卷之一百六十二 列傳第八十九
承久世傳
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原忠信
¶承久の乱は天下の大変動であり、朝廷の勢威が盛んになるか衰えるかを決した事件であった。そもそも天子が一介の匹夫を治めるのは、名分が正しく道理が通っているのだから、その勢いは狐や兎を制するように容易いはずである。ところが北条義時(ほうじょうよしとき)は兵馬の権を握り、虎狼のごとき威勢を振るった。三人の上皇はことごとく配流の身となり、皇位の廃立さえも義時の意のままとなった。これは天地開闢以来、かつてない禍事であった。その由来をたどれば、朝廷の綱紀がふるわず、土地と軍事の実権を失っていたことにある。これは一朝一夕の事情によるものではないが、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が事の根本を見極めず、軽々しく兵を興したことも、その一因と言わないわけにはいかない。まして当時、朝廷を輔弼する者には時局を救う才がなく、将帥にも敵に立ち向かう器量がなく、ともに謀を図った者はみな臆病でひ弱な輩ばかりであった。禍が重なり乱が急速に至り、一敗地にまみれたのも当然のことである。しかしその中にも、力を尽くした者、危難に臨んで命を投げ出した者、あるいは逆賊の側から離れて朝廷に忠誠を尽くした者、あるいは私情を捨てて公のために尽くした者がいた。その行動の方向は同じではなかったが、朝廷のために力を尽くしたという点では一つである。『書経』に「崑崙山が火に燃えれば、玉も石も共に焼ける」とあるように、彼らは時運に恵まれず非業の死に遭ったが、職務において二心なく尽くした点では変わりはない。それぞれにふさわしい評価を与え、ここにすべてを撰録し、伝としてまとめる。
藤原宗行
¶藤原忠信(ふじわらのただのぶ)は、内大臣信清(のぶきよ)の子である。忠信の叔母は高倉天皇の後宮に入って後鳥羽天皇を生み、忠信の姉妹三人はいずれも後鳥羽・順徳両天皇の後宮に仕えた(注:『尊卑分脈』による)。忠信は若くして高位に昇り、侍従・左近衛少将・右近衛中将を歴任して蔵人頭を兼ね、次第に昇進して権中納言となり、左右衛門督を兼ねた。建保五年、正二位に叙せられ、翌年には権大納言に任じられた(注:『公卿補任』による)。忠信の妹は源実朝(みなもとのさねとも)に嫁ぎ、実朝が右大臣に任じられて大饗を催した際、忠信は尊者としてほかの公卿たちとともに鎌倉(かまくら)へ赴いた。承久の乱では兵を率いて淀(よど)を守ったが(注:『承久記』による。東鑑には「芋洗を守る」とある)、朝廷方の軍は敗れた。北条氏は朝廷方に加担した公卿を捜し求め、忠信を捕らえて六波羅(ろくはら)に送り、続いて鎌倉へ送った。千葉胤綱(ちばたねつな)は忠信を遠江(とおとうみ)の舞沢(まいさわ)まで連行し、殺そうとした。実朝の妻が北条政子(ほうじょうまさこ)に哀願したため、特に赦免された(注:『東鑑』『承久記』による)。忠信は京へ帰り、髪を剃って僧となったが、まもなく義時によって越後(えちご)に流された(注:『公卿補任』による)。かつて後鳥羽上皇は忠信の子に一族の親兼(ちかかね)の子である信成(のぶなり)を養子として継がせており、信成は参議に任じられていた(注:『尊卑分脈』による)。承久の乱では信成が真っ先に謀議に加わり、その家臣河勾家賢(かわわのいえかた)は一族六十余人とともに月ヶ瀬の願文山(がんもんざん)に拠ったが、佐々木信実(ささきのぶざね)に敗れた。家賢は滝口季方(たきぐちのすえかた)の子孫である(注:『東鑑』による)。上皇が隠岐で崩じると、信成は深く悲しみ、髪を剃って僧となった(注:『尊卑分脈』『公卿補任』を参照)。
源有雅
¶藤原宗行(ふじわらのむねゆき)は、左大弁行隆(ゆきたか)の子である。官を重ねて右大弁蔵人頭に至り、参議に任じられた。建保六年、権中納言となった(注:『公卿補任』による)。承久の乱では謀議に加わったかどで捕らえられ、六波羅へ送られる途中で髪を剃り、遠江の菊河(きくがわ)に至った。宿の柱にこう書き記したという。「昔、南陽県の菊水は、その下流を汲む者の寿命を延ばしたという。今、東海道の菊河では、西岸に宿った私が命を落とすことになる。」そして駿河(するが)の藍津原(あいづがはら)に至って殺された(注:『東鑑』『承久記』による)。享年四十八(注:『公卿補任』による。東鑑には四十七とある)。
藤原光親
¶源有雅(みなもとのありまさ)は、参議雅賢(まさかた)の子である。右近衛中将に任じられ蔵人頭を兼ね、参議に昇り、正三位に叙せられて右兵衛督・検非違使別当を兼ねた。建暦二年、権中納言となった(注:『公卿補任』による)。承久の乱では藤原範茂(ふじわらののりしげ)とともに兵を率いて宇治(うじ)を守ったが、朝廷方の軍は敗れ、有雅は捕らえられて六波羅へ送られた。小笠原長清(おがさわらながきよ)が甲斐(かい)の板垣(いたがき)まで連行し、斬ろうとした。有雅は北条政子と親しい間柄であったことを頼み、赦免の報せを待ってから死につきたいと願い出た。しかし長清は聞き入れず斬った。時に年四十六であった(注:年齢は『東鑑』『公卿補任』による)。折しも赦免の報せが届いたが、有雅はすでに斬られた後であり、人々は皆これを憐れんだ(注:『東鑑』『承久記』による)。
藤原範茂
¶藤原光親(ふじわらのみつちか)は、権中納言光雅(みつまさ)の子である。左中弁・右中弁を歴任して蔵人を兼ね、参議に昇って右兵衛督・検非違使別当を兼ねた。建暦元年、権中納言に任じられ、続いて陸奥出羽按察使を兼ねた(注:『公卿補任』による)。光親は学才に優れ、とりわけ格別の待遇を受けていた。後鳥羽上皇が北条氏の討伐を図った際、光親は強く諫めてその不可を説き、意見書を数十通も奉った。しかし上皇はこれを聞き入れなかった。そのため光親はやむを得ず義時追討の詔書を起草し、義時の罪状を訴えた(注:『東鑑』による)。朝廷方の軍が敗れると、光親は捕らえられて六波羅へ送られた。武田信光(たけだのぶみつ)は駿河の加古坂(かこざか)まで連行し、斬った(注:『東鑑』『承久記』による)。光親は死に臨んで僧を呼んで念仏を唱えさせ、従容として死についた(注:『承久記』による)。時に年四十六であった。後に北条泰時(ほうじょうやすとき)は光親の諫言の書を見て、深く悔い惜しんだという(注:『東鑑』『承久記』による)。著書に『心言記』がある(注:『仁和寺書籍目録』による)。
藤原信能
¶藤原範茂(ふじわらののりしげ)は、木工頭範季(のりすえ)の子で、修明門院(しゅめいもんいん)とは同母のきょうだいである。十四歳の時、父の蔭位によって蔵人に補せられ、左近衛中将・蔵人頭を歴任して参議に任じられた(注:『公卿補任』による)。源有雅とともに兵を率いて宇治を守ったが、朝廷方の軍は敗れ、範茂は捕らえられて六波羅へ送られた。北条朝時(ほうじょうともとき)は足柄山(あしがらやま)まで連行し、斬ろうとした。範茂は監視の者にこう約束を求めた。「五体が不完全な者は成仏できないと聞いております。どうか水に沈めて命を終わらせてください。」朝時はこれを許し、ついに水に沈めた(注:『東鑑』『承久記』による)。
藤原朝俊
¶藤原信能(ふじわらののぶよし)は、権中納言能保(よしやす)の子で、左近衛中将・蔵人頭を歴任して参議に任じられた(注:『公卿補任』による)。兵を率いて芋洗渡(いもあらいのわたし)を守ったが、朝廷方の軍は敗れ、信能は捕らえられて六波羅へ送られた。遠山景朝(とおやまかげとも)は美濃(みの)の遠山まで連行し、斬った(注:『東鑑』『承久記』による)。弟の僧尊長(そんちょう)は(注:『尊卑分脈』による)、信能とともに芋洗を守っていたが(注:『東鑑』による)、軍が敗れると十津川(とつかわ)に逃げ隠れた(注:『承久記』による)。後に捕らえられ、自殺した(注:『尊卑分脈』による)。
三浦胤義
¶藤原朝俊(ふじわらのともとし)は、右衛門佐であった。官軍が宇治へ向かう際、朝俊は上皇に拝辞して奏上した。「官軍が勝利すれば、臣は傷を負いつつも生きて戻り復命いたします。もし賊の勢いが猖獗を極めるようであれば、死をもって国に報います。」(注:『承久記』による)。軍が敗れると、八田知尚(はったともひさ)・佐々木氏綱(ささきうじつな)らが朝俊を大将として推し戴き、川岸で戦って皆殲滅された。朝俊は敵陣に赴いて戦死した(注:『東鑑』『承久記』を参照)。
大江親廣
¶三浦胤義(みうらたねよし)は、三浦義澄(みうらよしずみ)の子である(注:『平氏系図』による)。平九郎(へいくろう)と称し、左衛門尉となって検非違使に任じられた(注:『承久記』『三浦系図』による)。かつて京都(きょうと)で宿直の番にあたっていたが、交代の時期が来ても任地に帰らなかった。この時、後鳥羽上皇は義時討伐を図り、事を成し遂げられる将帥を得ようとしていたが、胤義が久しく京にとどまっているのを不審に思い、藤原秀康(ふじわらのひでやす)に命じてその事情を探らせた。秀康は夜ひそかに胤義を招き、酒を用意してその真意を尋ねた。胤義はこう答えた。「私の妻は、亡き右大将(源頼朝)の近臣であった一品坊昌寛(いっぽんぼうしょうかん)の娘です(注:「昌寛」を本書は「意法坊生観」とするが、これは音の誤りであり、今は『東鑑』『尊卑分脈』によって訂正した)。妻は初め亡き左衛門督殿(源頼家)にお仕えして男子を一人生みましたが、その子は義時に殺されました。妻はその無念を深く悲しみ、常々『義時に顔を合わせたくない』と申しております。私はその心情をよく分かっており、まことに哀れに思います。それゆえ帰任する気になれないのです。」秀康はその事情がもっともだと察し、上皇の意向を少しずつ明かした。胤義は奮い立ってこう言った。「天子が逆臣を誅そうとされるからには、天下の臣民の中に誰があえて背く者がありましょうか。それに私の兄三浦義村(みうらのよしむら)は人並み外れた胆力の持ち主です。事が成った暁には天下総追捕使の地位を与えると約束すれば、勇んで命を奉じるでしょう。私からも私的に書状を送って勧めましょう。」秀康はこれを上皇に奏上し、上皇は大いに喜んで兵を集める策を決した。上皇は胤義に使者を遣わして義村に書状を届けさせ、招かせるとともに、京都守護の藤原光季(ふじわらのみつすえ)と大江親広(おおえのちかひろ)を召そうとした。胤義は「親広は召せばすぐに応じましょう。しかし光季は義時の妻の兄ですから(注:「妻の兄」は『東鑑』による)、必ず参らないでしょう。召し出して、来ない者を誅するのがよいでしょう」と言った。上皇はこれに従った。果たして光季は勅命を奉じなかったので、胤義は秀康とともに兵を率いてこれを討ち殺した。上皇は大いに喜び、恩賞を与えようとした。胤義は「小敵を一人滅ぼしたくらいで、どうして恩賞など受けられましょうか。賊が平定されるのを待ってからにいたします」と言い、上皇はそこで恩賞を取りやめた。まもなく義村は胤義の使者を追い返し、その書状を義時に見せた。義時の軍が京都に攻め入ると、官軍は尾張川(おわりがわ)でこれを迎え撃った。胤義は秀康とともに一万の兵を率いて大豆戸(まめど)を守っていたが、大井戸(おおいど)が敗れたと聞いて援軍に駆けつけようとした。秀康は恐れてこう言った。「東国の軍が我々の背後に回り込めば、前後から敵を受けることになり、危険な道です。我々はすでに朝廷の作戦を奉じている以上、尾張川で不利になれば宇治・瀬田(せた)に退いて守るべきであり、勅命に背くわけにはいきません。」そして兵を引き上げた。胤義は孤軍のまま進むことができず、彼もまた兵を引いて戻った。朝廷は再び諸将に兵を分けて派遣する評議をし、胤義はまた秀康らとともに食渡(はんだのわたし)へ赴いた。しかし宇治・瀬田で官軍は大敗し、胤義らも同様に崩れて帰った。戦況を上皇に奏上しようとしたが、宮門は閉ざされて入ることができなかった(注:『東鑑』には「胤義らは『東国の軍が雲霞のごとく集まり、道路は塞がれております。臣らは自ら死を逃れる術がないと覚悟しております』と奏上した」とあるが、宮門が閉ざされた一件は記されていない)。胤義は憤懣やる方なく、敵陣に赴いて死のうとした。道すがら東寺(とうじ)に出たところ、一族の佐原氏(さはらし)の源氏方の兵と出会った。胤義はわざと避けて戦わなかったが、佐原景吉(さはらかげよし)は配下を率いて攻めかかってきた。胤義は叱ってこう言った。「お前はなぜ同族のよしみを忘れるのか。」そして子の太郎兵衛尉某(たろうひょうえのじょう)と二郎兵衛尉胤連(じろうひょうえのじょうたねつら)らに命じてこれを撃たせた。景吉は敗走した。安房(あわ)の人、安西金鞠(あんざいかねまり)の兵が攻めてきた。胤義は決死の覚悟で戦い、数合渡り合ったが、胤連は高井時義(たかいときよし)と刺し違えて死んだ。胤義の兵はほとんど死に絶え、ただ太郎兵衛尉とともに東山(ひがしやま)へ逃れた。胤義の妻子は太秦(うずまさ)にいたので、そこへ行って会おうとした。木島(このしま)まで来たところ、敵兵が街道を待ち構えていた。父子は祠の茂みに身を潜め、日が暮れてから行こうとした。かつての部下で今は僧となっていた者が、たまたま足跡をたどってやって来て、こう告げた。「天野政景(あまのまさかげ)の兵が前後に満ちており、逃れることはできますまい。ただ辱めを受けるだけでございましょう。」太郎兵衛尉はこれを聞いて、先に自害した。胤義は僧にこう言った。「お前は私たち父子の首を持ち去り、妻に見せてくれ。その後、駿河守(するがのかみ、三浦義村)のもとへ送り、こう伝えてくれ。『親族はことごとく滅び、兄上お一人が生き残られた。さぞかし心地よいことでございましょう。』」そして自害した。僧はその言葉の通りにし、義村はその首を北条泰時のもとへ届けた。胤義の子で東国にいた者は五人おり、いずれも幼く、祖母の矢部尼(やべのあま)の家で育てられていた。義時は胤義の首謀の罪により、義村に命じてことごとく殺させた。矢部尼は豊王丸(とよおうまる)をかくまって出さず、そのため一人だけ助かり、残りの子は皆斬られた(注:『承久記』による)。
藤原秀康
¶大江親広(おおえのちかひろ)は、大膳大夫広元(ひろもと)の子である(注:『大江系図』による)。右近衛将監・民部少輔に任じられ、従五位下に叙せられた。遠江守を歴任し、武蔵守に転じた。承久元年、源実朝が薨じると、親広は追悼の念やまず髪を剃った(注:『東鑑』による)。法名を蓮阿(れんあ)といった(注:『大江系図』による)。検非違使藤原光季とともに京畿守護となった(注:『東鑑』による)。上皇が義時討伐を図った際、城南寺(じょうなんじ)の流鏑馬にかこつけてまず親広を召した。親広はその意図を悟らず、五十余騎を従えてやって来た。上皇は自ら問うた。「そなたは義時の側につくのか、それとも朝廷につくのか。速やかに去就を決めよ。」親広は窮して答えた。「朝廷のために力を尽くしとうございます。」そこでその場で誓紙を書かせた(注:『承久記』による)。北条泰時らが宇治・瀬田に迫ると、親広は藤原秀康・下総守中条盛興(なかじょうもりおき)とともに食渡でこれを防いだが、兵は敗れて逃げ去った(注:『東鑑』『承久記』による)。
山田重忠
¶藤原秀康は、大和守秀宗(ひでむね)の子である。秀宗はもと平氏を本姓とし、和田(わだ)と称していたが、母方の祖父藤原秀忠(ひでただ)の養子となったため、その姓を名乗った。秀康は左兵衛・左衛門尉・検非違使を務め、能登守に任じられて西面の武士となった(注:『尊卑分脈』による)。後鳥羽上皇が義時討伐を図った際、秀康に命じて三浦胤義を説き勧めさせた。胤義がその命に従ったことで、上皇の意志は固まった。北条泰時が京都に攻め入ると、官軍は尾張川でこれを迎え撃った。川には九つの渡し場があり、官軍は九つの軍に分かれて東山道・東海道の二方面を防いだ。秀康は胤義・中条盛綱(なかじょうもりつな)らとともに大豆戸へ赴き、東海道から来る賊軍にあたった。賊が大井戸を破ると、胤義・盛綱は救援に赴こうとしたが、秀康は聞き入れず、軍を捨てて京へ帰った。諸将は憤激したが、上皇の側近であるため、その言葉に背くことができず、相次いで逃げ、官軍は悉く潰走した。泰時らの軍が畿内に迫ると、朝廷は宇治・瀬田で防ごうと評議した。秀康はまた胤義・盛綱とともに一万余騎を率いて食渡を守ったが、またも敗れた(注:『承久記』による)。弟の秀澄(ひでずみ)とともに河内(かわち)に逃げ隠れたが(注:『尊卑分脈』には「秀澄は洲股(すのまた)で死んだ」とある)、後に発覚して捜索を受け(注:『東鑑』による)、秀康は自殺した。秀康の子秀信(ひでのぶ)と甥の秀範(ひでのり)は、いずれも従軍して戦死した(注:『尊卑分脈』による)。
清水賴高
¶山田重忠(やまだしげただ)は、鎮守府将軍源満政(みなもとのみつまさ)の後裔である。代々美濃に住んだ。高祖重実(しげざね)は鳥羽上皇に仕え、弟の重時(しげとき)や源光信(みなもとのみつのぶ)らとともに四天王と称された。その子重遠(しげとお)は源義家(みなもとのよしいえ)の娘婿となり、祖父重宗(しげむね)の養子となった。重宗が義家との戦いに敗れて死ぬと、尾張へ移った。その子重直(しげなお)は山田先生(やまだせんじょう)と号し、重満(しげみつ)を生んだ。重満は重忠の父で、泉冠者(いずみのかじゃ)と号した(注:『尊卑分脈』による)。養和元年、源行家(みなもとのゆきいえ)に従い、平重衡(たいらのしげひら)らと洲股川(すのまたがわ)で戦った際、別に七百の兵を率いて夜に川を渡って敵を襲ったが、勝てずに戦死した(注:『源平盛衰記』による。『尊卑分脈』『東鑑』を参照)。重忠は二郎(じろう)と称した(注:『尊卑分脈』による)。勇武で才幹があり、人に対して寛容であったため、当時の人々から称賛された(注:『沙石集』による)。承久の乱では、重忠は藤原秀澄とともに洲股を守っていたが(注:『東鑑』『承久記』による)、武田信光らが大井戸を破ると、諸将は形勢を見て崩れ去った。重忠だけは慷慨してこう言った。「詔を奉じて賊を討つ身でありながら、一矢も放たずに退くとは。朝廷に問われたら、どう申し開きができようか。」そして九十余騎を率いて河岸に踏みとどまり、強弓を引いて矢を浴びせかけた。敵兵の多くは矢を受けて川に落ち、進むことができなかった。北条方の泰時は兵を指揮して奮戦した。大軍が続々と到着すると、重忠の軍は敗れ、重忠は単騎で退却する途中、誤って堀に落ちた。一騎の敵兵が追いついてきて、数合斬り結んだが、味方の兵が駆けつけて救い出したため脱出できた。美濃の小関(こせき)まで至ると、旗印を木の梢に結び付けて疑兵とし、立ち去った。官軍は宇治・瀬田を守っていた。重忠はさらに延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵二千余騎を率いて瀬田へ赴き、橋を落として力戦した。北条時房(ほうじょうときふさ)は軍をまとめて退いた。しかし泰時が宇治に攻め入ると、朝廷方の軍は敗れた。重忠は単独では支えきれず、他の諸将とともに兵を引いて帰った。上皇は門番に命じて重忠を入れさせず、「そなたの行きたいところへ行くがよい」と言わせた。重忠は門を叩いて大声で罵り、「ああ、愚かな主君に誤られたものだ」と言い、嵯峨山(さがやま)へ馳せ入った。敵兵が迫ると、子の伊豆守重継(しげつぐ)と僧伊予坊(いよぼう)がこれを防いだ。重忠はそこで自殺し、重継は矢を受けて捕らえられた(注:『承久記』による)。重継の子兼継(かねつぐ)は十四歳で越後に流された。一族の重朝(しげとも)・重慶(しげよし)らは皆死んだ。木田重国(きだしげくに)・小島重俊(こじましげとし、美濃の人)・足助重成(あすけしげなり、参河の人)もまた皆重忠の一族であり、重国は子の重知(しげとも)、甥の重季(しげすえ)とともに大豆戸で死んだ。重俊もまた弟の重茂(しげもち)・重継(前出とは別人)・重通(しげみち)とともに死に、重成もまた死んだ(注:『尊卑分脈』による。重俊の死については印本による)。
八田知尚
¶清水頼高(しみずよりたか)は、源頼光(みなもとのよりみつ)の子孫である。代々美濃に住んだ。父の頼兼(よりかね)は清水五郎(しみずごろう)と称した。頼高は新蔵人(しんくろうど)と称した。承久の乱では兵を率いて大井戸を守ったが、たまたま一族の栗野国光(くりのくにみつ)らが敵方にいたため、頼高はこれと戦い、軍は敗れて頼高は戦死した(注:『尊卑分脈』による)。
佐佐木經高
¶八田知尚(はったともひさ)は、左衛門尉知家(ともいえ)の子である(注:『尊卑分脈』による)。筑後六郎(ちくごろくろう)と称した。和田義盛(わだよしもり)の乱では、足利義氏(あしかがよしうじ)とともにこれを撃破した(注:『東鑑』による)。後鳥羽上皇に仕えて左衛門尉に任じられ、西面の武士となった。承久の変では、上皇は知尚に兵を率いて大井戸を守らせ、みずから焼き入れした刀を与えて激励した。軍が敗れると、知尚は武田信隆(たけだのぶたか)に追いつかれた。知尚は引き返して戦い、賜った刀を抜いて信隆の乗る馬の首を斬り落とし、逃れて京へ帰り、再び出て宇治橋を守った(注:『承久記』による)。藤原朝俊とともに戦死した(注:『東鑑』による)。
佐佐木廣綱
¶佐々木経高(ささきつねたか)は、二郎(じろう)と称した。秀義(ひでよし)の子である。父が平氏に追われた際、相模(さがみ)の波多野(はたの)に身を寄せた(注:『源平盛衰記』による)。渋谷重国(しぶやしげくに)は娘を経高に嫁がせ、我が子のように可愛がった(注:『長門本平家物語』による)。源頼朝(みなもとのよりとも)が平兼隆(たいらのかねたか)を討とうとした時、経高もこれに参じようとしたが、重国は固くこれを止めた。経高は言った。「義のために赴くと決意した以上、私情による恩義を顧みてなどいられません。舅殿がお怒りになるならば、妻子の命はあなた様にお任せいたします。もし後日、佐殿(源頼朝)が志を遂げられれば、私の妻子を誰が虜にできましょうか。」(注:『東鑑』『長門本平家物語』を参照)。ついに兄の定綱(さだつな)らとともに伊豆(いず)に至り、北条時政(ほうじょうときまさ)に従って兼隆を攻めた。時政は経高らを分けて派遣し、兼隆の一党堤信遠(つつみのぶとお)を討たせた。定綱らは屋敷の裏手に回り込み、経高はまっすぐに進んで前庭に至り矢を放った。当時の人々は、これを頼朝が平氏を討った最初の一矢であると称えた。信遠が刀を振るって飛び出すと、経高は激しく渡り合い、身に飛んできた矢を受けた。定綱・高綱(たかつな)がその矢を抜き、ついに信遠を斬った。石橋山(いしばしやま)の戦いで軍が敗れると、定綱らは重国の家に身を投じた。経高は以前の言葉を思い、行かなかった。重国は人を遣わして経高を訪ねさせた。大庭景親(おおばかげちか)が経高の妻子を虜にしようとしたが、重国は言葉を尽くしてこれを退け、妻子は難を免れた。平氏が滅ぶと、経高は中務丞(なかつかさのじょう)に補せられ、淡路(あわじ)・阿波(あわ)・土佐(とさ)の守護となって京都を守衛した。源頼家(みなもとのよりいえ)の代に、経高は法に触れることがあったが、旧功のゆえに罪を問われなかった。正治二年、大和(やまと)の賊某が京都を犯そうとしていると告げる者があった。経高はただちに淡路・阿波・土佐三国の兵を徴発した。京都はこのため騒然となった。後鳥羽上皇は、経高が国司をないがしろにし、みだりに兵を興して都を騒がせたことに怒り、幕府に命じて取り調べさせ、守護職を剥奪して所領を没収した。経高は髪を剃り、名を経蓮(きょうれん)と改めた。翌年、子の高重(たかしげ)を遣わして幕府に無実を訴えさせ、こう言わせた。「去年七月、大和の賊が京都を犯そうと謀っていると度々告げる者がありました。そこで三国の兵を集め、ついに賊の円識法師(えんしきほうし)を捕らえました。ところが朝廷は讒言する者の言葉を用い、かえって咎めを受けることになりました。経高は自ら潔白を明かすすべがなく、この冤罪を晴らしていただきたく存じます。」頼家は改めて評議させ、その罪を赦した。高重は礼を述べて帰った。北条時政・大江広元らは馬を贈って労をねぎらった。経高はほどなく自ら参上して恩に謝し、みずから書写した法華経六部をもって祭文を作り、頼朝の影堂に献じたが、その言葉はまことに痛切であった。官職を剥奪され、施しにも困窮していたのである。頼朝の妻北条氏(政子)はこれを聞いて憐れみ、頼家に命じて経高の旧領一か所を回復させた。経高は自らの功労を語り、感慨に堪えず声を上げて涙を流した。和田義盛以下の古参の武将たちも、これを聞いて涙を流した。北条泰時は父義時に言った。「経蓮の旧領は功労による恩賞にほかなりません。すでにその冤罪も明らかになったのですから、すべて元通りに戻すべきです。」義時は答えた。「代々の勇士に所領を与えれば、後にきっと異心を抱くようになる。」義時はこれを聞き入れなかった。承久の乱では、経高は果たして詔を奉じて軍事を指図した。官軍が敗れると、鷲尾(わしのお)に逃げ隠れた。泰時は使者を遣わしてこう言わせた。「死んではならぬ。私が幕府に願い出て、そなたの命を全うさせよう。」経高は「これは自殺を勧める言葉であろう」と言い、刀を引いて自らの腹を切った。まだ息のあるうちに、使者は経高を乗せて六波羅へ連れ帰った。泰時はこれを哀れみ惜しみ、事の真相を語って聞かせた。経高は目を見開いて激しく叫んだが、一言も発することなく息絶えた。子の高重は左衛門少尉となり、検非違使を務めた。承久の乱では三浦胤義とともに伊賀光季(藤原光季)を攻めて殺した。また胤義らとともに瀬田を守ったが、北条時房に打ち破られた。関寺(せきでら)にとどまって防戦したが、兵は敗れて戦死した(注:『東鑑』による)。
鏡久綱
¶佐々木広綱(ささきひろつな)は、左衛門尉定綱の子である。弟の定重(さだしげ)の事件に連座して隠岐(おき)に流されたが、やがて赦されて帰った(注:『東鑑』『佐々木系図』による)。定綱が没すると、広綱はその跡を継いで近江(おうみ)守護となり、京都に入って警衛し、左衛門尉・検非違使に任じられた。後鳥羽上皇に選ばれて西面の武士となった(注:『東鑑』による)。建保六年、上皇が日吉社(ひよしのやしろ)に行幸した際、専当童(せんとうわらわ)を傷つける者があり、広綱がその犯人を射殺した。上皇はこれを賞して従五位下に叙し、将軍源実朝もこれを聞いて近江の松伏(まつぶし)・別府(べっぷ)の二邑を与えて賞した(注:『東鑑』『佐々木系図』による。専当については『東鑑』による)。承久三年、山城守(やましろのかみ)に任じられた(注:『佐々木系図』による)。北条義時への反乱に際しては、藤原秀康・中条盛綱らとともに大豆戸で北条泰時を防いだが、敗走した(注:『東鑑』による)。泰時が京都に迫ると、源有雅とともに宇治を守ったが、また敗れて捕らえられ、京都で斬られた(注:『東鑑』『承久記』による)。子の惟綱(これつな)・為綱(ためつな)は皆死んだ(注:印本『尊卑分脈』による)。末子の勢多伽(せたか)は十四歳で、容姿美しく、道助法親王(どうじょほっしんのう)に仕えて仁和寺(にんなじ)にいた。広綱が死ぬと、法親王は勢多伽を六波羅へ送り、使者を遣わして死を免れるよう乞うた。母もこれに従って哀願したので、泰時は憐れんで赦した。ところが叔父の信綱(のぶつな)がちょうどそこに来合わせ、信綱は広綱と仲が悪かったため、強く争ってこれを不可とした。泰時はついに勢多伽を殺した(注:『東鑑』『承久記』を参照)。
宮崎定範
¶鏡久綱(かがみひさつな)は、佐々木定重の子である(注:『佐々木系図』による)。右衛門尉となり、藤原秀康に属して大豆戸へ赴いた。秀康は大井戸が敗れたと聞くと、戦わずに逃げた。久綱は旗に自分の姓名を書き記し、毛利季光(もうりすえみつ)と戦ったが、多勢に無勢でかなわず、嘆いてこう言った。「臆病な秀康とともにあったばかりに、力を発揮して敵を打ち払うことができなかった。これも運命であろう。」そしてついに自殺した(注:『東鑑』『尊卑分脈』による)。
仁科盛遠
¶宮崎定範(みやざきさだのり)は(注:『承久記』は「親式」に作るが、今は『東鑑』に従う)、左衛門尉に任じられ、官軍を率いて北陸道を守った(注:『東鑑』『承久記』による)。市振(いちぶり)の浄土という所に陣を敷き、蒲原(かんばら)の険要を押さえ、木を伐って道を塞ぎ、弩(いしゆみ)を山上に並べて賊を待ち構えた。しかし北条朝時に敗れた。再び仁科盛遠(にしなもりとお)とともに礪波山(となみやま)を守ったが、また敗走した(注:『承久記』による)。その後の消息は分からない。
河野通信
¶仁科盛遠は(注:『承久記』『仁科系図』による。『東鑑』は「盛朝」に作る)、鎮守府将軍平貞盛(たいらのさだもり)の子孫で、代々信濃(しなの)に住んだ(注:『仁科系図』による)。かつて前々からの願かけで子を連れて熊野(くまの)に参詣したところ、たまたま後鳥羽上皇も熊野に来ており、道すがら盛遠の清らかな容姿を見て気に入り、西面の武士に命じた。盛遠は大いに喜び、上皇に従って京都で侍衛を務めた。北条義時は怒ってこう言った。「あの者はすでに関東の恩を受けている身でありながら、なぜ勝手に上皇の御所に近づくのか。」そして盛遠の所領を没収した。上皇は勅命でこれを返還させ、また寵愛する舞女亀菊(かめぎく)の所領のことで義時に勅を下して訴えたが、義時は詔を奉じなかった。上皇は久しく関東への憤りを蓄えており、ここに至って討伐の議がついに決した(注:『承久記』による)。盛遠は宮崎定範・槽谷有久(ゆするぎありひさ)とともに北陸道を守った(注:『東鑑』『承久記』による)。盛遠は礪波山に陣取り、有久は志雄(しお)に陣取って、加賀(かが)・越中(えっちゅう)の豪族林(はやし)・富樫(とがし)・野尻(のじり)らを率い、北条朝時と戦ったが、兵は敗れた(注:『承久記』による)。盛遠は戦死した(注:『仁科系図』による)。
大內惟信
¶河野通信(こうのみちのぶ)は、四郎(しろう)と称し、姓は越智(おち)で、伊予(いよ)の人である。父は通清(みちきよ)という。曾祖父の親経(ちかつね)は新大夫(しんだいふ)と称した。その先祖代々本国の国務を司り、名家となった。親経は親清(ちかきよ)を生み、親清は本国の権介(ごんのすけ)となった。親清には子がなく、三島神(みしまのかみ)に祈願して通清を得た(注:『河野系図』『予章記』による)。通清は成長すると身の丈八尺、姿かたちも常人と異なり、武芸に最も優れ、当代に名を馳せた。保元・平治の乱では兵を出して源為義(みなもとのためよし)父子を助けた。通清は通信を生み、通信は勇壮で策略に富んでいた。源頼朝が伊豆で挙兵すると、通信は父とともに遠く呼応し、たびたび平清盛(たいらのきよもり)の軍を破った。また温泉郡(ゆのぐん)で戦って敗れ(注:『予章記』による)、高直城(たかなおじょう)に立てこもった。敵はさらに備後(びんご)の人額田西寂(ぬかたのさいじゃく)の兵を合わせて城を包囲し、城兵の中に敵に寝返る者が出たため、通清はついに敗死した。通信は安芸(あき)に逃れ、伯父の沼田次郎(ぬたじろう)に兵を求めた(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』は「奴田太郎」に作る)。兵船三十余隻を率いて備後へ赴き、漁を装って西寂の様子を探った。西寂はちょうど遊女を乗せて宴を張っていたところ、通信は死を決した兵百余人を率いて進み、西寂を生け捕りにして帰り、殺して父の墓に捧げた(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。『予章記』を参照)。寿永三年、平宗盛(たいらのむねもり)は平通盛(たいらのみちもり)・平教経(たいらののりつね)を遣わして攻めさせた。通信はこれを防いだが不利となり、また沼田氏のもとへ逃れ、兵を合わせて固く守った。一昼夜戦い、沼田氏は力尽きて降伏したが、通信は郎党六人とともに逃げた。敵兵が追撃し、五人までが矢を受けて死に、わずかに一人残ったが、敵と組み合って倒れた。通信はこれを斬り、部下を助けて立ち去った。備前(びぜん)に至り、緒方惟能(おがたこれよし)・臼杵維高(うすきこれたか)らとともに今木城(いまきじょう)に拠った。平教経が攻めてきて、また敗れて伊予へ帰った。平宗盛が安徳天皇を奉じて屋島(やしま)に至ると、使者を遣わして通信を招いたが、通信は応じなかった。宗盛はさらに田口成直(たぐちなりなお)を遣わして攻めさせ、通信は敗走した。折しも頼朝が弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を遣わして到着したので、通信は兵を率いて彼らに属し、従って宗盛を討った(注:『源平盛衰記』『平家物語』を参照)。事が平定されると、伊予へ帰った。頼朝は伊予の国務を二分し、道前(どうぜん)を佐々木盛綱(ささきもりつな)に、道後(どうご)を通信に授けた(注:『河野文書』『予章記』による)。その地は鎌倉から遠く隔たっており、毎年出仕するのは大変な労苦であったため、頼朝は通信の子か近親の一人を代わりに出仕させるよう命じ、特別に配慮した。通信は後に鎌倉に移り住み、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)討伐に従って陸奥(むつ)で戦功を挙げた。頼朝は陸奥の三迫(さんのはさま)・久米(くめ)の二邑を与えた。梶原景時(かじわらのかげとき)の讒言に遭い、道後の国務を奪われたが、景時が滅びるとまもなく再び信用された。かつて通信の先祖守興(もりおき)は酒を大変好み、飲食にはいつも陶器を用い、子孫もこれにならった(注:『予章記』による)。この役に際しても、通信は陶器を積んで従軍し、世間はこれを話の種にしたという。源頼家が家督を継ぐと、通信を伊予へ帰らせ、旧功を深く称えた。出発にあたり、頼家は面と向かってこう許した。「国中の事は大小を問わず、そなたの裁量で処理してよい。これまで通り一族を統率せよ。」また、その地にいる家人三十二名を通信に付属させ、その指揮に従わせた(注:『東鑑』『予章記』による)。源実朝はさらに新居(にい)・西条(さいじょう)を加増し、ついに守護の職を授けた。通信は後に髪を剃り、法名を観光(かんこう)といった(注:『予章記』による。本書は剃髪を陸奥流罪の時のこととするが、今は『東鑑』『承久記』に従う)。承久の乱では、通信は五百余人を率いて朝廷方に馳せ参じた(注:『東鑑』『承久記』による。兵数は『承久記』による。『予章記』には次のようにある。「通信は北条時政の娘を妻としており、承久年間、ともに鎌倉に住んでいた。妻は通信に『あなたが位望を得られたのは、私の家と縁組みしたおかげです』と言った。通信は恥じて怒り、その夜のうちに京都へ出奔し、朝廷への出仕を願い出た。時に後鳥羽天皇は義時討伐の志を抱いており、通信を得て大いに喜び、宮女を賜って通信の子通政に嫁がせ、寵愛はことのほか厚かった。」これは他の書には見えないので、今は採らない)。義時が兵を遣わして京都を攻めると、通信は子の通政(みちまさ)とともに広瀬(ひろせ)に陣取ってこれを防いだ(注:『承久記』による。通政については『河野系図』による)。官軍は敗れ、義時は通信を陸奥の平泉(ひらいずみ)に流した。貞応二年、流罪の地で没した。享年六十八(注:『予章記』による)。
¶子は通俊(みちとし)・通政・通久(みちひさ)・通広(みちひろ)・通康(みちやす)である。通政は新大夫と称し、上皇の西面の武士となったが、父の一件に連座して殺された。通未(みちみ、八郎と称した)もまた父の一件に連座して信濃の伴野(とものの)に流された(注:『河野系図』による)。通久は九郎左衛門(くろうざえもん)と称し、北条義時に属して兵を率い、宇治で官軍を攻め、その功によって阿波の富田邑(とみたのむら)を領した(注:『予章記』『河野系図』による)。通久の孫通有(みちあり)は驍勇で並外れた力があり、対馬守(つしまのかみ)に任じられた。弘安(こうあん)年間、蒙古が筑前(ちくぜん)に来襲すると、通有は兵を率いて防いだ。数十合戦い、ことごとく撃破した。敵将一人を捕虜にし、首を斬って朝廷に献じた。帝は詔を下してこれを褒め、いくつもの所領を賜った(注:『八幡愚童訓』には、これを六郎通宗(みちむね)の事績とする)。通有の子通盛(みちもり)は初め通治(みちはる)といい(注:『予章記』による)、九郎左衛門と称して北条高時(ほうじょうたかとき)に属した。元弘(げんこう)の乱では六波羅に赴いて居た。赤松則村(あかまつのりむら)が攻めてくると、通盛は驍勇をもってよく戦った。光厳院(こうごんいん)はその功を賞して対馬守に任じた(注:『太平記』による)。後に足利尊氏(あしかがたかうじ)に降り、伊予守護に任じられた。その孫通堯(みちたか)が跡を継いで守護となった。正平(しょうへい)年間、細川頼之(ほそかわよりゆき)に攻められ、筑紫(つくし)へ逃れて征西将軍懐良親王(かねよししんのう)に降り、刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)に任じられて通直(みちなお)の名を賜った。菊池武光(きくちたけみつ)と力を合わせて敵を防ぎ、ついに頼之を破って伊予を回復した。しかし後にまた頼之に攻められ、戦いに敗れて自殺した。足利義満(あしかがよしみつ)はこれを哀れみ、守護職をその子亀王(かめおう)に授け、通義(みちよし)と名付けた。頼之はさらに度々攻めて窮地に追い込んだので、義満は頼之に命じて兵を解かせ、両者を親子の約とした(注:『予章記』による)。
¶大内惟信(おおうちこれのぶ)は、信濃の人である。修理大夫惟義(これよし)の子で、帯刀長(たてわきのおさ)と称し、左衛門尉に任じられて検非違使を務めた(注:『尊卑分脈』による)。元久年間、北条義時が惟信の叔父朝雅(ともまさ)を京都で殺すと、惟信がその跡を継いで伊賀(いが)・伊勢(いせ)の守護に補せられた。上皇が藤原光季を討った際、惟信は諸将とともに官兵を率いてこれを誅した。北条泰時が京都に攻め入ると、惟信は糟谷久季(かすやひさすえ)らとともに二千余騎を率いて大井戸を守った(注:『東鑑』による。兵数は『承久記』による)。武田信光が川の流れを断ち切って一直線に進み、その勢いは非常に鋭かった。官軍は不利となり、惟信は敗走した(注:『東鑑』『承久記』による)。比叡山(ひえいざん)に逃げ隠れて僧となり、さらに名を改めた。寛喜二年、発覚して捕らえられ、流罪に処せられた(注:『明月記』による。流罪については『竹内系図』による)。子の惟時(これとき)は従五位下木工助(もくのすけ)であった(注:『尊卑分脈』による)。子孫は竹内(たけのうち)と称した(注:『竹内系図』『諸家伝』による)。