卷之一百六十九 列傳第九十六
楠正成、楠正行、楠正家、和田正遠ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
楠正成
¶楠正成(くすのきまさしげ)は河内国(かわちのくに)の人で、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の子孫にあたる。代々金剛山(こんごうさん)の西側に住んでいた(注:『太平記』による)。父の名は正康(まさやす)という(注:系図による。今伝わる系図には数種あり、互いに異同や誤りがある。おそらく後世の人の手になるものであろうが、他に拠るべき資料もないので、ひとまず一本に従っておく)。母は志貴山(しぎさん)の毘沙門天(びしゃもんてん)に祈願して正成を身ごもったため、幼名を多聞(たもん)といった(注:『太平記』による)。成長してのち兵衛尉(ひょうえのじょう)となった(注:『梅松論』『太平記』による。左兵衛か右兵衛かは未詳)。
¶元弘(げんこう)元年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は北条高時(ほうじょうたかとき)の軍勢を避けて笠置寺(かさぎでら)に行幸された。しかし四方に天皇に味方する者は少なく、天皇は深く憂慮しておられた。あるとき、紫宸殿(ししんでん)前庭に一本の大樹があり、南に伸びた枝が最も繁茂している夢を見られた。その木の下には南面する御座が設けられ、百官が列をなしていた。そこへ突然、髪を角のように結った二人の童子が跪き、その座を指して泣きながら「天下のどこにも御身を容れる場所はございません。ただこの座だけがお座りいただけます」と奏上した。目覚めてから、「木」の傍らに「南」を書けば「楠」の字になることに思い至り、「楠氏という者が現れて、朕を再び南面の位に正すことになるのだろう」とお考えになった。寺僧の快元(かいげん)(注:快元については金勝院本『太平記』による)を召して尋ねられたところ、快元は楠正成のことであると答えた。天皇は「その夢はおそらくこのことであろう」と仰せになり、藤原藤房(ふじわらのふじふさ)を遣わして正成を召された。
¶正成はただちに行在所(あんざいしょ)に参上した。天皇は藤房を通じて「そなたは命に応じてすぐに参上した、まことに嘉すべきことである。今日のことはひとえにそなたに頼るしかない。何か策があれば、朝廷が勝利を収める方策を詳しく述べよ」と伝えさせた。正成は「逆賊が暴虐を行っているのですから、みずから禍を招いているようなものです。天の討伐を加えれば勝てぬはずはございません。ただ東国の兵は勇猛ではあっても謀(はかりごと)に欠けており、力で争えば武蔵(むさし)・相模(さがみ)の兵は天下に敵なしと申せましょう。しかし謀をもって屈服させれば、たやすく制することができます。とはいえ勝敗は兵家の常、あるいは小さな敗北に遭うこともありましょうが、どうか御心を煩わされませぬよう。臣がおります限り、事の成らぬことがございましょうか」と答えた。そして辞去して赤坂城(あかさかじょう)に戻った。城はおよそ二町四方で、三方は平地であり、守る兵はわずか五百人であったが、領民の蓄えを取り立てて兵糧に充てた(注:『太平記』による)。行在所に事あるときには、この城に天皇をお迎えする計画であった(注:『増鏡』による)。版築(はんちく)による築城がちょうど終わったころ(注:『太平記』による)、賊将の大仏貞直(おさらぎさだなお)らが笠置を攻め落とし、その勢いに乗って一気に迫ってきた(注:『保暦間記』『元弘日記裏書』『光明寺蔵書残編』を参照して補う)。その兵力はおよそ三十万にのぼった。
¶正成はあらかじめ弟の正季(まさすえ)(注:正氏とも書く)と和田正遠(わだまさとお)に兵三百を率いさせ、城の傍らの山中に伏せておいた。賊は城が小さいのを見て侮り、「片手で持ち上げられるほどのものだ」と言い合って、たちまち城壁に迫って急襲した。城兵が矢を雨のように射かけると、賊は千余人が死傷した。賊は驚き怯んで退き、甲冑を脱ぎ馬の鞍を外して陣を張ろうとした。正季らはこれを見て兵を二手に分け、鬨(とき)の声をあげて進撃した。城兵も先鋒を連ねて打って出て、力を合わせて奮戦した。賊は狼狽して逃げ、武具や馬具を道に捨てて逃げ散ったが、まもなくまた攻め寄せ、城を幾重にも包囲した。正成はあらかじめ仕掛けの壁を用意しておき、賊が四方から先を争ってよじ登ってきたところで縄を断ち切り、続けて大木や大石を投げ落として七百余人を圧死させた。賊はさらに盾をかぶって競って攻め寄せ、鉄の鉤(かぎ)で城壁を引っかけてほとんど崩しかけたが、城中からは柄の長い柄杓(ひしゃく)で煮え湯を浴びせた。賊は皆やけどを負い、それ以後は柵を構えて退き守り、持久戦によって城を苦しめる作戦に転じた。
¶そもそも正成が急いで城を築いたため、蓄えていた兵糧は多くはなかった。ここに至って正成は将兵に謀って言った。「我が方はしばしば勝利を得ているが、賊の勢いはいっこうに挫けない。内には兵糧が乏しく、外には救援もない。天下に先駆けて功業を建てようというのであるから、死ぬこと自体は厭わない。とはいえ、事に臨んでは慎重に構え、よく謀をめぐらして事を成すのもまた智者の尊ぶところである。今ここでいったん死んだふりをすれば、賊は必ず兵を引いて帰るだろう。帰ればまた兵を集めて出直してくるだろうが、そのとき我らは休養十分、彼らは疲れ果てている、これこそ勝ちを制する道である」。一同はこれに賛同した。その夜、折しも風雨が激しく暗く、目の前も見分けられないほどであった。正成は大きな穴を掘らせ、死体を投げ入れて埋め、その上に薪を積ませた。一人の兵を残して「私が遠くまで行ったころを見計らって、火を放って城を焼け」と命じ、残りの兵を三人五人と少人数に分けて、密かに賊の陣営を通り抜けて逃げた。賊はまったく気づかなかった。火の手が上がると、賊は先を争って城中に入り、穴の中で焼けた死体を見て、正成が本当に死んだものと思い込み、兵を引き上げて関東へ帰っていった。正成はそのまま金剛山に身を隠した。
¶北条仲時(ほうじょうなかとき)・北条時益(ほうじょうときます)は、湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)を遣わして赤坂城を守らせた。元弘二年、天皇は隠岐(おき)へ配流(はいる)され、各地の官軍もみな解散した。同年夏、正成は兵五百を率いて赤坂城を攻めた。定仏は村里の民に命じて夜のうちに兵糧米を城へ運ばせようとしたが、正成はこれを探知し、途中で待ち伏せて奪い取った。そのうえ武具を米俵のように包み、兵三百人を運搬の人夫に見せかけて城中に担ぎ込ませ、別に兵を出して追撃されているかのように装わせた。城中からこれを見て、人夫が敵に追われていると思い込み、門を開いて中に入れた。人夫たちは城中に入るや甲冑をつけて叫び声をあげ、外の兵がこれに呼応し、関を破って一斉に攻めかかったので、定仏はついに降伏した。
¶正成はその兵を併せて和泉(いずみ)・河内を平定してまわり、進んで渡辺橋(わたなべばし)に陣を構えたので、京畿は大いに震撼した。仲時・時益は隅田通治(すだみちはる)・高橋宗康(たかはしむねやす)を遣わし、五千余の兵を率いて攻めさせた。正成は二千人の兵を三手に分け、天王寺(てんのうじ)の側に伏せておいた。そして弱兵三百人に橋を守らせたが、いずれも痩せ馬に粗末な手綱という有り様であった。戦いが始まるとすぐに逃げ出し、賊をおびき寄せて深追いさせた。天王寺のあたりを過ぎたところで伏兵が一斉に起こり、賊は大敗して逃げ、我先にと橋を渡ろうとして溺死する者は数知れなかった。
¶一月あまり後、仲時・時益はさらに宇都宮公綱(うつのみやきんつな)を遣わし、兵五百をもって攻めさせた。和田孫三郎(わだまごさぶろう)は正成に「隅田・高橋の五千の兵はすでに我らが打ち破りました。この勝ちに乗じて公綱を打ち破るのに、何の難しいことがありましょう。どうか兵を出して迎え撃たせてください」と言った。正成は答えた。「兵は和にあって数の多さにあるのではない。公綱は坂東(ばんどう)の勇将であり、紀清両党(きせいりょうとう)を従えている。しかも彼は前回の敗戦の後を受け、孤軍で遠征してきたのだから必死の覚悟であろう。我らがこれを防いだとしても、失うものも多いはずだ。天下の大事は今日一日で終わるものではない。兵力を惜しんで後の戦いに備えるべきである。今ここで一計を彼らに譲って退き、数日のうちに奇策を用いて欺けば、坂東の血気にはやる兵どもも気力を失って引き上げるだろう。いわゆる『小敵を見ては怯み、大敵を見ては勇む』、戦わずして敵の兵を屈服させるというのがこれである」。そして陣を捨てて退き、数日たってから兵三百と農民兵数千人を出し、盛大にかがり火を焚かせ、星のように山野一帯に散らばらせた。これを幾夜も続け、日を追ってその数は増え、いよいよ迫るように見せかけた。公綱は兵を引き締めて厳重に備えたが、敵の勢力が日ごとに盛んになっていると思い込み、ついに密かに兵を引き上げていった。
¶正成は再び天王寺に入り、寺僧に頼んで上宮太子(じょうぐうたいし、聖徳太子)の『未来記』を見せてもらった。その文には「人皇(にんのう)九十五代に当たって天下は一たび乱れ、君主は安からず。このとき東の魚が来て四海を呑み、月は西の天に三百七十余日沈む。西の鳥が来て東の魚を食らい、天下は一つに帰す」とあった。正成は喜んで言った。「讖文(しんぶん、預言の文)にいう人皇九十五代とは、すなわち今上(きんじょう)天皇のことである。東の魚が四海を呑むとは相模入道(さがみにゅうどう、北条高時)のことだ。西の鳥が東の魚を食らうとは、いずれ兵を起こして関東を滅ぼす者が現れるということだ。日が西の天に三百七十余日沈むとは、今上が隠岐におられることを指しており、都に帰り正しき政(まつりごと)に戻られるのは来年の春であろう」。そこで金作りの太刀を寺僧に贈り、いっそう将兵を厚遇した。略奪を禁じたので、遠近の人々が期待を寄せて集まり、兵勢はますます盛んになった(注:『太平記』による)。
¶まもなく正成は金剛山に戻り、千早城(ちはやじょう)を築いて拠点とした(注:『増鏡』『天正本太平記』『保暦間記』による)。そして平野将監(ひらのしょうげん)に赤坂城を守らせた(注:『太平記』による。『神明鏡』では、正成は弟の五郎に赤坂城を守らせたとする)。翌年の春、高時は再び大軍を発し、二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)を遣わして吉野(よしの)で護良親王(もりよししんのう)を包囲させた。また大仏高直(おさらぎたかなお)に千早城を攻めさせ、阿曾時治(あそときはる)に赤坂城を攻めさせた(注:『保暦間記』『神明鏡』『元弘日記裏書』を参照して補う。現行の『太平記』諸本では、金剛山・赤坂を攻めた諸将については異同があるが、ここでは本書の記述に従う)。
¶平野将監は十日あまり城を守り抜いたが、城には暗渠(あんきょ、地下水路)があり、これが賊に見破られてしまった。折しも長らく日照りが続いており、兵士は渇きに苦しんでいた。賊はそこへ火矢で櫓を焼いたため、将監は力尽きて降伏した。賊は将監を六波羅(ろくはら)に送って斬った。ちょうどそのころ二階堂貞藤は吉野を陥落させ、護良親王は南へ逃れられた。貞藤と阿曾時治の兵はすべて千早城に集結し、軍勢の勢いは大いに盛んになった。
¶城は東西を谷に臨み、南北は峰に隠れ、断崖はけわしく数十仞(じん)もそそり立ち、周囲はおよそ一里ほどであった。賊は大軍を頼んで蟻のように取りついて城を急襲したが、城中では矢や石を大量に浴びせて防いだので、賊の死傷者は数知れなかった。賊軍では役人十二人に戦況を記録させたが、三日三晩書き続けても書き終わらないほどであったという。そこで軍中には勝手な進撃を禁じ、陣営を固めて包囲を続けさせることにした。
¶城中には泉が五筋あったが、一日に得られる水はおよそ五斛(こく)ほどに過ぎなかった。正成は水の不足を案じ、大きな水槽を数百も作らせて水を蓄え、黄土を混ぜてその性質を保たせた。雨が降るたびに屋根の雨水をその槽に引き入れたので、水は常に十分に足りるようになった。ところが賊は城外から水を汲んでいるのではないかと疑い、名越越前守(なごしえちぜんのかみ)に兵三千を率いさせて東側の谷を守らせた。正成は守備の兵がやや油断しているのをうかがい、明け方に兵を出して撃ち破り、その旗や幕を奪い取った。翌日、それを城壁の上に張り出させ、「これは昨日名越殿が置いていかれたものだ。都のご家来衆にはお手数だが、取りに来られよ」と呼びかけさせた。越前守は恥じ怒って、兵五千を率い、柵を引き抜いて攻め寄せた。城兵は大木を落とし、また櫓から矢を連射した。賊の死傷者はほとんど全滅に近く、恐れて攻めかかろうとしなくなった。
¶賊はますます持久戦の構えを固めたので、正成は藁人形を数十体作らせ、甲冑を着せ武器を持たせて夜のうちに城外に置いた。壮士五百人をその陰に密かに潜ませておいた。明け方、鬨の声をあげて賊をおびき出し、賊が攻めかかってくるのを待った。数本の矢を放ってはためらうように後ずさりし、城中へ引き上げていった。ちょうど霧が立ちこめて薄暗く、賊はそれと気づかず、われ先にと藁人形に襲いかかった。城の上からは大石を次々と落とし、八百余人を死傷させた。
¶賊は飛橋(ひきょう、仮設の橋)をかけて城内に躍り込もうとしたが、城中からは一斉に松明(たいまつ)を投げつけ、竹筒で油を注ぎかけた。橋は焼け落ち、賊は崖下の谷に転落し、焼け死んだ者は数千人にのぼった。ちょうど近隣の郡の民兵が護良親王の命を奉じて、賊の糧道を断ち切った。賊軍は大いに困窮し、逃亡する者が相次いだ。仲時・時益はさらに宇都宮公綱を遣わして大仏高直を助けさせたが、公綱は手勢千人で急襲したものの落とすことができなかった。そのころ天皇が伯耆(ほうき)に行幸され、諸将が六波羅を攻め落としたので、賊は皆包囲を解いて去っていった。
¶天皇の車駕(しゃが)が都へ帰られると、正成は兵七千を率いて兵庫(ひょうご)まで出迎えた。天皇はみずから正成をねぎらい、「大業がかくも速やかに成ったのは、すべてそなたの力による」と仰せられた。正成は拝謝して「陛下の御威光に頼らなければ、臣がどうして重囲を脱し、また今日の日を迎えられましたでしょうか」と申し上げた。天皇は正成に先導して都へ入るよう詔された。その後、大仏高直らは残兵を率いて奈良に立てこもり、都を犯そうと謀ったが、正成は左近衛中将源定平(さこんえのちゅうじょうみなもとのさだひら)とともにこれを討って降伏させた。
¶建武(けんむ)元年、正成は僧の憲法(けんぽう)を飯盛山(いいもりやま)に討ち、これを平定した(注:『太平記』による)。その功により検非違使(けびいし)・左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられ、河内守(かわちのかみ)を兼ねた(注:『太平記』『建武二年記』による。左衛門尉については河内金剛寺文書による)。また摂津(せっつ)・河内・和泉の守護となった(注:摂津国兵庫広巌寺の霊牌、僧明極の行状による。『梅松論』では河内・和泉の守護、『太平記』では摂津・河内守とする)。河内大夫判官(かわちのたいふほうがん)と称された(注:『建武二年記』、高野山金剛峯寺文書による)。まもなく記録所(きろくじょ)の寄人(よりゅうど)となり、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)に出仕して、将士への恩賞に関する議に参与した(注:『建武二年記』による)。
¶建武二年、新田義貞(にったよしさだ)が東に足利尊氏(あしかがたかうじ)を討ちに向かった際、正成は諸将とともに都に残って守りを固めた。延元(えんげん)元年、尊氏が朝廷を犯そうと攻め上ってきたので、正成は兵五千を率いて宇治(うじ)で防戦した。しかし尊氏の軍が大渡(おおわたり)を攻めたため、官軍は敗れた。天皇は延暦寺(えんりゃくじ)へ行幸され、正成は諸将とともに行在所を守り、新田義貞・結城宗広(ゆうきむねひろ)・名和長年(なわながとし)らとともに尊氏を攻めた。
¶正成は出雲路(いずもじ)に火を放ち、糺森(ただすのもり)から進撃した。あらかじめ数百枚の軽い盾を用意しておき、賊に出会うと馳せて突撃した。盾は鉄の鉤(かぎ)でつなぎ合わせて連ね、これに身を隠して矢を射かけた。そのうえで精鋭の騎馬隊を放って乗じさせた。賊は総崩れとなって退いた。この日、諸軍は勝利を収め、尊氏は西へ逃走した。
¶日が暮れたころ、正成は義貞に言った。「今日賊を破ったとはいえ、討ち取った数はさほど多くなく、尊氏の行方も分かりません。この少ない兵でこのまま都にとどまれば、兵士が財貨をむさぼって四方に散らばり、収拾がつかなくなるおそれがあります。先日のような反撃を受けぬとも限りません。しかも賊は勝ちに乗じる好機を得ており、後になっては制しがたくなるでしょう。ここは一旦兵を返して力を養い、一挙に数十里の外まで追い払うに越したことはありません」。義貞はこれに従って兵を引き上げた。すると尊氏は再び都に入った。
¶翌日、正成は僧数十人を戦場に遣わし、死体を探し回らせ、偽って泣きながら「昨日、新田・北畠(きたばたけ)・楠氏など七将が戦死した。その亡骸を捜して葬りたい」と言わせた。賊はこれを聞いて本当のことだと信じ、義貞や正成に似た首を取って晒し首にした。そこで正成は諸将とともに、密かに軍を動かして夜のうちに出発した。別に兵を遣わして松明を持たせ、山沿いに西へ進ませ、その灯りを絶え間なく連ねさせた。賊軍はこれを望み見て、尊氏に「官軍は大将を失い、今やみな逃げ去ってしまいました」と報告した。尊氏は諸方の道に兵を配して要害を固めさせたが、残りの兵はもはや警戒を怠っていた。
¶翌朝、正成らは都に進み入り、火を放って不意を襲った。賊軍は大いに崩れ、尊氏はついに西へ逃走し、武具や甲冑を道に捨てて逃げた。正成は諸将とともに追撃して豊島河原(てしまがわら)に至り、足利直義(あしかがただよし)と戦った。正成が兵を率いて賊の背後に出ると、直義は戦わずして退き、尊氏とともに海を渡って逃れた(注:『太平記』による)。正成は都へ戻り、そのまま武者所(むしゃどころ)に出仕した(注:『建武二年記』による)。
¶夏になり、尊氏・直義は大軍を率い、水路・陸路の両方から東へ攻め上ってきた。義貞は兵庫でこれを防いだ。天皇は正成に義貞を助けるよう詔された。正成は次のように奏上した。「賊は九州の軍勢を糾合しており、その勢いは必ず猖獗(しょうけつ)を極めるでしょう。我らの疲れた兵ではとても対抗できません。ここは義貞を呼び戻し、天皇の御車を延暦寺(山門)へお移しし、賊をあえて都に入れるべきです。その間、臣は河内へ戻って畿内諸県の兵を招集し、河口をふさいで兵糧の輸送を断ち、賊が疲れて散り散りになるのを待ってから、前後から一斉に進撃すれば、一挙にこれを打ち倒すことができましょう。義貞の考えもおそらくこれと同じでしょうが、戦わずして退けば世の非難を受けるため、あえて帰ろうとしないだけのことと存じます。そもそも戦というものは、初めは負けることがあっても、最後に有利になることを目指すものです。どうか重ねてお考えくださいますよう」。
¶ところが藤原清忠(ふじわらのきよただ)は「すみやかに正成を派遣し、都の外で決戦すべきである」と主張し、天皇はその意見に従われた。正成はやむなく五百騎を率いて道を上り、桜井駅(さくらいのえき)に至ると、かつて天皇より賜った菊作りの太刀を子の正行(まさつら)に与え、賊を滅ぼして天下を正すよう戒めて、河内へ帰らせた。そして自らは湊川(みなとがわ)に進んで陣を敷き、尊氏の陸軍に当たった。義貞は和田岬(わだのみさき)に陣を敷き、水軍を防いだ。
¶尊氏の先鋒である細川定禅(ほそかわじょうぜん)が水軍を率いて紺辺(こんべ)へ向かったので、義貞は軍を引き抜いてこれを防ぎに向かった。ところがその間に尊氏の全軍はすでに兵庫に上陸していた。正成はこれを望み見て正季に「我が軍は分断され、賊は前後に満ちている。もはや智略の尽きるところだ」と言い、直義の陣に攻め入って縦横に奮戦し、あわや直義を討ち取るところまで迫った。しかし尊氏は六千余人を遣わして正成軍の背後を断った。正成は幾度も引き返して戦ったが、兵はことごとく討ち死にし、正成自身も十一か所の傷を負った。
¶正成は民家に退き入り、正季に「今日この身は九泉(きゅうせん、黄泉)へ赴くことになったが、そなたは死してのちどこに魂を託したいか」と尋ねた。正季は笑って「七度生まれ変わっても人間として、賊徒を滅ぼしたいものです」と答えた。正成は満足げにうなずき、正季と刺し違えて死んだ。一族十三人(注:十六人ともいう)、残兵六十余人(注:五十余人ともいう)も、皆腹を切って果てた(注:『太平記』による。僧明極の行状には、正成の軍が敗れると、兄弟は広巌寺に入って自害したとある。ひとまず参考として付記しておく)。
¶天皇はいつまでも正成の死を悼まれ、正三位左近衛中将(しょうさんみさこんえのちゅうじょう)を追贈された(注:霊牌、僧明極の行状による。『梅松論』には次のようにある。尊氏が筑紫(つくし)へ逃れた後、朝廷はすっかり安心しきって憂いがなくなった。正成は「義貞を誅して尊氏を招き、和議を結ぶべきです。使者が必要であれば、臣が参りましょう」と上奏したが、人々は皆これを嘲笑った。正成はひそかに「朝廷が北条氏を滅ぼせたのは、実のところ尊氏の功績による。天下の将士で彼に心を寄せぬ者はいない。それゆえ官軍が勝っても味方する者は少なく、尊氏が敗れても従う者はいつも多いのだ。尊氏は必ず西国を懐柔し、一年のうちに再び攻め上ってくるだろう。防ぎきれまい」と語ったという。すでに尊氏を討てとの勅命が下った後、正成は摂津尼崎(あまがさき)に至って「かつて臣が独断で金剛山に拠ったときは、道理が国中にかない、それゆえ功を成すことができました。これは民心が朝廷に従っていたからです。しかし今、臣が本国の守護として勅命を奉じ兵を召したところ、我が子でありながら難色を示す者がおります。これは民心がすでに朝廷に背いているということであり、戦えば必ず敗れましょう」と奏上したとある。考えるに、『梅松論』は足利氏の家臣が著したものであるから、正成の言葉を引いて尊氏の悪事を覆い隠そうとしたものであり、信用するに足りない。ここに併せて記し、その虚偽であることをすでに弁じておく)。
¶正季(まさすえ)は七郎(しちろう)と称し、帯刀(たてわき)であった(注:『太平記』による)。窪所(くぼどころ)および武者所に出仕した(注:『建武二年記』による)。もとより正成に従って勤王に励み、大いに功があった(注:『太平記』による)。正成の子には正行(まさつら)・正時(まさとき)・正儀(まさのり)がいる。正儀については別に伝がある。
楠正行
¶楠正行(くすのきまさつら)は、父が死んだとき、年はわずか十一であったが、父の遺した戒めを奉じて、その死を追慕してやまなかった。子供の遊びでも常に仲間の子供たちを敵に見立てて斬る真似をし、竹馬に乗っては尊氏を追いかける真似をしていたという(注:『太平記』による)。成長してのち帯刀・検非違使・左衛門尉となり、河内守を兼ねた(注:楠氏系図、梶川系図、『太平記』、観心寺文書を参照して補う)。後醍醐天皇が花山院(かざんいん)を出て内山(うちやま)に入られると、正行は和田次郎(わだじろう)らとともに参上した。天皇が崩御されると宿衛(しゅくえい、宮中の警護)に就いた。後村上天皇(ごむらかみてんのう)が即位されたばかりのころ、しばしば住吉(すみよし)方面へ出兵して敵軍を挑発した(注:『太平記』による)。
¶正平(しょうへい)二年、正行は兵を発して紀伊(きい)に赴き、隅田城(すだじょう)を包囲した。まもなく河内へ戻り、池尻(いけじり)の賊を討ち、さらに矢尾城(やおじょう)を攻めた(注:和田文書による)。足利尊氏はその将である綱川顕氏(つなかわあきうじ)に兵三千を率いさせて河内を攻めさせ、金剛山から七里の地に陣を張らせた。顕氏は正行が矢尾城を攻めようとしていると聞き、正行が遠くまで出撃した隙をうかがって金剛山の麓に直行し、その退路を断って皆殺しにしようと謀った。
¶正行はこれを探知し、兵七百を率いて矢尾へ向かうふりをし、あちこちに火を放ちながら、密かに引き返して誉田(こんだ)の林に身を隠して陣を敷いた。顕氏は煙を望み見て、敵が本当に矢尾を攻めていると思い込み、誉田河原(こんだがわら)まで馬を馳せて軍を西向きに布陣させた。そこへ突然、正行が背後から叫び声をあげて突撃したため、顕氏は大敗し、そのまま天王寺へ逃げ込んで立てこもった(注:異本『太平記』による)。
¶山名時氏(やまなときうじ)が兵六千を率いて顕氏を助けようと住吉に布陣した。正行は「まず住吉の敵を破れば、天王寺の兵は攻めずとも自ら退くだろう」と考え、二千余の兵を五隊に分けて、民家に火を放ちながら進撃した。ところが敵軍の砂塵が四方に立ちのぼるのを望み見て、「敵は四方に陣を構えており、その兵力は我らの倍もある。隊を分けるのは得策ではない」と判断し、五隊を再び一つに合わせて、瓜生野(うりゅうの)で時氏の軍と大戦してこれを打ち破り、残りの敵兵も総崩れとなった。敵は渡辺橋まで逃げたが、溺れ死ぬ者は数知れなかった。時氏は傷を負って逃走した(注:『園太暦』『太平記』による)。
¶尊氏はこれを憂い恐れ、高師直(こうのもろなお)とその弟の師泰(もろやす)に命じて六万の兵を発し、攻めさせた。正行は弟の正時(まさとき)、和田賢秀(わだけんしゅう)ら百四十余人とともに神水(しんすい)を口にして、共に死ぬことを誓った(注:神水を口にしたことは天正本『太平記』による)。
¶そして行宮(あんぐう)に参上し、次のように奏上した。「かつて亡き父正成は、微力を尽くして強賊を退け、天皇の御心を安んじました。しかしいくばくもなく天下は再び乱れ、逆徒が攻め寄せて、ついに湊川(みなとがわ)で命を落としました。臣はそのとき年わずか十一でしたが、父の遺言により河内へ帰され、一族を糾合して朝敵を滅ぼし尽くし、天下を再び皇化のもとに帰せしめよと申し渡されました。臣もすでに壮年となりましたが、常に、なすべきことを待つ身でありながら不測の病に倒れはしないかと恐れております。それでは上は不忠の臣となり、下は不孝の子となってしまいます。今まさに師直・師泰が攻め寄せようとしているこの時こそ、臣が父の恩に報いる秋(とき)にほかなりません。もし彼らの首を得られなければ、臣ら兄弟の首を彼らに与えることになりましょう。雌雄を決するのはこの一戦にかかっております。どうか一目、龍顔(りゅうがん、天皇の御顔)を拝してから出陣したく存じます」。言い終えると涙を流した。
¶天皇はみずから正行の前に臨まれ、口頭で「先だっての二度の戦い、いずれも勝利を得た。そなたの代々の武功は、まことに称賛に値する。賊が再び全軍をあげて攻めてくると聞くが、事の成り行きは決して軽んじられぬ。とはいえ、進むべきときに進むのは時機を逃さぬためであり、退くべきときに退くのは万全を期すためである。そなたは朕の股肱(ここう)の臣である、くれぐれも自愛せよ」と仰せられた。正行は頭を垂れて退出し、一族を率いて後醍醐天皇の御廟(ごびょう)を拝し、「戦いに利なくば、あえて生きて帰りません」と告げた。そして刀の鍔(つば)を叩いて立ち上がった(注:鍔を叩いたことは異本『太平記』による)。
¶如意輪堂(にょいりんどう)の壁に同盟した一族の姓名を書き記し、その後に歌を書き添えた。「帰らじと、かねて思えば、梓弓(あずさゆみ)(注:毛利家本『太平記』では「梓弓、引き返さじと、思うより」に作る)、亡き数に入る、名をぞ留むる」(注:生きて帰るまいとかねてから思っていたので、討ち死にした者たちの名簿に自分の名を残しておく、という意味の歌)。そしてそれぞれ髪を切って仏殿に納めてから出陣した。天皇は中納言藤原隆資(ふじわらのたかすけ)を遣わして援護させた。
¶翌年正月、高師直は河内に攻め入り、兵六万を分けて生駒山(いこまやま)の南、飯盛山(いいもりやま)、外山(とやま)、四条畷(しじょうなわて)の四か所に布陣させた。師直は残りの軍を率いて後方に控え、藤原隆資は兵三千を率いて飯盛山へ向かうふりをし、敵軍を引きつけようとした。正行は兵三千を率いて四条畷から進撃した。飯盛山の敵はこれを望み見て、兵を分けて遮り撃った。正行は先鋒でこれを打ち破った。一方、後軍は四条畷の敵と戦い、死傷者は互角であった。そこへ飯盛山と生駒山の敵兵が前後から一斉に迫ってきたため、後軍は敗走した。正行はこれを顧みず、兵三百をもってまっすぐ前進して奮戦し、師直の軍を大いに打ち破った。
¶このとき集めた兵で亡くなった者は百余人にのぼり、馬もみな数本の矢を受けていた。兵たちは馬を下りて塚の上に陣取り、腰を下ろして食事をとった。食べ終えると徒歩で進み、いよいよ激しく戦いを続けて、ついに師直の陣に迫った。上山高元(うえやまたかもと)が師直と偽って名乗り、陣頭に立って戦死した。その甲冑には連環の模様が彫られており、これは高(こう)氏の家紋であった。正行は大いに喜び、その首を空中に投げ上げては手で受け止めることを何度か繰り返した。しかしまもなくそれが偽りであると知ると、首を地面に投げ捨て、蹴りつけながら罵って言った。「おのれは上山高元ではないか。とはいえ、そなたも比類なき朝敵として、その勇はほめてやろう」。そして自分の衣の袖を切って首を包み、塚の上に置いた。
¶この日、巳(み)の刻から申(さる)の刻まで、合戦はおよそ三十余合に及び、死傷者は数百人、あるいは数千人にのぼった。正行の兵もほとんど討ち死にし尽くしたので、残った兵五十余人とともに盾を背負って偽って逃げ、師直をおびき出そうとした。敵はこれに気づき、後詰めの兵三百を遣わして追わせた。正行は引き返して戦い、五十余の首級をあげ、さらに進んで師直の軍にまた迫った。しかし正行・正時はともに体に数本の矢を受け、兵もみな重傷を負って戦えなくなっていた。正行は「これまでだ。賊に生け捕られるな」と叫び、正時と刺し違えて果てた。時に年二十三であった(注:『太平記』諸本では二十五とするが、ここでは毛利家本『太平記』、『園太暦』、系図要記によって二十三と定めた)。従った兵たちも皆自害した。
¶その他、一族の紀六郎左衛門(きのろくろうざえもん)とその二子(注:和田橘六左衛門とも書く)、野田四郎(のだしろう)とその二子、三輪西阿(みわさいあ)とその子、関地良円(せきちりょうえん)・金岸(かなぎし)兄弟(注:金岸は金庭、あるいは禁峰とも書く)、畠山与三(はたけやまよぞう)、畠山六郎(はたけやまろくろう)、河辺石掬丸(かわべいしきくまる)(注:掬は楠とも書く)、阿間了願(あまりょうがん)、誉田某(こんだのぼう)ら二十三人、総勢百四十三人(注:五百人、あるいは三百人ともいう)は、ことごとく戦死した。
¶瓜生野の戦いのとき、正行は溺れた敵兵五百人を救い上げ、衣服や薬を与えて数日にわたり手厚く看病し、鎧や馬を礼として与えて帰した。敵の中にはその恩に感じて降参してくる者もあった。そして四条畷の戦いに際しては、正行に従って死んだ者が非常に多かった(注:『太平記』による)。
¶正行はかつて吉野に参上する途中、高師直が誘い出した宮女の弁内侍(べんのないし)が連れ去られようとしているのに出会い、兵を遣わして助け出した。内侍は輿の中で悲しみ泣いていたが、正行はその護送の兵をことごとく斬り、内侍を送り返して事の次第を天皇に奏聞した。天皇は詔してその内侍を正行に賜おうとされたが、正行は歌をもって辞退した。「とても世に、長らふべくも、有らぬ身の、仮の契りを、如何で結ばん」(注:どうせこの世に長く生き永らえられる身ではないのだから、どうして仮初めの契りを結べようか、という意味)。そしてこの四条畷の戦いで、正行はついに戦死したのであった(注:『吉野拾遺』による)。
楠正家
¶楠正家(くすのきまさいえ)は蔵人(くろうど)となり、左近衛将監(さこんえのしょうげん)に任じられた(注:『今川記』『太平記』、常陸(ひたち)薬王院文書による)。延元元年、正成に代わって兵を率いて常陸へ赴き(注:常陸薬王院文書、常陸清音寺文書による)、瓜連(うりづら)の地に城を築いて拠点とした。賊兵が攻め寄せてきたが、正家はこれを迎え撃って打ち破り、賊将の佐竹義冬(さたけよしふゆ)および後藤基明(ごとうもとあき)を斬ったので、その声望は大いに高まった。入野七郎(いりのしちろう)・次郎(じろう)らが従って来た(注:常陸薬王院文書、常陸清音寺文書、桐原系図を参照して補う)。翌年、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)源顕家(みなもとのあきいえ)に従って西上した(注:『今川記』による)。後に正行とともに四条畷で高師直を防いだが、勝てずに戦死した(注:『太平記』による)。
和田正遠
¶和田正遠(わだまさとお)は五郎(ごろう)と称した(注:『太平記』による。本書では正隆(まさたか)とも書くが、ここでは『建武二年記』により正遠とする)。和泉(いずみ)の人であり(注:天野金剛寺文書による)、正成の一族である(注:『太平記』『建武二年記』による)。元弘の初め、正成に従って挙兵し、軍功はきわめて多かった(注:『太平記』による)。延元年間には武者所に出仕した(注:『建武二年記』による)。後に湊川で戦死した(注:『太平記』による)。
和田賢秀
¶和田賢秀(わだけんしゅう)(注:賢は源とも書く)は、幼いころに髪を剃り、新発意(しんぼち)と称していた。正平年間、正行に従って細川顕氏らと住吉で戦い、賢秀は力戦して手ずから数十人を斬った。敵軍が敗走すると、追撃して山名兼義(やまなかねよし)を斬った。高師直が攻め寄せてきたときには、賢秀は弟の正朝(まさとも)らとともに正行に従って吉野の行宮に参上して別れを告げ、同志の兵百四十余人とともに死を誓って出陣し、四条畷で大いに戦った。賢秀は眉尖刀(なぎなた)を巧みに用い、向かうところ敵なしであった。やがて正行らが自害すると、従った兵もみな討ち死にした。賢秀はただ一人、敵兵の中に紛れ込んで師直を狙い、数歩の距離まで迫った。ところが、かつて正行の部下であったが師直の軍に降っていた湯浅太郎左衛門(ゆあさたろうざえもん)が、賢秀の背後からその足を斬りつけて倒し、その首を斬った。賢秀は湯浅をにらみつけ、その目の光は松明のように鋭く、死してもなお瞑目しなかった。湯浅はそれから病を得て、うつむいても仰いでも賢秀が目を見開いて自分をにらんでいる様が見え、七日ののちに死んだ(注:『太平記』による)。弟に正朝がいる(注:島津文書、『太平記』による)。
和田正朝
¶和田正朝(わだまさとも)(注:異本『太平記』では正高、高家、時宗、宗秀、行忠などとも書くが、ここでは現行本『太平記』に従う)は兵衛尉(ひょうえのじょう)であり(注:左兵衛か右兵衛かは未詳)、新兵衛(しんびょうえ)と称した(注:島津文書、『太平記』による)。兄の賢秀とともに正行に従って四条畷で高師直を討ち、これを大いに打ち破った。鼻田職俊(はなだもとどし)(注:鼻田は畠田とも書く。名は金勝院本『太平記』による)は師直の旗印を望み見て追撃しようとした。正朝は「彼らは騎馬で我らは徒歩、追いついても勝てるものではない。我らがわざと逃げれば、彼らは必ず追ってくるだろう。追ってきたところで引き返して戦えば、師直を討ち取ることができよう」と言い、残兵五十余人とともに盾を背負って退いた。高師冬(こうのもろふゆ)が兵三百を率いて追撃してきたが、正朝は引き返して戦い、これも打ち破った。しかしまもなく従う兵はことごとく討ち死にし、正行らも皆死んでしまった。正朝はその戦況を報告しようと、南へ向かって単身進んでいった。すると阿保忠実(あぼただざね)が「そなたの一族は皆死んだというのに、そなたはどうして一人で逃げようとするのか」と激しく呼びかけてきた。正朝は刀を振るって忠実に打ちかかった。忠実は馬首を返して逃げた。正朝が立ち去ろうとすると忠実はまた追ってきた。このようなことを何度か繰り返すうち、たまたま敵兵が馳せつけて正朝を射た。正朝は七本の矢を受け、ついに忠実に討ち取られた(注:『太平記』による)。
和由正武
¶和田正武(わだまさたけ)は和泉守(いずみのかみ)であった。後醍醐天皇が崩御されると、正行とともに宿衛に入った。正平十五年、足利義詮(あしかがよしあきら)の軍勢が天野(あまの)の行宮を犯そうとしたので、正武は正儀(まさのり)とともに赤坂城に拠ってこれを防いだ。敵が幾重にも包囲してくると、正儀は城を捨てて金剛山に退いて守ろうとした。しかし正武は承知せず、「勝敗は戦の常のことだ。戦わずして退くのは勇士のすることではない。私が兵を率いて一戦を試み、勝てなければ退いても遅くはない」と言い、夜に乗じて敵の陣営を襲ったが、勝てずに兵を収めて退いた。敵兵二人が城中に紛れ込んだとき、正武はかえって兵たちに合言葉を唱えさせ、動作を合わせるよう命じた。敵兵はこれに応じられず、そこで捕らえて殺した。夜になって正儀とともに金剛山へ逃げ込み、また従軍して佐々木秀詮(ささきひであき)らを攻めてこれを斬った。正平十七年、また正儀とともに摂津守護代の箕浦俊定(みのうらとしさだ)を攻撃してこれを敗走させた。まもなく石塔頼房(いしどうよりふさ)および正儀とともに赤松光範(あかまつみつのり)を攻め、湊川まで進んで兵庫の民家を焼いた。光範は多部田城(たべたじょう)に拠って固く守ったので、兵を引いて帰った(注:『太平記』による)。正儀が後に足利義満(あしかがよしみつ)に降伏すると、正武は一族を率いてしばしばこれを攻めた(注:『花営三代記』による)。敵が天野の行宮に迫ると、正武は前内大臣藤原隆俊(ふじわらのたかとし)とともにこれを防いだが(注:朽木文書による)、官軍はついに利を得ることができなかった。天皇は吉野へ還幸された(注:『鳩嶺雑事記』『花営三代記』による)。正武のその後の消息は分からない。
和田正忠
¶和田正忠(わだまさただ)は五郎と称した(注:北条家本『太平記』による)。正平七年、天皇みずから軍を率いられた際、正忠は楠正儀とともに先鋒となり、京師で細川顕氏を攻めてこれを破った。正忠配下の兵は細川頼春(ほそかわよりはる)を斬った。足利義詮は近江(おうみ)へ逃走した。天皇の御車は男山(おとこやま)に進み陣を敷かれた。義詮はまもなく大軍をもって行在所を犯そうとしたので、正儀・正忠に迎え撃つよう勅命が下った。このとき正儀は年二十三、正忠はわずか十六であり、年齢がまだ若いため、人々は皆これを危ぶんだ。正忠は参内して「元弘以来、我が一門はほとんどこの賊のために滅ぼされました。臣は今日、国のために賊を討ち、父や兄の仇を報じます。もし賊の将一人をも斬れなければ、再び戻ってはまいりません」と奏上した。そして正儀とともに兵三千を率い、荒坂山(あらさかやま)を守った。敵の勇将土岐康貞(ときやすさだ)が刀を振るって進み出た。正忠はこれと戦って斬り、行在所に参上してその旨を報告した。天皇は大いに褒め称えられた。まもなく詔を奉じて正儀とともに河内へ帰り、再挙をはかろうとしたが、たまたま病を得て急死した(注:『太平記』による)。
橘本正員
¶橋本正員(はしもとまさかず)(注:員は貞とも書く)は八郎(はちろう)と称した(注:『太平記』による)。和泉の人で、楠正成の一族である(注:合田系図裏書文書、『花営三代記』による)。佐美正安(さみまさやす)は河内守であった。神宮寺正師(じんぐうじまさもろ)は太郎兵衛(たろうびょうえ)と称した(注:『太平記』による。本書では佐美を宇佐美(うさみ)に作るが、ここでは和田系図裏書文書、および天正本・金勝院本『太平記』による)。この二人もまた皆正成の一族である。湊川の戦いでは、それぞれ配下を率いて参陣した(注:和田系図裏書文書による)。戦いに敗れると、三人はともに戦死した(注:『太平記』による)。
橘本正茂
¶橋本正茂(はしもとまさしげ)は九郎(くろう)と称し、左衛門尉であった。楠正成が摂津・和泉で戦死したころ、賊兵が大挙して起こり、畠山国清(はたけやまくにきよ)が八木城(やぎじょう)で大塚惟正(おおつかこれまさ)を包囲した。このとき正茂は中院右少将(なかのいんうしょうしょう)(注:姓氏は不明)とともに天王寺に陣を敷いていたが、ともに兵を率いて援軍に赴いた。国清は敗走した(注:和田系図裏書文書による)。延元三年、鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が和泉に出陣し、弟の顕信(あきのぶ)に男山を守らせた(注:『元弘日記裏書』『太平記』による)。正茂は左兵衛尉(さひょうえのじょう)和田正興(わだまさおき)とともに兵を挙げてこれに応じ、丹下城(たんげじょう)を包囲して数日攻め、進んで高安(たかやす)の砦を焼いた。まもなく顕家が戦死すると、正茂らは軍を返して男山を救おうとした。敵兵が道を遮ったので、正茂は転戦しながら進んだが、到着する前に男山は陥落してしまった。正茂は精強な兵を率いて松原(まつばら)・野田(のだ)などの敵陣を攻め、これを打ち破った(注:和田系図裏書文書による)。後醍醐天皇が崩御されると、人心は危惧するようになった。正茂は一族とともに正行を補佐して勤王に励んだ(注:『太平記』による)。正平の初め、髪を剃った(注:観心寺文書による)。その後の消息は分からない。
橋本正高
¶橋本正高(はしもとまさたか)は、正平年間、検非違使となり、新判官(しんほうがん)と称した(注:観心寺文書、『太平記』による。正高の名は天野金剛寺文書による)。畠山国清が大軍を発して西へ上り、行在所を犯そうとした。楠正儀・和田正武は赤坂城を修築してこれに拠った。正高らには平石城(ひらいしじょう)を築かせ、五百余の兵で守らせ、その他の将士にはそれぞれ近隣の砦を守らせた。まもなく国清が兵を分けて攻めてきたため、諸砦はことごとく陥落した。正高は正儀らとともに退いて金剛山に拠った。正平十六年、正儀に従って摂津で佐々木秀詮(ささきひであき)の弟氏詮(うじあき)を攻め、これを打ち破った。また従軍して再び京師を攻め落とした。しかしまもなく京を捨てて南へ帰った(注:『太平記』による)。
¶まもなく民部大輔(みんぶのたいふ)となった。正儀が降伏して出て行くと、正高は和田正武らとともに河内・和泉の政務を執り行った(注:金剛寺文書、観心寺文書、二見文書による)。文中(ぶんちゅう)年間、官軍はしばしば戦いに敗れた。天皇はついに天野を避けて吉野へ行幸された(注:『鳩嶺雑事記』『花営三代記』『後深心院関白記』による)。同族の宮内大輔正督(まさただ)らは敵に寝返って降った(注:『花営三代記』による)が、正高は屈しなかった。天授(てんじゅ)四年、紀伊で兵を挙げ、細川業秀(ほそかわなりひで)を攻めてこれを敗った。業秀は城に拠って固く守った。そこで足利義満は大軍を遣わして業秀を救おうとした。正高はこれを迎え撃ったが利あらず、兵を引いて去った(注:『花営三代記』、関岡家始末による)。しかし敗れて引き上げる敵軍を襲い、再び兵を集めて業秀を攻めたので、業秀は淡路(あわじ)へ逃れた。正高は和泉へ帰り、土丸城(つちまるじょう)に拠り、子や甥にそれぞれ近隣の砦を分けて守らせた。天授五年、敵将の山名義理(やまなよしまさ)・山名氏清(やまなうじきよ)らが土丸城を包囲してきた。防戦したが利あらず、甥の某が戦死し、ついに城を捨てて逃げた。翌年、再び氏清と和泉で戦ったが、勝てずに戦死した。一族三人および上神(うえがみ)・下村(しもむら)・毛穴(けな)・礒部(いそべ)・桜井(さくらい)などの諸士も、ことごとく戦って死んだ(注:『花営三代記』による)。
大冢惟正
¶大塚惟正(おおつかこれまさ)は楠氏の一族である。掃部助(かもんのすけ)に任じられ、和泉守護代となった。正成に従って湊川の戦いに赴いた。戦いに敗れて引き返すと、賊将の畠山国清が大軍を発して挑んできた。惟正は八木法達(やぎほうたつ)らとともにこれを防いだが、兵が少なく敵しきれず、退いて八木城に拠った。国清が進んで攻めかかり、幾日も戦いが続いた。やがて中院右少将および橋本正茂らが援軍に来て、内外から挟み撃ちにし、これを大いに打ち破ったので、国清は逃げ去った。翌年、惟正は法達らとともに兵を率いて河内に至り、古市(ふるいち)に砦を築いて拠点とした。丹下西念(たんげさいねん)が攻めてきたが、出撃してこれを撃退した。まもなく細川頼氏(ほそかわよりうじ)・細川直俊(ほそかわなおとし)もまた攻めてきたので、野中寺(やちゅうじ)のあたりで迎え撃ち、賊軍は逃げ去った。惟正は追撃して藤井寺(ふじいでら)の西まで至り、数刻にわたって血戦し、ついに細川直俊を斬った。そして兵を引いて和泉へ戻り、巻尾寺(まきおでら)に拠って砦とし、兵を率いてしばしば宮里城(みやざとじょう)を攻めた。役人には兵を遣わして賊徒の家に火を放たせた(注:和田系図裏書文書による。頼氏・直俊については『尊卑分脈』による)。後に正行に従って高師直の軍を防いだが、重傷を負い、馬も倒れて戦えなくなった。たまたま乗り手を失った馬がいたので、それに乗って数里逃れたが、一族がことごとく死んだと聞くと、馬を返して敵に立ち向かい、ついに戦死した(注:『太平記』による)。