卷之一百八十九 列傳第一百十六

將軍家族三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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足利直義

足利直義(あしかがただよし)は、初め高国(たかくに)、のちに忠義とも名乗った。尊氏(たかうじ)と同母の弟である。嘉暦年間、兵部大輔となった(注:尊卑分脈・公卿補任を参照して考証した)。元弘の初め、尊氏に従って笠置(かさぎ)を攻めた(注:異本太平記による)。尊氏が朝廷に帰順すると、直義は常に従って軍事の計画を助けた。天皇が京へ帰還すると、その功により左馬頭となり、正五位下に叙せられ、ほどなく相模守を兼ねた(注:太平記・尊卑分脈を参照して考証した)。上野太守成良親王(なりよししんのう)が鎌倉(かまくら)に鎮座するにあたり、直義は執権となって東国の兵を率い、従って鎌倉へ赴いた(注:神皇正統記・元弘日記裏書・太平記を参照して考証した)。当時、鎌倉は戦火の余燼のなかで破壊がとりわけ甚だしく、将士は皆疑心と恐れを抱いていた。直義は遠近の者を招き寄せて安撫し、号令はすべて北条氏(ほうじょうし)の旧慣に従ったので、東国はこれに頼って安定した(注:太平記・梅松論を参照して考証した)。建武元年、北条高時(ほうじょうたかとき)の残党である木間(きま)・渋谷(しぶや)の両氏が兵を挙げて鎌倉を攻めた。直義は渋川義季(しぶかわよしすえ)を遣わしてこれを討ち平らげた(注:梅松論による)。その回復の功により遠江(とおとうみ)の守護に任じられた(注:太平記による)。天皇はかつて北条氏の専横に懲りており、武人に権威を貸し与えることを望まなかった。ところが成良親王が鎌倉に鎮座して以来、関東の軍事・国事はもっぱら直義の裁量で決まり、もはや朝廷の指示を仰ぐこともなくなったため、天皇は初めてこれを悔やんだ。当時、護良親王(もりよししんのう)がまさに尊氏を憎んでこれを誅殺しようと謀っていたところ、尊氏は天皇の寵姫である藤原氏と結んで護良親王が謀反を企てていると讒言した。天皇はこれを信じ、ついに護良親王を鎌倉へ流した。直義は騎兵を遣わして護良親王を迎え、土牢を作って幽閉し、警備を厳重にした。翌年、北条時行(ほうじょうときゆき)が反乱を起こして鎌倉を攻めたため、直義はまた渋川義季らにこれを討たせた。義季は戦死し、直義は自ら出向いてこれを防いだが敗れた。時行は勝ちに乗じて進撃し、直義は成良親王を奉じて西へ逃れた。山内(やまのうち)に至ったころ、なお護良親王を背後に残しておけば後患となることを懸念し、淵辺義博(ふちべよしひろ)に命じて引き返して護良親王を殺害させた。逃げて駿河(するが)の手越駅(てごしのえき)に至ったとき、敵兵に遮られ襲撃され(注:梅松論による)、直義は窮地に陥って討死しようとした。義博らは苦戦の末に討死し、直義はその隙に脱出した(注:天正本太平記・難太平記による)。折しも入江(いりえ)の地頭であった工藤春倫(くどうはるとも)が兵百余人を率いて救援に駆けつけ、直義は進んで尊氏の軍と矢蚓(やはぎ)で合流した。兵はあわせて五万となり、共に引き返して時行を討ち、これを敗走させた(注:太平記・梅松論を参照して考証した)。天皇は尊氏に軍を引き上げるよう詔したので、尊氏は詔に従おうとしたが、直義は強くこれを止めて言った。「あなたには世に並ぶ者のない功績がありながら、公卿たちや新田義貞(にったよしさだ)らの多くはこれを妬み、しばしば良からぬ策謀を巡らしています。今幸いにも虎口を脱し、万全の地を得ているのに、どうしてまた禍の落とし穴に踏み込む必要がありましょうか」(注:梅松論による)。尊氏はこれに従った。そこで直義は赤松則村(あかまつのりむら)らおよび各道の将士に書を送ってこれを招いた。公卿たちがしばしば尊氏の謀反を天皇に奏上したため、天皇は初めて尊氏を疑い、兵を発してこれを討とうとした。しかし准大臣源親房(みなもとのちかふさ)らが諫めたため、事はいったん中止となった。ところが直義が護良親王を殺害したと聞くに及び、天皇はますます怒り、尊氏・直義追討の詔を下した。尊良親王(たかよししんのう)と新田義貞は東海・東山の両道から進撃した。直義はこれを聞いて防戦を願い出たが、尊氏は承知しなかった。上杉憲房(うえすぎのりふさ)・細川和氏(ほそかわかずうじ)・佐々木高氏(ささきたかうじ)は直義に言った。「今、天下の政治はようやく朝廷の手に戻ったばかりで、公卿たちが権力をほしいままにし、功のあった将士を奴僕のように扱っています。そのため至る所の武人は日夜首をすくめ耳をそばだてて、誰かが事を起こすのを待ち望んでいます。将軍(尊氏)は天下が仰ぎ望む家柄の出であり、威名はもとより高く知れ渡っています。ひとたび立って指揮を執れば、誰が従わずにいられましょうか。まして今の情勢はやむを得ない事態から出たものであり、これは天がまさに将軍を立てようとしているのです。とはいえ、将軍はただ一時的に君臣の分をわきまえておられるだけであって、あえて滅ぼされることを甘んじて受け入れるつもりはないはずです。もし少しでも遅れれば、機を逸することを恐れます。どうか早くお決めください」(注:太平記による)。直義はこれに従い、佐々木高氏らを先に出発させた。尊氏は「朝廷の軍に逆らうのは私の本意ではない」と言い、軍事のすべてを直義に委ねた。直義は続いて進撃し、官軍と手越川(てごしがわ)で戦って大敗し、引き返した(注:太平記・梅松論による)。尊氏はすでに建長寺(けんちょうじ)に逃げ込んでおり、直義はこれを憂えた。上杉重能(うえすぎしげよし)の計略を用いて、尊氏追討の綸旨を偽造し、これを尊氏に見せた。尊氏はそこで出陣し、軍の士気は大いに振るった。その経緯は尊氏伝に見える。直義は進んで新田義貞と箱根(はこね)で戦ったが、不利であった。まもなく尊氏が竹下(たけのした)で尊良親王を大いに破り、義貞の軍はこれに従って崩れたので、直義らはその後を追って進撃した(注:太平記による)。

延元元年、京の都が陥落した。天皇は延暦寺(えんりゃくじ)へ行幸した。尊氏は官軍と京で戦って大敗し、兵庫(ひょうご)へ逃れた。新田義貞らはこれを追って豊島河原(てしまがわら)まで至った。直義も引き返して戦ったが敗れた。折しも大友貞宗(おおともさだむね)・大内弘世(おおうちひろよ)・厚東宗西(こうとうそうさい)らが水軍を率いて味方についた。直義はその軍を統率し、湊川(みなとがわ)で戦ったがまた敗れ、ついに尊氏とともに筑紫(つくし)へ逃れた(注:太平記による)。菊池武敏(きくちたけとし)が兵を挙げてこれを迎え撃とうとし、このとき味方の兵はわずか千人ほどしかおらず、軍中は危機感に包まれていた。直義は兵五百を率い、進んで武敏と多々良浜(たたらはま)で戦った。尊氏は赤坂(あかさか)に陣を敷き、その後詰めとなった。折しも北風が砂を巻き上げ石を転がすほど吹き荒れ、真昼なのに暗くなった。武敏の軍勢はこれで目を開けていられず進めなくなった。直義は風上から兵を放ってこれに乗じ、博多(はかた)まで追撃した。武敏は兵を返して決戦を挑み、その勢いは非常に鋭かった。直義は使者を遣わして尊氏に告げた。「直義はここで死にましょう。将軍は周防(すおう)・長門(ながと)へ赴き、じっくりと再挙を図られるべきです」。そう言って衣の袖を切り、これを形見として贈った。将兵たちは皆奮い立って必死に戦った。尊氏が救援に駆けつけ、ついに武敏を大いに破った。直義は追撃して太宰府(だざいふ)まで至り、投降し味方につく者が非常に多かった(注:梅松論による)。そこで再び京へ攻め上ることを議した。尊氏は海路から直接兵庫へ向かい、直義は陸路を進んで福山城(ふくやまじょう)を囲んだ。守将の大井田氏経(おおいだうじつね)は戦いに敗れて逃げた。これにより、中国地方を巡っていた官軍は、この報を聞いて退却した。新田義貞と楠木正成(くすのきまさしげ)は兵を留めて兵庫を守り、尊氏は水軍で義貞に当たった。直義は陸軍を統率し、正成と湊川で戦ったが不利であった。直義の馬が傷つき危機に陥ったとき、薬師寺公義(やくしじきみよし)が自分の馬を直義に譲り、自らは徒歩で戦って数人を斬った。尊氏は直義が敗走するのを見て、兵を分けてこれを救った。正成は力戦の末に討死した。直義はそこで尊氏の軍と合流し、義貞を撃って大いに破った。尊氏は賢仁親王(かたひとしんのう)を奉じて天皇に立てた(注:太平記による)。三年、直義は左兵衛督・征夷副将軍となった(注:公卿補任・太平記を参照して考証した)。当時、武人は傲慢で狡猾、無礼な振る舞いが多く法令に従わなかった。土岐頼遠(ときよりとお)は驕り高ぶって酒に乱れ、光厳院(こうごんいん)の御車に矢を射かけた。直義は大いに怒り、その一族を滅ぼそうとした。頼遠は美濃(みの)へ逃げ帰った。直義は土岐頼康(ときよりやす)に命じてこれを討たせた。頼遠は恐れ惑い、ひそかに京へ来て僧疎石(そせき)を頼って謝罪した。直義はこれを聞き入れず、捕らえて六条河原(ろくじょうがわら)で斬り、二階堂行春(にかいどうゆきはる)も連座して讃岐(さぬき)に流した。これにより武人たちは震え恐れ、驕り高ぶった振る舞いはやや収まった(注:太平記による)。

直義の人となりは意志が強くねばり強い反面、狡猾なところがあり、人が自分を批判することを恐れた。表向きは恭順を示しながら、内心は非常に思慮深く腹黒かった。そもそも尊氏が謀反を企てた当初、まだ大義名分が立たず、まず護良親王を除こうとしていた。新田義貞らを討つに至って、その意図は次第に成就していった。北条時行を討って鎌倉を平定するにあたっても、直義は尊氏に早く謀反を起こすよう勧めた。おおよそ謀略や密策の類は、多くが直義の手によって成し遂げられたものであった。護良親王を殺害し、四方に兵を募ったことについては、尊氏が明言してこれを指図したわけではないが、いずれも尊氏が望んでいたことであり、直義はそれに乗じて悪事をほしいままにした。尊氏は内心これを快く思いながらも、最終的にはその咎を直義一人に帰した。直義は甘んじてその罪を引き受けて辞退せず、ただ尊氏の謀反の意志が揺らぐことだけを恐れた。結局、尊氏がその志を遂げられたのは、多くが直義の力によるものであった(注:太平記による)。

興国六年、光明院(こうみょういん)は直義に従三位を授けた(注:公卿補任による)。直義は数年にわたって政務を執り、威光と権勢は輝かしく、その勢いは一時を風靡した。慶事や弔事があれば、上は光明院から下は公卿・士庶に至るまで、贈り物や見舞いが直義の門前に集まった。当時、尊氏と並んで「両御所(りょうごしょ)」と称された。かつて直義が病に伏したとき、光厳院は自ら願文を作り、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に祈願したほどで、その権勢の盛んなことはこのようであった。直義には初め子がなく、尊氏の庶長子である直冬(ただふゆ)を養子としたが、のちに実子が生まれると、これを特別にかわいがった。当時、直義は僧疎石が禅の教えに通じていたことから彼を崇敬し、諸国に安国寺(あんこくじ)を建てさせてその教えを広めさせた(注:太平記・梅松論を参照して考証した)。疎石はその弟子である妙喆(みょうてつ、注:原本では「喆」を「吉」に作るが、今は鎌倉大草子によって訂正した)を推挙した。妙喆は聡明で狡猾なところがありながら物腰は立派で、直義は深くこれを敬い信頼し、寺を堀河(ほりかわ)に建てて住まわせた。権勢や利益を求める者たちがこれにへつらい奔走し、賄賂が山のように積まれた。高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟はその振る舞いを激しく嫌い、しばしば妙喆を辱めた。妙喆はこれを大いに恨みに思った。上杉重能・畠山直宗(はたけやまただむね)は師直らと不仲であったので、妙喆と深く結んで、ともに師直らを除こうと謀った。妙喆は直義の前で楞厳経(りょうごんきょう)を講じた際、ひそかにこう説いた。「昔、秦の始皇帝は趙高(ちょうこう)を用い、二世皇帝の代で天下を失いました。古来、国家の治乱は執事たる者の賢愚にかかっています。今、師直兄弟は驕り高ぶって品行がなく、権勢を頼みに法を乱しています。彼らは常々こう言っています。『国に帝王があれば郡県の収入を多く費やすことになり、道に禁裏があれば通る者は馬を下りねばならず、人々に拝礼させ足早に通らせるのは煩わしい。帝王などいなくてもよいではないか。木や銅で像を作ればそれで済む。我らは必ず現存の帝王を捕らえて、遠方へ追放してやろう』と。もしこのような者たちに国政を任せていたら、天下がどうして安らかでいられましょうか。あなた様は早くこの者たちを誅殺し、上杉・畠山を執事とすべきです。そうすればあなた様の御子息のためにもなり、子孫は末永く安泰となりましょう。あなた様にはそのお考えはございませんか」。直義はその策を深く受け入れ、そこで直冬を中国探題(ちゅうごくたんだい)として、外に拠点を置かせ後ろ盾とさせようとした(注:太平記による)。

正平十四年、直義は粟飯原清胤(あいはらきよたね)らと謀り、用事にかこつけて高師直を呼び寄せ、精鋭の兵百余人を戸外に潜ませておいた。師直がすでに到着したところで、清胤は急に計画を変え、師直に目配せして異変を知らせてしまった。師直はこれに気づいて逃れ去り、兵を集めて自ら備えた。師泰は外で兵を率いていたが、異変を聞いて急ぎ引き返した。直義は憂え恐れ、途中に使者を遣わして師泰に告げさせた。「師直は才知が凡庸で劣り、政務に堪えない。あなたに代わってもらいたいのだ」。師泰はこれを拒んで聞き入れず、兵を整えて防備を固めた。これにより人心は騒然となり、都は混乱した。兵士が引きも切らず行き交い、それぞれ党派に分かれて群れ集まった。石塔頼房(いしどうよりふさ)・足利高経(あしかがたかつね)・細川頼春(ほそかわよりはる)・細川顕氏(ほそかわあきうじ)らの将士のうち、直義に味方する者は七千余人に及んだ。尊氏は使者を遣わして直義を呼び寄せ、事を協議させようとした。直義が尊氏のもとに至ると、従っていた兵の多くはさらに逃げ去っていた。師直・師泰は兵五万でこれを包囲した。尊氏は人を遣わして師直を責めたが、師直は畠山直宗・上杉重能らを必ず引き渡すよう求めて兵を退かず、かえって兵を指揮して包囲を強めた。尊氏は憤り、自ら出陣して戦おうとした。直義はこれを止めて言った。「なぜ将軍はそのように軽々しい行動を取られるのですか。彼らが求めているのは、直義と重能・直宗だけです。ひとまずその求めを認めて急場をしのぐべきです」。尊氏はそこで直義の政務を罷免し、重能・直宗を越前(えちぜん)へ流した。師直はこれで兵を退いた。まもなく重能・直宗を追い詰めて殺害させ、さらに中国地方の将士に命じて直冬を攻めさせた。直冬は肥後(ひご)へ逃れた。直義は引きこもって鬱々とし、思いがけない禍が身に及ぶことを恐れて常に落ち着かなかったが(注:太平記による)、ついに剃髪して慧源(えげん)と号し(注:公卿補任・太平記による)、もはや政務に用いられる意志のないことを示した。翌年、直冬が鎮西(ちんぜい)で兵を挙げると、師直は尊氏に自ら出陣してこれを討つよう勧め、あわせて直義を殺すよう求めた(注:太平記による)。直義は夜、奈良(なら)へ逃れ、内侍原好専(ないしはらこうせん)を頼った。好専が師直の書状を受け取ったと聞くと、さらに大和(やまと)へ逃れ(注:天正本太平記による)、越智伊賀守(おちいがのかみ、注:名は不詳)を頼った。越智は非常に手厚くもてなし、郷邑の兵を動員して直義を守った。当時、大和・河内(かわち)・和泉(いずみ)・紀伊(きい)の将士の多くは官軍に属しており、直義はすでに師直に追い詰められて官軍の勢力圏内に入り込んでいたうえ、朝廷軍の来襲をも恐れて、上書して降伏を願い出た。権大納言藤原実世(ふじわらのさねよ)はこの機に乗じて降伏を受け入れたうえで誅殺するよう求めたが、源親房は左大臣藤原師基(ふじわらのもろもと)らと協議し、「直義が降伏すれば尊氏はおのずと平定できる」と述べた。天皇はこれに従い、その降伏を受け入れた(注:太平記による)。直義はさらに武家管領(ぶけかんれい)に任じられることを求めたが、朝議はまだこれを認めなかった。折しも石塔頼房・畠山国清(はたけやまくにきよ)らが兵を率いて味方についた。直義の軍勢はやや盛り返し、そこで再び観応(かんのう)の年号を用い、寺社の護持や地頭職を私的に任命した(注:太平記・吉野事書案を参照して考証した)。こうして、とうとう朝廷に帰服する話は二度と口にしなくなった。六年、直義は男山(おとこやま)で兵を観閲した。桃井直常(もものいただつね)は北国の兵を率いて延暦寺に進出しこれを占拠した。このとき尊氏は西へ直冬を討ちに出ており、義詮(よしあきら)を留守として京に残していたが、義詮は京を捨てて逃げ、直常が入京した。尊氏は軍を返して直常を攻め、これを敗走させた。その夜、尊氏配下の兵の多くが離反して直義に降った。尊氏の手勢は弱くなり、ついに播磨(はりま)へ逃れた。直義は石塔頼房を遣わして攻めさせ、頼房は進んで光明寺(こうみょうじ)に陣を敷いたが、尊氏は兵を率いてこれを包囲した。頼房が使者を送って和議を協議する一方、直義は畠山国清・上杉義佐依(うえすぎよしさより、注:読み不詳)・石塔義基(いしどうよしもと)を救援に向かわせ、御影浜(みかげのはま)で尊氏を大いに破った。尊氏は松岡城(まつおかじょう)へ逃げ込み、饗庭氏直(あいばうじなお)がひそかに国清の陣営に赴いて和睦を協議した。国清は「三条殿(直義)のお考えもまた同じです」と答えた。和議が成立すると、高師直・師泰は罪を恐れて髪を剃り降伏したが、途中で上杉・畠山の手勢に殺された(注:園太暦・太平記を参照して考証した)。尊氏が京へ戻ると、直義もそこへ赴いて会った。これより後、直義の心は再び満ち足りたものとなった。藤原有範(ふじわらのありのり)はかなりの学識があり、直義に厚く信頼されていたが、常に直義を周の西伯(せいはく)になぞらえ、自らを太公望になぞらえ、こう述べた。「義詮は淫らで悪しき人物であり、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)と入れ替わったようなものです。あなた様の聡明さと仁智をもってすれば、天下の政治を行われたとして、誰があえて対抗できましょうか」。直義もまた自分こそ人心の帰するところであると自任し、義詮に政務を自分へ譲らせようという意向を持っていたため、両者はうまくいかなくなった。尊氏は両者の間を取り持ち、これを説き諭した(注:太平記による)。天皇はほどなく源親房に勅して書を送らせ、直義を諭させた。その書にはこうあった。「上代、神々が国の基を創られ、それが人皇の代に伝わり、代々の聖帝が継承して九十余代に及んでいる。その上下正邪の道理は、古今を通じて変わることがない。もしこの道に背き怠る者があれば、たちどころに滅び去らぬ例はない。過去に照らせば、将来もまた明らかである。とはいえ、文治・承久の頃より、朝廷が武臣に兵権を専らにさせてきたのにも、それなりの理由がある。当時、源頼朝(みなもとのよりとも)の勲功は殊のほか大きく、これに報いる恩賞もまた前例を超えるものであった。それゆえ父子相続いてこの国の守りとなり、上たる者を敬い一日も怠らず、その行いはすべて朝廷の指図を仰いでのことであって、僭越とは言えないものであった。ただ、兵を率いる家というものは長続きしないもので、頼朝の家はわずか二代の子に伝わって絶えた。北条政子(ほうじょうまさこ)がこれを継いで、よく政務を整え過ちがなかった。しかし承久の変のような出来事は天意に沿わず、ついに後鳥羽院の配流という禍を招いた。北条泰時(ほうじょうやすとき)はその後をよく継いで治安を志し、正しきを正しく行い、私心が全くなかった。それゆえ神々もこれを助け、その子孫は百年もの長きにわたり地位を保つことができた。ところが北条高時の代になると、職務を怠り自ら滅びを招いた。先の天皇は時運に応じて激しくお怒りになり、天下を統一なされた。歴代の帝の積年の憤りを慰めることは、掌を返すよりも容易であった。その時、建武の征東将軍(足利尊氏)は一転して朝廷方に帰順し、功績を立てて、たびたび寵愛と抜擢を受けた。しかしその大功も最後まで全うされず、たちまち軍勢の姦計が伝えられ、清らかであるべき世を濁し乱した。先の天皇はついに憤りを抱いたまま崩御され、それより起こった戦乱は前後十六年にも及んだ。父子・肉親が日々戦いを繰り返し、民の命は失われ、血は野に流れ、国中が騒然として、二度と安らかな年はなかった。この変乱の惨たらしさは、天地開闢このかたなかったことである。その責めを負うべきは、いったい誰であろうか。そもそもその志はいささかも民のためになく、ただいたずらに神仏を崇め三宝に帰依して、それによって身勝手に幸福を求めようとするならば、いったい何が報われようか。今、あなたは急に考えを改め、たびたび誠意ある書状を送って、朝命に従いたいと願い出ている。議論する者たちは皆、あなたの志が朝廷の威光を借りて内輪の争いを取り除くことにあると承知している。それでも天意は寛大であり、特にこれまでの功績を認めてその願いを聞き入れることとした。すでに詔勅も下ったからには、あなたは速やかに朝廷の正朔(せいさく)を奉じるべきである。大小の軍事・政務は、すべて朝廷の意向を仰いで行うべきものである。それにもかかわらず、いまだに観応の私年号を改めず、守護・地頭の職を勝手に任命したままであるのは、あなたが空虚な言葉を並べて人を欺くことばかりに努め、実のところ朝廷に帰服する意志など全くないのではないか。もしそうであるならば、人心はいったい何に従えばよいのか、戦乱の収まる見込みもなく、民がいつになったら重荷を下ろせるというのか。しかも、あなたはすでに何度も誠意を示す書状を送っておきながら、なお様子見の態度を取り、みすみす時機を逃している。一軍の主将たる者の振る舞いが、このようであってよいものか。ある者が言うには、あなたの配下の兵たちが『政治が朝廷に戻れば、自分たちの領地を失うことになる』という浮説に動かされ、それであなたがこの帰順を行うことを快く思っていないのだという。そもそも朝廷があなたを迎え入れようとするのは、もともと南北を一つにまとめ、上下それぞれが本来あるべき場所を得られるようにするためである。あなたが率いる軍勢の功田は、すべて従来通りとし、むしろ十分に賞し勧め誘う暇もないほどのつもりでいる。それなのに、なぜみだりに過度な懸念を抱き、民を戦乱から免れさせその暮らしを安んじることを考えないのか。そもそも今日の天下は、先の天皇の天下である。今の天皇は皇位を正しく受け継がれ、まことに人皇の正統でいらっしゃる。あなたは天命の所在をよく見極めるべきである。上たる者を敬い正しきを正しく行い、速やかに元弘の頃の状態に立ち返り、中興の治世を助け、上は先の天皇の御霊を慰め、下は天下一統の教化を広めることを願われよ。そうすれば、その身は当代において栄華富貴を得、その名は後世にまで伝わるであろう。これほど喜ばしいことがあろうか。どうかよくよく考えていただきたい。お求めの武家管領の件については、朝廷に参内された後に改めて協議することとしよう」。直義はこれに答えて言った。「覇者が王業を助け、武将が皇室を守ることは、天下古今を通じての道理です。建久の頃、源右大将(源頼朝)が諸国の総追捕使(そうついぶし)を管轄したことは、まことに武家中興の始まりでした。朝廷の盛衰、天下の安危は、すべてこれにかかっています。承久の乱に至って、北条義時(ほうじょうよしとき)が天皇の廃立を行い、朝廷の権限と政治の実権は、すべてその手中に帰しました。時代が下って元弘の初め、その子孫はすでに衰え、足利の家(尊氏)は先の天皇に巡り合い、機に乗じて義兵を起こし、天下がこれに応じました。わずか十日ほどの間に、四方はすっかり平定されました。建武の頃には、また自ら兵を率いて関東の残党を誅滅しました。その元勲・功績は、古今に比べるものがありません。しかし側近の姦邪な者たちが天皇の御明察を惑わし、まさに処罰を受けようとする有様でした。そこで甲冑を携えて内裏に向かい、君側の悪を除こうと謀ったのです。しかしその真心はついにお認めいただけず、かえって禍乱を引き起こす結果となりました。天皇が再び比叡山(ひえいざん)へ行幸されるに及び、兵を窮め武を黷(けが)すこととなりましたが、ようやく和議が整いました。先の天皇が退位され、三種の神器が譲られたときには、私どもは旧来の典章に従って公家をお助けするものと考えておりました。ところが思いがけず天皇が吉野(よしの)へ遷られることとなり、もはやどうにもできませんでした。近ごろは兵威を示して従わぬ家臣を懲らしめ、多くの者たちの怨みや苦しみを慰めようとしております。それによって奏上し願い出ていることも、まことに神仏を敬い崇める道を明らかにし、苦しみの中にある民を救おうとするものにほかなりません。それでもいまだにお聞き届けをいただいておりません。この頃さらに不逞の輩が、みだりに詔旨を受けたと称して畿内近くを騒がせ、あちこちの神社仏閣の香火田や邑を強奪し、勝手に守護・地頭の職を入れ替え、また諸国に数多くの教書を頒布しておりますが、これを見ればいずれも盟約を強いる文言ばかりで、決して和親を求める言葉ではありません。これらがもし側近の者の勝手な仕業から出たものであれば、厳しく誅罰されるべきです。お手紙では天下統一の実現を期待するとありますが、そもそも先の天皇の盛んな勲業をもってしても、四方を統一するのにわずか三年とかかりませんでした。それでいて国中がひっくり返るほど乱れたことは、ご覧の通りです。そもそも武人や勇猛な兵卒というものは、もとより公家にへりくだり従い、卿相の奴隷や下僕となることを好みません。それなのに今日、彼らが心を入れ替えて服従を守り続けられるでしょうか。どうかお察しください。ただ速やかにこちらの求めをお聞き入れいただき、天皇が京へお戻りになり、すべて武家がこれまで行ってきた施策に従っていただければ、先の天皇の御子孫は皇位を永遠に保たれ、天下はおのずと太平となりましょう」(注:吉野事書案による。この件は源親房に勅した房玄法印記に記されている。親房がこの書状を作成したことについては、房玄記に明文はないが、今、前後の文書を考え合わせ、またその論旨が神皇正統記と符合することから、これを証とすることができる)。天皇は公卿にこの件を議論させたが、親房は強くこれを不可であると論じたため、沙汰止みとなった(注:房玄法印記による)。

尊氏は義詮を罷免し、再び直義に政務を執らせることとした(注:園太暦による)。しかし両者の内心は実際には和解していなかった。直義は再び権力を握ると、桃井直常・石塔義房らは功を誇り勢いを頼みとして、仁木(にき)・細川ら諸将と折り合わず、それぞれ党派を作って対立し、互いに軽んじ合った。当時、毎夜郊外で兵を整えている者があるとの噂が流れ、それぞれが危険を疑い合った。仁木頼章(にきよりあきら)・細川頼春らが領国へ逃げ帰ると、義房・直常は直義に言った。「仁木・細川らの一党は、将軍父子の意を受けて領国に戻り兵を挙げようとしています。赤松則祐(あかまつのりすけ)もまた吉野へ降り、表向きは従順を装いながら畿内近くで兵を集めており、これは実際には我らを謀ろうとしているのです。あなた様が何の備えもなく安穏としていれば、ひとたび事が起きたときにどう防げましょうか。あなた様はひとまず北国へお赴きになるべきです。現在味方している者としては、越前(えちぜん)には足羽(あすわ)氏、加賀(かが)には富樫(とがし)氏、能登(のと)には吉見(よしみ)氏、信濃(しなの)には諏訪部(すわべ)氏がおります。あなた様が檄を飛ばして兵を徴集し、木目(きのめ)・荒血(あらち)の険しい道を塞げば、たとえ百万の強敵であろうと国境を越えて入ることはできません。甲斐(かい)・越中(えっちゅう)は義房・直常の分国であり、領内は豊かで安定しておりますので、軍資を供給するのに十分です。これこそ万全の策です」。直義はこれに従い、その夜のうちに直常らわずか数人とともに出立した。兵士が次第に追いついてきて、敦賀(つるが)に着くころには兵の数は六万と称するほどになった。尊氏が兵を率いて攻めてきたので、直義は細川顕氏らの諸将を率いて近江(おうみ)に至り、八相山(はっそうざん)に陣を敷いた(注:太平記による)。佐々木定詮(ささきさだあきら)が城を挙げて降伏し、尊氏と山の麓で戦ったが勝てなかった。顕氏・畠山国清は直義に和議を勧め、直義はこれに従って再び尊氏と和した。直常は和議に強く反対した。顕氏・国清はその策が用いられなかったことに怒り、ついに尊氏に降り、従っていた兵も逃げ散った(注:天正本太平記・園太暦を参照して考証した)。直義は流浪して鎌倉に至り、遠江以東の者は皆これに応じた。尊氏はほどなく再び攻めてきて、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)が兵を率いて尊氏に呼応した。直義は桃井直常に命じて氏綱の後方の援路を断たせ、上杉憲顕(うえすぎのりあき)・石塔義房に尊氏を薩埵山(さったやま)で包囲させた。直義自身は伊豆(いず)の国府に陣を敷き、諸軍を統制した。義房らは「敵軍は兵糧が乏しく、長くは持ちこたえられない」と考え、そこで軍勢にみだりに出撃しないよう命じた。ところがまもなく氏綱が直常を大いに破り、勝ちに乗じて進撃してきた。将士たちは敵兵が日々集まってくると聞いて速戦を求めたが、義房はこれを許さなかった。にわかに氏綱の兵三万余が古宇津(こうづ)まで迫り、松明の火が数里にわたって連なった。義房は大いに恐れ、戦わずして逃げた。仁木義長(にきよしなが)が国府まで追撃してきたので、直義は支えきれず伊豆山(いずさん)へ逃げ込んだ。尊氏は書状を送って招き慰め、直義は出てきて降伏した。翌年、尊氏とともに鎌倉へ戻ったが、にわかに薨去した。享年四十七(注:四十七の数は、公卿補任にある貞和五年に直義が出家した際の年齢を四十四とする記述に基づく。常楽記・足利系図はいずれも四十五とし、尊卑分脈は四十六とする)。人々は皆、これを尊氏の意志によるものだと言った(注:太平記・足利系図による)。法名を古山大休寺(こざんだいきゅうじ)と称した(注:尊卑分脈・足利家伝・難太平記による)。十三年、後光厳院(ごこうごんいん)はその功績を追録して従二位を贈った。子があったが早くに亡くなり、家系は絶えた(注:園太暦・太平記による)。

足利直冬

足利直冬(あしかがただふゆ)は、尊氏の庶長子である(注:尊卑分脈・太平記による)。母の身分が低かったため尊氏に育てられず、幼くして東勝寺(とうしょうじ)に預けられた。正平の初め、ひそかに京へ出て尊氏に会うことを求めたが、長らくその願いはかなわず、僧玄慧(げんえ)の家に身を寄せて学問を受けた。玄慧は直冬をたいそう見込んで、叔父の直義にこのことを話した。直義はそこで直冬を召し出して試し、自分の家に住まわせ、たびたび尊氏に取り成しを願ったが、尊氏はまだこれを許さなかった。ちょうど紀伊(きい)で兵乱が起きたとき、尊氏は初めて父子の名乗りを許し、光明院に願い出て右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任じさせ、兵を率いて出陣させて乱を打ち破らせて帰らせた。当時の人々は直冬を次第に重んじるようになったが、尊氏の正妻である赤橋氏(あかはしうじ)はこれを深く憎み、ひそかに尊氏に讒言した。そのため尊氏は最後まで直冬を厚遇せず、仁木・細川一族と同様に扱った(注:太平記による)。直義はついに直冬を養子とした。ほどなく従四位下に進み、宮内大輔(くないのたいふ)となった(注:足利系図による。叙任の年月は考証できないため、ひとまずここに記す)。四年、直義が高師直を討とうとした際、尊氏に願い出て直冬を中国探題として送り出させ、ひそかに外部の後ろ盾とさせようとした(注:園太暦・太平記による)。直冬は備後(びんご)の鞆(とも)に赴いて留まり、政務の裁定は明快で、賞罰は公平だと評判であった。狡猾な者たちは姿をくらまして遠くへ逃げ、国人の多くが直冬に心を寄せた。この頃、師直は執事(しつじ)として天下の政務をもっぱら決裁していたが、その与奪はことごとく個人的な好悪から出るもので、ここに至ってその悪評はますます明らかになった(注:太平記による)。直義が挙兵しようとして使者を送り知らせてきた(注:園太暦による)。直冬はこれに応じようとしたが、師直は赤松則村に命じて備前(びぜん)・美作(みまさか)で行く手を遮らせ、さらに中国地方の将士に命じて直冬を討たせようとした。そこで杉原利孝(すぎはらとしたか、注:利孝の名は金勝院本太平記による)が二百騎を率いて鞆を襲撃した。折しも守備の兵が非常に少なく、直冬はほとんど捕らえられそうになった。配下の磯部左近(いそべさこん)らが矢を射てこれを防ぎ、直冬はかろうじて脱出して肥後(ひご)へ逃れた。宅磨守直(たくまもりなお)らが兵を率いて味方についた。師直はさらに尊氏の命令を偽って、西国の者たちに直冬を殺させようとしたが、人々は皆その偽りを見抜き、あえてこれに応じる者はいなかった。直冬は少弐頼尚(しょうによりひさ)の娘を妻に迎え、その家に身を寄せた。九州の諸国はこれに服従し、兵勢は大いに盛んになった。石見(いわみ)の三角某(みすみのなにがし)らも遠く呼応して声援を送り、天下は三つに分裂した。官軍を「宮方(みやかた)」、尊氏の軍を「将軍方(しょうぐんかた)」、直冬の軍を「右兵衛佐殿方(うひょうえのすけどのかた)」と称した。師直は尊氏に自ら直冬を討つよう勧めた。折しも直義が朝廷に帰順し、兵を率いて尊氏を討とうとしたため、尊氏は出陣できずに終わった。まもなく直義が尊氏によって討たれると、国人は皆直冬に背いた(注:園太暦による)。直冬は長門(ながと)へ逃れて豊田城(とよたじょう)に拠り、吉良満貞(きらみつさだ)・石塔頼房が朝廷に帰順したのに従った。西国の諸将もまた挙兵して直冬に呼応した(注:園太暦による)。八年、直冬は国人たちに追われて安芸(あき)・周防の間を流浪したが、ちょうど山名時氏(やまなときうじ)が京から但馬(たじま)へ戻り、直冬を大将として奉じることを朝廷に奏上した(注:太平記による)。朝廷は直冬を総追捕使に任じ、承久の乱以前の先例に倣って守護以下の任免を裁決させる詔を下した(注:園太暦による)。九年、山名時氏とともに京を回復するよう詔があった。足利高経・桃井直常はともに北国の兵を率いて味方についた。直冬は丹波(たんば)まで進み、その勢いは大いに盛んになった。尊氏は京を捨てて逃れた。翌年、直冬は東寺(とうじ)に入って拠点とし、尊氏は諸将とともに来て戦った。一月余りが過ぎ、直冬の軍は兵糧が日ごとに乏しくなったため、退いて男山に立てこもった。見た目の兵力は五万余りに及び、畿内近くの兵が集まるのを待って改めて尊氏と戦おうと図った。しかし諸将の議論はまとまらず、そこで石清水八幡宮に祈願したところ、神託は不吉であるとのことで、諸将はこれを聞いて逃げ散り、直冬はついに石見へ戻った。十七年、山名時氏が山陰(さんいん)・山陽(さんよう)を巡って、富田直貞(とみたなおさだ)に命じて宮信兼(みやのぶかね)を備後で攻めさせた。直冬は兵を率いて出陣しこれに応じた。宮内(みやうち)に陣を敷き、僧を遣わして信兼に言わせた。「天下回復の時機が来た。諸将が力を合わせているのに、あなただけはどうして味方しようとしないのか。今の世に頼りとするに足る者を考えれば、あなたに勝る者はいない。もし義に従って帰順するならば、所領没収以下の処分についても、その願いの通りにしよう」。信兼はこれを聞き入れず、子の氏信(うじのぶ)に命じて宮内を攻めさせ、直貞は敗走した。直冬の戦いはたびたび不利となり、そこで兵を引き上げた(注:太平記による)。応永七年、石見で没した(注:和漢合符・足利系図による)。法名を道昭(どうしょう)といい、慈恩寺(じおんじ)と号した(注:難太平記による)。子の冬氏(ふゆうじ)は兵衛佐となった(注:左右の別は不詳)。備後に住み、世に「中国武衛(ちゅうごくぶえい)」と呼ばれた。その子は出家して乾珍(けんちん)と名乗り、相国寺(しょうこくじ)に住んだ(注:足利系図による)。