卷之一百七十一 列傳第九十八

菊池武時、菊池武重、菊池武敏、菊池武光ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字
この巻の目次6
  1. 菊池武時
  2. 菊池武重
  3. 菊池武敏
  4. 菊池武光
  5. 結城宗廣
  6. 結城親光

菊池武時

菊池武時(きくちたけとき)は、通称を二郎といい、肥後国の人である。その先祖は中納言藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に出る。隆家の孫の則隆(のりたか)は太宰監となり、延久二年に肥後に赴き菊池郡に居を構え、子孫はそのまま家を成した。代々著姓として知られた。武時の六世祖にあたる能隆(よしたか)は、承久の乱に際して勅命を奉じて勤王した。祖父の武房(たけふさ)は文永・弘安の間、蒙古襲来の際に賊を撃って功があった。(注:菊池系図による。また菊池武朝の申状も参照した。系図によれば、隆家は政則を生み、政則は成長して勇武の人となった。隆家が太宰権帥となった際、これに従って赴任した。寛仁三年、刀伊の賊が西方の辺境を犯した際、政則はこれを防いで功があった。朝廷は九州の将士に勅して政則の指揮に従わせ、錦の御旗と天皇御製の歌を賜ってこれを褒めた。この政則が則隆の父である。ただし『小右記』『朝野群載』を調べると、刀伊の賊を防いだ者の名は詳しく載っているが、政則の名は見えない。また『尊卑分脈』や武朝の申状にも政則の名は載っていない。そのためこの説は採らない。)父の隆盛(たかもり)は時隆(ときたか)と武時を生んだ。時隆は叔父の武本(たけもと)と土地を争い、鎌倉に訴え出た。北条氏は裁定して土地を時隆に帰属させた。武本はこれを恨み、ついに時隆と刺し違えて共に死んだ。武時はそのあとを継いだ。(注:系図による。)後に髪を剃り、寂阿(じゃくあ)と号した。(注:系図、武朝の申状、『太平記』による。)

元弘三年、後醍醐天皇が船上山に行幸された。武時は少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)と謀を通じて勤王を企て、ひそかに行在所へ奏上した。天皇はこれを嘉して錦の御旗を賜い、その忠義を励まされた。鎮西探題の北条英時(ほうじょうひでとき)は博多にあってこの謀を聞き、武時を召し出した。武時は事が漏れたことを悟り、少弐貞経・大友貞宗に使いを送って、共に兵を出して力を合わせるよう告げさせた。貞宗は様子見をして返答を渋り、貞経もまた朝廷の軍がたびたび京で敗れたと聞いて疑い恐れ、ついに武時の使者を斬ってその首を英時に送った。武時は悔しさと怒りのあまり、「小人どもに出し抜かれたことが恨めしい。今こそ我が兵を出す、どうしてお前たちの手を借りようか」と言い、ただちに家兵百五十人を率いて出陣した。櫛田神社(くしだじんじゃ)の前を通りかかったとき、馬が足踏みして進まなかった。武時は「私は戦に赴くのだ、神がどうして騎馬で通ることを咎めようか」と罵り、二本の鏑矢(かぶらや)を取って続けざまに社殿の扉に射込んだ。すると馬はもとのように歩き出した。後の人が社中で矢に当たって死んだ大蛇を見つけたという。(注:天正本『太平記』には、武時が櫛田神社の前を通る際、蘇の社の下を経て、矢を一本取り神に誓いの歌を捧げ、必死の覚悟を誓ったとある。話が重複するようであり、他の諸本には載っていないため、ここでは採らない。)武時は進んで北条英時を攻め、兵はみな死を軽んじて鋭く戦った。英時は追い詰められ、自害しようとした。そこへ少弐貞経・大友貞宗が数千の兵を率いて助けに駆けつけた。武時は勝てないと見て、兵五十を分けて長男の武重(たけしげ)に付け、戒めて言った。「私は今、大義のために命を捧げる、それは本分である。お前は急ぎ国へ帰り、城を固め兵を集めて、父の仇を討て。」武重は共に死ぬことを願い出たが許されず、涙を振るって去った。武時はそのまま残りの兵を率い、陣に突入して討ち死にした。(注:『太平記』による。)時に四十二歳であった。(注:系図による。)

天皇は京へ還幸されると諸臣の功を記録された。新田(にった)・楠(くすのき)・名和(なわ)らはみな席に連なった。楠正成(くすのきまさしげ)は進み出て奏上した。「元弘の勲功は、実に優劣をつけがたいものです。しかし私どもは、幸運にも御恩を賜っただけのこと。武時のように勅命に応じて命を投げ出した者こそ、功臣の第一とすべきです。」天皇はこれをうなずかれた。(注:武朝の申状による。)武時には十五人の子があった。武重・武敏・頼隆・武茂・経重・隆舜・武吉・武光・武義・武尚・武豊・武士・武隆・武澄・武方である。(注:系図による。)

菊池武重

菊池武重(きくちたけしげ)は、通称を三郎という。肥後守に任じられ、(注:菊池系図、『太平記』による。)後に左京大夫となった。(注:系図による。)元弘三年、武時が北条英時を攻めた際、武重は軍中から帰るよう命じられ、再挙のための備えとされた。まもなく、少弐貞経が兵を起こして英時を討とうとし、使者を遣わして知らせてきた。武重は「彼はすでに我が父を欺いた、今こそ報いてやろう」と言い、「本当に英時を討つつもりならば、陣で顔を合わせてから話そう」と答えて、その使者を斬った。(注:「彼はすでに」以下は天正本『太平記』による。)建武年間、新田義貞(にったよしさだ)に従って足利尊氏(あしかがたかうじ)を討った。足利直義(あしかがただよし)と箱根で戦い、武重が先陣を切って敵を破った。しかしまもなく官軍は竹下で敗れ、兵は散り散りになった。義貞は兵を引き上げようとしたが兵の少なさを憂えており、武重の軍が無傷で到着したことを頼みとして、ともに西へ引き返すことができた。尊氏が御所を犯すと、武重は義貞に従って大渡(おおわたり)で防戦したが利あらず、そのまま車駕を護って延暦寺(えんりゃくじ)に至った。また脇屋義助(わきやよしすけ)に従い、舟坂山を攻めて功があった。後に天皇が尊氏に欺かれて京へ戻られた際、武重もまた捕らえられ囚われの身となった。見張りの隙をうかがって逃げ帰り、(注:『太平記』による。)兵を集めて勤王した。延元二年、一色範氏(いっしきのりうじ)が肥後に攻め入ると、武重は阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)の宇治惟澄(うじこれずみ)とともに犬塚原(いぬづかばる)で迎え撃ち、これを破った。惟澄は一色頼行(いっしきよりゆき)を斬り、ほどなく合志城(こうしじょう)に賊を囲んで、たびたびこれを破った。(注:宇治惟澄の申状による。)武重には子がなく、弟の武士(たけひと)を養って跡継ぎとした。

菊池武敏

武敏(たけとし)は掃部助(かもんのすけ)となった。(注:系図による。『太平記』には武俊とあるが誤りである。)本国で兵を起こし、遠く官軍である足利尊氏の西走に呼応した。少弐貞経は子の頼尚(よりひさ)に軍勢を率いさせて迎え撃たせた。武敏はこれを探り、兵三千余りを発して水木の渡し(みずきのわたし)で待ち構えた。頼尚がすでに渡り終えたところで、その後軍を襲って殲滅した。(注:『太平記』による。)貞経は太宰府(だざいふ)にとどまっていたが、府中の兵は少なかった。(注:『梅松論』『太平記』を参照した。)武敏が貞経を襲おうとすると、貞経は筑後に出陣した。武敏はこれと交戦して破り、進んで太宰府を攻め、その武器や設備をことごとく焼き払った。(注:『梅松論』による。)貞経は退いて内山(うちやま)にこもった。これを数日囲んだところ、貞経の一族の中に帰順を望む者があり、貞経に自害を迫った。武敏はその勢いに乗じて筑前で尊氏を攻めた。尊氏は弟の直義とともに多々良浜(たたらはま)で迎え撃ち、武敏は敗れて退いた。ほどなく敵将の一色範氏・仁木義長(にっきよしなが)が攻めてきて、武敏は支えきれず、かろうじて山に隠れて難を逃れた。(注:『太平記』による。)尊氏が退いて再び兵を挙げると、武敏は今川蔵人(いまがわくらんど)と唐川(からかわ)・豊福(とよふく)などの地で戦った。(注:小代氏文書による。)

頼隆(よりたか)は、通称を三郎といい、父に従って北条英時を攻め、ともに戦死した。武茂(たけしげ)は対馬守となった。経重(つねしげ)は通称を八郎という。隆舜(たかとし)は剃髪して阿日房(あにちぼう)と称し、筑後守護代となり、父に従って戦死した。(注:系図による。)武吉(たけよし)は通称を七郎といい、湊川(みなとがわ)の戦いでは長兄の武重の軍に従軍していた。楠正成が須磨浦(すまのうら)で尊氏を防いでいたとき、武重は武吉を遣わして戦況をうかがわせた。到着すると、正成の軍はすでに敗れ、正成は自害しようとしていた。(注:『太平記』による。)正成は武吉が来たのを見て、「私は力尽きて死ぬところだ、そなたは幸い生きて帰り、この事を報告せよ」と言った。武吉は「これがどうして男子の生きて帰るべき時であろうか」と言い、ともに腹を切って死んだ。(注:今川家本、毛利家本、北条家本、南都本の『太平記』による。本書には武朝とあるが、今は系図及び武朝の申状によってこれを訂正した。)武義(たけよし)は通称を彦二郎といい、(注:系図による。)後に剃髪して自関(じかん)と称した。天授年間、大内義弘(おおうちよしひろ)と蜷打(になうち)で戦い、討ち死にした。(注:武朝の申状による。)武士(たけひと)は武重の養子となり、通称を二郎といい、肥後守となった。(注:系図による。)武重が没すると、肥後・筑後の間を往来して、たびたび敵軍を攻めた。これによって両国の官軍は、離反の心を抱く者がなかった。(注:武朝の申状による。)ほどなく剃髪して出家した。武隆(たけたか)は肥前守に任じられ、武信(たけのぶ)・武明(たけあき)を生み、代々戦功があった。武澄(たけずみ)は肥後守となった。(注:系図による。)

菊池武光

菊池武光(きくちたけみつ)は、初め豊田十郎(とよたじゅうろう)と称した。武士が早くに家督の務めを辞したため、武光がその職を継ぎ、肥後守に任じられ、また肥前守ともなった。父兄の教えに従い、心を尽くして朝廷に仕えた。(注:系図による。)はじめ後醍醐天皇は懐良親王(かねよししんのう)を征西大将軍に任じ、筑紫に出陣させて鎮めさせた。(注:阿蘇社文書による。)興国年間、武光は肥後で親王を迎え、これを奉じた。(注:阿蘇社文書、武朝の申状を参照した。)大友氏時(おおともうじとき)・少弐頼尚と連年にわたり兵を構え、たびたびこれに勝った。(注:系図、宇治惟澄の申状、後醍醐院系図を参照した。)

正平十三年、一色直氏(いっしきなおうじ)とその弟範光(のりみつ)を筑前で撃ち、これを敗走させ、その声望は大いに高まった。頼尚・氏時ら諸豪族は風になびくように従属した。足利義詮(あしかがよしあきら)は直氏らの敗北を聞いて大いに恐れ、再びその将細川繁氏(ほそかわしげうじ)を遣わして兵を率いて攻めさせたが、繁氏は道中で病死した。頼尚・氏時は武光に指図されることを深く恥じ、ひそかに繁氏に呼応しようと図っていたが、繁氏の死を聞いてこれをやめた。そのころ武光は兵五千を率いて畠山国久(はたけやまくにひさ)を日向(ひゅうが)の六笠城(むつがさじょう)に攻めた。氏時はそのまま高碕城(たかさきじょう)のほとりに拠り、宇都宮宏知(うつのみやひろとも)・肥田正員(ひだまさかず)がこれに応じ、(注:「肥田」は現行本の『太平記』には「肥前」とあるが、今は諸異本に従う。)豊前・筑後の隘路を押さえて武光の帰路を断とうとした。武光は氏時には何もできまいと見て、まず国久の子の重隆(しげたか)を三股城(みつまたじょう)に攻めてこれを破った。国久は恐れて六笠城を捨て、重隆とともに逃げた。武光はそこで軍を引き上げた。氏時らはその鋭鋒を見て、恐れ縮んで出てこなかった。武光は頼尚および阿蘇大宮司の宇治惟時(うじこれとき)と、(注:阿蘇社文書による。)兵を合わせて氏時を討とうとしたが、この二人にも別の企みがあることをまだ知らず、自ら五千人を率いて、まず高碕城へ向かった。途中で頼尚が兵を集めて太宰府に拠ったこと、惟時が小国(おぐに)の砦の後ろに九つの砦を築いたことを聞き、そこで軍を返して惟時を攻め、その九つの砦をことごとく破り、首三百余級を斬った。惟時はかろうじて身一つで逃れた。

翌年、懐良親王を奉じ、(注:「翌年」は天正本による。)兵八千余騎を率いて少弐頼尚を討った。高良(こうら)・山柳(やまやなぎ)・坂水(さかみず)・神山(こうやま)などの地に軍を進めた。頼尚は兵六万を率いて迎え撃ち、筑後川を隔てて陣を敷いた。武光は手勢五千を率い、まず川を渡ってこれに迫った。頼尚は戦わず、一里ほど退いた。大原(おおはる)に陣を構え、武光が追撃したところ、敵はすでに道を断ち切っており、前方は泥沼に阻まれて容易には進めなかった。以前、頼尚が古浦城(こうらじょう)にあって一色直氏に攻められた際、武光が援軍に駆けつけて助けたことがあった。頼尚はこれに感謝し、「子孫七代にわたって菊池氏に叛くことはない」と誓い、血書をもってこれを遺した。武光はその誓文を取り上げ、旗竿に掲げて頼尚に恥をかかせ、対陣は一月余りに及んだ。武光は夜、子の武政(たけまさ)、甥の武信・武明、そして赤星武貫(あかほしたけつら)らの精兵七千人を遣わし、三隊に分けて筑後川に沿い、水音に紛れて進ませた。また屈強な兵三百人を選び、夜、間道づたいに敵の背後を襲わせ、鬨の声をあげて矢を雨のように射かけさせた。敵勢は驚き慌て、隊列は大いに乱れ、同士討ちとなって死者が折り重なった。

夜が明けると、武政は兵を率いて真っ先に攻め入り、頼尚の子の忠資(ただすけ)とその副将三人を討ち取った。武明はこの戦いで戦死した。武信・武貫は兵千人を率いて続いて進み、敵兵一万と遭遇し、死力を尽くして戦い、首七百級を得て、忠資の弟の頼泰(よりやす)を捕らえた。武貫および結城親昭(ゆうきちかあき)・加藤宗高(かとうむねたか)らは、三百人とともに戦死した。懐良親王と武光は、兵三千を率いて大声をあげて敵の中堅に突撃した。矢が雨のように降り注ぎ、親王は身に三か所の傷を負い、危うい状況に陥った。朝廷方の官人数人が敵を防いで討ち死にし、親王はそのおかげで脱出することができた。世良田大膳大夫(せらだだいぜんのだいぶ)某なども戦死した。武光・武政は声を励まして兵を督励し、自ら先頭に立ち、力を奮って激しく戦った。敵は武光と見分けると、矢を群がらせて雨のように射かけ、馬は傷を負って倒れたので乗り換え、縦横に馬を駆って突撃し、敵と渡り合うこと十七合、身に着けた甲冑は斬られて地に落ち、頭には二か所の刀傷を受けた。馬もまた傷を負って危険な状態となったが、そこへ一人の敵将が迫り、馬上で組み合ってともに落馬し、武光はついにその首を斬り、その馬に乗り、甲冑をまとい直して再び進んだ。卯の刻から酉の刻まで戦い、討ち取った首は三千余りに及んだ。頼尚は大敗して逃げ去った。

十六年、また新田一族とともに懐良親王を奉じ、兵五千余りを率いて博多に陣を敷いた。少弐頼尚および大友氏時ら二万五千人がこれを防ぎ、香椎(かしい)に陣を敷いた。松浦党(まつらとう)三千人は飯盛山(いいもりやま)に拠り、武光の背後を襲おうとし、対陣は十日あまりに及んだ。武光の一族である城越前守(じょうえちぜんのかみ)は、(注:金勝院本には「重経」あるいは「親廉」とある。)ひそかに諸国を行脚する僧を遣わし、松浦党に「軍中には武光に内応しようと謀る者が多い」と問わせた。そこで越前守は兵千人を率い、夜明けに山の麓に至って喊声をあげた。敵勢は日頃から互いに疑い合っており、もはや戦う気力もなく、われ先にと逃げ散り、追撃してほとんどを斬った。武光は喜んで「松浦党の兵は強く、たやすくは勝てまいと思っていたが、今すでにこれを破った。少弐・大友の輩を破るのも、もはや掌中にあるも同然だ」と言った。翌日、親王とともに進んで香椎を攻めた。氏時は頼尚らを頼みとしていたが、松浦党の敗北を聞いて大いに恐れ、陣を空にして潰走した。軍資金や武具は道路にあふれるほど残された。

翌年、足利義詮は斯波氏経(しばうじつね)を九州探題として豊後に至らせた。武光は弟の武義に、城越前守らの兵五千人を率いさせてこれを攻めさせた。氏経は子の松王丸(まつおうまる)に、頼尚・氏時、および宗像大宮司(むなかただいぐうじ)ら七千人を率いさせて長者原(ちょうじゃばる)で迎え撃たせた。武義の軍は敗れ、身に三か所の傷を負って一里ほど退いた。越前守は奮戦して敵将の対馬頼資(つしまよりすけ)・資俊(すけとし)ら四百余級を斬った。(注:「頼資」「資俊」は少弐家譜による。)敵はそこで敗走した。武光が続いて到着し、武義と兵を合わせて豊後府まで追撃した。氏経・氏時は退いて高碕城にこもった。頼尚・宗像大宮司もそれぞれ城に籠もって固く守った。武光は豊後府に軍をとどめ、兵を分けてこれを攻めさせ、対陣は三年に及んだ。

十九年、これより先、大内弘世(おおうちひろよ)は勅命を奉じて周防・長門の敵を平定し、そのままこの二国を鎮撫していた。この頃になって、義詮に叛いてこれに帰服した。義詮はそこで弘世の長門守護の職を罷免し、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)某にこれまで通り二国を治めさせようとした。駿河守はこれを恨み、ついに武光のもとに降り、兵を借りて弘世を討つことを願い出た。弘世は兵三千を率いて豊後に至ったが、(注:諸本には「豊前」とするものもある。)武光は駿河守とともにこれを撃ち破り、弘世は降伏を願い出て去った。(注:『太平記』による。)

武光には二人の子があった、武政・良政(よしまさ)である。武政はその跡を継いで肥後守に任じられ、(注:系図による。)懐良親王を奉じて九国を鎮撫した。(注:武朝の申状による。)文中三年、三十五歳で没した。(注:『花営三代記』による。「三十五」は系図による。)子の武朝(たけとも)がその跡を継いだが、まだ十一歳であった。(注:武朝の申状による。)肥後守となり、左京権大夫に任じられた。(注:系図による。)天授年間、今川貞世(いまがわさだよ)が肥後に攻め入り、武朝は兵を率いて水島(みずしま)で戦い、これを破った。二年後、鎮西の平定がほぼなり、将軍宮(しょうぐんのみや)を奉じて筑前府に陣を進めた。ここで貞世の弟の仲秋(なかあき)が兵を発してこれを攻めようとした。武朝は武国(たけくに)を遣わして博多で迎え撃たせ、これを退けた。(注:武朝の申状による。本書に「将軍宮」というのは、おそらく懐良親王の子の良宗(よしむね)のことであろう。しかし今は他に証拠となるものがなく、しばらく旧文に従う。)

三年、大内義弘が豊前・豊後の兵を率いて攻めてきた。武朝はこれを迎え撃ち、蜷打(になうち)で大いに戦った。我が軍は敗れ、植田宮(うえだのみや)が害された。菊池武義・武安(たけやす)らも戦死した。(注:武朝の申状、『後愚昧記』を参照した。『後愚昧記』には、植田宮は故宮僧正(こみやそうじょう)の子であるという。宮僧正がどのような人物であるかは詳らかでないが、おそらく懐良親王の一族であろう。植田宮の諱は伝わっておらず、今は考証のしようがない。)武朝は軍を引き返した。四年、貞世は再び軍勢を率いて託摩原(たくまばる)に至った。武朝は戦って敗れ傷を負い、一族の多くを失った。ちょうど将軍宮が兵を率いて援軍に来たため、貞世を撃退した。弘和の初め、守山(もりやま)に拠って叛いた一族を討ち、これを平定した。(注:武朝の申状による。)応永四年、菊池一族は少弐・千葉・大村らとともに兵を挙げたが、大内義弘に敗れた。(注:『応永記』による。)十四年、武朝は四十五歳で没し、法名を常朝(じょうちょう)といい、神徳寺(しんとくじ)と称した。三人の子があった、兼頼(かねより)・武楯(たけたて)・英朝(えいちょう)である。兼頼がその跡を継いで肥後守となった。(注:系図による。「応永十四年」は武朝の申状にある「天授四年、歳十六」の記述から推定した。系図の一本には「兼頼」を「兼朝」に作るものもある。)

結城宗廣

結城宗広(ゆうきむねひろ)は、姓を藤原という。曾祖父の朝光(ともみつ)は源頼朝(みなもとのよりとも)に重用された。父を祐広(すけひろ)といい、通称を弥七左衛門(やしちざえもん)という。(注:『尊卑分脈』『結城家譜』による。)陸奥国の白河(しらかわ)に居を構えたため白河結城と称し、下総国に住む本宗家と区別した。(注:『結城家譜』による。)宗広は上野介(こうずけのすけ)となり、剃髪して道忠(どうちゅう)と号した。(注:『結城家譜』『結城文書』『太平記』による。金勝院本・西源院本の『太平記』および『結城家譜』の一本には「源秀」とある。)

北条高時(ほうじょうたかとき)は僧の円観(えんかん)を捕らえ宗広に預け、その所領に禁固させた。まもなく、宗広はまた関東の軍に従って笠置(かさぎ)に赴いた。元弘三年、天皇が船上山に行幸されると、四方に勤王の志を持つ者が多く現れた。当時、宗広は鎌倉におり、子の親光(ちかみつ)は京で事に当たっていたが、護良親王(もりよししんのう)の命に応じて帰順し、その令旨が鎌倉にまで伝わった。宗広はただちに弟の片見祐義(かたみすけよし)・田島広堯(たじまひろたか)らとともに兵を挙げて新田義貞に呼応し、ともに鎌倉を攻めてこれを陥落させた。使者を遣わして勝利を奏上した。(注:『結城文書』による。)天皇の車駕とともに京へ戻ると、宗広は円観を伴って参内し、勅命により所領はもとの通りとされた。(注:『太平記』による。)さらに陸奥の宇多荘(うだのしょう)を加増された。(注:『結城文書』による。)そこで鎮守府大将軍の源顕家(みなもとのあきいえ)とともに義良親王(のりよししんのう)を奉じ、陸奥へ戻ってこれを平定した。(注:『元弘日記裏書』による。)宗広は評定衆(ひょうじょうしゅう)となり、(注:『建武二年記』による。)国政を補佐して郡県を安んじた。(注:『元弘日記裏書』による。)

足利尊氏が反逆すると、天皇は延暦寺に行幸され、宗広は顕家とともに義良親王を奉じて援軍に入り、(注:『神皇正統記』『太平記』を参照した。)園城寺(おんじょうじ)を攻め、たびたび京で戦い、ついに尊氏を破った。しかしまもなく諸国がまた叛いたため、顕家に従って東国へ戻り鎮撫した。(注:『太平記』による。)延元二年、国内で兵が起こると、顕家は義良親王を奉じて逃れ、霊山城(りょうぜんじょう)に籠もった。(注:『元弘日記裏書』『結城文書』による。)宗広もこれに従った。(注:『白河文書』による。)別に兵を遣わして熊野堂城(くまのどうじょう)を守らせ、霊山城の後詰めとした。(注:『相馬文書』による。)天皇は書を賜り、宗広が老齢にもかかわらず忠勤に励んだことを賞された。(注:『白河文書』による。)

再び顕家に従って鎌倉を攻め、奈良に至った。顕家が諸将と軍の向かうべき方向を議論した際、宗広は言った。「我が軍はたびたび勝利を重ね、すでに京へ入る道は開けている。それなのに、なお賊を憚って黒地橋(くろちばし)を越えられずにいる。この状態のまま吉野へ参るとは、あまりに臆病というものだ。ただちに京を襲い、逆賊を一掃すべきである。それが成らなければ、王城で屍をさらすまでのことだ。」顕家はこれをもっともとした。しかし出発する前に、敵将の桃井直信(もものいなおのぶ)らが攻めてきて、顕家は戦死し、宗広は吉野へ逃れた。このとき、新田義貞は北国で戦死し、源顕信(みなもとのあきのぶ)は男山(おとこやま)を捨てて逃れ、朝廷は動揺して、なすすべを知らなかった。

宗広は次のように奏上した。「顕家は三年の間に二度にわたり大軍を発して援軍に入り、陸奥・出羽をもって朝廷の威令に服させ、後顧の憂いをまったく残しませんでした。今こそ、民心がまだ変わらぬうちに、皇子のお一人を遣わして号令を掲げて明らかに示し、逆賊を懲らしめ順逆を賞するべきです。大まかな平定の功であれば、成らないことを心配する必要はありません。私が地図を調べたところ、陸奥五十四郡は日本のほぼ半分に当たり、四、五十万ほどの兵を得ることができます。私は首を差し出す覚悟で皇子をお守りし、郡の民を動員して京を回復いたしたく存じます。一年を出でずして、これまでの恥をすすぐことができましょう。」朝廷の評議はこれを可とした。勅命により、義良親王と、准大臣の源親房(みなもとのちかふさ)、(注:「親房」は『元弘日記裏書』による。)および顕信をともに陸奥へ向かわせることとした。諸軍は陸路が敵に阻まれることを恐れ、みな伊勢に集結し、大湊(おおみなと)から船出した。(注:西源院本には「鳥羽津」とある。)天竜灘(てんりゅうなだ)に至ったところで暴風に遭い、船団は四方に散り散りになった。宗広の船は七日間漂流し、安濃津(あのつ)に漂着した。(注:今川家本・毛利家本には「吹上村」とある。)風待ちをすること十数日、病にかかって死に瀕した。

一人の僧が来て問うた、「死が迫っておられます。ただ仏の御名を唱えるほかありません。もし言い残すことがあれば、御子息にお伝えしましょう。」宗広は目を閉じかけていたが、これを聞くと起き上がって笑い、「私は七十年生きて、何事も心残りはない。ただ賊を滅ぼさぬまま死ぬことだけが、この上ない恨みである。私の言葉を煩わせて息子の親朝(ちかとも)に伝えてほしい。仏を供養し僧に施しをすることをせず、名号を唱え経を読むこともするな。速やかに賊の首を斬り、これを我が墓前に懸けよ、と。」言い終えると、刀を逆手に抜き、歯を食いしばって息絶えた。(注:『太平記』による。)子に親朝・親光(ちかみつ)がいる。親朝については「将軍家臣伝」に記す。

結城親光

結城親光(ゆうきちかみつ)は、通称を九郎といい、検非違使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)となった。(注:『尊卑分脈』による。)大田判官(おおたほうがん)と称した。(注:『梅松論』『結城家譜』による。)元弘の乱に際しては北条高時に属し、大仏貞直(おさらぎさだなお)に従って赤坂城(あかさかじょう)を攻め、これを陥落させた。(注:『太平記』、光明寺蔵の書残編による。)そのまま六波羅(ろくはら)にとどまって官軍を防いだ。(注:『太平記』による。)

護良親王の令旨を受け取るに及び、逆賊と忠臣のどちらに味方すべきかを悟った。にわかに出て山崎(やまざき)に至り、赤松則村(あかまつのりむら)のもとで帰順した。(注:『結城文書』『太平記』を参照した。)親光は勇猛で戦上手であったため、天皇は深く頼りにされ、その待遇は非常に厚かった。(注:『太平記』による。)次第に政務にも関わるようになった。(注:『梅松論』による。)後に足利尊氏に従って北条時行(ほうじょうときゆき)を討った。(注:金勝院本『太平記』による。)

尊氏が反逆して京を犯すと、親光は源忠顕(みなもとのただあき)に従い、勢多(せた)でこれを防いだ。(注:『梅松論』による。)しかし官軍はついに敗れ、天皇は延暦寺へ行幸された。親光は尊氏を刺し殺そうと考え、一人京にとどまった。そこで僧を通じて偽って降伏を申し出た。尊氏はこれを怪しみ、大友貞載(おおともさだのり)を遣わしてその様子を探らせ、途中でこれに出会った。貞載は突然親光に言った、「将軍はそなたが誠意を示したことを受けて、私を降伏を受け取りに寄越された。甲冑を解くがよい。」親光は貞載が自分を疑っているのだと思い込み、たちまち刀を抜いてこれを斬りつけた。貞載はその場で馬から落ちて死んだ。その配下三百余人が親光を取り囲んで激しく攻め立てた。親光と従者十四人は、敵と刺し違えて斃れた。当時の人々は深くこれを惜しんだという。(注:『太平記』による。天正本『太平記』には、次のようにある。かつて箱根の戦いで、大友貞載は足利尊氏に降伏し、寝返って官軍を射たため、これによって大敗を喫した。天皇はこれを尊氏以上に憎まれた。車駕が延暦寺へ行幸された際にも、また貞載のことが話題に上った。親光はそこで貞載を刺し殺すことを謀った。『梅松論』には、次のようにある。親光は天皇のもとに参上して願い出た。「先に官軍が鎌倉を討った際、一戦で賊を平らげるはずでした。しかし大友貞載が途中で兵を翻したため、功を成し遂げることができず、陛下をこのような事態に至らせてしまいました。私は深くこれを憎んでおります。どうか今、京にとどまって降伏したふりをし、貞載を刺し殺して陛下に報いさせてください。」天皇はその義心を認めてこれをお許しになった。君臣ともに涙を流し、悲しみに沈みつつ別れた。親光は京へ戻ると東寺(とうじ)で貞載に出会い、その場で降伏を願い出た。貞載はこれを許し、「将軍の陣営の近くまで行ったら、そなたは甲冑を脱ぐように」と約束した。親光はこれを承知し、刀を外して進み出たが、偽ってこれを差し出すふりをして、貞載に斬りつけた。そのまま組み合って、ついに討たれた。その一族で共に死んだ者は十余人であった。貞載も傷が重く、日を経てから死んだという。どちらが正しいかは分からない。)