卷之一百九十五 列傳第一百廿二

將軍家臣五

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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北條義時

北条義時(ほうじょうよしとき)は、遠江守北条時政の次男である。江馬小四郎(えまこしろう)と称した。深く沈着で胆略があり、度量は人並み外れていた(注:出典は『東鑑』『増鏡』)。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵すると、父兄とともに従軍し、石橋山で戦った。平宗盛(たいらのむねもり)が西海に逃れると、源範頼(みなもとののりより)の指揮下に入り、豊後で原田種直(はらだたねなお)を撃った。頼朝が平氏を滅ぼした後、義時は政子の弟であることから日ごとに信頼を厚くされた。時政がかつて頼朝に不満を抱き、無断で北条に帰ったことがあった。頼朝は激怒し、梶原景季(かじわらのかげすえ)に「江馬は謹み深い性格だ、必ず父には従うまい。お前が行って様子を見てこい」と命じた。景季が戻って「まだ鎌倉に残っております」と報告すると、頼朝は喜んで義時をねぎらい、「お前はよく私の心を推し量る。いずれ必ず子孫の輔佐となるだろう」と言った。後に結城朝光(ゆうきともみつ)への書状の中で、義時を家人の中で最も重んじる者とした。頼朝が亡くなると、頼家(よりいえ)は比企能員(ひきよしかず)と謀って北条氏を除こうとした。時政は能員を誘い出して殺した。能員の一族は頼家の子・一幡(いちまん)の館に立てこもったが、義時は兵を率いてこれを撃破し、一幡を殺した。ついに頼家を廃し、間もなくこれも殺害した(注:『愚管抄』は翌年に頼家を殺したとする。その文意を考えると、義時が時政の意を受けて殺したようだが、はっきりしない。詳細は頼家伝に記す)。この頃、義時は相模守となり、父に代わって執権の職を執った。閑院内裏(かんいんだいり)の造営が成ると、その功により正五位下に叙せられた(注:『東鑑』)。

建保元年、泉親衡(いずみちかひら)が頼家の子・千寿丸(せんじゅまる)を擁立し、義時討伐を企てた。和田義盛(わだよしもり)の子である義直・義重、および甥の胤長(たねなが)がこれに加わっていた。事が発覚すると、義盛は二人の子の助命を願い出て、実朝はこれを許した。さらに胤長の助命を願ったが、これは許されなかった。義時は命令を伝える役目として、人前で胤長を面縛(めんばく、注:顔を人目にさらしたまま縛り上げること)し、わざと義盛の前を通らせた上で、役人に引き渡させた。義盛は恥辱と憤りから挙兵を決意し、危急を告げる者が相次いだ。義時はちょうど客と碁を打っていたが、顔色一つ変えず、対局を終えてから悠然と着替え、実朝の館に赴いた。義盛はこれを包囲し、義時は大江広元(おおえのひろもと)とともに実朝を守って法華堂に避難した。義時の子・泰時(やすとき)らは力戦してこれを防いだが、将兵の多くが死傷した。夜明けになると義盛はやや退いたが、その一党が援軍に来て兵勢は再び盛り返した。曾我・中村などの将兵は形勢をうかがうばかりで危難に駆けつけなかった。義時は広元と謀り、書状で人々に告げて「義盛の兵はすでに崩れ、幕府は安泰である。速やかに兵を率いて残兵を撃破すべきだ」と諭した。すると兵士が競って集まり、義盛はついに敗死した。事が治まると、その功により相模国の山内荘・菖蒲荘の二荘を賜り(注:『東鑑』)、侍所の別当となった(注:『将軍執権次第』)。五年、右京権大夫となり、広元に代わって陸奥守を兼ねた。当時実朝は文学・史書を楽しみ、和歌を好み、政務には親しまず、武備は日に日に緩んでいった。義時は内心私権を貪りながらも、最後まで諫めることはなかった。翌年、神託に凶事ありと称して薬師堂を建立した。この冬、実朝は右大臣を拝命した。翌年、鶴岡八幡宮で拝賀の礼を行った。義時は剣を持って供をしたが、門に入ったところで病と称し、剣を源仲章(みなもとのなかあきら)に授けて帰った。礼が終わり、輿に乗って戻ろうとしたとき、頼家の子・公暁(くぎょう)が夜陰に乗じて実朝を殺害し、仲章も斬られた。義時は「白い犬がそばを通り過ぎるのを見て発病し、難を逃れた」と語った。そこで薬師堂に参拝した。実朝には子がなく、義時は政子の意を受け、諸将と連名で皇子を将軍に迎えたいと願い出た(注:『東鑑』)。後鳥羽上皇はこれを許さなかった(注:『愚管抄』)。摂政九条道家(くじょうみちいえ)は頼朝の姻戚であったため、義時はその子を迎えて立てた。これが頼経(よりつね)である(注:『愚管抄』『東鑑』)。頼経はまだ二歳であったため、政務は政子から出され、義時はその命を受けて執行した。広元らの旧臣を議事に参与させ、すべて頼朝の定めた方式に従い、変更するところはなかった(注:『東鑑』)。上皇はかねてより頼朝が兵権を握り朝廷を脅かし制していることを憎んでいたが、ここに至って将軍の血統が絶えたことで、権威は当然朝廷に戻るはずだと考えていた。ところが義時は異姓の子を擁立し、陪臣の身でありながら国政を左右した。上皇の心はますます不満を募らせた(注:『保暦間記』)。上皇が熊野に行幸した際、仁科盛遠(にしなもりとお)が子を連れて道端で拝謁した。上皇はその子の容姿を見て気に入り、西面の武士に取り立てた。盛遠は感激し、そのまま京にとどまった。義時は関東の御家人がみだりに院に仕えることを怒り、その所領を没収した。上皇は元通りに返すよう命じたが、義時はこの詔に従わなかった(注:『承久記』)。上皇は寵妓・亀菊(かめぎく)の願いにより、長江・倉橋の地頭を罷免した(注:『東鑑』『承久記』)。義時はこの詔に従わず、「地頭という制度は昔からあったものではない。亡き右大将(頼朝)が平氏を滅ぼし、その功により初めて総地頭に任じられた。当時、諸国の地頭は六年にわたり軍役に従い、父子ともに臣として仕え、戦場で命を落とす者が野に相枕むほどであった。右大将は決して勝手にこれを与えたのではない。功に応じ忠に報いたのであって、今、罪もないのに急にこれを停止するというのは、私の理解できるところではない」と述べた。上皇は激怒し、義時を誅殺する決意を固めた。これより先、三浦胤義(みうらたねよし)は京で宿衛の任にあったが、その妻が義時を恨んでいたことから、期限を過ぎても関東に戻らなかった。上皇は能登守藤原秀康(ふじわらのひでやす)に胤義を誘わせ、胤義は詔を受け、さらに兄の義村(よしむら)を説いて朝廷方につかせようとした。上皇はこれを喜んだ(注:『承久記』)。承久三年四月、上皇は順徳天皇(じゅんとくてんのう)に譲位させて九条天皇(仲恭天皇)を立て、心を一つにして義時討伐を図った(注:『東鑑』『承久記』『保暦間記』)。五月、城南寺の流鏑馬にかこつけて兵を徴集し、近畿諸国から応じた者は千七百人に及んだ。上皇の意気はますます鋭くなり、右近衛大将藤原公経(ふじわらのきんつね)父子を捕らえ、兵を遣わして義時が任じていた京都守護の藤原光季(ふじわらのみつすえ)を誅殺した(注:『承久記』)。五畿七道に院宣を下し、義時の罪状を挙げて討伐を命じた(注:『東鑑』)。その官位を奪った(注:『百錬抄』。ただし原文はこれがいつのことか明らかにしないため、推測でここに置く)。上皇は胤義に「関東の武士で義時のために死のうとする者はどれほどいるか」と尋ねた。胤義は「彼は朝敵となった身、誰が進んで命を投げ出しましょうか。たとえ道理をわきまえぬ者がいたとしても、千人程度に過ぎますまい」と答えた。児玉家定(こだまいえさだ)が傍らから進み出て、「胤義殿の失言でございます。治承の頃より私恩を受けた者は多く、身を投げ出して命を捧げようとする者は必ず一万人を下りますまい。私を鎌倉に置いたとしても、やはり義時に従いましょう」と述べた。上皇は面白くなかった。秀康の家人に押松(おしまつ)という足の速い者がおり、院宣を携えて関東に至り、小山・宇都宮などの諸将に触れ回った。胤義もまた書状を義村に送り、共に力を合わせるよう勧めた。義村は胤義の書状を義時に見せて示すと、義時は「存亡は君の一存にかかっている。ただ君の思うところに従おう」と言った。義村は二心なきことを誓った。義時は笑って「そうであれば、もう心配することはない。私は以前からこの企てを知っていた。院宣を運ぶ使者はもう鎌倉に入っているはずだ」と言い、大がかりな捜索を行って押松を捕らえ、院宣を奪って焼き捨てた(注:『承久記』)。義時は義村とともに政子のもとへ赴いて事の次第を報告した。政子は簾の下に諸将を集めて自ら激励し、「亡き右大将殿が鎌倉を切り開いてから今日に至る。諸君はその恩恵にあずかり、世に富貴を保ってきた。その恩は海より深いというべきである。どうして報いる志がないと言えようか。今、讒言する臣が事を構え、天聴を惑わしている。諸君が名節を重んじるならば、速やかに秀康・胤義らを討ち、三代の将軍の遺業を全うすべきである。もし院宣に従おうとする者があれば、今日この場で去就を決めよ」と述べた。諸将は感激奮起し、みな自ら働きたいと申し出た。その日のうちに義時の邸に集まって軍議を開いた。三浦義村・安達景盛(あだちかげもり)らは、足柄・箱根の険を頼んで朝廷軍を待ち受けるべきだと主張した。大江広元は「人心が一つにまとまっていないのに、険阻を守ったところで何の益があろうか。いたずらに時を過ごせば士気は衰え、かえって禍敗を招くだけだ。運を天に委ね、進んで京都を直接攻めるに越したことはない」と述べた。政子はこれを良しとし、武蔵守泰時を大将として武蔵で兵を集め、揃うのを待って出発させようとした。さらに遠江・信濃より東の兵も召集した。諸将の中には「軍を急派して京に攻め入るのは得策ではない」と言う者もあった。広元は「今、大方針はすでに決まっているのに、ただ時期を延ばせば異論が次々に起こる。武蔵の兵を待つのすら望ましくない。まして日を重ねて決めかねていては、たとえ武蔵の兵が来たとしても、その間に別の異変が起こることを恐れる。今夜のうちに武蔵守が単騎で出発すれば、関東の軍勢は雲が龍に従うように後に続くだろう」と言った。三善康信(みよしやすのぶ)も病を押して駆けつけ、広元と同じ考えを述べた。義時はおおいに喜んだ(注:『承久記』には次のように記されている。諸将が軍議を開いたとき、泰時は「今この大事を起こすには、兵が少なくては志を遂げがたい。数日待って兵が集まってから出発すべきだ」と言った。義時は怒って「私は主君に忠義を尽くしてきたが、不幸にも讒言する者に事を構えられ、朝敵の汚名を着せられた。たとえ百万の兵があろうとも、志を遂げられるとは限らない。運命を天に委ね、一挙に決するに越したことはない。速やかに兵を進めるべきだ」と言い、泰時はやむを得ず出発した。本書によれば、これらはすべて広元の謀議によるものとして詳しく記されている。そのため今はこの説を採らない)。泰時に厳重な準備を命じ、翌日、東海道より出発した。従う兵はわずか十八騎であったが、東国の武士が相次いで馳せ参じ、数日のうちにほぼ十数万に達した。弟の時房(ときふさ)、足利義氏(あしかがよしうじ)、三浦義村、千葉介胤綱(ちばのすけたねつな)を副将とし、子の朝時(ともとき)が結城朝広(ゆうきともひろ)・佐々木信実(ささきのぶざね)らを率いて四万余騎で北陸道に出た。武田信光(たけだのぶみつ)、小笠原長清(おがさわらながきよ)、小山朝長(おやまともなが)、結城朝光(ゆうきともみつ)らは五万余騎で東山道に出た。総勢十九万余りの兵で、直ちに京都へ攻め入った。義時は広元らとともに鎌倉に残って留守を守り、兵の徴発を督励し、軍務全体を統轄した(注:『承久記』には、このとき将兵に「父兄が出陣する場合は子弟を留め、子弟が出陣する場合は父兄を留めよ」と命じたとあるが、小笠原長清らのように父子ともに出陣した例が多いため、今はこの説を採らない)。判官隆邦(たかくに、注:姓は不明)に命じて宣旨への返答文を書かせた(注:『東鑑』)。押松を京へ送り返す際、口頭で「義時は罪もないのに譴責を受けたが、何を言うこともない。上皇が戦を望まれるのであれば、弟の時房、子の泰時・朝時に命じ、十九万騎を率いて三道より同時に出発させた。上皇にはとくとご覧いただきたい。もしまだ十分でないとお考えなら、さらに兄の重時(しげとき)・政村(まさむら)に命じ、二十万騎を率いさせよう。義時自身も後に続く所存である」と伝えさせた(注:『承久記』)。朝廷はこれを聞いて大いに震え上がり、京中が騒然となった。六月、上皇は公卿を召集して評議した(注:『東鑑』)。秀康・胤義らの諸将を九隊に分け、一万七千五百余の兵を発して美濃・尾張の間に駐屯させ、東海道・東山道の二道を守らせ、河を隔てて陣を敷いた。泰時・時房がこれを攻め、官軍は敗走した。宮崎定範(みやざきさだのり)、糟谷有久(かすやありひさ)、仁科盛遠は礪波山(となみやま)に駐屯して北陸道を守っていたが、朝時がこれを撃破した。秀康らは敗れた様子を上皇に奏上した。そこで大納言藤原忠信(ふじわらのただのぶ)、前権中納言源有雅(みなもとのありまさ)、参議藤原範茂(ふじわらののりしげ)、および秀康・胤義、佐々木広綱(ささきひろつな)、山田重忠(やまだしげただ)らの二万五千余騎を分けて宇治・瀬田・淀・芋洗に配置した。当時は盛夏で雨が止んだばかり、川の水量は増していた。官軍は橋を落として矢を連射し、泰時の軍は苦戦して溺死する者が多かった(注:『承久記』。『東鑑』も参照した)。泰時の子・時氏(ときうじ)が真っ先に川を渡ると、官軍はこれに対抗できず、守りを捨てて逃げた。泰時は一気に京都まで攻め入り、樋口に至った(注:『東鑑』)。上皇はなすすべを知らず、義時の官位を元に戻し、追討の院宣を取り消させた(注:『百錬抄』)。そして泰時に「此度の挙兵は私の本心から出たものではなく、謀臣に誤らされたのだ。今後はすべて幕府の求めに従おう。部下をよく戒め、京都で乱暴狼藉を働かせぬようにせよ」と諭した。泰時は拝礼したがこれに答えず、六波羅に宿営して、事の首謀者である廷臣を求めた。上皇は忠信・有雅、および権中納言藤原光親(ふじわらのみつちか)、藤原宗行(ふじわらのむねゆき)、参議藤原範茂、藤原信能(ふじわらののぶよし)の六人に罪を帰した。泰時は諸将にそれぞれ一人ずつを捕らえさせ、朝廷軍から逃亡した者を捕らえ、あわせてその所領を没収したところ三千余ヶ所に及び、その内容を記録して鎌倉へ送った。政子は功に応じて恩賞を定め、すべて将士に分け与えた。義時は自分では何一つ取らず、畿内・西海の守護を改めて配置した。広元は文治元年に平清盛の一党を処断した先例に倣い、廷臣たちの罪状を勘案した。忠信以下は死罪に当たるとされた。泰時は三位以上の者を京で処刑することを望まず、護送する者に命じて連れて来させ、政子の命により特に忠信だけを釈放し、その他の者は道中で殺した。七月、九条天皇(仲恭天皇)を廃し、後堀河天皇(ごほりかわてんのう)を立てた。後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇(つちみかどじょうこう)を土佐に、順徳上皇を佐渡に遷し、あわせて雅成親王(まさなりしんのう)・頼仁親王(よりひとしんのう)の二人の皇子も流罪とした(注:『東鑑』)。

義時は表向きは忠義厚く見せていたが、内心はきわめて陰険で狡猾であった。すでに頼家とその三人の子を殺し、さらに同族の阿野全成(あのぜんじょう)なども殺していた。実朝の暗殺もまた義時の意図から出たものであったが、その痕跡は巧妙に隠され、人はその真相をうかがい知ることができなかった(注:『東鑑』『保暦間記』『愚管抄』の大意をくみ取ったもの)。承久の乱で朝廷に逆らって以降、天子の廃立や大臣の進退までも意のままにするようになった。世の権勢はその一家から出るようになり、摂政以下の者も訴えを起こす際にはその曲直を義時に質した。国家の大権はことごとく鎌倉に帰することとなった(注:『東鑑』)。元仁元年、側近の者に刺されて死んだ。享年六十二(注:『保暦間記』『平氏系図』。『太平記』の明恵伝も参照した。享年は『東鑑』による。ちなみに『東鑑』には「霍乱(かくらん、注:急性の腹痛や嘔吐を伴う病)を患って卒した」とあるが、これは事実を隠す言い方と思われるため、ここでは採らない。また『古今著聞集』には、ある人が石清水八幡宮に祈願したところ、夢の中で神が武内宿禰(たけのうちのすくね)を召して「天下が乱れようとしている。お前は改めて北条時政の家に生まれ、これを補佐せよ」と告げたとあり、これにより世間では義時は武内宿禰の生まれ変わりだと伝えられた、とある。荒唐無稽であるため、ここでは採らない)。法名は観海、東勝院と号した(注:『平氏系図』)。常に蹴鞠を好み、かつて熊野に参詣した帰りに京都に立ち寄った際、後鳥羽上皇の蹴鞠を見物したいと願い出た。上皇はこれを許した。義時もまた何度も宮中に参内して蹴鞠を行い、上皇はその技量を称賛した(注:『東鑑』)。

子は泰時、朝時、重時、政村、時経(ときつね)、実泰(さねやす)、尚村(なおむら)、有時(ありとき)、時尚(ときひさ)である(注:系図の諸本により異同があり、ここではすべては注記しない)。泰時、朝時、重時、政村にはそれぞれ別に伝がある。実泰は元の名を実義といい、和歌に優れていた。その玄孫の金沢貞将(かねさわさだゆき)にも別に伝がある。有時は駿河守に任じられ、大炊助・民部少輔を兼ねた(注:『平氏系図』)。

三浦義村

三浦義村(みうらよしむら)は平六(へいろく)と称し、義澄(よしずみ)の子である(注:『東鑑』『三浦系図』)。父に従ってしばしば戦功を挙げた。建久元年、源頼朝が上洛した際、義村は右兵衛尉に任じられ、左衛門尉に遷り、駿河守となって正五位下に叙せられた。かねてより結城朝光と親しく、朝光が梶原景時(かじわらのかげとき)に讒言された際には、密かに朝光のもとへ行って策を練り、和田義盛・安達盛長(あだちもりなが)らと連名でその冤罪を訴えた。朝光は罪を免れることができた。義村は小笠原の牧を管掌していたが、牧の管理人と義村の従者が争って訴訟となり、源実朝はこれを聞いて不快に思い、「義村は部下を統率できず、民を虐げて争いを引き起こした」として、ついにその役職を罷免した。義盛が挙兵した際、義村は当初これに同調していたが、やがて弟の胤義に「我らの高祖平太郎(へいたろう)が八幡殿(源義家)に仕えて以来、武衡(たけひら)・家衡(いえひら)を討伐するにあたり身命を捧げてお仕えし、代々その禄を食んで臣節を失うことはなかった。今ひとたび一族の逆謀に従い、代々の主君に刃向かえば、天罰が下ることを免れまい。むしろ考えを改め正道に戻るべきだ」と説いた。そして北条義時のもとへ赴いて謀反を告げた。義盛が幕府を攻めた際には、義村は防戦して功を立てた。事が治まった後、波多野忠綱(はだのただつな)と戦闘の前後の功をめぐって争いになった。忠綱にも理があったが、義時は忠綱を諭して「この件はしばらく置いて論じないことにしよう。変事が急に起こり、日ならずして平定できたのは、義村の忠義が大きかったからではないか」と述べた。ほどなく陸奥国名取郡(なとりぐん)を賜った。実朝が左近衛大将を兼ねて鶴岡八幡宮に参詣した際、義村は随兵の選に加わり、長江明義(ながえあきよし)と組になった。義村を左に配するよう命じられたが、義村は「明義殿は年長であり、その左に立つのは難しゅうございます。どうか列を入れ替えていただきたい」と辞退した。明義は「義村殿には爵位があり、また三浦一族の長でもある。道理からすれば左に立つべきだ」と言い、互いに譲り合ってやまなかった。実朝は喜んで「今日のことは私が最も重んじるところである。二人が礼をもって譲り合うのは実に称賛に値する。ただ義村はまだ年若く先が長いが、明義には残り時間が少ない。明義を左列に置き、子孫の栄誉とするのがよかろう」と言った。二人は喜んで命に従った。公暁が実朝を殺害した際には、義村は策を用いて公暁をおびき出し、長尾定景(ながおさだかげ)に討たせ、その首を義時のもとへ送った(注:『東鑑』)。

承久三年、後鳥羽上皇が東国の諸将に院宣を下し、義時討伐を命じた。当時、胤義は京にいたが、これも密かに書状を義村に送り、朝廷方につくよう勧めた。義村は使者を追い返して返事をせず、直ちに義時のもとへ赴き、その書状を見せた(注:『承久記』)。こうして義時と共に評議を定め、挙兵して京都を攻めることとなった。北条泰時に従って東海道を進み(注:『東鑑』)、尾張一宮に至った(注:『承久記』)。進んで大豆戸(まめど)を攻めると、守将は勢いに恐れをなして敗走し、義村軍は野上・垂井まで追撃して陣を敷いた。義村は兵を五手に分けて並進すべきだと提案した。義村は淀・芋洗で官軍を破り、官軍は大いに崩れた。義村は京都に入り、胤義の首を得て泰時に送った。これ以後、義時とますます親密になり、心を合わせて政務を助け、威望は日に日に高まった。義時が亡くなると、その妻藤原氏は兄の伊賀光宗(いがみつむね)と謀り、藤原実雅(ふじわらのさねまさ)を将軍に立て、自らの生んだ子・政村を執権にしようと密かに相談した。義村は胤義の首を差し出した功があったことから、政村と特に親しく、しばしばその邸に出入りしていた。人々は義村がこの陰謀に加担しているのではないかと疑い、世情は騒然となり、鎌倉中が動揺した。政子は密かに義村の邸を訪れ、厳しく問いただした。義村は釈明し、人々の心もようやく落ち着いた。この件の詳細は光宗伝に記す。後に評定衆となった。延応元年、死去した。頼経は左馬助北条光時(ほうじょうみつとき)を弔問に遣わし、その所領を子らに分け与えさせた(注:『東鑑』)。

義村には十人の子があった。朝村(ともむら)、泰村(やすむら)、光村(みつむら)、家村(いえむら)、資村(すけむら)、長村(ながむら)、重村(しげむら)、胤村(たねむら)、僧良賢(りょうけん)、重時(しげとき)である。朝村は小太郎と称した。光村は三郎と称し、検非違使・能登守となった。家村は四郎と称し、左衛門尉となった。弓の名手であり、五代将軍藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)が鶴岡八幡宮の流鏑馬を見物した際、射手に急な発病者が出たため、頼経が代わりに家村に命じ、泰村も将軍の命だとして家村を急き立てた。家村は辞退できず、馬を馳せて矢を放ち、その所作は見事に整い、頼嗣は感嘆して称賛した。泰村が滅んだとき、家村も共に法華堂に入り、当時の人々はその生死を知らなかった。資村は五郎と称し、左衛門尉となり、泰村と共に死んだ。長村は六郎と称し、左衛門尉となった。重村は七郎と称し(注:『東鑑』では九郎とする)、左衛門尉となり、泰村と共に死んだ(注:『三浦系図』)。胤村は八郎と称し、左衛門尉となった。泰村が死んだとき、胤村は陸奥にいて、髪を剃って自ら幽閉した。小山長村がこれを鎌倉へ護送した。良賢は大夫律師と称し、弘長元年、家村の子・駿河八郎、および泰村の娘である野本尼(のもとのあま)とともに密かに謀り、北条氏を滅ぼして仇を報いようとしたが、事が発覚して捕らえられた(注:『東鑑』。『三浦系図』も参照した)。重時は九郎と称し、泰村と共に死んだ(注:『三浦系図』)。

三浦泰村

三浦泰村(みうらやすむら)は駿河二郎(するがのじろう)と称した。承久の乱のとき、年十八で、北条泰時、足利義氏とともに栗子山(くりこやま)に駐屯していた。父の義村は別の部隊を率いて淀へ向かっていた。泰村は「私は本来父上に従うべきでございます。しかし鎌倉を出発する日に、京兆殿(北条泰時)と生死を共にすると約束いたしました。この言葉を違えたくございません。どうかこの場を離れることをお許しください」と願い出た。義村は五十人の兵を分けて与えた。泰村は宇治橋まで進み、義氏の軍も到着すると、泰村は兵士を励まし、一日中奮戦した。翌日には諸軍とともに川を渡り、力を尽くして戦った(注:『承久記』)。その後、掃部権助(かもんのごんのすけ)、式部少丞(しきぶのしょうじょう)を歴任し、若狭守に任じられ、正五位下に叙せられた(注:『三浦系図』)。

嘉禎年間、評定衆となった。北条時頼(ほうじょうときより)が政権を執るに至ると、最も厚く遇された。常に機密の政務に参与した。名門・豪族の多くが姻戚関係を結び、その勢いは盛んであった。加えて北条氏の外戚(母方の一族)であったこともあり、驕り高ぶって諸将を見下すようになった。弟の光村は幼い頃から頼経に仕え、たいへん可愛がられ、常に寝所にまで出入りしていた。頼経が将軍職を廃されたとき、光村は不満を抱き、京都まで護送した。別れに際して涙を流して悲しみに耐えず、密かに北条氏を滅ぼして頼経を将軍に復位させようと図り、しばしば泰村に勧めたが、泰村は決断しかねていた。北条氏の方でもこれをかなり疑っていた。宝治元年、鶴岡八幡宮に立て札が立てられ、「若狭前司(泰村)は日ごとに驕り高ぶり、たびたび法度に背いている。近日中に厳しく処罰されるであろう。すでに公議で決定している。恐れ慎んで身を守るがよい」と書かれていた。見た者はみな驚き恐れた。ちょうど時頼が喪に服して泰村の邸に身を寄せていた頃、三浦一族の者たちが集まり、密かに時頼を殺害しようと謀った。時頼は夜、鎧の擦れる音がはっきり聞こえたため、不審に思い落ち着かず、密かに邸を抜け出して自邸に帰った。泰村はおおいに恐れて謝罪した。時頼は人を遣わしてその邸を探らせ、事実であることが判明すると、佐々木氏信(ささきうじのぶ)に泰村を諭させた。泰村は「近ごろの噂は世間で騒がれ、深く憂い恐れております。思うに、私ども兄弟は他の一族を超えて位は正五位に至り、一族はみな官爵を連ね、あわせて数か国の守を兼ね、荘園数万町を領しております。栄華が極まったために讒言を招いたのでございましょう」と答えた。氏信は戻って「弓矢・武具が邸の内外に山積みされており、事態は予測しがたい」と報告した。時頼は厳重な警備を敷いた。翌日、泰村の邸に匿名の書状が投げ込まれ、「あなたはまもなく誅殺されようとしている。なぜ備えをしないのか。ひそかにあなたのために危ぶんでいる」と書かれていた。泰村はこれを破り捨てて「私を陥れようとする者の仕業だ」と言い、人を遣わして時頼に「近ごろの噂を察するに、禍がこの身に迫っております。私にはもとより異心などなく、ただ遠方にいる部下たちが噂を聞いて集まってきただけでございます。これが讒言する者の口実となっているのです。正しきをもって疑われております。どうか速やかにこの騒ぎを解散させてください」と伝えさせた。時頼は穏やかな言葉で慰め諭したが、泰村の心はなお落ち着かず、日夜これを気に病んだ。三浦一族の者や毛利季光(もうりすえみつ)の兵が相次いで集まり、幕府側の兵も雲霞のごとく集結した。時頼は各々解散するよう命じた。左衛門尉関政泰(せきまさやす)という者は泰村の妹婿であったが、兵を率いて常陸へ帰る途中、泰村が誅殺されようとしていると聞いて引き返し、再び泰村に加勢した。季光の妻もまた泰村の妹であったが、夜密かに泰村のもとへ来て、「兄上に間もなく難が及びます。事はすでに決しております。私はその詳細を聞き及んでおります。どうか兄上、速やかに事を起こしてください。私の夫が力を尽くします。もしそうでなければ、私が必ず夫を説き伏せて味方させます」と告げた。泰村は迷って決断できずにいた。時頼は使者を送って泰村を諭し、兵を収めさせようとした。さらに平盛時(たいらのもりとき)を遣わして「近ごろ人々の心に疑いと恐れが生じているが、幕府には決してあなたを討とうという議はない。速やかに疑いを解き、これまでの誼を忘れないでほしい」という書状を届けさせ、あわせて誓約の言葉を添えた。盛時もまた口頭で和議の意を伝えた。泰村は喜んでこれに従った(注:『東鑑』)。

これより先、安達景盛は泰村と権勢を争って仲が悪く、泰村の勢威が自分を上回るのを見て、ますます不満を募らせ、しばしば時頼に泰村を除くよう勧めていた。この時、時頼が和議を結んだと聞き、子の義景(よしかげ)、孫の泰盛(やすもり)を呼んで、「泰村は書状を得てますます驕り高ぶるだろう。これは我が一族にとっての災いとなる。今日こそ雌雄を決すべきだ」と言い、急いで兵を発して泰村を攻めた。泰村は驚き慌てながらも兵を出して防戦した。盛時が戻って報告したときには、すでに兵が交戦していた。時頼は「事すでにここに至っては、この勢いを止めることはできない」と言い、弟の時定(ときさだ)に兵を率いて討たせた。季光は兵を率いて幕府方に加わろうとしたところ、妻が鎧の袖を引いて、「若狭殿(泰村)を見捨てて北条氏につくのですか。日頃の言葉を顧みず、ただ勢いのある方につくとは、武士のすることでしょうか」と諫めた。季光はそのまま泰村軍に加わった。時頼はこれを聞き、容易に勝てないことを懸念し、軍に命じて風向きに乗じて火を放たせた。泰村は支えきれず、法華堂に逃げ込んだ。光村は別に八十余騎を率いて永福寺に駐屯していたが、使者を泰村に遣わして「この地は要害の地であり、攻めるにも守るにも都合がよい。どうか兵を率いてこちらへ来て合流されよ」と告げた。泰村は「運が尽き力も窮まった今、たとえ金城鉄壁を頼んだところで何の益があろうか。どうせ死ぬのであれば、亡き将軍の御影の前で死にたい。お前がこちらへ来るがよい」と返答した。光村はなお戦おうとし、強く勧めたが泰村は聞き入れなかった。光村はやむを得ず寺を出たが、途中で二階堂行義(にかいどうゆきよし)、二階堂行方(にかいどうゆきかた)、甲斐前司泰秀(かいのぜんじやすひで、注:姓は不明)らの兵に出くわした。光村は力戦し、敵陣を突破して、ついに法華堂に入ることができた。追手が大挙して押し寄せ、泰村配下の兵は長時間防戦したが、矢が尽き力も尽きた。一族は頼朝の像の前に列座し、法要の読経を行った。光村は気力を奮い立たせ、慨然として「将軍が鎌倉におられた頃、もし禅定殿下(九条道家)の密旨に従い速やかに大事を決行していれば、我が一門は幕政を掌握していたであろう。若狭殿(泰村)がそれを実行しなかったために、身は死し家は滅び、天下の笑いものとなった。悔やんでも悔やみきれぬ」と嘆いた。そして刀を抜いて自らの顔を切り裂き、人に「私の顔はまだ分かるか」と問うて、自害した。光村はかつて摂政道家から密かに頼まれごとをしていたため、このような言葉を発したのである。このとき光村は堂に火をかけて遺骸を焼こうとしたが、泰村は「そんなことをしても意味がなく、ただ不忠の汚名を招くだけだ。してはならぬ」と止めた。泰村は嘆いて、「我が三浦家は幕府に対し代々功績を積んできた。子孫に罪があっても、なお寛大な扱いを受けてしかるべきであろう。まして私自身、大介(だいすけ)以来四代にわたる一族の宗家であり、加えて北条氏の外戚として政務を助け、功はあっても罪はなかった。それなのに今、讒言によって誅殺されようとしている。これも運命というものだろうか。ただ、先祖が事に当たった際、無実の者を殺したことも少なくなかった。これはその報いなのかもしれぬ。北条氏の薄情を恨む筋合いもあるまい」と語り、むせび泣いた。一族二百七十六人、およびその兵士二百余人が、みな自害した。泰村と季光の一族の関わりは広く、連座した者も数多かった(注:『東鑑』。『保暦間記』には安達義景が讒言して泰村を殺したとあるが、本書によって考えると、これは義景の父・景盛の仕業である)。泰村には九人の子があり、長男は景村(かげむら)、次男は景泰(かげやす)、その他の七人の子はまだ幼かったが、みな父と共に死んだ(注:『三浦系図』)。三浦氏が滅んだ後、遠江守盛連(もりつら)の一族だけは北条氏に帰順して生き残った(注:『東鑑』)。