卷之一百七十 列傳第九十七
名和長年、名和長重、兒島高德、土居通治
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
名和長年
¶名和長年(なわながとし)は、姓を源といい、初めの名は長高、又太郎と称した。伯耆国名和の人である。村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう)の子孫であることから、村上氏とも称した。父は行高という(注:『名和家譜』による)。曾祖父の行秋は、承久の乱で朝廷方として戦い、宇治で賊軍を防いだ(注:伯耆卷・船上録を参照して補った)。
¶長年は名和の地頭であり、人となりは勇猛で弓の名手であった。資産は豊かで一族は勢力強く、国人たちから畏れ敬われていた。元弘三年、後醍醐天皇が隠岐におられたとき、警護の武士の多くが天皇に忠誠を尽くそうとした。天皇はそこで「近国で大事を託せる者は誰か」と問われ、皆が長年の名を挙げて答えた。
¶長年の弟・行氏(ゆきうじ)もまた警護の中にいた。天皇はこれを召し見て、長年のもとに帰らせて天皇を迎え奉るよう諭させた。行氏は風に阻まれて出発できなかったが、天皇はすでに左近衛少将・源忠顕(ただあき)とともに海を渡って伯耆に至り、成田小三郎を遣わして長年の家に向かわせていた(注:『梅松論』では忠顕を遣わしたとする)。
¶伝言にはこうあった。「朕は隠岐より至り、卿を頼りにしようとしている。もし卿が詔を奉じないならば、直ちに鎌倉に報告せよ。」長年は涙を流して言った。「天子が大事を私に託されたからには、どうして辞退できようか。臣は必ず死をもって報いる。」そこで子弟を集めてこれを告げた。子弟たちは皆奮い立って言った。「我らの勇猛さは近隣諸国も知るところだ。賊が鉄の盾をまとって攻めて来ようとも、我らはこれを射抜くことができる。数日のうちに、我が一族はすべて集まるだろう。賊がたとえ天下を挙げて攻めて来ようとも、我らは何を恐れようか。」(注:伯耆卷による。『太平記』には、天皇が使者を遣わして長年の家に至らせたとき、長年はちょうど一族を集めて宴を開いており、思案して返答しなかった。弟の長重(ながしげ)が進み出て言った。「武士が重んじるのは名誉である。今、万乗の尊き御方が畏れ多くも我らに委託された。我らは戦場に屍をさらしてこそ、その名を後世に伝えることができる。追手がまもなく到来すると思われるので、まず御輿を船上山にお入れすべきだ」と。皆奮って従った、とある。いずれが正しいかは分からない。)
¶長年はそこで一族を率いて天皇を迎え奉った(注:伯耆卷・梅松論・南都本・天正本太平記による。○現行本の太平記では長重に作る)。天皇を助けて馬に乗せ、船上山(せんじょうさん)へ向かった。天皇はひどく疲れており、翌日に船上山へお出でになろうとされた。長年は進み出て言った。「この地は賊の境に近く、今急いで進まなければ、我らは賊の騎兵に踏みにじられてしまうでしょう。陛下ご自身が奮い立たれなければ、どうして天下を平定できましょうか。」天皇はそこで山麓まで進まれた。人々は木を縛って御輿を作り、西坂から登った。にわかに後ろから人々が到来したので、天皇は驚いて賊かと思われたが、それは長年の弟である僧・源盛(げんじょう)および大山寺の僧徒であった。ついに山上の仏寺に入られた(注:伯耆卷による)。
¶長年は村人を募って、「我が倉の穀物を船上山に運べる者には、一人につき銭五百を与える」と言った。その日のうちに五千余石が運び込まれた。そして自分の家に火を放ち、百五十人で船上山を守らせ、木を伐って砦を築いた。屋根の材を取り壊して盾の代わりとした。弟の氐高(ていたか)(注:氏高。伯耆卷による。一説には一族の国高ともいう)は松脂の煙で布を燻し、近国の将士の旗印を描いて、これを疑兵(にせの軍勢)とした。
¶翌日、佐々木清高(ささききよたか)が佐々木昌綱とともに兵三千を率いて攻めて来たが、旗指物を望み見て進もうとしなかった。長年は兵が少なかったので、皆を木陰に伏せさせ、たびたび射手を出して矢を放たせ、日暮れを待たせた。放つ矢はことごとく命中し、命中すれば必ず甲冑を射抜いた。昌綱は矢に当たって死んだ。佐渡前司(注:姓名は伝わらない)は山の後ろに陣を敷いていたが、兵八百を率いて降伏した。清高はこれを知らず、兵を指揮して競って進ませた。長年は矢を放って四人を射殺した。日が暮れる頃、雷雨が急に至り、味方はこれに乗じて突撃した。賊は崩れ潰え、死傷者が谷を埋め、清高はかろうじて一命を取り留めて逃げた。
¶これによって近国の将士数万が、風評を聞いて集まり来て、途中で源忠顕および長年の子・義高を遣わして京都を奪還させた(注:太平記・伯耆卷を参照して補った)。
¶天皇は長年を召して、その先祖について尋ねられた。長年は答えて言った。「私の先祖は昔京都にいたとき、山門の僧が神輿を担いで京都に入ろうとしたことがありました。私の先祖はその際、甲冑をつけた武士二人を射殺し、僧徒は逃げ去りました。天子は詔を下してこれを褒め称えられました。その後、承久の乱で朝廷方として戦い、これによって領地を失いました。」天皇は嘆いて言われた。「代々の忠義は偉大というべきである。ただし、成長して高くなりすぎた者は危うい。」そこで今の名(長年)を賜り、従四位下に叙し、左衛門尉に任じ、伯耆守を兼ねさせた。
¶天皇は長年に言われた。「朕が隠岐を出るとき、舟がなければどうして海を渡れただろうか。卿がいなければどうして賊を破れただろうか。そしてこの地はまた船上と名づけられている。卿はこの『舟』を徽章とせよ。」そして自ら帆掛け舟を描いてこれを賜った(注:伯耆卷による)。
¶また文と和歌を作り、風波に漂った苦難の様子を詳しく述べて、長年の功績を称えて言われた。「朕は卿の忠義を万世に示そうと思う。子孫は正直をもって国に報いることを忘れるな。」(注:後醍醐天皇が長年に賜った宸翰による。)
¶天皇は京都陥落・奪還の知らせを得て、すぐに都に帰ろうとされ、群臣にこれを諮られた。勘解由次官・藤原光守が言った。「六波羅は敗れたとはいえ、鎌倉はまだ平定されておらず、賊の勢いはなお盛んです。世間では『東八州は天下に匹敵し、鎌倉一つで東八州に匹敵する』と言われています。それゆえ承久の乱では、伊賀判官を誅殺するのは力を尽くせば容易でしたが、鎌倉の兵と相まみえるに至っては、たちまち敗れ挫かれました。今我らが得たものは、わずか十分の一、二に過ぎません。ここに留まって東国の情勢の変化を見るべきです。」(注:太平記による。)長年もまたこれを止めた(注:伯耆卷による)。
¶天皇は自ら占いをされ、師の上六の卦(注:易占いの卦の一つ)を得て、都へ帰る意を決められた(注:太平記による)。長年に剣を帯びて護衛させた(注:太平記・伯耆卷による)。
¶建武元年、その功により因幡・伯耆の守護となった(注:太平記による)。ほどなく記録所の寄人となり、雑訴決断所に直属し、将士への恩賞のことに関与した(注:建武二年記による)。
¶新田義貞(にったよしさだ)の東征に際して、長年は楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに留まって京都を守った。延元元年、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都を犯すと、長年は二千人をもって瀬田橋(勢多橋)を守った。諸軍が敗れたと聞くと、天皇の車駕は延暦寺(注:原文「延幡寺」)へ行幸された。長年は兵三百を率いて京都へ戻った。賊は帆掛け舟の徽章を見分けてこれを遮り撃ち、長年は十七回にわたって転戦した。死者は半数を超え、ついに禁門(御所の門)にたどり着き、宮殿に人影がないのを見て、振り返り涙を流しながら去っていった(注:西源院本には、長年は宮殿が賊に汚されることを恐れ、火を放って去ったとあるが、これは誤りである)。
¶行在所に至り、諸将と力を合わせて尊氏を撃ち破って敗走させ、天皇の車駕を守って都に戻った。尊氏が再び都に迫ると、また車駕に従って延暦寺に入った。尊氏の軍が東坂を犯すと、長年は脇屋義助(わきやよしすけ)らとともにこれを撃ち退け、また新田義貞とともに京都で尊氏を攻めた。
¶白鳥のあたりを通り過ぎる頃、道行く人が語り合って言った。「三木一草(さんぼくいっそう)のうち、わずかに一木が残るのみだ。」長年はこれを聞いて輿に向かって言った。「世間は私が死ぬのが遅いと嘲っているのだ。もし戦いが不利になれば、今日死のう。」思うに、結城親光・名和長年(伯耆)・楠木正成・千種忠顕(ちぐさただあき)は、当時の功臣として、いずれも天皇の恩寵を受けていた。それゆえ世間では「三木一草」と呼んだのである(注:「耆」と「木」は訓読みが通じ合い、「種」と「草」も通じ合うことによる)。
¶戦いに敗れると、諸将は退いたが、長年は後ろの街路の門を閉じて逃げ道を断ち、従弟の信貞らおよび兵二百人とともに、力戦して死んだ(注:太平記による。従弟の信貞については伯耆卷による)。
¶三人の子がいた。義高・基長・高光である。義高は初め二条高時の軍に従い、千剣破城(ちはやじょう)を攻めに行った。長年が挙兵するに及んで、知らせを得て駆け戻った。天皇は召し見て大いに喜び、父とともに車駕に従って京都へ赴き、正五位上に叙され、検非違使となった(注:太平記による)。ほどなく武者所に直属した(注:建武二年記による)。後に従弟の義重とともに源顕家(みなもとのあきいえ、北畠顕家)に従い、堺浦で戦死した。享年三十七。
¶基長は孫三郎と称した。長年が天皇を船上山へお迎えする途中、基長に言った。「お前は私に代わって家に戻り、家のことを処分せよ。」基長は言った。「賊兵がまもなく到来しようというのに、私がどうして御側を離れられましょうか。義のために殉じ節を全うすることこそ、私の願うところです。家のことは他の一族に任せればよいでしょう。」長年は言った。「いや。私は賊に我が家を踏みにじられるのが恥ずかしいのだ。お前が行かねば、家の者たちにはできないことだ。」
¶基長はそこで戻り、自分の家に火を放って、母と家人を連れて船上山に至った。清高が攻めて来ると、基長は兵を率いて奮戦し、これを敗走させた。兵たちが追撃しようとすると、基長は叫んで言った。「彼らはひたすら降伏しに来ているのだ。何を窮追する必要があろうか。」兵たちはそこで止まった。降伏する者は果たして多かったが、塩冶高貞(えんやたかさだ)はまだ到着していなかった。長年は基長にこれを討たせた。高貞はこれを聞いて恐れ、降伏して来た(注:伯耆卷による)。
¶基長は後に僧となり、高野山に住んだ(注:『名和系図』による)。
¶高光は幼名を乙童丸(おとどうまる)といった。船上山の戦いの際、高光は十四歳で、真っ先に奮戦し、敵を大いに殺した。天皇はこれを引見して大いに喜び、御自身が用いておられた黄楊(つげ)の櫛を賜って、恩賞の証とされた(注:伯耆卷による)。後に正六位上に叙された。父とともに車駕に従って延暦寺で戦死した(注:伯耆卷・名和系図による。○太平記には、長年の第二子・伯耆守長秋、第三子・修理亮某が、懐良親王(かねながしんのう)に従って西海に赴いたとあるが、系図にはこの記載がない。今、系図を按ずるに、長年の第二子はすなわち基長であり、基長の子を願長という。「顕」と「秋」は訓読みが通じ合うので、太平記がその名を取り違えて、誤って長年の子としたのではないかと思われる。)
¶義高の子・顕興(あきおき)は、実は基長の生んだ子である。従四位下に叙され、検非違使・弾正大弼・伯耆守となった(注:従四位下については系図による)。正平十三年、一族を率いて肥後に赴き、征西将軍・懐良親王に従って朝廷方として戦い、肥後の八代城に居した(注:『名和家譜』による。○正平十三年については菊池武朝の申状による。○本書には建武二年とあるが、これは誤りである。名和氏の一族で西海にいた者は、太平記では正平十四年に初めて見え、おおむね武朝の申状と合致する)。
¶長年の従子(甥)に長重がいる。
名和長重
¶名和長重(なわながしげ)は、大郎左衛門(注:太郎左衛門)と称した(注:太平記には小太郎左衛門長重を長年の弟とするが、家譜にはその記載がない。長重はすなわち長年の従子(甥)である。太平記にはまた太郎左衛門長生という人物が見え、その事跡は伯耆卷に記された長重の事跡と合致する。とすれば、長生と長重はおそらく同一人物であり、弟としたのは伝聞の誤りであろう)。
¶長年に従って挙兵し、京都で戦った。正平七年、足利義詮(あしかがよしあきら)が男山の行営を犯すと、長重は一族の長氏とともに陣営の中にいた。敵が迫って来ると、長氏は戦死した。まもなく天皇の車駕は包囲を突破して賀名生(あのう)へ戻られた。事態が急迫し、御用係は神鏡の櫃を田の中に置き去りにして去ろうとした。長重はそこで馬から下り甲冑を脱いで、櫃を背負って走った。敵は雨のように矢を射かけて追ったが、長重はかろうじて逃れて戻った。櫃の板は薄くもろかったが、矢が当たったもの十数本のうち、ついに一本も貫通しなかったので、人々はこれを不思議なことだと思った(注:太平記・伯耆卷・名和系図を参照して補った)。
¶この年、長年の一族は敵と伯耆で戦い、三月から四月にかけて、名和長信・名和高政・名和五郎、および弟の興村・和行貞が、皆戦死した(注:『名和系図』による)。
兒島高德
¶児島高徳(こじまたかのり)は、備後三郎と称し、備前の人である。姓は三宅、父は範長(のりなが)といい、和田備後守と称した(注:太平記による)。高徳は若い頃から読書を好んだ(注:天正本太平記による)。
¶後醍醐天皇が笠置におられた頃、兵を集めて朝廷のために挙兵しようと謀った(注:太平記による)。天皇は錦の御旗を賜った(注:天正本太平記による)。まもなく行在所が陥落し、天皇の車駕は西へ遷されることになった。高徳は一族を集めて言った。「志士仁人には、我が身を殺して仁を成し遂げる者がいる。私は途中で車駕を奪い取り、これを奉じて挙兵しようと思う。もし事が成らずに死んでも、それでもなお名を輝かせるに十分だ。」一同は奮い立って従い、共に舟坂山に上って天皇の一行を待ち構えた。
¶護送の兵が山陰道に転じて出たと聞くと、高徳は改めて道を欺いて美作の杉坂に至ったが、車駕はすでに遠く過ぎ去っていた。一同はそこで散り散りになった。高徳はなお天皇にお目にかかり、自分の思いを伝えたいと願い、一人みすぼらしい服装で後を追った。数日間、機会を得られなかったが、ある夜、御所の館に忍び込んで桜の木を斫り(注:天正本・金勝院本には柳とある)、白く削って書き付けた。「天、勾践を空しくすること莫かれ。時に范蠡無きに非ず。」(注:天が勾践を見捨てなかったように、今は時勢が悪いだけで、范蠡のような忠臣がいないわけではない、との意)従者の中に文字を読める者がなく、これを天皇に申し上げた。天皇もまた誰の仕業か分からなかったが、心の中でひそかに喜ばれた。
¶天皇が船上山におられる頃、高徳は範長とともに一族を率いて参上し、ついに左近衛中将・源忠顕に属して六波羅を攻めた。官軍は敗れ、忠顕は峰堂へ逃げ戻った。高徳および村上・行村(注:村上・行村については伯耆卷による)は、力戦していよいよ奮い立った。忠顕は人を馳せて高徳を呼び戻し、言った。「敗れた兵は疲れ果てており、再び戦うのは難しい。しかも我が陣は賊に近く、不測の事態を招くことを恐れる。今、陣を少し後ろに移して、後の機会を図りたいと思うが、どうだろうか。」
¶高徳は答えて言った。「勝敗は運によるもので、小さな挫折など何を憂えることがありましょう。ただ、進むべきときに進まず、退くべきでないときに退くこと、これこそ将帥の過ちです。赤松円心(あかまつえんしん)は、わずか千人で山崎に屯し、三度進んで三度敗れながらも、なお屯営を固く守り、一歩も退きませんでした。今我が残兵は賊よりもなお多く、軍が拠る地は、後ろに山、前に水があり、守りに勝る地の利を得ています。どうしてこれを棄てられましょうか。ただ賊が我らの疲れに乗じて襲って来るかもしれません。私に七条橋へ行かせてください。あなたも兵を出して備えてください。」
¶そして三百人を率いて橋の西に屯した。夜半、高徳は峰堂の松明の火がしだいに少なくなるのを望み見て、忠顕が陣を棄てて逃げたのではないかと思い、確かめに行こうとした。道中、荻野朝忠(おぎのともただ)に出会った。朝忠は言った。「元帥はすでに逃げてしまった。私もまた丹波へ赴こうと思う。あなたも一緒に来てほしい。」高徳は言った。「私はこの臆病な将のもとで事を為そうとしたのが誤りであった。あなたは先に行ってくれ。私は本営を見て回ってから、追いついて合流しよう。」
¶そこで兵を山の下に留め、一人で峰堂に登った。すると錦の御旗や武具が、乱雑に打ち捨てられていた。高徳は大いに罵って言った。「どうしてあのような者を、坑や堀に落として死なせなかったのか。」そして錦の御旗を回収し、朝忠とともに高山寺城を守りに行った。
¶足利尊氏が篠村で挙兵すると、近隣の郡の将士は争ってこれに従った。高徳はその配下になることを嫌い、特に朝忠および安達・祐秀・和田・位田・本荘・平荘の諸氏とともに、若狭を経て転じて入り、諸将とともに六波羅を攻めてこれを陥落させ、備前へ帰った。
¶建武二年、飽浦信胤(あくらのぶたね)らが福山城に拠って尊氏に呼応した。高徳は浅山条就とともにこれを攻め、ほとんど陥落させかけたが、軍中に裏切り者が出たため、戦いに敗れ、三石城に戻って拠った。官兵はしだいに集まり、和気の駅に出て戦った。松田盛朝が敵に降伏したため、高徳は敗走し、熊山城に入った。その夜のうちに、また裏切り者が出て、敵を城内に導き入れた。高徳は一族とともにかろうじて難を逃れ、事の次第を朝廷に報告し、ついに山中に身を隠した。
¶延元元年、新田義貞が弟の脇屋義助を遣わして舟坂を攻めさせたが、長らく落とせなかった。高徳はこれを聞いて、人を遣わして義貞に告げさせた。「舟坂は険阻で、確かに落とすのは容易ではありません。私は四月十八日をもって、熊山で兵を挙げましょう。敵は必ず兵を分けて攻めて来ます。将軍は軍を二手に分け、一手は攻める構えを見せて敵を引きつけ、もう一手は三石山の南の道から、敵の不意を突いて出て、前後から挟み撃ちにしてください。私はただちに兵を率いて合流し、そうすれば舟坂を陥落させることができます。舟坂が陥落すれば、西国のどこが従わないことがありましょうか。」義貞は大いに喜び、進軍することを約した。
¶期日になると、高徳は夜に自分の家に火を放ち、二百余人を率いて明け方に熊山に登った。敵は果たして三千人を出して攻めて来た。山には七つの道があり、高徳は兵を分けてこれを防ぎ、一日中力戦した。夜になって、敵は嶺を回り込んで突如襲いかかった。高徳は十数騎でこれに当たったが、重傷を負って馬から落ちた。二人の敵兵が馳せ来てこれを斬ろうとした。高徳の従子(甥)である和田範氏・松崎範家が駆けつけて救い、抱え上げて連れ帰ったが、傷は重く、ほとんど死にかけていた。
¶父の範長はこれを激励して言った。「昔、鎌倉景政は敵に目を射られながらも、三日間矢を抜かず、ついに自分を射た者を射殺した。お前は今、小さな傷を負っただけなのに、このように打ちのめされているとは、どうして大事を成し遂げられようか。」高徳はそこで息を吹き返して言った。「早く私を助け起こして馬に乗せてくれ。出て決戦する。」範長は事を成し遂げられると見て、残りの兵十七騎をもって突進した。敵は味方の寡兵を測りかね、戦わずして退いた。官軍はついに舟坂を陥落させることができたが、これはこの戦いのおかげであった。
¶まもなく範長と高徳は、飽浦信胤の兵が尊氏に従って東へ向かうのを阻もうとして、西川尻に陣を出したが、敵が福山城を陥落させたと聞き、脇屋義助と合流しようとした。義助はすでに退いていたので、夜に乗じて険しい道をたどり、佐古志浦に至ったが、傷はいよいよ重くなり、範長は見知った僧に後事を託して進んだ。
¶夜が明ける頃、赤松則村(あかまつのりむら)が兵を出して険しい隘路で待ち構え、呼ばわって言った。「逃亡兵は速やかに甲冑を脱いで降伏せよ。」範長は笑って言った。「先に足利尊氏は書状であらゆる手を尽くして私を誘ったが、私はすべて引き裂いて火にくべた。今どうしてお前に降伏などしようか。お前が甲冑を欲しがるなら、こちらから与えてやろう。」
¶そして八十三人で包囲を破って東へ出た。敵は村落に呼ばわって、逃亡兵が通ったと知らせた。数千の民兵が四方から集まって矢を射かけてきた。範長は十八回戦い、士卒は死傷し、生き残ったのはわずか六人となった。範長は言った。「もし私が一族を挙げて来ることができていたなら、これを踏みにじって通り過ぎていただろう。今この事態に至っては、これが我が死に日である。」そしてついに腹を切り、刀をくわえて死んだ。
¶高徳はほどなく備前守となった。
¶正平三年、新田義貞は越前におり、京都で尊氏を攻めて男山を救援しようとした。高徳は軍中に従っており、議して言った。「先に官軍は敗れ、比叡山も支えきれませんでした。北の賊が道を遮ったため、糧食が続かなかったからです。北国に兵を留めて輸送路を確保し、その後数千の兵を遣わして比叡山に拠らせ、日夜京都を脅かすべきです。これは根を深く張り、基礎を固める策です。しかし僧徒は我らの兵が少なく急に至ったのを見れば、寝返るのではないかと恐れます。まず書状を送って、その向背を探るべきです。」義貞は大いにこれをもっともだと思った。高徳はただちに筆を執って書状を作り、たちどころに書き上げ、これを届けさせた。延暦寺もまた返書でこれに応じた。
¶しばらくして、義貞は戦死し、高徳は脇屋義助に従って伊予へ赴いた。義助が病没すると、備前へ逃げ帰り、困窮して身を潜めた。興国六年、上野で脇屋義治を招いて挙兵しようとした。これより先、荻野朝忠は足利尊氏に降伏していたが、あることで尊氏を恨んでいた。高徳はそこで朝忠と結び、共に挙兵する時期を約した。尊氏はこれを聞き、兵を発して朝忠を高山寺城に、高徳を児島に攻めた。朝忠は出て降伏し、高徳は謀事が成らないと悟り、ついに義治を奉じて、海路をひそかに京都に入り、旧知の者千人を招き集めた。
¶高徳は「人々を一か所に集めて住まわせれば、必ず敵に察知されるだろう」と考え、近郊に分散して配置し、夜襲によって尊氏を討つ時期を約した。その期日の前日、尊氏は密偵によってこれを知り、兵を遣わして壬生に潜んでいた一団を攻めさせた。人々は屋根に登って雨のように矢を射たが、矢が尽きると、皆自害した。残りの者たちはこれを聞いて散り去った。高徳もまた義治とともに信濃へ逃れ、後に剃髪して志純(しじゅん)と号した(注:西源院本には忠継とある)。
¶正平七年、天皇は男山へ行幸して京都の奪回を図ろうとされた。高徳を召して詔された。「汝は東北の諸国に赴き、兵を挙げて援軍として来い。功を効し勲を成すのは、この一挙にかかっている。」高徳はただちに赴いて諸将を説いて言った。「今、行在所は危急に迫っており、援軍が来ません。万が一天皇が賊の手にかかることがあれば、天下の大事はもはやどうにもなりません。速やかに救援すべきです。」
¶これにより新田義宗および小山四郎(注:「四郎」は諸異本による)、宇都宮公綱、桃井直常、上杉憲顕、吉良満貞、石塔義房らが兵を発して救援に赴いた。しかし到着する前に、男山は陥落してしまった(注:太平記による)。
¶高徳は、その後の消息は分からない。
土居通治
¶土居通治(どいみちはる)は二郎と称した。得能通言(とくのうみちとき)は弥三郎と称した(注:「通言」の名は金勝院本による)。ともに伊予の人で、河野氏の一族である(注:土居・得能・新居・高市・今井・松木・難波江・徳永・高市の諸氏は、皆河野氏の支族が称したものである。今、『河野家譜』『予章記』を調べても、この二人の名は記載されておらず、対馬守通盛という者がおり、初めの名を通治といったが、これは別人である。また『稲葉系図』によれば、得能通俊は通信の庶長子であり、通俊は通村を生み、通村は通綱を生み、通綱は通方を生んだという。『予章記』には、通綱は又太郎と称し、元弘年間に祖の通信が管国していた備後守を賜り、あらためて河野氏と称したとある。その子孫は相続いで死亡し、ついに家系が絶えたという。これから考えると、この二人はおそらく通綱の子で、通方の弟ではないかと思われる。しかし他に確かな証拠がないので、ひとまずこう記して後の考証を待つ。)
¶通治は備後守に任じられた。後醍醐天皇が船上山におられた頃、通治・通言はともに挙兵し、土佐を攻略した。長門探題・北条時直(ほうじょうときなお)は戦艦三百余艘を率いて攻めて来た。通治・通言はこれと星岡で戦い、大いにこれを破って、死傷者は数えきれないほどであった。時直は逃走した。これにより四国の兵士はことごとく味方についた。
¶通言は舟を用意し、京都を奪還しようとした。ちょうど諸軍がすでに京都を回復し、天皇の車駕は御所に戻られていた。通治・通言はそこで兵庫に出迎え、そのまま供奉した。
¶当時、北条氏の残党である赤橋重時(あかはししげとき)が伊予の立烏帽子城に拠っていた。通治・通言はこれを討って平定し、まもなく伊予に戻った。足利尊氏が京都を犯すと、通治・通言は戦艦三百余隻を発して救援に入り、足利直義(あしかがただよし)と豊島河原で遭遇し、奮い戦ってこれを敗走させた。
¶尊氏が再び都を窺うと、通治・通言は脇屋義助に従い、湊川で力戦して防いだが、うまくいかず、車駕に供奉して延暦寺へ入った。尊氏の兵が攻めて来ると、通治・通言は仁科氏重・春日部時賢らとともに白鳥岡に陣し、これを防いで功があり、そのまま尊氏を攻めたが、うまくいかず引き返した。
¶新田義貞が皇太子を奉じて、北国を経略しに赴いた際、通治・通言は一族の通縄(注:「縄」は「益」または「政」に作る本もある)とともにこれに従った。通言・通縄は三百騎で殿(しんがり)を務めた。行軍して塩津に至ったところ、たまたま大雪に見舞われ、前軍とはぐれてしまった。敵兵が突然襲来し、通言・通縄の兵馬は凍え飢えて戦うことができず、ついに一同で刀を地に突き立て、その上に伏して死んだ。通治は皇太子に従って金崎城に居した。城が陥落した日、兵を率いてその一面を数刻にわたって防ぎ、傷を負って力尽きた。そのまま一族三十二人とともに切腹して死んだ(注:太平記による)。通治・通言は、勇猛比類なく、節義を最後まで貫き通したので、人々は皆これを嘆き惜しんだ(注:金勝院本太平記による)。
¶通治の子・通郷(注:「郷」は「也」または「理」に作る本もある)は備前守に任じられ、通言の子である弾正某とともに、勇猛で戦いに巧みであり、一族を率い励まして、国に拠って敵に当たった。興国年間、脇屋義助が詔を奉じて伊予に来た。通郷・弾正らは大館氏明・金谷経氏らとともに、義助を主将に推し戴き、いよいよ復興の計略を進めた。ところが義助が病没し、細川頼春が河江城を攻めて来た。通郷・弾正らは経氏に従い、軍船で援軍に赴いた。途中で敵兵に遭遇し、戦って利あらず、方向を転じて備前の鞆城を取り、大可島(注:西源院本には「大炊島」とある)を塞いでこれを守った。敵はまた攻めて来て、十数日にわたって戦った。頼春がすでに河江城を陥落させ、大館氏明を世田城に攻めようとしていると聞くと、経氏にこれを救援するよう勧め、そこで精鋭の兵三百ほどを選んでこれに従い、頼春と千町原で戦った。多勢に無勢で、士卒はほとんど尽きてしまった。ただ通郷・弾正ら十数人だけが、経氏とともに包囲を突き破って備後へ逃れた(注:太平記による)。その後の消息は分からない。