卷之一百六十四 列傳第九十一

藤原師賢、藤原隆資、藤原隆俊、藤原實世

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原師賢

藤原師賢(ふじわらのもろかた)は、内大臣師信の子である。家系は花山院(かざんいん)家と称した(注:尊卑分脈による)。花園天皇(はなぞのてんのう)に仕えて参議となり、左大弁を兼ね、順序を飛び越えて権中納言に任じられ、帯剣を許された。後醍醐天皇が即位すると、中宮権大夫・右衛門督・弾正尹を兼ね、正二位大納言に昇進した(注:公卿補任による)。天皇が北条高時(ほうじょうたかとき)討伐を謀ると、師賢は真っ先にこれに加わった。まもなく計画が漏れ、北条高時は権中納言藤原資朝(ふじわらのすけとも)らを捕らえた(注:太平記による)。師賢は北山に引きこもっていたが、高時が人を遣わして僧円観(えんかん)や右中弁藤原俊基(としもと)らを捕らえるに及び、朝廷は震え恐れたため、師賢はそこで再び出仕した(注:新葉和歌集・太平記による)。高時が兵を遣わして天皇を移そうとしたので、師賢と権中納言藤原藤房(ふじふさ)は夜、天皇を奉じて禁中を脱出した。三条河原(さんじょうがわら)に至ると、師賢に袞龍衣(こんりゅうい、天皇の礼服)を着せ、御輿に乗せて天皇の身代わりとした。権中納言藤原隆資(たかすけ)・左近衛中将藤原為明(ためあき)・源定平(さだひら)が左右から付き従い、延暦寺(えんりゃくじ)へ向かい、賊軍をそこに引きつけようとした。僧徒はこれを迎え、たいへん謹んで警護し、西塔に住まわせた。賊軍が攻めてきたが、僧徒はこれを防ぎ破った。やがて本院を行宮(あんぐう、仮の御所)とする議が起こり、人々がことごとく集まって出御を促した。そのとき風が輿の簾を吹き上げ、師賢が袞衣を着て座っているのが見えたため、人々は皆驚き愕然とした(注:増鏡によれば、天皇が実は笠置におられると聞き、欺かれていたと知って、人々は次第に離散していったという)。人々は連れ立って去っていった。師賢は隆資らとともに逃れて笠置(かさぎ)へ向かった(注:太平記による)。笠置が陥落すると、藤房・源具行(ともゆき)とともに天皇を助けて脱出したが、途中ではぐれて捕虜となった(注:増鏡による)。髪を剃り、素貞(そてい)と号した(注:公卿補任による。太平記には師賢は配所で剃髪したとあるが、これは誤りであろう)。翌年の夏、高時は師賢を下総(しもうさ)に流し、千葉貞胤(さだたね)の家に幽閉した(注:増鏡・太平記による)。師賢は若い頃から学問を好み、栄辱を意に介することがなかった。配所にあっては、主君のことを思うたびに、むせび泣き涙を流さないことはなかった。自らこう口ずさんだという。「主君が憂えれば臣下は辱められ、主君が辱められれば臣下は死ぬものである。今この時、たとえ塩漬けにされ肉を裂かれようとも、何も憂うることはない。」(注:太平記による)時折和歌を詠んでは自らを慰めた(注:新葉和歌集による)。その年の冬、病により薨去した(注:常楽記・太平記による)。享年三十二(注:公卿補任による)。太政大臣を追贈され、諡(おくりな)を文貞(ぶんてい)といった(注:新葉和歌集による)。

二人の子、家賢(いえかた)・信賢(のぶかた)がいた(注:尊卑分脈による)。家賢は後醍醐天皇に仕えて侍従となった。まもなく光明院に仕えて参議となった(注:公卿補任による)。正平六年、行在所(あんざいしょ)に参上した(注:太平記による)。まもなく再び崇光院・後光厳院に仕え、権中納言となった(注:公卿補任による)。二十一年に至り、再び行在所に参上して大納言となり、内大臣・右近衛大将を歴任した。この年、薨去し、妙光寺(みょうこうじ)と号した。三人の子、長親(ながちか)・長賢(ながかた)・僧元要(げんよう)がいた(注:新葉和歌集による)。長親は学問の才があり、親に仕えて孝行であった。二十歳前後で父の喪に遭い、三年の喪に服し、悲しみのあまり礼を超えるほど身をやつした。喪が明けないうちに村上天皇(むらかみてんのう)が崩御し、素服(喪服)を賜って、和歌に心情を託して詠んだが、その言葉は悲愴で、当時の人々はこれを伝え口ずさんだ(注:耕雲口伝・新葉和歌集による)。後に中納言に任じられ、文章博士(もんじょうはかせ)を兼ね、大納言・右近衛大将に昇進した(注:新葉和歌集による)。剃髪して法名を明魏(みょうぎ)といい、耕雲山人(こううんさんじん)と号した(注:古本仙源抄跋による)。南禅寺禅栖院(ぜんせいいん)に住んだ。宗良親王(むねよししんのう)に和歌を学び、深くその師法を会得し、新葉和歌集の撰に参加した。著書に耕雲口伝がある(注:耕雲口伝による)。また音律に通じ、あわせて韻学にも通じており、片仮字反切義解(かたかなはんせつぎかい)を著した(注:同書の自序による)。長賢は権中納言となった。元要は明(みん)に渡って仏法を求めた(注:新葉和歌集による)。信賢は内大臣の官に就いた(注:常楽記による)。一人の娘があり、和歌をよくした(注:新葉和歌集による)。

藤原隆資

藤原隆資(たかすけ)は、左近衛中将隆実(たかざね)の子である。家系は四条(しじょう)家と称した(注:尊卑分脈による)。隆実は早くに亡くなったため、祖父の権大納言隆顕(たかあき)が養って子とした。権中納言に任じられ、検非違使別当となった(注:公卿補任・尊卑分脈を参照した)。北条高時が反逆を企てると、天皇は密かに宮中を出てこれを避けた。隆資は急いで三条河原まで追いついた(注:増鏡による。三条河原の記述は太平記による)。大納言藤原師賢に従って延暦寺へ赴いたが、事が破れると笠置へ向かった(注:太平記による)。笠置が陥落すると、僧に身をやつして逃げ隠れた。事態が平定されると、京に帰った。詔により髪を蓄えることを許され、官職に復した(注:増鏡・公卿補任を参照した)。延元元年、足利尊氏(あしかがたかうじ)が再び宮中を侵した。隆資は行幸に従って延暦寺へ赴き、兵を率いて男山(おとこやま)に出陣し、新田義貞(にったよしさだ)らとともに日時を定めて尊氏を挟撃することとし、火を挙げることを合図とする約束をした。ちょうど白河の民家で火事が起こり、隆資はその煙を望み見て官軍がすでに京に入ったものと思い、そこで三千余人を率いて東寺に進攻し、高師直(こうのもろなお)と戦ってこれを破った。兵士たちは奮い進んで火を放ち楼櫓(ろうろう、やぐら)を焼いたが、敵兵は力を尽くして防いだため、隆資は敗れて退いた。義貞も続いて到着したが、これもまた大敗した。天皇は尊氏の願いを聞き入れ、京へ還幸した。隆資は紀伊(きい)に逃れ、後に吉野(よしの)に参上した。天皇が崩御するに及んで、権大納言藤原実世(さねよ)とともに幼い主君を輔佐し、もっぱら庶務を決裁した。

これより先、脇屋義助(わきやよしすけ)が北国の経略にあたっていたが、戦いに敗れて間道を通って吉野に参上したところ、天皇はこれを慰め諭し、格別に寵愛を加えた。実世は人々の集まる席でこう言った。「義助は戦に敗れ、身の置き所もないはずである。それなのに朝廷に逃げ込んだ後、手厚い褒賞を受けている。これは平維盛(たいらのこれもり)が敗れて帰った際、かえって位階を進められたのと何が違うというのか。」隆資はこう答えた。「彼が敗れたのは、確かに天がいまだ王室を助けていないためでもあろうが、そもそも朝廷の処置が適切さを欠いたことにも原因がある。彼一人に咎を帰すことはできない。昔、将に命じるにあたっては、その礼をたいへん重んじたものである。将が軍にある間は、朝廷からの統制に従わせず、もっぱら責任を委ねて成果を求めた。そうして全軍の兵士に、ただ将の命令のみを聞かせたからこそ、敵に勝ち国を平定することができたのである。ところが先の北国の戦役では、兵士たちはことあるごとに『将の指揮を待つ必要はない、直接朝廷の裁可を仰げばよい』と訴え出た。そして行在所の侍従の臣たちは、功労を求められればかならずこれに報い、それが及ばないことばかりを恐れた。そのため軍への供給が乏しくなったと訴えても、もはや手が回らなかった。ひどい場合には、近臣が北国軍の戦勝の地を指定して恩賞を求め、求められるたびにそのまま与えたため、将の権威は日々軽んじられ、兵士の心は日々驕るようになった。これはすべて恩賞を得るための道であって、戦いそのものの罪ではない。天の意はこれまでの過失を明らかに見抜いており、格別にその朝廷ゆえに義助を労ったのである。その昔、秦の孟明視(もうめいし)・西乞術(せいきつじゅつ)・白乙丙(はくいつへい)が鄭(てい)を襲ったが、晋に敗れた。秦の穆公(ぼくこう)は自ら咎を引き受け、三人の将を咎めなかった。これによって見れば、朝廷が義助を処遇したことは、まことに時宜にかなっている。どうして維盛の一件と同列に論じることができようか。」実世は黙り込んだ。

正平三年、楠正行(くすのきまさつら)が高師直を四条畷(しじょうなわて)で防いだ。隆資は三千の兵を率い(注:三千の数は北条家本・南都本・天正本の太平記による)、飯盛山(いいもりやま)に陣を敷いて敵軍を牽制した。まもなく正行が戦死し、師直は行在所を襲った。隆資は天皇を奉じて賀名生(あのう)へ避難した(注:太平記による)。従一位に叙され、大納言に任じられた(注:公卿補任・尊卑分脈による)。七年、行幸に従って男山に赴いたが、官軍は戦況が振るわなかった。天皇は馬に乗って夜のうちに南へ帰り、敵兵の追撃が急であったため、隆資は引き返して戦い、そこで戦死した(注:太平記による)。左大臣を追贈された(注:新葉和歌集・李花集による)。六人の子、隆量(たかかず)・隆章(たかあきら)・隆任(たかとう)・隆俊(たかとし)・隆保(たかやす)(注:尊卑分脈による)・有資(ありすけ)(注:太平記による)がいた。隆量は左近衛少将で、元弘の乱で害された。隆章は左近衛少将で、護良親王(もりよししんのう)に属して戦死した(注:尊卑分脈による)。有資は近衛少将に任じられ、伊予(いよ)国司となり、大館氏明(おおだてうじあきら)とともに四国を制圧し、官軍は大いに勢いを振るった。国中の敵将は皆城を棄てて逃げた(注:太平記による。この後、大館氏明が戦死して城が陥落したことが本書に見える。おそらく有資もまた死んだのであろうが、今のところ確認できていない)。

藤原隆俊

藤原隆俊(たかとし)は、近衛少将に任じられた(注:太平記による。左近衛か右近衛かは未詳)。正平年間に中納言となった(注:園太暦による)。まもなく大納言に任じられた(注:園太暦・太平記による)。八年、紀伊で挙兵し、熊野八荘司(くまのはっしょうじ)がことごとく従った。守護某(なにがし)を攻めてこれを破った(注:園太暦による)。そこで諸将の兵を統率した。ちょうど山名時氏(やまなときうじ)が京を奪回し、足利義詮(あしかがよしあきら)は後光厳院を奉じて東へ逃れたが、まもなく大軍を集めて反撃した。時氏は伯耆(ほうき)へ退き帰り、隆俊もまた諸軍とともに退いた(注:園太暦・太平記による)。十年、また時氏とともに諸将を率いて神南(こうなん)に義詮を攻めたが、戦況が振るわず退き帰った。十五年、義詮が畠山国清(はたけやまくにきよ)の兵を率いて攻めてきたので、隆俊は三千人を率いて最初峰(さいしょがみね)に陣を敷き、楠正儀(くすのきまさのり)と互いに呼応して援護し合った。畠山義深(よしふか)が三万余人を率いて攻めてきたが、軍を率いる将は伊勢守塩谷某(しおのやなにがし)であった(注:北条家本・南都本には伊賀守とあり、西源院本には中務とある)。兵を引いて偽って退き、龍門山(りゅうもんざん)に陣を敷くと、敵は全軍でこれを追って険しい隘路まで至り、兵士たちは束のように密集した。塩谷は兵士たちに高所に登らせて乱射させ、自らも先頭に立って軍を督戦した。敵軍は潰走すること三十余町に及び、武器や道具が道に散乱した。塩谷は勢いに乗じて一気に追撃したが、馬が傷を負って崖下に転落し、敵に殺された。畠山義煕(よしひろ)がまた七千人を率いて挟撃してきたところ、ちょうど湯川荘司某(ゆかわのしょうじなにがし)と大和守越智某(おちなにがし)(注:「大和守」は毛利家本による)がともに背いて降伏した。隆俊は逃れて阿瀬河城(あせがわじょう)に籠って守った。十六年、細川清氏(ほそかわきようじ)とともに義詮を攻めてこれに勝ったが、まもなく兵を引いて帰った(注:太平記による)。後に内大臣となった(注:新葉和歌集による)。敵が天野(あまの)の行宮に迫るに及んで、和田正武(わだまさたけ)らとともに力を合わせてこれを防いだ(注:朽木文書による)。文中二年、兵を率いて夜、敵陣を襲ったが、勝てずに戦死した。天皇はついに吉野へ還幸した(注:三代記・後深心院関白記・鳩嶺雑事記を参照した)。

隆俊は勤王の功があり、常に朝廷の再興を心にかけていた。かつて住吉(すみよし)の行在所で和歌会が催された際、隆俊は探題(くじで題を決めること)に当たり、「弓に寄せて懐いを述べる」という題を得た。そこで詠んだ歌にいう。「君が為(幾美我多米)、我が取り來つる(和我登理機都留)、梓弓(阿豆左由美)、元の都に(毛登農美夜古倍)、歸さざらめや(加倍左弉良米夜)。」(あなたのために私が手に取ってきたこの梓弓のように、必ずやもとの都にお戻し申し上げよう、という意。)(注:新葉和歌集による)

藤原實世

藤原実世(さねよ)は、太政大臣公賢(きんかた)の子である。嘉暦・元徳の間に、参議を経て権中納言に至り、左衛門督・検非違使別当を兼ね、正三位を授けられた(注:尊卑分脈・園太暦・公卿補任による)。天皇が奈良に行幸するに及んで、北条仲時(なかとき)・北条時益(ときます)が実世を捕らえ(注:公卿補任・増鏡による。太平記には実世を捕らえたのは笠置陥落の後とあるが、ここでは採らない)、小田貞知(おださだとも)の家に幽閉した(注:光明寺蔵書残篇による)。光厳院はその官職を削るよう命じた(注:増鏡による)。まもなく放免され、公賢の家に留め置かれた(注:公卿補任・尊卑分脈による)。天皇が京へお戻りになるに及んで、実世は播磨(はりま)まで出迎えた(注:書写山行幸記による)。官職を回復され(注:公卿補任・尊卑分脈による)、勅命を奉じて恢復に功のあった将士について論じた(注:太平記による)。この事は藤原藤房伝に詳しい。建武元年、東宮権大夫・大学頭を兼ねた(注:公卿補任による)。二年、大智院宮忠房親王(ちゅうぼうしんのう)に従い、東へ足利尊氏を征伐した。翌年、軍が帰還すると、二万余人の兵を率い、鎮守府大将軍源顕家(あきいえ)らとともに、京で尊氏を討ってこれを敗走させた(注:太平記による)。その功により正二位に進み(注:公卿補任・尊卑分脈による)、まもなく尾張守を兼ねた(注:公卿補任による)。尊氏が再び京を侵すと、実世は行幸に従って延暦寺へ赴き、また兵を率いて権大納言藤原師基(もろもと)とともに尊氏を討ったが、敗れて帰った。ちょうど天皇が尊氏の和睦を聞き入れ、京へ帰ろうとしていた。実世は急ぎ使者を遣わして新田義貞に事の次第を告げた。義貞が切実に奏上したため、天皇は皇太子を義貞に託すことで慰め諭し(注:太平記による)、実世に勅してこれを輔佐させた(注:神皇正統記による)。そこで従って越前(えちぜん)へ赴き、金崎城(かねがさきじょう)に居たが、やがて義貞とともに杣山城(そまやまじょう)を守った(注:太平記による)。後に吉野に至り(注:公卿補任による)、権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・尊卑分脈・園太暦による)。

後村上天皇が即位すると、まだ年若かったため、実世は権中納言藤原隆資とともに機務に参与して決裁した。足利直義(ただよし)が降伏を願い出たので、朝廷の臣下にこれを議論させた。実世はこう建言した。「天皇が各地を転々とし、百官が流離してきたこと、今に至るまで十余年、これはすべてかの凶悪な小者たちの仕業である。今、その配下の者に図られて、窮地に陥り命乞いをしているが、思うに天の威光を借りて私怨を晴らそうとしているだけであろう。この機に乗じて誅殺し、後の憂いを絶つべきである。」左大臣師基らは「直義が帰順すれば、天下統一の時が到来する」と考えた。天皇はついにこれを容れたが、直義はまもなくまた背いた(注:太平記による)。後に左大臣に任じられ(注:尊卑分脈・園太暦による)、従一位に昇った。正平十三年八月、病により薨去した。享年五十一(注:公卿補任による)。子に公行(きんゆき)がいた(注:園太暦による)。