卷之一百六十八 列傳第九十五

土峻賴兼、多治見國長、足助重範、錦織俊政ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次10
  1. 土峻賴兼
  2. 多治見國長
  3. 足助重範
  4. 錦織俊政
  5. 櫻山玆俊
  6. 僧圓觀
  7. 文觀
  8. 忠圓
  9. 聖尋
  10. 僧良忠

土峻賴兼

土岐頼兼(とき よりかね)(注:『太平記』では頼貞とする。諸異本や『太平記』、『保暦間記』では頼時とする)は、十郎と称した。美濃の人で、源頼光(みなもとの よりみつ)の子孫である。曾祖父の光行(みつゆき)は後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の勅を奉じて池田某を討ち、祖父の光定(みつさだ)は讃岐の某を捕らえ、いずれもその功により官職を授かった。父の頼貞(よりさだ)は伯耆守であった(注:『尊卑分脈』による)。

多治見国長(たじみ くになが)は頼兼の一族で、四郎二郎と称し、蔵人を務めた(注:『多治見系図』による)。頼兼と並んで勇猛さで知られていた。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が北条高時(ほうじょう たかとき)討伐を謀った際、二人はちょうど京都の宿直の番に当たっていた。藤原資朝(ふじわら すけとも)は二人を仲間に引き入れ、頼兼の一族である頼春(よりはる)(注:現行本の『太平記』では頼員、諸異本では頼直とするが、ここでは『尊卑分脈』『名和系図』による)もこれに加わった。

頼春の妻は六波羅奉行・斎藤利行(さいとう としゆき)の娘であった。ある夜、頼春が妻に自分の死後のことを語り、悲しみに涙を流した。妻が怪しんで問いただすと、頼春はついに事の真相を打ち明け、決して漏らさぬよう固く戒めた。妻は思った。「事が成らなければ夫は死ぬことになる。成れば私の実家一族は滅びることになる。ならば早くこの謀りごとを訴え出て、夫に謀反を告発した功を立てさせ、実家も無事でいられるようにするのが良い」。そこで妻は利行にこれを告げた。利行は大いに驚き、頼春を責めて言った。「どうしてこのような不吉な企てをしたのか。事がもし外から漏れれば、我が一族は皆殺しにされるであろう」。頼春は「この計画は頼兼・国長が発案したものだ」と答え、身の安全を図ってくれるよう頼んだ。

利行は急ぎ六波羅探題北方の常葉範貞(ときわ のりさだ)に注進した。ちょうどこの時、摂津の葛葉(くずは)村で農民が争いを起こして騒乱となっていたので、範貞は荘園を鎮めるためと称し、四十八箇所の篝屋の兵と在京の武士をことごとく召集し、これによって頼兼らを不意打ちしようとした。そこで頼兼・国長も動員の対象に加えさせた。頼兼・国長は事情を知らぬまま、武装して夜明けを待った。

翌朝、範貞は山本時綱(やまもと ときつな)・小串範行(おぐし のりゆき)を遣わし、兵三千を率いて頼兼・国長をそれぞれ捕らえさせた。時綱は単身ひそかに頼兼の寝所に迫った。頼兼はちょうど起きて髪を整えていたが、時綱の来襲を見るや奮然と躍り出て、刀を構えて斬り合った。しかし敵の大軍が押し寄せると、頼兼は逃れられぬと悟り、寝所に走り戻って自ら腹を切って死んだ。家臣も皆戦い尽きて討死した。

範行は兵を率いて国長を襲った。国長はちょうど酒に酔って伏せっていたが、あわてて跳ね起きた。傍らにいた遊女に甲冑を取らせて着せてもらった。小笠原通弘(おがさわら みちひろ)(注:通弘の名は今勝院本による)がたまたまその屋敷におり、外に出て敵勢を見て国長に告げた。「謀反はすでに露見しました。あなたは覚悟を決めるべきです」。そして弓矢を取って門楼に上り、二十四人を射殺した後、刀を口にくわえて楼から身を投げて死んだ。

国長はその隙に、兵二十余人とともに門を閉ざして敵を待ち構えた。伊藤秋澄(いとう あきずみ)父子四人(注:秋澄の名は金勝院本による)は、門の扉のわずかな隙間から這って入り込み、たちまち討ち取られた。敵勢は恐れて近づこうとしなかったので、国長は門を開いて大声で罵り挑みかかった。敵勢は怒って先を争って攻め寄せたが、国長はこれを撃退した。敵は交代で陣を敷いて戦い、辰の刻から午の刻まで戦い続け、二百余人を殺傷した。

やがて佐々木時信(ささき ときのぶ)の兵千余人が民家を打ち壊し、家の裏手から攻め入った。国長はもはや支えきれぬと悟り、兵二十二人とともに刺し違えて死んだ(注:『太平記』による。『増鏡』には頼兼・国長がともに捕らえられたとあるが、ここでは採らない)。

多治見國長

足助重範(あすけ しげのり)は三郎と称し、鎮守府将軍・源満政(みなもとの みつまさ)の後裔である。五世祖の重秀は源為朝(みなもとの ためとも)の外孫にあたる。はじめ参河国足助に住み、足助冠者と称した(注:『尊卑分脈』による)。

重範は弓の名手で、錦織俊政(にしこおり としまさ)と並んで勇敢の誉れが高かった。後醍醐天皇が北条高時討伐を図った際、重範と俊政は密旨を受けてこれに与った。事が露見し、天皇は笠置山(かさぎやま)へと行幸された。六波羅の鎮将である北条仲時(ほうじょう なかとき)・北条時益(ほうじょう ときます)は兵を派遣して行在所を攻めた。

重範は門櫓に登って叫んだ。「先鋒の者どもは美濃・尾張の兵ではないか。足助重範、謹んで聖旨を奉じ、自らこの門を守る。この城は天皇の御座す場所であり、六波羅殿ご自身が必ずここへ参られるはずだ。我が大和の工人に命じて矢じりを一、二用意させた。諸君、これを試されよ」。そして矢を一本放ち、荒尾行忠(あらお ゆきただ)(注:行忠の名は金勝院本による)を射倒した。行忠の弟の弥五郎(やごろう)は兄の亡骸を身をもって庇い、胸を叩いて叫んだ。「あなたの腕前は評判ほどではないようだ。もう一度射てみよ」。重範は彼が鎧を頼みにしていると見て取り、兜を狙って射抜き、首まで貫いて倒した。

山田重綱(やまだ しげつな)が馬を躍らせて土塁に迫ると、重範はまたこれを射返した。賊兵はさらに盾を連ねて肉薄してきた。城中は喊声を上げ、兵はみな決死の覚悟で戦った。

たまたま奈良般若寺の僧・本性(ほんしょう)という者が事情あって行在所に来ていた。本性は膂力に優れ、高所から巨石を数十個も投げ続け、敵の人馬はなぎ倒されて折り重なり、死者は数えきれぬほどであった。賊兵はこれに肝をつぶし、数日の間近づこうとしなかった。

しかし城が落ちるに及んで重範は捕らえられ、京都で処刑された。重範の一族である重信・賢尊・重成は、元弘三年に官軍に従って高時討伐に加わり、いずれも鎌倉で戦死した。後村上天皇(ごむらかみてんのう)の御代、宗良親王(むねよししんのう)が詔を受けて東国経略にあたり、井伊城(いいじょう)に居られた際、足助重春(あすけ しげはる)という者が参河国で親王を迎え、進撃を図ったが、親王の企ては実現しなかった。

足助重範

錦織俊政は判官代であった(注:『太平記』による。名は金勝院本による。俊政は一説に景令とも書く)。承久の乱の際、錦織判官代という者が勅を奉じて朝廷方につき、敗戦して捕虜となった(注:『東鑑』による。『尊卑分脈』には、錦織判官代義継は山本義経の孫とあり、この人物ではないかと思われる)。俊政はおそらくその子孫であろう。

俊政は足助重範らとともに天皇に従って笠置に入った。城が落ちようとする時、将兵は総崩れとなった。俊政は言った。「詔を奉じて賊を討つ以上、義として死をもって報いるべきである。今さらどこへ逃げようというのか」。そして肌脱ぎになって力の限り戦った。矢が尽き刀も折れると、ついにその子および一族十三人とともに切腹して死んだ。

この時、飛騨守であった石川義純(いしかわ よしずみ)という者が、真っ先に召集に応じて笠置に来ていた。城が落ちると、子の義右(よしすけ)とともに自害した。

錦織俊政

桜山茲俊(さくらやま これとし)(注:名は金勝院本による)は四郎と称し、備後の人であった。天皇が笠置におられた時、楠木正成(くすのき まさしげ)が挙兵すると、茲俊も本国の一宮で兵を挙げたが皆散り散りになってしまい、事の成就が見込めないと悟った。そこで吉備津神社に詣で、まず妻子を刺し殺し、社殿に火を放ってから自害した。殉死した者は二十三人であった(注:金勝院本には三十余人とある)。

もともと茲俊はこの神を深く敬い、常々その社殿を新しく造営したいと願いながら果たせずにいた。功を立てて恩賞を得て、その費用に充てようと考え、兵を挙げて壮士七百余人を率い、国内をおおむね平定すると、近隣もこれに応じた。しかし笠置が陥落し、正成の城もまた落ちて彼は死を偽装して逃れたため、茲俊の軍勢も敗れて茲俊は討死し、社殿はことごとく焼け落ちた。これは朝廷による再建を願ってのことであった。

延元年間、また桜山左近将監という者が備後に拠って勤王した(注:『太平記』による。左近将監の名は金勝院本による)。おそらく茲俊の一族であろう。

櫻山玆俊

僧・円観(えんかん)は法勝寺に住み、代々の天皇の戒師を務めた。僧・文観(もんかん)は醍醐寺座主、東寺長者であった。僧・忠円(ちゅうえん)は浄土寺に住み、いずれも僧正であった。

後醍醐天皇は元来仏教を篤く信仰しており、鎌倉幕府打倒を図るにあたって、天下の武士をにわかに徴集するのは容易ではないと考え、僧兵の力を頼んで軍事に役立てようとした。そこで延暦寺・東大寺・興福寺などにたびたび行幸し、あらかじめ僧徒の心をつかんでおこうとした。円観・文観・忠円もこれに関わった。

元弘元年春、天皇は中宮の安産祈願にかこつけて諸寺の僧を大々的に召し、特に円観・文観を御前に招いて、北条氏を呪詛する修法を行わせた。しかし期日になって事が露見し、北条高時は使者を遣わして円観・文観を捕らえさせた。忠円も日頃から天皇に重用されていたため、あわせて送られた。円観は代々の天皇の戒師であったことから、かなり丁重に扱われた。

尋問に及ぶと、文観は厳しく取り調べられ、ついに呪詛の事実を白状した。忠円は気が弱く、真っ先に自ら罪を認め、朝廷の密議や首謀者の名を詳しく書き記して差し出した。高時は文観を硫黄島に、忠円を越後に流し、円観は陸奥に幽閉した。乱が平定されると、三人ともそれぞれの寺に戻り住んだ。

文観は天皇の寵愛を頼みに驕り高ぶり、財を蓄え武具をたくわえた。彼にこびへつらう者があれば、すぐに奏請してやり、道理に外れた恩賞を得させたので、欲にかられて彼に取り入る者は数百人にものぼった。参内するたびに、兵が前後に付き従って先導した。

足利尊氏(あしかが たかうじ)の軍が京都に攻め入った際、文観は脇屋義助(わきや よしすけ)らとともに山崎でこれを防いだが、味方の兵は弱く、先を争って降伏したため、文観は敗走した(注:『太平記』による)。文観は正平十二年に没した。円観は正平十一年に没した(注:『常楽記』による。法勝寺の僧・慧鎮(えちん)という者があり、正平七年に後村上天皇が男山に行幸された際、足利義詮が慧鎮を遣わして武装解除を奏請させ、天皇は偽ってこれを承知したという話が『太平記』『園太暦』に見える。一説に慧鎮は円観の別号であるというが、いずれが正しいかは分からない)。

僧圓觀

僧・聖尋(しょうじん)は関白・基忠(もとただ)の子で、大僧正であった。東大寺東南院の法務、東大寺別当、醍醐寺座主を務め(注:『尊卑分脈』、毛利家本・天正本『太平記』による)、笠置寺別当も兼ねていた(注:『笠置寺縁起』による)。

元弘元年、天皇が南方へ巡幸し、東南院に行幸された。聖尋は天皇を松嶺寺(注:松嶺寺の名は毛利家本・天正本『太平記』による)にお入れしたが、まだ行幸のことを公にせず、僧徒たちの向背の様子をうかがった。ところが東大寺西室の主僧・顕宝(けんぽう)(注:現行本『太平記』では顕時とするが、ここでは諸異本による)は北条高時の一族であった。僧徒たちはこれを恐れ、義に馳せ参じる者がいなかった。

聖尋は事の成就が見込めないと悟り、改めて天皇を奉じて山城国の鷲峰山(じゅぶせん)に赴いた。しかしそこは辺鄙で不便であったため、笠置山へと御動座を移した。険しい地形を頼みに行宮とし、人心もいくらか落ち着いたので、近国から兵を徴集した。近国の将兵も次第に集まってきた。

しかしまもなく、賊軍が大軍を発して攻め寄せ、城は陥落した。賊は聖尋を捕らえて六波羅に送った。翌年、下総に流された。高時が誅殺されると、聖尋は東大寺に戻り住むことを許され、かつて賊のために焼き払われた笠置寺を、勅命を奉じて再建した。忠円と聖尋は、ともにその後の消息が分からない。

文觀

僧・良忠(りょうちゅう)は関白・良実(よしざね)の孫である。父の良宝(りょうほう)は権大僧都であった。良忠は伯父の関白・師忠(もろただ)の養子となった。法印に叙せられ(注:『尊卑分脈』による)、殿法印と称された(注:『太平記』による)。護良親王(もりよししんのう)の側近であった(注:『尊卑分脈』『太平記』による)。

元弘の初め、良忠は天皇に従って笠置に赴き、権中納言・源具行(みなもとの ともゆき)とともに城を脱出する計画を立て、諸国に挙兵の詔を頒布しようとした。行在所が敗れ、天皇が六波羅に移されると、良忠は天皇を奪還しようと図ったが果たせず、まもなく捕らえられた。

北条仲時は役人に命じてこう言わせた。「今、鎌倉幕府を滅ぼそうとする企ては、天子ですらなし得ぬことである。お前たちのやったことはなんと粗雑なことか。聞けば、お前は我らの地の様子を探り、前帝を奪還しようと謀ったという。その罪は極刑に値する。企てたことをすべて自白せよ」。良忠はすかさず答えた。「天下はすべて王土である。危難にある主君をお救いするのに、どうして道に外れたことがあろうか。義によって賊を討つのを、なぜ粗雑と言うのか」。その言葉は奮然として激しく、いささかも屈することがなかった。仲時は処刑しようと評議したが、ある者がこれを止め、「引き続き留め置いて一味を引き出させるべきだ」と言ったので、役人に預けて室に閉じ込めた。良忠は力が強く、夜ひそかに戸を破って逃げ去った。

元弘三年四月、良忠は赤松則村(あかまつ のりむら)とともに六波羅を攻めたが利あらず、五月に諸将とともに再び攻めてこれを陥落させた。ところがその配下の者たちが民家の蔵を暴いて財物を略奪した。足利尊氏はその二十余人を捕らえ、六条河原で梟首し、大きく高札を立てて「大塔宮(だいとうのみや)の側近・殿法印良忠の部下、盗みの罪により処刑す」と記した。良忠はこれを深く恨み、護良親王とともに尊氏を誅殺しようと謀った。のちに天皇が讒言を信じて親王を幽閉すると、親王に従っていた三十余人はみな殺された(注:『太平記』による。本書には良忠の死については記載がないが、おそらく同じく殺されたのであろう)。

忠圓

僧・祐覚(ゆうかく)(注:祐は宥とも書く)は、初め法勝寺に住んで戒律を学び、覚応坊(かくおうぼう)と称した(注:今川家本・北条家本・西源院本・南都本『太平記』による)。後醍醐天皇が船上山(せんじょうさん)におられた時、延暦寺に入って山門の僧徒となり、道場坊助注記(どうじょうぼうすけのちゅうき)と称して兵を集め、勤王に努めた。

また新田義貞(にった よしさだ)に従って足利尊氏を東征した。足利直義(あしかが ただよし)が箱根の嶺で防戦した際、祐覚は侍童十人と僧兵三十余人に立派な甲冑を着けさせた。侍童はみな兜に花勝(はなかつ)の飾りをつけて先頭を進んだ。敵はこれを射て八人を倒したが、僧兵が続いて進み奮戦したので、敵軍は総崩れとなった。

やがて官軍が敗れ、天皇が延暦寺に行幸された。僧・英憲(えいけん)がまず参着し、円宗院の僧・定宗(じょうそう)も五百余人を率いて護衛に来て、寺院や民家をあまねく割り当てて軍勢を宿らせた。祐覚は千余の兵を率いて続いて到着し、山中に檄を飛ばした。こうして僧徒が大挙して集まり、銭六万貫・穀七千石を献上した。祐覚はこれを配分し、軍はこれによって大いに安定した。

まもなく鎮守府大将軍・源顕家(みなもとの あきいえ)が大軍を率いて近江に到着した。これを聞いた天皇は、祐覚に命じて船七百余隻を出させて顕家を迎えさせた。ついで僧徒一万と諸将は、手分けして京都の足利尊氏を討った。僧徒はまず宇都宮公綱(うつのみや きんつな)を神楽岡に攻めた。祐覚は兵三百を率いて真っ先に土塁を登った。定宗は五百人を率いて続いて到着し、これを助けた。

賊は力を尽くして防戦し、矢や石が雨のように降り注いだ。因幡出身の豎(たて)全村(ぜんそん)という者があり、日頃から勇猛で知られていた。彼は大きな鏃の矢を手に持ち、敵兵が城壁に上るのを見計らって、矢狭間からこれを突き刺し、鎧を貫いて倒した。敵軍はこれに恐れをなし、僧徒はその隙に一気に攻めて敵を打ち破り走らせた。当時の人々は全村を「手鏦(てぼこ)因幡」と呼んだ。

天皇が再び延暦寺に行幸されると、祐覚は再び僧徒を励まし、銭穀を集めて軍用に充てた。しかし数か月を経ると、財資は底を尽いた。そのうえ足利高経(あしかが たかつね)・小笠原貞宗(おがさわら さだむね)の兵が輸送路を塞いだため、軍中は大いに窮乏した。祐覚は五千人を率いて野路篠原で貞宗を攻め、あえて退かなかった。天皇が京都へお戻りになる際、祐覚も供奉して入京したが、足利尊氏は彼が山門の間諜の首謀者であったことを憎み、これを斬った。

聖尋

僧・宗信(そうしん)は吉野で修行し、法印に叙せられ、吉水院(きっすいいん)に住んでいた。後醍醐天皇が花山院を出て穴太(あのう)へ行幸された際、従臣の刑部大輔・大江景繁(おおえの かげしげ)を遣わして宗信に告げ、吉野に行宮を定めることを伝えさせた。宗信はそこで僧兵三百を発して天皇を迎え、行宮を造営してお迎えした。

まもなく天皇が崩御されると、人々の心は動揺し、誰もが守ろうとする気持ちを失った。宗信は参内して奏上した。「先帝は崩御に臨み、幼き君を助けて逆賊を討つよう遺勅を残されました。その遺命はまだ耳に新しく、どうして今にわかに離散してよいものでしょうか。まして宗信がここにおります。皆様方は動揺なさいませぬよう。今、四方の官軍を見れば、上野には新田義興(にった よしおき)、武蔵には新田義宗(にった よしむね)、越前には脇屋義助(わきや よしすけ)・義治(よしはる)がおります。そのほかの一族で郡国に拠っている者は、およそ四百余人。加えて筑紫には菊池・松浦・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路には阿閒・志知、安芸には有井、石見には三角・成合、出雲・伯耆には名和、備後には桜山、備前には今木・大富・和田・児島、播磨には吉川、河内には和田・楠・橋本・福塚、大和には三輪・西阿・真木・宝珠丸、紀伊には湯浅・山本・井遠・加藤、遠江には井伊介、美濃には根尾、尾張には熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津・大田、近江には儀俄・高山・野村・熊谷がおります。山門の僧徒にも南岸・円宗院がおります。これらはみな忠義が金石のごとく堅く、安危によって節を変えることのない者たちです。速やかに詔書を頒布し、これを励まして再興を図るべきです。そうすれば、誰がこれまでの功を捨てて、進んで降伏などいたしましょうか」。

ちょうどそこへ楠正行(くすのき まさつら)・和田正武(わだ まさたけ)が兵を率いて警護に駆けつけたので、人々の心はこれによって大いに安定した(注:『太平記』による。官軍の姓氏は諸本によって異同があるが、ここでは現行本による。吉水院文書によれば、真遍(しんぺん)という者が吉水院に住み、護良親王を助けて吉野に拠ったが、城が落ちると親王に従って南に逃れ、乱が平定されると戻り住んだという。おそらく真遍とは宗信の号であろう。真遍の後には成遍(じょうへん)および尊寿丸(そんじゅまる)がおり、代々世を継いだという。吉野の人々の言い伝えによれば、吉水院と新熊野の両家が交代でその務めを担っていたという。護良親王が吉野におられた時、専ら吉水院を重んじられたため、新熊野の巌菊(がんぎく)がこれを恨み、鎌倉方の兵に味方して道案内をし、城を襲って陥落させたという。後醍醐天皇が吉野に入られると、吉水院への寵愛はますます篤くなり、皇女を降嫁させて一子をもうけ、尊寿丸の名を賜ったという)。

僧良忠

僧・西阿(さいあ)は大和国三輪の人である。延元二年、天皇が吉野におられ、諸国に足利尊氏討伐の詔を下された。西阿はこの詔に応じ、関地城(せきちじょう)に拠って挙兵した。尊氏は兵を遣わしてこれを攻めたが、攻め落とすことができなかった(注:関地は一説に関住、あるいは関地井とも書く)。

天皇が崩御されると、人々の心は不安と恐れを抱いたが、西阿は節義を守って動じなかった。興国二年、尊氏はさらに細川顕氏(ほそかわ あきうじ)・佐々木貞氏(ささき さだうじ)らを遣わして攻めさせた。西阿は防戦したが利あらず、城を捨てて逃れ、兵を集めてまた城に立てこもった。顕氏らはさらに包囲したが、ついにこれを攻略できなかった。

その後、西阿は子の良円(りょうえん)とともに楠正行に従い、高師直(こうの もろなお)の軍を四条畷(しじょうなわて)で防いだが勝てず、父子ともに討死した。その一族は今なお三輪におり、勤王の節義を変えていないという。