卷之二百五 列傳第一百卅二

將軍家臣十五

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字
この巻の目次10
  1. 足利高經
  2. 足利義將
  3. 石橋和義
  4. 上杉憲顯
  5. 上杉重能
  6. 今川範國
  7. 今川範氏
  8. 今川貞世
  9. 今川範滿
  10. 今川賴貞

足利高經

足利高経(あしかが たかつね)は斯波(しば)とも称し、尊氏(たかうじ)と同族である。曾祖父の家氏(いえうじ)は宮内少輔(くないのしょう)で、泰氏(やすうじ)の長男、北条朝時(ほうじょう ともとき)の外孫にあたり、中務権大輔(なかつかさごんのたいふ)・尾張守(おわりのかみ)を務めた。祖父の宗家(むねいえ)は左近衛将監(さこんえのしょうげん)。父の家貞(いえさだ)は尾張二郎と称し、いずれも北条氏の血筋であった。高経は幼名を千鶴麻呂(せんつるまろ)といい、尾張孫三郎と称した。右馬頭(うまのかみ)を歴任し、従四位下に叙せられ、修理大夫(しゅりのだいぶ)に任じられて尾張守を兼ね(注:『尊卑分脈』による)、越前(えちぜん)の守護となった(注:『太平記』『斯波系図』による)。

建武二年(1335)、尊氏とともに反旗を翻し、朝廷軍が討伐に来ると尊氏は一時敗れた。高経は土岐頼遠(とき よりとお)らとともに竹下(たけのした)で朝廷軍を破り、進んで京都を陥落させた。延元元年(1336)、尊氏が再び帝の車駕を延暦寺に迫った際、高経は越前にあって朝廷軍の北陸路における兵糧輸送を扼していた。帝が京都へ還幸すると、新田義貞(にった よしさだ)は皇太子を奉じて金崎(かねがさき)へ移った。脇屋義助(わきや よしすけ)・新田義顕(にった よしあき)は瓜生保(うりゅう たもつ)を頼って杣山城(そまやまじょう)に身を寄せた。高経は尊氏の意を受けて保に降伏を勧め、これに応じて義助・義顕は金崎へ逃れた。高経は保を味方に組み入れ、高師泰(こう の もろやす)とともに金崎を包囲した。ところが保の弟の重家(しげいえ)らが脇屋義治(わきや よしはる)を擁して杣山で再び兵を挙げたため、保は尊氏に降ったことを悔い、陣を引き払って杣山へ逃げ帰った。高経はこれを追撃したが保に敗れて退き、再び師泰とともに金崎を包囲した。

翌年、城は陥落し、高経は火を放ってこれを焼いた(注:放火の事実は『島津文書』による)。部下の島津忠治(しまづ ただはる)は蕪木浦(かぶらぎうら)で皇太子を捕らえ、京都へ護送した。新田義貞・義助の軍が背後で再び挙兵したため、高経は越前国府に陣を戻し、三十余りの砦を連ねて防備を固めた。折しも厳冬で北陸は凍てつくように寒く、兵士は手がかじかんで大きな戦いに耐えられず、両軍は長く対峙して決着がつかなかった。

三年(1338)二月、雪が消えて諸方の道が通じ始めると、義助は軽騎兵を率いて要害を視察した。高経はこれを間諜によって知り、出羽守某らを遣わして包囲させた(注:『金勝院本』は細川孝基とし、義貞戦死の条では義続とするなど史料に矛盾があり、ここでは採らない)。義助は死に物狂いで戦い、細川某らは敗退した。義助の兵は鯖江(さばえ)の民家に火を放った。義貞はこれを望み見て兵を放って駆けつけ、高経は弟の家兼(いえかね、注:名は『尊卑分脈』による)とともに三千の兵を率いてこれに向かい、川を隔てて陣を敷いた。義貞の軍が川を渡って進むと、高経は精鋭を尽くしてこれに当たった。戦いが激しくなると、義貞の別働隊が高経の背後に回り込み、国府の建物をことごとく焼き払った。高経は驚いて逃げ、新善光寺城(しんぜんこうじじょう)に拠ろうとしたが、追撃の騎兵が急に迫って城に入ることができず、そのまま足羽(あすわ)へ走って黒丸城(くろまるじょう)に拠った。家兼は若狭(わかさ)へ逃れ、これを見た周辺の城々は次々と降伏した。

義貞は勝ちに乗じて足羽を攻めたが、高経は防戦してたびたび勝ちを収めた。義貞・義助はさらに大軍を発し、日を定めて必ず落とすと期した。当時、城の守兵はわずか三百であったので、高経は「衆寡敵せず、しかも諸方の道はすでに断たれ、城を捨てて逃げることもできない。今となっては死守するほかない」と言った。城主の朝倉広景(あさくら ひろかげ)は奮然として「仰せの通りです。戦うか守るかは方略次第であって、兵の寡ないことなど憂うるに足りません」と言った(注:『天正本太平記』による。広景の名は『朝倉系図』による)。そこで足羽と藤島(ふじしま)の間に七つの城を築き、いっそう守備を固めた。

これより先、平泉寺(へいせんじ)の僧徒は義助に属して三峯城(みつみねじょう)を守っていたが、このとき使者を送って「延暦寺とは長年、藤島荘(ふじしまのしょう)をめぐって争ってきました。今この地をお返しいただければ、我らは出兵して援軍といたします」と申し出た。高経は大いに喜んでこれを許す返書を送り、あわせて「事が成就した暁には別に厚く恩賞を与えよう」と言った。僧徒はこれを利として、健児五百人を選んで藤島を守らせた。義貞は兵を分けてこれを攻めたが利あらず、みずから軽騎兵を率いて救援に駆けつけた。すでに日も暮れていたので、高経は細川某・鹿草(かくさ)某に兵三百を率いさせて藤島の救援に向かわせた。その道中で義貞の軍に遭遇し、弓兵に楯で身を隠させて射させたところ、矢が義貞の額に当たった。義貞は自刃した。越中の氏家重国(うじいえ しげくに、注:異本では光範とする)がぬかるみの中からその首を探し出し、あわせて義貞が帯びていた双刀と小さな錦の袋を得て、高経のもとへ持ち帰った。高経は「義貞の顔によく似ている。以前、左の眉の上に矢傷の痕があったのを覚えている」と言い、血をかき分けて確かめると果たしてその通りであった。しかも袋の中には帝の直筆の詔があった。そこで重国に首を箱に納めさせて京都へ送り、遺骸は寺に葬った。

翌年、脇屋義助は畑時能(はた ときよし)を将として諸砦を攻めさせ、夜に乗じて黒丸城に至り、高所を占めて下方を射させ、後続の到着を待って城を落とそうとした。上木家光(うわぎ いえみつ)は高経に「先に彼らが地の利に暗かったからこそ、左中将(義貞)は敗死したのです。今は我が方の兵の多くが降り、彼らの道案内となっており、その上時能は勇猛で並ぶ者がなく、我が部下の誰がこれに敵しましょうか。城は孤立して援軍もなく、彼らと事を構えるのは得策ではありません。しばらく退いてその鋭鋒を避けるに越したことはありません」と進言した。皆もこれをもっともとした。そこでその夜のうちに五つの城を焼き払い、加賀(かが)へ逃れて富樫介(とがしのすけ、注:本書に名を欠く)を頼り、那谷城(なたじょう、注:『天正本』による)に拠った。ほどなく高師治(こう の もろはる)とともに七千余の兵を率いて時能を鷹巣城(たかのすじょう)に包囲した。昼夜にわたり数十度戦いを重ね、時能は矢に当たって死んだ。こうして朝廷軍はついに力尽き、北陸一帯はことごとく尊氏の手に帰した。これは実に高経の功によるものであった。

そもそも義貞が死んだとき、高経はその佩刀を手に入れた。世に鬼切(おにきり)・鬼丸(おにまる)と呼ばれ、源氏嫡流に伝わる名刀であった。尊氏が使者を送ってこれを求めたが、高経は惜しんで差し出さず、代わりに別の刀を焼き爛れさせて渡し、「先に長崎(ながさき)の寺に刀を納めておいたところ、火災に遭って焼けてしまいました。誰かがそのことを告げたのでしょう」と言った。尊氏は大いに怒り、そのために高経の功に恩賞を与えなかった。高経は日頃から不満を抱いて楽しまなかった。

やがて尊氏と弟の直義(ただよし)の間に不和が生じ、足利直冬(あしかが ただふゆ)が挙兵すると、高経はこれに応じ、神南(じんなん)や東寺の戦いに従軍した。まもなく直冬の軍は敗れて西へ走り(注:『太平記』による)、高経は越前へ帰り(注:『園太暦』による)、再挙を図った。ほどなく髪を剃り、道朝(どうちょう)と号した(注:『尊卑分脈』『太平記』による)。

正平(しょうへい)十六年(1361)、執事(しつじ)の細川清氏(ほそかわ きようじ)が朝廷に帰順して足利義詮(あしかが よしあきら)を攻めたが、利あらず敗れた。これより先、義詮はたびたび使者を送って厚礼をもって高経を招いていた。高経はついに子の氏頼(うじより)・義将(よしゆき)らを率いて降伏した(注:『太平記』による。『園太暦』は延元元年の出降とするが誤り)。義詮は清氏が朝廷方についたため、その代わりとなる人物を求めたが、これという人物がなかった。

これより先、氏頼は佐々木高氏(ささき たかうじ、道誉)の娘を娶っており、当時高氏は義詮に重んじられて威権並ぶ者なく、人々はみなその意向を伺って執事には氏頼をと推していた。義詮の意もそちらに傾いていたが、義将は高経の後妻の子で高経に鍾愛されており、高経は義将にその職を得させたいと望み、ひそかに氏頼の短所をあげつらってこれを退け、盛んに義将の人柄を褒めそやした。義詮はもともと決断力に乏しい性質で人の言うことを聞き入れやすく、ついに義将を執事とした。当時義将はまだ年若かったため、高経がその職務を代行した。世の人々は高経を老練の重鎮として、その威風を慕い聞いた。しかしその政は厳しく苛烈で、憚るところがなかった。

そもそも尊氏は諸国の守護に年ごとに軍賦(注:軍役として課す税)の五十分の一を納めさせていたが、高経はさらに命令を下してこれを二十分の一に増やしたため、諸将の信望を失った。当時ちょうど五条橋(注:『金川家本』は四条とする)を修築することになり、佐々木高氏に工事を監督させ、京都の家々ごとに銭を課してその費用に充てさせたが、期限を過ぎても完成しなかった。高経はわざと私財を出してこれに代わって造らせたところ、程なく完成した。高氏は大いに恥じ、常にこの恩に報いる方法を考えていた。

二十一年(1366)、高経は義詮の邸で酒宴を開き、あらかじめ諸将を招いたが、高氏もその一人であった。しかし当日になっても高氏は出向かず、代わりに多くの遊女・楽人を連れて大原野へ遊びに出かけ、料理も道具も贅を尽くし、都ではこれが評判の出来事として伝わった。高経はこれを聞いて恨みに思い、法によって陥れようとしたが機会が得られずにいた。当時高氏は二年にわたって軍賦を納めていなかったので、高経はその摂津守護職を罷免し、多田荘(ただのしょう)を削った。義詮は万里小路(までのこうじ)に別邸を建て、諸将にこれを助作させたが、高氏の娘婿である赤松則祐(あかまつ そくゆう)もこれに加わった。高経はさらにその工事の遅れを咎め、所領一か所を没収する罰を与えた。高氏は積もる不満を抑えきれず、則祐と謀って高経を除こうとし、ひそかに諸将と結んで、たびたび義詮に高経を讒言した。

義詮はその言を容れ、たちまち佐々木氏頼を近江へ遣わして兵を徴発させた。高経は義詮のもとに参じて「私は凡庸の身でありながら長く重責の座にあり、それゆえ誹謗中傷を受けることも実に多うございます。もし罪ありとして死を賜ろうとお思いなら、使者一人で事足りるはずで、どうしてにわかに諸国の兵を徴発するまでに至りましょうか。老いさらばえた私は、我が身を惜しむものではございません。どうか将軍にはいましばらく憐察を賜りますように」と述べ、声を震わせ涙を流した。義詮もまた長く泣いた。高経が立ち上がって退出しようとすると、義詮は膝を進めて「卿の言うことは私もよくわかっている。私もまた周囲に押されてすでにここまで事が至ってしまい、どうしようもないのだ。卿はしばらく国元へ下って、諸将の怒りを避けてくれ」と告げた。高経はそこで退出した。

ほどなく佐々木氏頼が兵を率いて京都に入ったため、高経もまた一族を集めて一戦を構えようとした。義詮は僧の覚済(かくさい、注:『北条家本』『南都本』『天正本』は覚を光に作り、等持寺の僧默庵(もくあん)を載せる)を遣わして再三これを諭させた。その夜のうちに、高経は子弟とともに騎兵三百を率いて越前へ馳せ帰った。義詮はやむを得ず厳重に兵を備えさせた。高経は家臣の二宮貞家(にのみや さだいえ、注:貞家の名は諸異本による)を残し、兵五百を率いて戦う構えを見せさせた。義詮方の兵が驚き乱れる中、貞家は高経がすでに遠く去ったと見計らって、火を放って逃げ去った(注:放火は『毛利家本』『天正本』による)。夜明けに長坂(ながさか)に至ると、追撃の騎兵はすでに坂の下まで迫っていた。貞家は馬に秣を与えて余裕あるさまを見せたので、敵は備えがあると悟って引き返した。

高経は越前に着くと杣山城に拠り、北陸を経略しようとした。義詮は畠山義深(はたけやま よしふか)ら七千余人を遣わしてこれを包囲させた。高経は籠城して一年余り持ちこたえたが、二十一年秋、包囲の中で急病に倒れて死んだ。

そもそも高経は長年守護を務めるうちに、国中の寺社の封戸(注:租税収入を割り当てられた戸)の半分を取り上げて家臣の所領に分け与え、あわせて東大寺の封戸である河口荘(かわぐちのしょう)まで奪い取った。僧徒は激しく怒り、春日大社の神木を奉じて上京し、高経の邸の前に据えてこれを訴えた。後光厳院(ごこうごんいん)は神木を長講堂(ちょうこうどう)に納めるよう詔したが、廷臣は高経の権勢を恐れて誰も物を言う者がなく、訴訟は三年にわたって決着がつかなかった。やがて怪異がしばしば現れ、世の人々はこれを恐れた。ほどなく高経の邸が火事に遭い、財産を焼き尽くした。高経は意に介する様子もなく、焼けるたびに建て直し、規模は以前の倍にもなった。それから間もなく禍に遭ったので、人々はこれを神罰であると噂した(注:『太平記』による)。

高経には五人の子がおり、家長(いえなが)・氏経(うじつね)・氏頼(うじより)・義将(よしゆき)・義種(よしたね)という。家長は孫次郎(まごじろう、注:『太平記』は次郎を三郎に作る)と称し、従五位下に叙せられ(注:『尊卑分脈』による)、陸奥守(むつのかみ)となった。延元二年(1337)、中納言源顕家(なかごんごん みなもとのあきいえ、北畠顕家)を鎌倉の杉本(すぎもと)で迎え撃ち、勝てずに戦死した(注:『尊卑分脈』『太平記』『常楽記』『保暦間記』を参照。『分脈』の一説では延元三年とするが誤り)。

氏経は民部少輔(みんぶのしょう)・左京大夫(さきょうのだいぶ)となった(注:『尊卑分脈』による)。正平七年(1352)、筑紫探題(つくしたんだい)となって豊後(ぶんご)に着任したところ、菊池武光(きくち たけみつ)が攻めてきた。氏経は子の松王丸(まつおうまる)に少弐頼尚(しょうに よりひさ)ら七千人を率いさせ、長者原(ちょうじゃばる)で迎え撃たせたが敗れて退いた。氏経は高崎城(たかさきじょう)に退いて拠ったが、これも武光に包囲され、一年余りも解けなかった。氏経は脱出して京都へ帰り、髪を剃って僧となったが、その後の消息は知れない。そもそも氏経が任地へ赴く際、兵庫(ひょうご)で船を並べて出立の準備をしたとき、どの船にも遊女を乗せていたので、目の利く者はこれを見て必ず敗れるだろうと知っていたという(注:『太平記』による)。

氏頼は従五位下に叙せられ、左衛門佐(さえもんのすけ)となった(注:『尊卑分脈』による)。弟の義将が執事になると、氏頼は不満を抱いて楽しまず、髪を剃って出家し(注:『太平記』による)、信琪庵主(しんきあんしゅ)と号した(注:『斯波系図』による)。義種は伊予守(いよのかみ)となった(注:『尊卑分脈』による)。

足利義將

足利義将(あしかが よしゆき)は和歌を得意とし(注:『印本尊卑分脈』による。足利義将は斯波義将とも書く)、高経はこれを愛した(注:『太平記』による)。正平十七年(1362)、細川清氏に代わって執事となった(注:『太平記』『尊卑分脈』による)。まもなく高経に従って越前へ走り、栗屋城(くりやじょう)に拠った。高経が死ぬと義将は降伏を願い出て、足利義詮はこれを許した。この年、義詮が薨じて義満(よしみつ)が跡を継ぎ(注:『太平記』による)、初めて執事の名を管領(かんれい)と改めた。義将は管領を罷めた(注:『印本尊卑分脈』による)。

建徳元年(1370)、桃井直常(もものい ただつね)がその子直和(ただかず)を遣わして越中の長沢(ながさわ)に出兵させると、義将は本国の守護として富樫(とがし)某とともにこれを撃ち、直和を斬った(注:『花営三代記』による)。翌年、直常が再び越中で挙兵すると、義将はさらに能登(のと)の兵を併せてこれを撃破した(注:『花営三代記』による。『太平記』を参照。ただし『太平記』が直常を破った功によって守護になったとするのは誤り)。

天授五年(1379)、再び管領となり(注:『尊卑分脈』『花営三代記』による)、元中八年(1391)に罷めた(注:『尊卑分脈』『東寺長者補任』による)。明徳四年(1393)、また管領となり、応永五年(1398)に罷めた(注:『尊卑分脈』による)。常に義満のそばに仕え、事に応じて教え導き、益するところが多かった。義満がかつて犬追物(いぬおうもの)を見て「この武芸は決して廃してはならないが、馬の轡が外れるような不慮の事故が心配だ」と言うと、義将は「並みの人が傷つけば災いは一身にとどまりますが、殿がお傷つきになれば災いは天下に及びます」と答えた。

あるとき罪人があり、義満がその家を取り壊そうとしたので、義将は落ち着いて「昔から罪人の邸は取り壊さないものです」と言った。義満が「どうしてそれを知っているのか」と問うと、義将は「昔、平康頼(たいらの やすより)が流罪の地から召し返されたとき、『故郷の(ふるさとの)、軒の板間に(のきのいたまに)、苔生して(こけむして)、思ひしほけば(おもひしおけば)、漏らぬつき哉(もらぬつきかな)』という歌を詠みました。これによって見れば、昔から罪を処するにあたって家を取り壊すことはしなかったのです」と答えた。義満はいずれもこれを聞き入れた(注:『臥雲日件録』による)。

義将は左衛門佐・治部大輔(じぶのたいふ)に任じられ、昇殿を許された(注:『尊卑分脈』『斯波系図』による)。越前・越中・能登・信濃(しなの)・佐渡(さど)・若狭(わかさ)などの守護となった。髪を剃って道将(どうしょう)と名を改め、雪渓(せっけい)と号し、世に勘解由小路(かでのこうじ)と称された(注:『斯波系図』による)。

十五年(1408)、義満が薨じ、太上法皇(だいじょうほうおう)の位を追贈する勅があったが、義将は臣下の身で法皇にまで贈位されるのは昔から例のないことだとして、義持(よしもち)にこれを辞退するよう勧めた(注:『東寺修行日記』による)。十七年(1410)、義将は卒し(注:『斯波系図』による)、法華寺(ほっけじ)と称された(注:『印本尊卑分脈』『臥雲日件録』による)。

子の義重(よししげ)は初め義教(よしのり、注:『分脈』は教を孝に作る)といい、治部大輔・右兵衛督(うひょうえのかみ)を歴任した(注:『尊卑分脈』『斯波系図』による)。応永十二年(1405)、管領職を継いだ(注:『印本尊卑分脈』による)。世に斯波・細川・畠山を三管領(さんかんれい)と称した(注:『文禄清談』『土崎家聞書』を参照)。

石橋和義

石橋和義(いしばし かずよし)は初め氏義(うじよし)といい、尾張三郎と称し、足利高経とは従祖兄弟(いとこ違い)にあたる。祖父の義利(よしとし)は広沢太郎と称し、父の義博(よしひろ)は吉田三郎と称した。和義は従五位下左近衛将監・左衛門佐・参河守(みかわのかみ)を歴任した(注:『尊卑分脈』による)。

足利尊氏に従って挙兵し、京都を攻めた。尊氏が筑紫(つくし)へ落ち延びる際、朝廷軍に追撃されることを恐れ、和義を備前(びぜん)にとどめた(注:本書は尾張氏頼とする本もある)。和義は田井(たい)・飽浦(あくら)・松田(まつだ)・内藤(ないとう)・福林寺(ふくりんじ)の諸氏とともに三石城(みついしじょう)に拠り、甲斐川(かいがわ)に砦を築き、船坂(ふなさか)・杉坂(すぎさか)の隘路を塞いで水陸の交通を扼した。

新田義貞が兵を率いて西征し播磨(はりま)に至ると、弟の脇屋義助を遣わして船坂を攻めさせたが進むことができなかった。折しも児島高徳(こじま たかのり)が義貞に応じて熊山(くまやま)で挙兵し、「前後から船坂を攻めよう」と約束した。和義は敵が国内で挙兵したことを大いに恐れ、三石・船坂の守兵のうち三千を分けて熊山を攻めさせた。脇屋義助の軍は間道を通って三石駅の西へ出た。船坂の兵は不意に敵が現れたのを見て、自軍が熊山から戻ってきたものと思い込み、備えを解いていた。義助の軍は火を放って鬨の声をあげ、船坂の兵は支えきれずに武具を捨て、山伝いに逃げ散った。和義は救援に出ることができなかった。義助はすでに船坂の要害を奪い、江田行義(えだ ゆきよし)を美作(みまさか)へ、大非田氏経(おおひだ うじつね)を備中(びっちゅう)へ遣わして諸城を攻めさせ、自らは残って三石城を攻めた。和義らは十日あまり持ちこたえたが、朝廷軍も兵糧が乏しく勢いが衰え、諸城を落とすことができなかった。

赤松則祐が筑紫に至って尊氏に速やかな出兵を勧めた。尊氏は兵を率いて東上したので、義助は包囲を解いて去り、和義は尊氏に従って京都に入った。高師直(こう の もろなお)が足利直義を除こうと謀ったとき、和義は子の宣義(のぶよし)や足利高経らとともに兵を率いて直義の弟を警護した。やがて尊氏と直義が和睦すると、和義は以前直義に与していたことから尊氏に罪を得ることを恐れ、髪を剃って心勝(しんしょう)と名を改め、自ら禍を解こうとした(注:『太平記』による)。

正平十六年(1361)、足利義詮は和義に若狭守護を授けた(注:『若州守護次第』による)。今富荘(いまとみのしょう)を所領として与えた(注:『今富荘守護領主次第』による)。翌年、山名時氏(やまな ときうじ)がその将小林重長(こばやし しげなが)を遣わして丹波(たんば)を侵略させると、守護の仁木義尹(にき よしただ)は和久(わく)に陣を敷いてこれを拒んだ。義詮は和義と遠江(とおとうみ)守護の今川貞世(いまがわ さだよ)らを遣わして出兵し援護させた。重長の兵勢はなかなか強く、和義らはこれを苦手とした。篠村(しのむら)に至って陣営の柵を築き、たやすくは進まなかった。重長は兵糧が尽きて自ら退き、和義らもそのまま兵を引き上げた(注:『太平記』による)。和義がその後どうなったかは伝わっていない。

子の棟義(むねよし)は陸奥守、義幸(よしゆき)は宮内少輔となった(注:『尊卑分脈』による)。宣義は治部大輔となった(注:『太平記』による)。

上杉憲顯

上杉憲顕(うえすぎ のりあき)は内大臣藤原高藤(ふじわらの たかふじ)の子孫である。高祖父の清房(きよふさ)は承久(じょうきゅう)の乱の際、髪を剃って隠岐(おき)の後鳥羽帝(ごとばてい)に仕えた(注:『尊卑分脈』『上杉家譜』による)。曾祖父の重房(しげふさ)は修理大夫となり、宗尊親王(むねたかしんのう)に従って鎌倉に住み、初めて丹波(たんば)の上杉荘(うえすぎのしょう)を領してこれを氏とした(注:『上杉家譜』による)。父の忠房(ただふさ)は兵庫頭(ひょうごのかみ、注:頭は助とする本もある)に任じられ、髪を剃って道欽(どうきん、注:欽は勤とする本もある)と号した。

足利尊氏は上杉氏の血を引き、憲房(のりふさ)の甥にあたるため、最も信頼され重んじられていた(注:『尊卑分脈』『上杉家譜』『難太平記』を参照)。尊氏が朝廷に帰順するにあたっては、まず憲房を引き入れて相談し、憲房はこれに賛成して尊氏に従い西上した。道中三河(みかわ)を通る際、尊氏はさらに憲房を吉良貞義(きら さだよし)のもとへ遣わして相談させた。貞義もまたこの事を大いに勧めたので、尊氏は初めて諸将を召してその策を告げ(注:『難太平記』による)、ついに北条氏を討ち滅ぼした。尊氏はその功を大いに賞し、上野(こうずけ)守護を授けた(注:『梅松論』による)。

朝廷軍が東国へ下ってくると、憲房は細川和氏(ほそかわ かずうじ)らとともに足利直義にこれを迎え撃つよう勧め、さらに尊氏に従って京都へ入り(注:『太平記』による)、四条河原(しじょうがわら)の戦いに臨んだ。あらかじめ密議に加わっていたため力戦して討ち死にした(注:『難太平記』による。『上杉家譜』を参照)。

憲顕は従五位上に叙せられ、民部大輔となり(注:『尊卑分脈』による)、兄の重能(しげよし)とともに直義に従い、手越河原(てごしがわら)で朝廷軍を拒み、さらに尊氏に従って京都に入った(注:『太平記』による)。尊氏が筑紫へ落ち延びる際、途中で憲顕を石見(いわみ)へ遣わした(注:『異本太平記』による)。まもなく尊氏が再挙して京都を攻めると、憲顕は石見の兵を率いて進み、備後(びんご)で合流し、京都入りに従った。

鎮守府大将軍源顕家(北畠顕家)が鎌倉を攻めると、憲顕は細川和氏らとともに利根川(とねがわ)で防戦したが敗れて退いた。顕家はさらに北条時行(ほうじょう ときゆき)・新田義興(にった よしおき)と兵を合わせて進撃した。憲顕らはまた敗れ、義詮を擁して逃げ出した。顕家・義興らが西上すると、憲顕は相模(さがみ)に身を潜め、武蔵(むさし)・上野の兵を召集し、諸将とともに追って美濃(みの)の青野原(あおのがはら)に至り、義興および宇都宮公綱(うつのみや きんつな)と遭遇して死力を尽くして戦ったが、衆寡敵せずついに敗走した(注:『太平記』による)。

正平四年(1349)、足利基氏(あしかが もとうじ)が東国管領となり、憲顕は高師冬(こう の もろふゆ)とともに執事としてこれを補佐した(注:『太平記』による。正平四年は『喜連川系図』による)。上野・越後(えちご)・伊豆(いず)の守護に任じられた(注:『上杉家譜』による)。

そもそも重能は高師直に殺されたため、憲顕らはこれを深く恨みに思っていた。足利直義が朝廷に帰順して師直兄弟を誅そうとした際、憲顕の子の能憲(よしのり)は父に代わって上野にあり(注:本書は能憲を憲顕の養子とするが、ここでは『上杉家譜』『喜連川系図』によって訂正する)、遠く直義に呼応して鎌倉を攻めようとした。憲顕はこれを聞き、能憲を討つと偽って兵を率いて上野へ馳せつけ、これと合流し、転じて武蔵に進むと、東国の兵士で味方に馳せ参じる者が非常に多かった。高師冬は基氏を擁して迎え撃ったが、途中で軍中に変事が起こり、師冬は敗死した。

翌年、憲顕は京都に入り、直義に従って北へ走り、転じて鎌倉に至った。尊氏が自ら来て攻め、薩埵山(さったやま)に陣を敷いた。直義は憲顕および石塔義房(いしどう よしふさ)・石塔頼房(いしどう よりふさ)を遣わし、大軍を率いて道を分けて進ませ、薩埵山を包囲させた。当時尊氏の兵勢は甚だ弱く、憲顕らはこれを侮って幾重にも包囲を固め、自滅するのを待った。将兵の中に戦いを求める者がいたが、これを許さなかった。ところがまもなく尊氏方の援軍が次々に到着し、憲顕は大いに恐れて信濃(しなの)へ逃げ、諸将も潰走したので、直義はこれによってついに敗滅した。

折しも新田義宗(にった よしむね)が宗良親王(むねながしんのう)を奉じて笛吹峠(ふえふきとうげ)に拠ったので、憲顕は兵を率いてこれに合流し、従って尊氏と戦ったが利あらず敗れた。憲顕の勇猛な兵卒に長尾弾正(ながお だんじょう)・根津小次郎(ねづ こじろう)という者があり、ともに尊氏を刺し殺そうと謀った。弾正は髪を振り乱し、小次郎は顔に傷を負わせ、それぞれ討ち取った首を刀の切っ先に掲げて尊氏方の兵士を装い、深くその軍中に入り込んだ。誰何する者があると、「新田氏の首級を得たので、将軍に献上するところだ」と答え、尊氏まで距離わずか十数歩に迫った。尊氏方の兵がこれに気づいて取り囲むと、二人は事が成らないと悟り、刀を振るって斬りまくり、触れるものはことごとく砕け散った。ついに包囲を突破して退いた。

憲顕は再び信濃へ帰った。当時帝が男山(おとこやま)に御出になったので、憲顕は詔を奉じて新田義宗に従い援軍に赴いたが、道中で男山がすでに陥落したと聞いて引き返した(注:『太平記』による)。

足利基氏は憲顕の旧功を深く思い、その罪を許して再び越後守護を授けた(注:『喜連川系図』では、憲顕が自ら鎌倉に至って罪に服し、髪を剃って名を改め、基氏が再び越後守を授けたとする)。旧守護の芳賀禅可(はが ぜんか)はこれに代わることを拒み、兵を発して憲顕を攻めた。憲顕はこれと数か月戦ってこれを大破し、禅可はかろうじて一命を取りとめた。ほどなく基氏は憲顕を執事に任じた。禅可は再び出兵して板鼻(いたはな)でこれを迎え撃とうとしたが、基氏はこれを聞くと自ら禅可を攻めて滅ぼした。憲顕は道を開いて基氏の軍に馳せ参じ、ともに鎌倉へ帰った(注:『太平記』による。『喜連川系図』を参照)。

基氏が死ぬと、その子の氏満(うじみつ)が管領となり、憲顕は以前と同じく執事を務めた。当時氏満はまだ幼く、近隣諸郡の兵で背く者が多かったが、憲顕は氏満を奉じてこれを撃ち平定した(注:『喜連川系図』による)。正平二十三年(1368)、憲顕は死んだ。時に年六十三。憲顕はかつて伊豆に国清寺(こくしょうじ)を創建したことから、世に憲顕を国清寺と号した(注:畠山国清(はたけやま くにきよ)もまた基氏の執事で伊豆守護を管掌していた。とすればこの寺はあるいは国清が創建し、憲顕もまたここに葬られたことから、そのままその法号を襲ったものであろうか。今は考証する材料がないので、ひとまずここに記しておく)。

憲顕には七人の子があり、憲将(のりゆき)・憲賢(のりかた、注:賢は堅とする本もある)・能憲(よしのり、注:『尊卑分脈』は憲顕の弟の行子の子とする)・憲春(のりはる)・憲英(のりひで)・憲方(のりかた)・憲栄(のりよし)という。憲将は兵庫助(ひょうごのすけ)に任じられた。憲賢は越後次郎と称し、早くに死んだ。能憲は伯父の重能の養子となった。

憲春は刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)に任じられ(注:『上杉家譜』による)、足利氏満に仕えて執事となった(注:『上杉家譜』『喜連川系図』による)。氏満が謀反の意を抱いた際、憲春を召して相談したところ、憲春は強く諫めたが聞き入れられず、家に帰って諫書をしたためた。その言葉は懇切を極め、書き上げると自害した。氏満はこれを見て驚き悔い、その計画を取りやめた。しかしこの事はかなり漏れ聞こえていたため、氏満は義満に書を送って別意のないことを告げ、事はこれによって解決した。これは憲春の功であった(注:『鎌倉大草子』による。『上杉家譜』『喜連川系図』では、憲春はひそかに義満の意を受けてこれを諫め止めたとする)。

憲英は初め憲定(のりさだ)といい、兵部大輔・蔵人(くろうど)を歴任し、陸奥守となった。憲方は右京亮(うきょうのすけ)となり、安房守(あわのかみ)に任じられた。憲春が死ぬと執事となった。憲栄の家は葛見(くずみ)と称し、右近衛将監となり、兄の憲賢の跡を継いで越後守に任じられ、足利義満に仕え、最後は僧となって世を終えた(注:『上杉家譜』による。『喜連川系図』を参照)。

上杉重能

上杉重能(うえすぎ しげよし)は本姓を宮津氏(みやづし)といい、憲房の甥である。父は道宏(どうこう、注:宏は兎とする本もある)といい、勧修寺(かんじゅじ)の別当を務めた。重能は幼くして憲房の養子となり(注:『上杉家譜』による)、伊豆守に任じられた(注:『上杉家譜』『太平記』による)。

元弘(げんこう)の乱で北条高時(ほうじょう たかとき)が足利尊氏を遣わして京都を攻めさせたが、尊氏はひそかに朝廷への帰順を謀っていた。軍が鏡駅(かがみのえき)に着いたとき、重能は細川和氏とともに帝から賜った詔書を尊氏に示してこれに賛成させた。その後朝廷が新田義貞を遣わして尊氏を討たせようとし、尊氏は建長寺(けんちょうじ)に逃げ込んで出家しようとした。重能はひそかに足利直義と謀り、帝が尊氏を討てという詔書を偽作してその叛意を煽り立てた。この事の詳細は「尊氏伝」に記した。ついに尊氏に従って京都に入り、兵を率いて出雲路(いずもじ)で朝廷軍を防いだが利あらず退き、そのまま尊氏に従って西へ落ちた(注:『太平記』による)。

尊氏が再び兵を挙げて京都を攻めようとした際、室津(むろつ)に着いて風待ちをした。当時直義はすでに陸路を進んでおり、軍期は非常に切迫していた。ある夜、雨を伴った西風が吹いてきたので、尊氏はこれを都合がよいと喜んだ。出航しようとしたが、皆はなお難色を示した。そこで船頭たちを呼んで問うと、皆「月が出れば風向きが変わるでしょう」と言った。重能の船に孫七(まごしち)という老練の船頭がおり、「この風はまことに喜ばしいものです。月が出れば雨は止み、風勢はますます順調になりましょう。多少強く急でも案じるには及びません。錨を上げるべきです」と言った。尊氏はその言葉を大いに喜び、彼に左衛門尉(さえもんのじょう)を授け、ただちに纜(ともづな)を解かせたところ、果たしてその見立て通りになった(注:『梅松論』による)。

尊氏が京都に入って東寺(とうじ)に拠ると、義貞が攻めてきて尊氏を呼び出し戦いを求めた。尊氏が出てこれに応じようとすると、重能は袖を引いて「義貞は孤軍深く攻め入ってきているだけで、一時の功を挙げようとしているにすぎません。将軍たる者が自らその身を軽んじてよいものでしょうか」と諫めた。尊氏はこれをもっともとして出るのをやめた。

重能は日頃から畠山直宗(はたけやま なおむね)と親しく、高師直兄弟が権力を専らにするのを憎み、これに代わって政務を執ろうと図り、ひそかに僧の妙喆(みょうてつ)を遣わして直義に師直を除くよう勧めさせた。直義はその言葉を容れ、ついに師直を誅する計画を定めた。しかし事は失敗に終わり、尊氏は重能・直宗を越前へ流して師直に謝した。師直は八木光勝(やぎ みつかつ)なる者を遣わして重能を誘い出させ、これを殺させた(注:『太平記』による)。

重能には二子があり、顕能(あきよし)・能憲という。顕能は修理亮(しゅりのすけ)・民部大輔を歴任した(注:『上杉家譜』による)。尊氏と直義が和睦した際、師直・師泰が従って京都へ帰ろうとした(注:『園太暦』『太平記』『喜連川系図』による)。顕能は父の仇であるとして、道中でこれを待ち伏せて殺そうとした。尊氏は大いに怒りこれを誅そうとしたが、直義が救いを求めたため死罪を免れて流罪となった(注:『園太暦』による)。

能憲は憲顕の子であるが(注:『上杉家譜』による)、重能がこれを養って子とした(注:『上杉家譜』による。『太平記』は憲顕の養子とするが、ここでは採らない)。家は宅間(たくま)と称した(注:『上杉家譜』による)。蔵人・左衛門尉(注:『太平記』による)、兵部少輔(注:『上杉家譜』『喜連川系図』による)となった。重能が死ぬと、能憲は復讐を志した(注:『上杉家譜』による)。足利直義が朝廷に帰順すると、能憲はこれに応じた。高師冬が攻めてきて能憲の軍は潰れたが、諏訪隆種(すわ たかたね)が能憲に応じて師冬を撃ち殺した(注:『太平記』による)。憲顕が死ぬと、足利義満は能憲・朝房(とももさ)をともに執事とし、子孫は皆その職を世襲したので、両上杉(りょううえすぎ)と称された(注:『喜連川系図』『上杉家譜』『鎌倉大草子』による)。

今川範國

今川範国(いまがわ のりくに、注:『尊卑分脈』は国範に作る)は五郎と称し、足利尊氏の一族である。祖父を国氏(くにうじ)といい、足利尊氏の甥にあたる(注:『尊卑分脈』『今川家譜』『難太平記』を参照。尊氏の一族とする点は『分脈』による)。三河(みかわ)の今川荘(いまがわのしょう)を領してこれを氏とした(注:『難太平記』による)。国氏は基氏(もとうじ)を生み、これが範国の父である(注:『尊卑分脈』『今川家譜』による)。

基氏はかつて「子どもたちの中で我が家のことを総領できるのは、必ず松丸(まつまる)であろう」と言った。松丸とは範国の幼名である。兄の頼国(よりくに)が早くに死んだので、範国が跡を継いだ。嘉暦(かりゃく)年間、髪を剃って法名を心省(しんしょう)といった(注:『難太平記』による)。尊氏は範国を遠江(とおとうみ)守護とした(注:『常楽記』による)。

延元元年(1336)秋、尊氏が東寺に陣を敷いたとき、朝廷軍がその兵糧輸送路を断ったため、軍中の食糧が日ごとに乏しくなった。範国は阿弥陀峰(あみだがみね)で朝廷軍と戦ってこれを破った。ついで仁木義長(にき よしなが)とともに四宮河原(しのみやがわら)で朝廷軍を防いだ。

三年(1338)春、桃井直常らとともに鎮守府大将軍源顕家を青野原で撃った。直常が敢闘したのに続いて範国もさらに進み撃ち、自ら数人を斬り、退いて杭瀬(くいせ)の民家で休んだ。折しも風雨の夜で暗く、範国の部下は朝廷軍の来襲を恐れて吉良満義(きら みつよし)の黒地川(くろじがわ)の陣営に入るよう勧めたが、範国はこれを許さなかった。米倉(よねくら)某が火を放って民家を焼いたため、範国はやむなくその場を去った。

尊氏はその功を賞し、範国を駿河(するが)守護とし、あわせて数十か所の采邑(領地)を与えた。当時範国は赤鳥(あかとり)を笠印(かさじるし)としていたが、この戦いで勝利を得たことから神の助けによるものと考え、以後子孫にもこれを用いさせた(注:『難太平記』による)。

正平年間、高師直に従って楠正行(くすのき まさつら)を四条畷(しじょうなわて)で破り、また尊氏に従って足利直義を薩埵山で撃った(注:『太平記』による)。元中元年(1384)、死んだ。時に年九十(注:『常楽記』による)。

そもそも足利直義が手越河原で敗れた際、細川定禅(ほそかわ じょうぜん)は直義に討ち死にを勧めたが、範国は固く諫めてこれを避けさせた(注:『難太平記』による)。その後直義は朝廷軍と豊島河原(てしまがわら)で戦って敗れ(注:『太平記』による)、尊氏に従って兵庫へ逃れ、仏堂に入って自殺しようとした。範国はこれを諫め、定禅も強く反対したので、直義は船に乗って筑紫へ向かった。直義は範国・定禅が自分を救ってくれたことに感謝したが、二人の証言が前後で食い違っていることを人々は不審に思った(注:『難太平記』による)。

範国には四人の子があり、範氏(のりうじ)・貞世(さだよ)・氏兼(うじかね)・仲秋(なかあき)という。氏兼はのちに直世(なおよ)と改め、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)・越後守となった(注:『尊卑分脈』による。直世と改めたことは『印本』による)。

今川範氏

今川範氏(いまがわ のりうじ)は中務大輔・上総介(かずさのすけ)を歴任した(注:『尊卑分脈』による)。尊氏が直義を撃った際、近江(おうみ)および薩埵山の戦いに従軍して功があった(注:『天正本太平記』による)。のちに足利義詮に従って吉野を攻め、佐々木氏頼らとともに平石城(ひらいしじょう)を陥落させた(注:『太平記』による)。

子の泰範(やすのり)は上総介となり、駿河の半国を領した(注:『難太平記』による)。山名氏清(やまな うじきよ)が足利義満に叛いた際、義満は泰範および佐々木満高(ささき みつたか)を遣わして東寺でこれを防がせた(注:『明徳記』による)。

今川貞世

今川貞世(いまがわ さだよ)は左京亮・伊予守となり(注:『金川家譜』『太平記』『花営三代記』『応永記』による)、正四位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による)。足利義詮から遠江守護を授かり、正平十四年(1359)、義詮に従って吉野を攻めた(注:『太平記』による)。

まもなく細川清氏に従い、東寺で朝廷軍を防ぎ、戦うたびに勝ってこれを破った。この出陣に際し、清氏は貞世を招いて同行させ、功があった。清氏は貞世が帰国した後にその恩賞について語ろうと約束し、貞世も深く清氏と結びついていた。のちに貞世が遠江の笠原(かさはら)・浜松(はままつ)の二荘を求めたところ、清氏はこれを承知せず、かえって自らこれを申し出て領有してしまったので、貞世は憤って遠江へ帰った。

義詮が清氏の謀反を疑った際、貞世が日頃から清氏と親しかったことから、貞世もその一党であろうと見なした。当時清氏はたびたび貞世の弟の直世を招いて、これを通じて弁明しようとした。直世が行くのを承知しなかったため、清氏は「貞世さえいてくれれば、私にこのような無実の罪を負わせはしなかっただろうに」と嘆いた。範国はこれを聞いて義詮に「私の倅の貞世は彼(清氏)と親しい間柄です。急ぎ貞世を召し出し、彼のもとへ差し向けて事を謀らせ、その機に刺し殺させれば、事態が大事に至ることはないでしょう」と説いた。義詮はこれに従い、使者を遣わして貞世を召し出した。その途上で清氏がすでに若狭へ逃げたと聞き、そのまま京都へ進んだ。義詮はこれを喜んだ(注:『難太平記』による)。

十六年(1361)、清氏が朝廷に帰順して楠正儀(くすのき まさのり)らとともに京都に迫ってきた。佐々木高秀(ささき たかひで)は五百騎を率いて忍常寺(にんじょうじ)で迎え撃った。貞世は三河・遠江の兵七百余を率いて山崎(やまざき)に陣を敷いた。清氏が忍常寺に至ると、高秀は戦わずして潰走した。清氏らは機に乗じて進み、貞世は支えきれないと判断して鳥羽(とば)の秋山(あきやま)に退陣し、他の軍もこれを見て敗走した。清氏らは京都に進み入り、義詮はついに近江へ逃れた。ほどなく貞世は再び義詮に従って京都を攻め、これを取り戻した(注:『太平記』による)。のちに髪を剃って了俊(りょうしゅん)と号した(注:『尊卑分脈』『難太平記』による)。

建徳二年(1371)、足利義満は貞世を鎮西探題(ちんぜいたんだい)とした(注:『尊卑分脈』『応永記』による。建徳二年は『吉川家伝』による)。菊池武光を撃とうとしたが、兵が少なく進むことができなかった。義満は大内義弘(おおうち よしひろ)・吉川経見(きっかわ つねみ)に命じて援護させた(注:『応永記』『吉川家伝』を参照)。ともに肥後(ひご)まで進み、武政(たけまさ)と水島(みずしま)で戦ったが利あらず、さらに大友親世(おおとも ちかよ)・大内義弘らとともに数千の兵を率いて菊池武朝(きくち たけとも)を攻めた。詫間原(たくまばる)で大いに戦い、死傷者は非常に多かった。折しも将軍宮(しょうぐんのみや、注:名を欠く)の軍が不意に到着し、貞世は敗れて退いた(注:『菊池武朝申状』による)。

天授元年(1375)、少弐冬資(しょうに ふゆすけ)と肥後で戦い、これを斬った(注:『花営三代記』による)。当時諸島の無頼の民が鎮西の混乱に乗じてしばしば高麗(こうらい)を侵していた。高麗は使者を遣わして侵掠の禁止を求めてきた。貞世は僧の信弘(しんこう)を遣わして「逃亡してならず者となった徒輩は、多くが我が命令に従いません。にわかに禁ずるのは容易ではありません」と回答した。

高麗はさらに大司成(だいしせい)の鄭夢周(てい むしゅう)を遣わし、古今にわたる隣国交際の利害を極めて詳しく述べさせた。貞世はこれを厚くもてなし、島の民に捕らえられていた尹明(いん めい)・安遇世(あん ぐうせい)ら数百人を送り返させ、あわせて侵掠を禁じた。夢周はさらに書を贈り、高麗の国民で奴隷とされている者を贖い出すよう求めたが、その言葉は懇切を極めていた。貞世はさらに百余人を送り返させた(注:『東国通鑑』による)。

また鎮西統治の便宜を図って条例を作り、これを上申した。義満は返書してその実施を許した。

そもそも大内義弘は貞世に従って京都から帰る途中、ひそかに貞世に説いて「私が今の政治を見るに、弱い者は罪がなくても動けば咎めを受け、強い者は法を犯しても放置されて問われません。公のように尊く盛んな身であれば、実に用心すべきことです。しかしひとたび躓けば、必ず当世の物笑いの種となりましょう。よい策を立てておくべきです。今の大友氏は九州の豪族で、公の恩を受けること久しいものがあります。もし公が事を起こそうとすれば、彼は必ず力を貸すでしょう。その後、中国・九州の地に従わせて連携し盤石を築けば、将軍も兵を加えて罪を問うことはできますまい。身を全うする策として、これに勝るものはありません」と述べた。貞世はこれに従わず、こう諭した。「私の弟の仲秋はすでに兄(義弘)と姻戚のよしみを結んでいる。困窮の際には互いに助け合えばよいのであって、あらかじめ約束を交わす必要はない。私腹を肥やすために党を組み、公に背いて身を立てるようなことは、私の志ではない。卿はよく忠義を尽くして奉公の志を守っているのだから、所領を失う心配などなかろう。卿もどうか思い過ごしをせぬように。」義弘はこれを深く恨み、常に貞世を陥れて自分が探題に代わろうと謀り、義満の側近に取り入って讒言を構えた。

そもそも貞世が上申した鎮西統治の方策のうち、すでに施行されていたものについても、義満はその多くを変更してしまった。これによって鎮西の将士は貞世が私意で事を行っていると疑うようになり、ついに人心が離れ阻まれることとなった。

折しも足利満兼(あしかが みつかね)が鎌倉で義満に叛いたが、義弘は遠くこれに呼応し、満兼の書状を貞世のもとへ届けて誘った。貞世はただちにこれを封じて義満に呈した。まもなく義弘が叛き、兵を率いて和泉(いずみ)に至った。義満は急ぎ貞世を京都へ召し戻し、「私はもとより卿に申し訳ないことをした。合わせる顔もない」と告げた。貞世は内心喜んだ。鎮西統治の方策が食い違った経緯について、必ず申し開きができるだろうと考えたのである。ところが義満はついに問いただすことなくそのままとした。

さらに何者かが「貞世の子弟や従士で遠江にいる者の多くが満兼に与している。だからこそ召しを受けながらもためらってぐずぐずし、今になってようやく参上したのだ」と讒言した。義満はまたこれを信じ、以前に貞世に与えていた書状をすべて取り上げ、急ぎ鎮西へ帰るよう命じた。貞世はすでに疑われていることを知り、任地へは赴かず、そのまま遠江へ帰った。これより次第に義満を恨むようになった。表立って満兼に与することはなかったが、内心ではこれと通じ、情勢の変化を窺っていた。義満は怒り、まず貞世を討とうとした。しかしまもなく満兼の一件は和解が成り、その一党も咎められずに済んだ。

貞世は不安に思い、藤沢(ふじさわ)に退いて住んだ。義満は貞世の住まいが鎌倉に近いことから、再び満兼に乱を勧めるのではないかと恐れ、近江に住むよう命じた。しばらくして、義満は貞世の以前の功を思い、京都に召し出してその罪を赦した。貞世は日頃から鬱々として楽しまず、かつて『太平記』に誤りが多いことを嘆き、これに反駁する書物を著して『難太平記』と名づけた。応永(おうえい)の末年に死んだ(注:『難太平記』による。諸書は貞世の没年月を詳らかにしないが、本書の結末に中風を患ったとあるので、おそらくほどなく死んだのであろう)。

貞世は和歌を得意とし、あわせて学問を好んだ。著書には『落書抄(らくしょしょう)』『落書露顕(らくしょろけん)』『今川双紙(いまがわぞうし)』『九州合戦記(きゅうしゅうかっせんき)』がある。貞世は初め弟の仲秋の政治のやり方がよくないのを見て、家訓を作ってこれを戒めたが、その言葉は的確で、仲秋はこれによって行いを改めた。世にこの書は伝わり、了俊壁書(りょうしゅんかべがき)と呼ばれた(注:『今川記』による。現在流布している「今川状」に了俊が愚息仲秋を戒めたものと書かれているのは誤りである)。

そもそも範国は駿河を貞世に与えようとしたが、貞世は兄の範氏がかつてこれを望んでいたとして、固辞して受けなかった。範氏が死ぬと、貞世は改めて範氏の子の氏家(うじいえ)に譲った。範国はこれを大いに奇特なことと思い、臨終の遺言で貞世に一族の事を取り仕切らせるよう命じた。氏家もまた貞世の恩に深く感じ入り、死に臨んで所領を貞世の子の貞臣(さだおみ)に譲るよう遺命した。しかし貞世は固くその志を守り、これを受けようとしなかった。

たまたま氏家に跡継ぎがなく、その弟の泰範は僧となって建長寺に住んでいたので、貞世は還俗させて氏家の職を継がせるよう願い出た。足利義満は駿河を分割し、半分を貞世に、半分を泰範に与えた。管領の細川頼之(ほそかわ よりゆき)はその廉潔で謙譲な態度を、及びがたいものだと感嘆した。ところが泰範はかえって貞世が自ら望んで駿河を取ったのではないかと疑い、そこで今度は遠江を奪おうとして、貞世に二心があると讒言した。義満は遠江を仲秋に与えるよう命じた(注:『難太平記』による)。

貞世には四人の子があり、貞臣・貞継(さだつぐ)・言世(ときよ)・貞兼(さだかね)という(注:『尊卑分脈』による)。貞臣は従四位下伊予守(注:『今川家譜』による)・左京大夫となった。貞継もまた伊予守となった。言世は左馬助(さまのすけ)となった。貞兼は左京亮(注:左は右に作る本もある)となった。

貞世の弟の仲秋は、本名を国泰(くにやす)といい、のちに頼泰(よりやす)と改め、さらに今の名に改めた。左衛門佐(注:『明徳記』は左を右に作る)・中務少輔となった(注:『尊卑分脈』による)。天授年間、貞世に従って鎮西へ赴き、菊池武国(きくち たけくに)を攻めたが、大敗を喫した(注:『菊池武朝申状』による)。元中八年(1391)、山名氏清が足利義満に叛くと、義満は自ら兵を率いてこれを撃ち、仲秋に軍事を監督させた(注:『明徳記』による)。のちに髪を剃って仲高(ちゅうこう)と名を改めた(注:『印本尊卑分脈』『難太平記』による)。

今川範滿

今川範満(いまがわ のりみつ)は範国の弟である(注:『印本尊卑分脈』による)。刑部少輔となった。小手差原(こでさしはら)の戦いの際、範満はちょうど病にかかって馬に乗ることができなかったが、人に助けられて馬に乗り、両足を鐙(あぶみ)の逆さの緒に縛りつけて出陣し、戦死した(注:『難太平記』による)。

今川賴貞

今川頼貞(いまがわ よりさだ)は範国の兄頼国(よりくに)の子である(注:『今川家譜』『印本尊卑分脈』による。『分脈』は頼国を一に頼基に作る)。頼国は式部大輔(しきぶのたいふ)となった(注:『難太平記』による)。建武年間、朝廷軍に従って相模川(さがみがわ)で北条時行を討ち、戦死した(注:『難太平記』による)。

頼貞は従五位下式部丞(注:『尊卑分脈』による)・刑部大輔を歴任し、駿河守となった(注:『難太平記』『今川家譜』による)。延元元年(1336)、尊氏が再び京都を攻めた際、頼貞は丹後(たんご)・但馬(たじま)の兵を率い、仁木頼章(にき よりあきら)とともに諸将に先んじて京都に入り、竹田(たけだ)で朝廷軍を破った(注:『梅松論』による)。まもなく但馬・若狭の兵を率いて金崎城を包囲したが、利あらずに終わった。

翌年、高師泰は里見時成(さとみ ときなり)らが金崎の後詰めをしようとしていると聞き、さらに頼貞を遣わして二万余人を率いさせ、要路を扼させた。宇都宮清党(うつのみや せいとう)が来て戦うと、頼貞はこれを射て退けた。瓜生・天野(あまの)・斎藤(さいとう)・小野寺(おのでら)の軍が相次いで到着すると、頼貞は敗れて退いた。のちに高師直に従い、桃井直常と京都で戦った(注:『太平記』による)。