卷之一百七十六 列傳第一百三

富士名義綱、大江景繁、敕使河原直重、秋月種道ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次12
  1. 富士名義綱
  2. 大江景繁
  3. 敕使河原直重
  4. 秋月種道
  5. 河島維賴
  6. 氣比氏治
  7. 藤原昌能
  8. 宇治惟直
  9. 宇治惟澄
  10. 太田守延
  11. 津守國夏
  12. 本間忠秀

富士名義綱

富士名義綱(ふじな よしつな)は、佐々木氏の一族である(注:『太平記』による)。三郎と称した(注:天正本『太平記』、『梅松論』による。○按ずるに、建武二年記に武者所番として布志那二郎光清が載っており、義綱の兄ではないかと疑われる)。検非違使となった。元弘の初め、北条高時が車駕(天皇)を隠岐に遷した。翌年、各地で兵が挙がり勤王の動きが起こった。高時はこれを恐れ、隠岐守護の佐々木清高(ささき きよたか)に命じて、さらに近隣諸国の兵を集めさせ、警護を増やし、昼夜行宮を巡邏させた。清高は義綱に中門を守らせた。義綱はひそかに車駕を奪って義兵を挙げようと謀り、まず事情を奏上しようとしたが、機会がないのに苦しんでいた。たまたま帝が夜、侍女に酒を中門の宿直の兵に賜わらせたので、義綱は好機と考え、恩を謝したうえで、こう奏上した。「臣、謹んで耳にしたことを、畏れながら申し上げます。近日、楠木正成(くすのき まさしげ)は金剛山に拠り、関東の百万の軍を挫きました。赤松則村(あかまつ のりむら)は大塔宮(だいとうのみや)の令旨を奉じ、摩耶山に屯し、その勢いは畿内諸県を震わせています。伊東惟群(いとう これむら)は三石(みついし)に城砦を築き、山陽道を塞ぎました。士居通治(どい みちはる)、得能通言(とくのう みちとき)は、長門探題北条時直を攻めて敗走させました。大いに船を集め、車駕をお迎えしようとしています。あるいは『まっすぐ京師に向かおうとしている』とも言われます。四方の官軍は申し合わせもせず呼応しております。これは皇統再興の時が至ろうとしているのです。しかしこの間、根も葉もない噂として、高時がさらに凶謀をたくましくし、弑逆(帝を弑し奉ること)を行おうとし、すでに命令が下されているとも申します。伝えられる通りであれば、事変は測り難いものとなりましょう(注:この一文以下は金勝院本による)。臣が宿直に当たる日、速やかに出雲・伯耆の間に行幸されますよう。両国の武士は必ず多く詔に応じるでしょう。臣もまた兵を率い、車駕を追う体を装いつつお供いたします。」帝はそこで侍女を義綱に賜り、その真偽を探らせた。義綱は感激し、忠節を尽くす志をいよいよ固くした。そこで帝は詔を義綱に下し、兵士を招集させた。義綱は出雲守護の塩冶高貞(えんや たかさだ)とともに、ともに佐々木氏から出ており同族であったので、まず高貞のもとへ赴きこれを説得しようとした。ところが義綱は高貞に捕えられてしまった。帝が船上山(せんじょうさん)に行幸されるに及び、高貞はようやく義綱を釈放し、ともに行在所へ赴いた。義綱の謀は成らなかったものの、帝が船上山に行幸されたのは、実にその言によって開かれたものであった(注:『太平記』による。○按ずるに、『船上録』はこの事を名和長年(なわ ながとし)の謀としているが、おそらく誤りであろう。「伯耆巻」には、義綱は帝に従って隠岐を発ち、出雲の沙汰浦(さたのうら)に至って上陸したとある。義綱は帝に「守護の塩冶高貞は臣の一族です。どうかお頼りください」と申し上げた。帝はこれに従われた。ところが御馬が後ずさりして進まなかったため、帝は方角を変えて船に乗られた。高貞は兵を発して追ってきたが、間に合わなかった。翌日杵築浦(きづきのうら)に至り、義綱は上陸して食を求めた。神官が追いついてきたため、御船は逃れ去った。義綱はついに神官に捕えられてしまった。本書とは異なる)。この後六年して、大江景繁(おおえ かげしげ)が現れる。

大江景繁

大江景繁は、家号を三条といった。景繁は後宇多上皇(ごうだじょうこう)の北面に仕え、常に側近くに仕えた(注:毘沙門堂所蔵記に引く『継塵記』『雅俊記』による。○家号は金勝院本『太平記』による)。後醍醐帝の時、刑部大輔となった。延元の年、足利尊氏が反乱を起こした。まもなく偽って帰順したので、帝は延暦寺から還御され、花山院に入られた。尊氏は左右の侍臣を分けて拘束したが、景繁だけは仕えることを許された。一月余りして、景繁は勾当内侍(こうとうのないし)を通じて奏上した。「新田義貞(にった よしさだ)は金崎城(かねがさきじょう)に拠り、たびたび賊軍を破っています。しかも比叡山・白山の僧徒は富樫介(とがしのすけ)那多城(なたじょう)を攻め落とし、義貞の援軍たろうとしています。北国の官軍は再び勢いを盛り返しました。また供奉していた将士で賊に捕えられていた者、たとえば菊池武重(きくち たけしげ)や日吉加賀法眼(ひえのかがほうげん)などは、今多くが逃げ帰り、本国で義兵を挙げており、凶賊誅滅の機はすでに今兆しております。陛下はこの隙に乗じて大和に行幸され、要害に拠ってお守りになり、四方に詔を発して義軍の声勢を増し、皇化を天下に輝かせられますように。」帝は喜ばれた。その次の夜、婦人の衣を身にまとい、内侍に三種の神器を持たせ、崩れた垣根から脱出された。景繁は帝を抱えて馬に乗せ、神器を受け取って背負った(注:『太平記』による)。侍従の忠房(ただふさ)(注:姓は欠けている)とともにお供した。時に夜は深く暗く、目の前も見分けられないほどであった。帝が道の傍らをご覧になると、ほのかに祠らしきものが見えた。振り返ってお尋ねになると、忠房は「これは稲荷の祠です」と答えた。そこで帝は歌を詠まれた。「宇和玉の(うわたまの)、暗き闇路に(くらきやみじに)、迷ふなり(まよふなり)、我に飾なむ(われにかさなむ)、三つの燈火(みつのともしび)」。礼を尽くして通り過ぎた。すると突然赤い雲が祠の上に起こり、路上を照らして昼のように明るくなり、その光に従って南へ進んだ(注:○『吉野拾遺』『太平記』を参照して合わせた)。夜が明けて賀名生(あのう)に至り、景繁を遣わして吉野山の僧徒を招き諭させた。吉水院主(よしみずいんしゅ)の宗信(そうしん)らはことごとくこれに応じ、僧兵三百人を遣わして御車を迎えた。楠木正行(くすのき まさつら)らの諸将も相次いで到着し、王師は再び振るった(注:『太平記』による)。正平七年、足利義詮(あしかが よしあきら)が男山(おとこやま)の行在所を犯し、官軍は敗走したが、景繁は奮戦してこれに死んだ。当時、中原章興(なかはら あきおき)という者も、景繁とともに死んだ(注:『園太暦』による)。

敕使河原直重

敕使河原直重(てしがわら なおしげ)は、姓は丹治(たんじ)といい(注:『丹治系図』による)、丹三郎と称し、左衛門尉となった(注:○『太平記』『丹治系図』を参照して合わせた。毛利家本『太平記』には中務丞とある)。武蔵の人である(注:諸異本『太平記』による。○現行本には信濃の人とある)。足利尊氏が京師を犯すに及び、新田義貞に従い、大渡(おおわたり)で防戦したが、宇治・山崎がともに守りを失ったため、退いて京師へ帰った。帝が東国へ行幸されると聞き、こう言った。「危険を見て命を投げ出すのは、古今変わらぬ道である。私にどんな面目があって、逆賊の支配を甘んじて受けられようか。」そこで二人の子とともに羅城門(らじょうもん)の側まで戻り、腹を切って死んだ(注:『太平記』による)。

秋月種道

秋月種道(あきづき たねみち)は、筑前の人で、対馬守大蔵春実(つしまのかみ おおくら の はるざね)の後裔である(注:『原田系図』『秋月系図』による)。春実はかつて藤原純友(ふじわら の すみとも)を討ち、大いに勲功があった(注:『扶桑略記』による)。女真(じょしん)が筑紫を侵した際、春実の孫の種材(たねき)がその子光弘(みつひろ)とともに兵を率いて賊を撃ち、これも功があった(注:『朝野群載』『小右記』『大鏡』による)。その後、子孫が代々世に名を知られ、原田・秋月の二氏が最も著名であった。種道は筑前権守となった(注:『原田系図』『秋月系図』による。○按ずるに、『太平記』には備前守とあるが、おそらく誤りであろう)。建武の中頃、種道は菊池・宇治の一族とともに兵を挙げて勤王し、ほどなく足利尊氏を多々良浜(たたらはま)で防いだ。軍が敗れるに及び、太宰府へ逃げた。敵兵が追いついたため、種道はその一党二十余人とともに引き返して戦い、ことごとく戦死した(注:『太平記』『秋月系図』による)。秋月氏は代々西の辺境に住み、一族はかなり多かったが、その事業は成らず、当時の人々はこれを残念に思った(注:『太平記』による)。

河島維賴

河島維頼(かわしま これより)は左近蔵人(さこんのくろうど)と称し、越前の人である。延元の初め、詔を奉じて本国を鎮撫した。新田義貞が皇太子を奉じて北へ出るに及び、維頼はこれに従って金崎城に入った。城の守りは非常に窮迫し、義貞は弟の脇屋義助(わきや よしすけ)とともに、維頼を道案内として、夜ひそかに杣山城(そまやまじょう)へ逃れた。ほどなく義助に従って三峰城(みつみねじょう)を守った。また義助に従って足利高経(あしかが たかつね)と鯖江(さばえ)で戦い、これを敗走させた。後に義貞が戦死し、義助が国府へ戻ると、維頼は三峰城に留まって守った。義助が織田・田中など十七の城を攻略した際、維頼は功があった(注:『太平記』による)。その後の消息は分からない。

氣比氏治

気比氏治(けひ うじはる)(注:○金勝院本には親晴とある)は弥三郎大夫(やさぶろうだゆう)と称し、越前の人で、気比大宮司であった。帝がふたたび延暦寺へ行幸された頃、氏治は敦賀(つるが)に城を築き、官軍の後ろ盾となった。新田義貞が皇太子および尊良親王(たかよししんのう)を奉じて北の敦賀に至った。氏治は子の斉晴(なりはる)(注:○「子」は西源院本による)とともに、兵三百をもってこれを金崎城に迎え入れた。敵将小笠原貞宗(おがさわら さだむね)が攻めてきたが、斉晴はもとより力が強く、矢島七郎(やじま しちろう)らとともにこれを撃退した。しかしまもなく城は陥落し、尊良親王は自害され、氏治もこれに殉じて死んだ。斉晴は逃げて小舟を探し出し、皇太子を乗せたが、あわただしくて楫がなかったため、綱を自分の腕に結びつけ、海を三十余町泳いで蕪木浦(かぶらぎのうら)に至り、皇太子を土地の人に託してこう言った。「この方は後日日本国の主となられる方である。お前たちが労を惜しまず杣山へお連れせよ。」そして再び泳いで城に戻り、自刎して父の屍のそばで死んだ(注:『太平記』による)。

藤原昌能

藤原昌能(ふじわら の まさよし)は、中納言藤原貞嗣(さだつぐ)の末裔である。その祖先の季兼(すえかね)は尾張目代(おわりのもくだい)を務め(注:『尊卑分脈』による)、熱田大宮司尾張員職(あつたのだいぐうじ おわりの かずもと)の娘を娶り、子の季範(すえのり)をもうけた。員職は大宮司の職を季範に授け、子孫は代々その職を世襲した(注:『玉葉和歌集』『尊卑分脈』による)。一族の曾祖父範直(のりなお)は、承久の乱の際、朝廷方に功を尽くしたため、北条義時によって職を奪われた。祖父範広(のりひろ)、父家範(いえのり)はともに大宮司であった(注:『尊卑分脈』による)。後醍醐帝の時、昌能は大宮司となり(注:『太平記』『尊卑分脈』による)、摂津守に任じられた(注:『太平記』、建武二年記による)。武者所に直に仕えた(注:建武二年記による)。北条時行が三浦時継(みうら ときつぐ)を将として鎌倉から逃れて尾張に来た際、昌能はこれを捕えて献上した。新田義貞が足利尊氏を東征するにあたり、昌能は兵を発してこれに会し、宇都宮公綱(うつのみや きんつな)らとともに、賊軍を鷺坂(さぎさか)で撃破した。義貞が敗退するに及び、昌能はこれに従って京師へ戻った。尊氏が再び京師を犯すと、昌能は延暦寺へ扈従した。ほどなく京師へ戻り(注:○「還京師」は毛利家本による。○按ずるに、天正本には昌能が皇太子に従って越前へ赴いたとあるが、いずれが正しいか分からない)、そのまま熱田へ帰り住み、髪を落として源雄(げんゆう)と号した。鎮守府大将軍源顕家(みなもとの あきいえ)が西上するに及び、昌能は五百余人を率いてこれに従った。顕家が死ぬと、熱田へ戻った(注:『太平記』による)。正平の中頃、兵を発して原・蜂屋(はちや)らとともに尾張守護代を討ってこれを敗走させた(注:『園太暦』による)。その後の消息は分からない。

宇治惟直

宇治惟直(うじ これなお)は八郎と称し、肥後の人で、阿蘇大宮司惟時(あそのだいぐうじ これとき)の子である(注:『阿蘇社文書』による。○「八郎と称す」は『太平記』による)。元弘三年、楠木正成が金剛山に拠り、関東の兵を防いだ(注:『太平記』による)。惟時はもとより勤王の志があり(注:『阿蘇社文書』による)、惟直および一族を遣わしてこれに赴かせた。備後の鞆津(とものつ)に至った時、たまたま令旨を得た(注:○按ずるに、本書はただ「令旨」とのみ記すが、おそらく護良親王(もりよししんのう)のものであろう)。そこで国へ戻り兵を挙げて賊を撃った(注:『宇治惟澄申状』による)。後に菊池武敏(きくち たけとし)に従い、足利尊氏を多々良浜で防いだ。惟直は重傷を負い、小杵山(おぎのやま)へ逃れて自殺した(注:『太平記』による)。弟の惟成(これしげ)(注:『阿蘇社文書』による)は九郎と称し、兄に従って敵を防いだが、敗れて捕えられた(注:『太平記』による)。そしてついに殺害された。興国の中頃、若干の荘田を惟時に賜わり、二子の功に報いた。惟時の一族に惟澄(これずみ)がいる(注:『阿蘇社文書』による)。

宇治惟澄

宇治惟澄は恵良小次郎(えらの こじろう)と称した(注:『阿蘇社文書』による)。惟直とともに備後から戻り、賊を討って功があった。延元の初め、菊池武敏に従って少弐貞経(しょうに さだつね)を攻め、これに勝った(注:○『惟澄申状』『太平記』を参照して合わせた)。多々良浜の敗戦で、武敏は退却した(注:『太平記』による)。足利尊氏の将今川蔵人(いまがわ の くろうど)が肥後の府に陣を敷き、党類を招き寄せた。武敏もまた兵を挙げ、虎河(とらかわ)・豊福原(とよふくばる)などで戦い(注:『小代氏文書』による)、惟澄は常に人に先んじて進んで戦った(注:『惟澄申状』による)。帝が延暦寺から京師へ還御されるに及び、各地の官軍はみな意気消沈し(注:『太平記』による)、多くが賊に寝返る中、惟澄だけは屈せず、甲佐岳(こうさだけ)に拠って砦とし、近隣の賊党を服従させた。少弐頼尚(しょうに よりひさ)配下の饗庭某(あいばのなにがし)が、数百の兵を発して攻めてきた。惟澄は山崎原(やまざきはら)でこれを防いだが、乗っていた馬が傷を受けて倒れた。惟澄は徒歩で奮戦し、数十人を斬り、敵は退いた(注:『惟澄申状』による)。これより先、菊池武重は賊の拘束から逃れて肥後へ戻り、再び義兵を挙げ(注:『太平記』『小代氏文書』による)、惟澄および内河義直(うちかわ よしなお)がこれに応じた。そこで尊氏は一色範氏(いっしき のりうじ)を肥後に遣わしてこれを攻めさせた(注:『惟澄申状』『小代氏文書』による)。惟澄は武重に従い、範氏を犬塚原(いぬづかばる)で撃ってこれを破り、その弟頼行(よりゆき)を斬った(注:『惟澄申状』による)。朝廷もまた五辻宮(いつつじのみや)を遣わして大将軍とし、九州の兵を総督させた(注:『阿蘇社文書』による)。その将である三条少将(さんじょうのしょうしょう)(注:姓名はともに欠けている)が、兵を率いて来援した。そこで再び範氏と守富荘(もりとみのしょう)で戦った。少将の兵はほとんど敗れかけたが、惟澄がこれに代わって数回交戦した。昼から夜まで戦い、ついにこれを撃破して敗走させた。三年、少弐頼尚が数千の兵を発して甲佐城を攻めた。惟澄はわずか三十余騎を率いてこれを迎え撃ち、味方は多く死傷したが、敵もまた退いた。ほどなく兵を発して日向の境まで進み、野尻(のじり)・小国(おぐに)の二城を攻略した。そこで小国城を修築し、これに拠った。大友氏の一族が、豊後の兵を発して攻めてきた。惟澄は迎え撃ち、数百人を斬った(注:『惟澄申状』による)。興国の中頃、征西大将軍懐良親王(かねよししんのう)が到着し、惟澄の功をねぎらい、肥前曾根崎荘(そねざきのしょう)、および肥後守富荘の地頭職を授けた(注:『阿蘇社文書』による)。市下道恵(いちのした どうえ)という者がおり、惟時の一族坂梨(さかなし)の子孫熊丸(まごくままる)を将として推し立て、南郷城(なんごうじょう)に拠って叛いた。惟澄はこれを攻めに赴いた。ちょうど豊後・肥後二国の兵が大挙して来たため、惟澄は弟の惟賢(これかた)とともに道でこれを防ぎ、ともに傷を負い、兵も多く死んだ。惟澄は進んで数十人を斬り、後についに南郷城を攻め落とし、孫熊丸および道恵ら六十余人を斬った。正平の初め、内河義直は八代城(やつしろじょう)にいたが、少弐頼尚がこれを攻めようとして、自ら兵を率いて守山関(もりやまのせき)に至り、関を破って入った。惟澄はその時小河城(おがわじょう)におり、出撃してこれを敗走させ、十余人を斬り、敵の武器をことごとく獲得した。翌日、敗走する敵を追って途中に陣を進め、敵の二城を攻め取った。敵はさらに八代に兵を屯し、惟澄の陣との間を隔て、我らの往来の路を絶った。惟澄もまた陣を移し、敵と対峙した。頼尚は別に兵を遣わして八代城を襲いこれを陥落させた。惟澄はそこで竹崎某(たけざきのなにがし)の兵と合流し、赴いて敵を撃ち、これを退けた。義直は再び城に入ることができた(注:『惟澄申状』による)。三年、功により筑後権守となり、ほどなく日向の吏務を兼ねた。そこで日向に兵を出し、高知尾(たかちお)の賊を撃ち、反って懐良親王に従い、山鹿城(やまがじょう)を攻め、いずれも功があった(注:『阿蘇社文書』による)。これより先、惟時は足利氏に叛いて降ったが、その後も態度は一定しなかった。惟澄だけは節を守り、菊池武光(きくち たけみつ)と通謀し、少弐・大友らの輩と、連年にわたって攻め合った(注:『阿蘇社文書』『惟澄申状』を参照して合わせた)。十三年、惟時はついにまた叛いた(注:『太平記』による)。朝廷は惟澄を阿蘇大宮司とし、一族の宗家とした。その後数年して没した(注:『阿蘇社文書』による)。惟澄は大小数百戦を経て、常に寡をもって衆を撃ち、陥落させた城は数え切れず、しばしば傷を負い、一族も多く死んだが、それでもついに屈する様子はなかったという(注:『阿蘇社文書』『惟澄申状』を参照して合わせた)。

太田守延

太田守延(おおた もりのぶ)(注:「守延」は金勝院本『太平記』による)は三郎左衛門(さぶろうざえもん)と称し、検非違使に任じられ、但馬守護となった。元弘の中頃、北条高時が皇子恒良親王(つねよししんのう)を但馬に幽閉し、守延に監視させた。源忠顕(みなもとの ただあき)が諸将とともに六波羅を攻めるに及び、守延は恒良親王を奉じて義兵を挙げ、進んで丹波で忠顕に合流した。忠顕は大いに喜び、そこで恒良親王を上将に推し、ともに六波羅を攻めた。陶山通倫(すやま みちとも)らが二条で防ぎ迎え撃ったため、守延は戦い敗れて死んだ。ともに死んだ者は三百余人であった(注:『太平記』による。「従死」以下は諸本の『太平記』による)。

津守國夏

津守国夏(つもり くになつ)は摂津の人で、住吉祭主右大弁吉祥(すみよしのさいしゅうだいべん きっしょう)の末裔である。父の国冬(くにふゆ)は神主を務め、左近衛将監従四位上で世を終えた。国夏は従五位上に叙せられ、神主の職を継いだ。嘉暦の頃、住吉社を造営し、国夏に摂津守を授け、北条高時を討たせた。帝は国夏に平定を祈らせる勅を下された。高時が滅びると、従三位に進んだ(注:『津守系図』による)。正平七年、帝が京師へ還御されるにあたり、住吉に至り、国夏の邸に十八日間滞在され、そのため正三位に叙位を進められた(注:○『太平記』『園太暦』を参照して合わせた。○『太平記』には従三位とある)。まもなく没した。享年六十五。

国冬は和歌と笛によく通じており、国夏もかなりこれを伝え(注:『津守系図』による)、あわせて鼓を打つことにも巧みであった。後醍醐帝がかつて延暦寺の講堂で祝賀の儀を行われた際、国夏は楽事に従って供をした。楽が始まるや、国夏は期に遅れて到着し、桴(ばち)を執る暇もなく、履いていた靴を脱いで、遠くから鼓に投げつけて調子を合わせた(注:毛利家本、天正本『太平記』による)。三人の子、国量(くにかず)、国貴(くにたか)、国実(くにざね)がいた。国量が跡を継いで神主となった(注:『津守系図』による。○『園太暦』には職を弟に譲ったとある)。正平十五年、住吉に行幸され、正四位下を授けられ、あわせて和歌を賜った。「位山(くらいやま)、越えても更に(こえてもさらに)、思ひしれ(おもいしれ)、神も光を(かみもひかりを)、添ふる世ぞとは(そうるよぞとは)」(注:『新葉和歌集』による)。修理大夫、摂津守を歴任し(注:『津守系図』による)、従三位に至った(注:『津守系図』『新葉和歌集』による)。

本間忠秀

本間忠秀(ほんま ただひで)(注:名は建武二年記による。○『本間系図』には持季とあり、『太平記』および異本には重氏とある)は孫四郎(まごしろう)と称し、相模の人である(注:『太平記』による)。その先祖は参議源頼定(みなもとの よりさだ)より出ており、父を資季(すけすえ)という(注:『本間系図』による)。忠秀は騎射に絶倫で、はじめ足利尊氏に仕え、尊氏が降伏するに及び、忠秀もこれに従って帰順した(注:『太平記』による)。左衛門尉となり、武者所に直に仕えた(注:建武二年記による)。ほどなく新田義貞に従い、尊氏を和田崎(わだのさき)で防ぎ、海陸で対峙した。まだ交戦しないうちに、忠秀は単騎で進み出て、弓を執り鞍にまたがって言った。「将軍の船中には多くの妓女が乗せられていると聞く。あえて何か差し上げて、酒の肴にしていただきたい。」ちょうど海鳥が魚をつかんで飛んでいたので、忠秀はこれを生け捕りにしようとして、矢を放ってその片方の翼を射切り、尊氏の船楼(せんろう)に落とした(注:「尊氏船楼」は天正本『太平記』による)。魚はまだ爪にあり、尊氏は驚いて舟の中から遠く名を尋ねた。忠秀は答えた。「私の姓氏など、もとより人に知られてはおりません。しかし坂東の弓の巧者ならば、あるいはたまたま覚えている者もありましょう。どうかもう一矢を放って名を通じさせてください。」矢は六町余り飛び、鏃は船板を貫いて敵の甲(よろい)に届いた。その矢柄には姓名が刻まれており、敵陣の中で回し見られ、驚き感嘆しない者はなかった。忠秀は扇をひらめかせて叫んだ。「射た矢が惜しいので、どうか射返していただきたい。」ある敵が出て射たが、矢は弱くすぐに落ち、味方の軍は皆どっと笑った。後に敵将高師重(こう の もろしげ)が比叡山を攻め、熊野の屈強な兵五百人を先鋒とし、肉薄して攻め上ってきた。その勢いは非常に鋭かった。忠秀が先に進み、忠秀と忠重(ただしげ)とが互いに矢を放ってこれを射殺した。敵勢は恐れて前に進まなくなり、二人はそこで味方の軍を振り返って言った。「戦がまさに始まろうとしている。まず的を設けて我らの射を試させてほしい。」味方の軍はそこで月を描いた紅の扇を掲げ、二町ほど離れた。二人は互いに言い合った。「月そのものを射てはいけない。その脇を射抜こう。」矢を放つと、一本は左に、一本は右に当たり、そこで大声で敵陣に名を呼びかけて言った。「我らの矢で甲の堅さ脆さをお試しあれ。」万の軍勢はこれにひるんで退いた(注:○本書の「呼名」の条に「姿氏」とあるのは誤りである)。その後、車駕に従って京師に入った。尊氏は六条河原でこれを斬った(注:『太平記』による)。忠秀から騎馬の術を学んだ者があり、奥義はいくつあるかと尋ねた。忠秀は笑って言った。「歩棧(ほさん)の術というものがある。これを会得すればできないことはない。」弟子は熱心にこれを学びたいと請うた。忠秀は弟子と馬を並べ、遠く山谷の間へ出て、ある危うい桟道に至って言った。「よく見ておくがよい。」そして馬を下りて徐ろに引き、桟道を渡ってまた馬に乗った。弟子は不思議に思って尋ねた。忠秀は言った。「奥義は全身にある。危険を求めて技巧を見せつけるものではない。まして崖や谷が数丈あろうとも、一鞭で飛び越えられる。ましてや桟道があるならなおさらだ。とはいえ、お前はまだ習熟していないのに、危険を飛び越える様を見慣れてしまえば、これは危険を教えることになる。」その騎射の法は、世に伝えられたという(注:『文禄清談』による)。子の資氏(すけうじ)は彦四郎(ひこしろう)と称し、これもまた馬術に優れていた(注:『本間系図』による)。