卷之一百九十九 列傳第一百廿六

將軍家臣九

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 中原親能
  2. 大江廣元
  3. 大江時廣
  4. 大江季光
  5. 三善康信
  6. 藤原行政

中原親能

伝(でん)に「君子なくして、どうして国を治めることができようか」とある。昔から禍乱を鎮め、事業の基盤を築いた者は、股肱(ここう)の臣がいなければ、その功業を大きく広げることなどできなかった。源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉(かまくら)に幕府を開いたとき、猛々しい武将たちには堅陣を破り鋭鋒をくじく働きはあったものの、文筆や議論によって政治の体裁を整えることはできなかった。そこで頼朝は吏才のある公家出身者を招き、政務を任せた。こうして内政が整い、外に向かっては兵力が強まり、ついに平氏を討ち滅ぼし、朝廷を安定させることができた。これはまさに剛と柔とが互いに補い合った成果と言えよう。大江広元(おおえのひろもと)、三善康信(みよしのやすのぶ)、藤原行政(ふじわらのゆきまさ)は、その中でも筆頭に挙げられる人材である。平盛時(たいらのもりとき)、源邦業(みなもとのくになり)、中原経久(なかはらのつねひさ)、藤原邦通(ふじわらのくにみち)らも、文書事務や取り決めにそれぞれ能力を発揮したが、彼らはみな京都から下って幕府に仕えた者たちである。ちょうど杞(き)や梓(し)の木、あるいは皮革が楚(そ)の国から他国へ運ばれて用いられたように、たとえ楚の地で人材が育っても、それを実際に用いたのは晋(しん)であった――このような盛運の勢いは、誰にも押しとどめられるものではない。幕府の役所には政所(まんどころ)と問注所(もんちゅうじょ)という二つの署があった。政所は命令や賞罰を発する所であり、問注所は訴訟を受け付ける所である。双方の言い分を尋ね、それを記録して裁決することを「問注」という。政所には別当・令・寄人という職があり、問注所は執事がこれを取り仕切った。北条氏が政治を専断するようになると、評定衆を置いて軍政に参画させ、問注所を廃止して引付(ひきつけ)を置き、班を分けて頭人を置き、それぞれに「第何番」という名を付けた。その後さらに問注所を復活させ、引付と並立させて互いに詳しく審査させ、子孫がその務めをよく引き継いだ。この幕府の重臣たちは、幕府の力を強める一方で朝廷の力を弱めることにもなり、その功罪はどちらも覆い隠すことができない。ここでは、その中でも特に優れた者を選び出し、順を追って伝を記す。

大江廣元

中原親能(なかはらのちかよし)は、明法博士(みょうぼうはかせ、注:法律を専門とする学者の官職)広季(ひろすえ)の子である(注:『玉海』による。『源平盛衰記』では「明法」を「明経」とする)。のちに藤原姓に改め、事務処理の才で知られ、斎院次官(さいいんのすけ)を務めた。源頼朝が挙兵すると、これに従って仕え(注:『東鑑』による)、深く重用された(注:『玉海』『東鑑』による)。寿永(じゅえい)三年、頼朝が公文所(くもんじょ)を設けると、藤原行政・安達遠元(あだちとおもと)らとともに寄人(よりゅうど)となった。まもなく源義経(みなもとのよしつね)に従って京都に入り、後白河法皇(ごしらかわほうおう)に事情を奏上した。頼朝は藤原兼実(ふじわらのかねざね)を摂政にしたいと望んでいたが、親能は前権中納言源雅頼(みなもとのまさより)と旧知の間柄であったため、その意向を伝え、兼実はついに摂政の地位を得た(注:『玉海』による)。西国での平氏との戦いでは源範頼(みなもとののりより)に属し、軍事の参謀として功があった。頼朝は特に書状を送って賞し、式部大丞(しきぶのだいじょう)に昇進させた(注:『東鑑』による)。

文治(ぶんじ)二年、頼朝は親能に六波羅(ろくはら)に居住して京都を守衛するよう命じた(注:『帝王編年記』による)。閑院六条殿(かんいんろくじょうどの)の修築にあたっては諸国に課役を割り当て、大江広元とともにこれを監督した。京都在任中は朝廷への物資輸送を監督したが、あるとき「親能は私心を抱いて貢物を差し止めている」と頼朝に讒言する者があった。詰問を受けた親能はうまく釈明できなかったが、頼朝がその理由を尋ねると、親能は弁明せず、ただ自分が朝廷に提出した奏上文の草案を差し出すのみであった。頼朝はこれで讒言が偽りであったことを悟り、親能はついに疑いを解かれた。しばらくして掃部頭(かもんのかみ)に遷り、たびたび昇進して正五位下に叙せられた。頼朝が右近衛大将(うこんえのだいしょう)になると、関東にいる廷臣たちにはそれぞれ役割が分担されたが、親能は訴訟を担当し、京都と鎌倉を往来しては事に応じて裁定した。建久(けんきゅう)二年、頼朝が政所(まんどころ)を設けると、親能は公事奉行(くじぶぎょう)となった。後白河法皇が法住寺殿(ほうじゅうじどの)に遷ったとき、頼朝の計らいで親能と広元が召し出され、御殿に上がって剣を賜った(注:『東鑑』による)。建久七年、再び六波羅に赴いて京都を守った(注:『帝王編年記』による)。親能の妻は頼朝の娘三幡(さんまん)の乳母であったが、三幡が早世すると、親能は髪を剃り、寂忍(じゃくにん)と名乗った。源頼家(みなもとのよりいえ)・源実朝(みなもとのさねとも)の代には六波羅に居住し、佐々木定綱(ささきさだつな)らとともに京都を守衛した。承元(じょうげん)二年、京都で没した。享年六十六(注:『東鑑』による)。

大江時廣

大江広元(おおえのひろもと)は、中納言大江匡房(まさふさ)の曽孫で、式部大輔大江維光(これみつ)の子である(注:『大江系図』による)。大江家は代々儒学を家業とし、博識の家柄であった。広元は幼いころ掃部頭中原広季(なかはらのひろすえ)の養子となり(注:本書では広季を「広秀」とするが、ここでは『玉海』および『除目大成抄』によって訂正した)、中原姓を名乗っていたが、のちに朝廷に願い出て本来の姓に復した。文史に広く通じ、策略にも優れていた。源頼朝が挙兵するとこれに従って仕え、推挙されて安芸介(あきのすけ)となった。寿永三年、公文所が設置されると、広元は別当(べっとう)となって政務を統括した。まもなく因幡守(いなばのかみ)となり、待遇はますます厚くなった。平氏討伐のころは諸事が集中して忙しく、上奏文や公文書の多くを広元が起草した。頼朝は叔父の源行家(みなもとのゆきいえ)、弟の源義経と不和になり、文治元年、朝廷に奏請して彼らを捕らえようとしたが果たせず、頼朝はこれを憂えていた。広元は次のように献策した。「世はすでに衰え、悪事を働く者が日々勢いを増しております。東海道は幕府が鎮圧しているため安泰ですが、他の道は遠く、容易には制圧できません。たびたび兵を起こして東国の兵を派遣すれば、軍費はかさみ、民は疲弊いたします。それよりも国衙(こくが)に守護(しゅご)を置き、荘園に地頭(じとう)を置いて、事あるごとに追捕にあたらせれば、労せずして自然に治まりましょう。」頼朝は大いに喜び、朝廷に奏請してこれを許され、将士を諸国に分け遣わして守護・地頭を置いた(注:『東鑑』による)。これ以降、軍事の実権はすべて頼朝に帰し、朝廷の権威はついに衰えることとなった(注:『神皇正統記』『増鏡』による)。頼朝はこれを広元の功とし、肥後(ひご)の山本荘(やまもとのしょう)を与えた。当時、関西地方は戦乱の後を受けて武士が横暴を働き、百姓から過酷な取り立てを行っていた。中には勝手に地頭を名乗り、社寺の領地を奪う者もあった。広元は京都に赴いて院宣(いんぜん)を求め、これを取り締まり整理した。およそ幕府が重大事を朝廷に奏請するときは、広元が使いとして往来し、そのたびに許可を得た。広元は朝廷の慣例に通じ、政務にも明るかった。頼朝が武威を振るい天下に号令できたのは、広元と三善康信らの功績によるところが大きい。頼朝が近衛大将となり政所を設けると、広元がその別当となった(注:『東鑑』による)。正五位下に叙せられ、明法博士に任じられ、左衛門大尉(さえもんのだいじょう)を兼ね、検非違使(けびいし)となった。関白藤原兼実は「あの者は儒者の家柄で、進むべき道は大外記(だいげき)か明法博士に限られるはずである。それなのに武官を帯びて検非違使となるとは、人選の秩序を乱すことにならないか」と言ったが、朝廷はこれを聞き入れなかった(注:『玉海』による)。後白河法皇が賀茂の祭を見物に行幸した際、広元は供として従い、御用の馬と舎人(とねり)を賜った。翌年、三つの官職を辞したが、しばらくして兵車頭(ひょうしゃのかみ)に任じられた。頼朝が没すると、北条政子(ほうじょうまさこ)は広元を最も重んじ、北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)と連署して命令を発した。頼家・実朝の代には、謀反や疑わしい議論が起こるたびに、康信とともに参画してこれを裁決した。掃部頭、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)に昇進した。比企能員(ひきよしかず)が北条氏を滅ぼそうと謀り、それが露見すると、時政はこれを誅殺しようとして広元に相談した。広元は「私は亡き将軍(頼朝)の時代から幕府の政治を補佐してまいりましたが、軍事の是非については判断のできることではございません。誅殺するかどうかは、賢明なご判断に委ねるべきでしょう」と答えた。時政はその意図を悟り、席を立って自邸に戻り、天野遠景(あまのとおかげ)らに命じて能員を殺させた。遠景が計略を献じたあと、時政は再び広元を呼び出した。広元は「謀議はすでに終わったはずなのに、再び私を呼び出すとは。人の心は測りがたいものだ」と考え、不測の事態を恐れて従者をすべて退け、ただ飯富宗長(いいとみむねなが)だけを供に連れ、ひそかに彼に「もし変事があれば、ただちに私を斬れ」と言い含めた。時政の邸に着いて計画を練った結果、能員はついに殺された。和田義盛(わだよしもり)が挙兵して北条義時を攻めたとき、広元は義時とともに実朝を奉じて法華堂(ほっけどう)に避難し、力を合わせて将士を激励し、ついに義盛を打ち破って討ち取った。まもなく正四位下に叙せられ、陸奥守(むつのかみ)に任じられた。眼病が重くなり、髪を剃って覚阿(かくあ)と名乗った。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が義時追討の兵を挙げたとき、諸将の中には「足柄(あしがら)・箱根(はこね)の険しい地に拠って朝廷の軍を待とう」と言う者もあったが、広元はこれに反対し、真っ先に策を献じた。義時が京都に攻め上ることを決意すると、諸将は兵が集まるのを待ってから出発しようとしたが、広元は北条泰時(やすとき)に「単騎ですぐに出発すべきです」と勧めた。まもなく大軍が集結し、ついに京都を陥落させた――このいきさつは義時の伝に記した。広元は三善康信らとともに鎌倉にあって軍事・国政のことを取り仕切っていた。あるとき雷が義時の邸の台所に落ち、召使いが雷に打たれて死んだ。義時はひどく恐れ、広元を招いて「今、兵を興して朝廷に逆らい、このような災いに遭ったのは、天の咎めではないだろうか」と尋ねた。広元は答えた。「君臣が兵を構えれば、勝敗は天に在るものです。事の成否は天に委ねるべきであり、災いを恐れるには及びません。それに過去の例で確かめれば、これは関東にとってはむしろ吉兆なのです。文治年間、亡き将軍(頼朝)が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討伐したとき、陣営に雷が落ちましたが、その戦は大勝利に終わりました。占いを行わせ、天意を確かめるのがよいでしょう。」陰陽師たちは皆「吉」と占い、義時の心は次第に落ち着いた。まもなく朝廷方の軍は大敗し、後鳥羽上皇は配流されることとなり、広元はますます北条氏に重んじられるようになった(注:『東鑑』による)。嘉禄(かろく)元年に没した。享年七十八(注:『東鑑』にはこの記事が欠けている)。子は親広(ちかひろ)・時広(ときひろ)・宗光(むねみつ)・季光(すえみつ)・忠成(ただなり)である。子孫は代々続き、幕府に仕えた。親広には別に伝がある。宗光は掃部助(かもんのすけ)となり、その子政茂(まさしげ)は引付衆(ひきつけしゅう)となって右近衛将監(うこんえのしょうげん)・刑部権少輔(ぎょうぶのごんのしょうゆう)を歴任した。忠成は蔵人(くろうど)に補せられ、左近将監・刑部権少輔を歴任し、たびたび昇進して従四位下に叙せられ、評定衆(ひょうじょうしゅう)となった(注:『関東評定伝』による)。兄季光の事件に連座して職を罷免された(注:『東鑑』による)。

大江季光

大江時広(おおえのときひろ)は左衛門尉(さえもんのじょう)となり、蔵人に補せられた。源実朝が近衛大将となり、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に参拝の礼を行おうとしたとき、時広は急ぎ鎌倉に戻って先導役を務めた。儀式が終わると、時広は再び京都に赴こうとし、二階堂行村(にかいどうゆきむら)がそのことを実朝に取り次いだ。実朝は不快に思い、「時広はすでに院の役人の籍に名を連ねていながら鎌倉に戻り、なぜまた京都に行こうとするのか。その料簡は関東を軽んじているのではないか」と言った。時広は行村を通じて詫びて言った。「私が朝廷に仕えているのは本意ではなく、ただ廷尉(ていい、検非違使)の職を退きたいがためです。このたび拝賀の儀と聞き、駆けつけて先導を務めました。どうか再び京都に行かせていただき、かねての志を遂げたうえで、改めて幕府に戻り、忠勤を尽くさせてください。」行村はそれ以上取り次ぐことができなかった。時広は自ら北条義時に事情を訴え、義時が実朝に取りなしたことで、願いは聞き届けられた(注:『東鑑』による)。子の泰秀(やすひで)もまた蔵人に補せられ、左衛門大尉に任じられて検非違使となり、甲斐守(かいのかみ)を兼ね、評定衆となった(注:『関東評定伝』による)。

三善康信

大江季光(おおえのすえみつ)は左近将監(さこんのしょうげん)となり、蔵人に補せられ、従五位下に叙せられた(注:『東鑑』『関東評定伝』による。従五位下は『評定伝』による)。実朝が没すると、髪を剃って西阿(さいあ)と名乗った。承久(じょうきゅう)三年、北条泰時に従って京都に攻め上った。尾張川(おわりがわ)の戦いでは別働隊として鵜沼(うぬま)を攻め、神地頼経(かんじよりつね)と戦ってこれを破った。泰時が京都に迫ると、三浦義村(みうらよしむら)とともに淀(よど)・芋洗(いもあらい)を攻め、大納言藤原忠信(ただのぶ)・参議藤原信能(のぶよし)らと戦ってこれを破った。のちに評定衆となった。三浦泰村(みうらやすむら)の乱のとき、季光は幕府方に馳せ参じようとしたが、その妻は泰村の妹であったため、妻が泣いて引き止めた。季光はついにその言葉に従い、出陣して泰村を助け、幕府軍と戦って敗れ、三浦一族とともに自害した。子の光広(みつひろ)は右兵衛尉(うひょうえのじょう)に任じられ、三人の弟とともに父に従って戦死した(注:『東鑑』による)。子孫は毛利氏(もうりし)を名乗った(注:『毛利系図』による)。

藤原行政

三善康信(みよしのやすのぶ)は中宮属(ちゅうぐうのさかん)となり、従五位下に叙せられた。その母は源頼朝の乳母であったため、康信は頼朝に心を寄せていた。頼朝が伊豆(いず)にあったころ、康信は月に三度使者を送って京都の情勢を伝え、これによって頼朝は遠く離れた地にありながら朝廷の動向や平氏の様子を知ることができた。源頼政(みなもとのよりまさ)が以仁王(もちひとおう)に勧めて諸国の源氏に平氏討伐を命じさせたが、まもなく王と頼政は敗死し、平清盛(たいらのきよもり)は後患を絶とうと源氏を皆殺しにしようとした。康信は特に一族の康清(やすきよ)を遣わし、頼朝に陸奥(むつ)へ避難するよう勧めたが、頼朝はかえって挙兵を決意した。康信は髪を剃り、法名を善信(ぜんしん)といい、世に大夫属入道(たいふのさかんにゅうどう)と呼ばれた。頼朝が関東を平定したのち、たびたび康信を呼び寄せた。寿永三年、鎌倉に来て軍政を補佐し、問注所(もんちゅうじょ)の執事となった。当初、頼朝が幕府内に問注所を設けたところ、人々が騒がしく訴え出るので頼朝はこれをやや嫌うようになった。熊谷直実(くまがいなおざね)と久下直光(くげなおみつ)が争ったのを機に、問注所は康信の邸宅に移された。正治(しょうじ)元年、問注所は幕府の郭外に設けられた。康信は長年執事を務め、裁決は詳細で的確であり、幕府に冤罪の恨みを残すことはなかった(注:『東鑑』による)。

文治五年、頼朝が陸奥で藤原泰衡を討ったとき、康信は留守の政務を任された。頼家・実朝の代には関東で長く重んじられる存在となり、北条政子およびその子時政・義時もみな彼を重んじた。ある僧、源性(げんしょう)は算術に長けていたが、頼家が政所に命じて諸国の田地台帳を取り寄せさせ、源性に面積を計算させて、治承(じしょう)・養和(ようわ)以来将士に新たに与えられた荘園について、一人当たり五百町を上限とし、その余りを取り上げて新たに近習となった者に分け与えようとしたことがあった。命令はすでに下されていたが、大江広元をはじめとする老臣たちはみなこれを憂え、対策も見出せずにいた。康信が強く諫めたことで、この計画はついに取りやめとなった。承久三年、後鳥羽上皇が北条氏討伐の兵を挙げると、義時は将士を集めて対策を協議した。康信は病をおして輿(こし)で駆けつけ、広元とともに方針を決めた。軍を京都へ向けて出発させたのち、康信は鎌倉に留まった。まもなく病が重くなり執事の職を辞し、政子はその子康俊(やすとし)に代わらせた。この年、康信は没した。享年八十二(注:『東鑑』による)。

子は康俊・行倫(ゆきとも)・康持(やすもち)である。康俊は右兵衛尉(うひょうえのじょう)・民部丞(みんぶのじょう)に任じられ、加賀守(かがのかみ)に遷り、問注所執事・評定衆となった。その子は康持・康有(やすあり)である。康持は民部少丞(みんぶのしょうじょう)に任じられ、備後守(びんごのかみ)に遷り、問注所執事・引付衆(ひきつけしゅう)となった(注:『東鑑』『関東評定伝』による)。その子政康(まさやす)は民部少丞に任じられ、加賀守に遷り、評定衆となった。康有は勘解由判官(かげゆのはんがん)に任じられ、美作守(みまさかのかみ)に遷り、これも問注所執事・評定衆となり、髪を剃って法名を善有(ぜんゆう)といった(注:『関東評定伝』による)。行倫は大舎人允(おおとねりのじょう)となった。康信が別曹(べっそう、大学別曹)を管理していたころ、頼朝はその事務を見るよう命じたことがある(注:『東鑑』による)。子の倫重(とものしげ)は権少外記(ごんのしょうげき)・大和守(やまとのかみ)・対馬守(つしまのかみ)に任じられ、評定衆となった(注:『関東評定伝』による)。康連(やすつら)は民部丞に任じられ、阿波権守(あわのごんのかみ)に遷り、問注所執事・評定衆となった(注:『東鑑』『関東評定伝』による。阿波権守は『評定伝』による)。その子康宗(やすむね)は民部丞・伊勢権守(いせのごんのかみ)に任じられ、問注所執事・評定衆となった。子孫は太田氏(おおたし)を名乗った(注:『関東評定伝』による)。

藤原行政(ふじわらのゆきまさ)は、遠江守(とおとうみのかみ)藤原為憲(ためのり)の子孫である。父の行遠(ゆきとお)は白尾三郎(しらおのさぶろう)と称した。保延(ほうえん)年間、遠江国司を殺害した罪に連座し、尾張(おわり)に流された(注:『尊卑分脈』による)。源頼朝が挙兵すると、行政はこれに従って仕えた(注:『尊卑分脈』には「行政の母は季範(すえのり)の妹である」とある。季範とは熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)のことである。おそらく行遠は尾張にいたとき季範の妹を娶って行政をもうけたのであろう。そして季範の娘は頼朝の母にあたるため、行政は頼朝に従ったのだと考えられる。ただし他に確証がないため、参考として付け加えておく)。出雲権守(いずものごんのかみ)・山城守(やましろのかみ)を歴任し、従五位下に叙せられ、主計允(かずえのじょう)・民部少丞に任じられ、政所執事となり、二階堂(にかいどう)と称した。二人の子、行光(ゆきみつ)・行村(ゆきむら)がいる(注:『東鑑』『尊卑分脈』による。二階堂と称したことは『分脈』による)。

行光は掃部允(かもんのじょう)・民部丞となり、政所寄人(まんどころのよりゅうど)となった。まもなく信濃守(しなののかみ)に任じられ、政所執事となった。子孫は信濃(しなの)氏を称した。子の行盛(ゆきもり)は民部少丞・左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)を歴任し、紀伊権守(きいのごんのかみ)に遷り、政所執事となり、髪を剃って法名を行然(ぎょうねん)といい、評定衆となった。その子は行泰(ゆきやす)・行綱(ゆきつな)・行忠(ゆきただ)である。行泰は民部少丞、筑前守(ちくぜんのかみ)・加賀守を歴任し、政所執事となった(注:『東鑑』『尊卑分脈』『関東評定伝』を参照した)。北条時頼(ほうじょうときより)が出家すると、行泰は旧来の親交を思い、二人の弟および結城朝広(ゆうきともひろ)・三浦光盛(みうらみつもり)らとともに剃髪し、法名を行善(ぎょうぜん)といった。意見を述べて幕府に開陳しなかったことから咎めを受けた(注:『東鑑』による)。行綱は左衛門少尉・伊勢守(いせのかみ)を歴任し、政所執事となり、兄行泰と同時に剃髪して法名を行願(ぎょうがん)といった。行忠は弾正忠(だんじょうのじょう)・検非違使・左衛門少尉に任じられた(注:『東鑑』『関東評定伝』を参照した)。行忠は文官として出世したが、なかなかの武才があった。宝治(ほうじ)初年、北条時定(ときさだ)に従って三浦泰村を攻めた際、人並み外れて奮戦し、討ち取った首級も多かった(注:『東鑑』による)。二人の兄と同時に剃髪し、法名を行一(ぎょういち)といった(注:『東鑑』『関東評定伝』を参照した)。

行光の弟行村(ゆきむら)は検非違使・左衛門少尉に補せられ、隠岐守(おきのかみ)に任じられ、侍所司(さむらいどころのつかさ)となった。源実朝が没すると、髪を剃って法名を行西(ぎょうさい)といい、評定衆となった(注:『東鑑』『関東評定伝』を参照した)。子孫は隠岐(おき)氏を称した。子は基行(もとゆき)・行義(ゆきよし)・行久(ゆきひさ)・行方(ゆきかた)・惟行(これゆき)である(注:『尊卑分脈』による)。基行は左衛門少尉に任じられ、容姿端麗で騎射に巧みであった。実朝が右大臣を拝任し、鶴岡八幡宮に拝賀の礼を行うにあたって供の者を選んだ際、基行は「私は幕府に仕える身ながら文臣の列に名を連ね、常々武臣から軽んじられることを恐れておりました。今このような大礼に巡り合えたことは、千載一遇の機会と申せましょう。もし随兵に加えていただければ、子孫は末永く仕籍を改め、武臣となることができましょう」と願い出た。実朝はこれを許した。基行はのちに髪を剃り、法名を行阿(ぎょうあ)といった(注:『東鑑』による)。行義は左衛門少尉・出羽守(でわのかみ)に任じられた。三浦泰村の乱では力戦して功があった。髪を剃って法名を道空(どうくう)といった(注:『東鑑』『関東評定伝』を参照した)。曽孫の貞藤(さだふじ)については北条高時(ほうじょうたかとき)の伝に見える。行久は左衛門少尉・常陸介(ひたちのすけ)に任じられ、法名を行日(ぎょうにち)といった。行方は式部丞(しきぶのじょう)・大蔵少輔(おおくらのしょうゆう)を歴任し、引付頭(ひきつけのとう)・評定衆となった(注:『関東評定伝』による)。惟行は式部少丞に任じられた(注:『尊卑分脈』による)。