、月食が見えなかったため、頼経は大いに喜び、隆弁に厚く褒美を与えた。頼経の迷信深さは、おおむねこの類であった。(注:出典は『吾妻鏡』)
藤原賴嗣
¶藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)は、頼経の長男である。(注:出典は『尊卑分脈』。『将軍執権次第』では第二子とする。『吾妻鏡』によれば、文暦元年に頼経の妻が出産したが、その子は育たなかったとあり、そのため『尊卑分脈』では最初に生まれた子を数えていないのである)寛元二年四月、従五位上に叙され、右近衛少将に任じられ、征夷大将軍を兼ねた。このとき六歳であった。(注:出典は『吾妻鏡』『歴代皇紀』。六歳とするのは、『吾妻鏡』の延応元年生まれとする記事、および『増鏡』による)武蔵守・北条経時が執権となった。(注:出典は『吾妻鏡』)八月、正五位下に叙された。(注:出典は『吾妻鏡』『将軍執権次第』)十月、四一半(しいちはん)や目勝(めかち)などの博打を禁じたが、双六(すごろく)だけは武士に特別に許した。寛元三年正月、近江介を兼ねた。五月、次のように命じた。「士庶(しじょ、武士や庶民)の訴訟を問注所に提出した後、係の役人が口実をつけて出仕せず、また奉行人が自ら取り調べに立ち会わずに書面だけで答弁を済ませる場合は罰する。守護・地頭が六波羅の召喚に応じず、三度に及んだ場合はその職を奪う。」(注:出典は『吾妻鏡』)寛元四年三月、武蔵守・北条経時が病のため職を退き、弟の左近衛将監・時頼がこれに代わった。(注:『関東評定伝』『将軍執権次第』では四月とする)六月、越後守・北条光時が時頼を除こうと謀ったが、事が発覚し、伊豆(いず)へ流された。(注:出典は『吾妻鏡』、『保暦間記』も参照)佐渡守・後藤基綱、前太宰少弐(だざいのしょうに)・藤原為佐(ふじわらのためすけ)、上総(かずさ)介・平秀胤(たいらのひでたね)、前加賀守・三善康持は、この一件に連座して評定衆を罷免された。康持はさらに問注所執事も辞めさせられた。七月、頼経を京へ帰した。八月、民部少丞・三善康連(みよしやすつら)が問注所執事となった。(注:『吾妻鏡』『関東評定伝』を参照)十一月、従四位下に叙された。(注:出典は『吾妻鏡』『将軍執権次第』)十二月、守護・地頭に対し、「悪少年や博徒をかくまう者はその職を奪う」と命じた。資治元年四月、後鳥羽帝の神祠(しんし)を鶴岡(つるがおか)に建てた。(注:出典は『吾妻鏡』)六月、前若狭守・三浦泰村、および弟の能登守・光村(みつむら)を殺した。(注:出典は『吾妻鏡』『一代要記』『保暦間記』)十一月、守護・地頭が勝手に田畑の面積を測り、百姓から不当に取り立てることを禁じた。十二月、大番の交替の期限を三か月と改め、小山長村(おやまながむら)・島津忠時(しまづただとき)ら二十二人をそれぞれ一番として、京の警固に当たらせた。資治二年五月、次のように命じた。「主従間の争訟は、理非を問わず担当の役人が受け付けてはならない。兄弟間の争訟では、父母を証人に立ててはならない。」七月、次のように命じた。「武士が荘園を担保に借財をし、返済しないまま死んだ場合、その所領を妻や子に伝えるときは、妻子にその半分を債権者に譲らせよ。もし証文にすでにその子の名が記されている場合は、債権者にその土地をすべて与えよ。」また、婦人が夫の命によらず勝手に他人を養子とすることを禁じた。これより先、窃盗の軽い者を流罪とする定めがあり、その軽科(けいか)については、犯人に盗品の倍額を弁償させることとしていた。ここに至り、再犯の者には重科(じゅうか)を科すこととした。(注:出典は『吾妻鏡』)八月、従四位上に叙された。(注:出典は『将軍執権次第』)十一月、問注所の役人が職務を怠って遊興にふけることを禁じ、違反した者は仕籍(しせき、官職の名簿)から除くこととした。(注:出典は『吾妻鏡』)建長元年正月、正四位下に叙された。六月、左近衛中将に転じた。(注:出典は『将軍執権次第』)十二月、引付衆(ひきつけしゅう)を置いて訴訟の裁決に参与させた。北条政村・北条朝直(ほうじょうともなお)・北条資時が、評定衆のまま引付頭(ひきつけのとう)を兼ねた。(注:出典は『関東評定伝』)建長二年二月、時頼は頼嗣に文学・武芸を学ぶことを勧め、師範を選んで側近くに侍らせ、優秀な子弟を選んで共に学ばせた。四月、夜間に弓矢を持ち歩くことや、身分の低い者が刀を帯びることを禁じた。また、家臣が本官(ほんかん、正式な官職)を持たずに直接兵衛尉に任じられることを禁じた。十一月、次のように命じた。「近頃、遊び暮らす浮浪の民が、双六にかこつけて、ひそかに賭博を行っている。常陸(ひたち)・下総(しもうさ)・陸奥で特にはなはだしい。今後は、盤上の遊戯は囲碁を除いてすべて禁止する。」そこで宍戸家風(ししどいえかぜ)・千葉績胤らに命じて取り締まらせた。(注:出典は『吾妻鏡』)建長三年六月、閑院(かんいん、閑院内裏)が完成したことにより、従三位に昇った。(注:出典は『吾妻鏡』『将軍執権次第』)建長四年二月、職を退いて京へ帰った。康元元年九月、薨去した。享年十八。(注:『吾妻鏡』『将軍執権次第』を参照)