卷之一百八十六 列傳第一百十三
將軍八
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
足利義滿
¶足利義満(あしかがよしみつ)は幼名を春王といい、足利義詮(あしかがよしあきら)の子である(注:細川頼之記・尊卑分脈・足利家伝を参照した)。正平十六年、官軍が京都の義詮を襲撃し、義詮は近江へ逃れた。義満はまだ幼く、従者に抱えられて南禅寺へ走った。僧の良芳(りょうほう)は衣で覆って五日間匿い、その後、赤松則祐(あかまつのりすけ)の白旗城へ送り届けた(注:太平記・禅林諸祖伝による)。翌年、京都へ戻った。二十一年冬、後光厳院(ごこうごんいん)は義満に従五位下を授け、自ら名を書いて賜った(注:足利家伝による)。翌年冬、義詮が病を得ると、義満は正五位下に叙され、左馬頭に任じられた(注:後愚昧記による)。十二月、義詮が薨じ、義満が家督を継いだ。年はわずか十歳であったが、聡明で並外れた度量を備えていた。細川頼之(ほそかわよりゆき)が管領となり、心を尽くして補佐したため、諸将も敬い憚った(注:太平記・花営三代記・細川頼之記を参照した)。二十三年秋、足利氏満(あしかがうじみつ)が兵を派遣し、新田義宗(にったよしむね)・脇屋義治(わきやよしはる)と越後・上野の間で戦った。義宗は敗れて死に、義治は逃走した(注:喜連川系図による)。冬、義満は征夷大将軍に任じられた(注:後深心院関白記・後愚昧記・足利家伝による)。二十四年、楠正儀(くすのきまさのり)が降伏した。秋、桃井直常(もものいなおつね)が兵を率いて越中の松倉城に拠り、赤松氏範(あかまつうじのり)は摂津の中島に拠ったため、義満は赤松則祐・赤松光範(あかまつみつのり)を派遣して攻めさせた。氏範は敗走した。
¶建徳元年春、越中守護の斯波義将(しばよしまさ)が桃井直和(もものいなおかず)と戦ってこれを捕らえ、直常は松倉城を捨てて逃げた。二年秋、越中・能登の兵が直常と戦い、これを破った(注:花営三代記による)。冬、西国で兵乱が起こり、義満は今川貞世(いまがわさだよ)を九州探題に任じ、大内義弘(おおうちよしひろ)とともにこれを討たせた。連年攻め続け、次第に平定に近づいた(注:花営三代記・応永記・吉川家伝を参照した)。楠正儀が来て謁見したので、義満は正儀を河内に帰らせた。官軍はしばしば紀伊・河内を往来して正儀を攻めた。このため義満は細川頼之と謀り、大挙して吉野を攻めることとした。諸国から兵を召集し、細川頼元(ほそかわよりもと)を派遣して正儀を援護させた。官軍は退き、頼元はしばしば戦って有利に進めた(注:後深心院関白記・花営三代記を参照した)。この年、後光厳院は皇太子に位を譲り、これが後円融院(ごえんゆういん)である。文中二年春、義満は細川氏春(ほそかわうじはる)に天野の行宮を攻めさせた。秋、天皇は吉野へ行幸してこれを避けた。氏春は内大臣藤原隆俊(ふじわらのたかとし)と戦ってこれを捕らえた(注:花営三代記・鳩嶺雑事記を参照した)。冬、義満は参議に任じられ、左近衛中将を兼ね、従四位下に叙された(注:花営三代記・公卿補任・喜連川系図による。系図には「この年義満が自ら諸将を率いて西国を平定した」とあるが、三代記を考えるに義満はこの時京都にいて西へ赴いた事跡はないので、これを採らない)。天授元年秋、今川貞世は少弐冬資(しょうにふゆすけ)と戦ってこれを斬った(注:花営三代記による)。冬、従三位に叙された。四年春、権大納言に任じられた。室町に新邸を造営して移り住んだ。世に花の御所と称した(注:足利家伝による)。秋、右近衛大将を兼ねた。五年春、右馬寮御監を兼ねた(注:公卿補任・足利家伝による)。これより先、和泉の土丸城の将橋本正督(はしもとまさただ)が降伏を願い出たので、義満はそれによって兵を南へ派遣し、しばしば官軍を破った。さらに山名義理(やまなよしただ)・山名氏清(やまなうじきよ)らを派遣して土丸城を攻め落とした。この春、紀伊の藤波・石垣などの城を相次いで陥落させ、また諸将を派遣して大和の十市氏(とおちし)を撃った(注:花営三代記による)。ちょうど足利氏満が謀反を企てていることが少し漏れ聞こえたため、義満は急いで南方に向かった諸将を呼び戻し、京都の守りを固めた(注:喜連川系図・花営三代記を参照した)。氏満は悔いて和睦を乞い、事は収まった(注:喜連川系図による)。夏、義満は細川頼之が権勢を持つことを忌み嫌い、積もり積もって不仲になり、兵を集めて自ら備え、頼之に讃岐へ退くよう命じ、さらに兵を発してこれを討とうとした。たまたま義満の怒りが解けて事は収まった。斯波義将を管領とした(注:花営三代記による。東寺長者補任を参照した)。六年春、従一位に叙された(注:公卿補任・花営三代記・足利家伝による。三代記・家伝・尊卑分脈はいずれも「天授四年に従二位に叙された」とするが、補任にはこの年まですべて従三位と記されているので、これを採らない)。秋、山名氏清が紀伊で官軍と戦い大いにこれを破り、橋本民部大輔(はしもとみんぶのたいふ)らを捕らえた。また高野の政所隅田某(すだのなにがし)を破り、生地城を奪った(注:花営三代記による)。
¶弘和元年、内大臣に任じられた。翌年春、左大臣となり、蔵人所別当を兼ね、牛車に乗ることを許され、院の執事となった(注:公卿補任・足利家伝による)。山名氏清が官軍を撃破し(注:和漢合運による)、これによって河内・和泉・紀伊をことごとく手中に収め、朝廷方(行在)はかろうじて吉野を保つのみとなった(注:花営三代記による)。夏、後円融院は皇太子に位を譲り、これが後小松天皇である(注:皇年代略紀による)。三年、義満は淳和院・奨学院別当・源氏長者となった。これより先、久我氏(こがし)が代々源氏長者を務めていたが、このとき初めて足利氏に移った。ほどなく准三宮に准じられた(注:公卿補任による。足利家伝・皇年代略紀・尊卑分脈を参照した)。冬、後小松帝が室町第に行幸した(注:足利家伝による)。足利氏は代々禅宗を篤く敬っていたが、義満に至ってますます盛んになり、初めて僧録司を置き、鹿苑院・宝幢寺を建立した。この年、また相国寺を造営し、諸国の守護に助役を命じたため、その規模と壮麗さは当時比類がなかった。後に寺内に七重の塔を建てた(注:禅林諸祖伝・和漢合符・相国寺供養記を参照した)。元中元年、右近衛大将を辞した(注:公卿補任による)。四年春、後小松帝が元服を加えられ、義満が理髪の役を務めた(注:皇年代略紀・足利家伝による)。五年夏、左大臣を辞した(注:公卿補任による)。秋、駿河へ赴き富士山を見た(注:東寺長者補任による)。京都で新田氏の一族二人を捕らえ、これを斬った(注:常楽記による)。六年春、安芸へ赴いて厳島神社に参拝し、自ら筑紫へ赴いて風俗を巡察しようとした。細川頼之に命じて船を用意させ、厳島に至り、さらに周防の岩屋に停泊した。当時大風が連日吹き荒れ、船は漂流して目的地に着けなかった。義満は特別に小舟に乗り、夜に田島浦に至り、漁師の家に身を寄せた。翌日、頼之と落ち合い、そのままともに東へ帰った(注:厳島詣記・和漢合符による)。七年春、兵を派遣して美濃の土岐康行(ときやすゆき)を討った(注:和漢合符による。明徳記はこれを六年のこととする)。康行が降伏を願い出たので、これを赦した。この年、山名時熙(やまなときひろ)・山名氏之(やまなうじゆき)が命令に背いたため、山名氏清・山名満幸(やまなみつゆき)を派遣してこれを討たせた。氏清は「訓戒を加えて自ら改めさせてはどうか」と願い出た。義満は怒って言った、「すでに兵を出せと命じたのだ。人が謝罪したからといって、私は決して赦さぬ。」氏清・満幸はついに攻めてこれを追い払った。義満はそこで時熙・氏之の領国を分けて恩賞とし、伯耆・隠岐を満幸に、但馬を氏清に授けた(注:明徳記による)。八年春、斯波義将を罷免した。夏、細川頼元を管領とし、細川頼之を呼び戻して、以前どおり政務を補佐させた(注:東寺長者補任による)。これより先、山名時熙・山名氏之がひそかに京都に入って謝罪し、義満はこれを聞き入れようとしていた。山名氏清・山名満幸はこれを聞いて怒った。冬、ついに兵を挙げて京都へ向かい、上下は騒然となった。義満は使者を送って氏清の兄義理を諭してこれを止めさせようとしたが、聞き入れなかった。義満は諸将の向背(どちらに味方するか)を見極めようとし、夜、諸将を古山満藤(こやまみつふじ)の邸に召し集めて軍議を開いた。ある者が言った、「国家は事なきを第一とすべきです。彼らにもし訴えたいことがあるなら、外様の礼をもって聞き入れてはどうでしょうか。」義満は言った、「彼らは天下を狙っているのだ。今さら何を訴えるというのか。今釈放すれば、後で必ずまた反逆する。時機を逃さず誅殺するにこしたことはない。彼らはおそらく我々が東山・比叡の険しい地に拠って迎え撃つと考え、こちらは自ら東寺から出るだろう。諸将を内野に布陣させ、敵を誘い込んで挟み撃ちにすれば、一戦で決着をつけられよう。」一色詮範(いっしきあきのり)が言った、「東寺と内野は地勢が険しく隔たっており、進退の統制が難しくなります。どうか将軍は堀川に旗を立て、諸軍を内野に駐屯させて敵の来襲を待ち、機を見て一気に攻撃なさいますよう。敵がもし河岸伝いに来るなら、内野の諸軍は兵を分けて街路で迎え撃てば、必ず勝利できましょう。また別動隊を東寺に駐屯させ、内野の戦いが始まったと聞けば、その後を追って挟み撃ちにするのも、また万全の策です。」義満はこれに従った。翌日、詮範の堀川邸に出陣し、細川頼之・細川頼元・大内義弘・赤松義則(あかまつよしのり)・畠山基国(はたけやまもとくに)らの兵八千を分けて派遣し、内野の神祇官などの場所に布陣させた。今川泰範(いまがわやすのり)・佐々木満高(ささきみつたか)の兵八百は東寺に布陣した(注:明徳記による)。医師の坂士仏(さかしぶつ)が薬を献上した。その名を尋ねると、「必勝散」と答えた。義満は大いに喜んだ(注:季瓊日録による)。翌朝、山名氏清の先鋒が大宮に至り、大内義弘がこれと戦って破り、その将山名義数(やまなよしかず)らを斬った。敵の大軍がさらに続いて進んで来ると聞き、馳せ戻って援軍を求めた。義満は自らの佩刀を与えて、力戦するよう励ました。赤松義則を派遣してこれを助けさせた。細川頼之・畠山基国は山名満幸と内野で戦ったが、不利であった。義満はそこで麾下の兵三千を率いて救援に赴き、これを撃退した。氏清もまた兵二千を率いて大宮に入り、勢いは非常に鋭かった。義満は一色詮範を派遣して義弘を援護させた。戦いが酣(たけなわ)になると、義満自ら麾下の兵を指揮し、鼓を打ち鳴らして進んだ。敵兵は義満の旗を見て、大いに崩れて逃げ去った。詮範はついに氏清を捕らえてこれを斬り、その首を献上した。義満はこれを指さして言った、「天誅は逃れられぬものだ。お前たちも謀反人の末路がどうなるかよく見るがよい。」後に内野で戦死者を弔う法会を催し、氏清も併せて祀った。これを聞いた者は皆その度量に感嘆した。翌年春、論功行賞を行い、山名氏の領していた十か国を分け与え、山城を畠山基国に、丹波を細川頼元に、美作を赤松義則に、和泉・紀伊を大内義弘に、但馬を山名時熙に、伯耆を山名氏之に、隠岐・出雲を佐々木高詮(ささきたかのり)に授けた。一色詮範の功が最も大きかったので、若狭の今富荘は年貢が最も多かったため、特にこれを授けた。ほどなく義弘を派遣して紀伊の山名義理を攻めさせた。義理は城を捨てて逃げた。山名満幸もまた逃走した(注:明徳記による)。足利氏満に陸奥・出羽を併せ領させるよう命じた(注:喜連川系図による。原本は前年のこととするが、誤りである)。三月、細川頼之が死去し、義満は喪服(素服)を着て、草鞋を履き竹の杖をつき、自ら葬送に赴いた(注:明徳記による。喪服・草鞋・竹杖は細川系図による)。秋、相国寺の落慶供養を行った。後小松帝は勅命により御斎会の食を賜った(注:相国寺供養記・足利家伝による)。山名一族が滅んでからは、あえて命令に逆らう強情な者はいなくなった(注:明徳記による)。冬、大内義弘に命じて吉野で和睦を講じさせ、後亀山帝はこれを許した(注:応永記による)。そこで京都へ行幸し、三種の神器を後小松帝に伝えた(注:続神皇正統記・東寺長者補任・応永記による)。尊氏が光明院を奉じて擁立して以来、五代の天皇を経て五十七年に及んでいたが、ここに至って南北朝は統一された。この年の冬、再び左大臣に任じられた。明徳四年秋、兵仗を賜り、ほどなく左大臣を辞した(注:公卿補任による)。冬、征夷大将軍を辞した(注:足利家伝による)。この年、細川頼元を罷免し、また斯波義将を管領とした(注:尊卑分脈による)。応永元年秋、相国寺が火災に遭い、再建した(注:和漢合符による)。冬、太政大臣を拝命した(注:公卿補任・足利家伝による)。天下の人々はこれを「公方(くぼう)」と称した(注:難太平記・尊卑分脈による)。二年夏、天皇が室町第に行幸した(注:足利家伝による)。義満は太政大臣を辞し、剃髪して「天山道義(てんざんどうぎ)」と号した(注:公卿補任・足利家伝による)。三年秋、延暦寺に参詣し、その儀式は行幸に擬せられた(注:足利家伝による)。四年、藤原公経(ふじわらのきんつね)の西園寺の跡地により、北山に別荘を構え、諸国の守護に助役を命じた。土木の限りを尽くし、三層の楼閣を作り、一丈四方の板を天井とし、床・壁・柱・戸はことごとく金塗りとした。斯波義将はこのとき既に剃髪して仏門に入っていたが、これを見て義満に「まさにこれは西方極楽浄土そのものです」と言った。完成すると移り住み、子の義持(よしもち)を室町第に住まわせた(注:北山行幸記・足利家伝・臥雲日件録・椿葉記・文禄清談を参照した)。この年、大内義弘を筑紫に派遣し、少弐・菊池・千葉・大村らを撃ってこれを平定した(注:応永記による)。五年、斯波義将を罷免した(注:尊卑分脈による)。畠山基国を管領とした(注:尊卑分脈・畠山系図による)。六年冬、大内義弘が背き、兵を率いて和泉の堺浦に拠った。土岐詮直(ときあきなお)が尾張で挙兵し、京極某(きょうごくのなにがし)が近江で挙兵し、山名時清(やまなとききよ)が丹波で挙兵し、皆これに呼応した。義満は使者を送って義弘を招き、また僧の中津(ちゅうしん)を派遣して義弘を諭させたが、従わなかった。義満は言った、「彼が兵威を振るって三十年余り、それはみな私の力によるものだ。山名氏清のような者でさえ、私はすでに滅ぼした。義弘がいかに強くとも、ひとたび私に背いたところで、何ができようか。」そこで自ら車返(くるまがえし)の山に出陣し、畠山基国・斯波義将・細川頼元(注:頼元については喜連川系図による)を派遣し、三万の兵を率いてこれを攻め落とさせた。義弘を斬り、兵を派遣して詮直を討ち、残党はことごとく潰えた。当時、足利満兼(あしかがみつかね)は義弘と示し合わせ、東西呼応して京都を攻めようとし、武蔵国府に出陣して義満への援軍と称していた。七年、義満は満兼に足利荘を授け、満兼はそこで兵を解いた(注:喜連川系図による。応永記を参照した)。八年、これより先、義満は僧の祖阿(そあ)と商人の肥富(こいとみ)を明国に派遣して通商を求めさせ、当時の明の皇帝はしばしば僧を派遣して通商・交易を求め、あわせて辺境を侵す不逞の民を取り締まるよう求めたので、これ以降使者の往来が絶えなかった(注:善隣国宝記による)。十二年、畠山基国を罷免し、斯波義重(しばよししげ)を管領とした(注:尊卑分脈による)。十五年春、天皇が北山の別荘に行幸し、義満は僧衣をまとい念珠を手にし、幼い子の義嗣(よしつぐ)を連れて出迎えた。義嗣は関白藤原経嗣(ふじわらのつねつぐ)の上位に列した(注:北山行幸記・足利家伝・椿葉記を参照した)。五月、義満は薨じた。享年五十一。鹿苑院と称された(注:足利家伝・鹿苑殿薨葬記による)。朝廷は太上天皇の号を贈ろうとしたが、義持はこれを辞退して受けなかった(注:尊卑分脈による)。
¶尊氏・義詮の治世は寛大に過ぎて統制が行き届かず、功臣たちは驕り高ぶって、ともすれば謀反を起こした。義満は家督を継ぐと、軍政を整備し、規律は大いに振るった。山名・大内の二族が相次いで誅滅されると、強情に反抗する者はことごとく息を潜めた(注:太平記・応永記・明徳記・細川頼之記・喜連川系図・難太平記を参照した)。義満は戊戌(つちのえいぬ)の年に生まれたため、人々は「その生まれ年の干支は戈(ほこ)に従う。それゆえ武をもってよく乱を鎮めることができたのだ」と評した。家督を継いだ当初から、細川頼之は多くの老練な人物を推挙し、斯波義将のような者は常に事に応じて諫言し、多くの過ちを正した。禍乱を平定し、領国を広げ、足利氏の事業を盛んにしたのは、左右で補佐し正した功績が最も大きい。しかし壮年期には驕り贅沢に流れ、法に外れた行いも多く、政令を思うままに行ったため、諸将もまた恨みを抱くようになった(注:臥雲日件録・日工集・難太平記による)。尊氏の時代には、およそ政務は源頼朝の制度に倣って行われていたが、義満に至って、その制度はますます整備されたという(注:花営三代記による)。子の義持が家督を継ぎ、次に義嗣、次に義教(よしのり)、次に僧の周嵩(しゅうすう)、次に義承(ぎしょう)・義昭(ぎしょう)・法尊(ほうそん)・持円(じえん)・尊満(そんまん)がおり、これらもまた皆僧となった(注:足利系図による)。