卷之一百八十五 列傳第一百十二

將軍七

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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足利義詮

足利義詮(あしかがよしあきら)は、幼名を千寿王(せんじゅおう)といい(注:『太平記』による)、尊氏(たかうじ)の三男である(注:『足利系図』による。『太平記』は次男とするが誤り)。元弘二年、尊氏が北条高時(ほうじょうたかとき)の命に従い官軍を防いだ際、義詮は母の赤橋氏(あかはしうじ)とともに人質として鎌倉(かまくら)にいた。尊氏が朝廷に帰順すると、家臣たちは義詮を抱えて下野(しもつけ)へ逃れた。新田義貞(にったよしさだ)が高時を滅ぼすと、家臣二百余人が義詮を奉じてこれに従い、鎌倉に居住した(注:『太平記』による)。尊氏は細川和氏(ほそかわかずうじ)・細川頼春(ほそかわよりはる)・細川師氏(ほそかわもろうじ)を鎌倉に遣わして義詮を補佐させた(注:『梅松論』による)。関東の将士の多くが義貞のもとを去って義詮に帰属した(注:『太平記』『梅松論』による)。詳しくは和氏の伝に記されている。建武二年、従五位下に叙せられた(注:『公卿補任』による)。延元二年秋、鎮守府大将軍源顕家(あきいえ)が鎌倉を攻めた際、義詮は細川和氏および上杉憲顕(うえすぎのりあき)・高重茂(こうのしげもち)を遣わして利根川(とねがわ)で防戦させたが、大敗して退いた。冬、顕家が北条時行(ほうじょうときゆき)・新田義興(にったよしおき)と兵を合わせて攻めて来ると、諸将は安房(あわ)・上総(かずさ)へ逃れて矛先を避けようと議した。義詮は「私は関東管領である。どうして恐れて退き、外敵の侮りを甘んじて受けられようか。今日は決死の覚悟で一戦し、幸い脱出できれば安房・上総に退いて敵の後を追い西上し、宇治(うじ)・勢多(せた)まで進んで父上と挟み撃ちにすればよい」と言った。この時、義詮は八歳であった(注:本書は十一歳とするが、ここでは『公卿補任』により年齢を推定して訂正した)。諸将は感嘆して従い、それぞれ道を分けて出撃したが戦況は不利となり、義詮を守って逃走した。三年、顕家が京へ進軍すると、義詮は再び鎌倉に入り、諸将は顕家を追って西上した。顕家はついに戦死し、義詮の予測どおりとなった(注:『太平記』による)。興国五年、光明院(こうみょういん)は義詮に左馬頭(さまのかみ)を授けた(注:『公卿補任』による)。正平元年、従四位下に昇進した(注:『公卿補任』『足利家伝』による)。四年、京に至り、叔父直義(ただよし)に代わって軍政を掌握した。直義らは朝廷に帰順した(注:『太平記』による)。五年秋、義詮は高師直(こうのもろなお)とともに美濃(みの)で土岐頼明(ときよりあき)を討ち、これを捕虜として引き揚げた(注:『園太暦』『祇園執行日記抄』『天正本太平記』による)。崇光院(すこういん)はその功を賞して義詮を参議に任じ、左近衛中将を兼ねさせた(注:『公卿補任』『園太暦』による)。翌年春、直義は官軍を率いて男山(おとこやま)に進出した。桃井直常(もものいなおつね)は坂本(さかもと)に陣を敷いた。この時、尊氏は庶長子の直冬(ただふゆ)を筑紫(つくし)で討とうとしていた。京では兵が少なく、しかも多くが直義に内通しており、離反と投降が相次いだ。義詮は関所を設けてこれを防いだが、守備の者も次々に逃げ去り、残った者は五百人に満たなかった。そこで細川清氏(ほそかわきようじ)・仁木頼章(にっきよりあきら)らは義詮に西へ向かい尊氏の軍と合流するよう勧め、義詮はこれに従い、共に京を捨てて西へ逃れた。折しも尊氏は事変を聞いて筑紫から引き返し、桂川(かつらがわ)のあたりで両者は出会い、共に京へ入った。翌日、尊氏は再び西へ走り、義詮と仁木頼章・仁木義長(にっきよしなが)は丹波(たんば)の石龕寺(せきがんじ)にとどまり、険阻な地に拠って砦を構えた。荻野(おぎの)・波波伯部(ほおかべ)・久下(くげ)・長沢(ながさわ)氏らが次々に集まり、兵勢はやや持ち直した。まもなく尊氏は直義と講和して京へ帰った。義詮も呼び戻されたが、ほどなく直義は鎌倉へ逃れた(注:『太平記』による)。冬、尊氏は直義を討とうとして、まず偽って朝廷に帰順し(注:『園太暦』による)、義詮に命じて崇光院および皇太弟直仁(なおひと)親王を廃させ、正平の年号を奉じさせた(注:『公卿補任』『歴代皇紀』『東寺長者補任』『続神皇正統記』を参照)。七年春、行在所(あんざいしょ)に砂金三千両・馬十匹を献上し、後宮の百官にも身分に応じて鞍馬・金帛を贈った。閏二月、帝が男山に行幸すると、兵士を厳重に配備した。義詮は僧慧鎮(えちん)を遣わして「和田・楠の諸将が戒厳していると聞きますが、私はすでに罪を洗い清められ、上下が和親しております。何のための備えか分かりません」と奏上させた。詔には「天下はいまだ安定しておらず、非常の備えを怠るわけにはいかない。卿は疑うことなかれ」とあった。義詮はこれを信じて備えを設けなかった。ところが官軍が各方面から突然攻め寄せ、細川顕氏(ほそかわあきうじ)・細川頼春が迎え撃ったが大敗した。義詮は従者百五十人とともに東へ逃れ、光厳(こうごん)・光明・崇光の三上皇を伴った。直仁親王が官軍に捕らえられるに至り、義詮は勢多(せた)に着いたが、官軍がすでに橋を焼いていたため進めなかった。泳ぎの達者な兵がいて、前方の岸まで泳ぎ着き、舟を引いてきた(注:天正本には「佐々木高氏が舟を探し求めて来た」とある)。一行を渡し終えると、義詮は舟を沈めさせ、笑って「これでようやく生き延びられた」と言った。武佐寺(むさでら)まで進むと、土岐頼康(ときよりやす)・大高某(おおたかなにがし)・佐々木高氏(ささきたかうじ)らが手勢を率いて馳せ参じた。義詮は騎兵三万を率いて徐々に進み東寺(とうじ)に至り、官軍は退いて男山に陣を構えた。細川顕氏と赤松則祐(あかまつのりすけ)が兵を率いて到着すると義詮の勢いは大いに振るい、そこで顕氏および斯波氏経(しばうじつね)・氏経の弟氏頼(うじより)・詮軽(あきかる)・細川清氏に東条路(とうじょうじ)を塞がせ、男山への兵糧を絶たせた(注:本書は義詮自身が東条路を塞いだとするが、ここでは『園太暦』『毛利家本・天正本太平記』を参照して改めた)。城への攻撃は連戦連勝であった。義詮は諸将の兵を合わせて期日を定め一斉に進撃し、高橋(たかはし)の民家を焼き払い、園殿口・佐羅科で戦って官軍を大いに破り、ついに男山に迫った。帝は包囲を突いて賀名生(あのう)へ戻り、義詮の諸将は精鋭の兵でこれを追撃し、大納言藤原隆資(ふじわらのたかすけ)ら三百余人を捕らえた。秋、義詮は光厳院の子彌仁(いやひと)を奉じて即位させた。これが後光厳院(ごこうごんいん)である。八年夏、山名時氏(やまなときうじ)が官軍とともに攻め寄せ、その勢いは非常に鋭かった。諸将は近江(おうみ)へ避難するよう求めたが、義詮は聞き入れず、後光厳院を東坂本(ひがしさかもと)に移し、諸将を率いて神楽岡(かぐらおか)に陣を敷いて防いだが、不利であった。翌日、後光厳院を奉じて東へ逃れた。官軍は真野浦(まのうら)で待ち伏せて攻撃し、佐々木秀綱(ささきひでつな)が戦死した。義詮はついに垂井(たるい)へ逃れ、官軍が京を守った。秋、義詮は東海・東山・北陸三道の兵を率いて京に迫った。時氏らは戦わずして逃げた(注:『太平記』による)。義詮が京に入ると、尊氏も鎌倉から戻った。義詮は鏡驛(かがみのえき)まで出迎え、後光厳院を奉じて京へ入った(注:『園太暦』による)。ついで西へ播磨(はりま)に赴き、斑鳩驛(いかるがのえき)に駐屯して時氏に備えた。九年冬、足利直冬が山名時氏とともに丹波へ進軍すると、尊氏は近江へ逃れた(注:『太平記』による)。十年春、直冬・時氏が京に入って占拠した(注:『毛利家本太平記』による)。この頃、四国・西国の兵が斑鳩驛に大集結し、義詮は尊氏と謀って京を挟み撃ちにしようとした。そこで赤松則祐・佐々木高氏・細川頼之(ほそかわよりゆき)らを率いて神南(じんなん)に至り、時氏および子の師義(もろよし)と戦って敗れた。師義が義詮の陣に直接突入すると、高氏・則祐は必死に戦い、逆に師義らを大いに破った。尊氏は東坂本に進軍し、直冬を攻めてこれを敗走させた(注:『太平記』による)。十一年、従三位に叙せられた(注:『公卿補任』『足利家伝』による)。

十三年夏、尊氏が薨去し、義詮がその跡を継いだ。光厳院は義詮に征夷大将軍を授けた(注:『太平記』『公卿補任』による)。筑紫探題の一色直氏(いっしきなおうじ)が菊池武光(きくちたけみつ)と戦って敗れ、京へ戻った。武光の兵威は非常に盛んで、義詮はその勢いに乗じて攻めて来ることを恐れ、細川繁氏(ほそかわしげうじ)を遣わして九国(九州)を鎮撫させた。繁氏は道中で病死した(注:『太平記』による)。十四年春、義詮は武蔵守を兼ねた(注:『公卿補任』『足利家伝』による)。細川清氏を執事とした。菊池武光は畠山重隆(はたけやましげたか)の日向(ひゅうが)三股城(みまたじょう)を攻め取り、畠山国久(はたけやまくにひさ)は六笠城(むつがさじょう)を捨てて逃げた(注:重隆・国久の名はいずれも金勝院本による)。少弐頼尚(しょうによりひさ)と大友氏時(おおともうじとき)は武光と戦い、互いに勝敗があった。この頃、義詮の弟基氏(もとうじ)は鎌倉にいて関東を統轄し、大いに人心を得ていたので、義詮はこれをいくらか警戒していた。基氏はこれを恐れ、吉野を討つ兵を出して忠誠を示したいと願い出た。富山国清(とやまくにきよ)に兵を率いさせて京へ送った。義詮は国清と諸将の兵を率いて尼崎(あまがさき)に出陣した。翌年春、国清らを遣わして津々山(つつやま)に駐屯させ、官軍と対峙させた。畠山勢は龍門山(りゅうもんざん)で深く戦い、大敗した。義詮は畠山義熙(はたけやまよしひろ)らを遣わして援護させた。官軍は敗走し、諸将はやがて龍泉(りゅうせん)・平石(ひらいし)の諸城を攻め取った。官軍は退いて金剛山(こんごうざん)を守った。夏、義詮は諸軍を率いて引き揚げた。秋、和田正忠(わだまさただ)・楠正儀(くすのきまさのり)が渡辺橋(わたなべばし)を断ち切り、誉田城(こんだじょう)を攻めようとした。義詮は驚愕し、なすすべを知らなかった。畠山国清と細川清氏らは兵を率いて天王寺(てんのうじ)に赴いたが、官軍は戦わずに退いた。国清らはこれを機に仁木義長(にっきよしなが)を攻めることを議した。この事が京に伝わると、義長は義詮を幽閉し、兵に守らせて、命令を下し国清を誅殺するよう求めた。義詮はやむを得ずこれに従ったが、ひそかに佐々木高氏と脱出を謀った。折しも義長が夜に義詮のもとに伺候した際、義詮は病と称して臥所に入った。義長が退出すると、義詮は婦人の衣をまとい、近侍三人を連れて側門からひそかに出て、高氏が用意していた馬を得て西山(にしやま)まで疾走した。将士はこれを聞いて四散した。翌日、義長は残った兵を率いて東へ逃れ、ついに吉野に参じて降伏した。国清らは天王寺から戻り、官軍が再び出撃した。こうして大和(やまと)・河内(かわち)・和泉(いずみ)・紀伊(きい)一帯の諸城はすべて官軍のものとなり、京は騒乱状態となった。国清は責めを負うことを恐れ、鎌倉へ逃げ帰った。その後、義長は叔父義住(よしずみ)と石塔頼房(いしどうよりふさ)に兵を率いさせて葦城山(あしきやま)に陣を敷かせた。佐々木氏頼(ささきうじより)がこれを攻撃し、義住は敗れて降伏した(注:義住の名は毛利家本による)。十六年秋、細川清氏と佐々木高氏が仲違いし、義詮は恐れて新熊野(いまくまの)へ逃れ、後光厳院を迎えた(注:後光厳院を迎えたことは『後愚昧記』『歴代皇紀』『西源院本太平記』による)。橋を断ち切って自らを守った。清氏は人を遣わして謝罪を願い出たが、義詮は応じなかった。清氏は若狭(わかさ)へ逃れ、義詮は斯波氏頼らを遣わしてこれを攻めさせた。清氏は敗れて吉野に降伏し、楠正儀・和田正武(わだまさたけ)は摂津(せっつ)を攻め、佐々木秀詮(ささきひであき)と弟の氏詮(うじあき)は神崎橋(かんざきばし)で戦って敗死した。冬、細川清氏は官軍を率いて大挙して攻め寄せた。細川氏春(ほそかわうじはる)は伊勢(いせ)・淡路(あわじ)の兵を率いてこれに合流した。赤松範実(あかまつのりざね)もまた官軍に属した。義詮は佐々木高秀(ささきたかひで)を忍常寺(にんじょうじ)に(注:今川家本は「忍」を「恩」に作り、金勝院本は「常」を「鼎」に作る)、今川貞世(いまがわさだよ)を山碕(やまざき)に、吉良満貞(きらみつさだ)らを大渡(おおわたり)に遣わして防がせた。別に将士を発し、淀(よど)・鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)・竹田(たけだ)を守らせた。高秀は官軍を望み見て陣営を閉ざして出ず、貞世もまた逃げ、他の軍もみな戦意がなかった。そこで義詮は再び後光厳院を奉じて近江へ逃れ、武佐寺(むさでら)に居した。官軍は京に入り、義詮の邸を焼いた。まもなく土岐頼康・仁木義住は伊勢・丹波で官軍と戦って有利に進めた。足利高経(あしかがたかつね)・赤松範実も再び義詮に属し、軍勢が雲のように集まった。義詮は各方面から京に迫り、別に赤松氏範(あかまつうじのり)を遣わして吉野を襲わせた。官軍はこれを聞いて自ら退き、義詮はついに京へ入った。これより先、山名時氏は倉懸城(くらかけじょう)を攻め落としていた。十七年、細川清氏は四国を攻略し、山名師義は但馬(たじま)・丹波を巡撫した。義詮は石橘和義(注:和義の名は毛利家本による)・今川貞世・大島義高(おおしまよしたか)に兵三千を率いさせて師義を防がせたが、師義は戦わずに退いた。義詮は斯波氏経を九国探題とした。秋、細川頼之は讃岐(さぬき)で細川清氏と戦い、清氏を捕らえた。楠正儀・和田正武は摂津を攻め、佐々木高氏の兵はこれを神崎(かんざき)で防いだが敗れた。斯波氏経は菊池武義(きくちたけよし)と長者原(ちょうじゃばら)で戦い敗北した。この年、斯波義将(しばよしまさ)を執事としたが、政務はすべて父の高経が取り決めていた(注:『太平記』による)。十八年、後光厳院は義詮に従二位権大納言を授けた(注:『公卿補任』による)。十九年、大内弘世(おおうちひろよ)が長門(ながと)・周防(すおう)を差し出して降った。山名時氏・山名師義・仁木義長・石塔頼房・上杉憲顕もまた相次いで降った(注:『太平記』による。石塔頼房の名は毛利家本・天正本による)。二十年、母の喪に服して職を辞したが、まもなく復職した(注:『公卿補任』による)。二十一年秋、義詮は諸将の言を聞き入れ、足利高経および義将を討とうとして、佐々木氏頼に命じて近江の兵を召集させた。高経は無実を涙ながらに訴え、義詮はさらに穏やかな言葉で説き諭して立ち去らせた。高経・義将はそこで越前(えちぜん)へ逃れた。杣山(そまやま)・栗屋(くりや)の二城に拠って背いたので、義詮は畠山義深(はたけやまよしふか)・山名氏冬(やまなうじふゆ)らを遣わしてこれを攻めさせた(注:『太平記』による)。二十二年春、正二位に昇進した(注:『公卿補任』『足利家伝』による)。高麗(こうらい)は元(げん)の皇帝の意向を受けて使者を遣わし、上書して「辺境の民が国境を侵し騒がせるのを禁じてほしい」と請うた。義詮は「海賊の仕業であり、速やかに討伐するのは難しい」と答え、鎧・馬・綾絹などを使者に持たせて帰した(注:『太平記』『善隣国宝記』を参照)。この年、足利高経が死に、義将は降伏した(注:『太平記』による)。義詮は病に臥し、子の義満(よしみつ)がまだ幼いことから、後事を託す相手を選び、細川頼之を執事とした(注:『太平記』『細川家譜』を参照)。十二月、病が重くなった。臨終に際して頼之に深く後事を託し、義満の輔導を頼んだ(注:『細川家譜』による)。薨去した時、年三十八であった(注:『公卿補任』『太平記』『尊卑分脈』『足利家伝』『常楽記』による)。法名は瑞山道権(ずいざんどうけん)といい(注:『尊卑分脈』『足利家伝』による)、宝篋院(ほうきょういん)と称された。後光厳院は左大臣従一位を追贈した(注:『尊卑分脈』『足利系図』『足利家伝』による)。晩年は坊門第(ぼうもんてい)に住み、世に坊門殿(ぼうもんどの)と呼ばれた(注:『足利家伝』『難太平記』による)。

義詮は和歌を好んだ。尊氏の喪の際、後光厳院が官位を追贈すると、義詮はその使者に対して和歌を詠んで謝意を表した。その言葉は極めて悲哀に満ちており、後光厳院はこれを『新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)』に収めた(注:『太平記』『尊卑分脈』による)。正平年間、後光厳院が中殿和歌会を催した際、義詮もこれに加わった(注:『太平記』による)。義詮には二人の子、義満(よしみつ)と満詮(みつあきら)がいた。満詮は従二位権大納言となった。応永二十五年に薨去し、従一位左大臣を追贈された(注:『公卿補任』『足利系図』『足利家伝』『薩戒記』による)。