卷之一百七十五 列傳第一百二
船田義昌、船田經政、栗生顯友、筱塚某ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
船田義昌
¶船田義昌(ふなだよしまさ)は上野国(こうずけのくに)の出身である。新田義貞(にったよしさだ)の執事を務めた。義貞が金剛山(こんごうさん)に布陣していたとき、義昌とともに挙兵の計略を練り、護良親王(もりよししんのう)の令旨を得ようとした。義昌は「親王は近頃山中に身を隠しておられると聞きます。策を用いて探し出すのがよいでしょう」と言った。そこで兵三十余人に山賊の姿を装わせ、夜に葛城山(かつらぎやま)の峰へ登らせる一方、自らは逃亡兵を装って道で彼らと行き会った。本物の賊たちはこれを見て仲間だと思い込み、助けに駆けつけてきた。そこで両者で挟み撃ちにして数人を生け捕りにし、縄を解いて諭した。「お前たちを殺そうというのではない。新田殿は大塔宮(だいとうのみや)(注:護良親王の別称)の令旨を得て義兵を挙げようとしておられる。お前たちが命を惜しむなら、宮の御在所まで案内してくれ」と。賊は喜んで「それはたやすいことです」と言い、仲間のうち一人を放って行かせてほしいと願い出たので、義昌はこれを許した。数日後、果たして令旨を奉じた使者が到着し、義貞はこれをよりどころとして挙兵した。義貞が鎌倉に攻め入った際、塩田遭祐(しおださんゆう)は戦いに敗れた。その配下の狩野重光(かのしげみつ)は自害しようとしたが、思い直して家財を盗み、仏寺に逃げ隠れた。義昌はこれを聞きつけて捕らえ、由比ヶ浜(ゆいがはま)で梟首(注:首をさらすこと)にした。まもなく北条高時(ほうじょうたかとき)の子の邦時(くにとき)も捕らえた。義昌は後に義貞に従って京都で戦死した。(注:太平記による)義昌の一族に経政がいる。
船田經政
¶船田経政(ふなだつねまさ)は、義昌との血縁の遠近は分からない。長門守(ながとのかみ)を称し、常に新田義貞に従って力戦した。義貞が園城寺(おんじょうじ)を攻め落とし、軍を引き上げようとしたとき、経政は義貞の馬に取りすがって言った。「勝ちに乗じて敗走する敵を追うのは、殿にとって利のあることです。敵はすでに鎧や馬を捨て置き、頭を抱えて逃げ惑っています。我らがそのまま追撃して京都へ攻め入れば、残る敵勢も浮き足立って崩れましょう。敵の中に紛れて火を放ち鬨(とき)の声をあげ、縦横に馬を駆れば、敵は我が軍の多寡を測りかねましょう。そうすれば足利氏との雌雄も決することができます」と。義貞は喜んで「まさにわが意を得たり」と言い、敵を追撃して京都へ入り、大勝利を収めた。後に新田義顕(にったよしあき)に従って金崎城(かねがさきじょう)を守った。城が落ちたとき、土岐頼勝(ときよりかつ)・栗生顕友(くりゅうあきとも)・矢島安崇(やじまやすたか)は自害しようとした。経政はこれを止めて言った。「新田殿がご存命の間は、我らは生き恥を忍んでも生き延び、殿が再起するのを待つべきだ。むだに死んで敵の手柄にされることはない」と。そこで三人とともに海岸の岩窟に身を隠し、死なずに済んだ。義貞が足羽(あすわ)を攻めたとき、経政は七百騎(注:異本では五百騎とする)を率いて安居(あご)に到り、川を渡ろうとしたところを敵に射られ、人馬の多くが溺死した。経政は兵を引いて戻ったが、その後の消息は分からない。(注:太平記による)
栗生顯友
¶栗生顕友(くりゅうあきとも)(注:顕友の名は金勝院本による。顕友は一書に邦昭とも作るが、両書は食い違っており、いずれが正しいか定めがたい。ここでは仮に一方に従う)は、左衛門(さえもん)を称し、上野国の人である。膂力(りょりょく)(注:腕力)は人並み外れ、弓を得意とし、剣術を好んだ。新田義貞に仕え、篠塚伊賀守(しのづかいがのかみ)・畑時能(はたときよし)・由良具滋(ゆらともしげ)と並び称され、「四天王」と呼ばれた(注:四天王の呼称は天正異本による)。また篠塚伊賀守・杉原下総守(すぎはらしもうさのかみ)・高田義遠(たかだよしとお)・藤田三郎左衛門・藤田四郎左衛門・藤田六郎左衛門・葦堀七郎(あしぼりしちろう)・川波新左衛門・難波備前守(なんばびぜんのかみ)・河越参河守(かわごえみかわのかみ)・長浜顕寛(ながはまあきひろ)・高山遠江守(たかやまとおとうみのかみ)・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・青木七郎左衛門・山上六郎左衛門とともに「十六騎」と称された(注:以上に挙げた十六騎については、その由来はつまびらかでない)。戦に臨むたびに同じ旗印を掲げ、進退を必ず共にした。義貞が挙兵して以来、その左右から離れたことはなかった。建武二年、義貞に従って矢矧(やはぎ)・箱根の戦いで功を立てた。義貞が敗走した際には、散り散りになった兵をまとめながら三日にわたり転戦を続けた。天竜川(てんりゅうがわ)に至ったとき折悪しく雨に遭い、川水は大いに増して、浮橋を架けて軍を渡らせようとした。軍中に裏切り者がおり、ひそかに繋ぎ縄を断ち切った。馬取りの者が馬を引いて渡ろうとしたとき、橋が壊れて水に落ちた。船田義昌はこれを見て軍兵に助けさせようとした。顕友は鎧を着けたまま水に入り、人馬を抱えて荒れる流れをかき分け岸に登った。橋板は一丈余りも開いていたが、義貞と義昌は互いに手を取り合い、身を躍らせて飛び越えた。残る兵たちが渡りきれずにいると、名張久富(なばりひさとみ)(注:久富の名は金勝院本による)が甲冑をまとった兵を両手で抱えて次々に投げ渡すこと二十人、最後は自ら二人を両脇に抱えて飛び越えた。軍中の者はその身の軽さを見て、ひそかに嘆じて言った、「これほどの武勇の士がありながら、なお敗北を免れなかったとは」と。翌年、義貞は園城寺(おんじょうじ)で細川定禅(ほそかわじょうぜん)を攻めた。定禅は出撃したが敗れて退いた。我が軍はこれに乗じて攻め入ろうとしたが、僧兵が力戦して堀の橋を撤去したため中に入ることができなかった。顕友と篠塚某(しのづかぼう)はそれぞれ大きな木の卒塔婆(そとば)を引き抜き、橋の代わりに架け渡した。畑時能と渡里忠景(わたりただかげ)はふざけて「橋を架ける役はお二人にお任せしよう。戦うのは我らがやる」と言い、真っ先に狭い門を渡った。城兵が入り乱れて槍を突き出す中、忠景は槍十六本を奪い取り、時能は門の関木を足で踏んで難なく折ったため、守兵は驚き崩れ立った。義貞はそこで三万騎を率いてこれに続かせ、賊軍はついに大敗した。瓜生保(うりゅうたもつ)が離反するに及び、脇屋義助(わきやよしすけ)・新田義顕は金崎(かねがさき)へ逃げ戻ったが、道中で兵の多くが逃げ去り、従う者はわずか十六人となった。樵(きこり)に出会い、金崎もまた敵に囲まれていると聞かされると、一同は大いに憂え、口々に「東山道(とうさんどう)を経て越後(えちご)へ逃れるべきだ。さもなければ各自ここで自害するしかない」と言った。議論がまとまらぬうちに、顕友が進み出て言った。「今、諸方の道は塞がれ、我が軍は疲れ果てている。越後までの長い道のりは、たやすくたどり着けるものではない。敵を見ぬうちに死ぬのは、あまりに臆病というものだ。むしろ多くの偽兵を仕立て、敵の不意を突けば、城に入れるかもしれない。それがうまくいかなければ、そのときこそ諸将の前で潔く死ねばよいではないか」と。一同はこれに同意した。折しも日が暮れたので、深山寺(みやまでら)のそばに偽兵を配置した。夜明けに金崎へ馳せつけ、敵の背後に出て大声で「援軍二万が到着したぞ」と叫んだ。敵兵は深山寺の旗指物を望み見て、大軍が本当に到着したのだと思い込み、陣を空にして逃げ去った。これによって城に入ることができた。足利尊氏(あしかがたかうじ)は寡兵に欺かれたことに怒り、改めて大軍を派遣して城を幾重にも取り囲み、朝も夜も攻め立てた。顕友は大声を上げて城から打って出て、大きな棒を振るって戦い、数十人を打ち倒したので、敵は近づくことができなかった。城が落ちると、船田経政とともに脱出したが、その後の消息は分からない。(注:太平記による)
筱塚某
¶篠塚某(しのづかぼう)は伊賀守(いがのかみ)を称し、武蔵国(むさしのくに)の人である。自ら畠山重忠(はたけやましげただ)六代の孫と称した。猛々しく力強く、弓を得意とし、新田義貞に仕えた。義貞が東国へ出征して敗れ退いたとき、残る兵はわずか五百余りであった。道中で一人の僧が「敵兵は伊豆国府(いずこくふ)に満ち、その数八十万と号しています。これほどの寡兵では、とても通り抜けられますまい」と告げた。篠塚は栗生顕友とともに兵を振り返って言った、「五百をもって八十万に当たるとは、諸君、今日こそまことに一騎当千というものだ」と。そこで一同を率いて転戦しながら前進した。一条某(いちじょうぼう)が義貞に組みかかると、篠塚は傍らからこれを捕らえて投げ飛ばした。一条は身のこなしが素早く、足を地につけたまま倒れず、再び向かってきた。篠塚はこれを蹴り倒して斬った。一条の兵たちがこぞって篠塚に襲いかかったが、篠塚は自ら九人を討ち取り、残る兵は足がすくんで近づく者がなかった。義貞はこの隙に脱出することができた。まもなく園城寺攻めに従って功を立てた。脇屋義助が没すると、大館氏明(おおだちうじあき)とともに伊予国(いよのくに)の世田城(せたじょう)に拠った。細川頼春(ほそかわよりはる)が大軍を率いて攻め寄せ、城を三十日にわたって包囲した。氏明は力尽きて自害し、篠塚は門を開いて突出し、大声で自らの名を名乗って「者ども、この首を取って恩賞にありつくがよい」と叫び、鉄棒を振るって包囲を突き破った。敵兵は東西に浮き足立ち、篠塚は悠然と歩き去った。敵は騎馬武者二百騎を差し向けてこれを追わせ、矢を射かけさせた。篠塚は追手が迫るたびに振り返ってこれを叱りつけた。数里を行き、夜になって今張浦(いまばりうら)に着いた。敵の船が浦口に泊まり、船頭たちがこれを守っていた。篠塚は鎧を着けたまま海に入り、一里ほど浮き沈みしながら泳いで、跳び上がって船に乗り込んだ。船頭たちは驚き怪しんで、名を問い詰めた。篠塚は「自分は篠塚伊賀守である。我がために船を進め、隠岐島(おきのしま)まで送り届けよ」と告げた。自ら大碇(いかり)を上げ、十四、五尋(ひろ)もある長い帆柱を立てさせると、その中に入って横になった。鼾(いびき)は雷のように響き、船全体が震え揺れるほどであった。こうして隠岐島まで送られたが、その後の消息は分からない。(注:太平記による)篠塚の娘は伊賀局(いがのつぼね)と称し、新待賢門院(しんたいけんもんいん)に仕えた。高師直(こうのもろなお)が吉野(よしの)を襲ったとき、帝(みかど)は賀名生(あのう)へ行幸され、門院はわずかな後宮の女官数人とともにお供して赴いた。吉野川に至ると橋板が半ば断ち切られており、どうすることもできずにいた。伊賀局は大木の枝を折り、それを継ぎ渡して門院と諸妃を渡らせた。敵が退いた後、力自慢の者にその枝を折らせようと試みたが、誰も折ることができなかったという。伊賀局は後に楠正儀(くすのきまさのり)に嫁いだ。(注:吉野拾遺による)
畑時能
¶畑時能(はたときよし)は六郎左衛門(ろくろうざえもん)を称し、武蔵国の人である。体つきは雄々しく傑出し、志は壮烈であった。謀略に長け、力強く泳ぎを得意とした。打ち合い、突き、騎射に至るまで精妙でないものはなく、戦うたびに一度も敗れたことがなかった。年わずか十六で相撲を好み、坂東(ばんどう)に敵う者はいなかった。後に信濃(しなの)に家を構え、漁猟を生業とした。建武(けんむ)の初め、新田義貞が義兵を唱えると、時能はこれに従って力戦した。また脇屋義助に従って船坂山(ふなさかやま)を攻め、これを陥落させた。義貞が杣山城(そまやまじょう)に拠ったとき、時能は加賀(かが)の人である敷地(しきじ)・山岸(やまぎし)・上木(あげき)氏らとともに細呂木(ほそろぎ)に城を築き、大聖寺(だいしょうじ)で津葉清文(つばきよふみ)(注:清文の名は金勝院本による)を攻め破った。こうして加賀・越前(えちぜん)を平定し、義貞の後ろ盾となった。義貞が戦死すると、義助は時能に越前の湊城(みなとじょう)を守らせた。兵はわずか二十三人であったが、決死の覚悟で固く守り抜いた。北陸の敵兵がこれを攻めたが、幾年経っても陥落させることができなかった(注:「幾年」は天正本による)。折しも義助が足羽(あすわ)で足利高経(あしかがたかつね)を攻めようとし、諸将に檄を飛ばして同時に兵を挙げさせた。時能は兵三百を招き集め、金津(かなづ)・長崎(ながさき)・河合(かわい)・河口(かわぐち)などの地を攻略し、十二の城を降し、八百の首級(しゅきゅう)を挙げ、通った跡には生き残る者もほとんどないほどであった。これにより河合種経(かわいたねつね)が降伏してきた。時能はその兵を合わせ、その夜のうちに足羽へ向かった。山伝いに城の背後に出て、鬨(とき)の声をあげて矢を連射した。高経は城を焼かれることを恐れて逃げ去った。まもなく敵は改めて大軍を発して杣山を攻めたため、義助は敗れて越前へ退いた。加賀・能登(のと)・越中(えっちゅう)・若狭(わかさ)の官軍はことごとく守りを失い、ただ時能だけが二十七人を率いて鷹巣城(たかのすじょう)を守り、一井氏政(いちいうじまさ)もこれに加わった。高経と高師治(こうのもろはる)は北陸道の兵七千人を率いてこれを攻めた。鷹巣城は険しくそびえ立ち容易には登れなかったため、城に向けて三十七の砦を築き、城を見上げながら昼夜休まず攻め立てた。時能の甥である僧の快舜(かいしゅん)、家僕の悪八郎為頼(あくはちろうためより)(注:為頼の名は南都本による)は、いずれも勇猛で戦に長けていた。犬獅子(いぬじし)という名の犬がおり、よく馴れて敏捷で、人の意を解する賢さがあった。時能は快舜・為頼を率いて夜のうちに城を出るとき、まず犬を先に放って敵の動静をうかがわせた。敵に備えがあれば犬は一声吠えて戻り、備えがなければ時能に向かって尾を振った。三人はそこで犬について砦に入り、叫び声をあげて奮戦し、敵の不意を突いた。敵は武具を捨てて逃げ、時能は夜ごとに手口を変えては次々と砦を襲った。敵はこれを苦にし、ひそかに酒や食糧を贈って、砦を襲わないでほしいと頼み込むほどであった。当時、上木家光(あげきいえみつ)は高経の軍にありながら内心離反しており、軍中では「家光は数百石の粟を送って畑方の内応をしている」との噂が流れた。また高経の陣営には「畑を討って上木を斬ろうと思う」との立て札が立てられ、高経の将兵はみな家光を疑うようになった。家光はこれを恥じ怒り、ある日の明け方、家族二百余人を率い、盾を構えてまっすぐに進み出た。諸軍は「家光は畑方の内情を知っている。今急いで城を攻めれば必ず落とせるはずだ。彼だけに手柄を独占させるな」と言い、七千の軍勢がこぞって険しい道を登った。城中はひっそりと物音一つせず、敵はこれをたやすく思った。兵がすでに城に迫ったとき、時能は快舜・為頼、鶴沢源蔵人(つるさわげんくろうど)、長尾新左衛門(ながおしんざえもん)、児玉五郎左衛門(こだまごろうざえもん)を率い、大声をあげて敵陣に突入した。敵兵は浮き足立って一箇所に固まった。為頼は高所から次々に丸太や石を投げ落とし、七十余人(注:「七十余人」は異本による)を圧死させ、負傷者は数え切れないほどであった。時能はこの機に乗じて進み、縦横に奮戦して多くを殺傷した。高経は兵を引いて、再び戦いを挑んでこなかった。時能は「これほど長く睨み合っていては良い策とはいえない。さらに奇策を用いて敵をおびき出し、そこで勝敗を決すべきだ」と考えた。そこで一井氏政を城に残して守らせ、自らは兵十六人を選び、夜のうちに伊地山(いじやま)に登り、中黒(なかぐろ)の旗を掲げて敵の来るのを待った。高経はこれを聞き、「あれは豊原(とよはら)・平泉寺(へいせんじ)の僧兵が官軍の援護に来たのだ」と考え、自ら騎馬三千を率いて急襲した。時能は鎧と馬を美々しく飾り立て、眉尖刀(なぎなた)を振るいながら大声で「畑将軍が参った。尾張守(おわりのかみ)(注:高経の官途名)にお目にかかりたい」と叫んだ。敵陣は震え動揺した。時能は左右の十六人とともに馬を馳せて激しく戦った。高経の軍は敗れ、川を渡って逃げ去った。時能は兵を集めたが五人を失い、残りもみな重傷を負っていた。快舜は七か所の傷を受け、まもなく死んだ。時能もまた数か所の傷を受け、流れ矢が肩に刺さって鏃(やじり)を抜くことができず、三日後に死んだ。これ以降、北陸方面の官軍は再び勢いを盛り返すことがなかった。(注:太平記による)
渡里忠景
¶由良具滋(ゆらともしげ)(注:具滋の名は金勝院本による)は新左衛門(しんざえもん)を称し、上野国の人である。新田義貞が挙兵すると、常に従って力戦した。後に脇屋義助に従い、畑時能とともに船坂(ふなさか)を攻めてこれを陥落させた。瓜生保が離反するに及び、新田義顕とともに金崎城を守った。高師泰(こうのもろやす)が兵を率いて攻め寄せ、時が経つうちに城中は援軍も絶え兵糧も尽きた。そこで具滋は長浜顕寛(ながはまあきひろ)とともに義顕に言った。「賊軍は勝ちに乗じて、すでに外城に迫っています。しかし城中の兵は疲れ果て、もはや持ちこたえられません。どうか東宮(とうぐう)には舟にお乗りいただき外へお逃げいただき、その後は皆様も自害なさるのがよろしいでしょう。我ら二人が皆様のためにしばらく賊を防ぎます」と。そう言い終えると外へ出た。このとき数日間食べ物もなく、体は疲れ果てて歩くこともできなかったため、死者の肉を切り取って食べた。兵二十余人を率いて防ぎ戦い、傷から血が滴り、口もひどく渇いたので、その血を掬って渇きを癒した。まもなく安間利勝(あんまとしかつ)(注:利勝の名は金勝院本による)が「大将はすでに命を落とされました」と告げた。そこで二人は「もはや死ぬときが来た。むだに死ぬよりは、賊将を刺し殺してから死のう」と語り合い、城中の兵五十八人を率いて敵陣に突入し、戦死した。(注:本書は由良・長浜とのみ記してその名を載せていない。金勝院本はこれを具滋・顕寛とする。しかし現行本によれば、正平七年(注:南朝の元号)に帝は由良新左衛門入道信阿(ゆらしんざえもんにゅうどうしんあ)を使いとして新田義宗(にったよしむね)を諭させたとあり、また新田義興(にったよしおき)が矢口(やぐち)で死んだ際、由良新左衛門もともに自害したとある。とすれば金崎で死んだ者は、いずれも具滋とは別人ということになる。矢口で死んだ者は、あるいは具滋の子で、新左衛門の名を継いだ者かもしれない。今のところ考証しがたいので、ひとまずここに付記しておく。) 由良光氏(ゆらみつうじ)は越前守(えちぜんのかみ)を称した。新田義顕が金崎城に入ろうとしたとき、敵がその道を扼(やく)して待ち構えていたが、光氏がこれを説き伏せて立ち去らせた。この話は義顕伝に見える。脇屋義助が石丸(いしまる)を守ったとき、光氏は西方寺城(さいほうじじょう)に拠った。義助が足羽を攻めた際には、光氏は兵五百余りを率いて和田(わだ)・江守(えもり)・波羅密(はらみつ)・深町(ふかまち)・安居(あご)・荘内(しょうない)の六城を攻め落とし、配下の兵に守らせた。(注:太平記による)光氏のその後の消息は分からない。
小山田高家
¶渡里忠景(わたりただかげ)(注:渡里は亘とも書く)は新左衛門を称した。雄野別当(おののべっとう)鳥居重氏(とりいしげうじ)の子孫である。重氏の子の行忠(ゆきただ)は、承久(じょうきゅう)の乱に際して官軍に属し、そのまま参河国(みかわのくに)へ逃れて渡里村(わたりむら)に住み、渡里を氏として名を忠氏(ただうじ)と改めた。忠氏から七代の孫にあたる兵庫頭忠吉(ひょうごのかみただよし)が、すなわち忠景の父である(注:鳥居系図による)。忠景は勇猛で力強く、弓に長け兵の扱いにも巧みで、新田義貞の部下に属し、戦うたびにしばしば功を立てた。義貞が弟の義助とともに金崎城を守っていたとき、外は幾重にも包囲され、朝廷との連絡が絶えて帝が吉野に行幸されたことも知らなかった。そこで忠景は間道をたどって行在所(あんざいしょ)に参上し、綸旨(りんじ)(注:天皇の命令書)を得て戻った。道が塞がれて通り抜けが難しいことを案じ、綸旨を髻(もとどり)に隠し、水に潜って進み、金崎にたどり着いた。これによって城中は初めて帝の御在所を知り、兵の士気が再び高まった。(注:太平記による)義貞が死ぬと、忠景は参河に戻り、鳥居の氏に復して藤左衛門(とうざえもん)と称した。(注:鳥居系図による)
瓜生保
¶小山田高家(おやまだたかいえ)は太郎(たろう)を称したが、どこの出身かは詳らかでない。延元(えんげん)元年、新田義貞に従って西へ出征し播磨(はりま)に至った。赤松則村(あかまつのりむら)の白旗城(しらはたじょう)を包囲した。春から夏にかけて、軍中は兵糧に乏しくなった。義貞は兵士が乱暴に略奪することを案じ、街々に「稲穂一本を刈り、家一軒を侵した者は処罰する」という高札を立てさせた。そのため農民は耕作をやめず、商人も店を変えることがなかった。高家がこの禁令を破って麦を刈ったため、軍吏はその罪を死罪に当たると論じた。義貞はこれを聞いて言った。「あの者がどうして自ら進んで麦を奪おうか。おそらく敵地に生えているものだからと、我が禁令の対象ではないと思い違えたのであろう。そうでなければ、兵糧が尽き果て、やむを得ず禁を犯したのだ」と。人を遣わして調べさせたところ、馬具や武具は立派に整えてあったが、飼い葉や兵糧は底をついていた。義貞は恥じ入った様子で言った、「あの者が食を求めたのは、戦のために力を尽くそうとしてのことだ。それなのに兵卒がまず飢えるとは、大将たる者の恥である。勇士を失ってはならぬが、法もみだりに曲げてはならぬ」と。そこで衣二着を麦の田の持ち主に贈って償い、高家には米十斛(こく)を与えて詫びとした。その後、義貞は足利尊氏と兵庫(ひょうご)で戦って敗走した。乗馬が矢に当たって倒れたため、義貞は道端の塚の上に登り、替え馬が来るのを待った。敵はこぞって集まりこれを取り囲んだ。高家は馳せつけて自らの乗馬を義貞に与え、力戦して討ち死にした。義貞はこれによって脱出することができた。(注:太平記による。金勝院本では、馬を与えて戦死したのは岡部乗澄(おかべのりずみ)の事跡とする)
¶瓜生保(うりゅうたもつ)は判官(はんがん)を称し、越前国の人である。弟に僧の義鑑(ぎかん)がいる。次弟は林次郎(はやしじろう)を称したが、剃髪して源琳(げんりん)と名を改めた(注:諸々の異本の太平記では深琳(しんりん)に作る)。次の弟は重(しげる)といい兵庫を称し、次の弟は照(てる)といい弾正左衛門(だんじょうざえもん)を称し、いずれも勇名があった。建武二年、保は加賀の人である敷地・上木・山岸・深町の一族とともに官軍に応じ、名越時兼(なごえときかね)を討って功を立てた。延元元年、新田義貞が皇太子を奉じて金崎に至り、弟の義助の子である義顕を遣わして近国の兵を募らせ後詰めとした。義助と義顕の二人は先に杣山城へ赴いて保に会った。時はちょうど厳寒の頃で、保と照は盛大に酒を振る舞って二人をもてなし、鯖並駅(さばなみのえき)まで出迎え、蔵の穀物を出して軍の食糧に充てた。酒がたけなわになると、義助は保に鎧一領を贈り、保もまた衣二十着を献上し、蔵の中の綿や絹をことごとく出して兵士の衣とし、兵士たちは大いに喜んだ。ほどなく足利尊氏が帝に迫って義貞一族討伐の詔(みことのり)を請い、足利高経に命じて保を誘わせた。保はこれを真に受けて城に拠り義助に敵対した。義鑑は鯖並駅へ赴いて告げた、「兄の保は生まれつき愚かで、たやすく賊の計略に陥ってしまいました。事はすでに切迫しています。お二人はここに長く留まってはなりません。願わくは、若君お一人をこちらに残していただきたい。私が力を尽くしてこれを推し戴き、時を見て兵を挙げ、金崎の後詰めといたします。兄の保も、いずれは必ず悔い改めて官軍のために尽くすことでしょう」と。言い終えると涙を流した。義助はその誠実で二心のない態度に感じ入り、子の義治(よしはる)を差し出して義鑑に託し、自らは義顕とともに金崎へ戻った。保は高経・高師泰に従って金崎を包囲したが、まもなく義鑑と照が義治のために兵を挙げようと謀っていると聞き、「高経は自分を疑っており、もはや逃れられまい」と考えた。そこでひそかに同志を求めて脱出しようと図った。折しも宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)・天野政貞(あまのまささだ)が別の陣営におり、諸将の旗印について論じ合う中で、新田氏を第一とすべきだという意見が出ていた。保はこれをひそかに聞いて内心喜び、たびたび酒や茶を泰藤・政貞に贈った。行き来して交わりを結び、たいそう歓心を得た。そこで密かな計略を打ち明けると、二人はこれを承知した。当時、賊軍による包囲が長く続いていたため、将兵はたるみ、逃げ帰る者が多かった。師泰はこれを憂い、諸方の道に関所を設け、「通行手形のない者は通してはならない」と命じた。保はそこで偽って「杣山へ兵卒を遣わし、軍の総大将のために馬の飼い葉を運ばせたい」と願い出た。師泰は役人に木札を書かせ、「兵卒百五十人は関所を通ることを許す」として保に与えた。保はひそかに札の文字を削り、「三百人」と書き改め、師泰の印はそのままにして、泰藤・政貞とともに逃亡した。深山寺を過ぎるとき、関所の役人はいぶかりながらも咎めず、こうして杣山へ戻ることができた。保は諸弟とともに謀を協議し、義治を大将として押し立て、飽和祠(あくわのやしろ)の前に旗を揚げた。義貞の兵で逃げ隠れていた者たちは、これを聞いて続々と集まり、千余人に達した。保はそこで五百人を分けて鯖並駅と湯尾嶺(ゆのおのみね)に遣わし、北方からの敵の道を塞ぎ、古燧城(こひうちじょう)の東南の山に砦を築き、兵糧七千余石を蓄えて守備の備えとした。まもなく敵兵六千が攻めてくると聞き、敵軍を深く誘い込もうと、兵を遣わしてその来る道筋数里の間の民家を焼き払わせた。日が暮れて師泰の軍が到着したときには、宿泊する場所がなかった。そのまま湯尾村(ゆのおむら)に入ったが、敵勢はひどく疲れており、戦は明日だろうと考えて、みな民家に入り込み、甲冑を脱いで寝入ってしまった。夜半、保は泰藤らとともに火を放って襲いかかり、敵勢は驚き乱れた。折しも大雪で、人馬ともに雪に埋もれた。三百人を捕虜にし、討ち取った首は数えきれないほどであった。高経はこれを聞き、北方への道を保に断たれることを恐れて兵を引き越前へ戻ったが、その道中で新善光寺城(しんぜんこうじじょう)に立ち寄った。保は兵三千を率い、これを一昼夜攻めて三百の首級を挙げ、百三十人を生け捕りにし、ことごとく斬って帆山河原(ほやまがわら)にさらした。声望は大いに高まり、近国の兵士や平泉寺・豊原の僧兵が次々と帰順してきた。翌年の春、保と義鑑・源琳・照は兵五千を率いて金崎の後詰めに向かった。里見時成(さとみときなり)が大将となったが、高師泰は今川頼貞(いまがわよりさだ)に兵二万を率いさせて要所を扼(やく)し迎え撃たせたため、味方はみな退却した。時成だけが数騎とともに敵中へ突進した。敵はこれを見て大将と思い込み、争って集まり取り囲んだ。保と義鑑は引き返してこれを救おうとした。源琳・照もともに駆けつけようとしたが、義鑑は三人の弟を振り返って叱りつけ、「なぜ日頃の言いつけに背くのか。私と兄は敵と刺し違えて死ぬまでのこと、それだけの敗北で済む。お前たちまでみな死んでしまえば、大事は失われてしまうぞ」と言った。源琳と照らはそこで進まずにいたが、折しも敵の大軍が押し寄せ、保と義鑑の二人とははぐれてしまった。保・義鑑と義鑑の甥である七郎(しちろう)は時成とともに戦死し、照らは敗残の兵をまとめて杣山へ戻った。かつて義鑑は出陣のたびに諸弟と、「もし戦が不利になっても、兄弟がそろって死んではならない。必ず義治に大功を再び立てさせるように」と約束していたが、この時、果たしてその言葉の通りとなった。保・義鑑が没すると、金崎は後詰めを失い、日ごとに困窮していった。義貞・義助は城を乗り越えて夜のうちに逃れ、ひそかに杣山へたどり着いた。源琳・照は再び金崎への後詰めを図ったが、手持ちの兵はわずか五百で、敵勢は日に日に増して十万に達すると聞き、議論がまとまらぬうちに金崎は陥落した。延元三年、義貞は縁故の者を招き集め、杣山で兵を挙げた。重(しげる)は越前守、照は加賀守となり、兵五百を率いてともに妙法寺城(みょうほうじじょう)に拠った。義貞が足利高経を攻めて大いに打ち破ったとき、重・照もこれに功があった。義貞が死ぬと、義助は越前府中(えちぜんふちゅう)へ引き上げ、照には杣山城に退いて守らせた。後村上天皇(ごむらかみてんのう)が即位すると、義助に従って足羽で高経を攻め、これを敗走させた。しかしまもなく敵の大軍が押し寄せて占拠し、義助の軍は敗れ、北国の地はことごとく敵の手に落ちた。(注:太平記による)照のその後の消息は分からない。