卷之一百七十四 列傳第一百

新田義顯、新田義興、脅屋義助、脅屋義治

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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新田義顯

新田義顕(にったよしあき)は、小太郎と称し、新田義貞(にったよしさだ)の子である。(注:尊卑分脈、太平記による。)常に父の征戦に従軍し、その功により越後守護となった。義貞が東国へ遠征した際、義顕は結城親光(ゆうきちかみつ)、伯耆守名和長年(なわながとし)、河内守楠正成(くすのきまさしげ)らの諸将とともに京都に留まって守衛にあたった。大渡(おおわたり)の戦いに敗れた際には、三千余人を率いて殿(しんがり)を務めたが、敵兵六万がこれを追撃した。義顕は奮戦すること数度に及び、自らも数か所の傷を負った。(注:太平記による。)馬に助け乗せられて紫宸殿の庭に参内すると、天皇自ら臨んでこれを慰労し、そのまま延暦寺への行幸に供奉した。(注:毛利家本太平記による。)

義貞が金崎城(かねがさきじょう)に入ると、兵二千を義顕に預け、越後で兵馬を募って後援とするよう命じた。義顕はまず叔父の脇屋義助(わきやよしすけ)とともに杣山(そまやま)に入ろうとしたが、瓜生保(うりゅうたもつ)がこれを拒んで受け入れなかった。義顕は越後へ向かおうとしたが、兵の多くが逃亡し、従う者はわずか二百五十人となった。そこで金崎に引き返し、改めて後の挙兵を図ろうと相談した。

折しも越前の今庄浄慶(いまじょうじょうけい)という者が足利高経(あしかがたかつね)に応じ、険阻な地に拠ってこれを迎え撃とうとしていた。義助は「浄慶はおそらく今庄久経(ひさつね)の一党であろう。久経は以前わが軍に属し恩義があった。誰か試みに説得に行ける者はいないか」と言った。由良光氏(ゆらみつうじ)が承知して立ち上がり、単騎進み出て言った。「脇屋殿は軍議のため金崎へ向かわれる。そなたらがもし誤って矢の一本でも放てば、どうしてその罪を逃れられようか。すぐに兵を退いて道を開けよ」。浄慶は答えた。「以前、私の父久経は忝くも麾下におりましたが、私は今、尾張守(足利方)に属しております。罪を免れようと図り、あえて前を遮っているだけです。行軍の中の名の知れた士の首級を一つ二つ賜れば、それを口実にできますので、仰せに従いましょう」。義助はこれを聞いて黙り込んだ。

義顕は言った。「浄慶の言うことも理由のないことではない。しかし従軍してきた兵士たちとは、父子のような契りを結んでいる。むしろ私が彼らの身代わりになろう、彼らを私の身代わりにすることは忍びない。そなたはこの意を浄慶に重ねて伝えよ。それでも聞き入れぬなら、皆とともに戦死し、士を重んずる義を貫こう」。光氏は重ねて説いたが、浄慶は聞き入れなかった。光氏は馬を下り甲冑を脱いで言った。「大将ですら皆の身代わりとなって命を捨てようとしておられるのに、従う士がどうして節義を尽くさずにいられようか」。そして刀を抜いて自ら刺そうとした。浄慶は感激し、急いで駆け寄って止めて言った。「将も士もともに義に篤い。浄慶がどうして罪を恐れましょうか」。そこで備えを解き、涙を拭いながら道の脇にうずくまった。義助と義顕は大いに喜び、佩刀の金装の刀を解いて光氏に与え、「私が討ち死にしても、一族に事業を興す者があれば、必ずこの刀をもってそなたの忠義の証としよう」と言った。

義顕の兵たちは、当初浄慶の話を聞いて恐れをなして逃げ去り、残った者はわずか十六人であった。義顕はこれを率いて包囲を突破し、金崎城に入った。まもなく大軍が再び城を包囲し、城中の兵糧は尽きた。義貞はひそかに城を出て杣山へ走り、援兵を集めた。義顕は城の守りにとどまり、その兵は八百余人であった。(注:現行本の太平記には百六十人とあり、また尊良親王に従って死んだ者は三百余人とも記されていて、前後で食い違いがある。ここでは他の異本の太平記に従う。)敵と二十余日にわたって対峙したが、敵兵十万が四方から城に迫って攻め入った。城兵は長く飢えに苦しみ、車輪がぶつかり合うように混雑しても身動きも取れぬほど疲弊し、櫓に座り城壁にすがって、息も絶え絶えとなるばかりであった。義顕はついに尊良親王(たかよししんのう)とともに自害した。備後守土居通治(どいみちはる)、由良具滋(ゆらともしげ)、長浜顕寛(ながはまあきひろ)らは防戦したが、力尽きてみな戦死した。左近衛中将藤原行房(ふじわらのゆきふさ)、大炊助里見義氏(さとみよしうじ)、武田与一(たけだよいち)、気比氏治(けひうじはる)とその子斉晴(なりはる)、法眼賢覚(ほうげんけんかく)以下の士卒も、ことごとく自害し、逃れ得た者は四人、降った者はわずか十二人であった。(注:太平記による。)

新田義興

新田義興(にったよしおき)は、幼名を徳寿丸(とくじゅまる)といい、(注:尊卑分脈、太平記による。)義顕の異母弟である。母の身分が低かったため、義貞にあまり愛されなかった。幼少期は上野(こうずけ)で過ごした。延元二年、鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が鎌倉を攻めようと武蔵国府まで進軍すると、義興もまた兵三万を挙げてこれに応じたが、顕家の進軍が遅れることを見越し、自軍だけで鎌倉を先に取ろうと図った。まもなく顕家の軍が到着し、両軍は合流して鎌倉を攻め落とし、そのまま顕家とともに西へ向かった。翌年の春、青野原(あおのがはら)で戦い、上杉憲顕(のりあき)を破った。顕家が戦死すると、その弟の少将顕信(あきのぶ)に従って男山(おとこやま)に拠った。しかし官軍は敗れ、吉野へと逃れた。天皇は義興を引見し、その才器を称えて「父の家名を興すことができよう」と言い、御前で元服させて今の名を賜り、左兵衛佐に任じた。(注:尊卑分脈には正五位下左近衛将監とある。)そして北条時行(ときゆき)とともに義良親王(のりよししんのう)を助けて東国を平定するよう命じた。船で海を渡る途中に暴風に遭い、諸軍は互いにはぐれてしまった。(注:太平記による。)義興の船は武蔵の石浜(いしはま)に漂着し、(注:金勝院本太平記による。)そのまま東国に身を潜めた。

正平七年の春、弟の義宗(よしむね)、従弟の義治(よしはる)とともに兵を挙げ、鎌倉を攻めた。足利尊氏は子の基氏(もとうじ)を鎌倉の守りに残し、自ら兵を率いて金井原(かないはら)で迎え撃った。(注:本書には小手指原〈こてさしはら〉とあるが、ここでは鶴岡社務記、喜連川系図によって訂正する。)官軍は尊氏を撃退し、義宗はこれを追撃した。義興と義治は、白旗の一隊が退いていくのを見て尊氏の軍であろうと思い、これも追った。ちょうど降伏者が次々に現れ、馬前に迎え拝んだ。二人はそれらしい様子に接し、また兵士たちも敗走する敵を追って先を争って進んだため、手元に残った兵はわずか三百人となった。そこへ伏兵が四方から起こって取り囲み、二人は自ら奮戦した。義興は三か所の傷を負い、義治は刀が折れたため眉尖刀(なぎなた)を振るって戦い、刃はのこぎりのように欠けた。士卒の死者は百余人に及び、かろうじて包囲を脱したが、義宗とははぐれてしまった。義興は「我が兵は疲れ果てており、退こうとしても叶わない。それならばいっそ鎌倉を直接襲い、基氏と雌雄を決するにしかず」と言い、その夜のうちに関戸(せきど)を通過した。折しも石塔義房(いしどうよしふさ)、三浦高通(たかみち)らが兵数千を率いて降伏してきた。義興は大いに喜び、これらを率いて神奈川に至り、敵の備えのないことを知って襲撃した。義興は自ら敵中に馳せ入り、三騎を斬った。手綱が切れて地に垂れると、鞍にかがみこんでこれを結び直した。敵が馳せ寄って乱れ斬りかかっても動じなかった。敵は大いに驚き怪しんで去っていった。まもなく義治も百余人を率いて敵将南宗継(みなみむねつぐ)と戦い、これを破った。基氏は逃走した。義興と義治はそのまま鎌倉に居座り、関東八か国に号令した。

半月ほど経ったころ、尊氏がすでに笛吹嶺(ふえふきみね)で義宗を破り、軍を返して鎌倉を攻めようとしていると聞いた。義興と義治は死守しようと相談したが、ある者が「ひとまず逃れ隠れ、京の情勢を聞いた上で北国の諸将と手を結び、再挙を図るのがよい」と言った。義興と義治はこれに従い、国府津山(こうづやま)に逃げ入って河村城(かわむらじょう)に拠った。(注:太平記による。)尊氏が兵を率いて攻めてきたため、城を捨てて逃げた。(注:太平記、喜連川系図を参照した。)その後は義宗らとともに越後を保った。

武蔵・上野の豪族たちが書状を送り、義興を将として推戴したいと願い出て、連名で盟約を結び、二心のないことを誓った。義宗と義治は疑って応じなかったが、義興は奇功を立てることを志し、単身百余人を従えて両国の間を転々とし、将士は次第にこれに従うようになった。基氏と畠山国清(はたけやまくにきよ)はたびたび兵を送って義興を襲わせたが、義興はたちまち姿をくらました。ある時は道で待ち伏せされたが、義興は数騎とともに包囲を突破して逃れた。神出鬼没に往来し、居所の見当もつかぬありさまで、国清は大いにこれを患えた。

かつて武蔵野の戦いの折、竹沢良衡(たけざわよしひら)という者が義興の部下にいたが、後に足利義詮(よしあきら)に降った。国清はこの良衡を利で釣り、義興を陥れさせようとした。良衡は罪を負って所領を奪われたふりをし、人を遣わして義興に懇意を通じさせた。義興は疑って会おうとしなかった。良衡は京で美女の少将という女を見つけて自分の養女とし、着飾らせて義興に差し出した。義興はこれを寵愛した。良衡はさらに人を遣わしてたびたび自分の忠誠に二心のないことを説かせ、ついに義興に会うことができた。鞍・馬・鎧をそれぞれ三揃い献上し、従う士たちに酒宴を設けてもてなし、それぞれに武具や衣服を与えた。義興もまた良衡を信じるようになった。半年ほど経つと、軍の謀議や密策までもすべて良衡と共にするようになった。

ちょうど九月十三日の夜、良衡は兵を潜ませて義興を襲い殺そうと図った。義興が出向こうとしたとき、折しも少将が不吉な夢を見たと書状で知らせてきて、これを止めた。家臣の井伊直秀(いいなおひで)も(注:井伊直秀については井伊家譜、西源院本太平記による。)行くべきではないと諫めたため、義興は病と称して行かなかった。良衡は少将が計略を漏らしたのではないかと疑い、これを殺した。義興はそれを知らず、たびたび書状を送って様子を尋ねたが、良衡は病にかかったと偽って返事をしなかった。(注:「数通書問」以下は西源院本太平記による。)

良衡は人を遣わして国清に「義興の居所を確かに掴みました。江戸高重(えどたかしげ)を呼び寄せれば、ともに事を成し遂げられましょう」と伝えた。高重は良衡の従兄弟であった。国清はそこでまた高重の所領を奪い、新たに代官を置いた。高重はこれを追い出して城を築き兵を集め、表向きは謀反を企てているように装った。良衡はこれにかこつけて義興に「道誉が理由もなく所領を奪い、私には身の置き所がありません。この恨みを晴らしたいのですが、軍に指揮する者がなく、士卒もついてきません。どうか殿を大将としてお仕えしたい。鎌倉にいる私の一族も数千人おり、これを率いて相模を平定し、関東八か国を巡れば、天下を定めるのも難しくはないでしょう」と伝えた。義興はこれを信じ、鎌倉へ赴こうとした。良衡と高重らは「多くの兵を従えて行けば、人に怪しまれるでしょう」と言い、義興はこれに従った。

十月、士卒を先に出発させ、わずか十余人だけを連れて、明け方に鎌倉へ向かった。良衡と高重はあらかじめ舟の栓を細工しておき、矢口の渡し(やぐちのわたし)に舟を用意して岸辺に伏兵を潜ませた。義興が川の中ほどに達したとき、舟人が栓を抜いて逃げ去った。舟が沈もうとすると、伏兵が一斉に起こり、箙(えびら)を叩いてどっと笑った。義興は怒って「まさか大不忠の者に欺かれるとは。七度生まれ変わってもそなたらを恨んでやる」と罵り、世良田右馬助(せらだうまのすけ)、井伊直秀、大島周防守(すおうのかみ)、由良兵庫助(ひょうごのすけ)、由良新左衛門(しんざえもん)とともに自害した。土肥三郎左衛門(どひさぶろうざえもん)、南瀬口六郎(みなみせぐちろくろう)、市河五郎(いちかわごろう)は衣を脱ぎ刀を口にくわえて泳いで岸に上がり、敵五人を斬り十三人を傷つけて、ついに戦死した。

良衡と高重は首級を拾い集め、入間川(いるまがわ)の陣営で基氏に献上した。基氏は恩賞を論じるにあたり、良衡を陣に留め置き、高重を所領に帰して残党を捜索させた。高重が矢口の渡しまで戻ると、舟人が酒肴を積んで出迎えた。舟が川の中ほどに至ったとき、にわかに雷雨が起こり波が激しく逆巻いて、舟は転覆し一同は皆溺死した。高重はこれを見て驚き、数里を逃げ走った。すると黒い霧のようなものが頭を覆い、義興が竜の兜に白馬にまたがった姿で追いかけてきて矢を射るのが見えた。とたんに馬を乗り換えたが、血を吐いて悶絶した。家に担ぎ込まれると、のたうち回って溺れる者のような有様となり、七日後に死んだ。国清もまた、義興が凶悪な形相で鬼のようなものを従え、火車(かしゃ)を引いて基氏の陣に入る夢を見た。ちょうどそのとき雷火が起こり、入間川の民家三百余戸を焼いた。その後、矢口の渡しではたびたび怪しい光が現れたという。土地の人々は祠を建てて今もこれを祀り、新田大明神(にっただいみょうじん)と号している。(注:太平記による。高重の名は江戸系図による。)

脅屋義助

新田義宗(よしむね)は、兄義顕が没すると、跡継ぎに立てられた。時に六歳であった。(注:太平記による。)武蔵守、左兵衛佐に任じられ、(注:尊卑分脈による。)昇殿を許された。(注:尊卑分脈の一説、太平記による。)後に左近衛少将に任じられた。(注:太平記による。)兄の義興、従弟の脇屋義治とともに長らく東国に身を潜め、隙をうかがっていた。

正平七年の春、足利義詮が吉野に和議を申し入れると、天皇は表向きこれを許し、由良信阿(ゆらしんあ)を遣わして義宗らに「朝廷が和議を結ぶのは、実は一時の権謀にすぎない。時を見て兵を挙げ、賊の頭目を殲滅して帝の憂いを除くように」と勅した。そこで義宗は檄を回して兵を集め、八百の兵を率いて西上野に出陣した。旧知の諸将で兵を率いて馳せ参じる者は、ほとんど十万余人にのぼった。武蔵まで進むと、足利尊氏が金井原で迎え撃ち、勝敗は互角であった。敵将饗庭氏直(あえばうじなお)の率いる六十騎はみな若く壮健で、兜には梅花をあしらっていた。我が軍の児玉党(こだまとう)七千余人は、みな団扇を描いた旗を掲げていた。義宗は「扇には風がある、花を散らすことができよう」と言い、これを差し向けて攻撃させた。氏直は果たして敗れ、敵兵はそれにつれて崩れ、収拾がつかなくなった。義宗はそこで騎馬五百を率いて先頭に立って追撃し、尊氏の旗印を望み見て数里を駆け、石浜(いしはま)まで迫ってあと少しで捕らえるところであった。尊氏の左右にいた二十余人は力戦して討ち死にした。尊氏はかろうじて逃れ、兵をまとめて前方の岸を守った。義宗は日がすでに暮れ、後続の軍もないことを見て、歯噛みしながら引き返した。

金井原に戻ると、義興・義治とはぐれてしまっていた。諸将は「我が軍は寡少であり、長く駐屯するのは難しかろう。暗闇に乗じて退き、笛吹嶺に拠って越後・信濃の兵を徴し、再挙を図るべきである」と評議した。義宗はこれに従い、再び集まった兵は二万余人となり、宗良親王(むねながしんのう)を元帥として奉じた。この頃、義興と義治は鎌倉を攻め取ってこれに拠っていた。ところが尊氏が先に笛吹嶺を攻めてきたため、義宗は諸軍を率いて小手指原(こてさしはら)で迎撃したが(注:「小手差原」は李花集、喜連川系図による。)、激戦の末に不利となって退いた。

日が暮れて、義宗が敵陣を望み見ると、篝火が五、六里にわたって連なっていた。官軍の篝火はまばらで、夜明けの星のようであった。義宗は左右の者に「昼の戦いに一度敗れたくらいで、なぜこれほどまでになるのか。これはきっと逃亡した者がいるのだろう」と言い、すぐに関を設けてこれを防いだ。また、前には強敵が迫り、後ろには故郷の地が近いことを考えると、士卒の中には「大将は故郷に心を残しておられるのではないか」と言う者もいた。そこで義宗は自ら甲冑を脱いで退かない意志を示すと、軍中はようやく落ち着いた。夜半、別の軍勢が敵陣に馳せ参じるのが見え、篝火が絶え間なく道を照らした。上杉憲顕はこれを見て先に逃げ出した。義宗も一人だけ留まるわけにはいかず、兵を率いて越後へと逃れた。(注:太平記による。北条家本、南都本の太平記には、義宗が先に越後へ逃れ、憲顕はその後に退いたとある。)

天皇が自ら軍を率いて京都奪還を図った際には、児島高徳(こじまたかのり)を遣わして義宗らのもとへ合流を促した。義宗は七千の兵を率い、桃井直常(もものいなおつね)、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔義房らとともに出発したが、到着する前に禁裏の軍は敗走し、義宗らも兵を引いて戻った。その後は義興・義治とともに越後の半ばを攻め取り、城を築いて拠った。(注:太平記による。)二十三年七月、義治とともに兵を挙げたが、上杉憲将(のりまさ)らと戦って勝つことができず、討ち死にした。(注:喜連川系図による。)

その子の義則(よしのり)は相模守に任じられ、(注:義則の名は喜連川系図による。)その子の刑部少輔(ぎょうぶのしょう)とともに(注:本書には従弟とする説もあり、いずれが正しいか分からない。)信濃の大河原(おおかわら)に身を潜めていた。弘和年間、その土地の者たちが離反し、大勢で攻めてきた。宮(注:本書には名を記さないが宗良親王のことである。)および新田氏の一族はことごとく浪合(なみあい)で戦死し、義則父子はかろうじて逃れることができた。陸奥に赴き、岩城(いわき)の酒辺(さかべ)に寓居した。

元中二年、ひそかに挙兵を謀り、上野・武蔵の間に檄を回して旧知の者たちを招き集めたが、まもなく事が漏れ、使者は鎌倉方の将梶原道景(かじわらみちかげ)、岩松法松(いわまつほうしょう)に捕らえられ、計画は実現しなかった。応永の初め、小山若犬丸(おやまわかいぬまる)がひそかに陸奥に来て、田村荘司(たむらのしょうじ)、坂上清包(さかのうえのきよかね)(注:喜連川系図には清包を則義とする。)と共謀して挙兵し、義則父子を大将として推戴し、白河・上野・武蔵に進出した。義に集う者たちが皆馳せ参じたが、足利氏満(うじみつ)が大軍を率いて攻めてきたため、小山・田村の軍は大敗した。そこで義則父子は相模へ逃れ、木賀彦六(きがひころく)という者を頼って箱根山の底倉(そこくら)に身を潜め、髪を剃って行啓(ぎょうけい)と名を改めた。

十年、その土地の藤田某という者が大勢で襲ってきて、義則は自らこれを防いだが、勝てずに戦死した。この時、刑部少輔はたまたま別の場所にいたため、難を免れることができた。十七年、足利満兼(みつかね)が死去すると、ひそかに挙兵を謀り、旧知の者たちに檄を回したが、事が露見し、千葉兼胤(ちばかねたね)に殺害された。(注:鎌倉大草子による。)

脅屋義治

脇屋義助は、次郎と称し、新田義貞の弟である。(注:尊卑分脈、太平記による。)北条高時(ほうじょうたかとき)が兵を発して義貞を討とうとした際、人々は皆それぞれに拒む策を持ち、議論はまとまらなかった。義助は進み出て言った。「北条氏が権勢をほしいままにして百余年、兵は盛んで人々は服しており、もとより我らの敵ではない。今かろうじて防ぎ得たとしても、長くは持ちこたえられず、やがて逃げ散り、行く先々で困窮して死ぬことになろう。それでは天下の人々に、新田氏は座して鎌倉の使者を殺し、それゆえに誅殺されたのだと思われてしまう。これほど恥ずべきことがあろうか。綸旨を承ったのは、いったい何のためであったか。ただ兵を挙げて義を鼓舞し、諸郡県に打って出れば、人々は進んで鎌倉に向かうか、さもなくば死ぬまでのことである」。人々はこの言葉に従い、ついに事を成し遂げ、義助は兵庫助となった。

建武元年、義貞とともに京都に入り、武者所(むしゃどころ)となり、(注:「武者所」は尊卑分脈による。)駿河の守護を兼ねた。義貞が東国へ下って足利尊氏を討った際、義助は別に尊良親王を奉じ、兵七千を率いて竹下(たけのした)で尊氏と戦った。前軍が不利になると、敵は勝ちに乗じて本隊に直進してきた。義助は兵を進めてこれに当たり、激戦の末に退いた。このとき子の義治がたまたま敵中に取り残された。義助は再び馳せ入ってこれを救い出し、いよいよ奮戦して討ち取った敵の数は数え切れないほどであった。まもなく大友貞載(おおともさだとし)、塩冶高貞(えんやたかさだ)が突然二心を抱き、敵に降ってしまった。敵の勢いはますます盛んになり、義助は支えきれず、尊良親王を奉じて西へ退いた。敵兵はこれを追撃し、義助は戦いながら退いた。ちょうどそこへ義貞が京都から戻ってきた。

翌年、足利尊氏が京都に攻め入ると、義助は権大納言藤原公泰(きんやす)、宇都宮泰藤(やすふじ)らとともに兵七千を率いて山崎で防いだ。戦いは不利となり、義貞とともに兵を引いて延暦寺への行幸に供奉した。義貞とともに園城寺(おんじょうじ)を攻め落として京都に入り、諸将とともに将軍塚(しょうぐんづか)に陣を敷いた。敵将高師泰(こうのもろやす)がこれを攻めると、義助は弓手六百余人を出して林に隠れさせ乱射させた。敵はためらって進まなかったため、兵を放って撃ち破った。そして諸軍と合流して尊氏を破り、尊氏はついに西へ逃れた。この功により右衛門佐に任じられ、昇殿を許された。(注:「昇殿を許された」は尊卑分脈による。ただし何年のことかは分からず、ひとまずここに記す。)

また義貞に従って赤松則村(あかまつのりむら)の白旗城(しらはたじょう)を包囲したが、長く経っても落とせなかった。義助は諫めて言った。「かつて北条氏は天下の兵を挙げて、もっぱら金剛山を攻め、そのために国中が瓦解するに至った。これは戒めとすべきことである。今、小城の下に兵を留めていては、我が方の兵糧は尽き、敵の士気は倍増する。尊氏はすでに九州を席巻し、その鋭気に乗じて東へ向かってきており、進むも退くもどちらも難しい状況になろう。それよりも軍を分けて船坂(ふなさか)を攻め取り、山陽路を通じさせ、中国地方の兵を集めるべきである。敵がまだ到着しないうちに、直ちに筑紫を襲うのがよい」。義貞はこれに従い、兵二万を遣わして船坂を攻めさせた。しかし山は険しく守りも厳重で、一日中攻めても攻めきれなかった。

折しも児島高徳が熊山(くまやま)で兵を挙げ、期日を約して挟撃することとなった。義助は梨原(なしはら)に出陣し、諸将を配置して、江田行義(えだゆきよし)に兵二千余人を率いさせて杉坂(すぎさか)へ向かわせ、大井田氏経(おおいだうじつね)には菊池武重(きくちたけしげ)、宇都宮公綱(きんつな)らの部下五千人を指揮させて船坂を攻めさせ守兵を疲弊させた。畑時能(はたときよし)、由良新左衛門らは精兵三百余りを率い、伊東惟群(いとうこれむら)を道案内として馬の口を縛り、ひそかに険路を通り抜けた。三石(みついし)の西へ直接出て、火を放ちながら進んだ。三石城の兵は少なく、出て防ぐことができなかった。船坂は前後から敵を受けることとなり、なすすべを失った。時能と氏経が挟み撃ちにして、ついにその城を落とした。行義は美作に進んで攻略し、氏経は福山城(ふくやまじょう)に進んで拠り、義助はそのまま留まって三石城を攻めた。

尊氏は水陸両方から進軍し、福山城を攻め落とした。義貞は義助を呼び戻し、ともに兵庫へ軍を返した。しかし戦いに敗れ、天皇の行幸は再び延暦寺へと移った。義助は東坂本(ひがしさかもと)を守った。敵は城に迫り、多くの薪や草を運んで堀を埋め、城を焼こうとした。城中からは弓矢が一斉に放たれ、三千余人を射殺した。敵陣は混乱し、我先にと盾の陰に隠れて矢を避けた。義助はこれを見て、諸将とともに門を開いて突撃した。白鳥(しらとり)の陸軍が敵の左を衝き、湖上の舟軍がその右を射た。敵は大敗して退き、陣を守るばかりで二度と出てこなかった。東坂本・西坂本の軍がともに出て敵を撃ったとき、義助は兵五千を率いて敵陣五百か所を焼き払って奮戦し、敵兵は大敗した。また兵二千を率いて志那の渡し(しなのわたし)で佐々木高氏(ささきたかうじ)を攻めたが、不利となって退いた。

義貞が北国へ向かった際、義助に兵千余人を率いさせ、杣山に拠って兵を募らせ、後援とさせた。瓜生保は鯖並(さばなみ)まで出迎え、手厚くもてなした。しかしまもなく敵方に寝返り、城の門を閉じて義助を入れなかった。保の弟である僧義鑑(ぎかん)は夜、義助のもとを訪れて「どうかご子息をお預けください、金崎の援軍としてお仕えさせましょう」と言った。義助は子の義治を義鑑に託し、「生きるも死ぬも、そなたに任せる」と言った。

翌日、義助は金崎へ引き返そうとしたが、士卒は道中でほとんど逃げ去り、従う者はわずか十六人となった。夜、深山寺(みやまでら)に至り、道中で樵に尋ねると、敵兵が大勢集結しており容易には入れないことが分かった。そこでそれぞれ帯を解いて木の枝に結び付け、援軍がいるように見せかける疑兵とし、明け方に紛れて敵の囲みに突入し、大声で「援兵二万騎が到着したぞ」と叫んだ。敵兵は山中の旗を見て大いに驚き、援軍が来たと思い込み、囲みを解いて去っていったため、義助らは城に入ることができた。まもなく再び包囲されると、義助は義貞に従ってひそかに杣山へ戻り、金崎城はほどなく陥落した。

義貞が杣山城で再挙した際、平泉寺(へいせんじ)の僧兵たちが三峰(みつみね)に拠ってこれに応じ、将を置いてほしいと願い出たため、義助を遣わしてその衆を統率させた。義助は将士百余人を従えて鯖江(さばえ)に陣を構えて視察した。足利高経の将細川某らがこれを探知し、兵五百で不意に襲って包囲した。義助は奮戦し、敵は川を渡って退いた。諸将がこれを追撃しようとすると、義助は「少数で多数に勝てたのは、たまたまのことにすぎない。もし川を渡って追い詰めれば、少しの躓きでも敵は必ず引き返して我らを苦しめるだろう。すぐに狼煙を上げて諸陣に知らせ、援軍が来るのを待つべきだ」と言った。そこで味方は煙を見て馳せ集まり、ついに進撃して府城(ふじょう)を攻め取った。

天皇は義貞に男山(おとこやま)の救援を命じた。義貞は義助に二万の兵を率いさせてこれに向かわせたが、敦賀(つるが)に至ったところで男山が焼け落ちたと聞いた。数日逗留するうちに男山は陥落し、そのまま兵を引いて戻った。この年、義貞は足羽(あすわ)で高経を攻めて戦死した。義助は兵を引いて石丸城(いしまるじょう)に戻ったが、将士の多くは心が離れて疑心を抱いていた。ある夜、三度にわたって火を放たれ、その後も次々と降伏したり逃亡したりして、残った者はおよそ二千人であった。そこで河島維頼(かわしまこれより)に三峰を守らせ、瓜生重(うりゅうしげる)とその弟照(てる)に杣山を守らせ、畑時能に湊城(みなとじょう)を守らせ、自らは七百余人を率いて府中に戻った。

翌年の秋、諸軍を召集して足羽を攻め取ろうと図った。畑時能、由良光氏、堀口氏政らは敵の砦数十か所を攻め落とし、進んで河合(かわい)で合流した。義助は自ら兵三千を率いて三日三晩敵を攻め、十七の砦を落とし、敵将七人を捕虜にし、五百余人を斬り、ついに諸軍とともに足羽に迫った。高経は恐れをなし、城を焼いて夜のうちに逃走した。

後村上天皇が即位すると、義助に「先帝の遺勅により、そなたへの寵愛は殊のほか厚い。軍国のことについては、便宜に応じて執り行うがよい。まず決断し、後で奏上するのは、義貞のときの先例のとおりである」との詔を下した。(注:本書では義助が足羽を攻め取ったのを後醍醐帝崩御後の詔の後としているが、これは誤りである。ここで訂正する。)

足利尊氏が兵を送って攻めてくると、義助は敗れて美濃へ逃れ、根尾城(ねおじょう)に拠った。土岐頼遠(ときよりとお)らに攻められて再び敗れ、七十三人とともに身をやつして尾張の熱田(あつた)に赴き、藤原昌能(まさよし)を頼った。波豆崎城(はづさきじょう)に十余日留まり、次第に散り散りになった者たちを集めると、ひそかに吉野に参上した。天皇は涙を拭ってこれを長く労い称えた。翌日、義助は位を一級加えられ、刑部卿に任じられた。一族の者や従った兵にも、それぞれ官位や品物が与えられた。(注:「刑部卿に任じられた」のが何年のことかは分からず、ひとまずここに記す。)

興国元年の春、伊予の人々が兵を挙げ、統率者を遣わしてほしいと奏上した。朝廷の評議では義助を派遣することとなったが、水路陸路ともに敵の勢力圏に接しており、容易には通れなかった。そこへ備前の人飽浦信胤(あくらのぶたね)が使者を馳せて「私は今、小豆島で兵を挙げ、賊の勢いを挫いて京都への漕運の道を断とうとしています。どうか大将を上道(じょうどう)へ遣わしてください」と奏上した。そこで義助を将に任じて四国へ遣わした。西国の軍勢は、すべてその指揮下に置かれた。道中の官軍は多くの戦艦・食糧・武具を用意して、今張浦(いまはりのうら)まで義助を送り届けた。伊予国司近衛少将藤原有資(ありすけ)、守護大館氏明(おおだちうじあき)、土居得能(どいとくのう)、土肥河田(どいかわた)、武市日吉氏(たけちひよしうじ)らは大いに勢いを得た。官軍は再び盛り返し、敵は風聞を聞いただけで十余りの城を捨てて逃げた。義助は国府に入って居を構えたが、五月、病を得て亡くなった。諸軍は意気消沈し、四国は次々と陥落していった。子は義治である。(注:太平記による。)

脇屋義治は、常に義助の軍に従い、(注:太平記による。)従五位上に叙され、(注:尊卑分脈による。)左衛門佐に任じられ、(注:太平記による。)式部大輔となった。(注:尊卑分脈による。)竹下の戦いのとき、年はわずか十三であったが、従者三人とともに敵中に取り残された。髪を振り乱し笠を投げ捨てて、敵に見分けがつかないようにした。義助は騎馬三百を率いて深く分け入って探し求め、敵勢はひるんで退いた。義治はこれを見て、わざと引き返して戦うふりをし、「皆の者、何を怖じ気づいているのか」と叫び(注:「わざと」以下は異本太平記による。)、馬を躍らせて義助の軍に駆け寄った。敵兵二人はこれを味方が馳せているものと思い込んだため、義治は従兵に目配せしてこれを斬らせ、ついに逃れ帰ることができた。

翌年、瓜生保とその弟の僧義鑑は義治を奉じ、兵を集めて金崎の援軍とし、足利高経の新善光寺城(しんぜんこうじじょう)を攻め取った。これにより義治の威名は次第に高まり、郡県から贈り物が相次いで届き、日々酒宴でもてなされた。しかし義治は沈み込んで楽しまない様子であった。義鑑がその訳を尋ねると、義治は悄然として答えた。「先ほど敵に勝ったことは、まことに喜ばしいことです。しかし皇太子や我が父上をはじめ一族の者たちは、長らく包囲の中にあって、苦しい戦いを続け兵糧も尽きていることでしょう。そのことを思うたびに、宴に臨んでも楽しむ気になれないのです」。義鑑は感激して涙し立ち上がった。壁の後ろでこれを聞いていた宇都宮泰藤、山野寺将氏(やまのでらまさうじ)は「この若者には立派な器量がある。どうして助け支えてその願いを叶えてやらぬことがあろうか」と言った。保らはそこで兵を集めて金崎を救おうとしたが、道中で敵に敗れ、事は成らなかった。

義助が亡くなると、義治は上野に身を潜めて暮らした。興国六年、児島高徳が備前で挙兵し、義治を大将として招き、ひそかに兵を率いて京都に入り足利尊氏を襲おうと図った。しかし事が発覚し、義治は高徳とともに信濃に逃げ隠れた。その後、従兄の新田義興および義宗とともに金井原で尊氏を攻め、そのまま義興とともに鎌倉を襲い取った。半月ほど経って、尊氏が大軍を率いて引き返してくると聞き、軸村城(じくむらじょう)に逃れて拠った。その後は義宗とともに越後にいた。(注:太平記による。)正平二十三年、義宗とともに兵を挙げたが勝てず、出羽へ逃れた。(注:喜連川系図による。)その後の消息は分からない。